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著者名:森鴎外 

     壱(いち)

 古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条(かみじょう)と云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人(いちにん)であった。その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。
 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外(ほか)は大学の附属病院に通う患者なんぞであった。大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気(こぎ)が利いていて、お上(かみ)さんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。時々はその箱火鉢の向側(むこうがわ)にしゃがんで、世間話の一つもする。部屋で酒盛をして、わざわざ肴(さかな)を拵(こしら)えさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘(わがまま)をするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。先(ま)ずざっとこう云う性(たち)の男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅(ほしいまま)にすると云うのが常である。然(しか)るに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗(すこぶ)る趣を殊にしていた。
 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。それは美男だと云うことである。色の蒼(あお)い、ひょろひょろした美男ではない。血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。強いて求めれば、大分(だいぶ)あの頃から後(のち)になって、僕は青年時代の川上眉山(かわかみびさん)と心安くなった。あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。あれの青年時代が一寸(ちょっと)岡田に似ていた。尤(もっと)も当時競漕(きょうそう)の選手になっていた岡田は、体格では□(はる)かに川上なんぞに優(まさ)っていたのである。
 容貌はその持主を何人(なんぴと)にも推薦する。しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。遣(や)るだけの事をちゃんと遣って、級の中位(ちゅうい)より下には下(くだ)らずに進んで来た。遊ぶ時間は極(きま)って遊ぶ。夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。日曜日には舟を漕(こ)ぎに行くか、そうでないときは遠足をする。競漕前に選手仲間と向島(むこうじま)に泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。誰でも時計を号砲(どん)に合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠(よ)って匡(ただ)されるのである。周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に本(もと)づいている。それには月々の勘定をきちんとすると云う事実が与(あず)かって力あるのは、ことわるまでもない。「岡田さんを御覧なさい」と云う詞(ことば)が、屡々(しばしば)お上さんの口から出る。
「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」と先を越して云う学生がある。此(かく)の如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。
 岡田の日々(にちにち)の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川(あいそめがわ)のお歯黒のような水の流れ込む不忍(しのばず)の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。それから松源(まつげん)や雁鍋(がんなべ)のある広小路、狭い賑(にぎ)やかな仲町(なかちょう)を通って、湯島天神の社内に這入(はい)って、陰気な臭橘寺(からたちでら)の角を曲がって帰る。しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。鉄門は早く鎖(とざ)されるので、患者の出入(しゅつにゅう)する長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので、今春木町(はるきちょう)から衝(つ)き当る処(ところ)にある、あの新しい黒い門が出来たのである。赤門を出てから本郷(ほんごう)通りを歩いて、粟餅(あわもち)の曲擣(きょくづき)をしている店の前を通って、神田明神の境内に這入る。そのころまで目新しかった目金橋(めがねばし)へ降りて、柳原(やなぎはら)の片側町(かたかわまち)を少し歩く。それからお成道(なりみち)へ戻って、狭い西側の横町のどれかを穿(うが)って、矢張(やはり)臭橘寺の前に出る。これが一つの道筋である。これより外の道筋はめったに歩かない。
 この散歩の途中で、岡田が何をするかと云うと、ちょいちょい古本屋の店を覗(のぞ)いて歩く位のものであった。上野広小路と仲町との古本屋は、その頃のが今も二三軒残っている。お成道にも当時そのままの店がある。柳原のは全く廃絶してしまった。本郷通のは殆ど皆場所も持主も代っている。岡田が赤門から出て右へ曲ることのめったにないのは、一体森川町は町幅も狭く、窮屈な処であったからでもあるが、当時古本屋が西側に一軒しかなかったのも一つの理由であった。
 岡田が古本屋を覗くのは、今の詞で云えば、文学趣味があるからであった。しかしまだ新しい小説や脚本は出ていぬし、抒情詩(じょじょうし)では子規の俳句や、鉄幹の歌の生れぬ先であったから、誰でも唐紙(とうし)に摺(す)った花月新誌や白紙(はくし)に摺った桂林一枝(けいりんいっし)のような雑誌を読んで、槐南(かいなん)、夢香(むこう)なんぞの香奩体(こうれんたい)の詩を最も気の利いた物だと思う位の事であった。僕も花月新誌の愛読者であったから、記憶している。西洋小説の翻訳と云うものは、あの雑誌が始て出したのである。なんでも西洋の或る大学の学生が、帰省する途中で殺される話で、それを談話体に訳した人は神田孝平さんであったと思う。それが僕の西洋小説と云うものを読んだ始であったようだ。そう云う時代だから、岡田の文学趣味も漢学者が新しい世間の出来事を詩文に書いたのを、面白がって読む位に過ぎなかったのである。
 僕は人附合いの余り好くない性(たち)であったから、学校の構内で好く逢う人にでも、用事がなくては話をしない。同じ下宿屋にいる学生なんぞには、帽を脱いで礼をするようなことも少かった。それが岡田と少し心安くなったのは、古本屋が媒(なかだち)をしたのである。僕の散歩に歩く道筋は、岡田のように極まってはいなかったが、脚が達者で縦横に本郷から下谷、神田を掛けて歩いて、古本屋があれば足を止めて見る。そう云う時に、度々岡田と店先で落ち合う。
「好く古本屋で出くわすじゃないか」と云うような事を、どっちからか言い出したのが、親しげに物を言った始である。
 その頃神田明神前の坂を降りた曲角に、鉤(かぎ)なりに縁台を出して、古本を曝(さら)している店があった。そこで或る時僕が唐本の金瓶梅(きんぺいばい)を見附けて亭主に値を問うと、七円だと云った。五円に負けてくれと云うと、「先刻岡田さんが六円なら買うと仰(おっし)ゃいましたが、おことわり申したのです」と云う。偶然僕は工面が好かったので言値で買った。二三日立ってから、岡田に逢うと、向うからこう云い出した。
「君はひどい人だね。僕が切角見附けて置いた金瓶梅を買ってしまったじゃないか」
「そうそう君が値を附けて折り合わなかったと、本屋が云っていたよ。君欲しいのなら譲って上げよう」
「なに。隣だから君の読んだ跡を貸して貰えば好(い)いさ」
 僕は喜んで承諾した。こんな風で、今まで長い間壁隣に住まいながら、交際せずにいた岡田と僕とは、往(い)ったり来たりするようになったのである。

     弐(に)

 そのころから無縁坂の南側は岩崎の邸(やしき)であったが、まだ今のような巍々(ぎぎ)たる土塀で囲ってはなかった。きたない石垣が築いてあって、苔(こけ)蒸(む)した石と石との間から、歯朶(しだ)や杉菜が覗いていた。あの石垣の上あたりは平地だか、それとも小山のようにでもなっているか、岩崎の邸の中に這入って見たことのない僕は、今でも知らないが、とにかく当時は石垣の上の所に、雑木が生えたい程生えて、育ちたい程育っているのが、往来から根まで見えていて、その根に茂っている草もめったに苅(か)られることがなかった。
 坂の北側はけちな家が軒を並べていて、一番体裁の好(い)いのが、板塀を繞(めぐ)らした、小さいしもた屋、その外(ほか)は手職をする男なんぞの住いであった。店は荒物屋に烟草屋(たばこや)位しかなかった。中に往来の人の目に附くのは、裁縫を教えている女の家で、昼間は格子窓の内に大勢の娘が集まって為事(しごと)をしていた。時候が好くて、窓を明けているときは、我々学生が通ると、いつもべちゃくちゃ盛んにしゃべっている娘共が、皆顔を挙げて往来の方を見る。そして又話をし続けたり、笑ったりする。その隣に一軒格子戸を綺麗(きれい)に拭き入れて、上がり口の叩きに、御影石(みかげいし)を塗り込んだ上へ、折々夕方に通って見ると、打水のしてある家があった。寒い時は障子が締めてある。暑い時は竹簾(たけすだれ)が卸してある。そして為立物師(したてものし)の家の賑やかな為めに、この家はいつも際立ってひっそりしているように思われた。
 この話の出来事のあった年の九月頃、岡田は郷里から帰って間もなく、夕食後に例の散歩に出て、加州の御殿の古い建物に、仮に解剖室が置いてあるあたりを過ぎて、ぶらぶら無縁坂を降り掛かると、偶然一人の湯帰りの女がかの為立物師の隣の、寂しい家に這入るのを見た。もう時候がだいぶ秋らしくなって、人が涼みにも出ぬ頃なので、一時人通りの絶えた坂道へ岡田が通り掛かると、丁度今例の寂しい家の格子戸の前まで帰って、戸を明けようとしていた女が、岡田の下駄の音を聞いて、ふいと格子に掛けた手を停(とど)めて、振り返って岡田と顔を見合せたのである。
 紺縮(こんちぢみ)の単物(ひとえもの)に、黒襦子(くろじゅす)と茶献上との腹合せの帯を締めて、繊(ほそ)い左の手に手拭(てぬぐい)やら石鹸箱(シャボンばこ)やら糠袋(ぬかぶくろ)やら海綿やらを、細かに編んだ竹の籠(かご)に入れたのを懈(だる)げに持って、右の手を格子に掛けたまま振り返った女の姿が、岡田には別に深い印象をも与えなかった。しかし結い立ての銀杏返(いちょうがえ)しの鬢(びん)が蝉(せみ)の羽(は)のように薄いのと、鼻の高い、細長い、稍(やや)寂しい顔が、どこの加減か額から頬に掛けて少し扁(ひら)たいような感じをさせるのとが目に留まった。岡田は只それだけの刹那(せつな)の知覚を閲歴したと云うに過ぎなかったので、無縁坂を降りてしまう頃には、もう女の事は綺麗に忘れていた。
 しかし二日ばかり立ってから、岡田は又無縁坂の方へ向いて出掛けて、例の格子戸の家の前近く来た時、先きの日の湯帰りの女の事が、突然記憶の底から意識の表面に浮き出したので、その家の方を一寸見た。竪(たて)に竹を打ち附けて、横に二段ばかり細く削った木を渡して、それを蔓(かずら)で巻いた肱掛窓(ひじかけまど)がある。その窓の障子が一尺ばかり明いていて、卵の殻を伏せた万年青(おもと)の鉢が見えている。こんな事を、幾分かの注意を払って見た為めに、歩調が少し緩くなって、家の真ん前に来掛かるまでに、数秒時間の余裕を生じた。
 そして丁度真ん前に来た時に、意外にも万年青の鉢の上の、今まで鼠色(ねずみいろ)の闇に鎖されていた背景から、白い顔が浮き出した。しかもその顔が岡田を見て微笑(ほほえ)んでいるのである。
 それからは岡田が散歩に出て、この家の前を通る度に、女の顔を見ぬことは殆ど無い。岡田の空想の領分に折々この女が闖入(ちんにゅう)して来て、次第に我物顔に立ち振舞うようになる。女は自分の通るのを待っているのだろうか、それともなんの意味もなく外を見ているので、偶然自分と顔を合せることになるのだろうかと云う疑問が起る。そこで湯帰りの女を見た日より前に溯(さかのぼ)って、あの家の窓から女が顔を出していたことがあったか、どうかと思って考えて見るが、無縁坂の片側町で一番騒がしい為立物師の家の隣は、いつも綺麗に掃除のしてある、寂しい家であったと云う記念の外には、何物も無い。どんな人が住んでいるだろうかと疑ったことは慥(たし)かにあるようだが、それさえなんとも解決が附かなかった。どうしてもあの窓はいつも障子が締まっていたり、簾が降りていたりして、その奥はひっそりしていたようである。そうして見ると、あの女は近頃外に気を附けて、窓を開けて自分の通るのを待っていることになったらしいと、岡田はとうとう判断した。
 通る度に顔を見合せて、その間々にはこんな事を思っているうちに、岡田は次第に「窓の女」に親しくなって、二週間も立った頃であったか、或る夕方例の窓の前を通る時、無意識に帽を脱いで礼をした。その時微白(ほのじろ)い女の顔がさっと赤く染まって、寂しい微笑(ほほえみ)の顔が華やかな笑顔になった。それからは岡田は極まって窓の女に礼をして通る。

     参(さん)

 岡田は虞初新誌(ぐしょしんし)が好きで、中にも大鉄椎伝(だいてっついでん)は全文を諳誦(あんしょう)することが出来る程であった。それで余程前から武芸がして見たいと云う願望(がんもう)を持っていたが、つい機会が無かったので、何にも手を出さずにいた。近年競漕をし始めてから、熱心になり、仲間に推されて選手になる程の進歩をしたのは、岡田のこの一面の意志が発展したのであった。
 同じ虞初新誌の中(うち)に、今一つ岡田の好きな文章がある。それは小青伝であった。その伝に書いてある女、新しい詞で形容すれば、死の天使を閾(しきい)の外に待たせて置いて、徐(しず)かに脂粉の粧(よそおい)を擬(こら)すとでも云うような、美しさを性命にしているあの女が、どんなにか岡田の同情を動かしたであろう。女と云うものは岡田のためには、只美しい物、愛すべき物であって、どんな境遇にも安んじて、その美しさ、愛らしさを護持していなくてはならぬように感ぜられた。それには平生香奩体(こうれんたい)の詩を読んだり、sentimental(サンチマンタル) な、fatalistique(ファタリスチック) な明清(みんしん)の所謂(いわゆる)才人の文章を読んだりして、知らず識(し)らずの間にその影響を受けていた為めもあるだろう。
 岡田は窓の女に会釈をするようになってから余程久しくなっても、その女の身の上を探って見ようともしなかった。無論家の様子や、女の身なりで、囲物(かこいもの)だろうとは察した。しかし別段それを不快にも思わない。名も知らぬが、強いて知ろうともしない。標札を見たら、名が分かるだろうと思ったこともあるが、窓に女のいる時は女に遠慮をする。そうでない時は近処の人や、往来の人の人目を憚(はばか)る。とうとう庇(ひさし)の蔭(かげ)になっている小さい木札に、どんな字が書いてあるか見ずにいたのである。

     肆(し)

 窓の女の種姓(すじょう)は、実は岡田を主人公にしなくてはならぬこの話の事件が過去に属してから聞いたのであるが、都合上ここでざっと話すことにする。
 まだ大学医学部が下谷にある時の事であった。灰色の瓦を漆喰(しっくい)で塗り込んで、碁盤の目のようにした壁の所々に、腕の太さの木を竪に並べて嵌(は)めた窓の明いている、藤堂(とうどう)屋敷の門長屋が寄宿舎になっていて、学生はその中で、ちと気の毒な申分だが、野獣のような生活をしていた。勿論(もちろん)今はあんな窓を見ようと思ったって、僅(わず)かに丸の内の櫓(やぐら)に残っている位のもので、上野の動物園で獅子(しし)や虎を飼って置く檻の格子なんぞは、あれよりは□(はる)かにきゃしゃに出来ている。
 寄宿舎には小使がいた。それを学生は外使(そとづかい)に使うことが出来た。白木綿の兵古帯(へこおび)に、小倉袴(こくらばかま)を穿(は)いた学生の買物は、大抵極まっている。所謂「羊羹(ようかん)」と「金米糖(こんぺいとう)」とである。羊羹と云うのは焼芋、金米糖と云うのははじけ豆であったと云うことも、文明史上の参考に書き残して置く価値があるかも知れない。小使は一度の使賃として二銭貰うことになっていた。
 この小使の一人に末造(すえぞう)と云うのがいた。外(ほか)のは鬚(ひげ)の栗の殻のように伸びた中に、口があんごり開(あ)いているのに、この男はいつも綺麗に剃(そ)った鬚の痕(あと)の青い中に、脣(くちびる)が堅く結ばれていた。小倉服も外のは汚れているに、この男のはさっぱりしていて、どうかすると唐桟(とうざん)か何かを着て前掛をしているのを見ることがあった。
 僕にいつ誰(たれ)が始て噂(うわさ)をしたか知らぬが、金がない時は末造が立て替えてくれると云うことを僕は聞いた。勿論五十銭とか一円とかの金である。それが次第に五円貸す十円貸すと云うようになって、借(か)る人に証文を書かせる、書替(かきかえ)をさせる。とうとう一人前の高利貸になった。一体元手はどうしたのか。まさか二銭の使賃を貯蓄したのでもあるまいが、一匹の人間が持っているだけの精力を一時に傾注すると、実際不可能な事はなくなるかも知れない。
 とにかく学校が下谷から本郷に遷(うつ)る頃には、もう末造は小使ではなかった。しかしその頃池(いけ)の端(はた)へ越して来た末造の家へは、無分別な学生の出入(でいり)が絶えなかった。
 末造は小使になった時三十を越していたから、貧乏世帯ながら、妻もあれば子もあったのである。それが高利貸で成功して、池の端へ越してから後(のち)に、醜い、口やかましい女房を慊(あきたらな)く思うようになった。
 その時末造が或る女を思い出した。それは自分が練塀町(ねりべいちょう)の裏からせまい露地を抜けて大学へ通勤する時、折々見たことのある女である。どぶ板のいつもこわれているあたりに、年中戸が半分締めてある、薄暗い家があって、夜その前を通って見れば、簷下(のきした)に車の附いた屋台が挽(ひ)き込んであるので、そうでなくても狭い露地を、体を斜(ななめ)にして通らなくてはならない。最初末造の注意を惹(ひ)いたのは、この家に稽古(けいこ)三味線の音(ね)のすることであった。それからその三味線の音の主が、十六七の可哀(かわい)らしい娘だと云うことを知った。貧しそうな家には似ず、この娘がいつも身綺麗にしていて、着物も小ざっぱりとした物を着ていた。戸口にいても、人が通るとすぐ薄暗い家の中へ引っ込んでしまう。何事にも注意深い性質の末造は、わざわざ探るともなしに、この娘が玉(たま)と云う子で、母親がなくて、親爺(おやじ)と二人暮らしでいると云う事、その親爺は秋葉(あきは)の原に飴細工(あめざいく)の床店(とこみせ)を出していると云う事などを知った。そのうちにこの裏店(うらだな)に革命的変動が起った。例の簷下に引き入れてあった屋台が、夜通って見てもなくなった。いつもひっそりしていた家とその周囲とへ、当時の流行語で言うと、開化と云うものが襲ってでも来たのか、半分こわれて、半分はね返っていたどぶ板が張り替えられたり、入口の模様替(もようがえ)が出来て、新しい格子戸が立てられたりした。或る時入口に靴の脱いであるのを見た。それから間もなく、この家の戸口に新しい標札が打たれたのを見ると、巡査何の何某(なにがし)と書いてあった。末造は松永町から、仲徒町(なかおかちまち)へ掛けて、色々な買物をして廻る間に、又探るともなしに、飴屋の爺(じ)いさんの内へ壻入(むこいり)のあった事を慥めた。標札にあった巡査がその壻なのである。お玉を目の球よりも大切にしていた爺いさんは、こわい顔のおまわりさんに娘を渡すのを、天狗(てんぐ)にでも撈(さら)われるように思い、その壻殿が自分の内へ這入り込んで来るのを、この上もなく窮屈に思って、平生心安くする誰彼(たれかれ)に相談したが、一人もことわってしまえとはっきり云ってくれるものがなかった。それ見た事か。こっちとらが宜(い)い所へ世話をしようと云うのに、一人娘だから出されぬのなんのと、面倒な事を言っていて、とうとうそんなことわり憎い壻さんが来るようになったと云うものもある。お前方の方で厭(いや)なのなら、遠い所へでも越すより外あるまいが、相手がおまわりさんで見ると、すぐにどこへ越したと云うことを調べて、その先へ掛け合うだろうから、どうも逃げ果(おお)せることは出来まいと、威(おど)すように云うものもある。中にも一番物分かりの好いと云う評判のお上さんの話がこうだ。「あの子はあんな好(い)い器量で、お師匠さんも芸が出来そうだと云って褒めてお出(いで)だから、早く芸者の下地子(したじっこ)にお出しと、わたしがそう云ったじゃありませんか。一人もののおまわりさんと来た日には、一軒一軒見て廻るのだから、子柄の好いのを内に置くと、いやおうなしに連れて行ってしまいなさる。どうもそう云う方に見込まれたのは、不運だとあきらめるより外、為方(しかた)がないね」と云うような事を言ったそうだ。末造がこの噂を聞いてから、やっと三月ばかりも立った頃であっただろう。飴細工屋の爺いさんの家に、或る朝戸が締まっていて、戸に「貸屋差配松永町西のはずれにあり」と書いて張ってあった。そこで又近所の噂を、買物の序(ついで)に聞いて見ると、おまわりさんには国に女房も子供もあったので、それが出し抜けに尋ねて来て、大騒ぎをして、お玉は井戸へ身を投げると云って飛び出したのを、立聞をしていた隣の上さんがようよう止めたと云うことであった。おまわりさんが壻に来ると云う時、爺いさんは色々の人に相談したが、その相談相手の中(うち)には一人も爺いさんの法律顧問になってくれるものがなかったので、爺いさんは戸籍がどうなっているやら、どんな届がしてあるやら一切無頓着(むとんじゃく)でいたのである。巡査が髭(ひげ)を拈(ひね)って、手続は万事己(おれ)がするから好いと云うのを、少しも疑わなかったのである。その頃松永町の北角(きたずみ)と云う雑貨店に、色の白い円顔で腮(あご)の短い娘がいて、学生は「頤(あご)なし」と云っていた。この娘が末造にこう云った。「本当にたあちゃんは可哀そうでございますわねえ。正直な子だもんですから、全くのお壻さんだと思っていたのに、おまわりさんの方では、下宿したような積(つもり)になっていたと云うのですもの」と云った。坊主頭の北角の親爺が傍(そば)から口を出した。「爺いさんも気の毒ですよ。町内のお方にお恥かしくて、このままにしてはいられないと云って、西鳥越(にしとりごえ)の方へ越して行きましたよ。それでも子供衆のお得意のある所でなくては、元の商売が出来ないと云うので、秋葉の原へは出ているそうです。屋台も一度売ってしまって、佐久間町(さくまちょう)の古道具屋の店に出ていたのを、わけを話して取り返したと云うことです。そんな事やら、引越やらで、随分掛かった筈ですから、さぞ困っていますでしょう。おまわりさんが国の女房や子供を干し上げて置いて、大きな顔をして酒を飲んで、上戸(じょうご)でもない爺いさんに相手をさせていた間、まあ、一寸楽隠居になった夢を見たようなものですな」と、頭をつるりと撫(な)でて云った。それから後(のち)、末造は飴屋のお玉さんの事を忘れていたのに、金が出来て段々自由が利くようになったので、ふいと又思い出したのである。
 今では世間の広くなっている末造の事だから、手を廻して西鳥越の方を尋ねさせて見ると、柳盛座(りゅうせいざ)の裏の車屋の隣に、飴細工屋の爺いさんのいるのを突き留めた。お玉も娘でいた。そこで或る大きい商人が妾(めかけ)に欲しいと云うがどうだと、人を以(もっ)て掛け合うと、最初は妾になるのはいやだと云っていたが、おとなしい女だけに、とうとう親の為めだと云うので、松源で檀那(だんな)にお目見えをすると云う処まで話が運んだ。

     伍(ご)

 金の事より外、何一つ考えたことのない末造も、お玉のありかを突き留めるや否や、まだ先方が承知するかせぬか知れぬうちに、自分で近所の借家を捜して歩いた。何軒も見た中(うち)で、末造の気に入った店(たな)が二軒あった。一つは同じ池の端で、自分の住まっている福地源一郎の邸宅の隣と、その頃名高かった蕎麦屋(そばや)の蓮玉庵(れんぎょくあん)との真ん中位の処で、池の西南の隅から少し蓮玉庵の方へ寄った、往来から少し引っ込めて立てた家である。四つ目垣の内に、高野槙(こうやまき)が一本とちゃぼ檜葉(ひば)が二三本と植えてあって、植木の間から、竹格子を打った肘懸窓(ひじかけまど)が見えている。貸家の札が張ってあるので這入って見ると、まだ人が住んでいて、五十ばかりの婆あさんが案内をして中を見せてくれた。その婆あさんが問わずがたりに云うには、主人は中国辺の或る大名の家老であったが、廃藩になってから、小使取りに大蔵省の属官を勤めている。もう六十幾つとかになるが、綺麗好きで、東京中を歩いて、新築の借家を捜して借りるが、少し古びて来ると、すぐ引き越す。勿論子供は別になってしまってから久しくなるので、家を荒すような事はないが、どうせ住んでいるうちに古くなるので、障子の張替もしなくてはならず、畳の表も換えなくてはならない。そんな面倒をなるたけせぬようにして、さっさと引き越すのだと云うのである。婆あさんはそれが厭でならぬので、知らぬ人にも夫の壁訴訟をする。「この内なんぞもまだこんなに綺麗なのに、もう越すと申すのでございますよ」と云って、内じゅうを細かに見せてくれた。どこからどこまで、可なり綺麗に掃除がしてある。末造は一寸好(い)いと思って、敷金と家賃と差配の名とを、手帳に書き留めて出た。
 今一つは無縁坂の中程にある小家(こいえ)である。それは札も何も出ていなかったが、売りに出たのを聞いて見に行った。持主は湯島切通しの質屋で、そこの隠居がついこの間まで住んでいたのが亡くなったので、、婆あさんは本店(ほんてん)へ引き取られたと云うのである。隣が裁縫の師匠をしているので、少し騒がしいが、わざわざ隠居所に木なんぞを選んで立てたものゆえ、どことなく住心地が好さそうである。入口の格子戸から、花崗石(みかげいし)を塗り込めた敲(たた)きの庭まで、小ざっぱりと奥床しげに出来ている。
 末造は一晩床の上に寝転んで、二つの中(うち)どれにしようかと考えた。傍には女房が子供を寐(ね)かそうと思って、自分も一しょに寐入ってしまって、大きな口を開(あ)いて、女らしくない鼾(いびき)をしている。亭主が夜、貸金の利廻しを考えて、いつまでも眠らずにいるのは常の事なので、女房は何時(いつ)まで亭主が目を開いていようが、少しも気になんぞはせぬのである。末造は腹のうちで可笑(おか)しくてたまらない。考えつつ女房の顔を見て、こう思った。「まあ、同じ女でもこんな面(つら)をしているのもある。あのお玉はだいぶ久しく見ないが、あの時はまだ子供上がりであったのに、おとなしい中に意気な処のある、震い附きたいような顔をしていた。さぞこの頃は女振を上げているだろうな。顔を見るのが楽みだな。かかあ奴(め)。平気で寐てけつかる。己だって、いつも金のことばかり考えているのだと思うと、大違いだぞ。おや。もう蚊が出やがった。下谷はこれだから厭だ。そろそろ蚊屋(かや)を吊(つ)らなくちゃあ、かかあは好(い)いが、子供が食われるだろう」こんな事を思っては、又家の事を考えて見る。どうか、こうか断案に到着したらしく思ったのは、一時過ぎであった。それはこうである。「あの池の端の家は、人は見晴しがあって好いなんぞと云うかも知れないが、見晴しはこの家で沢山だ。家賃が安いが、借家となると何やかや手が掛かる。それになんとなく開け広げたような場所で、人の目に着きそうだ。うっかり窓でもあけていて、子供を連れて仲町へ出掛けるかかあにでも見られようものなら面倒だ。無縁坂の方は陰気なようだが、学生が散歩に出て通る位より外に、人の余り通らない処になっている。一時に金を出して買うのはおっくうなようだが、木道具の好いのが使ってあるわりに安いから、保険でも附けて置けばいつ売ることになっても元値は取れると思って安心していられる。無縁坂にしよう、しよう。己が夕方にでもなって、湯にでも行って、気の利いた支度をして、かかあに好い加減な事を言って、だまくらかして出掛けるのだな。そしてあの格子戸を開けて、ずっと這入って行ったら、どんな塩梅(あんばい)だろう。お玉の奴め。猫か何かを膝(ひざ)にのっけて、さびしがって待っていやがるだろうなあ。勿論お作りをして待っているのだ。着物なんぞはどうでもして遣(や)る。待てよ。馬鹿な銭を使ってはならないぞ。質流れにだって、立派なものがある。女一人に着物や頭の物の贅沢(ぜいたく)をさせるには、世間の奴のするような、馬鹿を尽さなくても好い。隣の福地さんなんぞは、己の内より大きな構(かまえ)をしていて、数寄屋町(すきやまち)の芸者を連れて、池の端をぶら附いて、書生さんを羨(うらや)ましがらせて、好い気になっていなさるが、内証は火の車だ。学者が聞いてあきれらあ。筆尖(ふでさき)で旨(うま)い事をすりゃあ、お店(たな)ものだってお払箱にならあ。おう、そうそう。お玉は三味線が弾けたっけ。爪弾(つめびき)で心意気でも聞かせてくれるようだと好いが、巡査の上さんになったより外に世間を知らずにいるのだから、駄目だろうなあ。お笑いなさるからいやだわとか、なんとか云って、弾けと云っても、なかなか弾かないだろうて。ほんになんに附けても、はにかみやあがるだろう。顔を赤くしてもじもじするに違いない。己が始て行った晩には、どうするだろう」空想は縦横に馳騁(ちへい)して、底止する所を知らない。かれこれするうち、想像が切れ切れになって、白い肌がちらつく。□(ささや)きが聞える。末造は好い心持に寐入ってしまった。傍に上さんは相変らず鼾をしている。

     陸(ろく)

 松源の目見えと云うのは、末造が為めには一(いつ)の f□te(フェエト) であった。一口に爪に火を点(とも)すなどとは云うが、金を溜(た)める人にはいろいろある。細かい所に気を附けて、塵紙(ちりがみ)を二つに切って置いて使ったり、用事を葉書で済ますために、顕微鏡がなくては読まれぬような字を書いたりするのは、どの人にも共通している性質だろうが、それを絶待的に自己の生活の全範囲に及ぼして、真に爪に火を点(とぼ)す人と、どこかに一つ穴を開けて、息を抜くようにしている人とがある。これまで小説に書かれたり、芝居に為組(しく)まれたりしている守銭奴は、殆ど絶待的な奴ばかりのようである。活(い)きた、金を溜める男には、実際そうでないのが多い。吝(けち)な癖に、女には目がないとか、不思議に食奢(くいおごり)だけはするとか云うのがそれである。前にもちょっと話したようであったが、末造は小綺麗な身なりをするのが道楽で、まだ大学の小使をしていた時なんぞは、休日になると、お定(さだ)まりの小倉の筒袖を脱ぎ棄てて、気の利いた商人(あきんど)らしい着物に着換えるのであった。そしてそれを一種の楽みにしていた。学生どもが稀(まれ)に唐桟ずくめの末造に邂逅(かいこう)して、びっくりすることのあったのは、こうしたわけである。そこで末造には、この外にこれと云う道楽がない。芸娼妓なんぞに掛かり合ったこともなければ、料理屋を飲んで歩いたこともない。蓮玉で蕎麦を食う位が既に奮発の一つになっていて、女房や子供は余程前まで、こう云う時連れて行って貰うことが出来なかった。それは女房の身なりを自分の支度に吊り合うようにはしていなかったからである。女房が何かねだると、末造はいつも「馬鹿を言うな、手前なんぞは己とは違う、己は附合があるから、為方なしにしているのだ」と云って撥(は)ね附けたのである。その後(のち)だいぶ金が子を生んでからは、末造も料理屋へ出這入(ではいり)することがあったが、これはおお勢の寄り合う時に限っていて、自分だけが客になって行くのではなかった。それがお玉に目見えをさせると云うことになって、ふいと晴がましい、solennel(ソランネル) な心持になって、目見えは松源にしようと云い出したのである。
 さていよいよ目見えをさせようとなった時、避くべからざる問題が出来た。それはお玉さんの支度である。お玉さんのばかりなら好(い)いが、爺いさんの支度までして遣らなくてはならないことになった。これには中に立って口を利いた婆あさんも頗(すこぶ)る窮したが、爺いさんの云うことは娘が一も二もなく同意するので、それを強いて抑えようとすると、根本的に談判が破裂しないにも限らぬと云う状況になったから為方がない。爺いさんの申分はざっとこうであった。「お玉はわたしの大事な一人娘で、それも余所(よそ)の一人娘とは違って、わたしの身よりと云うものは、あれより外には一人もない。わたしは亡くなった女房一人をたよりにして、寂しい生涯を送ったものだが、その女房が三十を越しての初産(ういざん)でお玉を生んで置いて、とうとうそれが病附(やみつき)で亡くなった。貰乳(もらいちち)をして育てていると、やっと四月(よつき)ばかりになった時、江戸中に流行(はや)った麻疹(はしか)になって、お医者が見切ってしまったのを、わたしは商売も何も投遣(なげやり)にして介抱して、やっと命を取り留めた。世間は物騒な最中で、井伊様がお殺されなすってから二年目、生麦(なまむぎ)で西洋人が斬られたと云う年であった。それからと云うものは、店も何もなくしてしまったわたしが、何遍もいっその事死んでしまおうかと思ったのを、小さい手でわたしの胸をいじって、大きい目でわたしの顔を見て笑う、可哀(かわい)いお玉を一しょに殺す気になられないばっかりに、出来ない我慢をして一日々々と命を繋(つな)いでいた。お玉が生れた時、わたしはもう四十五(しじゅうご)で、お負(まけ)に苦労をし続けて年より更(ふ)けていたのだが、一人口は食えなくても二人口は食えるなどと云って、小金を持った後家さんの所へ、入壻(いりむこ)に世話をしよう、子供は里にでも遣ってしまえと、親切に云ってくれた人もあったが、わたしはお玉が可哀さに、そっけもなくことわった。それまでにして育てたお玉を、貧すれば鈍するとやら云うわけで、飛んだ不実な男の慰物(なぐさみもの)にせられたのが、悔やしくて悔やしくてならないのだ。為合(しあわ)せな事には、好い娘だと人も云って下さるあの子だから、どうか堅気な人に遣りたいと思っても、わたしと云う親があるので、誰も貰おうと云ってくれぬ。それでも囲物や妾には、どんな事があっても出すまいと思っていたが、堅い檀那だと、お前さん方が仰(おっし)ゃるから、お玉も来年は二十(はたち)になるし、余り薹(とう)の立たないうちに、どうかして遣りたさに、とうとうわたしは折れ合ったのだ。そうした大事なお玉を上げるのだから、是非わたしが一しょに出て、檀那にお目に掛からなくてはならぬ」と云うのである。
 この話を持ち込まれた時、末造は自分の思わくの少し違って来たのを慊(あきたら)ず思った。それはお玉を松源へ連れて来て貰ったら、世話をする婆あさんをなるたけ早く帰してしまって、お玉と差向いになって楽もうと思ったあてがはずれそうになったからである。どうも父親が一しょに来るとなると、意外に晴がましい事になりそうである。末造自身も一種の晴がましい心持はしているが、それはこれまで抑え抑えて来た慾望の縛(いましめ)を解く第一歩を踏み出そうと云う、門出(かどで)のよろこびの意味で、t□te-□-t□te(テタテト) はそれには第一要件になっていた。ところがそこへ親父が出て来るとなると、その晴がましさの性質がまるで変って来る。婆あさんの話に聞けば、親子共物堅い人間で、最初は妾奉公は厭だと云って、二人一しょになってことわったのを、婆あさんが或る日娘を外へ呼んで、もう段々稼がれなくなるお父っさんに楽がさせたくはないかと云って、いろいろに説き勧めて、とうとう合点させて、その上で親父に納得させたと云うことである。それを聞いた時は、そんな優しい、おとなしい娘を手に入れることが出来るのかと心中窃(ひそ)かに喜んだのだが、それ程物堅い親子が揃(そろ)って来るとなると、松源での初対面はなんとなく壻が岳父(しゅうと)に見参(げんざん)すると云う風になりそうなので、その方角の変った晴がましさは、末造の熱した頭に一杓(いっしゃく)の冷水を浴せたのである。
 しかし末造は飽くまで立派な実業家だと云う触込(ふれこみ)を実にしなくてはならぬと思っているので、先方へはおお様な処が見せたさに、とうとう二人の支度を引き受けた。それにはお玉を手に入れた上では、どうせ親父の身の上も棄てては置かれぬのだから、只後(あと)ですることが先になるに過ぎぬと云う諦(あきら)めも手伝って、末造に決心させたのである。
 そこで当前(あたりまえ)なら支度料幾らと云って、纏(まと)まった金を先方へ渡すのであるが、末造はそうはしない。身なりを立派にする道楽のある末造は、自分だけの為立物(したてもの)をさせる家があるので、そこへ事情を打ち明けて、似附かわしい二人の衣類を誂(あつら)えた。只寸法だけを世話を頼んだ婆あさんの手でお玉さんに問わせたのである。気の毒な事には、この油断のない、吝(けち)な末造の処置を、お玉親子は大そう善意に解釈して、現金を手に渡されぬのを、自分達が尊敬せられているからだと思った。

     漆(しち)

 上野広小路は火事の少い所で、松源の焼けたことは記憶にないから、今もその座鋪(ざしき)があるかも知れない。どこか静かな、小さい一間をと誂えて置いたので、南向の玄関から上がって、真っ直に廊下を少し歩いてから、左へ這入る六畳の間に、末造は案内せられた。
 印絆纏(しるしばんてん)を着た男が、渋紙の大きな日覆(ひおい)を巻いている最中であった。
「どうも暮れてしまいますまでは夕日が入(い)れますので」と、案内をした女中が説明をして置いて下がった。真偽の分からぬ肉筆の浮世絵の軸物を掛けて、一輪挿(いちりんざし)に山梔(くちなし)の花を活けた床の間を背にして座を占めた末造は、鋭い目であたりを見廻した。
 二階と違って、その頃からずっと後(のち)に、殺風景にも競馬の埒(らち)にせられて、それから再び滄桑(そうそう)を閲(けみ)して、自転車の競走場になった、あの池の縁(ふち)の往来から見込まれぬようにと、切角(せっかく)の不忍の池に向いた座敷の外は籠塀(かごべい)で囲んである。塀と家との間には、帯のように狭く長い地面があるきりなので、固(もと)より庭と云う程の物は作られない。末造の据わっている所からは、二三本寄せて植えた梧桐(あおぎり)の、油雑巾で拭いたような幹が見えている。それから春日燈籠(かすがどうろう)が一つ見える。その外(ほか)には飛び飛びに立っている、小さい側栢(ひのき)があるばかりである。暫(しばら)く照り続けて、広小路は往来の人の足許(あしもと)から、白い土烟(つちけぶり)が立つのに、この塀の内(うち)は打水をした苔(こけ)が青々としている。
 間もなく女中が蚊遣(かやり)と茶を持って来て、注文を聞いた。末造は連れが来てからにしようと云って、女中を立たせて、ひとり烟草(たばこ)を呑(の)んでいた。初め据わった時は少し熱いように思ったが、暫く立つと台所や便所の辺(あたり)を通って、いろいろの物の香を、微(かす)かに帯びた風が、廊下の方から折々吹いて来て、傍(そば)に女中の置いて行った、よごれた団扇(うちわ)を手に取るには及ばぬ位であった。
 末造は床の間の柱に寄り掛かって、烟草の烟(けぶり)を輪に吹きつつ、空想に耽(ふけ)った。好(い)い娘だと思って見て通った頃のお玉は、なんと云ってもまだ子供であった。どんな女になっただろう。どんな様子をして来るだろう。とにかく爺いさんが附いて来ることになったのは、いかにもまずかった。どうにかして爺いさんを早く帰してしまうことは出来ぬか知らんなんぞと思っている。二階では三味線の調子を合せはじめた。
 廊下に二三人の足音がして、「お連様が」と女中が先へ顔を出して云った。「さあ、ずっとお這入なさいよ。檀那はさばけた方だから、遠慮なんぞなさらないが好(い)い」轡虫(くつわむし)の鳴くような調子でこう云うのは、世話をしてくれた、例の婆あさんの声である。
 末造はつと席を起(た)った。そして廊下に出て見ると、腰を屈(かが)めて、曲角の壁際に躊躇(ちゅうちょ)している爺いさんの背後(うしろ)に、怯(おく)れた様子もなく、物珍らしそうにあたりを見て立っているのがお玉であった。ふっくりした円顔の、可哀らしい子だと思っていたに、いつの間にか細面になって、体も前よりはすらりとしている。さっぱりとした銀杏返(いちょうがえ)しに結(い)って、こんな場合に人のする厚化粧なんぞはせず、殆ど素顔と云っても好(よ)い。それが想像していたとは全く趣が変っていて、しかも一層美しい。末造はその姿を目に吸い込むように見て、心の内に非常な満足を覚えた。お玉の方では、どうせ親の貧苦を救うために自分を売るのだから、買手はどんな人でも構わぬと、捨身の決心で来たのに、色の浅黒い、鋭い目に愛敬(あいきょう)のある末造が、上品な、目立たぬ好みの支度をしているのを見て、捨てた命を拾ったように思って、これも刹那(せつな)の満足を覚えた。
 末造は爺いさんに、「ずっとあっちへお通りなすって下さい」と丁寧に云って、座鋪の方を指さしながら、目をお玉さんの方へ移して、「さあ」と促した。そして二人を座鋪へ入れて置いて、世話をする婆あさんを片蔭へ呼んで、紙に包んだ物を手に握らせて、何やら□いた。婆あさんはお歯黒を剥(は)がした痕(あと)のきたない歯を見せて、恭しいような、人を馬鹿にしたような笑いようをして、頭を二三遍屈めて、そのまま跡へ引き返して行った。
 座鋪に帰って、親子のものの遠慮して這入口に一塊(ひとかたまり)になっているのを見て、末造は愛想(あいそ)好く席を進めさせて、待っていた女中に、料理の注文をした。間もなく「おとし」を添えた酒が出たので、先(ま)ず爺いさんに杯(さかずき)を侑(すす)めて、物を言って見ると、元は相応な暮しをしただけあって、遽(にわか)に身なりを拵(こしら)えて座敷へ通った人のようではなかった。
 最初は爺いさんを邪魔にして、苛々(いらいら)したような心持になっていた末造も、次第に感情を融和させられて、全く預想(よそう)しなかった、しんみりした話をすることになった。そして末造は自分の持っている限(かぎり)のあらゆる善良な性質を表へ出すことを努めながら、心の奥には、おとなしい気立の、お玉に信頼する念を起さしめるには、この上もない、適当な機会が、偶然に生じて来たのを喜んだ。
 料理が運ばれた頃には、一座はなんとなく一家のものが遊山(ゆさん)にでも出て、料理屋に立ち寄ったかと思われるような様子になっていた。平生妻子に対しては、tyran(チラン) のような振舞をしているので、妻からは或るときは反抗を以て、或るときは屈従を以て遇せられている末造は、女中の立った跡で、恥かしさに赤くした顔に、つつましやかな微笑を湛(たた)えて酌をするお玉を見て、これまで覚えたことのない淡い、地味な歓楽を覚えた。しかし末造はこの席で幻のように浮かんだ幸福の影を、無意識に直覚しつつも、なぜ自分の家庭生活にこう云う味が出ないかと反省したり、こう云う余所行(よそゆき)の感情を不断に維持するには、どれだけの要約がいるか、その要約が自分や妻に充たされるものか、充たされないものかと商量したりする程の、緻密(ちみつ)な思慮は持っていなかった。
 突然塀の外に、かちかちと拍子木を打つ音がした。続いて「へい、何か一枚御贔屓様(ごひいきさま)を」と云った。二階にしていた三味線の音(ね)が止まって、女中が手摩(てすり)に掴(つか)まって何か言っている。下では、「へい、さようなら成田屋の河内山(こうちやま)と音羽屋(おとわや)の直侍(なおざむらい)を一つ、最初は河内山」と云って、声色(こわいろ)を使いはじめた。
 銚子(ちょうし)を換えに来ていた女中が、「おや、今晩のは本当のでございます」と云った。
 末造には分からなかった。「本当のだの、嘘(うそ)のだのと云って、色々ありますかい」
「いえ、近頃は大学の学生さんが遣ってお廻りになります」
「失(や)っ張(ぱり)鳴物入で」
「ええ。支度から何からそっくりでございます。でもお声で分かります」
「そんなら極(き)まった人ですね」
「ええ。お一人しか、なさる方はございません」女中は笑っている。
「姉(ね)えさん、知っているのだね」
「こちらへもちょいちょいいらっしゃった方だもんですから」
 爺いさんが傍(そば)から云った。「学生さんにも、御器用な方があるものですね」
 女中は黙っていた。
 末造が妙に笑った。「どうせそんなのは、学校では出来ない学生なのですよ」こう云って、心の中(うち)には自分の所へ、いつも来る学生共の事を考えている。中には随分職人の真似をして、小店と云う所を冷かすのが面白いなどと云って、不断も職人のような詞遣(ことばづかい)をしている人がある。しかしまさか真面目に声色を遣って歩く人があろうとは、末造も思っていなかったのである。
 一座の話を黙って聞いているお玉を、末造がちょっと見て云った。
「お玉さんは誰が贔屓ですか」
「わたくし贔屓なんかございませんの」
 爺いさんが詞を添えた。「芝居へ一向まいりませんのですから。柳盛座がじき近所なので、町内の娘さん達がみな覗(のぞ)きにまいりましても、お玉はちっともまいりません。好きな娘さん達は、あのどんちゃんどんちゃんが聞えては内にじっとしてはいられませんそうで」
 爺いさんの話は、つい娘自慢になりたがるのである。

     捌(はち)

 話が極まって、お玉は無縁坂へ越して来ることになった。
 ところが、末造がひどく簡単に考えていた、この引越(ひきこし)にも多少の面倒が附き纏った。それはお玉が父親をなるたけ近い所に置いて、ちょいちょい尋ねて行って、気を附けて上げるようにしたいと云い出したからである。最初からお玉は、自分が貰う給金の大部分を割いて親に送って、もう六十を越している親に不自由のないように、小女(こおんな)の一人位附けて置こうと考えていた。そうするには、今まで住まった鳥越の車屋と隣合せになっている、見苦しい家に親を置かなくても好(い)い。同じ事なら、もっと近い所へ越させたいと云うことになった。丁度見合いに娘ばかり呼ぶ筈の所へ、親爺が来るようになったと同じわけで、末造は妾宅(しょうたく)の支度をしてお玉を迎えさえすれば好いと思っていたのに、実際は親子二人の引越をさせなくてはならぬ事になったのである。
 勿論(もちろん)お玉は親の引越は自分が勝手にさせるのだから、一切檀那に迷惑を掛けないようにしたいと云っている。しかし話を聞(きか)せられて見れば、末造もまるで知らぬ顔をしていることは出来ない。見合いをして一層気に入ったお玉に、例の気前を見せて遣りたい心持が手伝って、とうとうお玉が無縁坂へ越すと同時に、兼て末造が見て置いた、今一軒の池の端の家へ親爺も越すということになった。こう相談相手になって見れば、幾らお玉が自分の貰う給金の内で万事済ましたいと云ったと云って、見す見す苦しい事をするのを知らぬ顔は出来ず、何かにつけて物入がある。それを末造が平気で出すのに、世話を焼いている婆あさんの目を□(みは)ることが度々であった。
 両方の引越騒ぎが片附いたのは、七月の中頃でもあったか。ういういしい詞遣や立居振舞が、ひどく気に入ったと見えて、金貸業の方で、あらゆる峻烈(しゅんれつ)な性分を働かせている末造が、お玉に対しては、柔和な手段の限を尽して、毎晩のように無縁坂へ通って来て、お玉の機嫌を取っていた。ここにはちょっと歴史家の好く云う、英雄の半面と云ったような趣がある。
 末造は一夜も泊って行かない。しかし毎晩のように来る。例の婆あさんが世話をして、梅と云う、十三になる小女を一人置いて、台所で子供の飯事(ままごと)のような真似をさせているだけなので、お玉は次第に話相手のない退屈を感じて、夕方になれば、早く檀那が来てくれれば好(い)いと待つ心になって、それに気が附いて、自分で自分を笑うのである。鳥越にいた時も、お父っさんが商売に出た跡で、お玉は留守に独りで、内職をしていたが、もうこれだけ為上(しあ)げれば幾らになる、そうしたらお父っさんが帰って驚くだろうと励んでいたので、近所の娘達と親しくしないお玉も、退屈だと思ったことはなかったのである。それが生活の上の苦労がなくなると同時に、始て退屈と云うことを知った。
 それでもお玉の退屈は、夕方になると、檀那が来て慰めてくれるから、まだ好い。可笑(おか)しいのは、池の端へ越した爺いさんの身の上で、これも渡世に追われていたのが、急に楽になり過ぎて、自分でも狐(きつね)に撮(つま)まれたようだと思っている。そして小さいランプの下(した)で、これまでお玉と世間話をして過した水入らずの晩が、過ぎ去った、美しい夢のように恋しくてならない。そしてお玉が尋ねて来そうなものだと、絶えずそればかり待っている。ところがもう大分(だいぶ)日が立ったのに、お玉は一度も来ない。
 最初一日二日の間、爺いさんは綺麗(きれい)な家に這入った嬉しさに、田舎出の女中には、水汲(みずくみ)や飯炊(めしたき)だけさせて、自分で片附けたり、掃除をしたりして、ちょいちょい足らぬ物のあるのを思い出しては、女中を仲町へ走らせて、買って来させた。それから夕方になると、女中が台所でことこと音をさせているのを聞きながら、肘掛窓(ひじかけまど)の外の高野槙(こうやまき)の植えてある所に打水をして、煙草を喫(の)みながら、上野の山で鴉(からす)が騒ぎ出して、中島の弁天の森や、蓮(はす)の花の咲いた池の上に、次第に夕靄(ゆうもや)が漂って来るのを見ていた。爺いさんは難有(ありがた)い、結構だとは思っていた。しかしその時から、なんだか物足らぬような心持がし始めた。それは赤子の時から、自分一人の手で育てて、殆ど物を言わなくても、互に意志を通じ得られるようになっていたお玉、何事につけても優しくしてくれたお玉、外から帰って来れば待っていてくれたお玉がいぬからである。窓に据わっていて、池の景色を見る。往来の人を見る。今跳ねたのは大きな鯉であった。今通った西洋婦人の帽子には、鳥が一羽丸で附けてあった。その度毎に、「お玉あれを見い」と云いたい。それがいないのが物足らぬのである。
 三日四日となった頃には、次第に気が苛々して来て、女中の傍へ来て何かするのが気に障る。もう何十年か奉公人を使ったことがないのに、原来(がんらい)優しい性分だから、小言は言わない。只女中のする事が一々自分の意志に合わぬので、不平でならない。起居(たちい)のおとなしい、何をしても物に柔(やわらか)に当るお玉と比べて見られるのだから、田舎から出たばかりの女中こそ好(い)い迷惑である。とうとう四日目の朝飯の給事(きゅうじ)をさせている時、汁椀の中へ栂指(おやゆび)を突っ込んだのを見て、「もう給仕はしなくても好いから、あっちへ行っていておくれ」と云ってしまった。
 食事をしまって、窓から外を見ていると、空は曇っていても、雨の降りそうな様子もなく、却(かえ)って晴れた日よりは暑くなくて好さそうなので、気を晴そうと思って、外へ出た。それでも若(も)し留守にお玉が来はすまいかと気遣って、我家の門口(かどぐち)を折々振り返って見つつ、池の傍(そば)を歩いている。そのうち茅町(かやちょう)と七軒町(しちけんちょう)との間から、無縁坂の方へ行く筋に、小さい橋の掛っている処(ところ)に来た。ちょっと娘の内へ行って見ようかと思ったが、なんだか改まったような気がして、我ながら不思議な遠慮がある。これが女親であったら、こんな隔てはどんな場合にも出来まいのに、不思議だ、不思議だと思いながら、橋を渡らずに、矢張池の傍を歩いている。ふと心附くと、丁度末造の家が溝(どぶ)の向うにある。これは口入(くちいれ)の婆あさんが、こん度越して来た家の窓から、指さしをして教えてくれたのである。見れば、なる程立派な構(かまえ)で、高い土塀の外廻に、殺竹(そぎだけ)が斜(ななめ)に打ち附けてある。福地さんと云う、えらい学者の家だと聞いた、隣の方は、広いことは広いが、建物も古く、こっちの家に比べると、けばけばしい所と厳(いか)めしげな所とがない。暫く立ち留まって、昼も厳重に締め切ってある、白木造の裏門の扉を見ていたが、あの内へ這入って見たいと思う心は起らなかった。しかし何をどう思うでもなく、一種のはかない、寂しい感じに襲われて、暫く茫然(ぼうぜん)としていた。詞にあらわして言ったら、落ちぶれて娘を妾(めかけ)に出した親の感じとでも云うより外あるまい。
 とうとう一週間立っても、まだ娘は来なかった。恋しい、恋しいと思う念が、内攻するように奥深く潜んで、あいつ楽な身の上になって、親の事を忘れたのではあるまいかと云う疑(うたがい)が頭を擡(もた)げて来る。この疑は仮に故意に起して見て、それを弄(もてあそ)んでいるとでも云うべき、極めて淡いもので、疑いは疑いながら、どうも娘を憎く思われない。丁度人に対して物を言う時に用いる反語のように、いっそ娘が憎くなったら好かろうと、心の上辺で思って見るに過ぎない。
 それでも爺いさんはこの頃になって、こんな事を思うことがある。内にばかりいると、いろんな事を思ってならないから、己(おれ)はこれから外へ出るが、跡へ娘が来て、己に逢われないのを残念がるだろう。残念がらないにしたところが、切角来たのが無駄になったとだけは思うに違いない。その位な事は思わせて遣っても好(い)い。こんな事を思って出て行くようになったのである。
 上野公園に行って、丁度日蔭(ひかげ)になっている、ろは台を尋ねて腰を休めて、公園を通り抜ける、母衣(ほろ)を掛けた人力車を見ながら、今頃留守へ娘が来て、まごまごしていはしないかと想像する。この時の感じは、好い気味だと思って見たいと云う、自分で自分を験(ため)して見るような感じである。この頃は夜も吹抜亭(ふきぬきてい)へ、円朝の話や、駒之助(こまのすけ)の義太夫(ぎだゆう)を聞きに行くことがある。寄席にいても、矢張娘が留守に来ているだろうかと云う想像をする。そうかと思うと又ふいと娘がこの中に来ていはせぬかと思って、銀杏返しに結(い)っている、若い女を選(よ)り出すようにして見ることなどがある。一度なんぞは、中入(なかいり)が済んだ頃、その時代にまだ珍らしかった、パナマ帽を目深に被(かぶ)った、湯帷子掛(ゆかたがけ)の男に連れられて、背後(うしろ)の二階へ来て、手摩に攫(つか)まって据わりしなに、下の客を見卸した、銀杏返しの女を、一刹那(いっせつな)[#「一刹那」は底本では「一殺那」]の間お玉だと思った事がある。好く見れば、お玉よりは顔が円くて背が低い。それにパナマ帽の男は、その女ばかりではなく、背後(うしろ)にまだ三人ばかりの島田やら桃割(ももわれ)やらを連れていた。皆芸者やお酌であった。爺いさんの傍(そば)にいた書生が、「や、吾曹(ごそう)先生が来た」と云った。寄席がはねて帰る時に見ると、赤く「ふきぬき亭」と斜(ななめ)に書いた、大きい柄の長い提灯(ちょうちん)を一人の女が持って、芸者やお酌がぞろぞろ附いて、パナマ帽の男を送って行く。爺いさんは自分の内の前まで、この一行と跡になったり、先になったりして帰った。

     玖(く)

 お玉も小さい時から別れていたことのない父親が、どんな暮らしをしているか、往(い)って見たいとは思っている。しかし檀那(だんな)が毎日のように来るので、若し留守を明けていて、機嫌を損じてはならないと云う心配から、一日一日と、思いながら父親の所へ尋ねて行かずに過すのである。檀那は朝までいることはない。早い時は十一時頃に帰ってしまう。又きょうは外(ほか)へ行かなくてはならぬのだが、ちょいと寄ったと云って、箱火鉢の向うに据わって、烟草を呑んで帰ることもある。それでもきょうは檀那がきっと来ないと見極めの附いた日というのがないので、思い切って出ることが出来ない。昼間出れば出られぬことはない筈だが、使っている小女が子供と云っても好い位だから、何一つ任せて置かれない。それになんだか近所のものに顔を見られるような気がして、昼間は外へ出たくない。初のうちは坂下の湯に這入りに行くにも、今頃は透いているか見て来ておくれと、小女に様子を見て来させた上で、そっと行った位である。
 何事もなくても、こんな風に怯(おく)れがちなお玉の胆(きも)をとりひしいだ事が、越して来てから三日目にあった。それは越した日に八百屋も、肴屋(さかなや)も通帳(かよいちょう)を持って来て、出入(でいり)を頼んだのに、その日には肴屋が来ぬので、小さい梅を坂下へ遣(や)って、何か切身でも買って来させようとした時の事である。お玉は毎日肴なんぞが食いたくはない。酒を飲まぬ父が体に障らぬお数(かず)でさえあれば、なんでも好(い)いと云う性(たち)だから、有り合せの物で御飯を食べる癖が附いていた。しかし隣の近い貧乏所帯で、あの家では幾日(いくか)立っても生腥気(なまぐさけ)も食べぬと云われた事があったので、若し梅なんぞが不満足に思ってはならぬ、それでは手厚くして下さる檀那に済まぬというような心から、わざわざ坂下の肴屋へ見せに遣ったのである。ところが、梅が泣顔をして帰って来た。どうしたかと問うと、こう云うのである。肴屋を見附けて這入ったら、その家はお内へ通(かよい)を持って来たのとは違った家であった。御亭主がいないで、上(かみ)さんが店にいた。多分御亭主は河岸から帰って、店に置くだけの物を置いて、得意先きを廻りに出たのであろう。店に新しそうな肴が沢山あった。
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