ごんごろ鐘
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著者名:新美南吉 

ごんごろ鐘(がね)新美南吉(にいみなんきち) 三月(がつ)八日(ようか) お父(とう)さんが、夕方(ゆうがた)村会(そんかい)からかえって来(き)て、こうおっしゃった。「ごんごろ鐘(がね)を献納(けんのう)することにきまったよ。」 お母(かあ)さんはじめ、うちじゅうのものがびっくりした。が、僕(ぼく)はあまり驚(おどろ)かなかった。僕(ぼく)たちの学校(がっこう)の門(もん)や鉄柵(てつさく)も、もうとっくに献納(けんのう)したのだから、尼寺(あまでら)のごんごろ鐘(がね)だって、お国(くに)のために献納(けんのう)したっていいのだと思(おも)っていた。でも小(ちい)さかった時(とき)からあの鐘(かね)に朝晩(あさばん)したしんで来(き)たことを思(おも)えば、ちょっとさびしい気(き)もする。 お母(かあ)さんが、「まあ、よく庵主(あんじゅ)さんがご承知(しょうち)なさったね。」とおっしゃった。「ん、はじめのうちは、村(むら)の御先祖(ごせんぞ)たちの信仰(しんこう)のこもったものだからとか、ご本山(ほんざん)のお許(ゆる)しがなければとかいって、ぐずついていたけれど、けっきょく気(き)まえよく献納(けんのう)することになったよ。庵主(あんじゅ)だって日本人(にほんじん)に変(か)わりはないわけさ。」 ところで、このごんごろ鐘(がね)を献納(けんのう)するとなると、僕(ぼく)はだいぶん書(か)きとめておかねばならないことがあるのだ。 第(だい)一、ごんごろ鐘(がね)という名前(なまえ)の由来(ゆらい)だ。樽屋(たるや)の木之助(きのすけ)爺(じい)さんの話(はなし)では、この鐘(かね)をつくった鐘師(かねし)がひどいぜんそく持(も)ちで、しょっちゅうのどをごろごろいわせていたので、それが鐘(かね)にもうつって、この鐘(かね)を叩(たた)くと、ごオん[#「ごオん」に傍点]のあとに、ごろごろ[#「ごろごろ」に傍点]という音(おと)がかすかに続(つづ)く、それで誰(だれ)いうとなく、ごんごろ[#「ごんごろ」に傍点]鐘(がね)と呼(よ)ぶようになったのだそうだ。しかしこの話(はなし)はどうも怪(あや)しい、と僕(ぼく)は思(おも)う。人間(にんげん)のぜんそくが鐘(かね)にうつるというところが変(へん)だ。それなら、人間(にんげん)の腸(ちょう)チブスが鐘(かね)にうつるということもあるはずだし、人間(にんげん)のジフテリヤが鐘(かね)にうつるということもあるはずである。それじゃ鐘(かね)の病院(びょういん)も建(た)たなければならないことになる。 僕(ぼく)と松男君(まつおくん)はいつだったか、ろんよりしょうこ、ごんごろ鐘(がね)がはたしてごんごろごろ[#「ごんごろごろ」に傍点]と鳴(な)るかどうか試(ため)しにいったことがある。静(しず)かなときを僕(ぼく)たちは選(えら)んでいった。鐘楼(しゅろう)の下(した)にあじさいが咲(さ)きさかっている真昼(まひる)どきだった。松男君(まつおくん)が腕(うで)によりをかけて、あざやかに一つごオん、とついた。そして二人(ふたり)は耳(みみ)をすましてきいていたが、余韻(よいん)がわあんわあんと波(なみ)のようにくりかえしながら消(き)えていったばかりで、ぜんそく持(も)ちの痰(たん)のような音(おと)はぜんぜんしなかった。そこで僕(ぼく)たちは、この鐘(かね)の健康状態(けんこうじょうたい)はすこぶるよろしい、と診断(しんだん)したのだった。 また紋次郎君(もんじろうくん)とこのお婆(ばあ)さんの話(はなし)によると、この鐘(かね)を鋳(い)た人(ひと)が、三河(みかわ)の国(くに)のごんごろう[#「ごんごろう」に傍点]という鐘師(かねし)だったので、そう呼(よ)ばれるようになったんだそうだ。鐘(かね)のどこかに、その鐘師(かねし)の名(な)が彫(ほ)りつけてあるそうな、と婆(ばあ)さんはいった。これは木之助(きのすけ)爺(じい)さんの話(はなし)よりよほどほんとうらしい。 しかし僕(ぼく)は、大学(だいがく)にいっている僕(ぼく)の兄(にい)さんの話(はなし)が、いちばん信(しん)じられるのだ。兄(にい)さんはこういった。「それはきっと、ごんごん[#「ごんごん」に傍点]鳴(な)るので、はじめに誰(だれ)かがごんごん[#「ごんごん」に傍点]鐘(がね)といったのさ。ごんごん[#「ごんごん」に傍点]鐘(がね)ごんごん[#「ごんごん」に傍点]鐘(がね)といっているうちに、誰(だれ)かが言(い)いちがえてごんごろ[#「ごんごろ」に傍点]鐘(がね)といっちまったんだ。するとごんごろ[#「ごんごろ」に傍点]鐘(がね)の方(ほう)がごんごん[#「ごんごん」に傍点]鐘(がね)よりごろ[#「ごろ」に傍点]がいいので、とうとうごんごろ[#「ごんごろ」に傍点]鐘(がね)になったのさ。」 僕(ぼく)は小(ちい)さかったときには、ごんごろ鐘(がね)をずいぶん大(おお)きいものと思(おも)っていた。しかし国民(こくみん)六年(ねん)にもうじきなろうという現在(げんざい)では、それほど大(おお)きいとは思(おも)わない。直径(ちょっけい)が約(やく)七十糎(センチ)だから周囲(しゅうい)は70cm×3.14=219.8cmというわけだ。お父(とう)さんが奈良(なら)で見(み)て来(き)た鐘(かね)というのは、直径(ちょっけい)が二米(メートル)ぐらいあったそうだから、そんなのにくらべれば、ごんごろ鐘(がね)は鐘(かね)の赤(あか)ん坊(ぼう)にすぎない。 しかし僕(ぼく)たち村(むら)のものにとっては、いつまでも忘(わす)れられない鐘(かね)だ。なぜなら、尼寺(あまでら)の庭(にわ)の鐘楼(しゅろう)の下(した)は、村(むら)のこどものたまりばだからだ。僕(ぼく)たちが学校(がっこう)にあがらないじぶんは、毎日(まいにち)そこで遊(あそ)んだのだ。学校(がっこう)にあがってからでも学校(がっこう)がひけたあとでは、たいていそこにあつまるのだ。夕方(ゆうがた)、庵主(あんじゅ)さんが、もう鐘(かね)をついてもいいとおっしゃるのをまっていて、僕(ぼく)らは撞木(しゅもく)を奪(うば)いあってついたのだ。またごんごろ鐘(がね)は、僕(ぼく)たちの杉(すぎ)の実(み)でっぽうや、草(くさ)の実(み)でっぽうのたまをどれだけうけて、そのたびにかすかな澄(す)んだ音(おと)で僕達(ぼくたち)の耳(みみ)をたのしませてくれたか知(し)れない。 おもえば、ごんごろ鐘(がね)についてのおもいでは、数(かず)かぎりがない。 三月(がつ)二十二日(にち) 春休(はるやす)み第(だい)二日(にち)の今日(きょう)、ごんごろ鐘(がね)がいよいよ「出征(しゅっせい)」することになった。 兎(うさぎ)にたんぽぽをやっていると、用吉君(ようきちくん)が、今(いま)おろすところだよ、といって来(き)たので、遅(おく)れちゃたいへんと、桑畑(くわばたけ)の中(なか)の近道(ちかみち)を走(はし)っていった。四郎五郎(しろごろう)さんの藪(やぶ)の横(よこ)までかけて来(く)ると、まだ三百米(メートル)ほど走(はし)ったばかりなのに、あつくなって来(き)たので、上衣(うわぎ)をぬいでしまった。 尼寺(あまでら)へ来(き)て見(み)て、僕(ぼく)はびっくりした。まるでお祭(まつ)りのときのような人出(ひとで)である。いや、お祭(まつ)りのとき以上(いじょう)かも知(し)れない。お祭(まつ)りには若(わか)い者(もの)や子供(こども)はたくさん出(で)て来(く)るが、こんなに老人(ろうじん)までがおおぜい出(で)て来(き)はしないのだ。杖(つえ)にすがった爺(じい)さん、あごが地(ち)につくくらい背(せ)がまがって、ちょうど七面鳥(しちめんちょう)のようなかっこうの婆(ばあ)さん、自分(じぶん)では歩(ある)かれないので、息子(むすこ)の背(せ)におわれて来(き)た老人(ろうじん)もあった。こういう人(ひと)たちも、みなごんごろ鐘(がね)と、目(め)に見(み)えない糸(いと)で結(むす)ばれているのだ。僕(ぼく)はいまさら、この大(おお)きくもない鐘(かね)が、じつにたくさんの人(ひと)の生活(せいかつ)につながっていることに驚(おどろ)かされた。 老人(ろうじん)たちは、ごんごろ鐘(がね)に別(わか)れを惜(お)しんでいた。「とうとう、ごんごろ鐘(がね)さま[#「さま」に傍点]も行(い)ってしまうだかや。」といっている爺(じい)さんもあった。なんまみだぶ、なんまみだぶといいながら、ごんごろ鐘(がね)を拝(おが)んでいる婆(ばあ)さんもあった。 鐘(かね)をおろすまえに、青年団長(せいねんだんちょう)の吉彦(よしひこ)さんが、とてもよいことを思(おも)いついてくれた。長年(ながねん)お友(とも)だちであった鐘(かね)ともいよいよお別(わか)れだから、子供(こども)たちに思(おも)うぞんぶんつかせよう、というのであった。これをきいて僕(ぼく)たち村(むら)の子供(こども)は、わっと歓呼(かんこ)の声(こえ)をあげた。みなつきたいものばかりなので、吉彦(よしひこ)さんはみんなを鐘楼(しゅろう)の下(した)に一列(れつ)励行(れいこう)させた。そして一人(ひとり)ずつ石段(いしだん)をあがってつくのだが、一人(ひとり)のつく数(かず)は三つにきめられた。お菓子(かし)の配給(はいきゅう)のときのことをおもい出(だ)して、僕(ぼく)はおかしかった。だが、ごんごろ鐘(がね)を最後(さいご)に三つずつ鳴(な)らさせてもらうこの「配給(はいきゅう)」は、お菓子(かし)の配給(はいきゅう)以上(いじょう)にみんなに満足(まんぞく)をあたえた。 最後(さいご)に吉彦(よしひこ)さんがじぶんで、大(おお)きく大(おお)きく撞木(しゅもく)を振(ふ)って、がオオんん、とついた。わんわんわん、と長(なが)く余韻(よいん)がつづいた。すると吉彦(よしひこ)さんが、「西(にし)の谷(たに)も東(ひがし)の谷(たに)も、北(きた)の谷(たに)も南(みなみ)の谷(たに)も鳴(な)るぞや。ほれ、あそこの村(むら)も、あそこの村(むら)も、鳴(な)るぞや。」と、謎(なぞ)のようなことをいった。「ほんとだ、ほんとだ。」と、樽屋(たるや)の木之助(きのすけ)爺(じい)さんと、ほか二、三人(にん)の老人(ろうじん)があいづちをうった。 ぼくは何(なん)のことやらわけが分(わ)からなかったので、あとでお父(とう)さんにきいて見(み)たら、お父(とう)さんはこう説明(せつめい)してくれた。「ごんごろ鐘(がね)ができたのは、わたしのお祖父(じい)さんの若(わか)かったじぶんで、わたしもまだ生(う)まれていなかった昔(むかし)のことだが、その頃(ころ)は村(むら)の人達(ひとたち)はみなお金(かね)というものを少(すこ)ししか持(も)っていなかったので、村中(むらじゅう)がその僅(わず)かずつのお金(かね)を出(だ)しあっても、まだ鐘(かね)を一つつくるには足(た)りなかった。そこで西(にし)や東(ひがし)や南(みなみ)や北(きた)の谷(たに)に住(す)んでいる人(ひと)たちやら、もっと遠(とお)くのあっちこっちの村(むら)まで合力(ごうりょく)してもらいにいったんだそうだ。合力(ごうりょく)というのは、たすけてもらうことなのさ。そうしてようやくできあがった鐘(かね)だから、四方(しほう)の谷(たに)の人(ひと)や向(む)こうの村々(むらむら)の人(ひと)の心(こころ)もこもっているわけだ。だからごんごろ鐘(がね)をつくと、その谷(たに)や村(むら)の音(おと)もまじっているように聞(き)こえるのだよ。」 ごんごろ鐘(がね)をおろすのは、庭師(にわし)の安(やす)さんが、大(おお)きい庭石(にわいし)を動(うご)かすときに使(つか)う丸太(まるた)や滑車(せみ)を使(つか)ってやった。若(わか)い人達(ひとたち)が手伝(てつだ)った。馴(な)れないことだからだいぶん時間(じかん)がかかった。 ごんごろ鐘(がね)はひとまず鐘楼(しゅろう)の下(した)に新筵(にいむしろ)をしいて、そこにおろされた。いつも下(した)からばかり見(み)ていた鐘(かね)が、こうして横(よこ)から見(み)られるようになると、何(なに)か別(べつ)のもののような変(へん)な感(かん)じがした。緑青(ろくしょう)がいっぱいついている上(うえ)に、頂(いただき)の方(ほう)には埃(ほこり)がつもっているので、かなりきたなかった。庵主(あんじゅ)さんと、よく尼寺(あまでら)の世話(せわ)をするお竹(たけ)婆(ばあ)さんとが、縄(なわ)をまるめてごしごしと洗(あら)った。 すると今(いま)まではっきりしなかった鐘(かね)の銘(めい)も、だいぶんはっきりして来(き)た。吉彦(よしひこ)さんがちょっと読(よ)んで見(み)て、「こりゃ、お経(きょう)だな。」といった。それからまた、「安永(あんえい)何(なん)とか書(か)いてあるぜ。こりゃ安永年間(あんえいねんかん)にできたもんだ。」といった。すると、どもりの勘太(かんた)爺(じい)さんが、「そ、そうだ。う、う、おれの親父(おやじ)が、う、う、生(う)まれたとしにできた、げな。お、お、親父(おやじ)は安永(あんえい)の、う、う、うまれだ。」と、かみつくようにいった。 紋次郎君(もんじろうくん)とこの婆(ばあ)さんが、「三河(みかわ)のごんごろという鐘師(かねし)がつくったと書(か)いてねえかン。」ときいた。「そんなことは書(か)いてねえ、助九郎(すけくろう)という名(な)が書(か)いてある。」と、吉彦(よしひこ)さんが答(こた)えると、婆(ばあ)さんは何(なに)かぶつくさいってひっこんだ。 和太郎(わたろう)さんが牛車(ぎゅうしゃ)をひいて来(き)たとき、きゅうに庵主(あんじゅ)さんが、鐘供養(かねくよう)をしたいといい出(だ)した。大人(おとな)たちは、あまり時間(じかん)がないし、もうみんなじゅうぶん別(わか)れを惜(お)しんだのだから、鐘供養(かねくよう)はしなくてもいいだろう、といった。しかし若(わか)い尼(あま)さんは、眼鏡(めがね)をかけた顔(かお)に真剣(しんけん)な表情(ひょうじょう)をうかべて、「いいえ、自分(じぶん)の体(からだ)を熔(と)かして、爆弾(ばくだん)となってしまう鐘(かね)ですから、どうしても供養(くよう)をしてやりとうござんす。」といった。 大人(おとな)たちは、やれやれ、といった顔(かお)つきをした。みんな、庵主(あんじゅ)さんがしようのない頑固者(がんこもの)であることを知(し)っていたからだ。しかし庵主(あんじゅ)さんのいうことも道理(どうり)であった。 鐘供養(かねくよう)というのは、どんなことをするのかと思(おも)っていたら、ごんごろ鐘(がね)の前(まえ)に線香(せんこう)を立(た)てて庵主(あんじゅ)さんがお経(きょう)をあげることであった。庵主(あんじゅ)さんは、よそゆきの茶色(ちゃいろ)のけさを着(き)て、鐘(かね)のまえに立(た)つと、手(て)にもっている小(ちい)さい鉦(かね)をちーんとたたいて、お経(きょう)を読(よ)みはじめた。はじめはみんな黙(だま)ってきいていたが、少(すこ)したいくつになったので、お経(きょう)を知(し)っている大人達(おとなたち)は、庵主(あんじゅ)さんといっしょに唱(とな)え出(だ)した。何(なん)だか空気(くうき)がしめっぽくなった。まるでお葬(とむら)いのような気(き)がした。年寄(としよ)りたちはみなしわくちゃの手(て)を合(あ)わせた。 鐘供養(かねくよう)がすんで、庭師(にわし)の安(やす)さんたちが、またごんごろ鐘(がね)を吊(つ)りあげると、その下(した)へ和太郎(わたろう)さんが牛車(ぎゅうしゃ)をひきこんで、うまいぐあいに、牛車(ぎゅうしゃ)の上(うえ)にのせた。その時(とき)、黄色(きいろ)い蝶(ちょう)が一つごんごろ鐘(がね)をめぐって、土塀(どべい)の外(そと)へ消(き)えていった。 和太郎(わたろう)さんが牛(うし)を車(くるま)につけているとき、みんなはまたいろいろなことをいった。「この鐘(かね)がなしになると、これから報恩講(ほうおんこう)のときなんかに、人(ひと)を集(あつ)めるのに困(こま)るわなア。」といったのは、いつも真面目(まじめ)なことしか言(い)わない種(たね)さんだ。「なあに、学校生徒(がっこうせいと)を呼(よ)んで来(き)て、ラッパを吹(ふ)かせりゃええてや。トテチテタアをきいたら、みんな、ほれ報恩講(ほうおんこう)がはじまると思(おも)って出(で)かけりゃええ。」と答(こた)えたのは、ひょっとこづらをして見(み)せることの上手(じょうず)な松(まつ)さん。「ほんな馬鹿(ばか)な。ラッパで爺(じい)さん婆(ばあ)さんを集(あつ)めるなどと、ほんな馬鹿(ばか)な。」と、種(たね)さんはしかたがないように笑(わら)った。「これでごんごろ鐘(がね)もきっと爆弾(ばくだん)になるずらが、あんがい、四郎五郎(しろごろう)さんとこの正男(まさお)さんの手(て)から敵(てき)の軍艦(ぐんかん)にぶちこまれることになるかもしれんな。」と吉彦(よしひこ)さんがいった。四郎五郎(しろごろう)さんの家(いえ)の正男(まさお)さんは、海(うみ)の荒鷲(あらわし)の一人(ひとり)で、いま南(みなみ)の空(そら)に活躍(かつやく)していらっしゃるのだ。「うん、そうよなあ。だが、正男(まさお)の奴(やつ)も、ごんごろ鐘(がね)でできた爆弾(ばくだん)たあ知(し)るめえ。爆弾(ばくだん)はものをいわねえでのオ。」と無口(むくち)でがんじょうな四郎五郎(しろごろう)さんは、煙草(たばこ)をすいながらぽつりぽつり答(こた)えた。「だが、これだけの鐘(かね)なら爆弾(ばくだん)が三つはできるだろうな。」と、誰(だれ)かがいった。「そうよなあ、十はできるだら。」と誰(だれ)かが答(こた)えた。「いや三つぐれえのもんだら。」と、はじめの人(ひと)がいった。「いいや、十はできるな。」と、あとの人(ひと)が主張(しゅちょう)した。僕(ぼく)はきいていておかしくなった。爆弾(ばくだん)にも五十キロのもあれば五百キロのもあるというように、いろいろあることを、この人(ひと)たちは知(し)らないらしい。しかし僕(ぼく)にも五十キロの爆弾(ばくだん)ならいくつできるか、五百キロのならいくつできるか、ということはわからなかった。 いよいよごんごろ鐘(がね)は出発(しゅっぱつ)した。老人達(ろうじんたち)は、また仏(ほとけ)の御名(みな)を唱(とな)えながら、鐘(かね)にむかって合掌(がっしょう)した。 鐘(かね)には吉彦(よしひこ)さんがひとりついて、町(まち)の国民学校(こくみんがっこう)の校庭(こうてい)までゆくことになっていた。そこには、近(ちか)くの村々(むらむら)からあつめられた屑鉄(くずてつ)の山(やま)があるということだった。 ぼくたち村(むら)の子供(こども)は、見送(みおく)るつもりでしばらく鐘(かね)のうしろについていった。来(こ)さん坂(ざか)[#「来さん坂」に傍点]もすぎたが、誰一人(だれひとり)帰(かえ)ろうとしなかった。小松山(こまつやま)のそばまで来(き)たが、まだ誰(だれ)も帰(かえ)るようすを見(み)せなかった。帰(かえ)るどころか、みんなの顔(かお)には、町(まち)まで送(おく)ってゆこう、という決意(けつい)があらわれていた。  しかし僕(ぼく)たちは小(ちい)さい子供(こども)はつれてゆくわけにはいかなかった。そこで松男君(まつおくん)の提案(ていあん)で、新(しん)四年(ねん)以下(いか)の者(もの)はしんたのむね[#「しんたのむね」に傍点]から村(むら)へ帰(かえ)り、新(しん)五年(ねん)以上(いじょう)の者(もの)が、町(まち)までついてゆくことにきまった。 しんたのむね[#「しんたのむね」に傍点]で、十五人(にん)ばかりの小(ちい)さい者(もの)がうしろに残(のこ)った。ところが、そこでちょっとした争(あらそ)いが起(お)こった。新(しん)四年(ねん)だから、帰(かえ)らねばならないはずの比良夫君(ひらおくん)が、帰(かえ)ろうとしなかったからだ。五年(ねん)以上(いじょう)の者(もの)が、帰(かえ)れ帰(かえ)れ、というと、比良夫君(ひらおくん)はいうのだった。「俺(おれ)あ、今(いま)四年(ねん)だけれど、一年(ねん)のときいっぺんすべっとる(落第(らくだい)している)で、年(とし)は五年(ねん)とおんなじだ。」 なるほど、それも一つのりくつである。しかし五年(ねん)以上(いじょう)の者(もの)は、そんなりくつは通(とお)させなかった。とうとう腕(うで)ずくで解決(かいけつ)をつけることになった。 松男君(まつおくん)が比良夫君(ひらおくん)に引(ひ)っ組(く)んだ。そして足掛(あしか)けで倒(たお)そうとしたが、比良夫君(ひらおくん)は相撲(すもう)の選手(せんしゅ)だから、逆(ぎゃく)に腰(こし)をひねって松男君(まつおくん)を投(な)げ出(だ)してしまった。 こんどは用吉君(ようきちくん)が、得意(とくい)の手(て)で相手(あいて)の首(くび)をしめにかかったが、反対(はんたい)に自分(じぶん)の首(くび)をしめつけられ、ゆでだこのようになってしまった。 そんなことをしている間(あいだ)に、鐘(かね)をのせた牛車(ぎゅうしゃ)はもうしんたのむね[#「しんたのむね」に傍点]をおりてしまっていた。五年(ねん)以上(いじょう)の者(もの)は、気(き)がせいてたまらなかった。ぐずぐずしていると、ついに鐘(かね)にいってしまわれるおそれがあった。そこで、比良夫君(ひらおくん)のことなんかほっといて、みんな鐘(かね)めがけて走(はし)った。総勢(そうぜい)十五人(にん)ほどであった。鐘(かね)に追(お)いついてみると、ちゃんと比良夫君(ひらおくん)がうしろについて来(き)ていた。みんなは少(すこ)しいまいましく思(おも)ったが、考(かんが)えてみると、それだけ比良夫君(ひらおくん)の熱心(ねっしん)がつよいことになるわけだから、みんなは比良夫君(ひらおくん)を許(ゆる)してやることにした。 川(かわ)の堤(つつみ)に出(で)たとき、紋次郎君(もんじろうくん)が猫柳(ねこやなぎ)の枝(えだ)を折(お)って来(き)て鐘(かね)にささげた。ささげたといっても、鐘(かね)のそばにおいただけである。すると、みんなは、われもわれもと、猫柳(ねこやなぎ)をはじめ、桃(もも)や、松(まつ)や、たんぽぽや、れんげそうや、なかにはペンペン草(ぐさ)までとって来(き)て鐘(かね)にささげた。鐘(かね)はそれらの花(はな)や葉(は)でうずまってしまった。 こうして僕(ぼく)たちは村(むら)でただひとつのごんごろ鐘(がね)を送(おく)っていった。 三月(がつ)二十三日(にち) ひるまえ、南道班(みなみみちはん)子供常会(こどもじょうかい)をするために尼寺(あまでら)へいった。 いつも常会(じょうかい)をひらくまえに、境内(けいだい)をみんなで掃除(そうじ)することになっているのだが、きょうは僕(ぼく)はひとつみんなの気(き)のつかないところをしてやろうと、御堂(みどう)の裏(うら)へまわって、藪(やぶ)と御堂(みどう)の間(あいだ)のしめった落(お)ち葉(ば)をはいた。裏(うら)へまわっていいことをしたと思(おも)った。それは僕(ぼく)の好(す)きな白椿(しろつばき)が咲(さ)いているのを見(み)つけたからだ。 何(なん)というよい花(はな)だろう。白(しろ)い花(か)べんがふかぶかとかさなりあい、花(か)べんの影(かげ)がべつの花(か)べんにうつって、ちょっとクリーム色(いろ)に見(み)える。神(かみ)さまも、この花(はな)をつつむには、特別上等(とくべつじょうとう)の澄(す)んだやわらかな春光(しゅんこう)をつかっていらっしゃるとしか思(おも)えない。そのうえ、またこの木(き)の葉(は)がすばらしい。一枚(まい)一枚(まい)名工(めいこう)がのみで彫(ほ)ってつけたような、厚(あつ)い固(かた)い感(かん)じで、黒(くろ)と見(み)えるほどの濃緑色(のうりょくしょく)は、エナメルをぬったようにつややかで、陽(ひ)のあたる方(ほう)の葉(は)は眼(め)に痛(いた)いくらい光(ひかり)を反射(はんしゃ)するのだ。 じつにすばらしい花(はな)が日本(にっぽん)にはあるものだ。いつかお父(とう)さんが、日本(にっぽん)ほど自然(しぜん)の美(び)にめぐまれている国(くに)はないとおっしゃったが、ほんとうにそうだと思(おも)う。 掃除(そうじ)が終(お)わって、いよいよ第(だい)二十回(かい)常会(じょうかい)を開(ひら)こうとしていると、きこりのような男(おとこ)の人(ひと)が、顔(かお)の長(なが)い、耳(みみ)の大(おお)きい爺(じい)さんを乳母車(うばぐるま)にのせて、尼寺(あまでら)の境内(けいだい)にはいって来(き)た。 きけばその爺(じい)さんは深谷(ふかだに)の人(ひと)で、ごんごろ鐘(がね)がこんど献納(けんのう)されるときいて、お別(わか)れに来(き)たのだそうだ。乳母車(うばぐるま)をおして来(き)たのは爺(じい)さんの息子(むすこ)さんだった。 深谷(ふかだに)というのは僕(ぼく)たちの村(むら)から、三粁(キロ)ほど南(みなみ)の山(やま)の中(なか)にある小(ちい)さな谷(たに)で、僕(ぼく)たちは秋(あき)きのこをとりに行(い)って、のどがかわくと、水(みず)を貰(もら)いに立(た)ち寄(よ)るから、よく知(し)っているが、家(いえ)が四軒(けん)あるきりだ。電燈(でんとう)がないので、今(いま)でも夜(よる)はランプをともすのだ。その近所(きんじょ)には今(いま)でも狐(きつね)や狸(たぬき)がいるそうで、冬(ふゆ)の夜(よる)など、人(ひと)が便所(べんじょ)にゆくため戸外(こがい)に出(で)るときには、戸(と)をあけるまえに、まず丸太(まるた)をうちあわせたり、柱(はしら)を竹(たけ)でたたいたりして、戸口(とぐち)に来(き)ている狐(きつね)や狸(たぬき)を追(お)うのだそうだ。 お爺(じい)さんは、ごんごろ鐘(がね)の出征(しゅっせい)の日(ひ)を、一日(にち)まちがえてしまって、ついにごんごろ鐘(がね)にお別(わか)れが出来(でき)なかったことを、たいそう残念(ざんねん)がり、口(くち)を大(おお)きくあけたまま、鐘(かね)のなくなった鐘楼(しゅろう)の方(ほう)を見(み)ていた。「きのう、お別(わか)れだといって、あげん子供(こども)たちが、ごんごん鳴(な)らしたが、わからなかっただかね。」と庵主(あんじゅ)さんも気(き)の毒(どく)そうにいうと、「ああ、この頃(ごろ)は耳(みみ)の聞(き)こえる日(ひ)と聞(き)こえぬ日(ひ)があってのオ。きんの[#「きんの」に傍点]は朝(あさ)から耳(みみ)ん中(なか)で蝿(はえ)が一匹(ぴき)ぶんぶんいってやがって、いっこう聞(き)こえんだった。」と、お爺(じい)さんは答(こた)えるのだった。 お爺(じい)さんは息子(むすこ)さんに、町(まち)までつれていって鐘(かね)に一目(ひとめ)あわせてくれ、と頼(たの)んだが、息子(むすこ)さんは、仕事(しごと)をしなきゃならないからもうごめんだ、といって、お爺(じい)さんののった乳母車(うばぐるま)をおして、門(もん)を出(で)ていった。 僕(ぼく)たちは、しばらく、塀(へい)の外(そと)をきゅろきゅろと鳴(な)ってゆく乳母車(うばぐるま)の音(おと)をきいていた。僕(ぼく)はお爺(じい)さんの心(こころ)を思(おも)いやって、深(ふか)く同情(どうじょう)せずにはいられなかった。 それから僕(ぼく)たちの常会(じょうかい)がはじまった。するとまっさきに松男君(まつおくん)が、「僕(ぼく)に一つ新(あたら)しい提案(ていあん)がある。」といった。みんなは何(なん)だろうかと思(おも)った。「それは、今(いま)のお爺(じい)さんを町(まち)までつれていって、ごんごろ鐘(がね)にあわしてあげることだ。」 みんなは黙(だま)ってしまった。なるほどそれは、誰(だれ)もが胸(むね)の中(なか)でおもっていたことだ。いいことには違(ちが)いない。しかしみんなは、昨日(きのう)、町(まち)まで行(い)って来(き)たばかりであった。また今日(きょう)も、同(おな)じ道(みち)を通(とお)って同(おな)じところに行(い)って来(く)るというのは面白(おもしろ)いことではない。 しかし、「賛成(さんせい)。」と、紋次郎君(もんじろうくん)がしばらくしていった。「僕(ぼく)も賛成(さんせい)。」と勇気(ゆうき)をふるって僕(ぼく)がいった。すると、あとのものもみな賛成(さんせい)してしまった。「本日(ほんじつ)の常会(じょうかい)、これで終(お)わりッ。」と松男君(まつおくん)が叫(さけ)んで、たあッと門(もん)の外(そと)へ走(はし)り出(だ)した。みんなそのあとにつづいた。 亀池(かめいけ)の下(した)でお爺(じい)さんの乳母車(うばぐるま)に追(お)いついた。僕(ぼく)たちはお爺(じい)さんの息子(むすこ)さんにわけを話(はな)して、お爺(じい)さんをこちらへ受(う)けとった。お爺(じい)さんは子供(こども)のように喜(よろこ)んで、長(なが)い顔(かお)をいっそう長(なが)くして、あは、あは、と笑(わら)った。僕(ぼく)たちもいっしょに笑(わら)い出(だ)してしまった。 何(なに)も心配(しんぱい)する必要(ひつよう)はなかった。昨日(きのう)通(とお)ったばかりの道(みち)でも、少(すこ)しも退屈(たいくつ)ではなかった。心(こころ)に誠意(せいい)をもって善(よ)い行(おこな)いをする時(とき)には、僕(ぼく)らはなんど同(おな)じことをしても退屈(たいくつ)するものではない、とわかった。それにお爺(じい)さんがいろいろ面白(おもしろ)い話(はなし)をしてくれた。 ただ一つ困(こま)ったことは、乳母車(うばぐるま)のどこかが悪(わる)くなっていて、押(お)していると右(みぎ)へ右(みぎ)へとまがっていってしまうことだった。だから押(お)す者(もの)は、十米(メートル)ぐらいすすむたびに、乳母車(うばぐるま)のむきをかえねばならなかった。僕(ぼく)たちはこのやっかいな乳母車(うばぐるま)をかわりばんこに押(お)していったのである。 正午(しょうご)じぶんに、僕(ぼく)たちは町(まち)の国民学校(こくみんがっこう)についた。昨日(きのう)のところになつかしいごんごろ鐘(がね)はあった。「やあ、あるなア、あるなア。」と、お爺(じい)さんは鐘(かね)が見(み)えたときいった。そして、触(さわ)りたいからそばへ乳母車(うばぐるま)をよせてくれ、といった。僕(ぼく)たちは、お爺(じい)さんのいうとおりにした。 お爺(じい)さんは乳母車(うばぐるま)から手(て)をさしのべて、なつかしそうにごんごろ鐘(がね)を撫(な)でていた。 僕(ぼく)たちは弁当(べんとう)を持(も)っていなかったので腹(はら)ぺこになって、村(むら)に二時頃(じごろ)帰(かえ)って来(き)た。それから深谷(ふかだに)までお爺(じい)さんを届(とど)けにいってくるのは楽(らく)な仕事(しごと)ではなかった。が、感心(かんしん)なことに誰(だれ)もいやな顔(かお)をしなかった。僕(ぼく)らはびっこをひきひき深谷(ふかだに)までゆき、お爺(じい)さんをかえして来(き)た。 夕御飯(ゆうごはん)のとき、きょうのことを話(はな)したら、お父(とう)さんが、それはよいことをした、とおっしゃった。「ん、そういえば、あのごんごろ鐘(がね)は深谷(ふかだに)のあたりでつくられたのだ。いまでもあの辺(あた)りに鐘鋳谷(かねいりだに)という名(な)の残(のこ)っている小(ちい)さい谷(たに)があるが、そこで、鋳(い)たということだ。その頃(ころ)の若(わか)いもんたちは、三日三晩(みっかみばん)、たたら[#「たたら」に傍点]という大(おお)きなふいごを足(あし)で踏(ふ)んで、銅(かね)をとかす火(ひ)をおこしたもんだそうだ。」 それでは、あのお爺(じい)さんもまたごんごろ鐘(がね)と深(ふか)いつながりがあったわけだ。 僕(ぼく)は又(また)してもおもい出(だ)した、吉彦(よしひこ)さんが鐘(かね)をつくとき言(い)った言葉(ことば)を――「西(にし)の谷(たに)も東(ひがし)の谷(たに)も、北(きた)の谷(たに)も南(みなみ)の谷(たに)も鳴(な)るぞ。ほれ、あそこの村(むら)もここの村(むら)も鳴(な)るぞ。」 ちょうどそのとき、ラジオのニュースで、きょうも我(わ)が荒鷲(あらわし)が敵(てき)の○○飛行場(ひこうじょう)を猛爆(もうばく)して多大(ただい)の戦果(せんか)を収(おさ)めたことを報(ほう)じた。 僕(ぼく)の眼(め)には、爆撃機(ばくげきき)の腹(はら)から、ばらばらと落(お)ちてゆく黒(くろ)い爆弾(ばくだん)のすがたがうつった。「ごんごろ鐘(がね)もあの爆弾(ばくだん)になるんだねえ。あの古(ふる)ぼけた鐘(かね)が、むくりむくりとした、ぴかぴかひかった、新(あたら)しい爆弾(ばくだん)になるんだね。」と僕(ぼく)がいうと、休暇(きゅうか)で帰(かえ)って来(き)ている兄(にい)さんが、「うん、そうだ。何(なん)でもそうだよ。古(ふる)いものはむくりむくりと新(あたら)しいものに生(う)まれかわって、はじめて活動(かつどう)するのだ。」といった。兄(にい)さんはいつもむつかしいことをいうので、たいてい僕(ぼく)にはよくわからないのだが、この言葉(ことば)は半分(はんぶん)ぐらいはわかるような気(き)がした。古(ふる)いものは新(あたら)しいものに生(う)まれかわって、はじめて役立(やくだ)つということに違(ちが)いない。底本:「ごんぎつね・夕鶴」少年少女日本文学館第十五巻、講談社   1986(昭和61)年4月18日第1刷発行   1993(平成5)年2月25日第13刷発行入力:田浦亜矢子校正:もりみつじゅんじファイル作成:もりみつじゅんじ1999年10月25日公開青空文庫作成ファイル:このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです
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