椙原品
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著者名:森鴎外 

      一

 私が大礼(たいれい)に参列するために京都へ立たうとしてゐる時であつた。私の加盟してゐる某社の雑誌が来たので、忙しい中にざつと目を通した。すると仙台に高尾(たかを)の後裔(こうえい)がゐると云ふ話が出てゐるのを見た。これは伝説の誤であつて、しかもそれが誤だと云ふことは、大槻文彦(おほつきふみひこ)さんがあらゆる方面から遺憾なく立証してゐる。どうして今になつてこんな誤が事新しく書かれただらうと云ふことを思つて見ると、そこには大いに考へて見て好い道理が存じてゐるのである。
 誰でも著述に従事してゐるものは思ふことであるが、著述がどれ丈(だけ)人に読まれるかは問題である。著述が世に公(おほやけ)にせられると、そこには人がそれを読み得ると云ふポツシビリテエが生ずる。しかし実にそれを読む人は少数である。一般の人に読者が少いばかりではない。読書家と称して好い人だつて、其読書力には際限がある。沢山(たくさん)出る書籍を悉(こと/″\)く読むわけには行かない。そこで某雑誌に書いたやうな、歴史に趣味を有する人でも、切角(せつかく)の大槻さんの発表に心附かずにゐることになるのである。
 某雑誌の記事は奥州話(あうしうばなし)と云ふ書に本づいてゐる。あの書は仙台の工藤平助(くどうへいすけ)と云ふ人の女(むすめ)で、只野伊賀(たゞのいが)と云ふ人の妻になつた文子(あやこ)と云ふものゝ著述で、文子は滝沢馬琴に識(し)られてゐたので、多少名高くなつてゐる。しかし奥州話は大槻さんも知つてゐて、弁妄(べんまう)の筆を把(と)つてゐるのである。
 文子の説によれば、伊達綱宗(だてつなむね)は新吉原の娼妓(しやうぎ)高尾を身受(みうけ)して、仙台に連れて帰つた。高尾は仙台で老いて亡くなつた。墓は荒町(あらまち)の仏眼寺(ぶつげんじ)にある、其子孫が椙原氏(すぎのはらうぢ)だと云ふことになつてゐる。
 これは大(おほい)に錯(あやま)つてゐる。伊達綱宗は万治(まんぢ)元年に歿した父忠宗(たゞむね)の跡(あと)を継いだ。踰(こ)えて三年二月朔(ついたち)に小石川の堀浚(ほりざらへ)を幕府から命ぜられ、三月に仙台から江戸へ出て、工事を起した。筋違橋(すぢかへばし)即ち今の万世橋(まんせいばし)から牛込土橋(うしごめどばし)までの間の工事である。これがために綱宗は吉祥寺(きちじやうじ)の裏門内に設けられた小屋場へ、監視をしに出向いた。吉祥寺は今駒込(こまごめ)にある寺で、当時まだ水道橋の北のたもと、東側にあつたのである。この往来(ゆきき)の間に、綱宗は吉原へ通ひはじめた。これは当時の諸侯としては類のない事ではなかつたが、それが誇大に言ひ做(な)され、意外に早く幕府に聞えたには、綱宗を陥(おとし)れようとしてゐた人達の手伝があつたものと見える。綱宗は不行迹(ふぎやうせき)の廉(かど)を以(もつ)て、七月十三日にに逼塞(ひつそく)を命ぜられて、芝浜(しばはま)の屋敷から品川に遷(うつ)つた。芝浜の屋敷は今の新橋停車場の真中程(まんなかほど)であつたさうである。次いで八月二十五日に、嫡子亀千代(かめちよ)が家督した。此時綱宗は二十歳、亀千代は僅(わづか)に二歳であつた。堀浚は矢張(やはり)伊達家で継続することになつたので、翌年工事を竣(をは)つた。そこで綱宗の吉原へ通つた時、何屋の誰の許(もと)へ通つたかと云ふと、それは京町の山本屋と云ふ家の薫(かをる)と云ふ女であつたらしい。それが決して三浦屋の高尾でなかつたと云ふ反証には、当時万治二年三月から七月までの間には、三浦屋に高尾と云ふ女がゐなかつたと云ふ事実がある。綱宗の通ふべき高尾と云ふ女がゐない上は、それを身受しやうがない。其上、綱宗は品川の屋敷に蟄居(ちつきよ)して以来、仙台へは往かずに、天和(てんな)三年に四十四歳で剃髪(ていはつ)して嘉心(かしん)と号し、正徳(しやうとく)元年六月六日に七十二歳で歿した。綱宗に身受せられた女があつた所で、それが仙台へ連れて行かれる筈(はず)がない。
 文子は綱宗が高尾を身受して舟に載せて出て、三股(みつまた)で斬つたと云ふ俗説を反駁(はんぱく)する積(つもり)で、高尾が仙台へ連れて行かれて、子孫を彼地(かのち)に残したと書いたのだが、それは誤を以て誤に代へたのである。

      二

 然らば奥州話にある仏眼寺の墓の主(ぬし)は何人(なんぴと)かと云ふに、これは綱宗の妾(せふ)品(しな)と云ふ女で、初から椙原氏(すぎのはらうぢ)であつたから、子孫も椙原氏を称したのである。品は吉原にゐた女でもなければ、高尾でもない。
 品は一体どんな女であつたか。私は品川に於ける綱宗を主人公にして一つの物語を書かうと思つて、余程久しい間、其結構を工夫してゐた。綱宗は凡庸人ではない。和歌を善(よ)くし、筆札(ひつさつ)を善くし、絵画を善くした。十九歳で家督をして、六十二万石の大名たること僅(わづか)に二年。二十一歳の時、叔父伊達兵部少輔宗勝(だてひやうぶせういうむねかつ)を中心としたイントリイグに陥いつて蟄居(ちつきよ)の身となつた。それから四十四歳で落飾(らくしよく)するまで、一子亀千代の綱村(つなむら)にだに面会することが出来なかつた。亀千代は寛文九年に十一歳で総次郎綱基(そうじらうつなもと)となり、踰(こ)えて十一年、兵部宗勝の嫡子東市正宗興(いちのかみむねおき)の表面上の外舅(ぐわいきう)となり、宗勝を贔屓(ひいき)した酒井雅楽頭忠清(さかゐうたのかみたゞきよ)が邸(やしき)での原田甲斐(はらだかひ)の刃傷(にんじやう)事件があつて、将(まさ)に失はんとした本領を安堵(あんど)し、延宝五年に十九歳で綱村と名告(なの)つたのである。暗中の仇敵(きうてき)たる宗勝は、父子の対面に先だつこと四年、延宝七年に亡くなつてゐた。綱宗はこれより前も、これから後老年に至るまでも、幽閉の身の上でゐて、その銷遣(せうけん)のすさびに残した書画には、往々知過必改(ちくわひつかい)と云ふ印を用ゐた。綱宗の芸能は書画や和歌ばかりではない。蒔絵(まきゑ)を造り、陶器を作り、又刀剣をも鍛(きた)へた。私は此人が政治の上に発揮することの出来なかつた精力を、芸術の方面に傾注したのを面白く思ふ。面白いのはこゝに止(とゞ)まらない。綱宗は籠居(ろうきよ)のために意気を挫(くじ)かれずにゐた。品川の屋敷の障子に、当時まだ珍しかつた硝子板(がらすいた)四百余枚を嵌(は)めさせたが、その大きいのは一枚七十両で買つたと云ふことである。その豪邁(がうまい)の気象が想(おも)ひ遣(や)られるではないか。かう云ふ人物の綱宗に仕へて、其晩年に至るまで愛せられてゐた品と云ふ女も、恐らくは尋常の女ではなかつただらう。
 綱宗には表立つた正室と云ふものがなかつた。その側(そば)にかしづいてゐた主な女は、亀千代を生んだ三沢初子(みさははつこ)と品との二人で、初子は寛永十七年生れで綱宗と同年、品は十六年生れで綱宗より一つ年上であつたらしい。二人の中で初子は家柄が好いのと後見があつたのとで、綱宗はそれを納(い)れる時正式の婚礼をした。只幕府への届が妻になつてゐなかつただけである。これは綱宗が家督する三年前で、綱宗も初子も十六歳の時であつた。それから四年目の万治二年三月八日に亀千代が生れた。堀浚(ほりざらへ)の命が伊達家に下つた一年前である。品は初子が亀千代を生んだ年に二十一歳で浜屋敷に仕へることになつて、直(すぐ)に綱宗の枕席(ちんせき)に侍(じ)したらしい。或(あるひ)は初子の産前産後の時期に寵(ちよう)を受けはじめたのではなからうか。

      三

 品に先(さきだ)つて綱宗に仕へた初子は、其世系(せいけい)が立派である。六孫王経基(つねもと)の四子陸奥守満快(むつのかみまんくわい)の八世の孫飯島三郎広忠(ひろたゞ)が出雲(いづも)の三沢を領して、其曾孫が三沢六郎為長(ためなが)と名告(なの)つた。為長の十世の孫左京亮為虎(さきやうのすけためとら)が初め尼子義久(あまこよしひさ)に、後毛利輝元(もうりてるもと)に属して、長門(ながと)の府中に移つた。為虎の長男頼母助為基(たのものすけためもと)が父と争つて近江に奔(はし)つた。為基に男女の子があつて、兄権佐清長(ごんのすけきよなが)は美濃大垣(みのおほがき)の城主氏家広定(うぢいへひろさだ)の養子になつてゐるうちに、関が原の役に際会して養父と共に細川忠興(ほそかはたゞおき)に預けられ、妹紀伊(きい)は忠興の世話で、幕府の奥に仕へ、家康の養女振姫(ふりひめ)の侍女になつた。紀伊が奥勤(おくづとめ)をしてゐると、元和(げんな)三年に振姫が伊達忠宗(だてたゞむね)に嫁(か)したので、紀伊も輿入(こしいれ)の供をした。此間に紀伊の兄清長は流浪して、因幡(いなば)鳥取に往つてゐて、朽木宣綱(くつきのぶつな)の女(むすめ)の腹に初子が出来た。初子は叔母紀伊に引き取られて、伊達家の奥へ来た。
 振姫は実は池田輝政(いけだてるまさ)の子で、家康の二女督姫(かうひめ)が生んだのである。それを家康が養女にして忠宗に嫁せしめた。綱宗は忠宗の側室貝姫(かひひめ)の腹に出来たのを振姫が養ひ取つて、嫡出の子として届けたのである。貝姫は櫛笥左中将隆致(くしげさちゆうじやうたかむね)の女で、後西院(ごさいゐん)天皇の生母御匣局(みくしげのつぼね)の妹である。
 忠宗は世を去る三年前に、紀伊の連れてゐる初子の美しくて賢いのに目を附けて、子綱宗の妾(せふ)にしようと云ふことを、紀伊に話した。しかし紀伊は自分達の家世を語つて、姪(めひ)を妾にすることを辞退した。そこで綱宗と初子とは、明暦元年の正月に浜屋敷で婚礼をしたのである。
 初子の美しかつたことは、其木像を見ても想像せられる。短冊や、消息、自ら書写した法華経(ほけきやう)を見るに、能書である。和歌をも解してゐた。容(かたち)が美しくて心の優しい女であつたらしい。それゆゑ忠宗が婚礼をさせてまで、妻の侍女の姪を子綱宗の配偶にしたのであらう。
 此初子が嫡男まで生んでゐる所へ、側から入つて来た品が、綱宗の寵を得たには、両性問題は容易(たやす)く理を以て推(すゐ)すべからざるものだとは云ひながら、品の人物に何か特別なアトラクシヨンがなくては□(かな)はぬやうである。それゆゑ私は、単に品が高尾でないと云ふ事実、即ち疾(と)うの昔に大槻さんが遺憾なく立証してゐる事実を、再び書いて世間に出さうと云ふためばかりでなく、椙原品(すぎのはらしな)と云ふ女を一の問題としてこゝに提供したのである。

      四

 品の家世はどうであるか。播磨(はりま)の赤松家の一族に、椙原伊賀守賢盛(すぎのはらいがのかみかたもり)と云ふ人があつた。後に薙髪(ちはつ)して宗伊(そうい)と云つた人である。それが椙原を名告(なの)つたのは、住んでゐた播磨の土地の名に本づいたのである。賢盛の後裔に新左衛門守範(しんざゑもんもりのり)と云ふ人があつた。守範は赤松氏の亡(ほろ)びた時に浪人になつて江戸に出て、明暦三年の大火に怪我をして死んださうである。赤松氏の亡びた時とは、恐らくは赤松則房(あかまつのりふさ)が阿波(あは)で一万石を食(は)んでゐて、関が原の役に大阪に与(くみ)し、戦場を逃れて人に殺された時を謂(い)つたものであらうか。若(も)しさうなら、仮に当時守範は十五歳の少年であつたとしても、品の生まれる年には、五十三歳になつてゐる筈である。兎(と)に角(かく)品は守範が流浪した後、年が寄つてから出来た女(むすめ)であらう。品を生んだ守範の妻が、麻布(あざぶ)の盛泰寺(せいたいじ)の日道(にちだう)と云ふ日蓮宗の僧の女であつたと云ふ所から考へても、守範は江戸の浪人でゐて、妻を娶(めと)つたものと思はれる。守範には二人の子があつて、姉が品で、弟を梅之助(うめのすけ)と云つたが、此梅之助は夭折(えうせつ)した。そこで守範の死んだ時には、十九歳になる品が一人残つて、盛泰寺に引き取られた。
 それから中一年置いて、万治二年に品は浜屋敷の女中に抱へられて、間もなく妾になつたらしい。妾になつてから綱宗が品を厚く寵遇したと云ふことは、偶然伝へられてゐる一の事実で察せられる。それは万治三年に綱宗が罪を獲(え)て、品川の屋敷に遷(うつ)つた時、品は附いて往つて、綱宗に請うて一日の暇(いとま)を得て、日道を始、親戚故旧を会して馳走(ちそう)し、永(なが)の訣別(けつべつ)をしたと云ふ事実である。これは一切の係累を絶つて、不幸なる綱宗に一身を捧げようと云ふ趣意であつた。綱宗もそれを喜んで、品に雪薄(ゆきすゝき)の紋を遣(や)つたさうである。
 品は初一念を翻(ひるがへ)さずに、とう/\二十で情交を結んだ綱宗が七十二の翁(おきな)になつて歿するまで、忠実に仕へて、綱宗が歿した時尼になつて、浄休院と呼ばれ、仙台に往つて享保元年に七十八歳で死んだ。
 此間に品が四十五歳の時、綱宗が薙髪(ちはつ)し、品が四十八歳の時、初子が歿した。綱宗入道嘉心は此後二十五年の久しい年月を、品と二人で暮したと云つても大過なからう。これは別に証拠はないが、私は豪邁(がうまい)の気象を以て不幸の境遇に耐へてゐた嘉心を慰めた品を、啻(たゞ)誠実であつたのみでなく、気骨のある女丈夫(ぢよぢやうふ)であつたやうに想像することを禁じ得ない。
 品は晩年に中塚十兵衛茂文と云ふ人の女(むすめ)石を養女にして、熊谷斎直清(くまがいいつきなほきよ)と云ふ人に嫁(とつ)がせて置いたので、品の亡くなつた跡を、直清の二男常之助(つねのすけ)が立てることになつた。椙原氏は此椙原常之助から出てゐるのである。

      五

 綱宗が万治三年七月二十六日に品川の屋敷に遷(うつ)つてから、これを端緒として、所謂(いはゆる)仙台騒動が発展して、寛文十一年三月二十七日に、酒井忠清の屋敷で、原田甲斐が伊達安芸(だてあき)を斬つたと云ふ絶頂まで到達した。それを綱宗は純粋な受動的態度で傍看しなくてはならなかつた。品川の屋敷と云ふのは、品川の南大井村にあつた手狭な家を、寺や百姓家を取り払はせて建て拡げたのである。綱宗は家老一人を附けられて、そこに住んだ。当時姉婿(あねむこ)花忠茂が密(ひそか)に遣(や)つた手紙に、「御やしき中(うち)忍びにて御ありきはくるしからぬ儀と存じ候」と云つて、丁寧(ていねい)に謹慎を勧めてゐる。邸内を歩くにも忍びに歩かなくてはならぬと云ふ拘束を豪邁な性(さが)を有してゐる壮年の身に受けて、綱宗は穉(をさな)い亀千代の身の上を気遣(きづか)ひ、仙台の政治を憂慮した。その時附けられてゐた家老大町備前は、さしたる人物でなかつたらしいから、綱宗が抑鬱(よくうつ)の情を打明けて語ることを得たのは、初子のみであつただらう。それに事によつたら、品も与(あづか)つたのではあるまいか。
 綱宗の夢寐(むび)の間に想(おもひ)を馳(は)せた亀千代は、万治三年から寛文八年二月まで浜屋敷にゐた。此年の二月の火事に、浜屋敷は愛宕下(あたごした)の上屋敷と共に焼けた。伊達家では上屋敷を廉立(かどた)つた時に限つて使つたものらしく、綱宗の代には上屋敷が桜田にあつて、丁度今の日比谷公園東北隅の所であつたが、綱宗は上使を受ける時などに、浜屋敷から出向いたものである。亀千代は火事に逢つて、麻布白金台(しろかねだい)に移つた。これは万治元年に桜田を幕府から召上げられた時に賜はつた替地(かへち)である。其時これまで中屋敷と云つてゐた愛宕下を、伊達家では上屋敷にした。それも浜屋敷と共に焼けたのである。それから火事のあつた年の十二月に愛宕下上屋敷の普請が出来て、亀千代はそこへ移つた。これから伊達家では不断(ふだん)上屋敷に住むことになつたのである。
 此間に亀千代は、万治三年八月に二歳で家督し、寛文四年六月には六歳で徳川家綱に謁見し、愛宕下に移つてから、同九年十二月に十一歳で元服して、総次郎綱基(つなもと)と名告(なの)り、後延宝五年正月に綱村と改名した。
 そして此(この)公生涯の裏面に、綱宗の気遣(きづか)ふも無理ならぬ、暗黒なる事情が埋伏してゐた。それは前後二回に行はれた置毒(ちどく)事件である。
 初のは寛文六年十一月二十七日の出来事である。是より先には亀千代は寛文二年九月に疱瘡(はうさう)をしたより外、無事でゐた。側(そば)には懐守(だきもり)と云つて、数人の侍が勤めてゐたが、十歳に足らぬ小児の事であつて見れば、実際世話をしたのは女中であらう。その主立(おもだ)つたものは鳥羽(とば)と云ふ女であつたらしい。これは江戸浪人榊田六左衛門重能(さかきだろくざゑもんしげよし)と云ふものゝ女(むすめ)で、振姫の侍女から初子の侍女になり、遂に亀千代附になつたのである。此年には四十七歳になつてゐた。
 当日亀千代の前に出る膳部(ぜんぶ)は、例によつて鬼番衆と云ふ近臣が試食した。それが二三人即死した。米山兵左衛門、千田平蔵などと云ふものである。そこで、中間(ちゆうげん)一人、犬二頭に食はせて見た。それも皆死んだ。後見伊達兵部少輔(だてひやうぶせういう)は報(しらせ)を聞いて、熊田治兵衛と云ふものを浜屋敷に遣つて、医師河野(かうの)道円と其子三人とを殺させた。同時に膳番以下七八人の男と女中十人許(ばかり)とも殺されたさうである。此時女中鳥羽は毒のあつた膳部の周囲を立ち廻つてゐたとかのために、仙台へ遣つて大条玄蕃(だいでうげんば)に預けられた。鳥羽は道円に舟で饗応(きやうおう)せられたことなどがあるから、果して道円が毒を盛つたとすると、鳥羽に疑はしい節(ふし)がないでもないが、後に仙台で扶持(ふち)を受けて優遇せられてゐたことを思へば罪の有無が明かでなくなる。又道円を殺させた兵部が毒を盛らせたとすると、其目的はどこにあつただらうか。亀千代が死んでも、初子の生んだ亀千代の弟があるから、兵部の子東市正(いちのかみ)に宗家(そうけ)を襲(つ)がせることは出来まい。然らば宗家の封(ほう)を削らせて、我家の禄を増させようとでもしたのだらうか。これは亀千代が八歳の時の出来事である。

      六

 二度目の置毒事件は寛文八年に白金台の屋敷で起つた。亀千代が浜屋敷で火事に逢つて移つて来てから、愛宕下の新築に入るまでの間の出来事である。頃は八月某日に原田甲斐の世話で小姓(こしやう)になつてゐた塩沢丹三郎と云ふものが、鱸(すゞき)に毒を入れて置いて、それを自ら食つて死んだ。原田に命ぜられて入れは入れたが、主に薦(すゝ)めるに忍びないで自ら食つたと云ふのである。此事は丹三郎が前晩に母に打明けて置いたので、母も刄(やいば)に伏したさうである。亀千代はもう十歳になつてゐた。丁度綱宗の漁色事件に高尾が無いやうに、此置毒事件にも終始俗説の浅岡に相当する女が無い。
 亀千代のかう云ふ危い境遇を見て、初子は子のため、又品は主のため、保護しようとしたかも知れない。就中(なかんづく)初子は亀千代の屋敷に往来した形迹(けいせき)があるが、惜むらくは何事も伝はつてゐない。
 次に綱宗の憂慮した仙台の政治はどうであるか。仙台騒動の此方面の中心人物は綱宗の叔父にして亀千代の後見の一人たる伊達兵部少輔であつた。兵部に結べば功なきも賞せられ、兵部に抗すれば罪なきも罰せられたと云ふわけで、秕政(ひせい)の眼目は濫賞濫罰(らんしやうらんばつ)にあつたらしい。仙台にゐて之(これ)を行つた首脳は渡辺金兵衛で、寛文三年頃から目附の地位にゐて権勢を弄(ろう)しはじめ、四年に小姓頭(こしやうがしら)になつてから、愈々(いよ/\)専横を極めた。後に伊達安芸が重罪を被(かうむ)つたもの百二十人の名を挙げてゐるのを見ても、渡辺等の横暴を察することが出来る。其中で最も際立つて見えるのは、伊東釆女(いとううねめ)が事と、伊達安芸が事とである。伊東采女は、寛文三年に病中国老になつて、間もなく歿した伊東新左衛門の養子で、それが幽閉せられて死ぬることになるのは、席次の争が本であつた。寛文七年に幕府から来た目附を饗応する時、先例は家老、評定役(ひやうぢやうやく)、著座、大番頭(おおばんがしら)、出入司(しゆつにふづかさ)、小姓頭、目附役の順序を以て、幕府の目附に謁し、杯を受けるのであるに、著座と称する家柄の采女が劫(かへ)つて目附役の次に出された。これは渡辺金兵衛等の勧(すゝめ)によつて原田甲斐が取り計らつたのである。伊達安芸は遠田(とほだ)郡を領して涌谷(わくや)に住んでゐたが、其北隣の登米(とよま)郡は伊達式部が領して、これは寺池に住んでゐた。然るに遠田郡の北境小里(をさと)村と、登米郡赤生津(あかふづ)村とに地境の争があつた。安芸は此時地を式部に譲つて無事に済ませた。これは寛文五年の事である。次いで七年に又桃生(ものふ)郡の西南にある式部が領分の飛地と、これに隣接してゐる遠田郡の安芸が領地とにも地境の争が起つた。これは寛文七年の事で、八年に安芸がこれを国老に訴へ九年に検使が出張して分割したが、其結果は安芸のために頗る不利であつた。安芸はこれを憤(いきどほ)つて、十一年に死を決して江戸に上つて訴へることになつた。それゆゑこの地境の争も、采女が席次の争と同じく、原来(ぐわんらい)権利の主張ではあるが、采女も安芸も、これを機縁として渡辺等の秕政(ひせい)に反抗したのである。中にも安芸は主君のために、暴虐の臣を弾劾(だんがい)することを主とし、領分の境を正すことを従とした。これが安芸の成功した所以(ゆゑん)である。渡辺は伊達宮内少輔(だてくないせういう)に預けられて絶食して死んだ。
 私は此伊達騒動を傍看してゐる綱宗を書かうと思つた。外に向つて発動する力を全く絶たれて、純客観的に傍看しなくてはならなかつた綱宗の心理状態が、私の興味を誘つたのである。私は其周囲にみやびやかにおとなしい初子と、怜悧(れいり)で気骨のあるらしい品とをあらせて、此三角関係の間に静中の動を成り立たせようと思つた。しかし私は創造力の不足と平生の歴史を尊重する習慣とに妨げられて、此企(くはだて)を抛棄(はうき)してしまつた。
 私は去年五月五日に、仙台新寺小路孝勝寺(かうしやうじ)にある初子の墓に詣(まう)でた。世間の人の浅岡の墓と云つて参るのがそれである。古色のある玉垣(たまがき)の中に、新しい花崗石(くわかうせき)の柱を立てゝ、それに三沢初子之墓と題してある。それを見ると、近く亡くなつた女学生の墓ではないかと云ふやうな感じがする。あれは脇(わき)へ寄せて建てゝ欲しかつた。仏眼寺の品が墓へは、私は往かなかつた。




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