長塚節句集
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著者名:長塚節 

長塚節句集長塚節[表記について]
●二倍の踊り字(くの字形の繰り返し記号)は「/\」で代用した。
●ルビは「漢字(ルビ)」の形式で処理した。
俳句|略年譜
     俳句

白菜や間引き/\て暮るゝ秋
七年の約を果すや暮の秋
散りぬべき卿の秋の毛虫かな
花煙草葉を掻く人のあからさま
藁灰に莚掛けたり秋の雨
豆引いて莠はのこる秋の風
わかさぎの霞が浦や秋の風
佐渡について母への状や秋の風
蓼の穗に四五日降つて秋の水
此村に高音の目白捉へけり
鳴きもせで百舌鳥の尾動く梢かな
柿くふや安達が原の百姓家
柿赤き梢を蛇のわたりけり
芝栗や落ちたるを拾ひ枝を折る
錐栗(ひよひよぐり)やこゝに二つを珍らしむ
芭蕉ある寺に一樹の柚子黄なり
一うねは桐の木蔭の黄菊かな
わせ刈つて鷸の伏す田となりにけり
狼把草(たうこぎ)の花さく頃や稻日和
掛稻の下や茶の木の花白し
飛彈人の木を流す谷の紅葉かな
蟲ばみし櫻なりしが紅葉かな
松間や朗かにして櫨紅葉
胡麻干すや實勝になり木芙蓉
茸狩や櫨の紅葉に來鳴く鳥
足もとに光る茸や夜山越え
木瓜の子(み)や葉は皆落ちて秋の霜
稻を扱く藁の亂や赤蜻蛉

     南禪寺所見
亂れ伏す小萩がしたや鉋屑

     霞が浦
白帆遙にわかさぎ船や蘆の花

     格堂除隊
營を出てさやかに秋の瀬戸の海

     秋水は聾せり
我喚ぶを後も向かず秋の人

     長塚節略年譜

一八七九(明治十二)年 四月三日、茨城県結城郡岡田村国生(現石下町国生)の豪農の家に父源次郎、母たかの長男として生まれる。
一八八三(明治十六)年 四月、学齢未満であったが、国生小学校に入学。
一八八九(明治二十二)年 四月、下妻町の真壁第二高等小学校に入学。
一八九三(明治二十六)年 四月、茨城県立水戸中学校に入学。
一八九六(明治二十九)年 春、神経衰弱のために水戸中学校を四年で退学。この頃から、作歌に親しむようになる。
一八九八(明治三十一)年 正岡子規の「歌よみに与うる書」(新聞「日本」に二月〜五月連載)などを読み、子規に傾倒。六月、東京築地の山田病院に入院し、神経衰弱の治療を受ける。 
一八九九(明治三十二)年 東京神田錦町の橋田病院に転院。五月頃に徴兵検査のために帰郷するが、不合格。「新小説」に短歌を投稿し、度々入選。
一九〇〇(明治三十三)年 三月二八日、根岸庵に子規を訪問。翌々日再訪し、「根岸庵」の十首を作る(「日本」に掲載)。四月一日、根岸庵歌会に出席し、生涯の盟友となる伊藤左千夫らを知る。
一九〇二(明治三十五)年 四月から「うみ苧集」を「心の花」に連載。五月、「日本」に「ゆく春」九首が掲載。九月十九日、子規逝去。翌日、上京する。
一九〇三(明治三十六)年 六月、「馬酔木」創刊。左千夫らとともに編集に加わる。夏に関西を旅し、一一月「西遊歌」を「馬酔木」に発表。
一九〇四(明治三十七)年 四月、「榛の木の花」を「馬酔木」に発表。五月、左千夫らと子規の作品を集成した『竹の里歌』刊行。八月、「夏季雜咏」を「馬酔木」に発表。
一九〇五(明治三十八)年 一月、「秋冬雜咏」を「馬酔木」に発表。八〜一〇月、房州、甲斐、諏訪、木曽を経て、関西に旅する。
一九〇六(明治三十九)年 七月、「炭焼の娘」を「馬酔木」に発表。八〜九月、松島、山形、新潟、佐渡などを約四〇日間旅する。
一九〇七(明治四十)年 五月、「早春の歌」を「馬酔木」に発表。一一月、「佐渡ヶ島」を「ホトトギス」に発表。
一九〇八(明治四十一)年 一月、「初秋の歌」を「馬酔木」終刊号に発表。二月、「晩秋雜咏」を「アカネ」創刊号に発表。一〇月、「アララギ」創刊。
一九〇九(明治四十二)年 一月、「濃霧の歌」を「アララギ」に発表。一〇月、平泉、弘前、十和田などを旅する。
一九一〇(明治四十三)年 六月一三日、「東京朝日新聞」で小説「土」の連載を開始。八月、入院して痔疾を手術。一二月、岐阜、京都を旅する。
一九一一(明治四十四)年 四月、医師黒田貞三郎長女照子と婚約。夏頃から、喉に痛みを覚えるようになる。一一月、上京して診断を受け、喉頭結核と判明。一二月、根岸養生院に入院し、自ら婚約を解消。一二月二四日、照子の来訪があったが会わずに終わる。
一九一二(明治四十五・大正元)年 二月、根岸養生院を退院し、東京下谷に滞在。同月、「病中雜咏(一)」を無題で「アララギ」に発表。三月、久保猪之吉博士(九州大学)宛の夏目漱石による紹介状を手に福岡へ出発。途中、京都医大に入院して手術。四月に退院して福岡に着き、診察を受ける。同月、「病中雜咏(二)」を「病中雜咏」の題で「アララギ」に発表。以後、作歌は途絶える。七月、九州一円、四国、和歌山、奈良、京都などを旅する。九月、帰郷。
一九一三(大正二)年 三月、福岡で久保博士の診察を受ける。四月、出雲などを旅してのち帰郷。七月、左千夫逝去。一二月、上京して金沢病院に入院。
一九一四(大正三)年 一月、金沢病院を退院して帰郷。三月に再度上京して、橋田内科医院に入院。入院中に斎藤茂吉、中村憲吉、古泉千樫らの見舞いを受ける。五月、照子との交際を照子の兄によって禁じられる。退院後帰郷するが、六月、福岡へ。平野屋旅館に滞在し、久保博士の診療を受ける。同月二〇日、九州大学附属病院に入院。六〜九月、「鍼の如く(一〜四)」を「アララギ」に発表。八月に退院し、日向、青島を旅する。九月、福岡に戻って久保博士の診療を受ける。一二月、「鍼の如く(五)」を作る。
一九一五(大正四)年 一月、再度九州大学附属病院に入院し、隔離室へ。同月、「鍼の如く(五)」を「アララギ」に発表。二月七日に昏睡状態に陥り、八日永眠。福岡で荼毘にふされる。三月一四日、故郷の共同墓地に埋葬される。享年三七。
※ 略年譜作成にあたり、『日本の詩歌3』(中央公論社)所収の上田三四二氏による年譜を参照させていただいた。(青空文庫・浜野)



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