紅毛傾城
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著者名:小栗虫太郎 

  序 ベーリング黄金郷(エルドラドー)の所在を知ること
     ならびに千島ラショワ島の海賊砦(とりで)のこと

 四月このかた、薬餌(やくじ)から離れられず、そうでなくてさえも、夏には人一倍弱いのであるが、この夏私は、暑気が募るにしたがって、折りふし奇怪な感覚に悩まされることが多くなった。
 ちょうどそれは、私の心臓のなかで、脈打ちの律動が絶えず変化していくように、波打つ暑気の峰と谷とだ。はっきりと、しかも不気味にも知覚されるのであった。
 しかし、そうした折りには、家人に命じて庭先に火を焚(た)かせ、それに不用な雑書類などを投げ入れるのである。それは、影像の楯(たて)をつくって、ひたすら病苦から逃がれんがためであった。
 そのようにして私は、真夏の白昼舌のような火炎を作り、揺らぎのぼる陽炎(かげろう)に打ち震える、夏菊の長い茎などを見やっては、とくりともなく、海の幻想に浸るのが常であった。
 ところが、ある一日のこと、ふとその炎のなかで、のたうち回る、一匹の鯨を眼に止めたのである。
 そこで私は、まったく慌(あわ)てふためいて、手早く□(おき)を蹴散(けち)らしながら、取りだした二冊の書物があった。ああ、すんでのことに私は、貴重な資料を焼き捨ててしまうところだった。
 表紙のないその二冊には、ただピーボディ博物館という、検印が押してあるのみなので、軽率にも私は、取るに足らぬ目録のたぐいかと誤信して、そのまま書き屑(くず)のなかへ突っ込んでしまったらしいのである。
 しかし、そうして事新しく、その二冊を手にしたとき、これこそ、泥沼に埋もれつつある石碑(いしぶみ)の一つだと思った。
 それは以前、合衆国マサチュセッツ州サレムにあった、ピーボディ博物館の蔵書であって、著名な鯨画の収集家、アラン・フォーブス氏の寄贈になるものであった。
 で、そのうちの一冊は、書名を『捕鯨行銅版画集(エッチングス・オヴ・ホウェーリング・クルーズ)、付記、捕鯨略史(ウィズ・エ・ブリーフ・ヒストリー・オヴ・ゼ・ホウェール・フィッシャリー)』という、一八六六年の版、ジェー・アール・ブラウンという人の著書である。
 それには、ヨナと鯨の古版画をはじめとして、それらに入れ混じり、勝川春亭(しゅんてい)の「品川沖之鯨高輪(たかなわ)より見る之図」や、歌川国芳(くによし)の「七浦捕鯨之図」「宮本武蔵巨鯨退治之図」などが挿入(そうにゅう)されてあった。
 しかし、真実の驚きというのは、もう一冊のほうにあって、私は読みゆくにしたがい、容易ならぬ掘り出し物をしたことがわかってきた。
 そのほうは、ずうっと版も古く、書名を『捕鯨船ブリッグ号難破録(ゼ・ホウェーリング・ディザスター・オヴ・シップ・ブリッグ)』というのである。
 その船の名は、スターバックの『亜米利加(アメリカ)捕鯨史』にも記されているとおりで、一七八四年の夏ボストンに、鯨油六百樽(バレル)を持ち帰ったのが、最初の記録だった。
 しかし同船は、その後一七八六年に、アリューシャン列島中のアマリア島で難破したのであるから、当然その一冊も、船長フロストの遭難記にほかならぬのである。
 ところが、内容の終わり近くになると、計らずも数ページの驚畏すべき記事が、私の眼を射た。
 それは、素朴(そぼく)そのままの、何ら飾り気のない文章で、七年ぶりに帰還した、土人ナガウライの談話と銘打たれてある。
 しかし、読みゆくにつれて、私の手は震え、脈が奔馬のように走り始めた。
 なぜなら、同人の見聞談として、最初まず、千島ラショワ島に築かれた、峨々(がが)たる岩城(いわしろ)のこと……、また、そこに住む海賊蘇古根(そこね)三人姉弟のこと……、さらに、その島を望んだヴィッス・ベーリング――(注 ベーリング――。事実はそうでないが、ベーリング海峡の発見者といわれる丁抹(デンマーク)人。一七四一年「聖ピヨトル号」に乗じて、地理学者ステツレル、船長グレプニツキーとともに、ベーリング海峡を縦航したるも、十月五日コマンドルスキー群島付近において難破し、十二月八日壊血病にて斃(たお)る。その島をベーリング島という)が、兼ねて伝え聴きし、黄金郷こそこの島ならんか――と、その事実を、遺書にまで残したことなど、記されているのであるから。
 EL(エル) DORADO(ドラドー)――それはついにインカ族が所在を秘しおおせてしまったところの、まさに伝説中の伝説であった。
 かつて、西班牙(スペイン)植民史には幻の華(はな)となって咲き、南米エセクイボの渓谷にあるとのみ信じられて、マルチネツはじめ、数千の犠牲をのみ尽くした黄金都市がそれである。
 だが、いったいベーリングは、なぜその夢想の都市に、千島ラショワ島を擬しているのであろうか。ああ、どうしてのこと、熱沙(ねっさ)の中から、所在を氷海の一孤島に移しているのであろうか。
 私も、読み終わると同時に、しばらくの間は、熱気のほてりに茫然(ぼうぜん)となっている。
 しかし、黄金郷(エルドラドー)の所在――そういう世紀的な謎(なぞ)をめぐって、あの、ラショワ島の白夜を悩まし続けた、血みどろの悲劇を思うと、なんだかこれを、実録として発表するのが惜しくなってきた。
 そして、泡(あわ)よくば一編の小説として、これを世に問いたい誘惑に打ちかち兼ねてしまったのである。

  緑毛の人魚

 つい一刻ほど前には、渚(なぎさ)の岩の、どの谷どの峰にも、じめじめした、乳のような海霧(ガス)が立ちこめていて、その漂いが、眠りを求め得ない悪霊のように思われた。
 すでに刻限も夜半に近く、ほどなく海霧(ガス)も晴れ間を見せようというころ、ラショワ島の岩城は、いまや昏々(こんこん)と眠りたけていた。
 見張りの交代もほど間近とみえ、魚油をともす篝(かがり)の火が、つながり合いひろがり合う霧の中を、のろのろと、異様な波紋を描きながら、上っていくのだった。
 すると、それから間もなく、何事が起こったのであろうか、ドドドドンと、けたたましい太鼓の音。それが、海波の哮(たけ)りを圧して、望楼からとどろき渡った。
「慈悲太郎、どうじゃ。見えるであろうな。あの二楼帆船(フリゲート)には、ベットの砲楼が付いているわい。ハハハハ、驚くには当たらぬ、あれが軍船でのうてなんじゃ。魯西亜(オロシャ)もこんどこそは怒りおったとみえ、どうやら、火砲(カノン)を差し向けてきたらしいぞ」
 と蘇古根横蔵は撥(ばち)を据(す)えて、いつも変わることのない、底知れぬ胆力を示した。そして、海気に焼け切った鉤鼻(かぎばな)を弟に向けて、髻(もとどり)をゆるやかに揺すぶるのだった。
「だが兄上、私はただ、海波高かれとばかりに祈りおりまする。そして、舷側(げんそく)の砲列が役立たぬようにとな」
 火器のない、この島のひ弱い武装を知る弟は、ただただ、迫り来たった海戦におびえるばかりだった。が、それに横蔵は、波浪のような爆笑をあげた。
「いやいや、火砲(カノン)とは申せ、運用発射を鍛練してこその兵器じゃ。魯西亜(オロシャ)の水兵(マドロス)どもには、分度儀(ジャスパー)も測度計(サイドスケール)も要らぬはずじゃ。水平の射撃ならともかく、一高一低ともなれば、あれらはみな、死物的に固着してしまうのじゃよ。慈悲太郎、兄はいま抱火矢を使って、あの軍船と対舷(たいげん)砲撃を交わしてみせるわ」
 それは、何物の影をも映そうとせぬ、鏡のように、外は白夜に開け放たれた。
 その蒼白(そうはく)さ、なんともたとえようのない色合いのほのめきは、ちょうど、一面に散り敷いた色のない雲のようであった。
 その中を、渚(なぎさ)では法螺(ほら)貝が鳴り渡り、土人どもは、櫂(かい)や帆桁(ほげた)に飛びついた。次第に、荒々しい騒音が激しくなっていき、やがて臆病(おくびょう)な犬のそれのように、嚇(おど)しの、喉(のど)をいっぱいにふくらませた、一つの叫び声にまとまっていくのだった。
 しかし、渚を離れて、その幾艘(いくそう)かの小舟が、ほとんど識別し難い点のようになると、入江の奥は、ふたたび旧の静寂に戻った。
 その時慈悲太郎は、静かに砂を踏み、入江を囲む、岬(みさき)の鼻のほうに歩んで行った。
 青白い日光が、茫漠(ぼうばく)たる寂寥(せきりょう)の中で、こうもはっきりと見られるのに、岬の先では、海が犠牲(いけにえ)をのもうと待ち構えている。それが、嵐(あらし)を前にした、ねつっこい静けさとでもいうのであろうか。いや、嵐を呼ぶ、海鳥の泣き狂う声さえ聞こえないではないか。
 背後には、四季絶えず陰気の色の変わらぬ、岩柱の城がそそり立ち、灰色をした地平線の手前には、空の色よりも、幾分濃いとしか思われぬ鉛色の船体が、いとも眠たげに近づいてくるのである。
 まこと、その二つのものは、冷たい海の上に現われた幻のように、それとも、仄暗(ほのぐら)い影絵としか思えないのだった。
 しかし、味方は巧妙に舟を操って、あるいは水煙の中に隠れ、滝津瀬のようなとどろきを上げる、波濤(はとう)の谷底を選(え)り進んでは、軍船に近づくまで、いっこうに姿を現わさなかった。
 そうしているうちに、真(ま)っ蒼(さお)に立ち上がってくる、山のようなうねりが押し寄せたと見る間に、その渓谷から尾を引いて、最初の火箭(ひや)が、まっしぐらに軍船をめがけて飛びかかった。
 ところが、その瞬間、砲声を聴くと思いのほか、意外にも、侘(わ)びし気な合唱の声が、軍船の中から漏れてきた。
 そして、海に、人型をした灰色のものを投げ入れながら、そのぐるりを静かに回り始めたのである。それには、錫(すず)色の帆も砲門の緑も、まるで年老いて、冷たい眠りに入ったかのようであった。
 迷信深い魯西亜(オロシャ)の水兵どもは、綾(あや)に飛びちがう火光を外目にして、祈祷(きとう)歌を、平然と唱え続けているのだ――それは沈厳な、希臘(ギリシア)正教特有の、紛う方ない水葬儀だったのである。
 一つ二つ――そうして、甲板から投げ込まれる、灰色のものを、二十五まで数えたときだった。
 思わず慈悲太郎は、総身にすくみ上がるような戦慄(せんりつ)を覚えたのである。
 もしやしたら、この軍船は悪疫船(えやみぶね)ではないか……。
 しかし、そう気づいた時は、すでに遅かった。後檣(こうしょう)の三角帆から燃え上がった炎が、新しい風を巻き起こして、いまや岬の鼻を過ぎ、軍船は入江深くに進み行こうとしている。
 そして、最後に二十六番目の死体が――それも麻布にくるまれ、重錘(おもり)と経緯度板をつけたままの姿であるが――ドンブリと投げ込まれたとき、火気を呼んだ火縄函(みちびばこ)が、まるで花火のような炸裂(さくれつ)をした。かくして、その軍船は、全く戦闘力を失ってしまったのであるが、その時小舟の一つから、うめきとも驚きとも、なんとも名付けようのない叫び声があがった。
 というのは、一筋銀色の泡を引いて、水底から、不思議な魚族が浮かび上がってきたからである。
 はじめ、水面のはるか底に、ちらりと緑色のものが見えたかと思うと、その影は、すぐに身を返して、尾をパチパチとさせ、またも返して、激しいうねりを立てる。と、銀色をした腹の光が、パッとひらめいて、それが八方へ突き広がっていくのだった。
 そのうねりの影は、真っ白な空を映して無数に重なり合う、刃のように見えた。
 しかし、そうして一端は、遠い大きな、魚のように思えたけれど、ほどなく、渚近くに浮き上がったものがあった。
 その瞬間横蔵は、眩(くら)み真転(まろば)わんばかりの激動をうけた。平衡を失って、不覚にも彼は、片足を浅瀬の中に突き入れてしまった。
 いまや帆を焼き尽くし、火縄(ひなわ)を失って、軍船は速力さえも減じつつあるのではないか。まさに、追撃を試みる絶好の機会にもかかわらず、なにゆえに横蔵からは、好戦の血が失われてしまったのであろう?
 彼は、眼前の、この世ならぬ妖(あや)しさに蠱惑(こわく)され、自分の幻影を壊すまいとして、そのまましばらくは、じっと姿勢を変えなかったのである。
 それは、眼底の神経が、露出したかと思われるばかりの、鋭い凝視だった。
 頭上の、蒼白(あおじろ)い太陽から降り注ぐ、清冽(せいれつ)な夜気の中で、渚の腐れ藻(も)の間から、一人の女が身をもたげてきた。そして、体を動かすごとに、藻の片々が摺(す)り落ちて、間もなく彼女が、裸体であることがわかった。
 こんな遅い時刻でさえも、中天にただ一つ、つけっ放しになっている蒼いランプは、すんなりした女の姿を、妖精(ようせい)のように見せていた。それがちょうど、透き通った、美しい外套(がいとう)でもあるかのように、両肩も胸も、たくましい肉づきの腰も、――何もかも、つるつるとした絹のような肌身を、半ば透明な、半ばどんよりとした、神秘の光が覆うているのだ。
 こうして、最初のうちこそ、流血を予期された事態が、計らずも一変した。軍船も砲列も、毒矢も、火箭も、ただいちずに、夢の靄(もや)の中へ溶け込んでゆくのである。
 しかし一方では、そうした驚きの中で、妙に迷信的な、空恐ろしさが高まっていった。
 というのは、女の体の一部に、どう見ても、それが人間的でないものが、認められたからである。その女の持つ毛という毛、髪という髪からは、肩に垂れた濡髪(ぬれがみ)からも、また、茂みを吹く風のように、衣摺(きぬず)れの音でも立てそうな体毛からも、それはまたとない、不思議な炎が燃え上がっているのだ――緑色の髪の毛。
 それゆえ、ともすると横蔵は、錯覚に引き入れられ、金色に輝く全身の生毛(うぶげ)に、人魚を夢見つつ、つぶやくのだった。
「うむ、緑の髪を持った女――さっき渚から這(は)い上がったとき、たしかに儂(わし)は、貝殻(かいがら)のような小さい足を見たはずだぞ。両親は、寛永の昔サガレンに流れ寄った漂流民、それから、イルツクの日本語学校で育った儂たちだ。松前の藩から、上陸を拒まれたを機(しお)に、この島に根城を求めたが、今までは一とおり、金髪にも亜麻(あま)色にも……。ええしたが、五大州六百八十二島の中で、ものもあろうに緑の髪の毛とは……」
 しかし、そうしているうちに、横蔵の眼は、ほとんど痛いくらいに、チカチカしはじめた。
 見ると、女はよろよろ歩き出して、夢中に藻の衣を脱ぎ続けるのだ。
 唇(くちびる)をキュッと結び、寒気を耐えるように、両腕を首の下で締めつけると、ずるりと落ち、荒布(あらめ)の下から、それは牝鹿(めじか)のような肩が現われた。乳房は石のように固くなっていて、高まり切った乳首、えくぼのような臍(へそ)、それを中心に盛り上がった、下腹部の肉づきのみずみずしさ。
 彼女の動作は、大きく弱々しく、ほどよく伸びた腓(ふくらはぎ)が、いまにも折れそうになっていく。
 しかし彼女は、横蔵を眼に止めたとき、はじめて――それも本能的に、羞恥(しゅうち)の姿勢をとった。はじめは、メディチのヴィナスのように、片手を乳の上に曲げ、他の伸ばしたほうの掌(て)を、ふさふさとした三角形(デルタ)の陰影(かげ)の上に置いた。が、すぐとこんどは、カノヴァのそれのように、両手を胸の上で組み交わした。
 そして、その姿勢のまま、臆(おく)する色もなく横蔵に言った。
「私、たいへん寒いんですの。もう凍(こご)え死にしそうですわ。いえいえ決して、あなたがたの敵ではございませんから」
 それはともすると、打ち合う歯の音に、消されがちだったけれど、紛れもない魯西亜(オロシャ)言葉だった。
「うむ、□(おき)はもちろん、場合によっては、家も衣も、進ぜようがのう。したが女、そちはどこからまいったのじゃ」
 そう言いながら、自分の唇に、濡(ぬ)れた相手の腋毛(わきげ)を、しごきたいような欲情に駆られ、横蔵はぶるると身を震わした。
「言うまでもありませんわ。あの軍船、アレウート号からでございます。実は、十日ほど前から、悪疫に襲われまして、すんでのことに、私も水葬されるところだったのでした。でも、御安心あそばせな。私はただ、一つの部屋におりましたというのみのこと、伝染(うつ)るのを恐れて、投げ入れられましたなれど、実はこのとおり健(すこ)やかなのでございますから」
 女の心臓が、横蔵のそれほど、激しく鼓動してないことは、言葉つきでも知れた。そして、静かに顔をめぐらして、岩城(いわしろ)の明かりを、もの欲しげに見やるのだったが、その時、軍船の舵機(だき)が物のみごとに破壊された。新しい囚虜(とりこ)を得た、歓呼の鯨波(とき)が、ドッといっせいに挙がる。
 おお、魯西亜の軍船アレウート号は、われらが手に落ちた。そして――と横蔵は、ふと恋のなかった自分の過去を、あれこれと描き出すのだった。
 それから、小半刻(こはんとき)ばかりののちに、女はどうやら精気を取りもどしたらしい。岩城の中の一室で三人の姉弟に取り巻かれて、いまや彼女は、薔薇(ばら)色のうねりを頬(ほお)に立てつつあるのだ。
 それは、惹(ひ)きつけられるほどに若い、二十歳ごろの娘だった。
 髪も眉(まゆ)も、薄い口髭(くちひげ)もまったくの緑色で――その不思議な色合いが、この娘を何かしら、神々(こうごう)しく見せるのだった。
 そこは、部屋とはいえ、むしろ岩室と呼ぶほうが似つかわしいであろう。それとも、教坊の陰気臭さが、奇巌(きがん)珍石に奥まられた、岩狭(はざま)の闇(やみ)がそれであろうか。岩をくり抜いて作った、幾つかの部屋部屋には、壁に、斜め市松の切り子ガラスなど、はめられているけれども、総じて無装飾な、真っ黒にくすぶり切った、椅子(いす)や曲木(まげき)の寝床などが散在しているにすぎなかった。
 壁の一枚岩にも、ところどころ自然がもてあそんだ浮き彫りのようなものが見られるけれど、それらもみな、蒼然(そうぜん)たる古色を帯び煤(すす)けかえっているのだ。
 しかし、そこで女は、彼女に劣らぬほど、美しい一人の女性を発見した。
 その婦人は、横蔵・慈悲太郎には、姉に当たる紅琴女だった。
 年のころは、三十を幾つか越えていて、鼻のとがった、皮膚の色の透き通った――それでいて、唇には濃過ぎるほどに濃い紅がたたえられているといった――どこか調和のとれない、病的な影のある女だった。そして、すらりとした華奢(きゃしゃ)な体を、揺り椅子(いす)に横たえて、足へは踵(かかと)の高い木沓(きぐつ)をうがち、首から下を、深々とした黒貂(てん)の外套(がいとう)が覆うていた。
 女は、紅琴の慈悲深い言葉で問われるままに、最初自分の名を、フローラ・ステツレルと答えた。
「一とおりお耳に入れて、なぜ私が、この軍船に乗り込まなければならなかったか……、またなぜ、逃れねばならなかったか……、それから、アレウート号がこの島を目指したについての指令を、一応はお聴き分け願いたいと存じまして。でも、それは容易に、御理解できなかろうと思いますわ。あんまり人の世放れのした、それはそれは、不思議な話なんですもの。実は、私サガレンのチウメンで父を殺してまいりました――あのザルキビッチュ・ステツレルをですわ」
 とフローラのこめかみに、一条、真(ま)っ蒼(さお)な血管が浮かび上がると、紅琴は、それを驚いたようにみつめて言った。
「なに、そもじはなんとお言いやった――たしか、ザルキビッチュ・ステツレルと、私は聴きましたが。ではあの、ベーリングの探検船『聖ピヨトル』号に乗り込んだ、博物学者のステツレルはそもじの父なのか」
 フローラは、それを眼色でうなずいて、むしろ冷たく言い返した。
「もっとも、母のドラと従妹(いとこ)だったせいもあるでしょうが、父とベーリングの仲は、それはまたとない間柄だったのです。私は、出発の朝――それが六つの三月でしたけれども、二人には雪割草の花束を贈り、また二人からは、頭をなでられたのを、記憶しております。ところが、ベーリング様は、翌年の十二月八日に、ベーリング島でお亡くなりになりました。父も最初は、チウメンで、その五年後に凍死したという、噂(うわさ)を立てられましたのです。それが気病みとなって、ほどなく母は、私を残してこの世を去ってしまいました。
 ところがそれからも、私の不仕合せはいつから尽きようとはいたしませず、慈悲も憫(あわ)れみもない親族どもは、私をカゴツ(中欧から北にかけて住む一種の賤民(せんみん))の群れに売り渡してしまったのです。そうして、普魯西(プロシヤ)から波蘭(ポーランド)を経て、魯西亜(オロシャ)の本土に入り、それからは果てしのない旅を続けました。
 その間私は、いつ海が見えるか、見えるかと思いながら、草原(ステップ)の涯(はて)に、それは広大な幻を描いておりました。なぜかと申しますなら、父を奪い去った海、あの自由な不思議な水の国を見て、私は自分の運命を、泣きもしようし悲しみもしようし、またその底深くに、もしやしたら、あきらめがありはしないかと思われたからです。
 そうして、とうとう海に近い、チウメンまでたどりついたのですが、それは氷が割れて、新しい苔(こけ)が芽を吹き出す五月のこと、それでかかった十数年の旅の間に、私はすっかり、熟し切った処女になっておりました。ところが、チウメンに宿を求めた、三日目の夜のこと、私は思いがけなく父に出会ったのでした」
「したが、成人されたそもじを、父はどうして知りやったのじゃ、さぞ幼いころの面影を思い出して、そもじの父は、泣きやったであろうな」
 とわがことのように、紅琴が急(せ)き入るにもかかわらず、フローラはいっこうに表情を変えなかった。
「いいえ、それはこうなのでございます。実は、炉辺のつれづれ話に、うっかり私は、本名を明かしてしまったのです。すると、そばにおりました富有そうな老人が、やにわに私の腕をつかんで、別室に引き入れました。その老人が、以前は『聖ピヨトル号』の船長だった、グレプニツキーだったのです。
 そして、私の父が、今なおこの町に、生存していることを話してくれましたし、何よりその場で、私を父に会わせると誓ってくれました。しかし、翌朝になってみると、この世が現在も未来も、すべてがもの恐ろしい、空虚の底へなだれ込んでしまったのを知りました。
 私は、いつの間にか、壁側の椅子になんということなく腰を掛けていて、この上は苦しみから逃れるために、いっそ生命も尽き、墓石の下で安らかに眠りたいとばかり念じておりました。それは、眼の前に、冷え冷えと横たわっている、一人の老人があったからです。
 父でした――ええ、父ですとも、なんで幼かったとはいえ、私の記憶からあの面影が消え去りましょうか。しかし、父は中風を患ったとみえて、私のことなどさらさら記憶にもなく、おまけに左眼はつぶれ、右手は凍傷のため反り腕になっていて、両手の指は、醜い癩(らい)のようにひしゃげつぶれているのでした。その腕を広げて、あろうことか、私に淫(みだ)らしい挑(いど)みを見せてまいったのです。そして、その獣物(けだもの)のような狂乱が、とうとう私に……」
 とフローラは、長々と尾を引いて、低く低く声を落としたが、続けた。
「ですけど、お慈悲深い基督(キリスト)様は、たぶん私をお許しくださるでしょう。およそ地上に、こうも不思議と神秘に満ちた大いなる愛があるでしょうか。私は、父の死後の生活を思って、同じ血同じ肉の交らいを、犯させまいとして、父を刺し殺したのでございます。ですけど、父と子のつながり――あの血縁の神秘は、決して、夢の中で話されるような、取りとめのない言葉ではございません。
 私は、そのようにして、父を安土に導いたとはいえ、一方では、あの狂った哀れな父が、二度と再び現われてこないと思うと、不意に、痛ましい悲しみの湧(わ)くのを覚えるのでした。けれども、そこには一つの疑惑があって、果たしてあの男が真実の父なのだろうか――そう思うと、面影にこそ記憶があれ、いちずにそうとのみ、決めてしまうのができなくなったように思われました。
 そうして私は、父の遺骸(いがい)を始末してくれた、グレプニツキーに伴われて、いつ尽きるか果てしのない、苦悩と懐疑の旅にのぼっていったのです。そこで、お話ししなければならないのは、なぜグレプニツキーが、はるばるサガレンまで来たかということです。実は奥方様、あの男は、カタリナ皇后(さま)から、アレウート号の船長に任命されて、このラショワ島にある黄金郷(エルドラドー)の探検を命ぜられたのです。あの黄金都市(エルドラドー)の輝きを、いまも私は、はっきりと見たのでしたわ」
 その一言で、はしなく三人の目が一つになった。
 それは、驚異などという言葉では、とうてい言い表わせない、むしろ恐ろしい、空虚(うつろ)のように思われた。ことに、横蔵の眼は爛々(らんらん)と燃えて、今にも全世界が、彼の足下にひれ伏すのではないかと考えられた。
 フローラは、言葉を次いで、
「つきましては、最初からの事を申し上げねばなりませんが、グレプニツキーの話によりますと、それが、一七四一年六月のある朝だったそうでございます。この島の南々東二カイリの海上を進んでおりますうちに、聖ピヨトル号の甲板にいた、ベーリングと父が、はっきりとこの島の上に、円い金色の幻暈(かさ)を見たのでした。
 それは、海霧(ガス)の中を、黄色い星の群れが、迷いさまよってでもいるかのように、その金色の円盤が、島を後光のように覆うていたとか申します。そして、ベーリングはただ一人小舟を操って、そのころは無人島だった、この島に上陸したそうですが、その結果がどうであったかということは、とうとうもどってからも、聴かれなかったとかいうそうでした。
 ところが、その年の十二月八日、ベーリング島で臨終の朝に、はしなくその秘密が、ベーリングの手で明らかにされました。壊血病にかかって、腐敗した腿(もも)の上に、見えない眼で、EL(エル) DORADORA(ドラドーラ)――とまで書いたそうですが、それなり父の手を、かたく握りしめてあの世に旅立ってしまったのでした。
 その RA(ラ) が、RASHAU(ラショワ) 島の最初の一つづりであることは、すでに疑うべくもありません。しかし、それを見て父はあまりの驚きに狂ってしまったのでしたが、グレプニツキーは翌年本土にもどって、その旨をカタリナ皇后(さま)に言上したそうです。けれども、奥方様、私は乗り込んだアレウート号の中で、ふたたび、あの獣物臭い恐怖を経験することになりました。
 それが、どうでございましたろうか、心臓を貫いて、硬(こわ)ばりまでした父が――しかも八尺もの地下に葬られたはずの父が、いつの間にか船に乗り込んでいて、私の前に、あの怖(おぞ)ましい姿を現わしたのですから、私は、土をかき分け、墓石を倒した血みどろの爪(つめ)を、はっきりと見たのでしたわ」

  恋愛三昧

「それが、乗り込んでから、十八日目の夜のことで、戸外の闇(やみ)には、恐ろしい嵐(あらし)が咆(ほ)え狂っておりました。冷たい風が、どこからとなく隙(すき)をくぐって、ともすると消されがちな、角燈を揺らめかしているのでしたが、私は、なんのことなく椅子(いす)にかけていて、いつか通り過ぎた、シベリアの村々を夢見ておりました。すると、霧が細かい滴となってかかる、ガラス戸の向こうに、それはおそろしいものが現われたのです。
 どす黒い、斑点(はんてん)のある、への字形に反りかえった腕が、格ガラスの右端から現われて、今にも、ハンドルに手をかけようとするのです……おお、父はよみがえったのでした。どうあっても、あんな片輪めいた、反り腕の男など、乗組員の中には一人としていないのですから。そう思うと私は、頭の中の血が、サッと心臓に引き揚げたように感じて、クラクラと扉(とびら)によろめきかかりました。そして、呼吸を落ち着け、しっかりしようと努力しながら、扉に当てた椅子(いす)に、いつまでかじりついていたことでしょう。
 しかし、父の腕は、その瞬間限り消えてしまいましたけれど、ふとそれにつれて、私の胸にギスリと突き刺さったものがありました。というのは、海に乗り出すと間もなく、船内に、それは得体の知れない、悪疫(えやみ)がはびこってきたからでした」
「悪疫」
 三人は、思わず弾(は)ね上げられたような、声を立てた。
「さようでございます。最初は、二、三日下痢模様が続きますと、骨も髄も抜け果てたようになって、次第に皮膚の色が透き通ってまいるのです。それで、病人たちは、死の近きを知るころになると、きまって船底近い、臥床(ふしど)から這(は)い出していくのです。そして、狂気のようになって、甲板へ出ようとしますけれど、そこには岩のような靴(くつ)と、ヒューヒューうなる鞭(むち)が待ち構えているのでした。でもう、しまいには死の手に押さえつけられてしまって、わずかに首と、弱った頭をもたげるにすぎなくなってしまうのです。
 ところが、それから二度三度と現われた父の手は、いつも決まって、船底に続く鉄梯子(てつばしご)の方角のほうから現われてくるのでした。それからというもの私は、もしやしたら父と悪疫(えやみ)との間に、何か不思議なつながりがあるのではないか――ないかないかと、それのみをただ執念(しゅうね)く考えつめるようになりました。ですから、その軍船の中には、じりじり燃え広がっていく、恐ろしい悪疫と……。それから、野鳥のように子を犯そうとする、煙のような悪霊とが潜んでいるのです。
 打ち沈めて、……お願いですわ。……打ち沈めてくださいまし。それでないと、今にきっとこの島には鳥一羽、寄りつかなくなるに決まってますから」
 次第に調子を高めてきたフローラは、最後の言葉を、つんざくような鋭さで叫んだ。
 すると、応と答えた横蔵が、撥(ばち)を取り上げ、太鼓を連打すると、軍船を囲んだ小舟からは異様な喚声があがり、振り注ぐ火箭(ひや)が花火のように見えた。
 そうしてしばらくの間、アレウート号の炎は、いろいろな形に裂け分かれて、真紅の模様を、輝く水面に刻み出していたが、やがて波紋が積もり重なり、柔らかな鏡のようになると、わずか突き出た檣(マスト)の先に、再び海鳥が群がりはじめた。
 こうして、フローラを忌まわしくも追い続けた悪霊の船、悪疫を積んだアレウート号は、再び水面に浮かぶことがなかったのである。
 その間、ちらつく火影の中で、紅琴はフローラの物語を聴き続けていた。
「でございますもの。私がいつか、あの船を逃れよう逃れようとしたって、無理ではございませんでしょう。ところが、そうこうともだえているうちに、計らずも今朝、黄金郷(エルドラドー)の輝きを望見したのでございます。
 それは、白夜がはじまろうとする白っぽい光の中で、島の頂きを覆う金色の輪が、暈(かさ)のように広がり縮んでいて、それは透かし絵の、影像のように見られたのでした。しかし、その冷たい湿っぽい感覚が、私の肺臓にずうんとしみわたりました。逃れるのはいま――私は、鹹(から)っぽい両掌(て)に汗を浮かべて、病を装おうと決心しました。それからが、こうして、手厚いおもてなしをいただく仕儀にございます。どうかいつまでも、下碑(はしため)になりと、御手元にお置きくださいませ」
 永々と続いた、フローラの物語は終わった。
 ちょうどそれは、鏡に吹きかけた息のようなものであった。彼女をおびやかした、忌まわしい悪夢の世界は、すべて何もかも、海中に没し去ってしまったのである。
 そうしてフローラは、新しい生活を踏み出すことになった。
 しかし、ベーリングをはじめ、彼女さえも遠望したという黄金郷(エルドラドー)の所在は、ついに、この島のどこにあるのか明らかではなかった。それは、フローラという緑毛の処女が、そもそも神秘的な存在であるように、黄金郷という名を、聴いただけでさえ、三人は竜巻(たつまき)の中に巻き込まれたような気がしたらしい。
 ところが、その翌日から、フローラをめぐって、この島には激しい情欲の渦(うず)が巻き起こることになった。
 その翌日――フローラがすがすがしい陽(ひ)の光に眼覚めたとき、浜辺のほうから、異様な喚声が近づいてくるのを聴いた。
 見ると、彼女はハッとなって胸を抱きしめた。そこには、土人たちに取り巻かれて、昨夜運命を、船と共に決したとばかり思われたグレプニツキーが、無残な俘虜(ふりょ)姿をさらしているのだ。
 首には、流木の刺股(さすまた)をくくりつけられ、頭はまた妙な格好で、高く天竺(てんじく)玉に結び上げられている。そしてこの黄色い顔に、洞(ほこら)のような眼をした陰気な老人は、突かれては転びながら、次第に岩城(いわしろ)さして近づいてくるのである。
 けれども、それから始まった、横蔵の火の出るような尋問も、ついに効果はなかった。
 やはり彼も、フローラと同じことを言うのみで、黄金郷(エルドラドー)の所在は、依然迷霧の中に閉ざされているのであった。それから、グレプニツキーは、土人小屋に収容されたが、賢(さか)しい紅琴は、早くもただならない、二人の気配を悟ることができた。
「そもじ二人は、小さいながら、このラショワ島が一国であるのを忘れたとみえますのう。総じて貴人というものは、上淫(じょういん)を嗜(たしな)むのです。そなた二人は、虹(にじ)とだに雲の上にかける思いと――いう、恋歌を御存じか。そのとおり、王侯の妃(きさき)さえも、犯したいと思うのが性情(ならい)なのじゃ。そのゆえ、遊女には上□(じょうろう)風の粧(よそお)いをさせて、太夫(だゆう)様、此君(このきみ)様などともいい、客よりも上座にすえるのです。それも、一つには、客としての見識だろうと思いますがのう。くれぐれも、女子の情けを、ひどう奪ってはなりませぬぞ。それで、今日この今から、フローラを太夫姿にして、私は、意地と振り(客と一つ寝を拒む権利)を与えようと思うのです。相手の意に任せながら、その牆(かき)を越えてこそ、そもじ二人は、この島の主といえるのじゃ」
 昨夜に続いて、再びこの島にも、聞くも不思議な世界が、ひらかれいこうとしている。
 それは、横蔵、慈悲太郎の瞳(ひとみ)の底で、ひそかに燃え上がった、情けの焔(ほむら)を見て取ったからであろうか、二人の争いを未然に防ごうとして、紅琴が、世にも賢しい処置に出たのであった。そして、フローラには、あわただしい、春の最初の印象が胸を打ったのである。
 ぬれた、青葉のような緑の髪を、立兵庫(たてひょうご)に結い上げて、その所々に差し入れた、後光のような笄(こうがい)に軽く触れたとき……フローラの全身からは、波打つような感覚が起こってきた。またそうした、恋の絵巻の染めいろを、自分の眉(まゆ)、碧々(あおあお)とした眼に映してみると、その対照の香り不思議な色合いに、われともなくフローラは、美の泉を見いだしたような気がした。
 彼女は、ハッハと上気して、腰を無性にもじもじ回しはじめた。
 それから、床着(とこぎ)の黄八丈を着て、藤紫の上衣を重ね、結んだしごきは燃え立つような紅(くれない)。そのしどけなさ、しどけなく乱れた裾(すそ)、燃え上がる裾に、白雪と紛う腓(ふくらはぎ)。やがて、裲襠(うちかけ)を羽織ったとき、その重い着物は、黄金と朱の、激流を作って波打ち崩れるのだった。
 こうして、フローラに太夫姿が整えられると、悩ましかった過去の悪夢も、どこかへ消え去ってしまった。
 彼女は、二つの世界の境界を、はっきりとまたぎ越えて、やがて訪れるであろう恋愛の世界に、身も世もなく酔い痴(し)れるのだった。
 けれども、翌日から彼女を訪れるものは、やはり横蔵であって、慈悲太郎は、自分から近づくような気振りを見せなかった。それが、フローラの影法師を抱きしめて朦朧(もうろう)とした夢の中で楽しんでいるように見えたのである。
「のうフローラ、そなたとこうして、恋のはじめの手習いをするにつけて、つくづく近ごろは、沖に船が、通らねばよい――とのみ念ずるようになった。したがそなたは、儂(わし)の髪ばかりを梳(す)いていて、なぜにこちらを向いてくれぬのじゃ。察してくりゃれよ。日がなそなたの呼吸を、首ばかりでのう、嗅(か)いでおる儂をな」
 と、横蔵が、恨みがましい言葉を口にしたように、何よりフローラは、彼の艶々(つやつや)しい髪の毛に魅せられてしまったのだ。
 海気に焼け切った、横蔵の精悍(せいかん)そのもののような顔――鋭く切れ上がった眥(まなじり)、高く曲がった鼻、硬さを思わせる唇にもかかわらず、その髪は、豊かな大たぶさにも余り、それが解かれるとき、腕に絡んで眠る水精のように思われたのだった。
 しかし、それには理由があって、以前大陸の東海岸に近いある町で、偶然フローラは、一枚の木版画で日本という国を知ったのであった。
 それには、顔に檜扇(ひおうぎ)を当てた、一人の上□(じょうろう)が、丈なす髪を振り敷いて、几帳(きちょう)の奥にいる図が描かれてあって、それに感じた漠然(ばくぜん)としたあこがれが、いまも横蔵の、美しい髪を見るにつけ意識するともなく燃え上がったのであった。
「ホホホホ、お難(むず)かりもほどになさいませ。いま一の絃(いと)をしめて、私調子を合わせたばかりのところでございますわ」
 と華奢(きゃしゃ)な指に、一筋髪を摘まんで、輪になったそれを解(ほぐ)しながら、
「ではいっそのこと、合わせ鏡をしたら……。それほど、私の顔を御覧になりたいのなら――、いかがでございますか」
 と持ち添えた、二つの鏡をほどよく据えて、前方の一つ――なかに映った横蔵の顔を、じっとのぞき込んだときだった。
 何を見たのかフローラは、アッと叫んで、取り落としてしまった。なぜなら、そこに映ったのが、銅々(あかあか)と光った、横蔵の半面と思いのほか、意外にも、奇怪を極めた絵となって飛びついてきたからだ。すでに、海底の藻屑(もくず)と消えたはずの父ステツレルの顔が、つぶれた左眼を暗くくぼませて、寒々とこちらを見返しているのだ。
 その黄色い皮膚、薄汚い襞々(だんだら)は、まるで因果絵についた、折れ目のように薄気味悪く、フローラは全身の分泌物を絞り抜かれたような思いだった。それからフローラは、邪険に横蔵を追いやって、その折回廊を、慈悲太郎が通り過ごしたのも意識するではなく、ただただ父の名を呼び、いつまでも、しびれたように座っていた。
 その一瞬の間に、彼女の眼は別人のように落ちくぼんでしまった。
 鉄の輪が、いつもこめかみを締めつけているように感じ、舌は、熱病のような味覚を持っていた。しかし、そうしているうちに、ふと横蔵の迫り方を思うと、いつかチウメンで出会った、あの恐怖がしくしくと舞いもどってきた。
 父の影を持つ男――それに、いつか身を任さねばならないとすれば、神かけても彼女は不倫から逃れねばならない。そう思うと、フローラはすっくと立ち上がって、一つの恐ろしい決意を胸に固めたのである――あのいとわしい幻影を殺すために、まったく不思議な心理、信ぜられない潔癖のために、彼女は、横蔵に生存を拒まねばならないのだ。
「のうフローラ、姉の才量で、今日から城内に、グレプニツキーを入れることにした。そして、黄金郷の在所(ありか)を、じわじわ吐かせることに決めたのじゃ」
 と言った横蔵の唇が、いつになく物懶(ものう)げであったように、それから数日後になると、果たしてステツレルの出現と合わしたかのごとく、城内には、悪疫(えやみ)の芽が萌(も)えはじめてきた。
 それは壁という壁から立ち上がる、妖気(ようき)でもあるかのように、最初横蔵に発して、さしも頑強(がんきょう)な彼も、日に日に衰えていった。錐(きり)のような髯(ひげ)が、両頬(ほお)を包んで、灰色がかった皮膚から、一日増しに弾力が失われていくのだ。
 したがって、フローラの決意も、やがて下ろうとする自然の触手を思うと、いつか鈍りがちになるのも無理ではなかった。
 ところが、それから一月後のある朝、思いがけなく横蔵が、胸に短剣を突き立てられ、うねくる血に彩られた、無残な姿を発見された。
 その日は、垂れこめた雲が、深く暗く、戸外は海霧(ガス)と波の無限の荒野であった。その夜慈悲太郎はフローラと紅琴を前にして、彼が耳にした、不思議な物音のことを語りはじめた。
「ちょうど、寅(とら)の刻の太鼓を聴いたとき、風にがたつく物の響き、兄の吐くうめきの声に入り交じって、それは、薄気味悪い物音を聴いたのじゃ。のう姉上、儂(わし)の室の扉(とびら)の前を離れて、コトリコトリと兄のいる、隣室に向かう足音があったのだ」
「いやいや、何かそちは、空想(そらごと)におびやかされているのであろうのう。気配とやらいうものは、もともと衣としか見えぬ、ちぎれ雲のようなものじゃ」
「ところが、それには歴然(れっき)とした、明証(あかし)がありおった……。通例(なみ)の歩き方で、二歩というところが一歩というぐあいで、その間隔(あいだ)が非常に遠いのじゃ、それで、なにか考えながら歩いておったと儂(わし)は推測したのだが……」
「おお、それでは……」
 とフローラは、いきなり紅琴の腕をつかんで、けたたましく叫んだ。
「それでは、父の亡霊が歩んでいたとおっしゃるのですか。中風を患った父は、不自由なほうの足を内側から水平に回して、弧線を描きながら運ぶので、自然そんなぐあいに聞こえるのでございますよ。ああ、あの父が、チウメンで殺された、アレウート号といっしょに、沈んだはずだった父が……」
 フローラは、心痛と恐怖のあまり、歯はがちがちと打ち合い、乾いた唇から、嗄(しゃが)れたうめき声を立て続けるのだった。
 しかし、不倫の悪霊ステツレルは、どうしたことかそれなり姿を現わさなかったし、また横蔵の、下手人とおぼしいものも発見されなかった。
 そうして、いつとなく思い出さえも薄らいでしまって、今ではフローラも、慈悲太郎の唇を、おのが間にはさむような間柄(なか)になった。
 慈悲太郎は、兄とはちがって、白いふっくらとした肉で包まれ、むしろ、女性的に見えるのだが、その弾力、薄絹のような滑りに、フローラはじりじりと酔わされていった。
 その日は、空が青い光を放ったように思われ、波濤(はとう)の頂きが、薔薇(ばら)色のうねりを立てていた。
「こうして、白い雪のようなお肌の上に、手を置いておりますと、私の手が、なんとなく汚らしく、それに、黄色く見えるようでございますわ。早く奥方様のお許しをうけて、あなた様のお肌をほんとうに、私のものとしたいくらいでございますのよ」
 と悩まし気な、視線を彼に投げ、ほんのりと、紅味に染んだ見交わしの中で、その眼は、碧(あお)い炎となって燃え上がった。そして、片肌を脱がせ、紗(しゃ)の襦袢(じゅばん)口から差し入れた掌(て)を、やんわりと肩の上に置いたとき、その瞬間フローラは、ハッとなって眼をつむった。
 彼女は、臆病(おくびょう)な獣物(けだもの)が、何ものかを避けるように飛びのいて、ふたたび、その忌まわしい場所に視線を向けようとはしなかったのである。
 というのは彼女が手を引くと同時に、窓越しに差し出された、一つの、煙のような掌を見たからであった。
 それは、おそらく現実の醜さとして、極端であろうと思われる――いわばちょうど、孫の手といったような、先がべたりと欠け落ちたステツレルのそれであったからだ。
 その夜、徹宵(よっぴて)フローラは、壁に頭をもたせ、うずくまるようにして座っていた。
 父ステツレルの怪異が――、あの妖怪(ようかい)的な夢幻的な出現が、時を同じゅうして、いつも、痴(し)れ果てたときの些中(さなか)に起こるのは、なぜであろうか。と、いくら考えつめていっても、同じような混沌(こんとん)状態と同じような物狂わしさは、いっかな果てしもなく、ただただ彼女だけが、その真っただ中に、取り残されているのを知るのみであった。
 すると突然、ひゅうひゅうというすさまじい声が、空から聞こえてきた。
 彼女の相手となる、男という男に、あの世から投げる父の嫉妬(しっと)が、あまねく影を映すとすればいつか彼女に黴(かび)が生え、青臭い棺(ひつぎ)に入れられても、その墓標には、恋の思い出一つ印されないに相違ない。もう一度、そうだ……。もし慈悲太郎に、横蔵と同じ運命をたどらせるとすれば、もはや男と呼ばれて、彼女をおびやかす、忌まわしい対象が、この島にいなくなるのだ。
 と思いなしか、前よりもいっそう狂い募る、波の響き、風の音の中から、彼女にそう警告したものがあった。
 しかし、ここに奇異(ふしぎ)というのは、間もなく横蔵の場合と、符合したかのように、慈悲太郎が悪疫にたおされてしまったからである。
 そして、季節も秋近く、そろそろ流氷のとどろきがしげくなったころ――、その日は、暮れるとともに、恐ろしい夜となって展開した。
 一刻一刻と風は高まり、海は白い泡(あわ)をかぶって、たてがみのような潮煙を立てた。その時、異様な予感にそそられて、フローラは頭をもたげ、部屋の濃い闇(やみ)の中をじっとのぞきはじめた。それは、嵐(あらし)の合間を縫って、どこからともなく響いてくる、漠然とした物音があったからだ。
 そうして彼女は、その夜更けに、ふと慈悲太郎との部屋境にある、格ガラスを透かして、時折り青白いはためきをする、蝋燭(ろうそく)の炎を見つめているうちに、いきなり、激しい恐怖の情に圧倒されてしまった。
 見ると、扉がいつの間に開かれたのであろうか、荒れ狂う大風に伴った雨の流れが、その格ガラスの上に、ドッと吹きつけたのである。と思うと、瞬間おどろと鳴り渡った響きの中から、見るも透(す)んだ蒼白(あおじろ)い腕が――しかも、指のひしゃげつぶれた、反り腕の父のそれが――フローラの眼をかすめて、スウッと横切ったのであった。

  黄金郷(エルドラドー)の秘密

 翌朝になると、果たして慈悲太郎は冷たい亡骸(なきがら)と変わり、胸には、横蔵と異ならない位置に、短剣が突き刺さっていた。
 その日の午後、フローラは、しょんぼり岬(みさき)の鼻に立っていて、いまにも氷の下に包まれるであろう、死者のことを思いやっていた。それは、村々の外れに淋(さび)しく固まっている共同墓地の風景であった。
 しかも、その時ほど、自分の宿命と、罪業(ざいごう)の恐ろしさを、しみじみ感じたことはなかったのである。彼女は、靄(もや)の中に隠されている、ある一つの、不思議な執拗(しつよう)な手に捕らえられているのだ。その明証(あかし)こそ昨夜まざまざと瞳(ひとみ)に映った、父の腕ではないか。
 そして、最初横蔵の鏡に映った片眼が、もしそうであるにしても――と、フローラは不思議な自問自答をはじめた。
 というのは、はしなくその時の鏡が、古びた錫(すず)鏡だったのに気がついたからである。
 元来錫鏡というのは、ガラスの上に錫を張って、その上に流した水銀を圧搾するのであるから、したがって鏡面の反射が完全ではなく、わけても時代を経たものとなると、それは全く薄暗いのである。すると、横蔵の背後に置いた一つが問題になってきて、もし、その角度が、光線と平行な場合には、当然水銀が黝(くろず)んで見えるはずであるから、正面に映った横蔵の眼に、暗くくぼんだような黝みが映らぬとも限らないのである。
 また、慈悲太郎の肩に現われた父の手も、どうやら錯覚らしく思われてきた。
 というのは、白い地に、黄色い波形のものを置いて、その上を、紗(しゃ)のようなものでかぶせると、取り去ったとき、かえって残像が、白地のほうに現われて黒く見えるのである。
 また、それには、光のずれのことなども考えられるので、あの時、指のひしゃげつぶれた、父の掌(て)と思ったものも、蓋(ふた)を割ると、案外たわいのない錯覚なのではなかったろうか。
 と、フローラは、皮質をもみ脳漿(のうしょう)を絞り尽くして、ようやく仮説を組み上げたけれども、昨夜見た父の腕だけは、どう説き解しようもないのだった。
 彼女は、一夜のうちに若さを失ってしまい、罪の重荷を、ひしと身に感じた。そして何もかも紅琴に打ち明けて、彼女の裁きを受けようと決心した。
「そういうわけで奥方様、私は、基督(ハリストス)様の御名など、口には出せぬ罪人なのでございます、横蔵様のときも、慈悲太郎様のときも――アレウート号に起こった、悪疫(えやみ)の因がそもそもではございますが――実は私、蝋燭(ろうそく)の芯(しん)の中に砒石(ひせき)を混ぜておいたのです。そして、立ち上がる砒の蒸気で、数多(あまた)の人の命を削ってまいりました。たしか、お気づきのことと思われますが、時折り見える、青い炎がそれでございました。ですもの、あの下手人が、だれであろうがどうだろうが、百度千度、清い心と自分から決めて十字を切ろうが、この憂愁と不安を除くことは、どうあってもできないのです。どうか私を、御心の行くままに、奥方様、どうなりともお裁きくださいまし……」
 言い終わるとフローラは、まるで、汚物を吐き尽くした後のようにガックリとなった。
 しかし、紅琴には、露ほども動揺した気色(けしき)がなく、じっと石壁に映る、入り日の反射をみつめていたが、やがてフローラを促して、岩城(いわしろ)を出(い)で、裏山に上って行った。
 その頂きは鉛色をした、荒涼たるツンドラ沼だった。
 そこには、露をつけた、背の低い、名の知れない植物が這(は)い回っていて、遠く浜から、かすかな鹹気(しおけ)と藻の匂いが飛んでくるのだ。紅琴の顔は、折りから白夜がはじまろうとする、入り日に燃えて、生き生きと見えた。
 彼女はフローラに向かって、静かに、不思議な言葉を吐いた。
「そもじの嘆きは、葉末の露に、顔を映せば消えることです。独り胸を痛めて、私は、ほんとうに哀(いと)おしゅう思いまする。すでにそもじは、十字架に上りやったこととて、基督(ハリストス)とても、そもじの罪障(とが)を責めることはできませぬぞ」
 そういわれたとき、フローラは、眼前にこの世ならぬ奇跡が現われたのを知った。
 眼が薄闇(うすやみ)に馴(な)れるにつれて彼女の眼は、ある一点に落ちて、動かなくなってしまった。
 それは、葉末の露に映った、自分の頭上に、見るも燦然(さんぜん)たる後光が照り輝いていて、またその光は、首から肩にかけた、一寸ばかりの空間を、透(す)んだ蒼白(あおじろ)い、清冽(せいれつ)な輝きで覆うているのだ。
 とめどなく、重たい涙が両頬(ほお)を伝わり落ちて、歓喜のすすり泣きが、彼女の胸を深く、波打たせた。
 が、そのとき、紅琴の凛然(りんぜん)たる声を背後に聞いたのだった。
「だが、そもじの罪障は消えたとて、二人を殺(あや)めた下郎の業(ごう)は永劫(えいごう)じゃ、私は、今日これから、そなたの前で、そやつを訊(ただ)し上げてみせますぞ」
 それから、小半刻(こはんとき)ばかりたったのちに、一人の背の高い男が、浜辺に集(つど)った土民たちの中で、身を震わせていた。
 海霧(ガス)が、キラキラ光る雫(しずく)となって、焼けた皮膚や、髯(ひげ)の上に並んでいくが その男はただ止まろうとせず、それが失神したようになって、おののいているのだ。
 紅琴は、その男をにくにくし気に見すえて、言った。
「どうじゃグレプニツキー。いまこそ、妾(わらわ)の憎しみを知ったであろうのう。そもじを十字架(クルス)に付ければとて、罪は贖(あがな)えぬほどに底深いのじゃ。横蔵を害(あや)め、慈悲太郎を殺したそもじの罪は、いまここで、妾(わらわ)が贖ってとらせるぞ。よもや、慈悲太郎が聴いた、足音の明証(あかし)を忘れはすまいな。だれか、早う、この者の靴(くつ)を脱がすのじゃ」
 凛(りん)とした声に、躍りかかった四、五人の者が、長靴を外すと、そのとたん、フローラは激しい動悸(どうき)を感じた。
 見ると、グレプニツキーの右足は、凍傷のため、膝(ひざ)から下を切断されていて、当て木の先には、大きく布片が結び付けてある。
 しかし、事態を悟ったグレプニツキーは、意外にも、安堵(あんど)したような爆笑を立てた。
「これは奥方様、お戯れにも、ほどがあるというもの。なるほど、靴を脱いでしまえば、片足には音がないのですから、さような御推測も、無理とは思いませぬが、しかし、黄金郷(エルドラドー)の探検を、共にと誓った御両所を、なんで害(あや)めましょうぞ。神も御照覧あれ、手厚いおもてなしに感謝すればとて、敵対の意志など、毫(ごう)も私にはござりませぬのじゃ」
 と、はだけたシャツの下から、取り出した十字架(クルス)に接吻(せっぷん)するのだった。
 しかし、紅琴は、凝視を休めず言い続けた。
「ええ、そのような世迷いごとに、聴く耳は持たぬわ。この島の法(のり)は、とりも直さず妾自身なのじゃ。とくと真実(まこと)を打ち明けて、来世を願うのが、為(ため)であろうぞ」
 すると、グレプニツキーは、相手の顔をじっとみつめていたが、見る見る絶望の表情ものすごく、胸をかきむしって、咆(ほ)え哮(た)けるような声を出した。
「馬鹿な、短慮にはやって、せっかく手に入ろうとする、黄金郷(エルドラドー)を失おうとする大痴者(おおたわけもの)めが。したが奥方、とくと胸に手を置いて、もう一度勘考したほうが、お為でありましょうぞ」
「ホホホホホ、なんと黄金郷とお言いやるのか……」
 女丈夫は、蒼白い頬をキュッと引きしめて、嗤(わら)い返した。
「その所在なら、そもじは、不要じゃと言いたいがのう。妾はそうと知ればこそ、このラショワ島に砦(とりで)を築いたのじゃ」
 と、何やら合図めいた眼配せをしたかと思うと、もがいて投げつけられたグレプニツキーの上で、幾つとない銀色の光が入り交じった。
 彼は、しばらく手足をばたばたとさせ、狂わしげにもだえていたが、やがて瞼(まぶた)が重たく垂れ呻(うめ)きの声が途絶えると、そのまま硬く動かなくなってしまった。
 紅琴は、しばらく眼を伏せて、グレプニツキーの死体を、気抜けしたように見つめていた。白っぽい、どんよりとした光の中で、海鳥が狂おしげに鳴き叫んでいたが、やがて、血が塩水にまじって沖に引き去られてしまうと、浜辺はふたたび旧の静寂にもどった。
 そこへ、フローラは不審気な顔で、紅琴の耳に口を寄せた。
「でも、ほんとうでしょうか、奥方様。ほんとうに、黄金郷(エルドラドー)の所在を御存じなのでございますか」
「知らないで、なんとしようぞ。フローラ、そもじに、その所在を明らかにするについては、陸では聴く耳があるかもしれませぬ。私たち二人は、沖に出て話すことにしましょう」
 と先刻は、鉄を断つ勢いを示したにもかかわらず、その紅琴が、なぜかもの淋(さび)しく微笑(ほほえ)んで、一艘(そう)の小船を仕立てさせた。
 次第に、フローラの体には、塩気が粘りはじめて、岩城(いわしろ)の頂きが、遠く亡霊のようにぼんやりと見えた。うねりは緩(ゆる)く大きく、船はすでに、二カイリの沖合に出ていた。
 するとその時、意外にも、紅琴の瞼(まぶた)がぬれているのを見て、フローラは驚いた。
「おや、奥方さま、なぜにお泣きでございますの。御兄弟お二人を失ったとはいえ、ラショワ島の御主、黄金郷の女王となったあなたさまに、涙は不吉でございますのよ」
「いえいえフローラ、私たちは、いまこそ島に別れを告げねばならぬのです。おお、あの岩城、横蔵、慈悲太郎――これからは、二人の塚(つか)を訪れる者とてないであろう。したが、そもじは気づかぬであろうけれど、あの二人がこの世を去ったとすれば、当然火器を作って、土民たちを従えるに足る者が、島にはいのうなったはずじゃ。その理由(ことわり)がようわかれば、なぜ私が、無辜(むこ)のグレプニツキーを殺(あや)めたか、合点がいったであろうのう。私たちが島を去ったのち、見す見すあの者に、支配されるのを口惜しゅう思ったからじゃ。もう私は、ラショワ島の主でも、黄金郷の女王でもない。そもじと同じ、ただの女にすぎませぬのじゃ」
 と紅琴は、伸び上がり伸び上がり、次第に点と消えゆく、島影に名残りを惜しんでいたが、その時、島の頂きに当たって、音のない爆音を聞いた心持ちがした。
 突如、地平のはるか下から、白夜を押し上げるようにして、燦然(さんぜん)たる金色の暈(かさ)が現われたからである。
 それを見ると、フローラは紅琴の裾(すそ)に泣き伏して、よよとばかりに歔欷(すす)り上げた。
「あ、あまりな御短慮ですわ。見す見すあの黄金郷を捨てて、奥方様はどこへおいでになるおつもりでございます?」
「いえいえ、私たちは、黄金郷へ行くのですよ」
 紅琴は、意外にも落ち着いた声で、そう言った。
「実を言うと、グレプニツキーをはじめ、島の頂きにある鉱脈に惑わされたのじゃ。あれは、黄銅といって、色は黄金に似ているとはいえ、価格に至っては振り向くものもない、その一部分が、露出しているために、背後に太陽があり、切れ海霧(ガス)が丸うなってそばを通ると、あのとおり、金色の幻暈(かさ)を現わすのじゃ。したが私は、誓って終局の鍵(かぎ)が、ベーリング島にあると思うのです。そして、ベーリングの空骸(むくろ)に印された遺書を見るまでは、なんで黄金郷の夢が捨てられましょうぞ」
「おお、それでは……それでは、これからベーリング島へ行くのでございますか」
 とフローラは、たまらず不安と寂寥(せきりょう)に駆られて、低く声を震わせた。
 しかし、同時に彼女は、何事かを悟ったと見え、全身がワナワナとおののきだした。というのは、いま紅琴に説かれた黄金郷の正体が、ついぞ先刻、自分の頭上を飾った、後光と同じ理論に落ちたからである。
 それが、いわゆる仏の御光(露が鏡面のように働いて、草の葉の面に太陽の像を現わし、また、その像が光源となり光線が逆もどりして、太陽のあるほうの側に、像ができる。
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