鴎外漁史とは誰ぞ
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著者名:森鴎外 

 福岡日日新聞の主筆猪股為治(いのまたためじ)君は予が親戚(しんせき)の郷人(きょうじん)である。予が九州に来てから、主筆はわざわざ我旅寓(わがりょぐう)を訪(と)われたので、予は共に世事を談じ、また間□(まま)文学の事に及んだこともあった。主筆は多く欧羅巴(ヨオロッパ)の文章を読んで居て、地方の新聞記者中には実に珍しいといわねばならぬ人である。昨年彼(かの)新聞が六千号を刊するに至ったとき、主筆が我文を請われて、予は交誼上(こうぎじょう)これに応ぜねばならぬことになったので、乃(すなわ)ち我をして九州の富人たらしめばという一篇を草して贈った。その時新聞社の一記者は我文に書後のようなものを添えて読者に紹介せられた。その語中にこの森というものは鴎外漁史(おうがいぎょし)だとことわってあった。予は当時これを読んで不思議な感を作(な)した。この鴎外漁史と云う称(となえ)は、予の久しく自ら署したことのないところのものである。これを聞けば、ほとんど別人の名を聞くが如く、しかもその別人は同世の人のようではなくて、却(かえ)って隔世の人のようである。明治の時代中ある短日月の間、文章と云えば、作に露伴紅葉四迷篁村(こうそん)緑雨美妙等があって、評に逍遥(しょうよう)鴎外があるなどと云ったことがある。これは筆を執る人の間で唱えたのであるが、世間のものもそれに応じて、漫(みだ)りに予を諸才子の中に算えるようになって居た。姑(しばら)く今数えた人の上だけを言って見ように、いずれも皆文を以て業として居る人々であって、僅(わずか)に四迷が官吏になって居り、逍遥が学校の教員をして居る位が格外であった。独り予は医者で、しかも軍医である。そこで世間で我虚名を伝うると与(とも)に、門外の見は作と評との別をさえ模糊(もこ)たらしめて、他(かれ)は小説家だということになった。何故に予は小説家であるか。予が書いたものの中に小説というようなものは、僅に四つ程あって、それが皆極(ごく)の短篇で、三四枚のものから二十枚許(ばか)りのものに過ぎない。予がこれに費した時間も、前後通算して一週間にだに足るまい。予がもし小説家ならば、天下は小説家の多きに勝(た)えぬであろう。かように一面には当時の所謂(いわゆる)文壇が、予に実に副(かな)わざる名声を与えて、見当違の幸福を強いたと同時に、一面には予が医学を以て相交わる人は、他(あれ)は小説家だから与(とも)に医学を談ずるには足らないと云い、予が官職を以て相対する人は、他は小説家だから重事を托(たく)するには足らないと云って、暗々裡(あんあんり)に我進歩を礙(さまた)げ、我成功を挫(くじ)いたことは幾何(いくばく)ということを知らない。予は実に副わざる名声を博して幸福とするものではない。予は一片誠実の心を以て学問に従事し、官事に鞅掌(おうしょう)して居ながら、その好意と悪意とを問わず、人の我真面目(しんめんもく)を認めてくれないのを見るごとに、独り自ら悲しむことを禁ずることを得なかったのである。それ故に予は次第に名を避くるということを勉(つと)めるようになった。予が久しく鴎外漁史という文字を署したことがなくて、福岡日日新聞社員にこれを拈出(ねんしゅつ)せられて一驚を喫したのもこれがためである。然(しか)るに昨年の暮に□(およ)んで、一社員はまた予をおとずれて、この新年の新刊のために何か書けと曰(い)うた。その時の話に、敢(あえ)て注文するではないが、今の文壇の評を書いてくれたなら、最も嬉(うれ)しかろうと云うことであった。何か書けが既に重荷であるに、文壇の事を書けはいよいよむずかしい。新聞に従事して居る程の人は固(もと)より知って居られるであろうが、今の分業の世の中では、批評というものは一の職業であって、能評の功を成就せんと欲するには、始終その所評の境界に接して居ねばならぬ、否身をその境界に置いて居ねばならぬものだ。文壇とは何であるか。今国内に現行している文章の作者がこれを形(かたちづく)って居るのであろう。予の居る所の地は、縦令(たとい)予が同情を九州に寄することがいかに深からんも、西僻(せいへき)の陬邑(すうゆう)には違あるまい。予は僅に二三の京阪の新聞紙を読んで、国の中枢の崇重(しゅうちょう)しもてはやす所の文章の何人の手に成るかを窺(うかが)い知るに過ぎぬので、譬(たと)えば簾(れん)を隔てて美人を見るが如くである。新聞紙の伝うる所に依れば、先ず博文館の太陽が中天に君臨して、樗牛(ちょぎゅう)が海内文学の柄を把(と)って居る。文士の恒(つね)の言(こと)に、樗牛は我に問題を与うるものだと云って、嘖々乎(さくさくこ)として称して已(や)まないらしい。樗牛また矜高(きょうこう)自ら持して、我が説く所は美学上の創見なりなどと曰って居る。さてその前後左右に綺羅星(きらぼし)の如くに居並んでいる人々は、遠目の事ゆえ善くは見えぬが、春陽堂の新小説の宙外、日就社の読売新聞の抱月などという際立った性格のある頭が、肱(ひじ)を張って控えて居るだけは明かに見える。此等は随分博文館の天下をも争いかねぬ面魂(つらだましい)であるから、樗牛も油断することは出来まい。その外帝国文学という方面には、堂々たる東京帝国大学の威を借って、血気壮な若武者達が、その数幾千万ということを知らず、入り代り立ち代り、壇に登って伎(ぎ)を演じて居るようだ。これが即(すなわ)ち文壇だ。この文壇の人々と予とは、あるいは全く接触点を闕(か)いでいる、あるいは些(いささか)の触接点があるとしても、ただ行路の人が彼往き我来る間に、忽(たちま)ち相顧みてまた忽ち相忘るるが如きに過ぎない。我は彼に求むる所がなく、彼もまた我に求むる所がない。縦(たと)いまた樗牛と予との如く、ある関係が有っても、それは言うに足らぬ事であって、今これを人に告ぐる必要を見ない。かように今の文壇の思想の圏外に予は立っていて、予の思想の圏外に今の文壇は立っている。福岡日日新聞が予に文壇の評を書けと曰うのは、我筆舌に課するに我思想の圏外の事を以てするのだ。予には文壇の評と云うものの書けぬことは、これで明(あきらか)であろう。そこで予は切角の請ながら、この事をば念頭に留(とど)めなかった。然るに主筆はまた突如として来られて、是非書けと促される。その情極(きわ)めて慇懃(いんぎん)である。好(よ)し好し。然らば主筆のために強いて書こう。同じく文壇の評ではあるが、これは過去の文壇の評で、しかもその過去の文壇の一分子たりし鴎外漁史の事である。原(も)と主筆が予に文壇の評を求められるのは、予がかつて鴎外の名を以て文学の事を談じたという宿因あるが故だ。ここに書くところは即ち予の懺悔(ざんげ)で、彼宿因を了する所以(ゆえん)だ。人は社会を成す動物だ。樵夫(きこり)は樵夫と相交って相語る。漁夫は漁夫と相交って相語る。予は読書癖があるので、文を好む友を獲て共に語るのを楽(たのしみ)にして居た。然るに国民之友の主筆徳富猪一郎君が予の語る所を公衆に紹介しようと思い立たれて、丁度今猪股君が予に要求せられる通りに要求せられた。これが予が個人と語ることから、公衆と語ることに転じた始で、所謂(いわゆる)鴎外漁史はここに生れた。それから東京の新聞雑誌が、彼も此も予を延(ひ)いて語らしめた。予は個人に対しても、時に応じ人を得るときは、頗(すこぶ)る饒舌(しゃべ)る性(たち)であるが、当時予はまた公衆に対して饒舌った。新聞雑誌は初は予を強要して語らしめたが、後にはそう大言壮語せられては困るとか云って、予の饒舌るに辟易(へきえき)した。昔者(むかしは)道士があって、咒(じゅ)を称(とな)え鬼を役して灑掃(さいそう)せしめたそうだ。その弟子が窃(ぬす)み聴いてその咒を記(おぼ)えて、道士の留守を伺(うかご)うて鬼を喚(よ)んだ。鬼は現われて水を灑(ま)き始めた。而(しか)るに弟子は召(よ)ぶを知って逐(お)うを知らぬので、満屋皆水なるに至って周章措(お)く所を知らなかったということがある。当時の新聞雑誌はこの弟子であった。予はこれを語るにつけても、主筆猪股君がこの原稿に接して、早く既に同じ周章をせねば好いがと懸念する。予の公衆に語る習はこれにも屈せず、予は終(つい)に人の己を席に延くを待たぬようになった。自ら席を設けて公衆に語るようになった。柵草紙(しがらみそうし)と云ったのがその席だ。この柵草紙の盛時が、即ち鴎外という名の、毀誉褒貶(きよほうへん)の旋風(つむじかぜ)に翻弄(ほんろう)せられて、予に実に副(かな)わざる偽(いつわり)の幸福を贈り、予に学界官途の不信任を与えた時である。その頃露伴が予に謂(い)うには、君は好んで人と議論を闘わして、ほとんど百戦百勝という有様であるが、善く泅(およ)ぐものは水に溺(おぼ)れ、善く騎(の)るものは馬より墜(お)つる訣(わけ)で、早晩(いつか)一の大議論家が出て、君をして一敗地に塗(まみ)れしむるであろうと云った。この言はある意味より見れば、確に当った、否当り過ぎた位だ。時代は啻(ただ)に一つの大議論家を出したのみではなくて、ほとんど無数の大議論家を出して止(や)む時がない。即ち新文学士の諸先生がそれである。試みに帝大文学の初の数十冊を始として、同時に出た博文館の太陽以下の諸雑誌、東京の諸新聞を見たならば、鴎外と云う名に幾条の箭(や)が中(あた)っているかが知れるだろう。鴎外という名はこの乱軍の間に聞こえなくなった。鴎外漁史はここに死んだ。読者は新年の初刊を看(み)てここに至る時、縁起が悪いと云うかも知れない。しかし初春の狂言には曽我(そが)を演ずるを吉例としてある。曽我は敵討(かたきうち)で、敵を討てば人死のあることを免れない。況(いわん)や鴎外漁史は一の抽象人物で、その死んだのは、児童の玩(もてあそ)んでいた泥孩(つちにんぎょう)が毀(こわ)れたに殊ならぬのだ。予は人の葬を送って墓穴に臨んだ時、遺族の少年男女の優しい手が、浄(きよ)い赭土(あかつち)をぼろぼろと穴の中に翻(こぼ)すのを見て、地下の客がいかにも軟(やわらか)な暖な感を作すであろうと思ったことがある。鴎外の墓穴には沙礫(されき)乱下したのを見る外、ほとんど軟い土を投じたのを見なかった。ただ一ついくらか手軟だと思ったのは、ほととぎすの記者が、鴎外も最早今まで我等に与えた程のものをば与うることを得ぬであろうと云ったくらいなものだ。ついでだから話すが、今の文壇というものは、鴎外陣亡(うちじに)の後に立ったものであって、前から名の聞こえて居た人の、猶(なお)その間に雑(まじ)って活動しているのは、ほとんど彼ほととぎすの子規のみであろう。ある人がかつて俳諧(はいかい)は普遍の徳があるとか云ったが、子規の一派の永く活動しているのは、この普遍の徳にでも基(もとづ)いて居るものであろう。予が主筆のために説かんと約した鴎外漁史の事は此(ここ)に終る。しかし予は主筆に、予をして猶暫(しばら)く語らしめん事を願う。想うにこの文を読むものは予に対(むか)って、汝は汝の分身たる鴎外の死んだのを見て、奈何(いかん)の観を作(な)すかと問うであろう。予はただ笑止に思うに過ぎぬ。予はただここに一□(いっしゅ)の香を拈(ひね)ってこれを弔するに過ぎぬ。予にしてもし彼の偽の幸福のために、別方面の種々の事業の阻礙(そがい)をさえ忘るるものであったなら、予は我分身と与(とも)に情死したであろう。そうして今の読者に語るものは幽霊であろう。幽霊は怨めしいと云って出るものには極(き)まって居る。もし東京に残って居る鴎外の昔の敵がこの文を読んだなら、彼等はあるいは予を以て幽霊となし、我言を以て怨しいという声となすかも知れない。しかしそれは推測を誤って居る。敵が鴎外と云う名を標的(まと)にして矢を放つ最中に、予は鴎外という名を署する事を廃(や)めた。矢は蝟毛(いもう)の如く的に立っても、予は痛いとも思わなかった。人が鴎外という影を捉(とら)えて騒いだ時も、その騒ぎの止んだ後も、形は故(もと)の如くで、我は故の我である。啻(ただ)に故の我なるのみでは無い、予はその後も学んでいて、その進歩は破鼈(はべつ)の行くが如きながらも、一日を過ぎれば一日の長を得て居る。予は私(ひそか)に信ずる。今この陬邑(すうゆう)に在って予を見るものは、必ずや怨□(えんたい)不平の音の我口から出ぬを知るであろう。予は心身共に健で、この新年の如く、多少の閑情雅趣を占め得たことは、かつて書生たり留学生たりし時代より以後には、ほとんど無い。我学友はあるいは台湾に往き、あるいは欧羅巴に遊ぶ途次、わざわざ門司から舟を下りて予を訪(と)うてくれる。中にはまた酔興にも東京から来て、ここに泊まって居て共に学ぶものさえある。我官僚は初の間は虚名の先ず伝ったために、あるいは小説家を以て予を待ったこともあったが、今は漸(ようや)くその非を悟ってくれたらしい。予と相交り相語る人は少いながら、一入(ひとしお)親しい。予はめさまし草を以て、相更(あいかわ)らず公衆に対しても語って居る。折々はまた名を署せずに、もしくは人の知らぬ名を署して新聞紙を借ることもある。今予に耳を借す公衆は、不思議にも柵草紙の時代に比して大差はない。予は始から多く聴者(ききて)を持っては居なかった。ただ昔と今との相違は文壇の外に居るので、新聞紙で名を弄ばれる憂が少いだけだ。荘子(そうし)に虚舟の譬(たとえ)がある。今の予は何を言っても、文壇の地位を争うものでないから、誰も怒るものは無い。彼虚舟と同じである。さればと云って、読者がもし予を以て文壇に対して耳を掩(おお)い目を閉じているものとなしたならば、それは大(おおい)に錯(あやま)って居るのであろう。予は新聞雑誌も読む。新刊書も読む。読んで独り自ら評価して居る。ただこの評価は思想を同じゅうして居ないものの評価で、天晴(あっぱれ)批評と称して打出して言挙(ことあげ)すべきものでないばかりだ。しかし筆の走りついでだから、もう一度主筆に追願(おいねがい)をして、少しくこの門外漢の評価の一端を暴露しようか。明治の聖代になってから以還(このかた)、分明に前人の迹(あと)を踏まない文章が出でたということは、後世に至っても争うものはあるまい。露伴の如きが、その作者の一人であるということも、また後人が認めるであろう。予はこれを明言すると同時に、予が恰(あたか)もこの時に逢うて、此(かく)の如き人に交ることを得た幸福を喜ぶことを明言することを辞せない。また前に挙げた紅葉等の諸家と俳諧での子規との如きは、才の長短こそあれ、その作の中には予の敬服する所のものがある。次にここに補って置きたいのは、翻訳のみに従事していた思軒と、後(おく)れて製作を出した魯庵(ろあん)とだ。漢詩和歌の擬古の裡(うち)に新機軸を出したものは姑(しばら)く言わぬ。凡(おおよ)そ此等の人々は、皆多少今の文壇の創建に先だって、生埋の運命に迫られたものだ。それは丁度雑りものの賤金属(せんきんぞく)たる鴎外が鋳潰(いつぶ)されたと同じ時であった。さて今の文壇になってからは、宙外の如き抱月の如き鏡花の如き、予はただその作のある段に多少の才思があるのを認めたばかりで、過言ながらほとんど一の完璧(かんぺき)をも見ない。新文学士の作に至っては、またまた過言ながら一の局部の妙をだに認めたことが無い。予は是(ここ)において将(まさ)に自ら予が我分身の鴎外と共に死んで、新しい時代の新しい文学を味わうことを得ないようになったかを疑わんとするに至った。然るにここに幸なるは、一事の我趣味の猶依然たることを証するに足るものがある。それは何であるか。予は我読書癖の旧に依るがために、欧羅巴の新しい作と評とを読んで居る。予は近くは独逸(ドイツ)のゲルハルト・ハウプトマンの沈鐘を読んだ。そして予はこの好処の我を動かすことが、昔前人の好著を読んだ時と違わぬことを知った。鴎外は殺されても、予は決して死んでは居ない。予は敢(あえ)て言う。希臘(ギリシャ)語に「エピゴノイ」ということがある。猶此に末流と云うがごとしだ。新文学士諸家も、これと袂(たもと)を聯(つら)ねて文壇に立っている宙外等の諸家も、「エピゴノイ」たることを免れない。今の文壇は露伴等の時代に比すれば、末流時代の文壇だというのだ。予はこの文の局を結ぶに当って、今の文壇の諸家が地方新聞を読むや否やは知らぬながら、遥(はるか)に諸家に寄語する。諸家は予などと違って、皆春秋に富んで居られるではないか。今より後に、諸家はどうぞ奮って、予が如き門外漢までを、大に動かすような作と評とを出して下さい。そうして予をしてかつて無礼にも諸君に末流の称を献じた失言を謝せしめて下さい。鴎外は甘んじて死んだ。予は決して鴎外の敵たる故を以て諸君を嫉(にく)むものではない。明治三十三年一月於小倉稿。(明治三十三年一月)



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