右門捕物帖
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著者名:佐々木味津三 

     1

 ――前章の化け右門事件で、名人右門の幕下に、新しく善光寺辰(たつ)なる配下が一枚わき役として加わり、名人、伝六、善光寺辰と、およそ古今に類のない変人ぞろいの捕物(とりもの)陣を敷きまして、いと痛快至極な捕物さばきに及びましたことはすでにご紹介したとおりですが、いよいよそれなる四尺八寸の世にもかわいらしいお公卿(くげ)さまが幕下となって第二回めの捕物、名人にとっては、ちょうどの十五番てがらです。事の勃発(ぼっぱつ)いたしましたのはあれから半月と間のない同じ月の二十六日――しかも、おおかたもう四ツを回った深夜に近い刻限のことでした。古いざれ句にも『ひとり寝が何うれしかろ春の宵(よい)』というのがありますが、常人ならば大きにその句のとおりなんですけれども、わが捕物名人のむっつり右門ばかりは、あいもかわらずじれったいほどな品行方正さでしたから、一刻千金もなんのその、ひとり寝をさせるには気のもめる、あの秀麗きわまりない肉体を、深々と郡内の総羽二重夜具に横たえて、とろとろと夢まどやかなお伽(とぎ)の国にはいったのが、いま申しあげたその四ツ下がり――
 と――伝六というやつは、まったくいついかなるときであろうと、およそおかまいのないガラッ八ですが、いま夢の国にはいろうとしたその寝入りばなを不意におどろかして、どんどん表戸を破れるほどにたたきながら、けたたましく呼びたてました。
「ちぇッ。あきれるじゃござんせんかッ。気のきいた若い者が、このめでたい春先に、今ごろから寝るって法がありますかッ。一大事が突発したんだから、起きておくんなせえよ! ね、だんな、だんなッ。起きなきゃたたきこわしますぜ」
 捨てておいたら、ほんとうに雨戸もたたきこわしかねまじいけんまくでしたから、苦笑いしいしい起きていくと、ガミガミいってやかましく呼びたてたのにかかわらず、どうしたことかふいッとことばをつまらして、目に涙すらもためながら、まじまじと名人の顔を見守っていましたが、おろおろと鼻声になりながら、やにわと意外なことをいいました。
「ね、か、かわいそうなことになったもんじゃござんせんか。善光寺辰の野郎め、どうやら陽気に当てられやがって、気がふれたようですぜ」
「なにッ□ まさか、かつぐんじゃあるめえな」
「こんなことでかついで、なんの得になりますか! せっかくだんなが拾ってくだすったんで、これから皆さまにもけええがってもらえるだろうと、あっしも陰ながら楽しみにしていたんですが、あんまりたわいなく陽気に当てられちまやがったんで、けええそうで、けええそうでならねえんですよ」
「みっともねえ、手放しでそんなにおいおいと泣いたってしようがねえじゃねえか。もっと詳しくいってみなよ」
「だって、あんまりぞうさなく気がふれやがったんだから、兄弟分としてちっとは涙も出るじゃござんせんか。実あ、だんなにしかられるかもしれませんが、このけっこうな春先に、いい年のわけえ者が、能もなくひざ小僧抱きかかえて寝ちまうのももってえねえと思いましたからね。さっきこちらを引き揚げてから、ふたりしてちょっくら神明前の吹き矢へ出かけていったんですよ。するてえと、あのお公卿さまが、からだのこまっけえ割合に、奇態に吹き矢を当てるんでね。そのときから、どうもちっとおかしいなとは思いましたが、まさか気がふれる前兆だろうたあ思いませんでしたから、なんの気なし連れだって、つい今そこまでけえってくるてえと、野郎め、やにわとねこの鳴き声を始めやがって、四つんばいになりながら、うちの庭じゅうを狂いまわりだしたんですよ」
「ねこにとりつかれるたあ変わっているな。まだやめずにやってるのかい」
「やめるどころか、ニャゴニャゴと黄色い声を出しやがって、いくらどやしつけても夢中になりながらはいまわっていやがるんでね。こりゃただの陽気当たりじゃあるめえと思って、あわくいながらお知らせに上がったんですよ」
 事実としたら、いかさま春先にちと様子が変でしたから、時を移さず伝六を引き具して、向こう横町なるふたりの配下のお小屋表へ駆けつけていってみると、なるほど、そこのあやめもつかぬまっくらな庭の中を、必死にあちらへこちらへとはいまわりながら、ニャゴウ、ニャゴウと、夜陰の空気をふるわせて、しきりと善光寺辰の鳴き呼ばわっている声がきかれましたので、いぶかりながらじっと聞き耳を立てていたようでしたが、不意にカラカラとうち笑うと、あいきょう者をおどろかせていいました。
「気がふれているのはおまえのほうだよ」
「ちぇッ。冗談も休みやすみおっしゃいませよ。だんなの耳あどっちを向いているんですかい! あの鳴き声が聞こえねえんですか!」
「忘れっぽいやつだな。おまえの耳こそ、どこについてるんだ。善光寺辰の目ぢょうちんは、伊豆守様がわざわざ折り紙つけてくださったしろものじゃねえか」
「な、なるほどね。そいつを忘れちまうたあ、大きにあっしのほうが気がふれているにちげえねえや。じゃ、野郎め、このくらやみで何か見つけやがったんだろうかね」
「あたりめえさ。いくら辰が寸の足りねえ小男だからって、そうそうたわいなく気がふれてなるもんかい。いまに何かつかまえてくるから、声を出さねえでいてやりな」
 いううちにも、奇声をあげて、しきりとニャゴニャゴやりながら、床下をあちらへこちらへと小さなからだを利用しつつはいまわっていたようでしたが、果然、いう声がありました。
「ちくしょうッ、ざまをみろ、もうのがさねえぞ! 兄貴、兄貴、あかりだよ、あかりだよ!」
 なにものか捕獲でもしたとみえて、けたたましく言い叫びましたので、伝六が大急ぎに龕燈(がんどう)をとってきてさしつけてみると、こはそもいかに――さすがの名人右門も、おもわずぎょッとなりました。実際なんとしたものでありましたろう! 子犬ほどもあろうと思われるまっくろな黒ねこが、女の首を、いや、首ではない、女の髪の毛を、それも島田に結ったままの髪の毛を、あんぐりと、その口にくわえながら、牙(きば)をむかんばかりのものすごい形相で、らんらんと両眼を光らしていたからです。時刻が時刻のところへ、物がまた物でしたから、右門もぞくりとあわつぶだてながら、じっとややしばし見守っていましたが、しかし、そういう間にあっても、やはり、名人は名人でした。早くも看破するところがあったとみえて、ずばりといいました。
「人形の首からはぎとった毛だな!」
「ええ、そうですよ、そうですよ。このくらやみでしたから、兄貴の目じゃわからねえのがあたりめえですが、今さっきそこまで帰ってきましたら、あそこのかきねのそばをこちらへ、六十ぐれえの変なおやじが、人形をだいじそうにかかえながら、素はだしでふらふらとやって来ましたんでね。おやッと思いながら目をみはっていましたら、やにわとこの黒ねこめが横から人形に飛びついて、このとおり髪の毛を引きむしりながら、うちの庭先へ逃げ込みやがったんで、さっそくこっちもねこになって追いかけまわしたんですよ」
「ちっと奇態な話だな。おやじはどうした」
「そいつがあっしにも似合わねえどじをしたもんですが、ついじゃまっけでしたから、出がけに家へ投げなわをこかしこんでいきましたんで、それさえありゃおやじの三人や五人手もなくつかまるやつを、みすみす逃げられちまったんですよ」
「いくらお公卿さまだからって、商売道具のなわを忘れていくたあ、ちっとのどかすぎるじゃねえか。ま、いいや、いいや、ねこをちょっくらこっちへ貸してみな」
「かみつきますぜ」
「草香流があらあ!」
 いいつつ、あごの辺へちょいとおまじないをすると、術の奥義にかかっては、いかな魔性の黒ねことてもたまりかねたものか、ぽろりと髪の毛を取りおとしましたので、ちかぢかとあかりをさしつけながら、裏へかえし、表へかえし、じっとややしばし見あらためていましたが、
「こりゃまた忙しいぜ」
 不意にずばりといったものでしたから、目をぱちくりさせながら、さっそく十八番もののあいきょうぶりを発揮しだした者は余人ならぬ伝六でした。
「いやにねこめが必死とくわえていたようでしたが、まさかにかつおぶしでこしれえた髪の毛じゃござんすまいね」
「またとんきょう口を始めやがった。このにおいがわからねえのか。鼻の穴を洗い清めて、よくかいでみろよ」
「はてね。――こりゃべっぴんのにおいがするようですが、なんていう髪油でしょうかね」
「次から次へ、よくとんきょう口がきけるやつだな、これが有名な古梅園の丁子油じゃねえか」
「へへえ、この油が丁子油でござんすか。安い品じゃねえように承っておりますが、人形の髪の毛に、なんだってまた、そんなもったいねえまねをしやがったんでしょうかね」
「だから、この髪の毛がただものじゃねえっていうんだよ。それに、もう一つ奇態なことにゃ、このたけ長の表に、女の戒名が書いてあるぜ」
「えッ。どう、どう? なるほどね、瑞心院(ずいしんいん)妙月大姉としてあるようですが、気味のわるい、なんのまじないでしょうかね」
「知りたけりゃ、ねこにきけよ。――おや! 今ここにいたようだっけが、どこへ姿を隠しちまったんだろな、辰ッ、そこらに見えねえかい」
「いますよ、いますよ。だんなの足もとに、目を光らして尾っぽをつっ立てながら、ためていますぜ」
「そうか、それをきいちゃ、なおほっておかれねえや。油のにおいをつけながら、きっと、あとを追ってくるから、きさまその目ぢょうちんで、見失わねえようにしっかり見張ってきなよ」
 案の定、右門のこわきにかかえている疑問の髪の毛を追い慕いつつ、ニャゴ、ニャゴとぶきみな鳴き声たてながら、あとをつけてきましたので、その一事にいっそう不審を深めでもしたかのごとく、おのがお組屋敷へとって返すと、その場に外出のしたくを始めましたものでしたから、口先の伝法なのに似合わないで、ことごとく弱音を吐きだしたものは伝六でした。
「髪の毛だけでもあんまりうれしい詮議(せんぎ)じゃねえのに、薄気味のわるい黒ねこのお供で、なにもこんな夜よなかお出ましにならなくたってよかりそうなもんじゃござんせんか。癇(かん)のせいで、そんないやがらせをなさるんでしたら、もういっさいそまつな口あききませんから、あしたの朝にしておくんなせえましよ」
「悲鳴をあげるな。きさまのまたぐらにゃ、人並みに度胸袋がぶらさがっていねえのか。夜が夜中だろうといつだろうと、こいつあ捨ておけねえとにらんだら、それがご番所に禄(ろく)をはむ者の役目じゃねえか、しっかり度胸袋に活でも入れて、辰といっしょにねこを見張りながらついてきなよ」
 飛びついてとられないように髪の毛を堅くこわきにすると、さっさと表のほうに出ていったとみえましたが、どこへ何をしにいこうというのか、奇態なことに道を神田めがけて選びました。

     2

 出るといっしょのように、ポツリ、ポツリと、えり首を見舞ったものは、このごろの青葉どきにはつきものである降りみ降らずみのさみだれです。さみだれの降るところ、決まってまたついてまわるものは、俗に幽霊風ととなえるあのぬんめりとした雨風で、しかも時刻は森羅(しんら)万象ものみなすべてが、死んだような夜中の九ツ下がり――。
 そのぶきみこのうえない幽霊風吹きなでる深夜の町中を、思ってみただけでも身の毛のよだつまっくろな怪猫(かいびょう)が、怪しの髪の毛の油香を追い慕って、ニャゴニャゴと陰にこもった鳴き声をふりしぼりつつ、曲がるほうへ行くほうへつき従ってまいりましたものでしたから、むろんのことに伝六は生きたここちもないもののようでしたが、右門はかまわずにさっさと道を神田へ出ると、一路行き向かったところは、河内山(こうちやま)宗俊(そうしゅん)でおなじみのあの練塀小路(ねりべいこうじ)でした。
 しかし、当時の練塀小路は河内山宗俊が啖呵(たんか)をきったほどの有名な小路ではなく、御家人(ごけにん)屋敷が道向かいには長屋門をつらねて、直参顔(じきさんがお)の横柄(おうへい)な構えをしているかと思うと、そのこちら側には願人坊主の講元があるといったような、士、工、商、雑居の吹き寄せ町で、そのごちゃごちゃと蜘蛛手(くもで)に張られた横路地を、あちらへこちらへしきりに何か捜しまわっていたようでしたが、ようやくそこの鍵辻(かぎつじ)を袋地へ行き当たったどんづまりで、『都ぶり人形師――藤阿弥(ふじあみ)』と、看板の出た一軒を発見すると、どんどん表戸をたたきながら呼びたてました。
「起きろ起きろッ、戸をあけろッ」
 徒弟らしい若者が、なにげなく繰りあけたその足もとで、いまだになおつけ慕っていた怪猫(かいびょう)が、不意にニャゴウと鳴きたてましたものでしたから、若者のぎょッとなったのはいうまでもないことでしたが、しかしさすがは生き馬の目を抜くお江戸のまんなかで育った職人でした。
「八丁堀のおだんながたでござりまするか」
 早くも右門主従をそれと知ったらしく腰を低めましたので、名人もまたおごそかにきき尋ねました。
「藤阿弥は在宿か」
「へえい。急ぎの注文がござりますので、まだ起きてでござります」
「少しく調べたいことがあるによって、取り次ぎいたせ」
「いえ、参ります。ただいまそちらへ参りまするでござります」
 きき知ったか、奥の仕事べやから、両手をどろまみれのままで、当の藤阿弥がいかにも名ある人形造りらしい風貌(ふうぼう)をたたえながら、取り次がぬ先に姿をみせましたものでしたから、こわきにしていた髪の毛をつきつけると、鋭く問いただしました。
「この髷(まげ)の都ぶりに結いあげているところから察して、たぶんそのほうが手がけた品じゃろうと、かく夜中わざわざ詮議(せんぎ)に参ったが、覚えはないか」
 受け取って、丁子油のにおいをかいでいたようでしたが、名人の慧眼(けいがん)やまさに的中――。
「お察しどおりでござります。たしかに、てまえが注文をうけまして、さる人形に植えつけた品にござります」
 第一の手がかりがついたものでしたから、いかでそのことばのさえないでいらるべき!
「油もそちがつけたか」
「いいえ、それがどうも妙なんでござりまするよ。この丁子油のしみた毛束に、そこへ使ってある戒名の書いた丈長(たけなが)を向こうからお持参なさいまして、至急に十七、八歳ごろの人形をこしらえろとのご注文でござりましたので、少し気味がわるうござりましたが、手もとにちょうどその年ごろなのがござりましたゆえ、そのままお言いつけどおりにいたしましてござります」
「いつじゃ」
「つい三日まえでござりました」
「注文先も存じおろうな」
「へえい。吉原(よしわら)の蛸平(たこへい)様とおっしゃる幇間(たいこもち)のかたでござりました」
 ――いよいよいでて、いよいよいぶかし! 注文主は名まえも奇態な吉原幇間(ほうかん)の蛸平とありましたから、時を移さず右門の行き向かったところは、九番てがらの達磨(だるま)霊験記で詳しく地勢を述べておきました見返り柳の、あの柳町なる旧吉原です。怪猫のあとをつけていったのもむろんのことでしたが、しかし、伝六というしろものは、およそ罪のないあいきょう者でした。外はもうやがて丑満(うしみつ)にも近い刻限だというのに、一歩大門を廓(なか)へはいると、さすがは東国第一の妖化(ようか)咲き競う色町だけがものはあって、艶語(えんご)、弦歌、ゆらめくあかり、脂粉の香に織り交ざりながら、さながらにまだ宵(よい)どきのごときさざめきをみせていたものでしたから、今まで息の根も止まっていたのではないかと思われるほどに静まり返っていたのが、たちまち噴水のごとくに吹きあげました。
「ちぇッ。これだから伝六様というしょうべえはやめられねえや。ねこめがピカピカ目を光らしゃがるんで、人ごこちゃなかったが、もうここへくりゃどんな音でも出らあな。おい、辰ッ。おめえはほぞの緒切ってはじめてなんだろうから、後学のため、本場の花魁(おいらん)の顔をよく拝んでおきなよ。だが、ぽかんとしているてえと、チョボにさいふをすられるぜ」
 かりにもご公儀お町方の禄(ろく)をちょうだいしている者に、さいふをすられるぞもないものですが、いわれた川越(かわごえ)育ちの豆やかなお公卿(くげ)さまが、存外にまたすみにおけないので、いとものどかに気どりながら、首筋をすくめるとささやいていいました。
「いまさら愚痴をいうんじゃねえが、こうべっぴんばかりいるところへ来てみるてえと、せめてもう五寸背がほしいね」
「泣くなよ、泣くなよ。ちっちぇえ花魁(おいらん)だってあらあな。しかし、それにつけても、だんなにばかりゃ、うっかり気を許すなよ。堅仁だかと思うと、気味がわるいほど恐ろしく通人で、通人だかと思うと変にまたこちこちなんだからな。いい気になるてえと、またぽかりしょい投げを食わされるぜ」
 たわいのない配下たちの、たわいないささやきを聞き流しながら、名人はしきりと行きかう人を物色していましたが、おりよく通りかかった金棒ひきを見つけると、しらばくれて尋ねました。
「幇間の蛸平というは、どこにいるか存ぜぬか」
「ついそこですよ。ほら、あそこに四ツ菱屋(びしや)っていう揚げ屋がござんすね。あのちょうどまうしろになっていますから、行ってごらんなせえましよ」
 蛇(じゃ)が出るか、へびが出るか、しだいに怪しのなぞがせばめられてまいりましたものでしたから、疑問の髪の毛をしっかりこわきにかかえて、いまだに狂えるもののごとく、必死にニャゴニャゴと鳴き慕っている怪猫を従えながら、ただちに教えられた蛸平の住み家に向かいました。

     3

 しかるに、行きついてみると、それなる吉原幇間(ほうかん)がすこぶる奇怪でした。ずいとものをもいわずに上がっていった右門の姿と、そのこわきにかかえられている怪しの髪の毛を認めるや、ぎょッとあとずさりして、みるみるうちにくちびるまで色を変えていましたが、やにわにそこにあったあんどんをけたおしたまま、必死に表のほうへ逃げ走っていったものでしたから、鋭い命令の下ったのは当然!
「辰ッ、投げなわで押えろッ」
 しかし、妙です。
「おやッ。辰めがどこかへ消えてなくなっちまいましたぜ!」
「なにッ、いない? ねこはいるかッ」
「そいつもいっしょに駆け落ちしちまったらしいですよ」
 蛸平に、辰に、怪猫と、一瞬に三個の姿が、忽焉(こつえん)としていずれかへ消滅してしまったものでしたから、いかな捕物名人も、これにはいたくめんくらったようでしたが、と、――そのときまさしく裏の、へい一つ越えた四ツ菱屋の二階とおぼしき方角に当たって、ニャゴウとひときわ鋭く鳴きたてた怪猫の声がありましたので、いよいよいぶかしみながら、はせつけてみると、そもいったいどうしたというのでありましたろう! 第一に目を射たものは、そこの銀燭(ぎんしょく)きらめく大広間の左右に、ずらりと居並んでいる、無慮五十人ほどにも及ぶ花魁群の一隊でした。それすらもがおよそ不審な光景と思われるのに、よりいっそういぶかしく思われたのは、それなる花魁群に囲まれながら、狂気しているのかと見ればそのようにも見え、正気かと思えばそのようにも思えるひとりの六十あまりなる老人が、髪の毛をそっくりむしりとられた京人形をひしと抱き占めて、なにかわからぬうわごとをつぶやきながら、しきりにそれなる人形をあやなしているのでした。しかも、その前に、ざくざくと積まれた千両近い黄金の山!
 だのに、豆やかな善光寺辰めがさらに奇怪で、一方の端には怪猫をからめ取り、他方の端には逃げ去ったはずの蛸平を、両々振り分けの投げなわにからめとって、いっこう恐るるけしきもなくにやにやとやっていたものでしたから、伝六のことごとく目を丸くしたのはいうまでもないことでしたが、名人もいささか意外にうたれたとみえて、まず辰に尋ねました。
「これはいったい、どうした子細じゃ」
「どうもこうもない、あの人形とぶつぶつさえずっている薄気味のわるいおやじが、さっき八丁堀で取り逃がした当の本人でござんすよ」
「えッ□ ――そうか、髪の毛と黒ねこがあの京人形に結びつくたあ、いかなおれも、にらみがつかなかったな。よしよし、ここまでもう押えりゃ、どうやらちと右門流を大出しにしなきゃならねえようだから、ひとつ江戸のごひいき筋をあッといわせてやろうよ。それにしても、ねこと蛸平をいっぺんにここで押えるたあ、少しばかりおてがらすぎるな」
「いいえ、てがらでもなんでもねえんですよ。ねこを見張ってだんなのあとからついてめえりましたらね、やにわとこいつめがニャゴニャゴいって、どうしたことかここの二階へ駆け上がってきたんで、逃がしちゃならねえと追っかけてきて押えたところへ、あの蛸平坊主めがあとから裏のへいを乗りこえやがって、逃げこみましたんで、ついでにちょいとからめとってやったんですよ」
 事がここにいたって、がぜん予想外の大場面に展開したものでしたから、では、そろそろ右門流に取りかかろうといわぬばかりで、いと涼しげに微笑すると、まず吉原幇間(ほうかん)のところへ、物静かな尋問が飛んでいきました。
「神妙に申し立てろよ。なにゆえ逃げおった」
「へえい……」
「へえいではわからぬ。わしがなんという名のものであるか、もうわかったであろうな」
「へえい。ようようただいまわかりましてござります。初めからむっつり右門のだんなさまと知りましたら、逃げるんではございませんでしたが、こんなことになったのも、あの気味のわるいお大尽に見込まれたのがそもそもの不運でござりましょうから、身の災難とあきらめまして、もうじたばたはいたしませぬ」
「では、これなる怪しの髪の毛を携えて、人形師藤阿弥(ふじあみ)のところへ注文に参ったはそちでないと申すか」
「いいえ、使いに立ったのはいかにもこの蛸平めにござりまするが、頼み手はあそこの気味のわるいお大尽でござりまするよ」
「なに、あの老人とな。うち見たところ常人でなさそうじゃが、気でも狂いおるか」
「それが、さっぱりてまえにも、正気やら狂気やら見境がつかないんでござりまするよ。忘れもいたしませぬが、三日まえの朝早くでござりました。だれでもよいから幇間(たいこもち)をひとり呼べというご注文だとか申しましてな、こちらの四(よ)ツ菱屋(びしや)さまからてまえのところにお座敷をかけてくださいましたんで、なんの気もなく伺いましたら、今、だんながお持ちの丁子油がしみた髪の毛と戒名を書いた丈長(たけなが)に五十両を渡しまして、至急にこの毛を植えた十七、八の娘人形をととのえろ、とのおことばでござりましたんで、さっそく藤阿弥のところでお言いつけどおりの品を求めてまいりましたら、それまではたしかにご正気でござりましたが、どうしたことやら、人形をご覧になると、急に気が変になりましてな、ちょうど今晩でまる三日、あんなふうに小判の山を目の前にお積みなさいましておいて、日に二百人ずつこのくるわの花魁(おいらん)衆をかたっぱしお揚げなさっては、なにかぶつぶつ人形としゃべりながら、ひとりに二両ずつご祝儀をきっているんでございますよ。――ほらほら、いううちに、また始めたんじゃござんせんか、よくご覧なさいましよ」
 いわれましたので、目を転ずると、いかさまじつに奇態でした。毛をはぎとられた丸坊主の京人形をしっかりとその胸に抱きすくめるようにしながら、ふらふらと狂えるもののごとくに立ち上がったかと思われましたが、と――不意に奇妙なことばを人形に向かって、さながら生あるもののように話しかけました。
「な、妙(たえ)よ、妙よ。わるかったな。おとうさんはもうすっかり了見を変えたから、おまえもよく見て迷わずに成仏しろよ。かわいそうにな、かわいそうにな……」
 いいつつ、涙すらも流して、そこにあった黄金の山の中から小判をわしづかみにすると、気味わるがっている花魁の前へ近づいていっては、ひとりあたり二両ずつ、それも正確に小判を二枚ずつ、祝儀としてきってまわりましたものでしたから、たちまちまた噴水のように吹きあげたのはあいきょう者でした。
「世の中にゃ、変わったキ印もあるもんじゃござんせんか。まさかに、あのおやじ、稲荷(いなり)さまのお使いじゃござんすまいね。どこかそこらに、おっぽが下がっちゃおりませんか」
 聞き流しながら、じっといぶかしい老人の行動を最後まで見守っていましたが、なに見破りけん、名人がずばりと断定を下しました。
「芯(しん)からの気違いじゃねえや。なにか悲しいことにぶつかって、逆上しているんだぜ」
「えッ□ じゃ、あの、まだどこか脈がござんすかい。見りゃ目も血走っているし、言うこともろれつが回らねえようですが、このごろはああいう花魁(おいらん)の揚げ方がはやりますのかね」
「次から次へと、よくいろんなとんきょう口のきけるやつだな。ひとり頭に小判を二枚ずつとかぎって、祝儀にしたところが、芯からの気違いじゃねえなによりの証拠だよ。ほんとうに気がふれてりゃ、三両も五両も金の差別はわからねえや。まてまて、今おれが気つけ薬を飲ましてやらあ」
 いいつつ、ずかずかとそれなるいぶかしき老大尽の身近くに歩きよったかと思われましたが、こはそもいかなる気つけ薬を飲ませようというつもりでありましたろう――やにわに、ぎらりと鞘(さや)ばしらせたものは、あの蝋色鞘(ろいろざや)の細身なる一刀でした。しかも、抜くや同時に大喝(たいかつ)!
「ふびんながら、命はもらいうけるぞ!」
 叫びざまに、老大尽の面前五分の近くへ、光芒(こうぼう)寒き銀蛇(ぎんだ)を一閃(いっせん)させたものでしたから、並みいる花魁群のいっせいにぎょッとしながら青ざめたのはいうまでもないことでしたが、しかし、その驚愕(きょうがく)はただの秒時――。
 心底からの狂人ならば、白刃が鼻先へ襲ってこようと、矢玉が雨とあられに降ってこようと、びくともするものではあるまいと思われたのに、名人の看破どおり、一時の逆上であったものか、たじたじと老大尽がうしろに身をひくや、ふッと我に返ったもののごとく、きょときょととあたりを見まわしましたので、また噴水を始めたのは伝六です。
「へへいね。命がほしかったところを見ると、やっぱりへその中は暖かかったのかね」
 いったことばに、老大尽がいぶかしそうに右門主従を見つめていましたが、辰のからめとっている黒ねこを発見すると、おどろきながら呼びかけました。
「おお、黒か、黒か! おまえもここにいたか」
 その声に答えるもののごとく、怪猫がニャゴウと鳴きたてましたものでしたから、名人の口辺に静かに微笑がのると、物柔らかな問いが発せられました。
「そなたのねこであるか」
「へえい。なくなった娘が、命よりもたいせつにかわいがっていたやつにござりまするが、どうやらお見かけすれば、その筋のかたがたのようなご様子。どなたさまにござりましょう」
「わからぬか」
「と申しますると、もしや、あの、むっつり右門の……」
「さようじゃ。右門とわからば、こわうなったか」
「いえいえ、だんなさまにござりますれば、このようなうれしいことはござりませぬ。できますことなら、ふびんなこのおやじめがただいまの身の上をお話し申し上げ、お力にもおすがり申したいと念じてござりましたゆえ、こわいどころではござりませぬ」
「なに、右門の力にすがりたいとな。では、先ほどそれなる京人形をかかえて八丁堀へ参ったのも、そのためじゃったか」
「この二、三日こちら、わが身でわが身がわからぬほど心が乱れておりましたゆえ、よくは覚えておりませぬが、もしお屋敷のあたりをさまよっていましたとすれば、だんなさまにお会いしたいと思うた一念が知らずに連れていったやも存じませぬ」
「よほど心痛していることがあるとみえるな。そう聞いては、聞くなというても聞かいではおられぬが右門の性分じゃ。いかにも力となってやろうから、ありのままいうてみい!」
「そうでござりまするか。ありがとうござります、ありがとうござります。では、かいつまんで申しまするが、てまえは日本橋の橋たもとに両替屋を営みおりまする近江屋(おうみや)勘兵衛(かんべえ)と申す者にござります。今から思いますれば、そのような金なぞをいじくる商売を始めたのが身のおちどにござりましょうが、なんと申しましょうか、拝金宗――とでも申しまするか、金を扱っているうちに、だんだんと小判に目がくらみましてな、人さまから因業勘兵衛だの、ごうつく勘兵衛だのと、いろいろ悪口をいわれるのも承知で、ようよう三万両ばかりため上げたところへ、たったひとりの娘がちょうど十八になったのでござります。自分の口からいうは変でござりまするが、その娘の妙(たえ)めが、どうしたことやら、少しばかり器量よしでござりましてな、それゆえ、いくらか人さまの目にもついたのでございましょう。おやじのこのてまえめは、人から因業だの、ごうつくばりだのと、ろくなことはいわれておりませんのに、いざ養子を捜そうとなりましたら、われもおれもと十人ばかりの相手が現われてまいりましてな、競って養子になろうと、手を替え品を替えて話を持ち込んでまいりましたゆえ、つい欲にくらみまして、そんなにだれもかれも養子になりたいならば、持参金の多い者をいただきましょうと、われながら情けないことを一同に言い渡したのでござります。すると、たちまち三百両、五百両、八百両とめいめいがせり上げてまいりましてな、あげくの果てに、同じ両替屋商売のさる次男坊が、とうとう三千両持参金にしようとこのようなことを申してまいりましたゆえ、内心喜んで、さっそくその者を養子に取り決めてしもうたのでござります。ところが、いざ婚礼をしようとなってから、どうしても娘がいやじゃというて聞きませなんだのでな。だんだんその子細を問い正してみると――」
「ほかに契り合うた恋人があったというのじゃな」
「へえい。まだおぼこじゃ、おぼこじゃと思うて、気を許していたうちに、いつのまにか、親の目をかすめまして、それも言いかわした相手がうちの手代の弥吉(やきち)じゃ、とこのようなことを申しましたのでな、腹が立つやら、情けないやらで、むやみとがみがみしかりつけたのでござります。だのに、どうしても娘は弥吉でなくてはいやじゃと申しまして、たとえ十万両持ってこようと、業平(なりひら)のような男であろうと、わたしが二世と契ったは弥吉以外ないゆえ、添わしてくださらなくばいっそ死にまするなぞと、思いつめたらしいことを申しましたので、ついてまえもカッとなりまして、それほど弥吉のようなやつが好きなら、三千両持たして連れてこいといってやったのでござります。すると、だんなさま、どうでござりましょう。そのあくる朝、弥吉めが、どこで才覚いたしましたか、正銘まちがいない小判で三千両持ってまいりましたのでな、手代ふぜいが、はていぶかしいと思いましたゆえ、もしやと存じましてうちの土蔵を調べましたら、案の定、千両箱が三つなくなっていましたのでな、てっきりもう弥吉めが盗んだのじゃろうと存じまして、ずいぶん手きびしゅう責めたてたのでござりまするが、弥吉が申しますには、朝起きてみると、だれが置いていったのか、まくらもとに千両箱が積んでありましたゆえ、婚礼はもう迫っているし、娘を人にとられるはくやしいし、つい気味のわるいも承知しながら、天の授かりものじゃと思うて、いちじ拝借しただけでござります、とこのように申しまするのでな、では、娘の妙めが弥吉かわいさで、そんなまねをしたのじゃろうかと、このほうもずいぶん入念に調べてみましたのでござりまするが、不思議とそれらしい様子が見えませなんだゆえ、いっそもうめんどうと存じまして、しゃにむに弥吉めに盗賊の名を着せて、家を追い出してしもうたのでござります。さすれば、自然日がたつうちに、去る者日々にうとしで、娘の思慕も薄らぐじゃろうと思うたからでござりまするが、どうしてどうして、今度は妙めがあとを追いましてな、ふいっとどこかへ家出をしたのでござりまするよ」
「なるほどのう。そのあげくに、とうとうこの丈長(たけなが)に見えるような戒名となってしもうたというのじゃな」
「へえい。ひと口にいえばそうなんでござりまするが、ちとそれが妙なんでござりましてな。家出をしたとて、まさかに死にもいたすまいと、捜しにも行かずにほっておきましたら、その晩ひょっくりと船頭衆のようなおかたが、どこからかお使いにみえましてな、この紙包みをお嬢さんから頼まれましたと申しますので、なにげなくあけてみましたら、だんながお持ちのその髪の毛なんでござりますよ。においをかいでみましたら、娘が好んで日ごろ使っておりました丁子油の髪油がかおりましたゆえ、こりゃ、どっちにしてもただごとではあるまいというので、急に騒ぎだしましてな、所々ほうぼうと人を派して、だんだんと捜すうちに、あろうことかあるまいことか、深川の先で死体となって揚がったのでござります。入水(じゅすい)するときけがでもしたか、顔は一面の傷だらけで、娘かどうか、ちょっと見ただけでは見分けもつかないくらいでしたが、着物のがらも娘のものだし、年ごろも十七、八でござりましたし、それになによりの証拠は、形見によこした髪の毛が根元から切られて、ざん切り坊主となったおなごでござりましたのでな、泣くなく野べの送りをしたのでござります」
「いかにものう。だが、それにしても、京人形をあつらえて、小判をまきに吉原へ来たとは、ちといぶかしいな」
「いいえ、それが今のてまえの心持ちになってみれば、ちっとも不思議ではないのでござりまするよ。だんなさまをはじめ、花魁(おいらん)がたにも特にここのところをしっかりと聞いていただきたいのでござりまするが、たったひとりの娘に死なれて、千両万両の金がなにたいせつでござりましょう! こうなるまでは、この世に小判ほど尊いものはあるまいと存じたればこそ、人にも憎まれるほどな拝金宗となりまして、あげくの果てには娘の器量までも黄金に売り替えんばかりのあさましい了見になったのでござりまするが、つまらぬてまえの心得違いから、だいじなだいじなひと粒種の娘に仏となってしまわれてみて、翻然とおろかな悪夢から目がさめたのでござります。ほんとうに、ほんとうに、はじめて目がさめたのでござります。人の尊い、いいえ、かわいいかわいい娘の命が、万両積んだとて、億両積んだとて、卑しい金なぞで買い替えられるものですか! 娘がなくば、小判なぞいくらあったとて、なんの足しになるものか、なまじ手もとにあれば、てまえのあさましさ、娘のふびんさが思い出されてならぬと存じましたゆえ、一つは仏へのせめてもの供養に、二つには不浄の金ができるだけ役にたつよう、使い果たしてやろうと存じましたので、ふと思いつきまして、その日に、さっそくこの吉原へまず五千両を携えてまいったのでござります。と申しただけではまだご不審かも存じませぬが、おなごはやはりおなごどうし、娘へのたむけには、この廓(くるわ)でままならぬかごの鳥となっておられまするおかわいそうな花魁(おいらん)衆へ、わずかながらでもおこづかい金をもろうていただいたならば、これにました金の使い道はあるまいと存じたからでござります。さればこそ、形見の髪で人形をあつらえ、せめてもそれを娘と思うて、小判の供養をしたつもりでござりまするが、それさえあまり悲しゅうて、つい心が乱れていたあいだにしたことでござりますゆえ、どのようなお恥ずかしいとこをお目にかけましたやら、こうして気が晴れてみますると、ただただもう赤面のほかはござりませぬ」
「なるほど、そうか、よくあいわかった。話の初めを聞いているうちは、人の皮かむったけだものじゃなと思うていたが、今のそのざんげ話を聞いて、いささか胸がすっといたした。では、なんじゃな、あれなる黒ねこが、髪の毛をはぎとったのも、そちはどこでとられたか覚えもあるまいが、生前娘がかわいがっていたゆえ、丁子油のにおいから、畜生ながらもだいじにしてくれた人の面影を慕うて、人形とも知らずにとびついたのじゃな」
「おそらくそうでござりましょう。子どものようにかわいがっておりましたゆえ、それが忘れかねて、知らぬうちにつけ慕っていたものと思われまするでござります」
「よし、もうそれで、すっかりなぞは解けた。では、なんじゃな、そちがわしに力を借りたいというは、弥吉のまくらもとにあったとかいう三千両の盗み出し手をよく調べたうえで、万が一ぬれぎぬだったならば、罪人の汚名を着せて追いだした弥吉にそれ相当のわびをしたいというのじゃな」
「へえい。ぬれぎぬでござりますればもちろんのこと、よしんばあれがついした盗みにござりましょうとも、それほどまでにして娘がほしかったのかと思いますると、憎いどころか、弥吉の心がふびんに思われますゆえ、おついでにあれの居どころもお捜し当て願えますれば、つまらぬ了見違いで、若い者の思い思われた仲を割ろうとしたこのわからず屋のおやじの罪をいっしょにわびたいのでござります」
「気に入った、大いに気に入った、そういう聞いてもうれしい話で、このおれの力が借りたいというなら、むっつり右門の名にかけて、きっと望みをかなえさせてやらあ。じゃ、もうこの丁子油の髪の毛も用がねえ品だから、ついでにねこへも供養させてやるぜ。ほら、黒とかいったな、おまえにこいつあいただかしてやるから、生々世々(しょうじょうよよ)までおまえの命があるかぎり、お嬢さんだと思って守っていなよ」
 投げ与えてやると、愛するものにめぐり会いでもしたかのごとく、黒ねこがニャゴウゴロゴロ、ゴロゴロニャゴと、のどを鳴らしつつ髪の毛をくわえながら、いずれかへいっさんに走り去りましたので、われらの名人の秀麗な面に、はじめて莞爾(かんじ)と大きな笑(え)みが浮かぶといっしょに、ずばりと命令が下りました。
「さ! 伝六ッ、駕籠(かご)だ、駕籠だ!」
「ちぇッ、ありがてえッ。いまに出るか、いまに出るかと、さっきからなげえこと、しびれをきらしていたんですよ。だんなの分が一丁ですね」
「二丁だよ」
「えッ! じゃ、あっしが兄貴分の役得で、乗られるんですね」
「のぼせんな! こちらのお人形お大尽がお召しになるんじゃねえか」
「ほい、また一本やられたか。なんでもいいや、だんなのお口から駕籠が出りゃ、おいら、胸がすっとするからね。じゃ、辰ッ、おまえもひざくりげにたんと湿りをくれておけよ」
 こうなると伝六なかなかにうれしいやつで、骨身も惜しまずたちまち揚げ屋の表へ、くるわ駕籠を二丁見つけてまいりましたものでしたから、いよいよ捕物名人の第十五番[#「第十五番」は底本では「第五番」]てがらが、丁子油ならぬ溜飲(りゅういん)下げのにおいをそろそろと放ちだしました。

     4

 かくして乗りつけたところは、いうまでもなく日本橋詰めの近江屋(おうみや)勘兵衛(かんべえ)方です。何はともかく、千両箱のしまわれてあった金蔵を一見しなくばと、名人はすぐさま人形大尽を案内に立てて、屋の棟(むね)つづきの土蔵へやって参りました。商売がらが商売がらでしたから、そのがんじょうさ、いかめしさというものは説明の必要がないくらいなもので、戸前には特別大の大阪錠(おおさかじょう)をピシリとおろし、見るからに両替屋の金蔵らしい構えでした。
 人形大尽勘兵衛は、名人の出馬を得たのにもうほくほくでしたから、ただちにかぎを錠にはめて、鉄扉(てっぴ)と見える大戸前をあけにかかりました。
 と――、それを見て、名人が鋭く制しながらいいました。
「まて、まてッ。あけるのはあとでよいによって、まず先に盗み出されたおりのもようがどんなじゃったか、覚えているだけのことを話してみい」
「べつにいぶかしいと思うたことはござりませなんだよ。まえの晩にちゃんと錠をおろしておいたとおり、朝参りましたときも錠がおりてござりましたゆえ、あけて中を改めましたら、三千両だけ減っていただけでござります」
「あわて者よな。錠がそのままになっていて、なかの金が減っていたとせば、大いに不思議じゃないか。いったい、この錠のかぎは一つきりか、それとも紛失したときの備え品がほかにもあるか」
「いいえ、天にも地にもただ一つきりでござります」
「その一つは、だれが預かりおった。弥吉にでもかぎ番をさせておいたか」
「どうつかまつりまして、それまでは先ほども申しましたとおり、命をとられても小判は離すまいと思うほどだいじな品でござりましたゆえ、かぎは毎晩てまえがしっかり抱いて寝ていたのでござります」
「では、夜中にその抱いて寝ていたかぎを盗み出された形跡もないというのじゃな」
「ござりませぬ、ござりませぬ。そうでのうても目ざとい年寄りでござりますもの、抱いているのを盗み出されたり、またそっと寝床の中へ入れられるまで知らずにいるはずはござりませぬ」
「とすると、なかなかこれはおもしろうなったようじゃな。では、もう一度念を押してきくが、朝来たとき、たしかに錠はおりたままになっていたというのじゃな」
「へえい、ちゃんとこの目で調べ、この手で調べたうえに、てまえがこのかぎであけたのでござりますゆえ、おりていたに相違ござりませぬ」
「そうか、よしよし。ではもう一つ尋ねるが、その前の蔵の金を調べたのはいつじゃった」
「いつにもなんにも、毎晩調べるのでござりまするよ。商売がらも商売がらからでござりまするが、毎晩一度ずつ千両箱の顔をなでまわさないと、夜もろくろく寝られませなんだので、娘をしかった晩もよく調べましたうえ、ちゃんと錠をおろしましてやすんだのに、朝起きてみますると、先ほど申しあげましたように、弥吉めが持ってまいりましただけのちょうど三千両が蔵の中で減っておりましたゆえ、てっきりもうあいつのしわざと思うたのでござります」
「では、もう一つ尋ねようか。その晩調べにまいったおりは、そのほうひとりじゃったか」
「へえい、ひとりでございました」
「たしかにまちがいないか」
「…………」
「黙って考えているところをみると、なにか思い出しかけている様子じゃが、どうじゃ、たしかにひとりで調べに参ったか」
「いえ、思い出しました。いま思い出しました。やっぱりひとりではござりませぬ。小僧の次郎松といっしょでござりました」
「なにッ、丁稚(でっち)の次郎松がいっしょだったとな! 当年何歳ぐらいじゃ」
「十四でござりまするが、目から鼻へぬけるようなりこうなやつで、何も疑わしいようなことをする悪いやつではござりませぬよ」
「だれも疑うているといやあせぬわ。ただきいているまでじゃ。では、なんじゃな。その後この蔵には手をつけないのじゃな」
「へえい。こんなふうにだんなさまのお出ましを願うようにならばと存じまして、そのままにしておいたのでござります」
「しからば、吉原へ持参の五千両はどこから出しおった」
「向こうにもう一つ、ないしょ倉がござりますゆえ、そちらから持ち出したのでござります」
 まことにそれが事実ならば、およそいぶかしい三千両といわねばなりませんでしたから、始終を聞いていて、とても不思議でたまらぬように、例のごとく口をさしはさんだのはあいきょう者の伝六です。
「どうもこりゃ天狗(てんぐ)のしわざかもしれませんぜ。錠にもかぎにも異状がねえっていうのに、中の三千両が羽がはえて、弥吉の野郎のまくらもとに飛んでいっているなんて、どうしてもこりゃ天狗のいたずらですよ。久しく江戸に出たといううわさを聞かなかったが、陽気にうかれて二、三匹鞍馬山(くらまやま)からでも迷い出たんでしょうかね」
「うるせえ! 黙ってろ。では、もういいから、戸をあけてみな」
 カチリ、ガチャリとやって、ガラガラと締め戸を押しあけながら、一同が人形大尽のあとに従って蔵の中へはいろうとしたそのとたん――
 名人がごくなんでもないような顔つきをして、ごくなんでもないようにこごみつつ、ちらりそこの錠前トボソがおりる敷居の上のみぞ穴をのぞいていたようでしたが、と――、不意にからからと大きくうち笑うと、きくだにすっと胸のすくようなせりふをずばりと言い放ちました。
「なんでえ、いやに気を持たしゃがって、つまらねえ。これだから、おれあどうも欲の深い金満家とは一つ世の中に住みたくねえよ。欲が深いくせに、むやみとこのとおり、やることがそそっかしいんだからな。ね、おい、京人形のお大尽、もう蔵の中なぞ調べなくたって、天狗の正体がわかったぜ」
「えッ! じゃ、あの、三千両を持ち出したものは、やっぱり弥吉でござりましたか、それとも娘でござりましたか」
「だれだか知らねえが、おまえさんはたしかにこの戸の錠がおりていたといったな」
「へえい、二度も三度も、しちくどいほど申しあげたはずでござります」
「では、もういっぺんその戸を締めてみな」
「締めますよ。締めろとおっしゃいますなら、何度でも締めますが、これでようござりまするか」
「たしかに締めたな」
「へえい、このとおりピシリと締めましてござります」
「では、もういっぺん、そのままかぎを使わないであけてみろ」
「冗談じゃござんせぬ。ピシリと締まった戸前が、かぎを使わないであけられるはずはござんせんよ。大阪錠というやつは、締まるといっしょにトボソが自然と中からおりるのが自慢なんでござりますからな。かぎなしでこの錠があけられてなりますものかい」
 不平そうにつぶやきつぶやき、今しめた戸を疑わしげにひっぱったとみえましたが、こはそもなんたる不思議! かぎなしであけられるはずがないといったその戸が、実に奇態に、かぎなしで手もなくガラガラとあいたものでしたから、おどろいたのは京人形のお大尽です。
「こりゃなるほど天狗でござります。いったい、どうしたのでござりましょうな」
「ちっとおれの目玉は値段が高いつもりだが、少しはおどろいたか」
「へえい、もう大驚きでござります。どうしたというのでござりましょうな」
「どうもこうもないよ。値段の安そうなその目をしっかりあけて、敷居のトボソがはまるそこのみぞ穴をよくみろな」
「何か穴に不思議がござりますか! おやッ、はてな。こりゃだんなさま、穴に何かいっぱい詰まっているようでござりまするが、何品でござりましょうな」
「塩豆だよ。塩でまぶしたあの煎(い)り豆さ」
「なるほどね。そういわれてみると、いかさまそれに相違ござんせんが、それにしても、だれがこんなまねをしたのでござりましょうな」
「丁稚の次郎松だよ」
「えッ! でも、せっかくのおことばでござりまするが、ちっとりこうすぎるところはあっても、あいつにかぎって、こんなまねするはずはござんせんよ」
「控えろ。むっつり右門といわれるおれがにらんでから、こうこうと見込みをつけたんだ。不服ならば聞いてやるが、あいつは買い食いする癖があるだろ。どうじゃ。眼が違うか」
「恐れ入りました。そういわれると、そのとおりにござります。ほかに悪いところはござりませぬが、たった一つその癖があいつの傷でござります」
「それみろ。思うにあの晩、そなたとふたりでこの倉へ調べに来たときも、きっとボリボリやっていたに相違ないが、気がつかなかったか」
「さよう……いえ、おことばどおりでござります。そう言われてみますと、いま思い出してござりまするが、たしかに何かもごもごと口を動かしておりましたゆえ、また買い食いをしたのかといってしかった覚えがござります。しかし、それにしても、あの次郎松がまたなんとしようとて、こんなだいそれたまねをしたのでござりましょうな。三千両を持ち出したのもあれでござりまするか」
「あたりめえさ、今どろを吐かせてやるから、はよう連れてこい」
 ずばりと断定を下しましたので、めんくらいながら勘兵衛が走っていったのはいうまでもないことでしたが、あいきょう者がまたじつにおどろいたとみえて、目をぱちくりさせながらお公卿(くげ)さまにいいました。
「な、辰、おっかねえだんなの眼力じゃねえかい。おら、一年もこっちくっついているが、だんなながらちっと今夜は気味がわるくなったよ。な、おい、どうだろうな、このあんべいじゃ、おれとおめえが、ゆうべだんなにないしょで吹き矢の帰り道に、ふぐじるを食べたことも、ひょっとするともう眼がついているかもしれねえから、いっそ思いきって白状しちまうか。おら、隠しておくのがおっかなくなったよ」
「ああ、いえよ、いえよ。割勘にしたことも隠さずにいっておきなよ」
「じゃ、いうからな。――ね、だんな! ちょいと、だんな!」
「バカ」
「えッ」
「子どもみてえなこというな」
「だっても、隠しておくとおっかねえからね」
「かわいいやつらすぎて、あいそがつきらあ。みろ! 次郎松が来たじゃねえか」
 眠そうな目をしてそこに次郎松少年が勘兵衛に連れられながらやって参りましたものでしたから、名人がいかなる責め方をするかと思われましたが、じつにこういうところが右門流でした。
「そらそら、次郎松! おまえの口ばたに塩豆の皮がくっついているぜ!」
 不意にいわれて、ぎくりとなったようにあわてながら口のはたへ手をやったところへ、名人の間をおかないやさしいことばが飛んでいきました。
「な、次郎松、むっつり右門のおじさんは、そのとおり何もかも知っているんだからな、隠さずにみんな話しなよ。このおじさんは強情っ張りがいちばんきらいだからな。すなおにいえば、どんなにでも慈悲をかけてやるゆえ、みんないってしまいな。ここへ奉公に来るときも、おまえの父(ちゃん)とおっかあが、金を扱うところへ奉公に行くから、小判の毒に当てられるなよ、といったはずだが、どうだ、おじさんのいうことはまちがっているか」
 いわれて、強く胸を打たれでもしたかのごとく、じわり、と目がしらをうるませていましたが、しゃくりあげ、しゃくりあげいいました。
「申します、申します。まことにおわるうござりました。いかにも、わたしがあの三千両をこの蔵から盗み出して、弥吉どんのまくらもとへ置きました。かんにんしてくださりませ。かんにんしてくださりませ」
「よし、泣かいでもいい、泣かいでもいい。そうとわかりゃ、けっしてこのおじさんはとがめだてをせぬが、でも、どういうわけで、おまえがそんなたてひきしたんだ。おじさんが思うには、きっとおまえは弥吉からつね日ごろかわいがられていたんで、そのお礼心に、一つまちがやどろぼうの罪も着ねばならぬほどのことをしたと思うが、どうじゃ、ちがうか」
「そのとおりでござります。隣のへやで、だんなさまがお妙(たえ)さまをおしかりなさっていたのを聞いていましたら、美しいお嬢さまもおかわいそうでござりましたが、やさしい弥吉どんも、金がないばっかりにつらい思いをせねばならぬかと、ふびんでふびんでなりませなんだゆえ、あの晩土蔵へのお供を仰せつかったをさいわい、こっそり塩豆を穴にうめて、錠のかからぬようにしておきましてから、夜そっと弥吉どんのまくらもとへお金を運んでおいたのでござります」
「千両箱といや、十三や四のおまえひとりでは運ばれぬ目方があるはずじゃが、だれかに力を借りたか」
「子どもだとて、そのくらいな知恵がつかぬでどういたしますか! 封印を破って、少しずつ少しずつ、気長にひとりで運んだのでござります」
「ほほう、そうか。ねずみのまねをしたと申すか。目から鼻へ抜けるというたが、いかさまその賢さならば、右門のおじさんの弟子(でし)になっても、ずんとまにあいそうじゃな。では、それほどおまえがふびんに思うて、日ごろの、お礼心を返す気になった弥吉どんじゃがの、今どこにいるか、その居どころを知っているじゃろうな」
「…………」
「なに? 黙っているところをみると、そればっかりはいえぬというのか。おまえの親切がかえってあだとなって、そのためにこのうちを追われた弥吉どんじゃもの、おまえとてもそのまま黙っているはずはあるまいし、また弥吉どんじゃとて、よし、あだになった親切じゃろうと、うけた親切は親切じゃもの、何かその後おまえと行き来があったと思うが、どうじゃ、おとなしくいってしまえぬか」
「…………」
「ほほう、そればっかりは強情張っているところをみると、なにかまだ大きな隠しごとがあるかもしれぬな」
 いいつつ、あの鋭い烱眼(けいがん)で、じろじろ小さな義少年の次郎松を見ながめていましたが、そのとき――ふと名人の目に強く映ったものは、いぶかしや次郎松少年の腰のところに、いとたいせつなもののごとくつりさげられている一個の腰ぎんちゃくでした。それも普通の品ではなくて、ひと目にそれと見られる金襴地(きんらんじ)の小袋でしたから、発見するや、鋭い声がとんでいきました。
「そりゃなんだッ。おまえがたには分にすぎた腰ぎんちゃくじゃが、どれ見せろッ」
 見とがめられて、ぎょッとしたように必死と両手で押えつけましたものでしたから、いかでわれらの捕物名人が許すべき!――。
「ちっと痛いが、こらえろよ」
 いいつつ、草香流でもぎとってよくよく見ると、こはなんたる奇怪ぞ! プンと鼻を打ったは、線香――、お寺さんで用いる上等の線香のにおいです。
「ほほう、これはどうやらすばらしくおめでたいことになってきたぞ」
 およそここちよげな微笑をもらしもらし、守りぎんちゃくの中を改めていましたが、と――はしなくも現われてきた一通は、次のごとくに書かれた紙片でした。
「そなたのうれしきあの夜の心尽くし、生々世々忘れまじく候(そうろう)。されど、今は親しくお目にもかかれぬ身、お礼のかわりにこの守り袋お届け候まま、わが身と思うて、たいせつにご所持なさるべく、はよう年季勤めあげて、ご立身なさるよう、陰ながら祈りあげ候。次郎松どの――」
 読みおろすと同時でした。じつに意外ともなんとも言いようのないことを、ずばりと名人がいいました。
「人形大尽! 十七、八の島田がつらを一つ用意しておきなせえよ」
「えッ□ まだなにかそんなものを用意して、娘の供養をせねばならぬのでござりまするか」
「さようじゃ。ちっとこんどの供養は大金がかかるが、だいじないか」
「金ゆえに失った娘でござりますもの、それで供養ができますならば、いかほどかかりましょうとも惜しくはござりませぬ」
「でも、この近江屋の身上がみんなじゃぞ」
「みんなじゃろうと、どれだけじゃろうと、喜んでさし上げまするでござります」
「すこぶるよろしい! では、あすの朝にでも河岸(かし)へ行って、江戸一番の大鯛(おおたい)をととのえてな、それから灘(なだ)の生一本を二、三十樽(たる)ほどあつらえておきなよ。そうそう、特にこのことは忘れてはならぬが、これなる次郎松少年は、じゅうぶん目もかけ、いたわってもつかわせよ。こういう賢い奉公人というものは、そういくたりもあるものではないからな」
「なんじゃやらいっこうに解せませぬが、しろとおっしゃれば、どのようにでもいたしまするでござります」
「ますますよろしい! では、伝六ッ!」
「えッ?」
「夜通しではちっと眠いが、今から青葉見物にでも出かけようじゃねえか」
「…………□」
「黙って首なんぞひねらなくたっていいんだよ。ほら、小判で五両やるから、これで酒手もなにもかも含めてな、大急ぎに遠出駕籠(かご)を三丁雇うてこいよ」
「ゲエッ――と、ようようこれで声が出やがった。まあそう矢つぎばやとものをおっしゃらずに、しばらく待っておくんなせえよ。――な、辰ッ。おりゃ、こんどばかりは、だんだんだんながおっかなくなってきたからな、お供は断わりてえが、おめえ行く気かい」
「…………」
「なにをもがもがと、死にかけたふなみてえな口つきしてやがるんだ。おめえもあんまりおどろいたんで、声が出ねえのか!」
「で、で、出るよ、出るよ、このとおりりっぱに出るが、だんながああおっしゃるんだから、青葉見物とやらに行ったらいいじゃねえかよ」
「ちぇッ、こいつ、おまえの目は夜が夜中でも青葉が見えるかしらねえが、おらの目はこう見えたって人間並みにまっとうなんだぜ。つまらんところで、できそこないの目を自慢するない!」
「おいこら、伝六ッ」
「えッ!」
「なにをいつまでむだ口たたいているんだ。駕籠はどうした!」
「あきれるな、またなんか化かす気でいるんだからな。ほかのところじゃ慈悲ぶけえだんなだが、いつもこの手ばかりゃ、ほんとに伝六泣かせですよ」
 いいつつも、屈強なのをそろえてそこに来たのをみると、ゆうぜんとうち乗りながら、名人がこともなげにいいました。
「おまえたちもあとのに乗ってきな。――おい、駕籠屋、行く先は青梅(おうめ)の宿だぞ!」

     5

 それっきり、名人は本来のむっつり右門にかえりながら、伝六がいかほどおしゃべり屋の面目を発揮して、うるさくうしろの駕籠から呼びかけましても、まったくもう唖(おし)のごときものでした。
 夜の大江戸を徐々にあとへ残して、青梅街道口(おうめかいどうぐち)へさしかかったのが、春の東雲(しののめ)――、西へ西へと一路街道を急がせて、堀(ほり)の内(うち)にかかったのが、目にまぶしやかな青葉の朝の五ツ下がり。ここで徹夜の疲れたからだに名物のきゃらぶき茶づけをゆっくりとって活を入れてから、駕籠の揺れるにまかせてうつらうつらと春眠の快をほしいままにむさぼりながら、菜の花、げんげ、咲き乱れるのどかな春の日中の道を武蔵境(むさしざかい)にたどりついたときがちょうど午(ひる)の八ツ下がり――あれから街道をいよいよ青梅の宿に向かって、ようように目的の地へ行きついたのは、かれこれもう落日に間のないころでした。
 しかるに、行きつくとただちに右門の目ざし向かったところは、関東尼僧寺の総本山なる青梅院(おうめいん)です。
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