じいさんばあさん
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著者名:森鴎外 

 文化六年の春が暮れて行く頃であった。麻布竜土町(あざぶりゅうどちょう)の、今歩兵第三聯隊(れんたい)の兵営になっている地所の南隣で、三河国奥殿(みかわのくにおくとの)の領主松平左七郎乗羨(のりのぶ)と云う大名の邸(やしき)の中(うち)に、大工が這入(はい)って小さい明家(あきや)を修復している。近所のものが誰の住まいになるのだと云って聞けば、松平の家中の士(さむらい)で、宮重久右衛門(みやしげきゅうえもん)と云う人が隠居所を拵(こしら)えるのだと云うことである。なる程宮重の家の離座敷と云っても好いような明家で、只台所だけが、小さいながらに、別に出来ていたのである。近所のものが、そんなら久右衛門さんが隠居しなさるのだろうかと云って聞けば、そうではないそうである。田舎(いなか)にいた久右衛門さんの兄きが出て来て這入るのだと云うことである。
 四月五日に、まだ壁が乾き切らぬと云うのに、果して見知らぬ爺(じ)いさんが小さい荷物を持って、宮重方に著(つ)いて、すぐに隠居所に這入った。久右衛門は胡麻塩頭(ごましおあたま)をしているのに、この爺いさんは髪が真白である。それでも腰などは少しも曲がっていない。結構な拵(こしらえ)の両刀を挿(さ)した姿がなかなか立派である。どう見ても田舎者らしくはない。
 爺いさんが隠居所に這入ってから二三日立つと、そこへ婆(ば)あさんが一人来て同居した。それも真白な髪を小さい丸髷(まるまげ)に結(い)っていて、爺いさんに負けぬように品格が好い。それまでは久右衛門方の勝手から膳を運んでいたのに、婆あさんが来て、爺いさんと自分との食べる物を、子供がまま事をするような工合に拵えることになった。
 この翁媼(おうおん)二人の中の好いことは無類である。近所のものは、若(も)しあれが若い男女であったら、どうも平気で見ていることが出来まいなどと云った。中には、あれは夫婦ではあるまい、兄妹(きょうだい)だろうと云うものもあった。その理由とする所を聞けば、あの二人は隔てのない中(うち)に礼儀があって、夫婦にしては、少し遠慮をし過ぎているようだと云うのであった。
 二人は富裕とは見えない。しかし不自由はせぬらしく、又久右衛門に累を及ぼすような事もないらしい。殊(こと)に婆あさんの方は、跡から大分(だいぶ)荷物が来て、衣類なんぞは立派な物を持っているようである。荷物が来てから間もなく、誰が言い出したか、あの婆あさんは御殿女中をしたものだと云う噂(うわさ)が、近所に広まった。
 二人の生活はいかにも隠居らしい、気楽な生活である。爺いさんは眼鏡を掛けて本を読む。細字で日記を附ける。毎日同じ時刻に刀剣に打粉(うちこ)を打って拭(ふ)く。体(たい)を極(き)めて木刀を揮(ふ)る。婆あさんは例のまま事の真似をして、その隙(すき)には爺いさんの傍(そば)に来て団扇(うちわ)であおぐ。もう時候がそろそろ暑くなる頃だからである。婆あさんが暫(しばら)くあおぐうちに、爺いさんは読みさした本を置いて話をし出す。二人はさも楽しそうに話すのである。
 どうかすると二人で朝早くから出掛けることがある。最初に出て行った跡で、久右衛門の女房が近所のものに話したと云う詞(ことば)が偶然伝えられた。「あれは菩提所(ぼだいしょ)の松泉寺(しょうせんじ)へ往きなすったのでございます。息子さんが生きていなさると、今年三十九になりなさるのだから、立派な男盛と云うものでございますのに」と云ったと云うのである。松泉寺と云うのは、今の青山御所(あおやまごしょ)の向裏(むこううら)に当る、赤坂黒鍬谷(くろくわだに)の寺である。これを聞いて近所のものは、二人が出歩くのは、最初のその日に限らず、過ぎ去った昔の夢の迹(あと)を辿(たど)るのであろうと察した。
 とかくするうちに夏が過ぎ秋が過ぎた。もう物珍らしげに爺いさん婆あさんの噂をするものもなくなった。所が、もう年が押し詰まって十二月二十八日となって、きのうの大雪の跡の道を、江戸城へ往反(おうへん)する、歳暮拝賀の大小名諸役人織るが如き最中に、宮重の隠居所にいる婆あさんが、今お城から下がったばかりの、邸の主人松平左七郎に広間へ呼び出されて、将軍徳川家斉(いえなり)の命を伝えられた。「永年遠国(えんごく)に罷在候夫(まかりありそろおっと)の為(ため)、貞節を尽候趣聞召(つくしそろおもむききこしめ)され、厚き思召(おぼしめし)を以(もっ)て褒美(ほうび)として銀十枚下し置かる」と云う口上であった。
 今年の暮には、西丸にいた大納言家慶(いえよし)と有栖川職仁親王(ありすがわよしひとしんのう)の女楽宮(じょらくみや)との婚儀などがあったので、頂戴物(ちょうだいもの)をする人数(にんず)が例年よりも多かったが、宮重の隠居所の婆あさんに銀十枚を下さったのだけは、異数(いすう)として世間に評判せられた。
 これがために宮重の隠居所の翁媼二人は、一時江戸に名高くなった。爺いさんは元大番石川阿波守総恒組美濃部伊織(いしかわあわのかみふさつねくみみのべいおり)と云って、宮重久右衛門の実兄である。婆あさんは伊織の妻るんと云って、外桜田(そとさくらだ)の黒田家の奥に仕えて表使格(おもてづかいかく)になっていた女中である。るんが褒美を貰った時、夫伊織は七十二歳、るん自身は七十一歳であった。

     ――――――――――――――――

 明和三年に大番頭(おおばんがしら)になった石川阿波守総恒の組に、美濃部伊織と云う士(さむらい)があった。剣術は儕輩(せいはい)を抜いていて、手跡も好く和歌の嗜(たしなみ)もあった。石川の邸は水道橋外で、今白山(はくさん)から来る電車が、お茶の水を降りて来る電車と行き逢う辺(あたり)の角屋敷(かどやしき)になっていた。しかし伊織は番町(ばんちょう)に住んでいたので、上役とは詰所で落ち合うのみであった。
 石川が大番頭になった年の翌年の春、伊織の叔母婿(おばむこ)で、やはり大番を勤めている山中藤右衛門と云うのが、丁度三十歳になる伊織に妻を世話をした。それは山中の妻の親戚(しんせき)に、戸田淡路守氏之(あわじのかみうじゆき)の家来有竹某(ありたけぼう)と云うものがあって、その有竹のよめの姉を世話したのである。
 なぜ妹が先によめに往(い)って、姉が残っていたかと云うと、それは姉が邸奉公をしていたからである。素(もと)二人の女は安房国朝夷郡真門村(あわのくにあさいごおりまかどむら)で由緒のある内木四郎右衛門(うちきしろえもん)と云うものの娘で、姉のるんは宝暦(ほうれき)二年十四歳で、市ヶ谷門外の尾張中納言宗勝(おわりちゅうなごんむねかつ)の奥の軽い召使になった。それから宝暦十一年尾州家(びしゅうけ)では代替(だいがわり)があって、宗睦(むねちか)の世になったが、るんは続いて奉公していて、とうとう明和三年まで十四年間勤めた。その留守に妹は戸田の家来有竹の息子の妻になって、外桜田の邸へ来たのである。
 尾州家から下がったるんは二十九歳で、二十四歳になる妹の所へ手助(てだすけ)に入り込んで、なるべくお旗本の中(うち)で相応な家へよめに往きたいと云っていた。それを山中が聞いて、伊織に世話をしようと云うと、有竹では喜んで親元になって嫁入をさせることにした。そこで房州(ぼうしゅう)うまれの内木氏(うじ)のるんは有竹氏を冒(おか)して、外桜田の戸田邸から番町の美濃部方へよめに来たのである。
 るんは美人と云う性(たち)の女ではない。若(も)し床の間の置物のような物を美人としたら、るんは調法に出来た器具のような物であろう。体格が好く、押出しが立派で、それで目から鼻へ抜けるように賢く、いつでもぼんやりして手を明けていると云うことがない。顔も觀骨(かんこつ)が稍(やや)出張っているのが疵(きず)であるが、眉(まゆ)や目の間に才気が溢(あふ)れて見える。伊織は武芸が出来、学問の嗜もあって、色の白い美男である。只この人には肝癪持(かんしゃくもち)と云う病があるだけである。さて二人が夫婦になったところが、るんはひどく夫を好いて、手に据えるように大切にし、七十八歳になる夫の祖母にも、血を分けたものも及ばぬ程やさしくするので、伊織は好い女房を持ったと思って満足した。それで不断の肝癪は全く迹(あと)を斂(おさ)めて、何事をも勘弁するようになっていた。
 翌年は明和五年で伊織の弟宮重はまだ七五郎と云っていたが、主家(しゅうけ)のその時の当主松平石見守乗穏(いわみのかみのりやす)が大番頭になったので、自分も同時に大番組に入(い)った。これで伊織、七五郎の兄弟は同じ勤をすることになったのである。
 この大番と云う役には、京都二条の城と大坂の城とに交代して詰めることがある。伊織が妻を娶(めと)ってから四年立って、明和八年に松平石見守が二条在番の事になった。そこで宮重七五郎が上京しなくてはならぬのに病気であった。当時は代人差立(だいにんさしたて)と云うことが出来たので、伊織が七五郎の代人として石見守に附いて上京することになった。伊織は、丁度妊娠(にんしん)して臨月になっているるんを江戸に残して、明和八年四月に京都へ立った。
 伊織は京都でその年の夏を無事に勤めたが、秋風の立ち初(そ)める頃、或る日寺町通の刀剣商の店で、質流れだと云う好い古刀を見出した。兼(かね)て好(い)い刀が一腰(こし)欲しいと心掛けていたので、それを買いたく思ったが、代金百五十両と云うのが、伊織の身に取っては容易ならぬ大金であった。
 伊織は万一の時の用心に、いつも百両の金を胴巻に入れて体に附けていた。それを出すのは惜しくはない。しかし跡五十両の才覚が出来ない。そこで百五十両は高くはないと思いながら、商人にいろいろ説いて、とうとう百三十両までに負けて貰うことにして、買い取る約束をした。三十両は借財をする積(つもり)なのである。
 伊織が金を借りた人は相番(あいばん)の下島(しもじま)甚右衛門と云うものである。平生親しくはせぬが、工面(くめん)の好いと云うことを聞いていた。そこでこの下島に三十両借りて刀を手に入れ、拵えを直しに遣(や)った。
 そのうち刀が出来て来たので、伊織はひどく嬉しく思って、あたかも好し八月十五夜に、親しい友達柳原小兵衛等二三人を招いて、刀の披露旁馳走(ひろうかたがたちそう)をした。友達は皆刀を褒(ほ)めた。酒酣(たけなわ)になった頃、ふと下島がその席へ来合せた。めったに来ぬ人なので、伊織は金の催促に来たのではないかと、先(ま)ず不快に思った。しかし金を借りた義理があるので、杯(さかずき)をさして団欒(まとい)に入れた。
 暫(しばら)く話をしているうちに、下島の詞(ことば)に何となく角があるのに、一同気が附いた。下島は金の催促に来たのではないが、自分の用立てた金で買った刀の披露をするのに自分を招かぬのを不平に思って、わざと酒宴の最中に尋ねて来たのである。
 下島は二言三言(ふたことみこと)伊織と言い合っているうちに、とうとうこう云う事を言った。「刀は御奉公のために大切な品だから、随分借財をして買っても好かろう。しかしそれに結構な拵をするのは贅沢(ぜいたく)だ。その上借財のある身分で刀の披露をしたり、月見をしたりするのは不心得だ」と云った。
 この詞の意味よりも、下島の冷笑を帯びた語気が、いかにも聞き苦しかったので、俯向(うつむ)いて聞いていた伊織は勿論(もちろん)、一座の友達が皆不快に思った。
 伊織は顔を挙げて云った。「只今のお詞は確に承った。その御返事はいずれ恩借の金子(きんす)を持参した上で、改(あらため)て申上げる。親しい間柄と云いながら、今晩わざわざ請待した客の手前がある。どうぞこの席はこれでお立下されい」と云った。
 下島は面色(かおいろ)が変った。「そうか。返れと云うなら返る。」こう言い放って立ちしなに、下島は自分の前に据えてあった膳を蹴返(けかえ)した。
「これは」と云って、伊織は傍(はた)にあった刀を取って立った。伊織の面色はこの時変っていた。
 伊織と下島とが向き合って立って、二人が目と目を見合わせた時、下島が一言「たわけ」と叫んだ。その声と共に、伊織の手に白刃(しらは)が閃(ひらめ)いて、下島は額を一刀(とう)切られた。
 下島は切られながら刀を抜いたが、伊織に刃向うかと思うと、そうでなく、白刃を提(ひっさ)げたまま、身を飜(ひるがえ)して玄関へ逃げた。
 伊織が続いて出ると、脇差を抜いた下島の仲間(ちゅうげん)が立ち塞(ふさ)がった。「退(の)け」と叫んだ伊織の横に払った刀に仲間は腕を切られて後へ引いた。
 その隙(ひま)に下島との間に距離が生じたので、伊織が一飛(ひととび)に追い縋(すが)ろうとした時、跡から附いて来た柳原小兵衛が、「逃げるなら逃がせい」と云いつつ、背後(うしろ)からしっかり抱き締めた。相手が死なずに済んだなら、伊織の罪が軽減せられるだろうと思ったからである。
 伊織は刀を柳原にわたして、しおしおと座に返った。そして黙って俯向いた。
 柳原は伊織の向いにすわって云った。「今晩の事は己(おれ)を始、一同が見ていた。いかにも勘弁出来ぬと云えばそれまでだ。しかし先へ刀を抜いた所存を、一応聞いて置きたい」と云った。
 伊織は目に涙を浮べて暫く答えずにいたが、口を開いて一首の歌を誦(じゅ)した。
「いまさらに何(なに)とか云はむ黒髪(くろかみ)の
     みだれ心はもとすゑもなし」

     ――――――――――――――――

 下島は額の創(きず)が存外重くて、二三日立って死んだ。伊織は江戸へ護送せられて取調を受けた。判決は「心得違の廉(かど)を以て、知行(ちぎょう)召放され、有馬左兵衛佐允純(ありまさひょうえのすけまさずみ)へ永(なが)の御預仰付らる」と云うことであった。伊織が幸橋外(さいわいばしそと)の有馬邸から、越前国(えちぜんのくに)丸岡へ遣られたのは、安永と改元せられた翌年の八月である。
 跡に残った美濃部家の家族は、それぞれ親類が引き取った。伊織の祖母貞松院(ていしょういん)は宮重七五郎方に往き、父の顔を見ることの出来なかった嫡子平内(へいない)と、妻るんとは有竹の分家になっている笠原新八郎方に往った。
 二年程立って、貞松院が寂しがってよめの所へ一しょになったが、間もなく八十三歳で、病気と云う程の容体(ようだい)もなく死んだ。安永三年八月二十九日の事である。
 翌年又五歳になる平内が流行の疱瘡(ほうそう)で死んだ。これは安永四年三月二十八日の事である。
 るんは祖母をも息子をも、力の限(かぎり)介抱して臨終を見届け、松泉寺に葬った。そこでるんは一生武家奉公をしようと思い立って、世話になっている笠原を始、親類に奉公先を捜すことを頼んだ。
 暫く立つと、有竹氏の主家(しゅうけ)戸田淡路守氏養(うじやす)の隣邸、筑前国(ちくぜんのくに)福岡の領主黒田家の当主松平筑前守治之(はるゆき)の奥で、物馴れた女中を欲しがっていると云う噂が聞えた。笠原は人を頼んで、そこへるんを目見(めみ)えに遣った。氏養と云うのは、六年前に氏之の跡を続(つ)いだ戸田家の当主である。
 黒田家ではるんを一目見て、すぐに雇い入れた。これが安永六年の春であった。
 るんはこれから文化五年七月まで、三十一年間黒田家に勤めていて、治之(はるゆき)、治高(はるたか)、斉隆(なりたか)、斉清(なりきよ)の四代の奥方に仕え、表使格(おもてづかいかく)に進められ、隠居して終身二人扶持(にんふち)を貰うことになった。この間るんは給料の中(うち)から松泉寺へ金を納めて、美濃部家の墓に香華(こうげ)を絶やさなかった。
 隠居を許された時、るんは一旦笠原方へ引き取ったが、間もなく故郷の安房へ帰った。当時の朝夷郡真門村で、今の安房郡江見村(えみむら)である。
 その翌年の文化六年に、越前国丸岡の配所で、安永元年から三十七年間、人に手跡や剣術を教えて暮していた夫伊織が、「三月八日浚明院殿御追善(しゅんめいいんでんごついぜん)の為、御慈悲の思召を以て、永(なが)の御預御免仰出(おあずけごめんおおせいだ)され」て、江戸へ帰ることになった。それを聞いたるんは、喜んで安房から江戸へ来て、竜土町の家で、三十七年振に再会したのである。




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