寿阿弥の手紙
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著者名:森鴎外 

     一

 わたくしは澀江抽齋(しぶえちうさい)の事蹟を書いた時、抽齋の父定所(ていしよ)の友で、抽齋に劇神仙(げきしんせん)の號を讓つた壽阿彌陀佛(じゆあみだぶつ)の事に言ひ及んだ。そして壽阿彌が文章を善(よ)くした證據として其(その)手紙を引用した。
 壽阿彌(じゆあみ)の手紙は□堂(ひつだう)と云ふ人に宛(あ)てたものであつた。わたくしは初め□堂の何人たるかを知らぬので、二三の友人に問ひ合せたが明答を得なかつた。そこで□堂は誰(たれ)かわからぬと書いた。
 さうすると早速其人は駿河(するが)の桑原□堂であらうと云つて、友人賀古鶴所(がこつるど)さんの許(もと)に報じてくれた人がある。それは二宮孤松(にのみやこしよう)さんである。二宮氏は五山堂詩話の中の詩を記憶してゐたのである。
 わたくしは書庫から五山堂詩話を出して見た。五山は其詩話の正篇に於(おい)て、一たび□堂を説いて詩二首を擧げ、再び説いて、又四首を擧げ、後補遺に於て、三たび説いて一首を擧げてゐる。詩の采録(さいろく)を經たるもの通計七首である。そして最初にかう云ふ人物評が下してある。「公圭書法嫻雅(こうけいしよはふはかんが)、兼善音律(かねておんりつをよくす)、其人温厚謙恪(そのひとはをんこうけんかく)、一望而知爲君子(いちばうしてくんしたるをしる)」と云ふのである。公圭は□堂の字(あざな)である。
 次で置鹽棠園(おしほたうゑん)さんの手紙が來て、わたくしは□堂の事を一層精(くは)しく知ることが出來た。
 桑原□堂、名は正瑞(せいずゐ)、字(あざな)は公圭(こうけい)、通稱は古作(こさく)である。天明四年に生れ、天保八年六月十八日に歿した。桑原氏は駿河國(するがのくに)島田驛の素封家(そほうか)で、徳川幕府時代には東海道十三驛の取締を命ぜられ、兼て引替御用を勤めてゐた。引替御用とは爲換方(かはせかた)を謂(い)ふのである。桑原氏が後に産を傾けたのは此引換のためださうである。
 菊池五山は□堂の詩と書と音律とを稱してゐる。□堂は詩を以て梁川星巖(やながはせいがん)、柏木如亭(かしはぎじよてい)及五山と交つた。書は子昂(すがう)を宗(そう)とし江戸の佐野東洲の教を受けたらしい。又畫(ゑ)をも學んで、崋山(くわざん)門下の福田半香、その他勾田臺嶺(まがたたいれい)、高久隆古(たかひさりゆうこ)等と交つた。
 □堂の妻は置鹽蘆庵(おしほろあん)の二女ためで、石川依平(よりひら)の門に入つて和歌を學んだ。蘆庵は棠園さんの五世の祖である。
 □堂の子は長を霜崖(さうがい)と云ふ。名は正旭(せいきよく)である。書を善(よ)くした。次を桂叢(けいそう)と云ふ。名は正望(せいばう)である。畫を善くした。桂叢の墓誌銘は齋藤拙堂が撰(えら)んだ。
 桑原氏の今の主人は喜代平さんと稱して□堂の玄孫に當つてゐる。戸籍は島田町にあつて、町の北半里許(ばかり)の傳心寺に住んでゐる。傳心寺は桑原氏が獨力を以て建立(こんりふ)した禪寺で、寺祿(じろく)をも有してゐる。桑原氏累代(るゐだい)の菩提所(ぼだいしよ)である。
 以上の事實は棠園さんの手書中より抄出したものである。棠園さんは置鹽氏(おしほうぢ)、名は維裕(ゐゆう)、字(あざな)は季餘(きよ)、通稱は藤四郎である。居る所を聽雲樓(ていうんろう)と云ふ。川田甕江(をうこう)の門人で、明治三十三年に靜岡縣周智(すち)郡長から伊勢神宮の神官に轉じた。今は山田市岩淵町(いはぶちちやう)に住んでゐる。わたくしの舊知内田魯庵(ろあん)さんは棠園さんの妻の姪夫(めひむこ)ださうである。
 わたくしは壽阿彌の手紙に由つて棠園さんと相識になつたのを喜んだ。

     二

 壽阿彌の手紙の宛名(あてな)桑原□堂が何人かと云ふことを、二宮孤松さんに由つて略(ほゞ)知ることが出來、置鹽棠園さんに由つて委(くはし)く知ることが出來たので、わたくしは正誤文を新聞に出した。然(しか)るに正誤文に偶(たま/\)誤字があつた。市河三陽さんは此誤字を正してくれるためにわたくしに書を寄せた。
 三陽さんは祖父米庵が□堂と交はつてゐたので、□堂の名を知つてゐた。米庵の西征日乘中(せいせいにちじようちゆう)癸亥(きがい)十月十七日の條に、「十七日、到島田、訪桑原□堂已宿」と記してある。癸亥は享和三年で、安永八年生れの米庵が二十五歳、天明四年生の□堂が二十歳の時である。客も主人も壯年であつた。わたくしは主客の關係を詳(つまびらか)にせぬが、□堂の詩を詩話中に收めた菊池五山が米庵の父寛齋の門人であつたことを思へば、米庵は□堂がためには、啻(たゞ)に己(おのれ)より長ずること五歳なる友であつたのみではなく、頗(すこぶ)る貴(たふと)い賓客であつただらう。
 三陽さんは別に其祖父米庵に就いてわたくしに教ふる所があつた。これはわたくしが澀江抽齋の死を記するに當つて、米庵に言ひ及ぼしたからである。抽齋と米庵とは共に安政五年の虎列拉(コレラ)に侵された。抽齋は文化二年生の五十四歳、米庵は八十歳であつたのである。しかしわたくしは略(ほゞ)抽齋の病状を悉(つく)してゐて、その虎列拉(コレラ)たることを斷じたが、米庵を同病だらうと云つたのは、推測に過ぎなかつた。
 わたくしの推測は幸(さいはひ)にして誤でなかつた。三陽さんの言ふ所に從へば、神惟徳(しんゐとく)の米庵略傳に下(しも)の如く云つてあるさうである。「震災後二年を隔てゝ夏秋の交に及び、先生時邪に犯され、發熱劇甚(げきじん)にして、良醫交□(こも/″\)來(きた)り診(しん)し苦心治療を加ふれど効驗なく、年八十にして七月十八日溘然(かふぜん)屬□(ぞくくわう)の哀悼(あいたう)を至す」と云ふのである。又當時虎列拉に死した人々の番附が發刊せられた。三陽さんは其二種を藏してゐるが、並(ならび)に皆米庵を載せてゐるさうである。
 壽阿彌の□堂に遣(や)つた手紙は、二三の友人がこれを公にせむことを勸めた。わたくしも此手紙の印刷に附する價値あるものたるを信ずる。なぜと云ふに、その記する所は開明史上にも文藝史上にも尊重すべき資料であつて、且讀んで興味あるべきものだからである。
 手紙には考ふべき人物九人と□堂の親戚(しんせき)知人四五人との名が出てゐる。前者中儒者には山本北山がある。詩人には大窪(おほくぼ)天民、菊池五山、石野雲嶺(うんれい)がある。歌人には岸本弓弦(ゆづる)がある。畫家には喜多可庵がある。茶人には川上宗壽がある。醫師には分家名倉がある。俳優には四世坂東彦三郎がある。手紙を書いた壽阿彌と其親戚と、手紙を受けた□堂と其親戚知人との外、此等(これら)の人物の事蹟の上に多少の光明を投射する一篇の文章に、史料としての價値があると云ふことは、何人も否定することが出來ぬであらう。

     三

 わたくしは壽阿彌の手紙に註を加へて印刷に付することにしようかとも思つた。しかし文政頃の手紙の文は、縱(たと)ひ興味のある事が巧に書いてあつても、今の人には讀み易くは無い。忍んでこれを讀むとしたところで、許多(あまた)の敬語や慣用語が邪魔になつてその煩はしきに堪へない。ましてやそれが手紙にめづらしい長文なのだから、わたくしは遠慮しなくてはならぬやうに思つて差し控へた。
 そしてわたくしは全文を載せる代りに筋書を作つて出すことにした。以下が其筋書である。
 手紙には最初に二字程下げて、長文と云ふことに就いてのことわりが言つてある。これだけは全文を此に寫し出す。「いつも餘り長い手紙にてかさばり候故(そろゆゑ)、當年は罫紙(けいし)に認候(したゝめそろ)。御免可被下候(ごめんくださるべくそろ)。」わたくしは此ことわりを面白く思ふ。當年はと云つたのは、年が改まつてから始めて遣る手紙だからである。其年が文政十一年であることは、下(しも)に明證がある。六十歳の壽阿彌が四十五歳の□堂に書いて遣つたのである。
 壽阿彌と□堂との交(まじはり)は餘程久しいものであつたらしいが、其詳(つまびらか)なることを知らない。只(たゞ)此手紙の書かれた時より二年前に、壽阿彌が□堂の家に泊つてゐたことがある。山内香雪が市河米庵に隨つて有馬の温泉に浴した紀行中、文政九年丙戌(へいじゆつ)二月三日の條に、「二日、藤枝に至り、荷溪(かけい)また雲嶺(うんれい)を問ふ、到島田問□堂、壽阿彌爲客(かくとなり)こゝにあり、掛川仕立屋投宿」と云つてある。歸途に米庵等は□堂の家に宿したが、只「主島田□堂」とのみ記してある。これは四月十八日の事である。紀行は市河三陽さんが抄出してくれた。
 荷溪は五山堂詩話に出てゐる。「藤枝※荷溪(ふぢえだのちようかけいは)[#「蒙−くさかんむり」、196-下-16]。碧字風曉(へきあざなはふうげうなり)。才調獨絶(さいてふひとりぜつす)。工畫能詩(ゑをたくみにししをよくす)。(中略)於詩意期上乘(しのいにおけるじやうじようをきす)。是以生平所作(ここをもつてせいへいつくるところは)。多不慊己意(おほくおのれのいにあきたらず)。撕毀摧燒(せいきさいせうして)。留者無幾(とゞめしものいくばくもなし)。」菊池五山は西駿(せいしゆん)の知己二人として、荷溪と□堂とを並記してゐる。
 次に書中に見えてゐるのは、不音(ぶいん)のわび、時候の挨拶(あいさつ)、問安で、其末に「貧道無異に勤行仕候間(ごんぎやうつかまつりそろあひだ)乍憚(はゞかりながら)御掛念被下間敷候(ごけねんくださるまじくそろ)」とある。勤行と書いたのは剃髮後(ていはつご)だからである。當時の武鑑を閲(けみ)するに、連歌師の部に淺草日輪寺其阿(きあ)と云ふものが載せてあつて、壽阿彌は執筆日輪寺内(うち)壽阿曇□(どんてう)と記してある。原來(ぐわんらい)時宗遊行派の阿彌號は相摸國高座郡(さがみのくにかうざごほり)藤澤の清淨光寺から出すもので、江戸では淺草芝崎町日輪寺が其出張所になつてゐた。想ふに新石町(しんこくちやう)の菓子商で眞志屋五郎作と云つてゐた此人は、壽阿彌號を受けた後に、去つて日輪寺其阿の許(もと)に寓(ぐう)したのではあるまいか。
 壽阿彌は單に剃髮したばかりでは無い。僧衣を著けて托鉢(たくはつ)にさへ出た。托鉢に出たのは某年正月十七日が始で、先づ二代目烏亭焉馬(うていえんば)の八丁堀の家の門(かど)に立つたさうである。江戸町與力の倅(せがれ)山崎賞次郎が焉馬(えんば)の名を襲いだのは、文政十一年だと云ふことで、月日は不詳である。わたくしが推察するに、焉馬は文政十一年の元日から襲名したので、其月十七日に壽阿彌は托鉢に出て、先づ焉馬を驚したのではあるまいか。若(も)しさうだとすると、□堂に遣る此(この)遲馳(おくればせ)の年始状を書いたのは、始て托鉢に出た翌月であらう。此手紙は二月十九日の日附だからである。
 壽阿彌が托鉢に出て、焉馬の門に立つた時の事は、假名垣魯文(かながきろぶん)が書いて、明治二十三年一月二十二日の歌舞伎新報に出した。わたくしの手許(てもと)には鈴木春浦(しゆんぽ)さんの寫してくれたものがある。
 壽阿彌は焉馬の門に立つて、七代目團十郎の聲色で「厭離焉馬(おんりえんば)、欣求淨土(ごんぐじやうど)、壽阿彌陀佛(じゆあみだぶつ)々々々々々」と唱へた。
 深川の銀馬と云ふ弟子が主人に、「怪しい坊主が來て焉馬がどうのかうのと云つてゐます」と告げた。
 焉馬は棒を持つて玄關に出て、「なんだ」と叫んだ。
 壽阿彌は數歩退いて笠(かさ)を取つた。
「先生惡い洒落(しやれ)だ」と、焉馬は棒を投げた。「まあ、ちよつとお通下さい。」
「いや。けふは修行中の草鞋穿(わらぢばき)だから御免蒙(かうむ)る。焉馬あつたら又逢(あ)はう。」云(い)ひ畢(をは)つて壽阿彌は、岡崎町の地藏橋の方へ、錫杖(しやくぢやう)を衝(つ)き鳴らして去つたと云ふのである。
 魯文の記事には多少の文飾もあらうが、壽阿彌の剃髮、壽阿彌の勤行がどんなものであつたかは、大概此出來事によつて想見することが出來よう。寛政三年生で當時三十八歳の戲作者(げさくしや)焉馬が、壽阿彌のためには自分の贔屓(ひいき)にして遣(や)る末輩であつたことは論を須(ま)たない。

     四

 次に「大下の岳母樣」が亡くなつたと聞いたのに、弔書(てうしよ)を遣らなかつたわびが言つてある。改年後始めて遣る手紙にくやみを書いたのは、壽阿彌が物事に拘(かゝは)らなかつた證に充(み)つべきであらう。
 大下の岳母が何人かと云ふことは、棠園さんに問うて知ることが出來た。駿河國志太郡(するがのくにしだごほり)島田驛で桑原氏の家は驛の西端、置鹽氏の家は驛の東方にあつた。土地の人は彼を大上(おほかみ)と云ひ、此を大下(おほしも)と云つた。□堂は大上の檀那(だんな)と呼ばれてゐた。□堂の妻ためは大下の置鹽氏から來り嫁した。ための父即(すなは)ち□堂の岳父は置鹽蘆庵(ろあん)で、母即ち□堂の岳母は蘆庵の妻すなである。
 さて大下の岳母すなは文政十年九月十二日に沒した。壽阿彌は其年の冬のうちに弔書を寄すべきであるのに、翌文政十一年の春まで不音(ぶいん)に打ち過ぎた。其(その)詫言(わびこと)を言つたのである。
 次に「清右衞門樣先(まづ)はどうやらかうやら江戸に御辛抱の御樣子故御案じ被成間敷候(なさるまじくそろ)」云々(しか/″\)と云ふ一節がある。此清右衞門と云ふ人の事蹟は、棠園さんの手許でも猶(なほ)不明の廉(かど)があるさうである。しかし大概はわかつてゐる。□堂の同家に桑原清右衞門と云ふ人があつた。同家とのみで本末は明白でない。清右衞門は名を公綽(こうしやく)と云つた。江戸に往つて、仙石家に仕へ、用人になつた。當時の仙石家は但馬國出石郡(たじまのくにいづしごほり)出石の城主仙石道之助久利(ひさとし)の世である。清右衞門は仙石家に仕へて、氏名を原逸(はや)一と更(あらた)めた。頗(すこぶ)る氣節のある人で、和歌を善くし、又畫を作つた。畫の號は南田である。晩年には故郷に歸つて、明治の初年に七十餘歳で歿したさうである。文政十一年の二月は此清右衞門が奉公口に有り附いた當座であつたのではあるまいか。氣節のある人が志を得ないでゐたのに、昨今どうやらかうやら辛抱してゐると云ふやうに、壽阿彌の文は讀まれるのである。
 次の一節は頗る長く、大窪天民と喜多可庵との直話(ぢきわ)を骨子として、逐年物價が騰貴し、儒者畫家などの金を獲(う)ることも容易ならず、束脩(そくしう)謝金の高くなることを言つたものである。
 大窪天民は、「客歳(かくさい)」と云つてあるから文政十年に、加賀から大阪へ旅稼(たびかせぎ)に出たと見える。天民の收入は、江戸に居つても「一日に一分や一分二朱」は取れるのである。それが加賀へ往つたが、所得は「中位」であつた。それから「どつと當るつもり」で大阪へ乘り込んだ。大阪では佐竹家藏屋敷(くらやしき)の役人等が周旋して大賈(たいこ)の書を請ふものが多かつた。然るに天民は出羽國秋田郡久保田の城主佐竹右京大夫義厚(よしひろ)の抱への身分で、佐竹家藏屋敷の役人が「世話を燒いてゐる」ので、町人共が「金子の謝禮はなるまいとの間(かん)ちがひ」をしたので、ここも所得は少かつた。此旅行は「都合日數二百日にて、百兩ばかり」にはなつた。「一日が二分ならし」である。これでは江戸にゐると大差はなく、「出かけただけが損」だと云つてある。

     五

 天民が加賀から歸る途中の事に就て、壽阿彌はかう云つてゐる。「加賀の歸り高堂の前をば通らねばならぬ處ながら、直通(すぐどほ)りにて、其夜は雲嶺へ投宿のやうに申候、是は一杯飮む故なるべし。」天民の上戸(じやうご)は世の知る所である。此文を見れば、雲嶺も亦酒を嗜(たし)んだことがわかり、又□堂が下戸であつたことがわかる。雲嶺は石野氏、名は世彜(せいい)、一に世夷(せいい)に作る、字(あざな)は希之(きし)、別に天均又皆梅(かいばい)と號した。亦(また)駿河の人で詩を善くした。皇朝分類名家絶句等に其作が載せてある。
 皇朝分類名家絶句の事は、わたくしは初め萩野由之(はぎのよしゆき)さんに質(たゞ)して知つた。これがわたくしの雲嶺の石野氏なることを知つた始である。後にわたくしは拙堂文集を讀んでふと「皆梅園記」を見出だした。齋藤拙堂はかう云つてゐる。「老人姓石氏(らうじんのせいはせきし)。本爲市井人(もとしせいじんたり)。住藤枝驛(ふぢえだえきにすむ)。風流温藉(ふうりうにしてをんせき)。以善詩聞於江湖上(しをよくするをもつてこうこのうえにきこゆ)。庚子歳余東征(かのえねのとしよとうせいす)。過憩驛亭相見(すぎてえきていにいこひあひまみゆ)。間晤半日(かんごはんじつ)。知其名不虚(そのなのきよならざるをしる)。爾來毎門下生往來過驛(じらいもんかせいのわうらいしてえきをすぐるごとに)。輙囑訪老人(すなはちしよくしてらうじんをとはしめ)。得其近作以覽觀焉(そのきんさくをえてもつてらんくわんす)。去年夏余復東征(きよねんなつよまたとうせいす)。宿驛亭(えきていにしゆくし)。首問老人近状(はじめにらうじんのきんじやうをとふ)。驛吏曰(えきりいはく)。數年前辭市務(すうねんぜんしむをじし)。老於孤山下村(ひとりやましたむらにおゆと)。余即往訪之(よすなはちゆきてこれをとふ)。從驛中左折數武(えきちゆうよりさせつしてすうぶ)。槐花滿地(くわいくわちにみつ)。既覺非尋常行蹊(すでにしてじんじやうのかうけいにあらざるをさとる)。竹籬茅屋間(ちくりばうをくのかん)。得門而入(もんをえている)。老人大喜(らうじんおほいによろこぶ)。迎飮於其舍(むかへられてそのしやにいんす)。園數畝(えんすうほ)。經營位置甚工(けいえいのゐちはなはだたくみなり)。皆出老人之意匠(みならうじんのいしやうにいづ)。有菅神廟林仙祠(くわんしんべうりんせんしあり)。各奉祀其主(おのおのそのしゆをほうしす)。有賜春館(ししゆんくわんあり)。傍植東叡王府所賜之梅(かたはらにとうえいわうふたまふところのうめをうう)。其他皆以梅爲名(そのほかみなうめをもつてなとなす)。有小香國鶴避茶寮鶯逕戞玉泉等勝(せうかうこくかくひされうあうけいかつぎよくせんとうのしようあり)。前對巖田洞雲二山(まへはがんでんどううんにざんにたいし)。風煙可愛(ふうえんあいすべく)。使人徘徊賞之(ひとをしてはいくわいしこれをしやうせしむ)。」庚子(かうし)は天保十一年で、拙堂は藤堂高猷(たかゆき)に扈隨(こずゐ)して津から江戸に赴(おもむ)いたのであらう。記を作つたのは安政中の事かとおもはれる。
 天民の年齡は、市河三陽さんの言(こと)に從へば、明和四年生で天保八年に七十一歳を以て終つたことになるから、加賀大阪の旅は六十一歳の時であつた。素通りをせられた□堂は四十四歳であつた。
 喜多可庵の直話を壽阿彌が聞いて書いたのも、天民と五山との詩の添削料(てんさくれう)の事である。これは首尾の整つた小品をなしてゐるから、全文を載せる。「畫人武清上州桐生(きりふ)に遊候時(あそびそろとき)、桐生の何某(なにがし)申候には、數年玉池(ぎよくち)へ詩を直してもらひに遣(つかは)し候(さふら)へ共(ども)、兎角(とかく)斧正(ふせい)□漏(そろう)にて、時として同字などある時もありてこまり申候、これよりは五山へ願可申候間(ねがひまうすべくそろあひだ)、先生御紹介可被下(くださるべく)と頼候時、武清申候には、隨分承知致候、歸府の上なり共、當地より文通にてなり共、五山へ可申込候(まうしこむべくそろ)、しかしながら爰(こゝ)に一つの譯合あり、謝物が薄ければ、疎漏(そろう)は五山も同じ事なるべし、矢張馴染(なじみ)の天民へ氣を附て謝物をするがよささうな物と申てわらひ候由、武清はなしに御座候。」武清は可庵の名である。又笑翁とも號した。文晁(ぶんてう)門で八丁堀に住んでゐた。安永五年生で安政三年に八十一歳で歿した人だから、此話を壽阿彌に書かれた時が五十三歳であつた。玉池は天民がお玉が池に住したからの稱である。菊池五山は壽阿彌と同じく明和六年生で、嘉永二年に八十一歳で歿したから、天民よりは二つの年下で、壽阿彌がこれを書いた時六十歳になつてゐた。
 壽阿彌は天民の話と可庵の話とを書いて、さて束脩(そくしう)の高くなつたことを言つてゐる。其文はかうである。「近年役者の給金のみならず、儒者の束脩までが高くなり、天民貧道など奚疑塾(けいぎじゆく)に居候時分、百疋(ひき)持た弟子入(でしいり)が參れば、よい入門と申候物が、此頃は天でも五山でも、二分(ぶ)の弟子入はそれ程好いとは思はず、流行はあぢな物に御座候。」壽阿彌は天民と共に山本北山に從學した。奚疑塾は北山の家塾である。北山は寛延三年生で文化九年に六十一歳で歿したから、束脩百疋の時代は、恐らくはまだ二十に滿たぬ天民、壽阿彌が三十幾歳の北山に師事した天明の初年であらう。此手紙は北山歿後十六年に書かれたのである。天は天民の後略である。
 次は壽阿彌が怪我をして名倉の治療を受けた記事になつてゐる。怪我をした時、場所、容體、名倉の診察、治療、名倉の許(もと)で邂逅(かいこう)した怪我人等が頗る細かに書いてある。
 時は文政十年七月末で、壽阿彌は姪(をひ)の家の板の間から落ちた。そして兩腕を傷(いた)めた。「骨は不碎候(くだけずさふら)へ共、兩腕共強く痛め候故」云々(しか/″\)と云つてある。

     六

 壽阿彌が怪我をした家は姪(をひ)の家ださうで、「愚姪方(ぐてつかた)」と云つてある。此姪は其名を詳(つまびらか)にせぬが、尋常の人では無かつたらしい。
 壽阿彌の姪は茶技(ちやき)には餘程精(くは)しかつたと見える。同じ手紙の末にかう云つてある。「近況茶事御取出しの由(よし)川上宗壽(そうじゆ)、三島の鯉昇(りしよう)などより傳聞仕候(つかまつりそろ)、宗壽と申候者風流なる人にて、平家をも相應にかたり、貧道は連歌にてまじはり申候、此節江戸一の茶博士に御座候て、愚姪など敬伏仕り居候事に御座候。」これは□堂が一たびさしおいた茶を又弄(もてあそ)ぶのを、宗壽、鯉昇等に聞いたと云つて、それから宗壽の人物評に入り、宗壽を江戸一の茶博士と稱へ、姪も敬服してゐると云つたのである。
 川上宗壽は茶技の聞人(ぶんじん)である。宗壽は宗什(そうじふ)に學び、宗什は不白に學んだ。安永六年に生れ、弘化元年に六十八歳で歿したから、此手紙の書かれた時は五十二歳である。壽阿彌は姪が敬服してゐると云ふを以て、此宗壽の重きをなさうとしてゐる。姪は餘程茶技に精(くは)しかつたものとしなくてはならない。手紙に宗壽と並べて擧げてある三島の鯉昇は、その何人たるを知らない。
 壽阿彌は兩腕の打撲(うちみ)を名倉彌次兵衞に診察して貰つた。「はじめ參候節に、彌次兵衞申候は、生得(しやうとく)の下戸(げこ)と、戒行の堅固な處と、氣の強い處と、三つのかね合故(あひゆゑ)、目をまはさずにすみ申候、此三つの内が一つ闕候(かけさふらう)ても目をまはす怪我にて、目をまはす程にては、療治も二百日餘り懸(かゝ)り可申(まうすべく)、目をばまはさずとも百五六十日の日數を經ねば治しがたしと申候。」流行醫の口吻(こうふん)、昔も今も殊(こと)なることなく、實に其聲を聞くが如くである。
 壽阿彌は文政十年七月の末に怪我をして、其時から日々名倉へ通つた。「極月(ごくげつ)末までかゝり申候」と云つてあるから、五箇月間通つたのである。さて翌年二月十九日になつても、「今以而(いまもつて)全快と申には無御座候而(ござなくさふらうて)、少々麻痺(まひ)仕候氣味に御座候へ共、老體のこと故、元の通りには所詮(しよせん)なるまいと、其(その)儘(まゝ)に而(て)此節は療治もやめ申候」と云ふ轉歸である。
 手紙には當時の名倉の流行が叙してある。「元大阪町名倉彌次兵衞(やじべゑ)と申候而、此節高名の骨接(ほねつぎ)醫師、大(おほい)に流行にて、日々八十人九十人位づゝ怪我人參候故、早朝參候而も順繰に待居候間、終日かゝり申候。」流行醫の待合の光景も亦古今同趣である。次(つい)で壽阿彌が名倉の家に於て邂逅(かいこう)した人々の名が擧げてある。「岸本□園(ざいゑん)、牛込の東更(とうかう)なども怪我にて參候、大塚三太夫息八郎と申人も名倉にて邂逅(かいこう)、其節御噂(おんうはさ)も申出候。」やまぶきぞのの岸本由豆流(ゆづる)は寛政元年に生れ、弘化三年に五十八歳で歿したから、壽阿彌に名倉で逢つた文政十年には三十九歳である。通稱は佐々木信綱さんに問ふに、大隅(おほすみ)であつたさうであるが、此年の武鑑御弦師(おんつるし)の下(もと)には、五十俵白銀(しろかね)一丁目岸本能聲と云ふ人があるのみで、大隅の名は見えない。能聲と大隅とは同人か非か、知る人があつたら教へて貰ひたい。牛込の東更は艸體(さうたい)の文字が不明であるから、讀み誤つたかも知れぬが、その何人たるを詳(つまびらか)にしない。大塚父子も未だ考へ得ない。

     七

 壽阿彌は怪我の話をして、其末には不沙汰(ぶさた)の詫言(わびこと)を繰り返してゐる。「怪我旁(かた/″\)」で疎遠に過したと云ふのである。此詫言に又今一つの詫言が重ねてある。それは例年には品物を贈るに、今年は「から手紙」を遣ると云ふので、理由としては「御存知の丸燒後萬事不調」だと云ふことが言つてある。
 壽阿彌の家の燒けたのは、いつの事か明かでない。又その燒けた家もどこの家だか明かでない。しかし試(こゝろみ)に推測すればかうである。眞志屋(ましや)の菓子店は新石町にあつて、そこに壽阿彌の五郎作は住んでゐた。此家が文政九年七月九日に松田町から出て、南風でひろがつた火事に燒けた。これが手紙に所謂(いはゆる)丸燒である。さて其跡に建てた家に姪(をひ)を住まはせて菓子を賣らせ、壽阿彌は連歌仲間の淺草の日輪寺其阿が所に移つた。しかし折々は姪の店にも往つてとまつてゐた。怪我をしたのはさう云ふ時の事である。わたくしの推測は、單に此(かく)の如(ごと)くに説くときは、餘りに空漠(くうばく)であるが、下(しも)にある文政十一年の火事の段と併(あは)せ考ふるときは、稍(やゝ)プロバビリテエが増して來るのである。
 次に遊行上人(いうぎやうしやうにん)の事が書いてある。手紙を書いた文政十一年三月十日頃に、遊行上人は駿河國志太郡燒津(するがのくにしだごほりやいづ)の普門寺に五日程、それから駿河本町の一華堂に七日程留錫(りうしやく)する筈(はず)である。さて島田驛の人は定めて普門寺へ十念を受けに往くであらう。□堂の親戚(しんせき)が往く時雜□(ざつたふ)のために困(くるし)まぬやうに、手紙と切手とを送る。最初に往く親戚は手紙と切手とを持つて行くが好い。手紙は普門寺に宛てたもので、中には證牛と云ふ僧に世話を頼んである。證牛は壽阿彌の弟子である。切手は十念を受ける時、座敷に通す特待券である。二度目からは切手のみを持つて行つて好いと云ふのである。壽阿彌は時宗の遊行派に縁故があつたものと見えて、海録にも山崎美成が遊行上人の事を壽阿彌に問うて書き留めた文がある。
 次に文政十一年二月五日の神田の火事が「本月五日」として叙してある。手紙を書く十四日前の火事である。單に二月十九日とのみ日附のしてある此手紙を、文政十一年のものと定めるには、此記事だけでも足るのである。火の起つたのは、武江年表に暮六時(くれむつどき)としてあるが、此手紙には「夜五つ時分」としてある。火元は神田多町二丁目湯屋の二階である。これは二階と云ふだけが、手紙の方が年表より委(くは)しい。年表には初め東風、後北風としてあるのに、手紙には「風もなき夜」としてある。恐くは微風であつたのだらう。
 延燒の町名は年表と手紙とに互に出入がある。年表には「東風にて西神田町一圓に類燒し、又北風になりて、本銀町(ほんしろかねちやう)、本町(ほんちやう)、石町(こくちやう)、駿河町(するがちやう)、室町(むろまち)の邊に至り、夜亥(ゐ)の下刻(げこく)鎭(しづ)まる」と云つてある。手紙には「西神田はのこらず燒失、北は小川町へ燒け出で、南は本町一丁目片かは燒申候、(中略)町數七十丁餘、死亡の者六十三人と申候ことに御座候」と云つてある。
 わたくしの前に云つた推測は、壽阿彌が姪の家と此火事との關係によつてプロバビリテエを増すのである。手紙に「愚姪方(ぐてつかた)は大道一筋の境にて東神田故、此(この)度(たび)は免れ候へ共、向側は西神田故過半燒失仕り候」と云つてある。わたくしはこの姪の家を新石町だらうと推するのである。

     八

 文政十一年二月五日に多町二丁目から出た火事に、大道一筋を境にして東側にあつて類燒を免れた家は、新石町にあつたとするのが殆ど自然であらう。新石町は諸書に見えてゐる眞志屋の菓子店のあつた街である。そこから日輪寺方へ移る時、壽阿彌は菓子店を姪に讓つたのだらう、其時昔の我店が「愚姪方」になつたのだらうと云ふ推測は出て來るのである。
 壽阿彌は若(も)し此火事に姪の家が燒けたら、自分は無宿になる筈であつたと云つてゐる。「難澁之段愁訴可仕(しうそつかまつるべき)水府も、先達而(せんだつて)丸燒故難澁申出候處無之、無宿に成候筈」云々(うんぬん)と云つてゐる。これは此手紙の中の難句で、句讀(くとう)次第でどうにも讀み得られるが、わたくしは水府もの下で切つて、丸燒は前年七月の眞志屋の丸燒を斥(さ)すものとしたい。既に一たび丸燒のために救助を仰いだ水戸家に、再び愁訴することは出來ぬと云ふ意味だとしたい。なぜと云ふに丸燒故の下で切ると、水府が丸燒になつたことになる。當時の水戸家は上屋敷が小石川門外、中屋敷が本郷追分、目白の二箇所、下屋敷が永代新田(えいたいしんでん)、小梅村の二箇所で、此等は火事に逢つてゐないやうである。壽阿彌が水戸家の用達(ようたし)商人であつたことは、諸書に載せてある通りである。
 壽阿彌の手紙には、多町(たちやう)の火事の條下に、一の奇聞が載せてある。此(こゝ)に其全文を擧げる。「永富町(ながとみちやう)と申候處の銅物屋(かなものや)大釜(おほがま)の中にて、七人やけ死申候、(原註、親父(おやぢ)一人、息子(むすこ)一人、十五歳に成候見せの者一人、丁穉(でつち)三人、抱への鳶(とび)の者一人)外に十八歳に成候見せの者一人、丁穉一人、母一人、嫁一人、乳飮子一人、是等は助り申候、十八歳に成候者愚姪方(ぐてつかた)にて去暮迄(さるくれまで)召仕候女の身寄之者、十五歳に成候者(なりそろは)愚姪方へ通ひづとめの者の宅の向ふの大工の伜(せがれ)に御坐候、此銅物屋の親父夫婦貪慾(どんよく)強情にて、七年以前見(み)せの手代一人土藏の三階にて腹切相果申候、此度は其恨なるべしと皆人申候、銅物屋の事故大釜二つ見せの前左右にあり、五箇年以前此邊出火之節、向ふ側計(ばかり)燒失にて、道幅も格別廣き處故、今度ものがれ可申(まうすべく)、さ候はば外へ立のくにも及ぶまじと申候に、鳶の者もさ樣に心得、いか樣にやけて參候とも、此大釜二つに水御坐候故、大丈夫助り候由に受合申候、十八歳に成候男は土藏の戸前をうちしまひ、是迄(これまで)はたらき候へば、私方は多町一丁目にて、此所(ここ)よりは火元へも近く候間、宅へ參り働き度、是より御暇被下(おんいとまくださ)れと申候て、自分親元へ働に歸り候故助り申候、此者の一處に居候間の事は演舌にて分り候へども、其跡は推量に御坐候へ共、とかく見(み)せ藏(ぐら)、奧藏などに心のこり、父子共に立のき兼、鳶の者は受合旁故(かた/″\ゆえ)彼是(かれこれ)仕候内に、火勢強く左右より燃かかり候故、そりや釜の中(うち)よといふやうな事にて釜へ入候處、釜は沸上(わきあが)り、烟(けぶ)りは吹かけ、大釜故入るには鍔(つば)を足懸りに入候へ共、出るには足がかりもなく、釜は熱く成旁(かた/″\)にて死に候事と相見え申候、母と嫁と小兒と丁穉一人つれ、貧道弟子杵屋(きねや)佐吉が裏に親類御坐候而夫(それ)へ立退(たちのき)候故助り申候、一つの釜へ父子と丁穉一人、一つの釜へ四人入候て相果申候、此事大評判にて、釜は檀那寺(だんなでら)へ納候へ共、見物夥敷(おびたゞしく)參候而不外聞の由にて、寺にては(自註、根津忠綱寺(ちゆうかうじ)一向宗)門を閉候由に御坐候、死の縁無量とは申ながら、餘り變なることに御坐候故、御覽も御面倒なるべくとは奉存(ぞんじたてまつり)候へ共書付申候。」

     九

 此銅物屋(かなものや)は屋號三文字屋であつたことが、大郷信齋の道聽途説(だうていとせつ)に由つて知られる。道聽途説は林若樹(わかき)さんの所藏の書である。
 釜の話は此手紙の中で最も欣賞(きんしやう)すべき文章である。叙事は精緻(せいち)を極めて一の剩語(じようご)をだに著けない。實に據(よ)つて文を行(や)る間に、『そりや釜の中よ』以下の如き空想の發動を見る。壽阿彌は一部の書をも著(あらは)さなかつた。しかしわたくしは壽阿彌がいかなる書をも著はすことを得る能文の人であつたことを信ずる。
 次に笛(ふえ)の彦七(ひこしち)と云ふものと、坂東彦三郎とのコンプリマンを取り次いでゐる。彦七はその何人なるを考へることが出來ない。しかし「祭禮の節は不相變御厚情蒙(あひかはらずごこうせいかうむ)り難有由時々申出候(ありがたきよしじゞまうしいでそろ)」と云つてあるから、江戸から神樂(かぐら)の笛を吹きに往く人であつたのではなからうか。
「坂東彦三郎も御噂申出(おんうはさまうしいで)、兎角(とかく)駿河へ參りたい/\と計(ばかり)申居候」の句は、人をして十三驛取締の勢力をしのばしむると同時に、□堂の襟懷をも想(おも)ひ遣(や)らせる。彦三郎は四世彦三郎であることは論を須(ま)たない。寛政十二年に生れて、明治六年に七十四歳で歿した人だから、此手紙の書かれた時二十九歳になつてゐた。「去(さる)夏狂言評好く拙作の所作事(しよさごと)勤候處、先づ勤めてのき候故、去顏見せには三座より抱へに參候仕合故(しあはせゆゑ)、まづ役者にはなりすまし申候。」彦三郎を推稱する語の中に、壽阿彌の高く自ら標置してゐるのが窺(うかゞ)はれて、頗る愛敬がある。
 次に茶番流行の事が言つてある。これは「別に書付御覽に入候」と云つてあるが、別紙は佚亡(いつばう)してしまつた。
「何かまだ申上度儀御座候やうながら、あまり長事(ながきこと)故、まづ是にて擱筆(かくひつ)、奉待後鴻候(こうこうをまちたてまつりそろ)頓首(とんしゆ)。」此に二月十九日の日附があり、壽阿と署してある。宛(あて)は□堂先生座右としてある。
 次に□堂の親戚及同驛の知人に宛てたコンプリマンが書き添へてある。其中に「小右衞門殿へも宜しく」と特筆してあるから、試に棠園(たうゑん)さんに小右衞門の誰なるかを問うて見たが、これはわからなかつた。
 壽阿彌は此等の人々に一々書を裁するに及ばぬ分疏(いひわけ)に、「府城、沼津、燒津等所々認(しよ/\したゝめ)候故、自由ながら貴境は先生より御口達奉願候(ねがひたてまつりそろ)」と云つてゐる。わたくしは筆不精ではないが、手紙不精で、親戚故舊に不沙汰ばかりしてゐるので、讀んで此(こゝ)に到つた時壽阿彌のコルレスポンダンスの範圍に驚かされた。
 壽阿彌の生涯は多く暗黒の中(うち)にある。抽齋文庫には秀鶴册子(しうかくさうし)と劇神仙話とが各(おの/\)二部あつて、そのどれかに抽齋が此人の事を手記して置いたさうである。青々園伊原さんの言(こと)に、劇神仙話の一本は現に安田横阿彌(よこあみ)さんの藏※(ざうきよ)[#「去/廾」、204-下-9]する所となつてゐるさうである。若し其本に壽阿彌が上に光明を投射する書入がありはせぬか。
 抽齋文庫から出て世間に散らばつた書籍の中(うち)、演劇に關するものは、意外に多く横阿彌さんの手に拾ひ集められてゐるらしい。珍書刊行會は曾(かつ)て抽齋の奧書のある喜三二が隨筆を印行したが、大正五年五月に至つて、又飛蝶(ひてふ)の劇界珍話と云ふものを收刻した。前者は無論横阿彌さんの所藏本に據つたものであらう。後者に署してある名の飛蝶は、抽齋の次男優善(やすよし)後の優(ゆたか)が寄席(よせ)に出た頃看板に書かせた藝名である。劇界珍話は優善の未定稿が澀江氏から安田氏の手にわたつてゐて、それを刊行會が謄寫したものではなからうか。

     十

 壽阿彌の生涯は多く暗黒の中にある。寫本刊本の文獻に就てこれを求むるに、得る所が甚だ少い。然るにわたくしは幸に一人の活きた典據を知つてゐる。それは伊澤蘭軒(らんけん)の嗣子榛軒(しんけん)の女(むすめ)で、棠軒の妻であつた曾能子刀自(そのことじ)である。刀自は天保六年に生れて大正五年に八十二歳の高齡を保つてゐて、耳も猶(なほ)聰(さと)く、言舌も猶さわやかである。そして壽阿彌の晩年の事を實驗して記憶してゐる。
 刀自の生れた天保六年には、壽阿彌は六十七歳であつた。即ち此手紙が書かれてから七年の後に、刀自は生れたのである。刀自が四五歳の頃は壽阿彌が七十か七十一の頃で、それから刀自が十四歳の時に壽阿彌が八十で歿するまで、此畸人(きじん)の言行は少女の目に映じてゐたのである。
 刀自の最も古い記憶として遺つてゐるのは壽阿彌の七十七の賀で、刀自が十一歳になつた弘化二年の出來事である。此賀は刀自の父榛軒が主として世話を燒いて擧行したもので、歌を書いた袱紗(ふくさ)が知友の間に配られた。
 次に壽阿彌の奇行が穉(をさな)かつた刀自に驚異の念を作(な)さしめたことがある。それは壽阿彌が道に溺(いばり)する毎に手水(てうづ)を使ふ料にと云つて、常に一升徳利に水を入れて携へてゐた事である。
 わたくしは前に壽阿彌の托鉢(たくはつ)の事を書いた。そこには一たび假名垣魯文(かながきろぶん)のタンペラマンを經由して寫された壽阿彌の滑稽(こつけい)の一面のみが現れてゐた。劇通で芝居の所作事(しよさごと)をしくんだ壽阿彌に斯(かく)の如き滑稽のあつたことは怪むことを須(もち)ゐない。
 しかし壽阿彌の生活の全體、特にその僧侶(そうりよ)としての生活が、啻(たゞ)に滑稽のみでなかつたことは、活きた典據に由つて證せられる。少時の刀自の目に映じた壽阿彌は眞面目(しんめんぼく)の僧侶である。眞面目の學者である。只(たゞ)此僧侶學者は往々人に異なる行を敢(あへ)てしたのである。
 壽阿彌は刀自の穉(をさな)かつた時、伊澤の家へ度々來た。僧侶としては毎月十七日に闕(か)かさずに來た。これは此手紙の書かれた翌年、文政十二年三月十七日に歿した蘭軒の忌日(きにち)である。此日には刀自の父榛軒が壽阿彌に讀經(どきやう)を請ひ、それが畢(をは)つてから饗應して還(かへ)す例になつてゐた。饗饌(きやうぜん)には必ず蕃椒(たうがらし)を皿(さら)に一ぱい盛つて附けた。壽阿彌はそれを剩(あま)さずに食べた。「あの方は年に馬に一駄(だ)の蕃椒を食べるのださうだ」と人の云つたことを、刀自は猶記憶してゐる。壽阿彌の著てゐたのは木綿の法衣(ほふえ)であつたと刀自は云ふ。
 壽阿彌に請うて讀經せしむる家は、獨り伊澤氏のみではなかつた。壽阿彌は高貴の家へも囘向(ゑかう)に往き、素封家(そほうか)へも往つた。刀自の識つてゐた範圍では、飯田町あたりに此人を請(しやう)ずる家が殊(こと)に多かつた。
 壽阿彌は又學者として日を定めて伊澤氏に請ぜられた。それは源氏物語の講釋をしに來たのである。此講筵(かうえん)も亦獨り伊澤氏に於て開かれたのみではなく、他家でも催されたさうである。刀自は壽阿彌が同じ講釋をしに永井えいはく方へ往くと云ふことを聞いた。
 永井えいはくは何人なるを詳(つまびらか)にしない。醫師か、さなくば所謂(いはゆる)お坊主などで、武鑑に載せてありはせぬかと思つて檢したが、見當らなかつた。表坊主に横井榮伯があつて、氏名が稍(やゝ)似てゐるが、これは別人であらう。或(あるひ)は想ふに、永井氏は諸侯の抱(かゝへ)醫師若(もし)くは江戸の町醫ではなからうか。

     十一

 壽阿彌が源氏物語の講釋をしたと云ふことに因(ちな)んだ話を、伊澤の刀自は今一つ記憶してゐる。それはかうである。或時人々が壽阿彌の噂をして、「あの方は坊さんにおなりなさる前に、奧さんがおありなさつたでせうか」と誰やらが問うた。すると誰やらが答へて云つた。「あの方は己(おれ)に源氏のやうな文章で手紙を書いてよこす女があると、己はすぐ女房に持つのだがと云つて入らつしやつたさうです。しかしさう云ふ女がとう/\無かつたと云ふことです。」此話に由つて觀れば、五郎作は無妻であつたと見える。五郎作が千葉氏の女壻(ぢよせい)になつて出されたと云ふ、喜多村□庭(ゐんてい)の説は疑はしい。
 壽阿彌は伊澤氏に來ても、囘向(ゑかう)に來た時には雜談などはしなかつた。しかし講釋に來た時には、事果てゝ後に暫(しばら)く世間話をもした。刀自はそれに就いてかう云ふ。「惜しい事には其時壽阿彌さんがどんな話をなさつたやら、わたくしは記(おぼ)えてゐません。どうも石川貞白さんなどのやうに、子供の面白がるやうな事を仰(おつし)やらなかつたので、後にはわたくしは餘り其席へ出ませんでした。」石川貞白は伊澤氏と共に福山の阿部家に仕へてゐた醫者である。當時阿部家は伊勢守正弘(いせのかみまさひろ)の代であつた。
 刀自は壽阿彌の姪(をひ)の事をも少し知つてゐる。姪は五郎作の妹の子であつた。しかし恨むらくは其名を逸した。刀自の記憶してゐるのは蒔繪師(まきゑし)としての姪の號で、それはすゐさいであつたさうである。若し其文字を知るたつきを得たら、他日訂正することゝしよう。壽阿彌が蒔繪師の株を貰(もら)つたことがあると云ふ□庭(ゐんてい)の説は、これを誤り傳へたのではなからうか。
 刀自の識つてゐた頃には、壽阿彌は姪に御家人の株を買つて遣つて、淺草菊屋橋の近所に住はせてゐた。其株は扶持(ふち)が多く附いてゐなかつたので、姪は内職に蒔繪をしてゐたのださうである。
 或るとき伊澤氏で、蚊母樹(いすのき)で作つた櫛(くし)を澤山に病家から貰つたことがある。榛軒は壽阿彌の姪に誂(あつら)へて、それに蒔繪をさせ、知人(しるひと)に配つた。「大そう牙(は)の長い櫛でございましたので、其(その)比(ころ)の御婦人はお使なさらなかつたさうです、今なら宜しかつたのでせう」と刀自は云つた。
 菊屋橋附近の家へは、刀自が度々榛軒に連れられて往つた。始て往つた時は十二歳であつたと云ふから、弘化三年に壽阿彌が七十七歳になつた時の事である。其頃からは壽阿彌は姪と同居してゐて、とう/\其家で亡くなつた。刀自はそれが盂蘭盆(うらぼん)の頃であつたと思ふと云ふ。嘉永元年八月二十九日に歿したと云ふ記載と、略(ほゞ)符合してゐる。
 壽阿彌の姪が茶技(ちやき)に精(くは)しかつたことは、伯父(をぢ)の手紙に徴して知ることが出來るが、その蒔繪を善(よ)くしたことは、刀自の話に由つて知られる。其他蒔繪師としての號をすゐさいと云つたこと、壽阿彌がためには妹の子であつたこと、御家人であつたこと等の分かつたのも、亦(また)刀自の賜である。
 最後に殘つてゐるのは、壽阿彌と水戸家との關係である。壽阿彌が水戸家の用達(ようたし)であつたと云ふことは、諸書に載せてある。しかし兩者の關係は必ず此用達の名義に盡きてゐるものとも云ひ難(にく)い。
 新石町の菓子商なる五郎作は富豪の身の上ではなかつたらしい。それがどうして三家の一たる水戸家の用達になつてゐたか。又剃髮(ていはつ)して壽阿彌となり、幕府の連歌師の執筆にせられてから後までも、どうして水戸家との關係が繼續せられてゐたか。これは稍(やゝ)暗黒なる一問題である。

     十二

 何故(なにゆえ)に生涯富人(ふうじん)ではなかつたらしい壽阿彌が水戸家の用達と呼ばれてゐたかと云ふ問題は、單に彼(かの)海録に見えてゐる如く、數代前から用達を勤めてゐたと云ふのみを以て解釋し盡されてはゐない。水戸家が此用達を待つことの頗る厚かつたのを見ると、問題は一層の暗黒を加ふる感がある。
 手紙の記(しる)す所を見るに、壽阿彌が火事に遭(あ)つて丸燒になつた時、水戸家は十分の保護(はうご)を加へたらしい。それゆゑ壽阿彌は再び火事に遭つて、重ねて救を水戸家に仰ぐことを憚(はゞ)かつたのである。これは水戸家の一の用達に對する處置としては、或は稍(やゝ)厚きに過ぎたものと見るべきではなからうか。
 且壽阿彌の經歴には、有力者の渥(あつ)き庇保(ひはう)の下(もと)に立つてゐたのではなからうかと思はれる節が、用達問題以外にもある。久しく連歌師の職に居つたのなどもさうである。啻(たゞ)に其職に居つたと云ふのみではない。わたくしは壽阿彌が曇□(どんてう)と號したのは、芝居好であつたので、緞帳(どんちやう)の音に似た文字を選んだものだらうと云ふことを推する。然るに此號が立派に公儀に通つて、年久しく武鑑の上に赫(かゞや)いてゐたのである。
 次に澀江保さんに聞く所に依るに、壽阿彌は社會一般から始終一種の尊敬を受けてゐて、誰も蔭で「壽阿彌が」云々(しか/″\)したなどと云ふものはなく、必ず「壽阿彌さんが」と云つたものださうである。これも亦仔細のありさうな事である。
 次に壽阿彌は微官とは云ひながら公儀の務をしてゐて、頻繁に劇場に出入し、俳優と親しく交り、種々の奇行があつても、曾(かつ)て咎(とがめ)を被(かうむ)つたことを聞かない。これも其類例が少からう。
 此等の不思議の背後には、一の巷説があつて流布せられてゐた。それは壽阿彌は水戸侯の落胤(らくいん)ださうだと云ふのであつた。此巷説は保さんも母五百に聞いてゐる。伊澤の刀自も知つてゐる。當時の社會に於ては所謂公然の祕密の如きものであつたらしい。「なんでも卑しい女に水戸樣のお手が附いて下げられたことがあるのださうでございます。菓子店を出した時、大名よりは増屋(ましや)だと云ふ意(こゝろ)で屋號を附けたと聞いてゐます」と、刀自は云ふ。
 わたくしはこれに關して何の判斷を下すことも出來ない。しかし眞志屋と云ふ屋號の異樣なのには、わたくしは初より心附いてゐた。そして刀自の言(こと)を聞いた時、なるほどさうかと頷(うなづ)かざることを得なかつた。兎(と)に角(かく)眞志屋と云ふ屋號は、何か特別な意義を有してゐるらしい。只その水戸家に奉公してゐたと云ふ女は必ずしも壽阿彌の母であつたとは云はれない。其女は壽阿彌の母ではなくて、壽阿彌の祖先の母であつたかも知れない。海録に據れば、眞志屋は數代菓子商で、水戸家の用達をしてゐたらしい。隨つて落胤問題も壽阿彌の祖先の身の上に歸著するかも知れない。
 若し然らずして、嘉永元年に八十歳で歿した壽阿彌自身が、彼(かの)疑問の女の胎内に舍(やど)つてゐたとすると、壽阿彌の父は明和五六年の交に於ける水戸家の當主でなくてはならない。即ち水戸參議治保(はるもり)でなくてはならない。

     十三

 わたくしは壽阿彌の手紙と題する此文を草して將(まさ)に稿を畢(をは)らむとした。然るに何となく心に慊(あきたら)ぬ節(ふし)があつた。何事かは知らぬが、當(まさ)に做(な)すべくして做さざる所のものがあつて存する如くであつた。わたくしは前段の末に一の終の字を記すことを猶與(いうよ)した。
 そしてわたくしはかう思惟(しゆゐ)した。わたくしは壽阿彌の墓の所在を知つてゐる。然るに未(いま)だ曾(かつ)て往(ゆ)いて訪(とぶら)はない。數(しば/\)其名を筆にして、其文に由つて其人に親みつゝ、程近き所にある墓を尋ぬることを怠つてゐるのは、遺憾とすべきである。兎に角一たび往つて見ようと云ふのである。
 雨の日である。わたくしは意を決して車を命じた。そして小石川傳通院の門外にある昌林院(しやうりんゐん)へ往つた。
 住持の僧は來意を聞いて答へた。昌林院の墓地は數年前に撤して、墓石の一部は傳通院の門内へ移し入れ、他の一部は洲崎へ送つた。壽阿彌の墓は前者の中にある。しかし柵(さく)が結(ゆ)つて錠が卸してあるから、雨中に詣(まう)づることは難儀である。幸に當院には位牌(ゐはい)があつて、これに記した文字は墓表と同じであるから佛壇へ案内して進ぜようと答へた。
 わたくしは問うた。「柵が結つてあると仰(おつし)やるのは、壽阿彌一人の墓の事ですか。それとも石塔が幾つもあつて、それに柵が結ひ繞(めぐ)らしてあるのですか。」これは眞志屋の祖先數代の墓があるか否かと思つて云つたのである。
「墓は一つではありません。藤井紋太夫の墓も、力士谷の音の墓もありますから。」
 わたくしは耳を欹(そばだ)てた。「それは思ひ掛けないお話です。藤井紋太夫だの谷の音だのが、壽阿彌に縁故のある人達だと云ふのですか。」
 僧は此間の消息を詳(つまびらか)にしてはゐなかつた。しかし昔から一つ所に葬つてあるから、縁故があるに相違なからうとの事であつた。
 わたくしは延(ひ)かれて位牌の前に往つた。壽阿彌の位牌には、中央に東陽院壽阿彌陀佛曇□和尚、嘉永元年戊申(ぼしん)八月二十九日と書し、左右に戒譽西村清常居士、文政三年庚寅(かういん)十二月十二日、松壽院妙眞日實信女、文化十二年乙亥(おつがい)正月十七日と書してある。
 僧は「こちらが谷の音です」と云つて、隣の位牌を指さした。神譽行義居士、明治二十一年十二月二日と書してある。
「藤井紋太夫のもありますか」と、わたくしは問うた。
「紋太夫の位牌はありません。誰も參詣(さんけい)するものがないのです。しかしこちらに戒名が書き附けてあります。」かう云つて紙牌を示した。光含院孤峯心了居士、元祿七年甲戌(かふじゆつ)十一月二十三日と書してある。
「では壽阿彌と谷の音とは參詣するものがあるのですね」と、わたくしは問うた。
「あります。壽阿彌の方へは牛込の藁店(わらだな)からお婆あさんが命日毎に參られます。谷の音の方へは、當主の關口文藏さんが福島にをられますので、代參に本所緑町の關重兵衞さんが來られます。」

     十四

 命日毎に壽阿彌の墓に詣(まう)でるお婆あさんは何人(なんぴと)であらう。わたくしの胸中には壽阿彌研究上に活きた第二の典據を得る望が萌(きざ)した。そこで僧には卒塔婆(そとば)を壽阿彌の墓に建てることを頼んで置いて、わたくしは藁店の家を尋ねることにした。
「藁店の角店(かどみせ)で小間物屋ですから、すぐにわかります」と、僧が教へた。
 小間物屋はすぐにわかつた。立派な手廣な角店で、五彩目を奪ふ頭飾(かみかざり)の類が陳(なら)べてある。店頭には、雨の盛に降つてゐるにも拘(かゝは)らず、蛇目傘(じやのめがさ)をさし、塗足駄(ぬりあしだ)を穿(は)いた客が引きも切らず出入してゐる。腰を掛けて飾を選んでゐる客もある。皆美しく粧つた少女のみである。客に應接してゐるのは、紺の前掛をした大勢の若い者である。
 若い者はわたくしの店に入るのを見て、「入らつしやい」の聲を發することを躊躇(ちうちよ)した。
 わたくしも亦忙しげな人々を見て、無用の間話頭を作(な)すを憚(はゞか)らざることを得なかつた。
 わたくしは若い丸髷(まるまげ)のお上(かみ)さんが、子を負(おぶ)つて門(かど)に立つてゐるのを顧みた。
「それ、雨こん/\が降つてゐます」などゝ、お上さんは背中の子を賺(すか)してゐる。
「ちよつと物をお尋ね申します」と云つて、わたくしはお上さんに來意を述べた。
 お上さんは怪訝(くわいが)の目を□(みは)つて聞いてゐた。そしてわたくしの語を解せざること良(やゝ)久しかつた。無理は無い。此(かく)の如き熱閙場裏(ねつたうぢやうり)に此の如き間言語(かんげんぎよ)を弄(ろう)してゐるのだから。
 わたくしが反復して説くに及んで、白い狹い額の奧に、理解の薄明がさした。そしてお上さんは覺えず破顏一笑した。
「あゝ。さうですか。ではあの小石川のお墓にまゐるお婆あさんをお尋なさいますのですね。」
「さうです。さうです。」わたくしは喜(よろこび)禁ずべからざるものがあつた。丁度外交官が談判中に相手をして自己の某主張に首肯せしめた刹那のやうに。
 お上さんは纖(ほそ)い指尖(ゆびさき)を上框(あがりがまち)に衝(つ)いて足駄を脱いだ。そして背中の子を賺(すか)しつゝ、帳場の奧に躱(かく)れた。
 代つて現れたのは白髮を切つて撫附(なでつけ)にした媼(おうな)である。「どうぞこちらへ」と云つて、わたくしを揮(さしまね)いた。わたくしは媼と帳場格子(ちやうばがうし)の傍(そば)に對坐した。
 媼(おうな)名は石(いし)、高野氏、御家人の女(むすめ)である。弘化三年生で、大正五年には七十一歳になつてゐる。少(わか)うして御家人師岡(もろをか)久次郎に嫁した。久次郎には二人の兄があつた。長を山崎某と云ひ、仲を鈴木某と云つて、師岡氏は其(その)季(き)であつた。三人は同腹の子で、皆伯父(をぢ)に御家人の株を買つて貰つた。それは商賈(しやうこ)であつた伯父の産業の衰へた日の事であつた。
 伯父とは誰(た)ぞ。壽阿彌である。兄弟三人を生んだ母とは誰ぞ。壽阿彌の妹である。

     十五

 壽阿彌の手紙に「愚姪(ぐてつ)」と書してあるのは、山崎、鈴木、師岡の三兄弟中の一人でなくてはならない。それが師岡でなかつたことは明白である。お石さんは夫が生きてゐると大正五年に八十二歳になる筈であつたと云ふ。師岡は天保六年生で、手紙の書かれたのは師岡未生前七年の文政十一年だからである。
 山崎、鈴木の二人は石が嫁した時皆歿してゐたので、石は其(その)齡(よはひ)を記憶しない。しかし夫よりは餘程の年上であつたらしいと云ふ。兎に角齡の懸隔は小さからう筈が無い。彼の文政十一年に既に川上宗壽の茶技を評した人は、師岡に比して大いに長じてゐなくてはならない。わたくしは石の言を聞いて、所謂(いはゆる)愚姪は山崎の方であらうかと思つた。
 若し此推測が當つてゐるとすると、伊澤の刀自の記憶してゐる蒔繪師は、均(ひと)しく是(こ)れ壽阿彌の妹の子ではあつても、手紙の中の「愚姪」とは別人でなくてはならない。何故と云ふに石の言(こと)に從へば、蒔繪をしたのは鈴木と師岡とで、山崎は蒔繪をしなかつたさうだからである。
 蒔繪は初め鈴木が修行したさうである。幕府の蒔繪師に新銀町(しんしろかねちやう)と皆川町との鈴木がある。此兩家と氏(うぢ)を同じうしてゐるのは、或は故あることかと思ふが、今遽(にはか)に尋ねることは出來ない。次で師岡は兄に此技を學んだ。伊澤の刀自の記憶してゐるすゐさいの號は、鈴木か師岡か不明である。しかしすゐさいの名は石の曾(かつ)て聞かぬ名だと云ふから、恐くは兄鈴木の方の號であらう。
 然らば壽阿彌の終焉(しゆうえん)の家は誰の家であつたか。これはどうも師岡の家であつたらしい。「伯父さんは内で亡くなつた」と、石の夫は云つてゐたさうだからである。
 此(かく)の如くに考へて見ると、壽阿彌の手紙にある「愚姪」、伊澤榛軒(しんけん)のために櫛に蒔繪をしたすゐさい、壽阿彌を家に居(お)いて生を終らしめた戸主の三人を、山崎、鈴木、師岡の三兄弟で分擔することゝなる。わたくしは此まで考へた時事の奇なるに驚かざるを得なかつた。
 初めわたくしは壽阿彌の手紙を讀んだ時、所謂「愚姪」の女であるべきことを疑はなかつた。俗にをひを甥(せい)と書し、めひを姪(てつ)と書するからである。しかし石に聞く所に據るに、壽阿彌を小父と呼ぶべき女は一人も無かつたらしいのである。
 爾雅(じが)に「男子謂姉妹之子爲出、女子謂姉妹之子爲姪」と云つてある。甥の字はこれに反して頗る多義である。姪は素(もと)女子の謂ふ所であつても、公羊傳(くやうでん)の舅出(きうしゆつ)の語が廣く行はれぬので、漢學者はをひを姪(てつ)と書する。そこで奚疑塾(けいぎじゆく)に學んだ壽阿彌は甥と書せずして姪と書したものと見える。此に至つてわたくしは既に新聞紙に刊した文の不用意を悔いた。
 わたくしは石に夫の家の當時の所在を問うた。「わたくしが片附いて參つた時からは始終只今の山伏町の邊にをりました。其頃は組屋敷と申しました」と、石は云ふ。組屋敷とは黒鍬組(くろくはぐみ)の屋敷であらうか。伊澤の刀自が父と共に尋ねた家は、菊屋橋附近であつたと云ふから、稍(やゝ)離れ過ぎてゐる。師岡氏は弘化頃に菊屋橋附近にゐて、石の嫁して行く文久前に、山伏町邊に遷(うつ)つたのではなからうか。
 わたくしの石に問ふべき事は未だ盡きない。落胤問題がある。藤井紋太夫の事がある。谷の音の事がある。

     十六

 わたくしは師岡の未亡人石に問うた。「壽阿彌さんが水戸樣の落胤(おとしだね)だと云ふ噂(うはさ)があつたさうですが、若しあなたのお耳に入つてゐはしませんか。」
 石は答へた。「水戸樣の落胤と云ふ話は、わたくしも承はつてゐます。しかしそれは壽阿彌さんの事ではありません。いつ頃だか知りませんが、なんでも壽阿彌さんの先祖の事でございます。水戸樣のお屋敷へ御奉公に出てゐた女(むすめ)に、お上のお手が附いて姙娠しました。お屋敷ではその女をお下げになる時、男の子が生れたら申し出るやうにと云ふことでございました。丁度生れたのが男の子でございましたので申し出ました。すると五歳になつたら連れて參るやうにと申す事でございました。それから五歳になりましたので連れて出ました。其子は別間に呼ばれました。そしてお前は侍になりたいか、町人になりたいかと云ふお尋がございました。子供はなんの氣なしに町人になりたうございますと申しました。それで別に御用は無いと云ふことになつて下げられたさうでございます。なんでも眞志屋と云ふ屋號は其後始て附けたもので、大名よりは増屋だと云ふ意(こゝろ)であつたとか申すことでございます。その水戸樣のお胤(たね)の人は若くて亡くなりましたが、血筋は壽阿彌さんまで續いてゐるのだと、承りました。」
 此(この)言(こと)に從へば、眞志屋は數世續いた家で、落胤問題と屋號の縁起とは其祖先の世に歸著する。
 次にわたくしは藤井紋太夫の墓が何故に眞志屋の墓地にあるかを問うた。
 石は答へた。
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