渋江抽斎
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著者名:森鴎外 

   その一

 三十七年如一瞬(さんじゅうしちねんいっしゅんのごとし)。学医伝業薄才伸(いをまなびぎょうをつたえてはくさいのぶ)。栄枯窮達任天命(えいこきゅうたつはてんめいにまかす)。安楽換銭不患貧(あんらくぜににかえひんをうれえず)。これは渋江抽斎(しぶえちゅうさい)の述志の詩である。想(おも)うに天保(てんぽう)十二年の暮に作ったものであろう。弘前(ひろさき)の城主津軽順承(つがるゆきつぐ)の定府(じょうふ)の医官で、当時近習詰(きんじゅづめ)になっていた。しかし隠居附(づき)にせられて、主(おも)に柳島(やなぎしま)にあった信順(のぶゆき)の館(やかた)へ出仕することになっていた。父允成(ただしげ)が致仕(ちし)して、家督相続をしてから十九年、母岩田氏(いわたうじ)縫(ぬい)を喪(うしな)ってから十二年、父を失ってから四年になっている。三度目の妻岡西氏(おかにしうじ)徳(とく)と長男恒善(つねよし)、長女純(いと)、二男優善(やすよし)とが家族で、五人暮しである。主人が三十七、妻が三十二、長男が十六、長女が十一、二男が七つである。邸(やしき)は神田(かんだ)弁慶橋(べんけいばし)にあった。知行(ちぎょう)は三百石である。しかし抽斎は心を潜めて古代の医書を読むことが好(すき)で、技(わざ)を售(う)ろうという念がないから、知行より外(ほか)の収入は殆(ほとん)どなかっただろう。ただ津軽家の秘方(ひほう)一粒金丹(いちりゅうきんたん)というものを製して売ることを許されていたので、若干(そこばく)の利益はあった。
 抽斎は自(みずか)ら奉ずること極めて薄い人であった。酒は全く飲まなかったが、四年前に先代の藩主信順に扈随(こずい)して弘前に往(い)って、翌年まで寒国にいたので、晩酌をするようになった。煙草(タバコ)は終生喫(の)まなかった。遊山(ゆさん)などもしない。時々採薬に小旅行をする位に過ぎない。ただ好劇家で劇場にはしばしば出入(でいり)したが、それも同好の人々と一しょに平土間(ひらどま)を買って行くことに極(き)めていた。この連中を周茂叔連(しゅうもしゅくれん)と称(とな)えたのは、廉を愛するという意味であったそうである。
 抽斎は金を何に費やしたか。恐らくは書を購(あがな)うと客(かく)を養うとの二つの外に出(い)でなかっただろう。渋江家は代々学医であったから、父祖の手沢(しゅたく)を存じている書籍が少(すくな)くなかっただろうが、現に『経籍訪古志(けいせきほうこし)』に載っている書目を見ても抽斎が書を買うために貲(し)を惜(おし)まなかったことは想い遣(や)られる。
 抽斎の家には食客(しょっかく)が絶えなかった。少いときは二、三人、多いときは十余人だったそうである。大抵諸生の中で、志(こころざし)があり才があって自ら給せざるものを選んで、寄食を許していたのだろう。
 抽斎は詩に貧を説いている。その貧がどんな程度のものであったかということは、ほぼ以上の事実から推測することが出来る。この詩を瞥見(べっけん)すれば、抽斎はその貧に安んじて、自家(じか)の材能(さいのう)を父祖伝来の医業の上に施していたかとも思われよう。しかし私は抽斎の不平が二十八字の底に隠されてあるのを見ずにはいられない。試みに看(み)るが好(よ)い。一瞬の如くに過ぎ去った四十年足らずの月日を顧みた第一の句は、第二の薄才伸(のぶ)を以(もっ)て妥(おだやか)に承(う)けられるはずがない。伸(のぶ)るというのは反語でなくてはならない。老驥(ろうき)櫪(れき)に伏(ふく)すれども、志千里にありという意がこの中(うち)に蔵せられている。第三もまた同じ事である。作者は天命に任せるとはいっているが、意を栄達に絶っているのではなさそうである。さて第四に至って、作者はその貧を患(うれ)えずに、安楽を得ているといっている。これも反語であろうか。いや。そうではない。久しく修養を積んで、内に恃(たの)む所のある作者は、身を困苦の中(うち)に屈していて、志はいまだ伸びないでもそこに安楽を得ていたのであろう。

   その二

 抽斎はこの詩を作ってから三年の後(のち)、弘化(こうか)元年に躋寿館(せいじゅかん)の講師になった。躋寿館は明和(めいわ)二年に多紀玉池(たきぎょくち)が佐久間町(さくまちょう)の天文台址(あと)に立てた医学校で、寛政(かんせい)三年に幕府の管轄(かんかつ)に移されたものである。抽斎が講師になった時には、もう玉池が死に、子藍渓(らんけい)、孫桂山(けいざん)、曾孫柳□(りゅうはん)が死に、玄孫暁湖(ぎょうこ)の代になっていた。抽斎と親しかった桂山の二男□庭(さいてい)は、分家して館に勤めていたのである。今の制度に較(くら)べて見れば、抽斎は帝国大学医科大学の教職に任ぜられたようなものである。これと同時に抽斎は式日(しきじつ)に登城(とじょう)することになり、次いで嘉永(かえい)二年に将軍家慶(いえよし)に謁見して、いわゆる目見(めみえ)以上の身分になった。これは抽斎の四十五歳の時で、その才が伸びたということは、この時に至って始(はじめ)て言うことが出来たであろう。しかし貧窮は旧に依(よ)っていたらしい。幕府からは嘉永三年以後十五人扶持(ふち)出ることになり、安政(あんせい)元年にまた職務俸の如き性質の五人扶持が給せられ、年末ごとに賞銀五両が渡されたが、新しい身分のために生ずる費用は、これを以(もっ)て償うことは出来なかった。謁見の年には、当時の抽斎の妻(さい)山内氏(やまのうちうじ)五百(いお)が、衣類や装飾品を売って費用に充(み)てたそうである。五百は徳が亡くなった後(のち)に抽斎の納(い)れた四人目の妻(さい)である。
 抽斎の述志の詩は、今わたくしが中村不折(なかむらふせつ)さんに書いてもらって、居間に懸けている。わたくしはこの頃抽斎を敬慕する余りに、この幅(ふく)を作らせたのである。
 抽斎は現に広く世間に知られている人物ではない。偶(たまたま)少数の人が知っているのは、それは『経籍訪古志』の著者の一人(いちにん)として知っているのである。多方面であった抽斎には、本業の医学に関するものを始(はじめ)として、哲学に関するもの、芸術に関するもの等、許多(あまた)の著述がある。しかし安政五年に抽斎が五十四歳で亡くなるまでに、脱稿しなかったものもある。また既に成った書も、当時は書籍を刊行するということが容易でなかったので、世に公(おおやけ)にせられなかった。
 抽斎の著(あらわ)した書で、存命中に印行(いんこう)せられたのは、ただ『護痘要法(ごとうようほう)』一部のみである。これは種痘術のまだ広く行われなかった当時、医中の先覚者がこの恐るべき伝染病のために作った数種の書の一つで、抽斎は術を池田京水(いけだけいすい)に受けて記述したのである。これを除いては、ここに数え挙げるのも可笑(おか)しいほどの『四(よ)つの海』という長唄(ながうた)の本があるに過ぎない。但(ただ)しこれは当時作者が自家の体面(ていめん)をいたわって、贔屓(ひいき)にしている富士田千蔵(ふじたせんぞう)の名で公にしたのだが、今は憚(はばか)るには及ぶまい。『四つの海』は今なお杵屋(きねや)の一派では用いている謡物(うたいもの)の一つで、これも抽斎が多方面であったということを証するに足る作である。
 然(しか)らば世に多少知られている『経籍訪古志』はどうであるか。これは抽斎の考証学の方面を代表すべき著述で、森枳園(もりきえん)と分担して書いたものであるが、これを上梓(じょうし)することは出来なかった。そのうち支那公使館にいた楊守敬(ようしゅけい)がその写本を手に入れ、それを姚子梁(ようしりょう)が公使徐承祖(じょしょうそ)に見せたので、徐承祖が序文を書いて刊行させることになった。その時幸(さいわい)に森がまだ生存していて、校正したのである。
 世間に多少抽斎を知っている人のあるのは、この支那人の手で刊行せられた『経籍訪古志』があるからである。しかしわたくしはこれに依って抽斎を知ったのではない。
 わたくしは少(わか)い時から多読の癖があって、随分多く書を買う。わたくしの俸銭の大部分は内地の書肆(しょし)と、ベルリン、パリイの書估(しょこ)との手に入(い)ってしまう。しかしわたくしはかつて珍本を求めたことがない。或(あ)る時ドイツのバルテルスの『文学史』の序を読むと、バルテルスが多く書を読もうとして、廉価の本を渉猟(しょうりょう)し、『文学史』に引用した諸家の書も、大抵レクラム版の書に過ぎないといってあった。わたくしはこれを読んで私(ひそ)かに殊域同嗜(しゅいきどうし)の人を獲(え)たと思った。それゆえわたくしは漢籍においても宋槧本(そうざんほん)とか元槧本(げんざんほん)とかいうものを顧みない。『経籍訪古志』は余りわたくしの用に立たない。わたくしはその著者が渋江と森とであったことをも忘れていたのである。

   その三

 わたくしの抽斎を知ったのは奇縁である。わたくしは医者になって大学を出た。そして官吏になった。然(しか)るに少(わか)い時から文を作ることを好んでいたので、いつの間にやら文士の列に加えられることになった。その文章の題材を、種々の周囲の状況のために、過去に求めるようになってから、わたくしは徳川時代の事蹟を捜(さぐ)った。そこに「武鑑(ぶかん)」を検する必要が生じた。
「武鑑」は、わたくしの見る所によれば、徳川史を窮(きわ)むるに闕(か)くべからざる史料である。然るに公開せられている図書館では、年を逐(お)って発行せられた「武鑑」を集めていない。これは「武鑑」、殊(こと)に寛文(かんぶん)頃より古い類書は、諸侯の事を記(き)するに誤謬(ごびゅう)が多くて、信じがたいので、措(お)いて顧みないのかも知れない。しかし「武鑑」の成立(なりたち)を考えて見れば、この誤謬の多いのは当然で、それはまた他書によって正(ただ)すことが容易である。さて誤謬は誤謬として、記載の全体を観察すれば、徳川時代の某年某月の現在人物等を断面的に知るには、これに優(まさ)る史料はない。そこでわたくしは自ら「武鑑」を蒐集(しゅうしゅう)することに着手した。
 この蒐集の間に、わたくしは「弘前医官渋江氏(うじ)蔵書記」という朱印のある本に度々(たびたび)出逢(であ)って、中には買い入れたのもある。わたくしはこれによって弘前の官医で渋江という人が、多く「武鑑」を蔵していたということを、先(ま)ず知った。
 そのうち「武鑑」というものは、いつから始まって、最も古いもので現存しているのはいつの本かという問題が生じた。それを決するには、どれだけの種類の書を「武鑑」の中(うち)に数えるかという、「武鑑」のデフィニションを極(き)めて掛からなくてはならない。
 それにはわたくしは『足利(あしかが)武鑑』、『織田(おだ)武鑑』、『豊臣(とよとみ)武鑑』というような、後の人のレコンストリュクションによって作られた書を最初に除く。次に『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』にあるような分限帳(ぶんげんちょう)の類を除く。そうすると跡に、時代の古いものでは、「御馬印揃(おんうまじるしぞろえ)」、「御紋尽(ごもんづくし)」、「御屋敷附(おんやしきづけ)」の類が残って、それがやや形を整えた「江戸鑑(えどかがみ)」となり、「江戸鑑」は直ちに後のいわゆる「武鑑」に接続するのである。
 わたくしは現に蒐集中であるから、わたくしの「武鑑」に対する知識は日々(にちにち)変って行く。しかし今知っている限(かぎり)を言えば、馬印揃や紋尽は寛永(かんえい)中からあったが、当時のものは今存(そん)じていない。その存じているのは後に改板(かいはん)したものである。ただ一つここに姑(しばら)く問題外として置きたいものがある。それは沼田頼輔(ぬまたらいすけ)さんが最古の「武鑑」として報告した、鎌田氏(かまだうじ)の『治代普顕記(ちたいふけんき)』中の記載である。沼田さんは西洋で特殊な史料として研究せられているエラルヂックを、我国に興そうとしているものと見えて、紋章を研究している。そしてこの目的を以て「武鑑」をあさるうちに、土佐の鎌田氏が寛永十一年の一万石以上の諸侯を記載したのを発見した。即(すなわ)ち『治代普顕記』の一節である。沼田さんは幸にわたくしに謄写(とうしゃ)を許したから、わたくしは近いうちにこの記載を精検しようと思っている。
 そんなら今に□(いた)るまでに、わたくしの見た最古の「武鑑」乃至(ないし)その類書は何かというと、それは正保(しょうほう)二年に作った江戸の「屋敷附」である。これは殆(ほとん)ど完全に保存せられた板本(はんぽん)で、末(すえ)に正保四年と刻してある。ただ題号を刻した紙が失われたので、恣(ほしいまま)に命じた名が表紙に書いてある。この本が正保四年と刻してあっても、実は正保二年に作ったものだという証拠は、巻中に数カ条あるが、試みにその一つを言えば、正保二年十二月二日に歿(ぼっ)した細川三斎(ほそかわさんさい)が三斎老として挙げてあって、またその第(やしき)を諸邸宅のオリアンタションのために引合(ひきあい)に出してある事である。この本は東京帝国大学図書館にある。

   その四

 わたくしはこの正保二年に出来て、四年に上梓(じょうし)せられた「屋敷附」より古い「武鑑」の類書を見たことがない。降(くだ)って慶安(けいあん)中の「紋尽(もんづくし)」になると、現に上野の帝国図書館にも一冊ある。しかし可笑(おか)しい事には、外題(げだい)に慶安としてあるものは、後に寛文(かんぶん)中に作ったもので、真に慶安中に作ったものは、内容を改めずに、後の年号を附して印行(いんこう)したものである。それから明暦(めいれき)中の本になると、世間にちらほら残っている。大学にある「紋尽」には、伴信友(ばんのぶとも)の自筆の序がある。伴は文政(ぶんせい)三年にこの本を獲(え)て、最古の「武鑑」として蔵していたのだそうである。それから寛文中の「江戸鑑(えどかがみ)」になると、世間にやや多い。
 これはわたくしが数年間「武鑑」を捜索して得た断案である。然(しか)るにわたくしに先んじて、夙(はや)く同じ断案を得た人がある。それは上野の図書館にある『江戸鑑図目録(えどかんずもくろく)』という写本を見て知ることが出来る。この書は古い「武鑑」類と江戸図との目録で、著者は自己の寓目(ぐうもく)した本と、買い得て蔵していた本とを挙げている。この書に正保二年の「屋敷附」を以て当時存じていた最古の「武鑑」類書だとして、巻首に載せていて、二年の二の字の傍(かたわら)に四と註(ちゅう)している。著者は四年と刻してあるこの書の内容が二年の事実だということにも心附いていたものと見える。著者はわたくしと同じような蒐集をして、同じ断案を得ていたと見える。ついでだから言うが、わたくしは古い江戸図をも集めている。
 然るにこの目録には著者の名が署してない。ただ文中に所々(しょしょ)考証を記(しる)すに当って抽斎云(いわく)としてあるだけである。そしてわたくしの度々見た「弘前医官渋江氏(うじ)蔵書記」の朱印がこの写本にもある。
 わたくしはこれを見て、ふと渋江氏と抽斎とが同人ではないかと思った。そしてどうにかしてそれを確(たしか)めようと思い立った。
 わたくしは友人、就中(なかんずく)東北地方から出た友人に逢(あ)うごとに、渋江を知らぬか、抽斎を知らぬかと問うた。それから弘前の知人にも書状を遣(や)って問い合せた。
 或る日長井金風(ながいきんぷう)さんに会って問うと、長井さんがいった。「弘前の渋江なら蔵書家で『経籍訪古志』を書いた人だ」といった。しかし抽斎と号していたかどうだかは長井さんも知らなかった。『経籍訪古志』には抽斎の号は載せてないからである。
 そのうち弘前に勤めている同僚の書状が数通(すつう)届いた。わたくしはそれによってこれだけの事を知った。渋江氏は元禄(げんろく)の頃に津軽家に召し抱えられた医者の家で、代々勤めていた。しかし定府(じょうふ)であったので、弘前には深く交(まじわ)った人が少く、また渋江氏の墓所もなければ子孫もない。今東京(とうけい)にいる人で、渋江氏と交ったかと思われるのは、飯田巽(いいだたつみ)という人である。また郷土史家として渋江氏の事蹟を知っていようかと思われるのは、外崎覚(とのさきかく)という人であるという事である。中にも外崎氏の名を指した人は、郷土の事に精(くわ)しい佐藤弥六(さとうやろく)さんという老人で、当時大正(たいしょう)四年に七十四歳になるといってあった。
 わたくしは直接に渋江氏と交ったらしいという飯田巽さんを、先ず訪ねようと思って、唐突(とうとつ)ではあったが、飯田さんの西江戸川町(にしえどがわちょう)の邸(やしき)へ往(い)った。飯田さんは素(も)と宮内省の官吏で、今某会社の監査役をしているのだそうである。西江戸川町の大きい邸はすぐに知れた。わたくしは誰(だれ)の紹介をも求めずに往ったのに、飯田さんは快(こころよ)く引見(いんけん)して、わたくしの問に答えた。飯田さんは渋江道純(どうじゅん)を識(し)っていた。それは飯田さんの親戚(しんせき)に医者があって、その人が何か医学上にむずかしい事があると、渋江に問いに往(ゆ)くことになっていたからである。道純は本所(ほんじょ)御台所町(おだいどころちょう)に住んでいた。しかし子孫はどうなったか知らぬというのである。

   その五

 わたくしは飯田さんの口から始めて道純という名を聞いた。これは『経籍訪古志』の序に署してある名である。しかし道純が抽斎と号したかどうだか飯田さんは知らなかった。
 切角(せっかく)道純を識(し)っていた人に会ったのに、子孫のいるかいないかもわからず、墓所を問うたつきをも得ぬのを遺憾に思って、わたくしは暇乞(いとまごい)をしようとした。その時飯田さんが、「ちょいとお待(まち)下さい、念のために妻(さい)にきいて見ますから」といった。
 細君(さいくん)が席に呼び入れられた。そしてもし渋江道純の跡がどうなっているか知らぬかと問われて答えた。「道純さんの娘さんが本所松井町(まついちょう)の杵屋勝久(きねやかつひさ)さんでございます。」
『経籍訪古志』の著者渋江道純の子が現存しているということを、わたくしはこの時始めて知った。しかし杵屋といえば長唄のお師匠さんであろう。それを本所に訪ねて、「お父(と)うさんに抽斎という別号がありましたか」とか、「お父うさんは「武鑑」を集めてお出(いで)でしたか」とかいうのは、余りに唐突ではあるまいかと、わたくしは懸念した。
 わたくしは杵屋さんに男の親戚がありはせぬか、問い合わせてもらうことを飯田さんに頼んだ。飯田さんはそれをも快く諾した。わたくしは探索の一歩を進めたのを喜んで、西江戸川町の邸を辞した。
 二、三日立って飯田さんの手紙が来た。杵屋さんには渋江終吉(しゅうきち)という甥(おい)があって、下渋谷(しもしぶや)に住んでいるというのである。杵屋さんの甥といえば、道純から見れば、孫でなくてはならない。そうして見れば、道純には娘があり孫があって現存しているのである。
 わたくしは直(すぐ)に終吉さんに手紙を出して、何時(いつ)何処(どこ)へ往ったら逢(あ)われようかと問うた。返事は直に来た。今風邪(ふうじゃ)で寝ているが、なおったらこっちから往っても好(い)いというのである。手跡(しゅせき)はまだ少(わか)い人らしい。
 わたくしは曠(むな)しく終吉さんの病(やまい)の癒(い)えるのを待たなくてはならぬことになった。探索はここに一頓挫(とんざ)を来(きた)さなくてはならない。わたくしはそれを遺憾に思って、この隙(ひま)に弘前から、歴史家として道純の事を知っていそうだと知らせて来た外崎覚(とのさきかく)という人を訪ねることにした。
 外崎さんは官吏で、籍が諸陵寮(しょりょうりょう)にある。わたくしは宮内省へ往った。そして諸陵寮が宮城を離れた霞(かすみ)が関(せき)の三年坂上(さんねんざかうえ)にあることを教えられた。常に宮内省には往来(ゆきき)しても、諸陵寮がどこにあるということは知らなかったのである。
 諸陵寮の小さい応接所(おうせつじょ)で、わたくしは初めて外崎さんに会った。飯田さんの先輩であったとは違って、この人はわたくしと齢(よわい)も相若(あいし)くという位で、しかも史学を以て仕えている人である。わたくしは傾蓋(けいがい)故(ふる)きが如き念(おもい)をした。
 初対面の挨拶(あいさつ)が済んで、わたくしは来意を陳(の)べた。「武鑑」を蒐集している事、「古(こ)武鑑」に精通していた無名の人の著述が写本で伝わっている事、その無名の人は自ら抽斎と称している事、その写本に弘前の渋江という人の印がある事、抽斎と渋江とがもしや同人ではあるまいかと思っている事、これだけの事をわたくしは簡単に話して、外崎さんに解決を求めた。

   その六

 外崎(とのさき)さんの答は極めて明快であった。「抽斎というのは『経籍訪古志』を書いた渋江道純の号ですよ。」
 わたくしは釈然とした。
 抽斎渋江道純は経史子集(けいしししゅう)や医籍を渉猟して考証の書を著(あらわ)したばかりでなく、「古武鑑」や古江戸図をも蒐集して、その考証の迹(あと)を手記して置いたのである。上野の図書館にある『江戸鑑図目録』は即(すなわ)ち「古武鑑」古江戸図の訪古志である。惟(ただ)経史子集は世の重要視する所であるから、『経籍訪古志』は一の徐承祖(じょしょうそ)を得て公刊せられ、「古武鑑」や古江戸図は、わたくしどもの如き微力な好事家(こうずか)が偶(たまたま)一顧するに過ぎないから、その目録は僅(わずか)に存して人が識(し)らずにいるのである。わたくしどもはそれが帝国図書館の保護(ほうご)を受けているのを、せめてもの僥倖(ぎょうこう)としなくてはならない。
 わたくしはまたこういう事を思った。抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書(けいしょ)や諸子のような哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のような文芸方面の書をも読んだ。その迹が頗(すこぶ)るわたくしと相似ている。ただその相殊(あいこと)なる所は、古今時(とき)を異(こと)にして、生の相及ばざるのみである。いや。そうではない。今一つ大きい差別(しゃべつ)がある。それは抽斎が哲学文芸において、考証家として樹立することを得るだけの地位に達していたのに、わたくしは雑駁(ざっぱく)なるヂレッタンチスムの境界(きょうがい)を脱することが出来ない。わたくしは抽斎に視(み)て忸怩(じくじ)たらざることを得ない。
 抽斎はかつてわたくしと同じ道を歩いた人である。しかしその健脚はわたくしの比(たぐい)ではなかった。迥(はるか)にわたくしに優(まさ)った済勝(せいしょう)の具を有していた。抽斎はわたくしのためには畏敬(いけい)すべき人である。
 然(しか)るに奇とすべきは、その人が康衢(こうく)通逵(つうき)をばかり歩いていずに、往々径(こみち)に由(よ)って行くことをもしたという事である。抽斎は宋槧(そうざん)の経子を討(もと)めたばかりでなく、古い「武鑑」や江戸図をも翫(もてあそ)んだ。もし抽斎がわたくしのコンタンポランであったなら、二人の袖(そで)は横町(よこちょう)の溝板(どぶいた)の上で摩(す)れ合ったはずである。ここにこの人とわたくしとの間に□(なじ)みが生ずる。わたくしは抽斎を親愛することが出来るのである。
 わたくしはこう思う心の喜ばしさを外崎さんに告げた。そしてこれまで抽斎の何人(なんひと)なるかを知らずに、漫然抽斎のマニュスクリイの蔵※者(ぞうきょしゃ)[#「去/廾」、24-15]たる渋江氏の事蹟を訪ね、そこに先ず『経籍訪古志』を著(あらわ)した渋江道純の名を知り、その道純を識っていた人に由って、道純の子孫の現存していることを聞き、ようよう今日(こんにち)道純と抽斎とが同人であることを知ったという道行(みちゆき)を語った。
 外崎さんも事の奇なるに驚いていった。「抽斎の子なら、わたくしは織っています。」
「そうですか。長唄のお師匠さんだそうですね。」
「いいえ。それは知りません。わたくしの知っているのは抽斎の跡を継いだ子で、保(たもつ)という人です。」
「はあ。それでは渋江保という人が、抽斎の嗣子(しし)であったのですか。今保さんは何処(どこ)に住んでいますか。」
「さあ。大(だい)ぶ久しく逢いませんから、ちょっと住所がわかりかねます。しかし同郷人の中には知っているものがありましょうから、近日聞き合せて上げましょう。」

   その七

 わたくしは直(すぐ)に保さんの住所を討(たず)ねることを外崎さんに頼んだ。保という名は、わたくしは始めて聞いたのではない。これより先、弘前から来た書状の中(うち)に、こういうことを報じて来たのがあった。津軽家に仕えた渋江氏の当主は渋江保である。保は広島の師範学校の教員になっているというのであった。わたくしは職員録を検した。しかし渋江保の名は見えない。それから広島高等師範学校長幣原坦(しではらたん)さんに書を遣(や)って問うた。しかし学校にはこの名の人はいない。またかつていたこともなかったらしい。わたくしは多くの人に渋江保の名を挙げて問うて見た。中には博文館(はくぶんかん)の発行した書籍に、この名の著者があったという人が二、三あった。しかし広島に踪跡(そうせき)がなかったので、わたくしはこの報道を疑って追跡を中絶していたのである。
 此(ここ)に至ってわたくしは抽斎の子が二人(ふたり)と、孫が一人(ひとり)と現存していることを知った。子の一人は女子で、本所にいる勝久さんである。今一人は住所の知れぬ保さんである。孫は下渋谷にいる終吉さんである。しかし保さんを識っている外崎さんは、勝久さんをも終吉さんをも識らなかった。
 わたくしはなお外崎さんについて、抽斎の事蹟を詳(つまびらか)にしようとした。外崎さんは記憶している二、三の事を語った。渋江氏の祖先は津軽信政(のぶまさ)に召し抱えられた。抽斎はその数世(すせい)の孫(そん)で、文化(ぶんか)中に生れ、安政(あんせい)中に歿(ぼっ)した。その徳川家慶(いえよし)に謁したのは嘉永(かえい)中の事である。墓誌銘は友人海保漁村(かいほぎょそん)が撰(えら)んだ。外崎さんはおおよそこれだけの事を語って、追って手近(てぢか)にある書籍の中から抽斎に関する記事を抄出して贈ろうと約した。わたくしは保さんの所在(ありか)を捜すことと、この抜萃(ばっすい)を作ることとを外崎さんに頼んで置いて、諸陵寮の応接所を出た。
 外崎さんの書状は間もなく来た。それに『前田文正(まえだぶんせい)筆記』、『津軽日記』、『喫茗雑話(きつめいざつわ)』の三書から、抽斎に関する事蹟を抄出して添えてあった。中にも『喫茗雑話』から抄したものは、漁村の撰んだ抽斎の墓誌の略で、わたくしはその中(うち)に「道純諱(いみな)全善、号抽斎、道純其(その)字(あざな)也(なり)」という文のあるのを見出した。後に聞けば全善はかねよしと訓(よ)ませたのだそうである。
 これと殆(ほとん)ど同時に、終吉さんのやや長い書状が来た。終吉さんは風邪(ふうじゃ)が急に癒(い)えぬので、わたくしと会見するに先(さきだ)って、渋江氏に関する数件を書いて送るといって、祖父の墓の所在、現存している親戚交互の関係、家督相続をした叔父(おじ)の住所等を報じてくれた。墓は谷中(やなか)斎場の向いの横町を西へ入(い)って、北側の感応寺(かんのうじ)にある。そこへ往(い)けば漁村の撰んだ墓誌銘の全文が見られるわけである。血族関係は杵屋勝久さんが姉で、保さんが弟である。この二人の同胞(はらから)の間に脩(おさむ)という人があって、亡くなって、その子が終吉さんである。然るに勝久さんは長唄の師匠、保さんは著述家、終吉さんは図案を作ることを業とする画家であって、三軒の家は頗(すこぶ)る生計の方向を殊(こと)にしている。そこで早く怙(こ)を失った終吉さんは伯母(おば)をたよって往来(ゆきき)をしていても、勝久さんと保さんとはいつとなく疎遠になって、勝久さんは久しく弟の住所をだに知らずにいたそうである。そのうち丁度わたくしが渋江氏の子孫を捜しはじめた頃、保さんの女(むすめ)冬子(ふゆこ)さんが病死した。それを保さんが姉に報じたので、勝久さんは弟の所在(ありか)を知った。終吉さんが住所を告げてくれた叔父というのが即ち保さんである。是(ここ)においてわたくしは、外崎さんの捜索を煩(わずらわ)すまでもなく、保さんの今の牛込(うしごめ)船河原町(ふながわらちょう)の住所を知って、直(すぐ)にそれを外崎さんに告げた。

   その八

 わたくしは谷中の感応寺に往って、抽斎の墓を訪ねた。墓は容易(たやす)く見附けられた。南向の本堂の西側に、西に面して立っている。「抽斎渋江君墓碣銘(ぼけつめい)」という篆額(てんがく)も墓誌銘も、皆小島成斎(こじませいさい)の書である。漁村の文は頗る長い。後に保さんに聞けば、これでも碑が余り大きくなるのを恐れて、割愛して刪除(さんじょ)したものだそうである。『喫茗雑話(きつめいざつわ)』の載する所は三分の一にも足りない。わたくしはまた後に五弓雪窓(ごきゅうせっそう)がこの文を『事実文編(じじつぶんぺん)』巻(けん)の七十二に収めているのを知った。国書刊行会本を閲(けみ)するに、誤脱はないようである。ただ「撰経籍訪古志」に訓点を施して、経籍を撰び、古志を訪(と)うと訓(よ)ませてあるのに慊(あきたら)なかった。『経籍訪古志』の書名であることは論ずるまでもなく、あれは多紀□庭(たきさいてい)の命じた名だということが、抽斎と森枳園(もりきえん)との作った序に見えており、訪古の字面(じめん)は、『宋史(そうし)』鄭樵(ていしょう)の伝に、名山(めいざん)大川(たいせん)に游(あそ)び、奇を捜し古(いにしえ)を訪い、書を蔵する家に遇(あ)えば、必ず借留(しゃくりゅう)し、読み尽して乃(すなわ)ち去るとあるのに出たということが、枳園の書後に見えておる。
 墓誌に三子ありとして、恒善、優善、成善の名が挙げてあり、また「一女平野氏(ひらのうじ)出(しゅつ)」としてある。恒善はつねよし、優善はやすよし、成善はしげよしで、成善が保さんの事だそうである。また平野氏(うじ)の生んだ女(むすめ)というのは、比良野文蔵(ひらのぶんぞう)の女(むすめ)威能(いの)が、抽斎の二人(ににん)目の妻(さい)になって生んだ純(いと)である。勝久さんや終吉さんの亡父脩(おさむ)はこの文に載せてないのである。
 抽斎の碑の西に渋江氏の墓が四基ある。その一には「性如院宗是日体信士、庚申(こうしん)元文(げんぶん)五年閏七月十七日」と、向って右の傍(かたわら)に彫(え)ってある。抽斎の高祖父輔之(ほし)である。中央に「得寿院量遠日妙信士、天保八酉年十月廿六日」と彫ってある。抽斎の父允成(ただしげ)である。その間と左とに高祖父と父との配偶、夭折(ようせつ)した允成の女(むすめ)二人(ふたり)の法諡(ほうし)が彫ってある。「松峰院妙実日相信女、己丑(きちゅう)明和六年四月廿三日」とあるのは、輔之の妻、「源静院妙境信女、庚戌(こうじゅつ)寛政二年四月十三日」とあるのは、允成(ただしげ)の初(はじめ)の妻田中氏(うじ)、「寿松院妙遠日量信女、文政十二己丑(きちゅう)六月十四日」とあるのは、抽斎の生母岩田氏(いわたうじ)縫(ぬい)、「妙稟童女、父名允成、母川崎氏、寛政六年甲寅(こういん)三月七日、三歳而夭、俗名逸」とあるのも、「曇華(どんげ)水子(すいし)、文化八年辛未(しんび)閏(じゅん)二月十四日」とあるのも、並(ならび)に皆允成の女(むすめ)である。その二には「至善院格誠日在、寛保二年壬戌(じんじゅつ)七月二日」と一行に彫り、それと並べて「終事院菊晩日栄、嘉永七年甲寅(こういん)三月十日」と彫ってある。至善院は抽斎の曾祖父為隣(いりん)で、終事院は抽斎が五十歳の時父に先(さきだ)って死んだ長男恒善(つねよし)である。その三には五人の法諡が並べて刻してある。「医妙院道意日深信士、天明(てんめい)四甲辰(こうしん)二月二十九日」としてあるのは、抽斎の祖父本皓(ほんこう)である。「智照院妙道日修信女、寛政四壬子(じんし)八月二十八日」としてあるのは、本皓の妻登勢(とせ)である。「性蓮院妙相日縁信女、父本皓、母渋江氏、安永(あんえい)六年丁酉(ていゆう)五月三日死(しす)、享年十九、俗名千代、作臨終歌曰(りんじゅううたをつくりていわく)」云々(うんぬん)としてあるのは、登勢の生んだ本皓の女(むすめ)である。抽斎の高祖父輔之は男子がなくて歿したので、十歳になる女(むすめ)登勢に壻(むこ)を取ったのが為隣である。為隣は登勢の人と成らぬうちに歿した。そこへ本皓が養子に来て、登勢の配偶になって、千代を生ませたのである。千代が十九歳で歿したので、渋江氏の血統は一たび絶えた。抽斎の父允成は本皓の養子である。次に某々孩子(ぼうぼうがいし)と二行に刻してあるのは、並に皆保さんの子だそうである。その四には「渋江脩之墓」と刻してあって、これは石が新しい。終吉さんの父である。
 後に聞けば墓は今一基あって、それには抽斎の六世(せい)の祖辰勝(しんしょう)が「寂而院宗貞日岸居士」とし、その妻が「繋縁院妙念日潮大姉」とし、五世の祖辰盛(しんせい)が「寂照院道陸玄沢日行居士」とし、その妻が「寂光院妙照日修大姉」とし、抽斎の妻比良野氏(ひらのうじ)が「□照院妙浄日法大姉」とし、同(おなじく)岡西(おかにし)氏が「法心院妙樹日昌大姉」としてあったが、その石の折れてしまった迹(あと)に、今の終吉さんの父の墓が建てられたのだそうである。
 わたくしは自己の敬愛している抽斎と、その尊卑二属とに、香華(こうげ)を手向(たむ)けて置いて感応寺を出た。
 尋(つ)いでわたくしは保さんを訪(と)おうと思っていると、偶(たまたま)女(むすめ)杏奴(あんぬ)が病気になった。日々(にちにち)官衙(かんが)には通(かよ)ったが、公退の時には家路を急いだ。それゆえ人を訪問することが出来ぬので、保、終吉の両渋江と外崎との三家へ、度々書状を遣った。
 三家からはそれぞれ返信があって、中にも保さんの書状には、抽斎を知るために闕(か)くべからざる資料があった。それのみではない。終吉さんはその隙(ひま)に全快したので、保さんを訪ねてくれた。抽斎の事をわたくしに語ってもらいたいと頼んだのである。叔父(おじ)甥はここに十数年を隔てて相見たのだそうである。また外崎さんも一度わたくしに代って保さんをおとずれてくれたので、杏奴の病が癒えて、わたくしが船河原町(ふながわらちょう)へ往(ゆ)くに先だって、とうとう保さんが官衙に来てくれて、わたくしは抽斎の嗣子と相見ることを得た。

   その九

 気候は寒くても、まだ炉を焚(た)く季節に入(い)らぬので、火の気(け)のない官衙の一室で、卓を隔てて保さんとわたくしとは対坐した。そして抽斎の事を語って倦(う)むことを知らなかった。
 今残っている勝久さんと保さんとの姉弟(あねおとうと)、それから終吉さんの父脩(おさむ)、この三人の子は一つ腹で、抽斎の四人目の妻、山内(やまのうち)氏五百(いお)の生んだのである。勝久さんは名を陸(くが)という。抽斎が四十三、五百が三十二になった弘化(こうか)四年に生れて、大正五年に七十歳になる。抽斎は嘉永四年に本所(ほんじょ)へ移ったのだから、勝久さんはまだ神田で生れたのである。
 終吉さんの父脩は安改元年に本所で生れた。中(なか)三年置いて四年に、保さんは生れた。抽斎が五十三、五百が四十二の時の事で、勝久さんはもう十一、脩も四歳になっていたのである。
 抽斎は安政五年に五十四歳で亡くなったから、保さんはその時まだ二歳であった。幸(さいわい)に母五百は明治十七年までながらえていて、保さんは二十八歳で恃(じ)を喪(うしな)ったのだから、二十六年の久しい間、慈母の口から先考(せんこう)の平生(へいぜい)を聞くことを得たのである。
 抽斎は保さんを学医にしようと思っていたと見える。亡くなる前にした遺言(ゆいごん)によれば、経(けい)を海保漁村(かいほぎょそん)に、医を多紀安琢(たきあんたく)に、書を小島成斎(こじませいさい)に学ばせるようにいってある。それから洋学については、折を見て蘭語(らんご)を教えるが好(い)いといってある。抽斎は友人多紀□庭(さいてい)などと同じように、頗(すこぶ)るオランダ嫌いであった。学殖の深かった抽斎が、新奇を趁(お)う世俗と趨舎(すうしゃ)を同じくしなかったのは無理もない。劇を好んで俳優を品評した中に市川小団次(いちかわこだんじ)の芸を「西洋」だといってある。これは褒(ほ)めたのではない。然(しか)るにその抽斎が晩年に至って、洋学の必要を感じて、子に蘭語を教えることを遺言したのは、安積艮斎(あさかごんさい)にその著述の写本を借りて読んだ時、翻然として悟ったからだそうである。想(おも)うにその著述というのは『洋外紀略(ようがいきりゃく)』などであっただろう。保さんは後に蘭語を学ばずに英語を学ぶことになったが、それは時代の変遷のためである。
 わたくしは保さんに、抽斎の事を探り始めた因縁を話した。そして意外にも、僅(わずか)に二歳であった保さんが、父に「武鑑」を貰(もら)って翫(もてあそ)んだということを聞いた。それは出雲寺板(いずもじばん)の「大名(だいみょう)武鑑」で、鹵簿(ろぼ)の道具類に彩色を施したものであったそうである。それのみではない。保さんは父が大きい本箱に「江戸鑑(えどかがみ)」と貼札(はりふだ)をして、その中に一ぱい古い「武鑑」を収めていたことを記憶している。このコルレクションは保さんの五、六歳の時まで散佚(さんいつ)せずにいたそうである。「江戸鑑」の箱があったなら、江戸図の箱もあっただろう。わたくしはここに『江戸鑑図目録(えどかんずもくろく)』の作られた縁起(えんぎ)を知ることを得たのである。
 わたくしは保さんに、父の事に関する記憶を、箇条書(かじょうがき)にしてもらうことを頼んだ。保さんは快諾して、同時にこれまで『独立評論』に追憶談を載せているから、それを見せようと約した。
 保さんと会見してから間もなく、わたくしは大礼(たいれい)に参列するために京都へ立った。勤勉家の保さんは、まだわたくしが京都にいるうちに、書きものの出来たことを報じた。わたくしは京都から帰って、直(すぐ)に保さんを牛込に訪ねて、書きものを受け取り、また『独立評論』をも借りた。ここにわたくしの説く所は主として保さんから獲(え)た材料に拠るのである。

   その十

 渋江氏の祖先は下野(しもつけ)の大田原(おおたわら)家の臣であった。抽斎六世の祖を小左衛門(こざえもん)辰勝(しんしょう)という。大田原政継(せいけい)、政増(せいそう)の二代に仕えて、正徳(しょうとく)元年七月二日に歿した。辰勝の嫡子重光(ちょうこう)は家を継いで、大田原政増、清勝(せいしょう)に仕え、二男勝重(しょうちょう)は去って肥前(ひぜん)の大村(おおむら)家に仕え、三男辰盛(しんせい)は奥州(おうしゅう)の津軽家に仕え、四男勝郷(しょうきょう)は兵学者となった。大村には勝重の往(ゆ)く前に、源頼朝(みなもとのよりとも)時代から続いている渋江公業(こうぎょう)の後裔(こうえい)がある。それと下野から往った渋江氏との関係の有無(ゆうむ)は、なお講窮すべきである。辰盛が抽斎五世の祖である。
 渋江氏の仕えた大田原家というのは、恐らくは下野国那須郡(なすごおり)大田原の城主たる宗家(そうか)ではなく、その支封(しほう)であろう。宗家は渋江辰勝の仕えたという頃、清信(きよのぶ)、扶清(すけきよ)、友清(ともきよ)などの世であったはずである。大田原家は素(もと)一万二千四百石であったのに、寛文五年に備前守政清(びぜんのかみまさきよ)が主膳高清(しゅぜんたかきよ)に宗家を襲(つ)がせ、千石を割(さ)いて末家(ばつけ)を立てた。渋江氏はこの支封の家に仕えたのであろう。今手許(てもと)に末家の系譜がないから検することが出来ない。
 辰盛は通称を他人(たひと)といって、後小三郎(こさぶろう)と改め、また喜六(きろく)と改めた。道陸(どうりく)は剃髪(ていはつ)してからの称である。医を今大路(いまおおじ)侍従道三(どうさん)玄淵(げんえん)に学び、元禄十七年三月十二日に江戸で津軽越中守(えっちゅうのかみ)信政(のぶまさ)に召し抱えられて、擬作金(ぎさくきん)三枚十人扶持を受けた。元禄十七年は宝永(ほうえい)と改元せられた年である。師道三は故土佐守信義(のぶよし)の五女を娶(めと)って、信政の姉壻になっていたのである。辰盛は宝永三年に信政に随(したが)って津軽に往き、四年正月二十八日に知行(ちぎょう)二百石になり、宝永七年には二度日、正徳二年には三度目に入国して、正徳二年七月二十八日に禄を加増せられて三百石になり、外に十人扶持を給せられた。この時は信政が宝永七年に卒したので、津軽家は土佐守信寿(のぶしげ)の世になっていた。辰盛は享保(きょうほう)十四年九月十九日に致仕して、十七年に歿した。出羽守(でわのかみ)信著(のぶあき)の家を嗣(つ)いだ翌年に歿したのである。辰盛の生年は寛文二年だから、年を享(う)くること七十一歳である。この人は三男で他家に仕えたのに、その父母は宗家から来て奉養を受けていたそうである。
 辰盛は兄重光の二男輔之(ほし)を下野から迎え、養子として玄瑳(げんさ)と称(とな)えさせ、これに医学を授けた。即(すなわ)ち抽斎の高祖父である。輔之は享保十四年九月十九日に家を継いで、直(すぐ)に三百石を食(は)み、信寿に仕うること二年余の後、信著に仕え、改称して二世道陸となり、元文五年閏七月十七日に歿した。元禄七年の生(うまれ)であるから、四十七歳で歿したのである。
 輔之には登勢(とせ)という女(むすめ)一人(ひとり)しかなかった。そこで病(やまい)革(すみやか)なるとき、信濃(しなの)の人某(それがし)の子を養って嗣(し)となし、これに登勢を配した。登勢はまだ十歳であったから、名のみの夫婦である。この女壻が為隣(いりん)で、抽斎の曾祖父である。為隣は寛保(かんぽう)元年正月十一日に家を継いで、二月十三日に通称の玄春(げんしゅん)を二世玄瑳(げんさ)と改め、翌寛保二年七月二日に歿し、跡には登勢が十二歳の未亡人(びぼうじん)として遺(のこ)された。
 寛保二年に十五歳で、この登勢に入贅(にゅうぜい)したのは、武蔵国(むさしのくに)忍(おし)の人竹内作左衛門(たけのうちさくざえもん)の子で、抽斎の祖父本皓(ほんこう)が即ちこれである。津軽家は越中守信寧(のぶやす)の世になっていた。宝暦(ほうれき)九年に登勢が二十九歳で女(むすめ)千代(ちよ)を生んだ。千代は絶えなんとする渋江氏の血統を僅に繋(つな)ぐべき子で、あまつさえ聡慧(そうけい)なので、父母はこれを一粒種(ひとつぶだね)と称して鍾愛(しょうあい)していると、十九歳になった安永六年の五月三日に、辞世の歌を詠んで死んだ。本皓が五十歳、登勢が四十七歳の時である。本皓には庶子があって、名を令図(れいと)といったが、渋江氏を続(つ)ぐには特に学芸に長じた人が欲しいというので、本皓は令図を同藩の医小野道秀(おのどうしゅう)の許(もと)へ養子に遣(や)って、別に継嗣(けいし)を求めた。
 この時根津(ねづ)に茗荷屋(みょうがや)という旅店(りょてん)があった。その主人稲垣清蔵(いながきせいぞう)は鳥羽(とば)稲垣家の重臣で、君(きみ)を諌(いさ)めて旨(むね)に忤(さか)い、遁(のが)れて商人となったのである。清蔵に明和元年五月十二日生れの嫡男専之助(せんのすけ)というのがあって、六歳にして詩賦(しふ)を善くした。本皓がこれを聞いて養子に所望すると、清蔵は子を士籍に復せしむることを願っていたので、快(こころよ)く許諾した。そこで下野の宗家を仮親(かりおや)にして、大田原頼母(たのも)家来用人(ようにん)八十石渋江官左衛門(かんざえもん)次男という名義で引き取った。専之助名は允成(ただしげ)字(あざな)は子礼(しれい)、定所(ていしょ)と号し、おる所の室(しつ)を容安(ようあん)といった。通称は初(はじめ)玄庵(げんあん)といったが、家督の年の十一月十五日に四世道陸と改めた。儒学は柴野栗山(しばのりつざん)、医術は依田松純(よだしょうじゅん)の門人で、著述には『容安室文稿(ようあんしつぶんこう)』、『定所詩集』、『定所雑録』等がある。これが抽斎の父である。

   その十一

 允成(ただしげ)は才子で美丈夫(びじょうふ)であった。安永七年三月朔(さく)に十五歳で渋江氏に養われて、当時儲君(ちょくん)であった、二つの年上の出羽守信明(のぶあきら)に愛せられた。養父本皓(ほんこう)の五十八歳で亡くなったのが、天明四年二月二十九日で、信明の襲封(しゅうほう)と同日である。信明はもう土佐守と称していた。主君が二十三歳、允成が二十一歳である。
 寛政三年六月二十二日に信明は僅に三十歳で卒し、八月二十八日に和三郎(わさぶろう)寧親(やすちか)が支封から入(い)って宗家を継いだ。後に越中守と称した人である。寧親は時に二十七歳で、允成は一つ上の二十八歳である。允成は寧親にも親昵(しんじつ)して、殆(ほとん)ど兄弟(けいてい)の如くに遇せられた。平生(へいぜい)着丈(きだけ)四尺の衣(い)を著(き)て、体重が二十貫目あったというから、その堂々たる相貌(そうぼう)が思い遣られる。
 当時津軽家に静江(しずえ)という女小姓(おんなごしょう)が勤めていた。それが年老いての後に剃髪して妙了尼(みょうりょうに)と号した。妙了尼が渋江家に寄寓(きぐう)していた頃、可笑(おか)しい話をした。それは允成が公退した跡になると、女中たちが争ってその茶碗(ちゃわん)の底の余瀝(よれき)を指に承(う)けて舐(ねぶ)るので、自分も舐ったというのである。
 しかし允成は謹厳な人で、女色(じょしょく)などは顧みなかった。最初の妻田中氏は寛政元年八月二十二日に娶(めと)ったが、これには子がなくて、翌年四月十三日に亡くなった。次に寛政三年六月四日に、寄合(よりあい)戸田政五郎(とだまさごろう)家来納戸役(なんどやく)金七両十二人扶持川崎丈助(かわさきじょうすけ)の女(むすめ)を迎えたが、これは四年二月に逸(いつ)という女(むすめ)を生んで、逸が三歳で夭折(ようせつ)した翌年、七年二月十九日に離別せられた。最後に七年四月二十六日に允成の納(い)れた室(しつ)は、下総国(しもうさのくに)佐倉(さくら)の城主堀田(ほった)相模守(さがみのかみ)正順(まさより)の臣、岩田忠次(いわたちゅうじ)の妹縫(ぬい)で、これが抽斎の母である。結婚した時允成が三十二歳、縫が二十一歳である。
 縫は享和二年に始めて須磨(すま)という女(むすめ)を生んだ。これは後文政二牛に十八歳で、留守居(るすい)年寄(としより)佐野(さの)豊前守(ぶぜんのかみ)政親(まさちか)組飯田四郎左衛門(いいだしろうざえもん)良清(よしきよ)に嫁し、九年に二十五歳で死んだ。次いで文化二年十一月八日に生れたのが抽斎である。允成四十二歳、縫三十一歳の時の子である。これから後(のち)には文化八年閏(じゅん)二月十四日に女(むすめ)が生れたが、これは名を命ずるに及ばずして亡くなった。感応寺(かんのうじ)の墓に曇華(どんげ)水子(すいし)と刻してあるのがこの女(むすめ)の法諡(ほうし)である。
 允成(ただしげ)は寧親の侍医で、津軽藩邸に催される月並(つきなみ)講釈の教官を兼ね、経学(けいがく)と医学とを藩の子弟に授けていた。三百石十人扶持の世禄(せいろく)の外に、寛政十二年から勤料(つとめりょう)五人扶持を給せられ、文化四年に更に五人扶持を加え、八年にまた五人扶持を加えられて、とうとう三百石と二十五人扶持を受けることとなった。中(なか)二年置いて文化十一年に一粒金丹(いちりゅうきんたん)を調製することを許された。これは世に聞えた津軽家の秘方で、毎月(まいげつ)百両以上の所得になったのである。
 允成は表向(おもてむき)侍医たり教官たるのみであったが、寧親の信任を蒙(こうむ)ることが厚かったので、人の敢(あえ)て言わざる事をも言うようになっていて、数(しばしば)諫(いさ)めて数(しばしば)聴(き)かれた。寧親は文化元年五月連年蝦夷地(えぞち)の防備に任じたという廉(かど)を以て、四万八千石から一躍して七万石にせられた。いわゆる津軽家の御乗出(おんのりだし)がこれである。五年十二月には南部(なんぶ)家と共に永く東西蝦夷地を警衛することを命ぜられて、十万石に進み、従(じゅ)四位下(げ)に叙せられた。この津軽家の政務発展の時に当って、允成が啓沃(けいよく)の功も少くなかったらしい。
 允成は文政五年八月朔(さく)に、五十九歳で致仕した。抽斎が十八歳の時である。次いで寧親も八年四月に退隠して、詩歌俳諧を銷遣(しょうけん)の具とし、歌会には成島司直(なるしましちょく)などを召し、詩会には允成を召すことになっていた。允成は天保(てんぽう)二年六月からは、出羽国亀田(かめだ)の城主岩城(いわき)伊予守(いよのかみ)隆喜(たかひろ)に嫁した信順(のぶゆき)の姉もと姫に伺候し、同年八月からはまた信順の室欽姫附(かねひめづき)を兼ねた。八月十五日に隠居料三人扶持を給せられることになったのは、これらのためであろう。中一年置いて四年四月朔に、隠居料二人扶持を増して、五人扶持にせられた。
 允成は天保八年[#「八年」は底本では「八月」]十月二十六日に、七十四歳で歿した。寧親は四年前の天保四年六月十四日に、六十九歳で卒した。允成の妻縫(ぬい)は、文政七年七月朔に剃髪して寿松(じゅしょう)といい、十二年六月十四日に五十五歳で亡くなった。夫に先(さきだ)つこと八年である。

   その十二

 抽斎は文化二年十一月八日に、神田弁慶橋に生れたと保(たもつ)さんがいう。これは母五百(いお)の話を記憶しているのであろう。父允成(ただしげ)は四十二歳、母縫(ぬい)は三十一歳の時である。その生れた家はどの辺であるか。弁慶橋というのは橋の名ではなくて町名である。当時の江戸分間大絵図(えどぶんけんおおえず)というものを閲(けみ)するに、和泉橋(いずみばし)と新橋(あたらしばし)との間の柳原通(やなぎはらどおり)の少し南に寄って、西から東へ、お玉(たま)が池(いけ)、松枝町(まつえだちょう)、弁慶橋、元柳原町(もとやなぎはらちょう)、佐久間町(さくまちょう)、四間町(しけんちょう)、大和町(やまとちょう)、豊島町(としまちょう)という順序に、町名が注してある。そして和泉橋を南へ渡って、少し東へ偏(かたよ)って行く通が、東側は弁慶橋、西側は松枝町になっている。この通の東隣(ひがしどなり)の筋は、東側が元柳原町、西側が弁慶橋になっている。わたくしが富士川游(ふじかわゆう)さんに借りた津軽家の医官の宿直日記によるに、允成(ただしげ)は天明六年八月十九日に豊島町通(どおり)横町(よこちょう)鎌倉(かまくら)横町家主(いえぬし)伊右衛門店(いえもんたな)を借りた。この鎌倉横町というのは、前いった図を見るに、元柳原町と佐久間町との間で、北(きた)の方(かた)河岸(かし)に寄った所にある。允成がこの店(たな)を借りたのは、その年正月二十二日に従来住んでいた家が焼けたので、暫(しばら)く多紀桂山(たきけいざん)の許(もと)に寄宿していて、八月に至って移転したのである。その従来住んでいた家も、余り隔たっていぬ和泉橋附近であったことは、日記の文から推することが出来る。次に文政八年三月晦(みそか)に、抽斎の元柳原六丁目の家が過半類焼したということが、日記に見えている。元柳原町は弁慶橋と同じ筋で、ただ東西両側(りょうそく)が名を異にしているに過ぎない。想(おも)うに渋江氏(うじ)は久しく和泉橋附近に住んでいて、天明に借りた鎌倉横町から、文政八年に至るまでの間に元柳原町に移ったのであろう。この元柳原町六丁目の家は、拍斎の生れた弁慶橋の家と同じであるかも知れぬが、あるいは抽斎の生れた文化二年に西側の弁慶橋にいて、その後文政八年に至るまでの間に、向側(むかいがわ)の元柳原町に移ったものと考えられぬでもない。
 抽斎は小字(おさなな)を恒吉(つねきち)といった。故越中守信寧(のぶやす)の夫人真寿院(しんじゅいん)がこの子を愛して、当歳の時から五歳になった頃まで、殆(ほとん)ど日ごとに召し寄せて、傍(そば)で嬉戯(きぎ)するのを見て楽(たのし)んだそうである。美丈夫允成に肖(に)た可憐児(かれんじ)であったものと想われる。
 志摩(しま)の稲垣氏の家世(かせい)は今詳(つまびらか)にすることが出来ない。しかし抽斎の祖父清蔵も恐らくは相貌(そうぼう)の立派な人で、それが父允成を経由して抽斎に遺伝したものであろう。この身的遺伝と並行して、心的遺伝が存じていなくてはならない。わたくしはここに清蔵が主を諫めて去った人だという事実に注目する。次に後(のち)允成になった神童専之助を出(いだ)す清蔵の家庭が、尋常の家庭でないという推測を顧慮する。彼は意志の方面、此(これ)は智能(ちのう)の方面で、この両方面における遺伝的系統を繹(たず)ぬるに、抽斎の前途は有望であったといっても好(よ)かろう。
 さてその抽斎が生れて来た境界(きょうがい)はどうであるか。允成の庭(にわ)の訓(おしえ)が信頼するに足るものであったことは、言を須(ま)たぬであろう。オロスコピイは人の生れた時の星象(せいしょう)を観測する。わたくしは当時の社会にどういう人物がいたかと問うて、ここに学問芸術界の列宿を(れっしゅく)数えて見たい。しかし観察が徒(いたずら)に汎(ひろ)きに失せぬために、わたくしは他年抽斎が直接に交通すべき人物に限って観察することとしたい。即ち抽斎の師となり、また年上の友となる人物である。抽斎から見ての大己(たいこ)である。
 抽斎の経学の師には、先ず市野迷庵(いちのめいあん)がある。次は狩谷□斎(かりやえきさい)である。医学の師には伊沢蘭軒(いさわらんけん)がある。次は抽斎が特に痘科を学んだ池田京水(いけだけいすい)である。それから抽斎が交(まじわ)った年長者は随分多い。儒者または国学者には安積艮斎(あさかごんさい)、小島成斎(こじませいさい)、岡本况斎(おかもときょうさい)、海保漁村(かいほぎょそん)、医家には多紀(たき)の本末(ほんばつ)両家、就中(なかんずく)□庭(さいてい)、伊沢蘭軒の長子榛軒(しんけん)がいる。それから芸術家及(および)芸術批評家に谷文晁(たにぶんちょう)、長島五郎作(ながしまごろさく)、石塚重兵衛(いしづかじゅうべえ)がいる。これらの人は皆社会の諸方面にいて、抽斎の世に出(い)づるを待ち受けていたようなものである。

   その十三

 他年抽斎の師たり、年長の友たるべき人々の中(うち)には、現に普(あまね)く世に知れわたっているものが少くない。それゆえわたくしはここに一々その伝記を挿(さしはさ)もうとは思わない。ただ抽斎の誕生を語るに当って、これをしてその天職を尽さしむるに与(あずか)って力ある長者のルヴュウをして見たいというに過ぎない。
 市野迷庵、名を光彦(こうげん)、字を俊卿(しゅんけい)また子邦(しほう)といい、初め□窓(うんそう)、後迷庵と号した。その他酔堂(すいどう)、不忍池漁(ふにんちぎょ)等の別号がある。抽斎の父允成が酔堂説(すいどうのせつ)を作ったのが、『容安室文稿(ようあんしつぶんこう)』に出ている。通称は三右衛門(さんえもん)である。六世(せい)の祖重光(ちょうこう)が伊勢国白子(しろこ)から江戸に出て、神田佐久間町に質店(しちみせ)を開き、屋号を三河屋(みかわや)といった。当時の店は弁慶橋であった。迷庵の父光紀(こうき)が、香月氏(かづきうじ)を娶(めと)って迷庵を生せたのは明和二年二月十日であるから、抽斎の生れた時、迷庵はもう四十一歳になっていた。
 迷庵は考証学者である。即ち経籍の古版本(こはんぼん)、古抄本を捜(さぐ)り討(もと)めて、そのテクストを閲(けみ)し、比較考勘する学派、クリチックをする学派である。この学は源を水戸(みと)の吉田篁□(よしだこうとん)に発し、□斎がその後(のち)を承(う)けて発展させた。篁□は抽斎の生れる七年前に歿している。迷庵が□斎らと共に研究した果実が、後に至って成熟して抽斎らの『訪古志(ほうこし)』となったのである。この人が晩年に『老子(ろうし)』を好んだので、抽斎も同嗜(どうし)の人となった。
 狩谷□斎、名は望之(ぼうし)、字(あざな)は卿雲(けいうん)、□斎はその号である。通称を三右衛門(さんえもん)という。家は湯島(ゆしま)にあった。今の一丁目である。□斎の家は津軽の用達(ようたし)で、津軽屋と称し、□斎は津軽家の禄千石を食(は)み、目見諸士(めみえしょし)の末席(ばっせき)に列せられていた。先祖は参河国(みかわのくに)苅屋(かりや)の人で、江戸に移ってから狩谷氏を称した。しかし□斎は狩谷保古(ほうこ)の代にこの家に養子に来たもので、実父は高橋高敏(たかはしこうびん)、母は佐藤氏である。安永四年の生(うまれ)で、抽斎の母縫(ぬい)と同年であったらしい。果してそうなら、抽斎の生れた時は三十一歳で、迷庵よりは十(とお)少(わか)かったのだろう。抽斎の□斎に師事したのは二十余歳の時だというから、恐らくは迷庵を喪(うしな)って□斎に適(ゆ)いたのであろう。迷庵の六十二歳で亡くなった文政九年八月十四日は、抽斎が二十二歳、□斎が五十二歳になっていた年である。迷庵も□斎も古書を集めたが、□斎は古銭をも集めた。漢代(かんだい)の五物(ごぶつ)を蔵して六漢道人(ろっかんどうじん)と号したので、人が一物(いちぶつ)足らぬではないかと詰(なじ)った時、今一つは漢学だと答えたという話がある。
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