護持院原の敵討
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著者名:森鴎外 

 播磨国(はりまのくに)飾東郡(しきとうごおり)姫路(ひめじ)の城主酒井雅楽頭忠実(うたのかみただみつ)の上邸(かみやしき)は、江戸城の大手向左角にあった。そこの金部屋(かねべや)には、いつも侍(さむらい)が二人ずつ泊ることになっていた。然(しか)るに天保(てんぽう)四年癸(みずのと)巳(み)の歳(とし)十二月二十六日の卯(う)の刻過(すぎ)の事である。当年五十五歳になる、大金奉行(おおかねぶぎょう)山本三右衛門(さんえもん)と云う老人が、唯(ただ)一人すわっている。ゆうべ一しょに泊る筈(はず)の小金(こがね)奉行が病気引(びき)をしたので、寂しい夜寒(よさむ)を一人で凌(しの)いだのである。傍(そば)には骨の太い、がっしりした行燈(あんどう)がある。燈心に花が咲いて薄暗くなった、橙黄色(だいだいいろ)の火が、黎明(しののめ)の窓の明りと、等分に部屋を領している。夜具はもう夜具葛籠(つづら)にしまってある。
 障子の外に人のけはいがした。「申し。お宅から急用のお手紙が参りました」
「お前は誰(たれ)だい」
「お表の小使でございます」
 三右衛門は内から障子をあけた。手紙を持って来たのは、名は知らぬが、見識(みし)った顔の小使で、二十(はたち)になるかならぬの若者である。
 受け取った封書を持って、行燈の前にすわった三右衛門は、先(ま)ず燈心の花を落して掻(か)き立てた。そして懐(ふところ)から鼻紙袋を出して、その中の眼鏡(めがね)を取って懸(か)けた。さて上書を改めたが、伜(せがれ)宇平の手でもなければ、女房(にょうぼう)の手でもない。ちょいと首を傾けたが、宛名には相違がないので、とにかく封を切った。手紙を引き出して披(ひら)き掛けて、三右衛門は驚いた。中は白紙である。
 はっと思ったとたんに、頭を強く打たれた。又驚く間もなく、白紙の上に血がたらたらと落ちた。背後(うしろ)から一刀浴せられたのである。
 夜具葛籠の前に置いてあった脇差(わきざし)を、手探りに取ろうとする所へ、もう二の太刀(たち)を打ち卸して来る。無意識に右の手を挙げて受ける。手首がばったり切り落された。起ち上がって、左の手でむなぐらに掴(つか)み着いた。
 相手は存外卑怯(ひきょう)な奴(やつ)であった。むなぐらを振り放し科(しな)に、持っていた白刃(しらは)を三右衛門に投げ付けて、廊下へ逃げ出した。
 三右衛門は思慮の遑(いとま)もなく跡を追った。中の口まで出たが、もう相手の行方(ゆくえ)が知れない。痛手を負った老人の足は、壮年の癖者(くせもの)に及ばなかったのである。
 三右衛門は灼(や)けるような痛(いたみ)を頭と手とに覚えて、眩暈(めまい)が萌(きざ)して来た。それでも自分で自分を励まして、金部屋(かねべや)へ引き返して、何より先に金箱の錠前を改めた。なんの異状もない。「先ず好かった」と思った時、眩暈が強く起こったので、左の手で夜具葛籠を引き寄せて、それに靠(よ)り掛かった。そして深い緩(ゆる)い息を衝(つ)いていた。

 物音を聞き附けて、最初に駆け附けたのは、泊番の徒目附(かちめつけ)であった。次いで目附が来る。大目附が来る。本締(もとじめ)が来る。医師を呼びに遣(や)る。三右衛門の妻子のいる蠣殻町(かきがらちょう)の中邸(なかやしき)へ使が走って行く。
 三右衛門は精神が慥(たしか)で、役人等に問われて、はっきりした返事をした。自分には意趣遺恨を受ける覚(おぼえ)は無い。白紙の手紙を持って来て切って掛かった男は、顔を知って名を知らぬ表小使である。多分金銀に望(のぞみ)を繋(か)けたものであろう。家督相続の事を宜(よろ)しく頼む。敵(かたき)を討ってくれるように、伜に言って貰(もら)いたいと云うのである。その間三右衛門は「残念だ、残念だ」と度々(たびたび)繰り返して云った。
 現場(げんば)に落ちていた刀は、二三日前作事の方に勤めていた五瀬某が、詰所(つめしょ)に掛けて置いたのを盗まれた品であった。門番を調べてみれば、卯刻(うのこく)過に表小使亀蔵(かめぞう)と云うものが、急用のお使だと云って通用門を出たと云うことである。亀蔵は神田久右衛門町(かんだきゅうえもんちょう)代地の仲間口入宿(ちゅうげんくちいれやど)富士屋治三郎が入れた男で、二十歳になる。下請宿(したうけやど)は若狭屋(わかさや)亀吉である。表小使亀蔵が部屋を改めて見れば、山本の外四人の金部屋役人に、それぞれ宛てた封書があって、中は皆白紙である。
 察するに亀蔵は、早晩泊番の中の誰(たれ)かを殺して金を盗もうと、兼(かね)て謀(はか)っていたのであろう。奥羽(おうう)その外の凶歉(きょうけん)のために、江戸は物価の騰貴した年なので、心得違(こころえちがえ)のものが出来たのであろうと云うことになった。天保四年は小売米(こうりまい)百文に五合五勺になった。天明(てんめい)以後の飢饉年(ききんどし)である。
 医師が来て、三右衛門に手当をした。
 親族が駆け附けた。蠣殻町の中邸から来たのは、三右衛門の女房と、伜宇平とである。宇平は十九歳になっている。宇平の姉りよは細川長門守興建(ながとのかみおきたけ)の奥に勤めていたので、豊島町(としまちょう)の細川邸から来た。当年二十二歳である。三右衛門の女房は後添(のちぞい)で、りよと宇平とのためには継母である。この外にまだ三右衛門の妹で、小倉新田(こくらしんでん)の城主小笠原備後守貞謙(おがさわらびんごのかみさだよし)の家来(けらい)原田某の妻になって、麻布(あざぶ)日(ひ)が窪(くぼ)の小笠原邸にいるのがあるが、それは間に合わないで、酒井邸には来なかった。
 三右衛門は医師が余り物を言わぬが好いと云うのに構わず、女房子供にも、役人に言ったと同じ事を繰り返して言って聞せた。
 蠣殻町の住いは手狭で、介抱が行き届くまいと言うので、浜町添邸(そえやしき)の神戸(かんべ)某方で、三右衛門を引き取るように沙汰(さた)せられた。これは山本家の遠い親戚(しんせき)である。妻子はそこへ附き添って往った。そのうちに原田の女房も来た。

 神戸方で三右衛門は二十七日の寅(とら)の刻に絶命した。
 その日の酉(とり)の下刻(げこく)に、上邸(かみやしき)から見分(けんぶん)に来た。徒目附、小人(こびと)目附等に、手附(てつけ)が附いて来たのである。見分の役人は三右衛門の女房、伜宇平、娘りよの口書(くちがき)を取った。
 役人の復命に依(よ)って、酒井家から沙汰があった。三右衛門が重手(おもで)を負いながら、癖者を中の口まで追って出たのは、「平生(へいぜい)の心得方宜(こころえかたよろしき)に附(つき)、格式相当の葬儀可取行(とりおこなふべし)」と云うのである。三右衛門の創(きず)を受けた現場にあった、癖者の刀は、役人の手で元の持主五瀬某に見せられた。
 二十八日に三右衛門の遺骸(いがい)は、山本家の菩提所(ぼだいしょ)浅草堂前の遍立寺(へんりゅうじ)に葬られた。葬(とむらい)を出す前に、神戸方で三右衛門が遭難当時に持っていた物の始末をした時、大小も当然伜宇平が持って帰る筈であったが、娘りよは切に請うて脇差を譲り受けた。そして宇平がそれを承諾すると、泣き腫(は)らしていた、りよの目が、刹那(せつな)の間喜(よろこび)にかがやいた。

 侍が親を殺害(せつがい)せられた場合には、敵討(かたきうち)をしなくてはならない。ましてや三右衛門が遺族に取っては、その敵討が故人の遺言になっている。そこで親族打ち寄って、度々評議を凝(こ)らした末、翌天保五年甲午(きのえうま)の歳の正月中旬に、表向敵討の願をした。
 評議の席で一番熱心に復讐(ふくしゅう)がしたいと言い続けて、成功を急いで気を苛(いら)ったのは宇平であった。色の蒼(あお)い、瘠(や)せた、骨細の若者ではあるが、病身ではない。姉のりよは始終黙って人の話を聞いていたが、願書に自分の名を書き入れて貰うことだけは、きっと居直って要求した。りよは十人並の容貌(ようぼう)で、筋肉の引き締まった小女(こおんな)である。未亡人は頭痛持でこんな席へは稀(まれ)にしか出て来ぬが、出て来ると、若(も)し返討(かえりうち)などに逢(あ)いはすまいかと云う心配ばかりして、果(はて)はどうしてこんな災難に遇ったことかと繰り返してくどくのであった。日が窪から来る原田夫婦や、未亡人の実弟桜井須磨右衛門(すまえもん)は、いつもそれを慰めようとして骨を折った。
 然るにここに親戚一同がひどく頼みに思っている男が一人いる。この男は本国姫路にいるので、こう云う席には列することが出来なかったが、訃音(ふいん)に接するや否や、弔慰(くやみ)の状をよこして、敵討にはきっと助太刀をすると誓ったのである。姫路ではこの男は家老本多意気揚(いきり)に仕えている。名は山本九郎右衛門と云って当年四十五歳になる。亡くなった三右衛門がためには、九つ違の実弟である。
 九郎右衛門は兄の訃音を得た時、すぐに主人意気揚に願書を出した。甥(おい)、女姪(めい)が敵討をするから、自分は留守を伜健蔵に委(まか)せて置いて、助太刀に出たいと云うのである。主人本多意気揚は徳川家康が酒井家に附けた意気揚の子孫で、武士道に心入(こころいれ)の深い人なので、すぐに九郎右衛門の願を聞き届けた。江戸ではまだ敵討の願を出したばかりで、上(かみ)からそんな沙汰もないうちに、九郎右衛門は意気揚から拵附(こしらえつき)の刀一腰(ひとこし)と、手当金二十両とを貰って、姫路を立った。それが正月二十三日の事である。
 二月五日に九郎右衛門は江戸蠣殻町の中邸にある山本宇平が宅に着いた。宇平を始(はじめ)、細川家から暇(いとま)を取って帰っていた姉のりよが喜(よろこび)は譬(たと)えようがない。沈着で口数をきかぬ、筋骨逞(たくま)しい叔父(おじ)を見たばかりで、姉も弟も安堵(あんど)の思をしたのである。
「まだこっちではお許は出んかい」と、九郎右衛門は宇平に問うた。
「はい。まだなんの御沙汰もございません。お役人方に伺いましたが、多分忌中だから御沙汰がないのだろうと申すことで」
 九郎右衛門は眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せた。暫(しばら)くして、「大きい車は廻りが遅いのう」と云った。
 それから九郎右衛門は、旅の支度が出来たかと問うた。いずれお許が出てからと、宇平が云った。叔父の眉間には又皺が寄った。しかし今度は長い間なんとも言わなかった。外の話を色々した後で、叔父は思い出したように云った。「あの支度はのう、先へして置いても好いぞよ」
 六日には九郎右衛門が兄の墓参をした。七日には浜町の神戸方へ、兄が末期(まつご)に世話になった礼に往った。西北の風の強い日で、丁度九郎右衛門が神戸の家にいるうちに、神田から火事が始まった。歴史に残っている午年(うまどし)の大火である。未(ひつじ)の刻に佐久間町(さくまちょう)二丁目の琴三味線師の家から出火して、日本橋方面へ焼けひろがり、翌朝卯の刻まで焼けた。「八つ時分三味線屋からことを出し火の手がちりてとんだ大火事」と云う落首があった。浜町も蠣殻町も風下(かざした)で、火の手は三つに分かれて焼けて来るのを見て、神戸の内は人出も多いからと云って、九郎右衛門は蠣殻町へ飛んで帰った。
 山本の内では九郎右衛門が指図をして、荷物は残らず出させたが、申(さる)の下刻には中邸一面が火になって、山本も焼けた。
 りよは火事が始まるとすぐ、旧主人の細川家の邸をさして駆けて行ったが、もう豊島町は火になっていた。「あぶないあぶない」「姉さん火の中へ逃げちゃあいけねえ」などと云うものがある。とうとう避難者や弥次馬(やじうま)共の間に挟(はさ)まれて、身動(みうごき)もならぬようになる。頭の上へは火の子がばらばら落ちて来る。りよは涙ぐんで亀井町の手前から引き返してしまった。内へはもう叔父が浜町から帰って、荷物を片附けていた。
 浜町も矢の倉に近い方は大部分焼けたが、幸(さいわい)に酒井家の添邸は焼け残った。神戸家へ重々(かさねがさね)世話になるのは気の毒だと云うので、宇平一家はやはり遠い親戚に当る、添邸の山本平作方へ、八日の辰(たつ)の刻過に避難した。

 三右衛門が遺族は山本平作方の部屋を借りて、夢の中で夢を見るような心持になって、ぼんやりしている。未亡人は頭痛が起って寝たきりである。宇平は腕組をして何やら考え込む。只(ただ)りよ一人平作の家族に気兼(きがね)をしながら、甲斐々々(かいがい)しく立ち働いていたが、午頃(ひるごろ)になって細川の奥方の立退所(たちのきじょ)が知れたので、すぐに見舞に往った。
 晩にりよが帰ると九郎右衛門が云った。「おい。もう当分我々は家なんぞはいらんが、若殿が旅に出て風を引かぬように、支度だけはして遣(や)らんではならんぞ」叔父は宇平を若殿々々と呼んで揶揄(からか)っているのである。
「はい」と云ったりよは、その晩から宇平の衣類に手を着けた。
 九日にはりよが旅支度にいる物を買いに出た。九郎右衛門が書附にして渡したのである。きょうは風が南に変って、珍らしく暖いと思っていると、酉(とり)の上刻に又檜物町(ひものちょう)から出火した。おとつい焼け残った町家(まちや)が、又この火事で焼けた。
 十日には又寒い西北の風が強く吹いていると、正午に大名小路(だいみょうこうじ)の松平伯耆守宗発(まつだいらほうきのかみむねあきら)の上邸から出火して、京橋方面から芝口へ掛けて焼けた。
 続いて十一日にも十二日にも火事がある。物価の高いのに、災難が引き続いてあるので、江戸中人心恟々(きょうきょう)としている。山本方で商人に注文した、少しばかりの品物にも、思い掛けぬ手違(てちがえ)が出来て、りよが幾ら気を揉(も)んでも、支度がなかなかはかどらない。
 或る日九郎右衛門は烟草(たばこ)を飲みながら、りよの裁縫するのを見ていたが、不審らしい顔をして、烟管(きせる)を下に置いた。「なんだい。そんなちっぽけな物を拵(こしら)えたって、しようがないじゃないか。若殿はのっぽでお出(いで)になるからなあ」
 りよは顔を赤くした。「あの、これはわたくしので」縫っているのは女の脚絆甲掛(きゃはんこうがけ)である。
「なんだと」叔父は目を大きく□(みは)った。「お前も武者修業に出るのかい」
「はい」と云ったが、りよは縫物の手を停(と)めない。
「ふん」と云って、叔父は良(やや)久(ひさ)しく女姪(めい)の顔を見ていた。そしてこう云った。「そいつは駄目だ。お前のような可哀らしい女の子を連れて、どこまで往くか分からん旅が出来るものか。敵(かたき)にはどこで出逢うか、何年立って出逢うか、まるで当(あて)がないのだ。己(おれ)と宇平とは只それを捜しに行くのだ。見附かってからお前に知らせれば好(い)いじゃないか」
「仰(おっし)ゃる通(とおり)、どこでお逢になるか知れませんのに、きっと江戸へお知らせになることが出来ましょうか。それに江戸から参るのを、きっとお待になることが出来ましょうか」罪のないような、狡猾(こうかつ)らしいような、くりくりした目で、微笑を帯びて、叔父の顔をじっと見た。
 叔父は少からず狼狽(ろうばい)した。「なる程。それは時と場合とに依る事で、わしもきっととは云い兼ねる。出来る事なら、どうにでもしてお前をその場へ呼んで遣るのだ。万一間に合わぬ事があったら、それはお前が女に生れた不肖(ふしょう)だと、諦(あきら)めてくれるより外ない」
「それ御覧遊ばせ。わたくしはどうしてもその万一の事のないようにいたしとうございます。女は連れて行かれぬと仰ゃるなら、わたくしは尼になって参ります」
「まあ、そう云うな。尼も女じゃからのう」
 りよは涙を縫物の上に落して、黙っている。叔父は一面詞(ことば)を尽して慰めたが、一面女は連れて行かぬと、きっぱり言い渡した。りよは涙を拭(ふ)いて、縫いさした脚絆をそっと側(そば)にあった風呂敷包(ふろしきづつみ)の中にしまった。

 酒井忠実は月番老中大久保加賀守忠真(かがのかみただざね)と三奉行とに届済(とどけずみ)の上で、二月二十六日附を以(もっ)て、宇平、りよ、九郎右衛門の三人に宛てた、大目附連署の証文を渡して、敵討を許した。「早々本意を達し可立帰(たちかへるべし)、若(もし)又敵人死候(しにさふら)はば、慥(たしか)なる証拠を以可申立(もってまをしたつべし)」と云う沙汰である。三人には手当が出る。留守へは扶持(ふち)が下がる。りよはお許は出ても、敵を捜しには旅立たぬことになって見れば、これで未亡人とりよとの、江戸での居所(いどころ)さえ極(き)めて置けば、九郎右衛門、宇平の二人は出立することが出来るのである。
 りよは小笠原邸の原田夫婦が一先(ひとまず)引き取ることになった。病身な未亡人は願済(ねがいずみ)の上で、里方桜井須磨右衛門の家で保養することになった。
 さていよいよ九郎右衛門、宇平の二人が門出(かどで)をしようとしたが、二人共敵の顔を識らない。人相書だけをたよりにするのは、いかにも心細いので、口入宿の富士屋や、請宿(うけやど)の若狭屋へ往って、色々問い質(ただ)したが、これと云う事実も聞き出されない。それに容貌が分からぬばかりでなく、生国も紀州だとは云っているが、確(しか)としたことは分からぬらしい。只酒井家に奉公する前には、上州高崎にいたことがあると云うだけである。
 その時、山本平作方へ突然尋ねて来た男がある。この男は近江国(おうみのくに)浅井郡の産(うまれ)で、少(わか)い時に江戸に出て、諸家に仲間(ちゅうげん)奉公をしているうちに、丁度亀蔵と一しょに酒井家の表小使をして、三右衛門には世話になったこともあるので、若しお役に立つようなら、幸(さいわい)今は酒井家から暇(いとま)を取っているから、敵の見識人(みしりにん)として附いて行っても好(よ)いと云うのである。名は文吉と云って、四十二歳になる。体は丈夫で、渡者(わたりもの)の仲間には珍らしい、実直なものだと云うことが、一目見て分かった。
 九郎右衛門が会って話をして見て、すぐに宇平の家来に召し抱(かか)えることにした。

 九郎右衛門、宇平、文吉の三人は二十九日に菩提所遍立寺から出立することに極めて、前日に浜町の山本平作方を引き払って、寺へ往った。そこへは病気のまだ好くならぬ未亡人の外、りよを始、親戚一同が集まって来て、先ず墓参をして、それから離別の盃(さかずき)を酌(く)み交(かわ)した。住持はその席へ蕎麦(そば)を出して、「これは手討のらん切(ぎり)でございます」と、茶番めいた口上を言った。親戚は笑い興じて、只一人打ち萎(しお)れているりよを促し立てて帰った。
 寺に一夜(ひとよ)寝て、二十九日の朝三人は旅に立った。文吉は荷物を負って一歩跡を附いて行く。亀蔵が奉公前にいたと云うのをたよりにして、最初上野国(こうずけのくに)高崎をさして往くのである。
 九郎右衛門も宇平も文吉も、高崎をさして往くのに、亀蔵が高崎にいそうだと云う気にはなっていない。どこをさして往こうと云う見当が附かぬので、先ず高崎へでも往って見ようと思うに過ぎない。亀蔵と云う、無頼漢とも云えば云われる、住所不定の男のありかを、日本国中で捜そうとするのは、米倉の中の米粒一つを捜すようなものである。どの俵に手を着けて好いか分からない。然しそれ程の覚束(おぼつか)ない事が、一方から見れば、是非共為遂(しと)げなくてはならぬ事である。そこで一行は先ず高崎と云う俵をほどいて見ることにした。
 高崎では踪跡(そうせき)が知れぬので、前橋へ出た。ここには榎町(えのきまち)の政淳寺(せいじゅんじ)に山本家の先祖の墓がある。九郎右衛門等はそれに参って成功を祈った。そこから藤岡に出て、五六日いた。そこから武蔵国(むさしのくに)の境を越して、児玉村に三日いた。三峯山(みつみねさん)に登っては、三峯権現(ごんげん)に祈願を籠(こ)めた。八王子を経て、甲斐国(かいのくに)に入って、郡内、甲府を二日に廻って、身延山(みのぶさん)へ参詣(さんけい)した。信濃国(しなののくに)では、上諏訪(かみすわ)から和田峠を越えて、上田の善光寺に参った。越後国(えちごのくに)では、高田を三日、今町を二日、柏崎(かしわざき)、長岡を一日、三条、新潟を四日で廻った。そこから加賀街道に転じて、越中国(えっちゅうのくに)に入って、富山に三日いた。この辺は凶年の影響を蒙(こうむ)ることが甚(はなはだ)しくて、一行は麦に芋大根を切り交ぜた飯を食って、農家の土間に筵(むしろ)を敷いて寝た。飛騨国(ひだのくに)では高山に二日、美濃国(みののくに)では金山(かなやま)に一日いて、木曽路(きそじ)を太田に出た。尾張国(おわりのくに)では、犬山に一日、名古屋に四日いて、東海道を宮に出て、佐屋を経て伊勢国(いせのくに)に入り、桑名、四日市、津を廻り、松坂に三日いた。

 一行が二日以上泊るのは、稀に一日の草臥休(くたびれやすみ)をすることもあるが、大抵何か手掛りがありそうに思われるので、特別捜索をするのである。松坂では殿町に目代(もくだい)岩橋某と云うものがいて、九郎右衛門等の言うことを親切に聞き取って、綿密な調べをしてくれた。その調べ上げた事実を言って聞せられた時は、一行は暗中に燈火(ともしび)を認めたような気がしたのである。
 松坂に深野屋佐兵衛と云う大商人(おおしょうにん)がある。そこへは紀伊国熊野浦(きいのくにくまのうら)長島外町の漁師定右衛門(さだえもん)と云うものが毎日魚(うお)を送ってよこす。その縁で佐兵衛は定右衛門一家(け)と心安くなっている。然るに定右衛門の長男亀蔵は若い時江戸へ出て、音信(いんしん)不通になったので、二男定助一人をたよりにしている。その亀蔵が今年正月二十一日に、襤褸(ぼろ)を身に纏(まと)って深野屋へ尋ねて来た。佐兵衛は「お前のような不孝者を、親父様(おやじさま)に知らせずに留めて置く事は出来ぬ」と云った。亀蔵はすごすご深野屋の店を立ち去ったが、それを見たものが、「あれは紀州の亀蔵と云う男で、なんでも江戸で悪い事をして、逃げて来たのだろう」と評判した。
 後に深野屋へ聞えた所に依ると、亀蔵は正月二十四日に、熊野仁郷村(にんごうむら)にいるははかたの小父林助の家に来て、置いてくれと頼んだが、林助は貧乏していて、人を置くことが出来ぬと云って、勧めて父定右衛門が許(もと)へ遣(や)った。知人にたよろうとし、それが□(かな)わぬ段になって、始めて親戚をおとずれ、親戚にことわられて、亀蔵はようよう親許へ帰る気になったらしい。定右衛門の家には二十八日に帰った。
 二月中旬に亀蔵は江戸で悪い事をして帰ったのだろうと云う噂(うわさ)が、松坂から定右衛門の方へ聞えた。定右衛門が何をしたかと問うた時、亀蔵は目上の人に創を負わせたと云った。そこで定右衛門と林助とで、亀蔵を坊主にして、高野山(こうやさん)に登らせることにした。二人が剃髪(ていはつ)した亀蔵を三浦坂まで送って別れたのが二月十九日の事である。亀蔵はその時茶の弁慶縞(べんけいじま)の木綿綿入を着て、木綿帯を締め、藍(あい)の股引(ももひき)を穿(は)いて、脚絆を当てていた。懐中には一両持っていた。
 亀蔵は二十二日に高野領清水村の又兵衛と云うものの家に泊って、翌二十三日も雨が降ったので滞留した。そして二十四日に高野山に登った。山で逢ったものもある。二十六日の夕方には、下山して橋本にいたのを人が見た。それからは行方不明になっている。多分四国へでも渡ったかと云うことである。

 松坂の目代にこの顛末(てんまつ)を聞いた時、この坊主になった定右衛門の伜亀蔵が敵だと云うことに疑を挾(はさ)むものは、主従三人の中(うち)に一人もなかった。宇平はすぐに四国へ尋ねに往こうと云った。しかし九郎右衛門がそれを止めて、四国へ渡ったかも知れぬと云うのは、根拠のない推量である、四国へもいずれ往くとして、先ず手近な土地から捜すが好いと云った。
 一行は松坂を立って、武運を祈るために参宮した。それから関を経て、東海道を摂津国(せっつのくに)大阪に出て、ここに二十三日を費した。その間に松坂から便(たより)があって、紀州の定右衛門が伜の行末を心配して、気病(きやみ)で亡くなったと云う事を聞いた。それから西宮(にしのみや)、兵庫(ひょうご)を経て、播磨国(はりまのくに)に入(い)り、明石(あかし)から本国姫路に出て、魚町(うおまち)の旅宿に三日いた。九郎右衛門は伜の家があっても、本意を遂げるまでは立ち寄らぬのである。それから備前国(びぜんのくに)に入り、岡山を経て、下山(しもやま)から六月十六日の夜舟に乗って、いよいよ四国へ渡った。松坂以来九郎右衛門の捜索方鍼(ほうしん)に対して、稍(やや)不満らしい気色を見せながら、つまりは意志の堅固な、機嫌に浮沈(うきしずみ)のない叔父に威圧せられて、附いて歩いていた宇平が、この時急に活気を生じて、船中で夜の更(ふ)けるまで話し続けた。
 十六日の朝舟は讃岐国丸亀(さぬきのくにまるがめ)に着いた。文吉に松尾を尋ねさせて置いて、二人は象頭山(ぞうずさん)へ祈願に登った。すると参籠人(さんろうにん)が丸亀で一癖ありげな、他所者(たしょもの)の若い僧を見たと云う話をした。宇平はもう敵を見附けたような気になって、亥(い)の刻に山を下った。丸亀に帰って、文吉を松尾から呼んで僧を見させたが、それは別人であった。
 伊予国(いよのくに)の銅山は諸国の悪者の集まる所だと聞いて、一行は銅山を二日捜した。それから西条に二日、小春(こはる)、今治(いまばり)に二日いて、松山から道後の温泉に出た。ここへ来るまでに、暑(あつさ)を侵(おか)して旅行をした宇平は留飲疝通(りゅういんせんつう)に悩み、文吉も下痢して、食事が進まぬので、湯町で五十日の間保養した。大分体が好くなったと云って、中大洲(なかおおす)を二日捜して、八幡浜(やはたはま)に出ると、病後を押して歩いた宇平が、力抜けがして煩(わずら)った。そこで五日間滞留して、ようよう九州行の舟に乗ることが出来た。四国の旅は空(むな)しく過ぎたのである。

 舟は豊後国佐賀関(ぶんごのくにさがのせき)に着いた。鶴崎(つるさき)を経て、肥後国(ひごのくに)に入り、阿蘇山(あそさん)の阿蘇神宮、熊本の清正公(せいしょうこう)へ祈願に参って、熊本と高橋とを三日ずつ捜して、舟で肥前国(ひぜんのくに)島原に渡った。そこに二日いて、長崎へ出た。長崎で三日目に、敵らしい僧を島原で見たと云う話を聞いて、引き返して又島原を五日尋ねた。それから熊本を更に三日、宇土を二日、八代(やつしろ)を一日、南工宿(なんくじゅく)を二日尋ねて、再び舟で肥前国温泉嶽(おんせんだけ)の下の港へ渡った。すると長崎から来た人の話に、敵らしい僧の長崎にいることを聞いた。長崎上筑後町(かみちくごまち)の一向宗(いっこうしゅう)の寺に、勧善寺と云うのがある。そこへ二十歳前後の若い僧が来て、棒を指南していると云うのである。一行は又長崎行の舟に乗った。
 長崎に着いたのは十一月八日の朝である。舟引地町(ふなひきじまち)の紙屋と云う家に泊って、町年寄(まちどしより)福田某に尋人(たずねにん)の事を頼んだ。ここで聞けば、勧善寺の客僧はいよいよ敵らしく思われる。それは紀州産(うまれ)のもので、何か人目を憚(はばか)るわけがあると云って、門外不出で暮していると云うのである。親切な町年寄は、若し取り逃がしてはならぬと云って、盗賊方二人(にん)を同行させることにした。町で剣術師範をしている小川某と云うものも、町年寄の話を聞いて、是非その場に立ち会って、場合に依っては助太刀がしたいと申し込んだ。
 九郎右衛門、宇平の二人は、大村家の侍で棒の修行を懇望(こんもう)するものだと云って、勧善寺に弟子入の事を言い入れた。客僧は承引して、あすの巳(み)の刻に面会しようと云った。二人は喜び勇んで、文吉を連れて寺へ往く。小川と盗賊方の二人とは跡に続く。さて文吉に合図を教えて客僧に面会して見ると、似も寄らぬ人であった。ようようその場を取り繕って寺を出たが、皆忌々(いまいま)しがる中に、宇平は殊(こと)に落胆した。
 一行は福田、小川等に礼を言って長崎を立って、大村に五日いて佐賀へ出た。この時九郎右衛門が足痛を起して、杖(つえ)を衝(つ)いて歩くようになった。筑後国(ちくごのくに)では久留米(くるめ)を五日尋ねた。筑前国では先(ま)ず大宰府天満宮に参詣(さんけい)して祈願を籠め、博多(はかた)、福岡に二日いて、豊前国小倉(こくら)から舟に乗って九州を離れた。

 長門国(ながとのくに)下関に舟で渡ったのが十二月六日であった。雪は降って来る。九郎右衛門の足痛は次第に重るばかりである。とうとう宇平と文吉とで勧めて、九郎右衛門を一旦(いったん)姫路へ帰すことにした。九郎右衛門は渋りながら下関から舟に乗って、十二月十二日の朝播磨国室津(むろのつ)に着いた。そしてその日のうちに姫路の城下平(ひら)の町(まち)の稲田屋に這入(はい)った。本意を遂げるまでは、飽くまでも旅中の心得でいて、倅の宅には帰らぬのである。
 宇平は九郎右衛門を送って置いて、十二月十日に文吉を連れて下関を立った。それから周防国(すおうのくに)宮市に二日いて、室積(むろづみ)を経て、岩国の錦帯橋へ出た。そこを三日捜して、舟で安芸国(あきのくに)宮島へ渡った。広島に八日いて、備後国(びんごのくに)に入り、尾の道、鞆(とも)に十七日、福山に二日いた。それから備前国岡山を経て、九郎右衛門の見舞旁(かたがた)姫路に立ち寄った。
 宇平、文吉が姫路の稲田屋で九郎右衛門と再会したのは、天保六年乙未(きのとひつじ)の歳正月二十日であった。丁度その時広岸(こうがん)(広峯)山(ざん)の神主(かんぬし)谷口某と云うものが、怪しい非人の事を知らせてくれたので、九郎右衛門が文吉を見せに遣った。非人は石見産(いわみうまれ)だと云っていた。人に怪まれるのは脇差を持っていたからであった。しかし敵ではなかった。
 九郎右衛門の足はまだなかなか直らぬので、宇平は二月二日に文吉を連れて姫路を立って、五日に大阪に着いた。宿は阿波座(あわざ)おくひ町の摂津国屋(つのくにや)である。然るに九郎右衛門は二人を立たせてから間もなく、足が好くなって、十四日には姫路を立って、明石から舟に乗って、大阪へ追いかけて往った。

 三人は摂津国屋に泊って、所々を尋ね廻るうちに、路銀が尽きそうになった。そこで宿屋の主人の世話で、九郎右衛門は按摩(あんま)になり、文吉は淡島(あわしま)の神主になった。按摩になったのは、柔術の心得があるから、按摩の出来ぬ筈はないと云うのであった。淡島の神主と云うのは、神社で神に仕えるものではない。胸に小さい宮を懸けて、それに紅(もみ)で縫った括猿(くくりざる)などを吊(つ)り下げ、手に鈴を振って歩く乞食(こじき)である。
 その時九郎右衛門、宇平の二人は文吉に暇(いとま)を遣ろうとして、こう云った。これまでも我々は只お前と寝食を共にすると云うだけで、給料と云うものも遣らず、名のみ家来にしていたのに、お前は好く辛抱して勤めてくれた。しかしもう日本全国をあらかた遍歴して見たが、敵はなかなか見附からない。この按排(あんばい)では我々が本意を遂げるのは、いつの事か分らない。事によったらこのまま恨(うらみ)を呑(の)んで道路にのたれ死をするかも知れない。お前はこれまで詞(ことば)で述べられぬ程の親切を尽してくれたのだから、どうもこの上一しょにいてくれとは云い兼ねる。勿論(もちろん)敵の面体(めんてい)を見識らぬ我々は、お前に別れては困るに違ないが、もはや是非に及ばない。只運を天に任せて、名告(なの)り合う日を待つより外はない。お前は忠実この上もない人であるから、これから主取(しゅうどり)をしたら、どんな立身も出来よう。どうぞここで別れてくれと云うのであった。
 九郎右衛門は兼て宇平に相談して置いて、文吉を呼んでこの申渡(もうしわたし)をした。宇平は側(そば)で腕組をして聞いていたが、涙は頬を伝って流れていた。
 黙って衝(つ)っ伏(ぷ)して聞いていた文吉は、詞の切れるのを待って、頭を擡(もた)げた。□(みは)った目は異様に赫(かがや)いている。そして一声「檀那(だんな)、それは違います」と叫んだ。心は激して詞はしどろであったが、文吉は大凡(おおよそ)こんなことを言った。この度(たび)の奉公は当前(あたりまえ)の奉公ではない。敵討の供に立つからは、命はないものである。お二人が首尾好く本意を遂げられれば好し、万一敵に多勢の悪者でも荷担して、返討(かえりうち)にでも逢われれば、一しょに討たれるか、その場を逃れて、二重の仇(あだ)を討つかの二つより外ない。足腰の立つ間は、よしやお暇が出ても、影の形に添うように離れぬと云うのであった。
 さすがの九郎右衛門も詞の返しようがなかった。宇平は蘇(よみがえ)った思(おもい)をした。
 それからは三人が摂津国屋を出て、木賃宿(きちんやど)に起臥(おきふし)することになった。もうどこをさして往って見ようと云う所もないので、只已(や)むに勝(まさ)る位の考で、神仏の加護を念じながら、日ごとに市中を徘徊(はいかい)していた。
 そのうち大阪に咳逆(がいぎゃく)が流行して、木賃宿も咳(せき)をする人だらけになった。三月の初に宇平と文吉とが感染して、熱を出して寝た。九郎右衛門は自分の貰った銭で、三人が一口ずつでも粥(かゆ)を啜(すす)るようにしていた。四月の初に二人が本復すると、こん度は九郎右衛門が寝た。体は巌畳(がんじょう)でも、年を取っているので、容体(ようだい)が二人より悪い。人の好い医者を頼んで見て貰うと、傷寒(しょうかん)だと云った。それは熱が高いので、譫語(うわこと)に「こら待て」だの「逃がすものか」だのと叫んだからである。
 木賃宿の主人が迷惑がるのを、文吉が宥(なだ)め賺(すか)して、病人を介抱しているうちに、病附(やみつき)の急劇であったわりに、九郎右衛門の強い体は少い日数(ひかず)で病気に打ち勝った。

 九郎右衛門の恢復(かいふく)したのを、文吉は喜んだが、ここに今一つの心配が出来た。それは不断から機嫌の変わり易(やす)い宇平が、病後に際立(きわだ)って精神の変調を呈して来たことである。
 宇平は常はおとなしい性(たち)である。それにどこか世馴れぬぼんやりした所があるので、九郎右衛門は若殿と綽号(あだな)を附けていた。しかしこの若者は柔い草葉の風に靡(なび)くように、何事にも強く感動する。そんな時には常蒼(つねあお)い顔に紅(くれない)が潮(ちょう)して来て、別人のように能弁になる。それが過ぎると反動が来て、沈鬱(ちんうつ)になって頭を低(た)れ手を拱(こまね)いて黙っている。
 宇平がこの性質には、叔父も文吉も慣れていたが、今の様子はそれとも変って来ているのである。朝夕(ちょうせき)平穏な時がなくなって、始終興奮している。苛々(いらいら)したような起居振舞(たちいふるまい)をする。それにいつものような発揚の状態になって、饒舌(おしゃべり)をすることは絶えて無い。寧(むしろ)沈黙勝だと云っても好い。只興奮しているために、瑣細(ささい)な事にも腹を立てる。又何事もないと、わざわざ人を挑(いど)んで詞尻(ことばじり)を取って、怒(いかり)の動機を作る。さて怒が生じたところで、それをあらわに発動させずに、口小言を言って拗(す)ねている。
 こう云う状態が二三日続いた時、文吉は九郎右衛門に言った。「若檀那(わかだんな)の御様子はどうも変じゃございませんか」文吉は宇平の事を、いつか若檀那と云うことになっていた。
 九郎右衛門は気にも掛けぬらしく笑って云った。「若殿か。あの御機嫌の悪いのは、旨(うま)い物でも食わせると直るのだ」
 九郎右衛門のこう云ったのも無理はない。三人は日ごとに顔を見合っていて気が附かぬが、困窮と病痾(びょうあ)と羇旅(きりょ)との三つの苦艱(くげん)を嘗(な)め尽して、どれもどれも江戸を立った日の俤(おもかげ)はなくなっているのである。
 文吉がこの話をした翌日の朝であった。相宿(あいやど)のものがそれぞれ稼(かせぎ)に出た跡で、宇平は九郎右衛門の前に膝(ひざ)を進めて、何か言い出しそうにして又黙ってしまった。
「どうしたのだい」と叔父が云った。
「実は少し考えた事があるのです」
「なんでも好いから、そう云え」
「おじさん。あなたはいつ敵に逢えると思っていますか」
「それはお前にも分かるまいが、己(おれ)にも分からんのう」
「そうでしょう。蜘蛛(くも)は網(い)を張って虫の掛かるのを待っています。あれはどの虫でも好いのだから、平気で待っているのです。若し一匹の極(き)まった虫を取ろうとするのだと、蜘蛛の網は役に立ちますまい。わたしはこうして僥倖(ぎょうこう)を当にしていつまでも待つのが厭(いや)になりました」
「随分己もお前も方々歩いて見たじゃないか」
「ええ。それは歩くには歩きましたが」と云い掛けて、宇平は黙った。
「はてな。歩くには歩いたが、何が悪かったと云うのか。構わんから言え」
 宇平はやはり黙って、叔父の顔をじっと見ていたが、暫くして云った。「おじさん。わたし共は随分歩くには歩きました。しかし歩いたってこれは見附からないのが当前(あたりまえ)かも知れません。じっとして網を張っていたって、来て掛かりっこはありませんが、歩いていたって、打(ぶ)っ附(つ)からないかも知れません。それを先へ先へと考えてみますと、どうも妙です。わたしは変な心持がしてなりません」宇平は又膝を進めた。「おじさん。あなたはどうしてそんな平気な様子をしていられるのです」
 宇平のこの詞を、叔父は非常な注意の集中を以(もっ)て聞いていた。「そうか。そう思うのか。よく聴(き)けよ。それは武運が拙(つたな)くて、神にも仏にも見放されたら、お前の云う通だろう。人間はそうしたものではない。腰が起(た)てば歩いて捜す。病気になれば寝ていて待つ。神仏(しんぶつ)の加護があれば敵にはいつか逢われる。歩いて行き合うかも知れぬが、寝ている所へ来るかも知れぬ」
 宇平の口角には微(かす)かな、嘲(あざけ)るような微笑が閃(ひらめ)いた。「おじさん。あなたは神や仏が本当に助けてくれるものだと思っていますか」
 九郎右衛門は物に動ぜぬ男なのに、これを聞いた時には一種の気味悪さを感じた。「うん。それは分からん。分からんのが神仏(かみほとけ)だ」
 宇平の態度は不思議に恬然(てんぜん)としていて、いつもの興奮の状態とは違っている。「そうでしょう。神仏(かみほとけ)は分からぬものです。実はわたしはもう今までしたような事を罷(や)めて、わたしの勝手にしようかと思っています」
 九郎右衛門の目は大きく開いて、眉が高く挙がったが、見る見る蒼ざめた顔に血が升(のぼ)って、拳(こぶし)が固く握られた。
「ふん。そんなら敵討は罷(やめ)にするのか」
 宇平は軽く微笑(ほほえ)んだ。おこったことのない叔父をおこらせたのに満足したらしい。「そうじゃありません。亀蔵は憎い奴ですから、若し出合ったら、ひどい目に逢わせて遣ります。だが捜すのも待つのも駄目ですから、出合うまではあいつの事なんか考えずにいます。わたしは晴がましい敵討をしようとは思いませんから、助太刀もいりません。敵が知れれば知れる時知れるのですから、見識人(みしりにん)もいりません。文吉はこれからあなたの家来にしてお使下さいまし。わたしは近い内にお暇をいたす積です」
 九郎右衛門が怒は発するや否や忽(たちま)ち解けて、宇平のこの詞(ことば)を聞いている間に、いつもの優(やさ)しいおじさんになっていた。只何事をも強(し)いて笑談(じょうだん)に取りなす癖のおじが、珍らしく生真面目(きまじめ)になっていただけである。
 宇平が席を起って、木賃宿の縁側を降りる時、叔父は「おい、待て」と声を掛けたが、宇平の姿はもう見えなかった。しかし宇平がこれきりいなくなろうとは、叔父は思わなかった。

 夕方に文吉が帰ったので、九郎右衛門は近所へ往って宇平を尋ねて来いと云った。宇平は折々町の若い者の象棋(しょうぎ)をさしている所などへ往った。最初は敵の手掛りを聞き出そうとして、雑談に耳を傾けていたのだが、後には只何となしにそこで話していたのである。文吉はそう云う家を尋ねた。しかしどこにもいなかった。その晩には遅くなるまで九郎右衛門が起きていて、宇平の帰るのを待ったが、とうとう帰らなかった。
 文吉は宇平を尋ねて歩いた序(ついで)に、ふと玉造豊空稲荷(たまつくりほうくういなり)の霊験(れいげん)の話を聞いた。どこの誰(たれ)の親の病気が直ったとか、どこの誰は迷子の居所を知らせて貰ったとか、若い者共が評判し合っていたのである。文吉は九郎右衛門にことわって、翌日行水して身を潔(きよ)めて、玉造をさして出て行った。敵のありかと宇平の行方とを伺って見ようと思ったのである。
 稲荷(いなり)の社(やしろ)の前に来て見れば、大勢の人が出入(でいり)している。数えられぬ程多く立ててある、赤い鳥居が重なり合っていて、群集はその赤い洞(ほら)の中で蠢(うごめ)いているのである。外廻りには茶店が出来ている。汁粉屋がある。甘酒屋がある。赤い洞の両側には見せ物小屋やらおもちゃ店(みせ)やらが出来ている。洞を潜(くぐ)って社に這入ると、神主がお初穂と云って金を受け取って、番号札をわたす。伺を立てる人をその番号順に呼び入れるのである。
 文吉は持っていただけの銭を皆お初穂に上げた。しかし順番がなかなか来ぬので、とうとう日の暮れるまで待った。何も食わずに、腹が耗(へ)ったとも思わずにいたのである。暮六(くれむ)つが鳴ると、神主が出て「残りの番号の方は明朝お出(いで)なさい」と云った。
 次の日には未明に文吉が社へ往った。番号順は文吉より前なのに、まだ来ておらぬ人があったので、文吉は思ったより早く呼び出された。文吉が沙(すな)に額を埋(うず)めて拝みながら待っていると、これも思ったより早く、神主が出て御託宣を取り次いだ。「初の尋人(たずねにん)は春頃から東国の繁華な土地にいる。後の尋人の事は御託宣が無い」と云った。
 文吉は玉造から急いで帰って、御託宣を九郎右衛門に話した。
 九郎右衛門はそれを聞いて云った。「そうか。東国の繁華な土地と云えば江戸だが、いかに亀蔵が横着でも、うかと江戸には戻っていまい。成程我々が敵討に余所(よそ)へ出たと云うことは、噂に聞いたかも知れぬが、それにしても外の親戚も気を附けているのだから、どうも江戸に戻っていそうにない。お前は神主に一杯食わされたのじゃないか。後の尋人が知れぬと云うのも、お初穂がもう一度貰いたいのかも知れん」
 文吉はひどく勿体(もったい)ながって、九郎右衛門の詞を遮(さえぎ)るようにして、どうぞそう云わずに御託宣を信ずる気になって貰いたいと頼んだ。
 九郎右衛門は云った。「いや。己は稲荷様を疑いはせぬ。只どうも江戸ではなさそうに思うのだ」
 こう云っている所へ、木賃宿の亭主が来た。今家主(いえぬし)の所へ呼ばれて江戸から来た手紙を貰ったら、山本様へのお手紙であったと云って、一封の書状を出した。九郎右衛門が手に受け取って、「山本宇平殿、同(おなじく)九郎右衛門殿、桜井須磨右衛門、平安」と読んだ時、木賃宿でも主従の礼儀を守る文吉ではあるが、兼て聞き知っていた後室(こうしつ)の里からの手紙は、なんの用事かと気が急(せ)いて、九郎右衛門が披(ひら)く手紙の上に、乗り出すようにせずにはいられなかった。

 敵討の一行が立った跡で、故人三右衛門の未亡人は、里方桜井須磨右衛門の家で持病の直るのを待った。暫くすると難儀に遭(あ)ってから時が立ったのと、四方(あたり)が静になったのとのために、頭痛が余程軽くなった。実弟須磨右衛門は親切にはしてくれるが、世話にばかりなってもいにくいので、未亡人は余り忙(せわ)しくない奉公口をと云って捜して、とうとう小川町俎橋際(まないたばしぎわ)の高家衆(こうけしゅう)大沢右京大夫基昭(うきょうたいふもとあき)が奥に使われることになった。
 宇平の姉りよは叔母婿原田方に引き取られてから、墓参の時などには、樒(しきみ)を売る媼(うば)の世間話にも耳を傾けて、敵のありかを聞き出そうとしていたが、いつか忌(いみ)も明けた。そこで所々(しょしょ)に一二箇月ずつ奉公していたら、自然手掛りを得るたつきにもなろうと思い立って、最初は本所の或る家に住み込んだ。これは遠い親戚に当るので、奉公人やら客分やら分からぬ待遇を受けて、万事の手伝をしたのである。次に赤坂の堀と云う家の奥に、大小母(おおおば)が勤めていたので、そこへ手伝に往った。次に麻布(あざぶ)の或る家に奉公した。次に本郷弓町の寄合衆(よりあいしゅう)本多帯刀(たてわき)の家来に、遠い親戚があるので、そこへ手伝に往った。こんな風に奉公先を取り替えて、天保六年の春からは御茶の水の寄合衆酒井亀之進(かめのしん)の奥に勤めていた。この酒井の妻は浅草の酒井石見守忠方(ただみち)の娘である。
 未亡人もりよも敵のありかを聞き出そうと思っていて、中にもりよは昼夜それに心を砕いていたが、どうしても手掛りがない。九郎右衛門や宇平からは便(たより)が絶々(たえだえ)になるのに、江戸でも何一つしでかした事がない。女子(おなご)達の心細さは言おう様がなかった。
 月日が立って、天保六年の五月の初になった。或る日未亡人の里方の桜井須磨右衛門が浅草の観音に参詣して、茶店に腰を掛けていると、今まで歇(や)んでいた雨が又一しきり降って来た。その時茶店の軒へ駆け込んで雨を避ける二人連(づれ)の遊人体(あそびにんてい)の男がある。それが小降になるのを待ちながら、軒に立ってこんな話をした。
 一人が云った。「お前に話そうと思って忘れていたが、ゆうべの事だった。丁度今のように神田で雨に降り出されて、酒問屋(さかどいや)の戸の締っている外でしゃがんでいると、そこへ駆け込んだ奴(やつ)がある。見れば、あの酒井様にいた亀じゃあねえか。己はびっくりしたよ。好くずうずうしく帰って来やがったと思いながら、おい、亀と声を掛けたのだ。すると、えと云って振り向いたが、人違(ひとちがえ)をしなさんな、おいらあ虎(とら)と云うもんだと云っといて、まだ雨がどしどし降っているのに、駆け出して行ってしまやがった」
 今一人が云った。「じゃあ又帰っていやがるのだ。太(ふて)え奴だなあ」
 須磨右衛門は二人に声を掛けて、その亀と云う男は何者だと問うた。二人は侍に糺(ただ)されるのをひどく当惑がる様子であったが、おとどしの暮に大手の酒井様のお邸で悪い事をして逃げた仲間(ちゅうげん)の亀蔵の事だと云った。そして最後に「なに、ちょいと見たのですから、全く人違で、本当に虎と云うものだったかも知れません」と詞を濁した。只見掛けたと云うだけのこの二人を取り押さえても、別に役に立ちそうではなく、又荒立てて亀蔵に江戸を逃げられてはならぬと思って、須磨右衛門は穏便に二人を立ち去らせた。
 大阪で九郎右衛門が受け取ったのは、桜井から亀蔵の江戸にいることを知らせて遣(や)った手紙である。
 文吉はすぐに玉造へお礼参(まいり)に往った。九郎右衛門は文吉の帰るのを待って、手分をして大阪の出口々々を廻って見た。宇平の行方を街道の駕籠(かご)の立場(たてば)、港の船問屋(ふなどいや)に就(つ)いて尋ねたのである。しかしそれは皆徒労であった。
 九郎右衛門は是非なく甥(おい)の事を思い棄てて、江戸へ立つ支度をした。路銀は使い果しても、用心金(ようじんきん)と衣類腰の物とには手は着けない。九郎右衛門は花色木綿の単物(ひとえもの)に茶小倉の帯を締め、紺麻絣(こんあさがすり)の野羽織を着て、両刀を手挟(たばさ)んだ。持物は鳶色(とびいろ)ごろふくの懐中物、鼠木綿(ねずみもめん)の鼻紙袋、十手早縄(はやなわ)である。文吉も取って置いた花色の単物に御納戸(おなんど)小倉の帯を締めて、十手早縄を懐中した。
 木賃宿の主人には礼金を遣り、摂津国屋へは挨拶(あいさつ)に立ち寄って、九郎右衛門主従は六月二十八日の夜船で、伏見から津へ渡った。三十日に大暴風(おおあらし)で阪の下に半日留められた外は、道中なんの障(さわり)もなく、二人は七月十一日の夜品川に着いた。
 十二日寅(とら)の刻に、二人は品川の宿を出て、浅草の遍立寺(へんりゅうじ)に往って、草鞋(わらじ)のままで三右衛門の墓に参った。それから住持に面会して、一夜(ひとよ)旅の疲を休めた。
 翌十三日は盂蘭盆会(うらぼんえ)で、親戚のものが墓参に来る日である。九郎右衛門は住持に、自分達の来たのを知らせてくれるなと口止をして、自分と文吉とは庫裡(くり)に隠れていた。住持はなぜかと問うたが、九郎右衛門は只「謀(はかりごと)は密なるをとうとぶと申しますからな」と云ったきり、外の話にまぎらした。墓参に来たのは原田、桜井の女房達で、厳(きび)しい武家奉公をしている未亡人やりよは来なかった。
 戌(いぬ)の下刻になった時、九郎右衛門は文吉に言った。「さあ、これから捜しに出るのだ。見附けるまでは足を摺粉木(すりこぎ)にして歩くぞ」

 遍立寺を旅支度のままで出た二人は、先ず浅草の観音をさして往った。雷門近くなった時、九郎右衛門が文吉に言った。「どうも坊主にはなっておらぬらしいが、どんな風体(ふうてい)でいても見逃がすなよ。だがどうせ立派な形(なり)はしていないのだ」
 境内(けいだい)を廻って、観音を拝んで、見識人(みしりにん)を桜井に逢わせて貰った礼を言った。それから蔵前(くらまえ)を両国へ出た。きょうは蒸暑いのに、花火があるので、涼旁(すずみかたがた)見物に出た人が押し合っている。提灯(ちょうちん)に火を附ける頃、二人は茶店で暫く休んで、汗が少し乾くと、又歩き出した。
 川も見えず、船も見えない。玉や鍵(かぎ)やと叫ぶ時、群集が項(うなじ)を反(そ)らして、群集の上の花火を見る。
 酉(とり)の下刻と思われる頃であった。文吉が背後(うしろ)から九郎右衛門の袖を引いた。九郎右衛門は文吉の視線を辿(たど)って、左手一歩前を行く背の高い男を見附けた。古びた中形(ちゅうがた)木綿の単物(ひとえもの)に、古びた花色縞博多(しまはかた)の帯を締めている。
 二人は黙って跡を附けた。月の明るい夜である。横山町を曲る。塩町(しおちょう)から大伝馬町(おおでんまちょう)に出る。本町を横切って、石町河岸(こくちょうがし)から龍閑橋(りゅうかんばし)、鎌倉河岸(かまくらがし)に掛る。次第に人通が薄らぐので、九郎右衛門は手拭を出して頬被(ほおかぶり)をして、わざとよろめきながら歩く。文吉はそれを扶(たす)ける振(ふり)をして附いて行く。
 神田橋外元護寺院(もとごじいん)二番原に来た時は丁度子(ね)の刻頃であった。往来はもう全く絶えている。九郎右衛門が文吉に目ぐわせをした。二つの体を一つの意志で働かすように二人は背後(うしろ)から目ざす男に飛び着いて、黙って両腕をしっかり攫(つか)んだ。
「何をしやあがる」と叫んだ男は、振り放そうと身をもがいた。
 無言の二人は釘抜(くぎぬき)で釘を挟んだように腕を攫んだまま、もがく男を道傍(みちばた)の立木の蔭へ、引き摩(ず)って往った。
 九郎右衛門は強烈な火を節光板で遮ったような声で云った。「己はおとどしの暮お主(ぬし)に討たれた山本三右衛門の弟九郎右衛門だ。国所(くにところ)と名前を言って、覚悟をせい」
「そりゃあ人違だ。おいらあ泉州産(せんしゅううまれ)で、虎蔵と云うものだ。そんな事をした覚(おぼえ)はねえ」
 文吉が顔を覗(のぞ)き込んだ。「おい。亀。目の下の黒痣(ほくろ)まで知っている己がいる。そんなしらを切るな」
 男は文吉の顔を見て、草葉が霜に萎(しお)れるように、がくりと首を低(た)れた。「ああ。文公か」
 九郎右衛門はこれだけ聞いて、手早く懐中から早縄を出して、男を縛った。そして文吉に言った。「もうここは好いから、お茶ノ水の酒井亀之進様のお邸へ往ってくれ。口上はこうだ。手前は御当家のお奥に勤めているりよの宿許(やどもと)から参りました。母親が霍乱(かくらん)で夜明(よあけ)まで持つまいと申すことでござります。どうぞ格別の思召(おぼしめし)でお暇を下さって、一目お逢わせ下さるようにと、そう云うのだ。急げ」
「は」と云って、文吉は錦町(にしきちょう)の方角へ駆け出した。

 酒井亀之進の邸では、今宵(こよい)奥のひけが遅くて、りよはようよう部屋に帰って、寝巻に着換えようとしている所であった。そこへ老女の使が呼びに来た。
 りよは着換えぬうちで好かったと思いながら、すぐに起って上草履(うわぞうり)を穿(は)いて、廊下伝(づたい)に老女の部屋へ往った。
 老女は云った。「お前の宿から使が来ているがね、母親が急病だと云うことだ。盆ではあり、御多用の所だが、親の病気は格別だから、帰ってお出(いで)。親御に逢ったら、夜でもすぐにお邸へ戻るのだよ。あすになってから、又改めてお暇を願って遣るから」
「難有(ありがと)うございます」と、りよはお請(うけ)をして、老女の部屋をすべり出た。
 りよはこのまま往っても好いと考えながら、使とは誰が来たのかと、奥の口へ覗きに出た。御用を勤める時の支度で、木綿中形の単物に黒繻子(くろじゅす)の帯を締めていたのである。奥の口でりよは旅支度の文吉と顔を見合せた。そして親の病気が口実だと云うことを悟った。
 りよと一しょに奥を下がった傍輩(ほうばい)が二三人、物珍らしげに廊下に集まって、りよが宿の使に逢うのを見ようとしている。
「ちょいと忘物をいたしましたから」と、りよは独言(ひとりごと)のように云って、足を早めて部屋へ引き返した。
 部屋の戸を内から締めたりよは、葛籠(つづら)の蓋(ふた)を開けた。先ず取り出したのは着換の帷子(かたびら)一枚である。次に臂(ひじ)をずっと底までさし入れて、短刀を一本取り出した。当番の夜父三右衛門が持っていた脇差である。りよは二品を手早く袱紗(ふくさ)に包んで持って出た。

 文吉は敵を掴まえた顛末(てんまつ)を、途中でりよに話しながら、護持院原(ごじいんがはら)へ来た。
 りよは九郎右衛門に挨拶して、着換をする余裕はないので、短刀だけを包の中から出した。
 九郎右衛門は敵に言った。「そこへ来たのが三右衛門の娘りよだ。三右衛門を殺した事と、自分の国所名前をそこで言え」
 敵は顔を挙げてりよを見た。そして云った。「わたしもこれまでだ。本当の事を言います。なる程山本さんに創(きず)を附けたのはわたしだが、殺しはしません。勝負事に負けて金に困ったものですから、どうかして金が取りたいと思って、あんなへまな事をしました。わたしは泉州生田郡(いくたごおり)上野原村の吉兵衛(きちべえ)と云うものの伜で、名は虎蔵と云います。酒井様へ小使に住み込む時、勝負事で識合(しりあい)になっていた紀州の亀蔵と云う奴の名を、口から出任せに言ったのです。この外に言うことはありません。どうぞ御存分になすって下さい。」
「好く言った」と九郎右衛門は答えた。そしてりよと文吉とに目ぐわせして虎蔵の縄を解いた。三人が三方からじりじりと詰め寄った。
 縄をほどかれて、しょんぼり立っていた虎蔵が、ひょいと物をねらう獣のように体を前屈(まえかがみ)にしたかと思うと、突然りよに飛び掛かって、押し倒して逃げようとした。
 その時りよは一歩下がって、柄(つか)を握っていた短刀で、抜打に虎蔵を切った。右の肩尖(かたさき)から乳へ掛けて切り下げたのである。虎蔵はよろけた。りよは二太刀三太刀切った。虎蔵は倒れた。
「見事じゃ。とどめは己が刺す」九郎右衛門は乗り掛かって吭(のど)を刺した。
 九郎右衛門は刀の血を虎蔵の袖で拭いた。そしてりよにも脇差を拭かせた。二人共目は涙ぐんでいた。
「宇平がこの場に居合せませんのが」と、りよは只一言云った。

 九郎右衛門等三人は河岸(かし)にある本多伊予守頭取(いよのかみとうどり)の辻番所(つじばんしょ)に届け出た。辻番組合月番西丸御小納戸鵜殿吉之丞(にしまるおこなんどうどのきちのじょう)の家来玉木勝三郎組合の辻番人が聞き取った。本多から大目附に届けた。辻番所組合遠藤但馬守胤統(たじまのかみたねのり)から酒井忠学(ただのり)の留守居へ知らせた。酒井家は今年四月に代替(だいがわり)がしているのである。
 酒井家から役人が来て、三人の口書(くちがき)を取って忠学に復命した。
 翌十四日の朝は護持院原一ぱいの見物人である。敵を討った三人の周囲へは、山本家の親戚が追々(おいおい)馳(は)せ附けた。三人に鵜殿家から鮨(すし)と生菓子(なまがし)とを贈った。
 酉(とり)の下刻に西丸目附徒士頭(かちがしら)十五番組水野采女(うねめ)の指図で、西丸徒士目附永井亀次郎、久保田英次郎、西丸小人目附平岡唯八郎(ただはちろう)、井上又八、使之者志母谷(つかいのものしもや)金左衛門、伊丹(いたみ)長次郎、黒鍬之者(くろくわのもの)四人が出張した。それに本多家、遠藤家、平岡家、鵜殿家の出役(しゅつやく)があって、先ず三人の人体(にんてい)、衣類、持物、手創(てきず)の有無(ゆうむ)を取り調べた。創は誰も負っていない。次に永井、久保田両徒(かち)目附に当てた口書を取った。次に死骸の見分(けんぶん)をした。酒井家に奉公した時の亀蔵の名を以て調書に載せられた創はこうである。「背中左之方(ひだりのほう)一寸程突創(つききず)一箇所、創口腫上(はれあが)り深さ相知不申(あひしれまをさず)、領(えり)に切創(きりきず)一箇所、長さ三寸程、深さ二寸程、同所下之方(しものほう)に切創一箇所、長さ一寸五分程、深さ六分程、左耳之脇(わき)に切創一箇所、長さ一寸、深さ六分程、右之肩より乳へ掛け一尺程切創一箇所、深さ四寸程、同所脇肩に切創一箇所、長さ二寸、深さ一寸程、咽(のど)突創一箇所、長さ三寸程、都合七箇所」衣類は木綿単物、博多帯、持物は浅葱(あさぎ)手拭一筋である。死骸(しがい)は玉木勝三郎に預けられた。
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