老中の眼鏡
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著者名:佐々木味津三 

         一

 ゆらりとひと揺(ゆ)れ大きく灯(ほ)ざしが揺れたかと見るまに、突然パッと灯(あか)りが消えた。奇怪な消え方である。
「……?」
 対馬守(つしまのかみ)は、咄嗟(とっさ)にキッとなって居住いを直すと、書院のうちの隅(すみ)から隅へ眼を放ち乍(なが)ら、静かに闇(やみ)の中の気配を窺(うかが)った。
 ――オランダ公使から贈られた短銃(たんづつ)も、愛用の助広(すけひろ)もすぐと手の届く座右(ざう)にあったが、取ろうとしなかった。刺客(しかく)だったら、とうに覚悟がついているのである。
 だが音はない。
 呼吸のはずみも殺気の取(うご)きも、窺い寄っているらしい人の気配も何一つきこえなかった。
 しかし油断はしなかった。――少くも覚悟しておかねばならない敵は三つあるのだ。自分が井伊大老の開港政策を是認し踏襲(とうしゅう)しようとしているために、国賊と罵(ののし)り、神州を穢(けが)す売国奴と憤(いきどお)って、折あらばとひそかに狙っている攘夷(じょうい)派の志士達は勿論(もちろん)その第一の敵である。開港政策を是認し踏襲しようとしており乍ら倒れかかった江戸大公儀を今一度支え直さんために、不可能と知りつつ攘夷の実行を約して、和宮(かずのみや)の御降嫁(ごこうか)を願い奉った自分の公武合体の苦肉の策を憤激している尊王派の面々も、無論忘れてならぬ第二の敵だった。第三は頻々として起る外人襲撃を憤って、先日自分が声明したあの言質に対する敵だった。
「公使館を焼き払い、外人を害(あや)めて、国難を招くがごとき浪藉(ろうぜき)を働くとは何ごとかっ。幕政に不満があらばこの安藤を斬れっ。この対馬を屠(ほふ)れっ。それにてもなお憤りが納まらずば将軍家を弑(しい)し奉ればよいのじゃ。さるを故なき感情に激して、国家を危(あや)うきに導くごとき妄動(もうどう)するとは何事かっ。閣老安藤対馬守、かように申したと天下に声明せい」
 そう言って言明した以上は、激徒が必ずや機を狙っているに違いないのだ。――刺客としたら言うまでもなくそのいずれかが忍び入ったに相違ないのである。
 対馬守は端然として正座したまま、潔よい最期(さいご)を待つかのように、じいっと今一度闇になった書院の中の気配を窺った。
 だがやはり音はない。
「誰(た)そあるか」
 失望したような、ほっとなったような気持で対馬守は、短銃と一緒にオランダ公使が贈ったギヤマン玉の眼鏡をかけ直すと、静かに呼んで言った。
「道弥(みちや)はおらぬか。灯りが消えたぞ」
「はっ。只今持参致しまするところで厶(ござ)ります」
 応じて時を移さずに新らしい短檠(たんけい)を捧げ持ち乍ら、いんぎんにそこへ姿を見せたのは、お気に入りの近侍(きんじ)道弥ならで、茶坊主の大無(たいむ)である。
「あれは、道弥はおらぬと見えるな。もう何刻頃であろう喃(のう)?」
「只今四ツを打ちまして厶ります」
「もうそのような夜更(よふ)けか。不思議な消え方を致しおった。よく調べてみい」
「……?」
「首をひねっておるが、何としてじゃ」
「ちといぶかしゅう厶ります。油も糸芯も充分厶りますのに――」
「喃!……充分あるのに消えると申すは不思議よ喃。もし滅火の術を用いたと致さば――」
「忍びの術に達した者めの仕業(しわざ)で厶ります」
「そうかも知れぬ。伊賀流のうちにあった筈(はず)じゃ。そう致すと少し――」
「気味のわるいことで厶ります。御油断はなりませぬぞ」
「…………」
「およろしくば?」
「何じゃ」
「さそくに宿居(とのい)の方々へ御注進致しまして、取急ぎ御警固の数(すう)を増やすよう申し伝えまするで厶りますゆえ、殿、御意(ぎょい)は?」
「…………」
「いかがで厶ります。およろしくば?」
「騒ぐまい。行けい」
「でも――」
「国政多難の昨今、廟堂(びょうどう)に立つものにその位の敵あるは当り前じゃ。行けい」
 秋霜烈日(しゅうそうれつじつ)とした声だった。
 斥(しりぞ)けて対馬守は眼鏡をかけ直すと、静かに再び書見に向った。――読みかけていた一書は蕃書取調所(ばんしょとりしらべじょ)に命じて訳述させた海外事情通覧である。
 しかしその半頁までも読まない時だった。じいじいと怪しく灯ざしが鳴いたかと見るまに、またパッと灯りが消えた。同時に対馬守は再びきっとなって居住いを直すと、騒がずに気配を窺った。
 だがやはり音はない。息遣いも剣気も、刺客の迫って来たらしい気配は何一つきこえないのである。
「大無! 大無! また消えおったぞ」
「はっ。只今! 只今! 只今新らしいお灯り持ちまするで厶ります。――重ね重ね奇態で厶りまするな」
「ちと腑(ふ)におちぬ。油壷予に見せい」
 覗(のぞ)いた対馬守の面(おもて)は、まもなく明るい笑顔に変った。消えた理由も、燃えない仔細も忽(たちま)ちすべての謎が解けたからである。
「粗忽者(そこつもの)共よ喃。みい。油ではないまるで水じゃ。納戸(なんど)の者共が粗相(そそう)致して水を差したであろう。取り替えさせい」
「いかさま、油と水とを間違えでもしたげに厶ります。不調法、恐れ入りました。すぐさま取替えまするで厶ります」
「しかし乍ら――」
「はっ」
「叱るでないぞ。いずれも近頃は気が張り切っている様子じゃ。僅かな粗相をも深く耻(は)じて割腹する者が出ぬとも限らぬからな。よいか。決して強く咎(とが)めるでないぞ」
「はっ。心得まして厶ります。御諚(ごじょう)伝えましたらいずれも感泣(かんきゅう)致しますることで厶りましょう。取替えまする間、おろうそくを持ちまするで厶ります」
「うむ……」
 大きくうむと言い乍ら対馬守は、突然何か胸のうちがすうと開けたように感じて、知らぬまにじわりと雫(しずく)が目がしらに湧き上った。
 安心! ――いや安心ではない。不断に武装をつづけて、多端な政務に張り切っていた心が、ふと家臣を労(いたわ)ってやったことから、計らずも人の心に立ちかえって思わぬまに湧き上った涙だったに違いないのである。
 銀台に輝かしく輝いているおろうそくが、そのまに文机(ふづくえ)の左右に並べられた。
 静かに端座して再び書見に向おうとしたとき、――不意だった。事なし、と思われたお廊下先に、突然慌(あわ)ただしい足音が伝わると、油を取替えにいった茶坊主大無がうろたえ乍らそこに膝(ひざ)を折って言った。
「御油断なりませぬぞ! 殿! ゆめ御油断はなりませぬぞ!」
「来おったか」
「はっ。怪しの影をお庭先で認めました由(よし)にて宿居(とのい)の方々只今追うて参りまして厶ります!」
 さっと立ち上ると、だがお広縁先まで出ていったその足取りは実に静かだった。
 同時に庭先の向うで、バタバタと駈け違う足音が伝わった。と思われた刹那(せつな)――。
「お見のがし下されませ! お許しなされませ! 後生(ごしょう)で厶ります。お見のがし下されませ!」
 必死に叫んだ声は女! ――まさしく女の声である。
 対馬守の身体は、思わず御縁端(ごえんばた)から暗い庭先へ泳ぎ出した。
 同時のようにそこへ引っ立てられて来た姿は、女ばかりだと思われたのに、若侍(わかざむらい)らしい者も一緒の二人だった。
「御、御座ります。ここに御灯りが厶ります」
「……□」
 差し出した紙燭(ししょく)の光りでちらりとその二人を見眺めた対馬守の声は、おどろきと意外に躍(おど)って飛んだ。
「よっ。そち達は、その方共は、道弥とお登代じゃな!」
 見られまいとして懸命に面を伏せていた二人は、まさしく侍女のお登代と、そうして誰よりも信任の厚かった近侍(きんじ)の道弥だったのである。
 不義!
 いや恋! ――この頃中(ごろじゅう)から、ちらりほらりと入れるともなく耳に入れている二人のその恋の噂を思い出して、若く美しい者同士の当然な成行に、対馬守の口辺(こうへん)には思わずもふいっと心よい微笑がほころびた。
 だがそれは刹那の微笑だった。情に負けずに、不断に張り切っていなければならぬ為政者(いせいしゃ)としての冷厳な心を取り返して、荒々しく叱りつけた。
「不埒者(ふらちもの)たちめがっ。引っ立てい!」
「いえあの、そのような弄(なぐさ)み心からでは厶りませぬ! 二人とも、……二人ともに……」
 必死に道弥が言いわけしようとしたのを、
「聞きとうない! 言いわけ聞く耳も持たぬ! みなの者をみい! 夜の目も眠らず予の身を思うておるのに、呑気(のんき)らしゅう不義の戯(たわむ)れに遊びほうけておるとは何のことか! 見苦しい姿見とうもない! 早々に両名共追放せい!」
 ややもすれば湧き立とうとする人の情と人の心を、荒々しい言葉で抑(おさ)えつけるように手きびしく叱っておくと、傍(かたわ)らを顧(かえり)みて対馬守はふいっと言った。
「そろそろその時刻じゃ。微行(しのび)の用意せい」
 ――九重(ここのえ)の筑紫の真綿軽く入れた風よけの目深頭巾(まぶかずきん)にすっぽり面(おもて)をつつむと、やがて対馬守は何ごともなかったように、静かな深夜の街へ出ていった。

         二

 警囲の従者はたった二人。
 しかし、居捕(いど)りと小太刀の技に練り鍛えられた二人だった。
 ――危険な身であるのを知っているのに、こうした対馬守の微行は雨でない限り毎夜の例なのである。
 赤坂御門を抜けると三つの影は、四ツを廻った冬の深夜の闇を縫(ぬ)って、風の冷たい濠(ほり)ばた沿いを四谷見附の方へ曲っていった。しかも探して歩いているものは、まさしく屋台店なのである。
「やはり今宵も同じところに出ておるぞ。気取(けど)られぬように致せよ」
 見附前の通りに、夜なきそばと出ているわびしい灯り行灯(あんどん)を見つけると、三人の足は忍びやかに近づいていった。近づいて這入(はい)りでもするかと思われたのに、三人はそこの小蔭(こかげ)に佇(たたず)むと、遠くから客の在否を窺った。
 しかし居ない。
 刻限も丁度(ちょうど)頃(ころ)なら、場所も目抜の場所であるのに、客の姿はひとりも見えないのである。暫(しばら)く佇んで見守っていたが、屋台のあるじが夜寒(よさむ)の不景気を歎くように、悲しく細ぼそと夜啼(よな)きそばの叫び声を呼びつづけているばかりで、ついにひとりも客は這入らなかった。
「館(たて)!」
「はっ」
「ゆうべはかしこに何人おったか存じておるか」
「おりまする。たしかに両名の姿を見かけました」
「その前はどうであった」
「三人で厶(ござ)りました」
「夜ごとに目立って客足が減るよう喃(のう)。――歎かわしいことじゃ。考えねばならぬ。――参ろうぞ」
 忍びやかに、そうして重たげな足どりだった。
 牛込御門の前通りにやはり一軒屋台の灯が見える。
 三つの影は同じように物蔭へ立ち止まって、遠くから客の容子(ようす)を窺った。
「どうじゃ。いるか」
「はっ。おりまするが――」
「何人じゃ」
「たったひとりで厶ります」
「僅かに喃。酒はどうか。用いておるか」
「おりませぬ。寒げにしょんぼりとして、うどんだけ食している容子に厶ります」
「やはりここも次第に寂(さび)れが見ゆるな。ひと月前あたりは、毎晩のように七八人もの客が混み合っていたようじゃ。のう。山村。そうであったな」
「はっ。御意に厶ります。年前は大分酒もはずんで歌なぞも唄うておりましたが、明けてからこちら、めっきり寂れがひどうなったように厶ります。ゆうべもやはりひとりきりで厶りました」
「そう喃。――胸が詰って参った。もう迷わずにやはり決断せねばなるまいぞ、先へ行け」
 濠ばた沿いに飯田町へ出て、小石川御門の方へ曲ろうとするところに、煮込(にこ)みおでんと、鮨(すし)の屋台が二軒見えた。――しかしどちらの屋台もしいんと静まり返って、まことに寥々(りょうりょう)、客らしい客の姿もないのである。
「館(たて)!」
「はっ」
「そち今日、浅草へ参った筈よ喃」
「はっ。事の序(ついで)にと存じまして、かえり道に両国河岸(りょうごくがし)の模様もひと渡り見て参りまして厶ります」
「見世物なぞの容子はどんなであった」
「天保の饑饉(ききん)の年ですらも、これ程のさびれ方ではなかったと、いち様に申しておりまして厶ります」
「不平の声は耳にせざったか」
「致しました。どこに悪いところがあるやら、こんなに人気の沈んだことはない。まるで生殺しに会うているようじゃ。死ぬものなら死ぬように。立直るものならそのように、早うどちらかへ片がつかねばやり切れぬ、とこのように申しておりまして厶ります」
 ――まさにそれは地の声だった。尊王攘夷と開港佐幕と、昨是今非の紛々たる声に交って、黒船来の恐怖心が加わった、地に鬱積(うっせき)している不安動揺の声なのである。
 対馬守は黙然(もくねん)として、静かに歩いていった。
 右は水を隔(へだ)てて高い土手。左は御三家筆頭水戸徳川のお上屋敷である。――その水一つ隔てた高い土手のかなたの大江戸城を永劫(えいごう)に護らせんために、副将軍定府の権限と三十五万石を与えてここに葵柱石(あおいちゅうせき)の屋敷をも構えさせたのに、今はその水一つが敵と味方との分れ目となって、護らねばならぬ筈の徳川御連枝(ごれんし)たる水藩が、率先勤王倒幕の大旆(たいはい)をふりかざし乍ら、葵宗家(あおいそうけ)に弓を引こうとしているのだ。
「館!」
 対馬守は、いかめしい築地塀(ついじべい)を打ち睨(にら)むようにし乍ら卒然として言った。
「のう館!」
「はっ」
「人はな」
「はっ」
「首の座に直っておる覚悟を以(もっ)て、事に当ろうとする時ほど、すがすがしい心持の致すことはまたとないな。のう。どう思うか」
「御諚(ごじょう)よく分りかねまする。不意にまた何を仰(おお)せられまするので厶ります」
「大丈夫の覚悟を申しておるのじゃ。国運を背負うて立つ者が、国難に当って事を処するには第一に果断、第二にも果断、終始果断を以て貫きたいものじゃ。命は惜しみたくないものよ喃」
「…………」
「泣いておるな。泣くにはまだ早かろうぞ。それにつけても大老は、井伊殿は、立派な御最期だった。よかれあしかれ国策をひっ提(さげ)て、政道の一線に立つものはああいう最期を遂げたいものじゃ。羨(うら)やましい事よ喃」
「申、申しようも厶りませぬ……」
「泣くでない。そち程の男が何のことぞ。――天の川が澄んでおるな。風も冷とうなった。少し急ぐか」
 足を早めてお茶の水の土手にさしかかろうとしたとき、突如バラバラと三つ四つ、黒い影が殺到して来たかと見えるや、行手をさえ切ってきびしく言った。
「まてっ。何者じゃっ」
「まてとは何のことじゃ!高貴のお方で厶るぞ。控えさっしゃい!」
 叱って、館、山村の従者両名がさっと身楯(みだて)になって身構えたのを、
「騒ぐでない」
 しいんと身の引きしまるような対馬守の声だった。
「姿の容子、浪士取締り見廻り隊の者共であろうな」
「……?」
「のう、そうであろうな。予は安藤じゃ。対馬じゃ」
「あっ。左様で厶りましたか! それとも存ぜず不調法恐れ入りまして厶ります。薩州浪士取締り早瀬助三郎組下の五名に厶ります」
「早瀬が組下とあらば腕利きの者共よな。夜中(やちゅう)役目御苦労じゃ。充分に警備致せよ」
「御念までも厶りませぬ。御老中様もお気をつけ遊ばしますよう――」
 人形のように固くなって、勤王浪土取締りの隊士達が見送っているのを、対馬守の足どりは実に静かだった。聖堂裏から昌平橋を渡って、筋違(すじかい)御門を抜けた土手沿いに、求める屋台の灯がまた六つ見えた。闇に咲く淫靡(いんび)な女達が、不思議な繁昌を見せているあの柳原土手である、それゆえにこそ、くぐり屋台の六つ七つは当り前だった。
 しかし客足は反対にここも寂れに寂れて、六軒に僅か三名きりである。
 対馬守は沈痛にもう押し黙ったままだった。――これ以上検分する必要はない。盛り場の柳原にしてこれだったら、他は推(お)して知るべしなのだ。目撃したとていたずらに心が沈むばかりである。
 足を早めて屋敷に帰りついたのは、八ツをすぎた深夜だった。
 寝もやらず待ちうけていた老職多井格之進が、逸早(いちはや)く気配を知って、寒げに老いた姿を見せ乍ら手をつくと、愁い顔の主君をじいっと仰ぎ見守り乍ら、丹田(たんでん)に力の潜んだ声で言った。
「さぞかし御疲れに厶りましょう。御無事の御帰館、何よりに御座ります。今宵の容子は?」
「ききたいか」
「殿の御心労は手前の心労、ききとうのうて何と致しましょうぞ。どのような模様で厶ります」
「言いようはない。火の消えたような寂れ方じゃ」
「ではやはり――」
「そうぞ。もはや迷うてはおられまい。断乎として決断を急ぐばかりじゃ」
「…………」
「不服か。黙っているのは不服じゃと申すか」
「いえ不服では厶りませぬ。殿が御深慮を持ちまして、それ以外に途(みち)はないと仰せられますならば、いかような御決断遊ばしましょうと、格之進何の不服も厶りませぬが――」
「不服はないがどうしたと申すのじゃ」
「手前愚考致しまするに屋台店の夜毎に寂れますのは、必ずしも町民共の懐中衰微の徴(しる)しとばかりは思われませぬ。一つは志士召捕り、浪土取締りなぞと血腥(ちなまぐ)さい殺傷沙汰(さっしょうざた)がつづきますゆえ、それを脅(おび)えての事かとも思われますので厶ります」
「一理ある。だがそちも常人よ喃。今の言葉は誰しも申すことじゃ。予は左様に思いとうない。も少し世の底の流れを観たいのじゃ。よしや殺傷沙汰が頻発致そうと、町民共の懐中が豊ならば自(おのず)と活気が漲(みなぎ)る筈じゃ。屋台店はそれら町民共のうちでも一番下積の者共の集るところじゃ。集る筈のそれら屋台に寂れの見えるは下積の者共に活気のない証拠じゃ。国政を預る身としてこの安藤対馬は、第一にそれら下積の懐中を考えたい。活気のあるなしを考えて行きたい。民(たみ)は依(よ)らしむべし、知らしむべからず、貧しい者には攘夷もなにも馬の耳に念仏であろうぞ。小判、小粒、鳥目(ちょうもく)、いかような世になろうと懐中が豊であらばつねにあの者共は楽しいのじゃ。なれども悲しいかな国は今、その小判に欠けておる。これを救うは異人共との交易があるのみじゃ。交易致さば国に小判が流れ入るは必定(ひつじょう)、小判が流れ入らば水じゃ。低きを潤(うるお)す水じゃ。下積の者共にも自と潤いが参ろうわ。ましてやポルトガル国はもう三年来、われらにその交易を求めてじゃ。海外事情通覧にも書いてある。ポルトガル国はオランダ、メリケン国に優るとも劣らぬ繁昌の国小判の国と詳(くわ)しく書いてじゃ。対馬は常に只、貧しい者達の懐中を思うてやりたい。決断致すぞ。予は決断致してあすにも交易を差し許して遣わすぞ。のう。多井、対馬の考えは誤(あやま)っておるか」
「さり乍ら、それではまたまた――」
「井伊大老の轍(てつ)を踏むと申すか!」
「はっ。臣下と致しましては、只もう、只々もう殿の御身(おんみ)が……」
「死は前からの覚悟ぞ!たとえ逆徒の刃(やいば)に斃(たお)れようとも、百年の大計のためには、安藤対馬の命ごとき一毛(もう)じゃ。攘夷を唱(とな)うる者共の言もまた対馬には片腹痛い。一にも二にも異人を懼(おそ)れて、外船と交易致さば神州を危うくするものじゃと愚かも甚(はなはだ)しい妄語(もうご)を吐きおるが、国が危ういと思わば内乱がましい内輪の争い控えたらよかろうぞ。のう、多井! 予の考えは誤りか」
「いえ、それを申すのでは厶りませぬ。京都との御約束は何と召さるので厶ります」
「あれか。約束と申すは攘夷実行の口約か」
「はっ。恐れ乍ら和宮様御降嫁と引替えに、十年を出(いで)ずして必ず共に攘夷実行遊ばさるとの御誓約をお交わしなさりました筈、さるを、御降嫁願い奉って二月と出ぬたった今、進んでお自(みずか)らお破り遊ばしますは、二枚舌の、いえ、その御約束御反古(ごほご)の罪は何と遊ばしまする御所存で厶ります」
「そちも近頃、急に年とって参ったよ喃――」
 言下に冴え冴えとした微笑をのせると、凛(りん)として言った。
「それもこれもみな国策じゃ! 二枚舌ではない、国運の危うきを救う大策じゃ! 内争を防ぐことこそ第一の急、京都と江戸との御仲睦(むつま)じく渡らせられなば、国の喜びこれに過ぎたるものはなかろうが、御降嫁願い奉ったも忠節の第一、国を思うがゆえに交易するも忠節の第一であろうぞ。――大無! 心気を澄ましたい。笙(しょう)を持てっ」
 ――冬の深夜の星に対(むか)って、端然とし乍ら正座すると、対馬守は蕭々(しょうしょう)として、日頃嗜(たしな)む笙を鳴らした。

         三

 その同じ夜更(よふ)け――。
 牛込柳町の奥まった一軒である。その一軒では、長いこともうすすり泣きの声がつづいてやまなかった。泣いているのは誰達でもない。秘めかくした恋を見咎(みとが)められて、身縁(みよ)りのこの家に、追放された当座の身を潜(ひそ)めているあの道弥とお登代の二人だった。――いとしみ愛する心が強ければ強いだけに、美しく若い二人にとってはその恋を叱られたことが、限りなくも悲しかったに違いないのである。
 お登代が泣き濡れた睫毛(まつげ)に雫をためて、思い出したようにまた言った。
「それにしてもあんまりで厶(ござ)ります……。殿様もあんまりで厶ります。……」
「ならぬ! 言うでない! なりませぬ!」
 勃然(ぼつぜん)として道弥がうなだれていた面をあげると、きびしく制して叱った。
「殿様をお恨みに思う筋は毫(ごう)もない。お目を掠(かす)め奉った二人にこそ罪があるのじゃ。正直にこれこれとも少し早うお打ちあけ申し上げておいたら、屹度(きっと)御許しもあったものを、今までお隠し申し上げておいたのが悪かったのじゃ。なりませぬ! 殿様にお恨み申し上げてはなりませぬ!」
「いいえ申します。申します。隠した恋では厶りましょうと、あれほどもおきびしゅうお叱りを受けるような淫(みだ)らな戯むれでは厶りませぬ。それを、それを、只のひと言もお調べは下さりませいで、御追放遊ばしますとはあんまりで厶ります。あんまりで厶ります」
「ならぬと言うたらなぜ止(や)めませぬ! どのような御仕置きうけましょうとも、御恩うけた殿様の蔭口利いてはなりませぬ。御手討ちにならぬが倖わせな位じゃ。もう言うてはなりませぬ!」
「でも、でも……」
「まだ申しますか!」
「あい、申します! 晴れて添いとげたいゆえに申します。わたくしはともかく、あなた様は八つからお身近く仕(つか)えて、人一倍御寵愛(ごちょうあい)うけたお気に入りで厶ります。親とも思うて我まませい、とまでお殿様が仰せあった程のそなた様で厶ります。それを、それを、只の御近侍衆のように、不義はお家の法度(はっと)、手討ちじゃと言わぬばかりな血も涙もないお仕打ちは、憎らしゅう厶ります。殿様乍らお憎らしゅう厶ります」
 ――道弥も、ふいとそのことが思いのうちに湧き上った。思い出せばなる程そうだった。八つの年初めてお目見得に上って、お茶との御所望があったとき、過(あやま)ってお膝の上にこぼしたら、ほほう水撒(みずま)きが上手よ喃(のう)、と仰せられた程の殿である。それからまた十の年に若君のお対手(あいて)となって、お書院で戯むれていたら、二人して予の頭を叩き合いせい、とまで仰せられた程も人としての一面に於て、情味豊な対馬守である。
 それだのに、なるほど厳しすぎると言えば厳しすぎるお仕打ちだった。――道弥は、悲しげに面をあげて、じっとお登代の目を見守った。目から、そうして乳房を通って、道弥のふたつの眼(まなこ)は怪しくおののき輝き乍ら、乳房の下のほのかなふくらみにそそがれた。
 四月(よつき)! ――そこには四月の愛の結晶がすでにもう宿されているのである。
 これまでになっていることをお気づきだったら、ああまで強くお叱りにならなかったかも知れぬ。よしや一度はお叱りになったにしても、昔ほどの御豊な情味をお持ちになっていたら――だが、そのとき道弥の心に浮び上って来たものは、日夜の御心労におやつれ遊ばしている殿のいたいたしいお姿だった。
 あのお顔に刻まれている皺(しわ)の一つ一つの暗い影は、とりもなおさず国難の暗い影なのである。
 殿の一動は、江戸の運命を左右するのだ。
 そうしてまた殿の一挙は、国の運命をも左右するのだ。
 おいたわしいことである。心に一刻半刻のゆるみをも持つことの出来ない殿の日夜は、只々おいたわしい限りである。――いや、それゆえにこそ、自分等ごとき取るに足らぬものの恋なぞは、心にも止めていられないのだ。
 カチカチと、オランダ渡りの置土圭(おきどけい)が、静かな時の刻みをつづけていった。――勿論(もちろん)殿から拝領の品だった。追放の身にはなっても、せめてこればかりは御形見にと思って持って来たのである。
 恨んではならぬ!
 お護り申さねばならぬ!
「登代どの!」
 ほっと蘇(よみがえ)ったように面をあげると、道弥は不意にきいた。
「あすは十五日で厶ったな」
「あい。月次(つきなみ)お登城の日で厶ります」
 きくや矢庭(やにわ)に立ち上ると、敢然として言った。
「行って参る! 並々ならぬ身体じゃ。大切に致されよ」
「ま! 不意にどこへお越し遊ばすので厶ります。このような夜中、何しに参るので厶ります」
「せめてもお詫びのしるしに――、いや、道弥がせねばならぬことを致しに参るのじゃ。健固でお暮し召されよ……」
「ま! お待ちなされませ! お待ちなされませ!」
 しかし道弥の姿は、もう表の闇に消えていった。――同時のように、ジイジイと置土圭が四時(ななつ)を告げた。

 大書院の置土圭もまたその時四時だった。
 だが対馬守は、あれから今まで死像のようにじっと端座したままだった。――老職多井がそれを気遣って言った。
「夜明けのせいか、めっきり冷えが増して参ったように厶ります。お微行(しのび)のあとのお疲れも厶りましょうゆえ、御寝(ぎょしん)遊ばしましてはいかがで厶ります」
「…………」
「な! 殿!」
「…………」
「殿!」
「…………」
「きこえませぬか。殿! もう夜あけに間も厶りませぬ。暫しの間なりとお横におなり遊ばしましてはいかがで厶ります」
「…………」
「な! 殿!」
「…………」
「殿!」
 そのとき、死像のように声のなかった対馬守が、ふいっと面をあげると突然言った。
「あすは十五日であったな」
「はっ。月次総登城の御当日で厶ります。それゆえ暫しの間なりとも御寝遊ばしましてはと、先程から申し上げているので厶ります。いかがで厶ります」
「それよりも予の目のうちには、あれがちらついておる。……屋台店の寂(さび)れがちらついておる……。たしかに十五日じゃな」
「相違厶りませぬ」
「しかと間違いあるまいな」
「お諄(くど)う厶ります」
「諄うのうてどうしょうぞ。月次総登城とあらば、諸侯に対馬の動かぬ決心告げるに丁度(ちょうど)よい都合じゃ――硯(すずり)を持てい」
「はっ?」
「紙料(しりょう)持参せいと申しているのじゃ」
 いぶかり乍ら格之進が取り揃えた奉書を手にすると、対馬守はきりっと唇を決断そのもののように引き締めて、さらさらと書きしたためた。
「ポルトガル国トノ交易通商ハ、最早ヤ断乎トシテ之ヲ貫ク以外ニ途ハナシ。早々ニ条約締結ノ運ビ致スヨウ、諸事抜リナク御手配(おんてはい)可然候(しかるべくそうろう)。人ノ命ニ明日ハナシ。ソノ心シテ諸準備御急ギ召サルベク安藤対馬シカト命ジ置キ候」
 筆をおくと凛として言った。
「予が遺言に――、いや、夜がいか程更(ふ)けておろうと火急の用じゃ。すぐさま外国奉行の役宅へ持参させい」
「ではもうやはり――」
「聞くがまではない。ちらつく……、ちらつく、予の目には只あれがちらつくばかりじゃ……」
 声をおとして、他を顧(かえり)みるように言うと、対馬守は静かにきいた。
「湯浴の支度は整(ととの)うておるであろうな」
「おりまするで厶ります」
 ――入念な入浴だった。
 そうして夜が白々と明けかかった。紊(みだ)れも見えぬ足取りでお湯殿から帰って来ると、対馬守は愈々(いよいよ)静かに言った。
「香を焚(た)け」
 いかにも落ちついた声なのである。焚いてそのお膝の前に格之進が捧げ持っていったのをズバリと言った。
「聴(き)くのでない。予が頭(つむり)に焚きこめい」
 はっとなって老職は、打ちひしがれたように面を伏せた。死を覚悟されているのである。斎戒沐浴して髪に香を焚きこめる、――刺客の手にかかることがあろうとも、見苦しい首級(しゅきゅう)を曝(さら)したくないとの床(ゆか)しい御覚悟からなのだ。
 格之進の老眼からは、滝のようにハラハラと雫が散った。
 香炉を捧げ持つ手がわなわなとふるえた。
 声もカスレ乍らふるえた。
「お潔(いさ)ぎよいことで厶ります。只もう、只もうお潔ぎよいと申すよりほかは厶りませぬ」
「長い主従であったよな」
「…………」
「不吉じゃ。涙を見するは見苦しかろうぞ。大老も、井伊殿の御最期もそうであった。登城を要して討つは、刺客共にとって一番目的を遂げ易い機(おり)である。十五日であるかどうかを諄うきいたのもそのためじゃ。決断を急いだのもそれゆえじゃ。予を狙う刺客共もあすの来るのを、いや、今日の来るのを待ちうけておるであろう。多井!」
「はっ……」
「すがすがしい朝よな」
 ――カラリと晴れて陽があがった。
 登城は坂下門からである。対馬守は颯爽(さっそう)として言った。
「供揃いさせい」
「整えおきまして厶ります」
「人数増やしたのではあるまいな」
「いえ、万が一、いや、いずれに致せ多いがよろしかろうと存じまして、屈強の者選(よ)りすぐり、二十名程増やしまして厶ります」
「要(い)らぬ。減らせ!」
 言下に斥(しりぞ)けると、さらに颯爽として言った。
「首の座に直るには供は要らぬ。七八名で沢山ぞ。館に山村、それから道弥、――道弥はおらなんだな。あれがおらばひとりでも沢山であろうのに、いずれにしても半分にせい」
 命ぜられた供人達が平伏しているお駕籠へ対馬守は紊れた足音もなく進んでいった。しかしその刹那である。
 一閃! キラリ、朝陽に短く光りの尾が曳いたかと見るまに、どこからか飛んで来て、プツリ、お駕籠の棒先に突きささったのは手裏剣だった。
 ぎょっとなって色めき立ったのを、静かに制して対馬守は見守った。火急に何か知らせねばならぬことでもあるのかまさしく手裏剣文なのである。
「見せい」
 押し開いた目に読まれたのは次の一文だった。
「新らしき敵現われ候間(そうろうあいだ)、御油断召さる間敷候(まじくそうろう)。堀織部正(おりべのかみ)殿恩顧の者共に候。
 殿に筋違いの御恨み抱き、寄り寄り密謀中のところを突き止め候間、取急ぎおしらせ仕候(つかまつりそうろう)」
 ふいっと対馬守の面には微笑が湧いた。
「誰ぞ蔭乍ら予の身辺を護っている者があると見ゆるな」
 だが一瞬にその微笑が消えて、怒りの声が地に散った。
「愚か者達めがっ。私怨じゃ。いいや、安藤対馬、堀織部正恩顧の者共なぞに恨みをうける覚えはないわっ。人が嗤(わら)おうぞ。――行けっ」
 痛罵(つうば)と共に、姿は駕籠に消えた。――堀織部正は先の外国奉行である。二月前の去年十一月八日、疑問の憤死を遂げたために、流布憶説(るふおくせつ)まちまちだった。対馬守の進取的な開港主義が度を越えているとなして憤死したと言う説、外国奉行であり乍ら実際は攘夷論者であったがゆえに、任を負いかねて屠腹(とふく)したと言う説、それらのいろいろの憶説の中にあって、最も広く流布されたものは、品川御殿山八万坪を無用の地との見地から、対馬守がこれを外国公使館の敷地に当てようとしたところ、織部正が江戸要害説を固執(こしつ)して肯(がえん)じなかったために、怒って幽閉したのを憤おって自刃したと言う憶測だった。もしも堀家恩顧の家臣が恨みを抱いているとするなら、その幽閉に対する逆恨みに違いないのである。
「馬鹿なっ。大義も通らぬ奸徒達にむざむざこの首(こうべ)渡してなるものかっ。やらねばならぬ者がまだ沢山あろうぞ。早う行けっ」
 お駕籠は揺れらしい揺れも見せないで、しずしずと坂下門にさしかかっていった。供揃いはたった十人。一面の洗(あら)い砂礫(じゃり)を敷きつめたその坂下御門前に行きついたのは、冬の陽の冷たい朝まだきの五ツ前である。
 と見えた刹那――、轟然(ごうぜん)として銃音(つつおと)が耳をつんざいた。一緒に羽ばたきのような足音が殺到したかと思われるや、突然叫んで言った。
「国賊安藤対馬、斬奸(ざんかん)じゃっ。覚悟せい!」
 チャリンと言う刃音が同時に伝わった。
 刺客だ!
 七八名らしい剣気である。
「来おったな」
 対馬守は、待ちうけていた者に会うような、ゆとりのある態度で、従容(しょうよう)と駕籠を降りた。――途端、目についたのは脱兎のごとくに迫って来る若侍の姿だった。それも十八九。
 三島――対馬守は咄嗟(とっさ)に思い当った。刃をふりかぶって悪鬼のごとくに襲撃して来たそのいち人こそは、まさしく見覚えの堀織部正家臣三島三郎兵衛である。間(ま)をおかずに大喝が飛んでいった。
「うろたえ者めが。退りおろうぞっ。私怨の刃に討たれる首(こうべ)持っていぬわっ。退れっ。退れっ。退りおれっ」
 叫んで、さっと身をすさったが、三島が必死の刃は、圧する凄気(せいき)と共に、対馬守の肩先に襲いかかった。しかしその一刹那である。弾丸のように黒い影が横合いから飛びつけると、間一髪のうちに三島三郎兵衛の兇刃を払ってのけて、技もあざやか! ダッと一閃のまにそこへ斬ってすてた。――頭巾姿の顔も誰か分らぬ救い手である。
 黒いその影は、つづいて右に走ると、さらにいち人見事に刺客を斬ってすてた。そのまに館がひとり、山村がいち人、あとの四人を残りの近侍達が斬りすてて、広場の砂礫は凄惨(せいさん)として血の海だった。
 対馬守は自若(じじゃく)として打ち見守ったままである。その目は、救い手の黒い姿に注がれて動かなかった。しかしやがて肯(うなず)いた。
「道弥よな」
 呟(つぶや)いたとき、頭巾を払って救い手が砂礫に手をついた。――やはりそれはあの道弥だった。崩れるようにうっ伏すと道弥の声が悦(よろこ)びに躍って言った。
「御無事で何よりに厶ります……」
 ふいっと対馬守の面に微笑が湧いた。だが一瞬である。打って変った荒々しい声が飛んでいった。
「見苦しい! 退れっ。縁なき者の守護受けとうないわっ。行けっ」
「では、では、これ程までにお詫び致しましても、――手裏剣文放って急をお知らせ致しましたのも手前で厶りました。蔭乍らと存じまして御護り申し上げましたのに、では、では、どうあっても――」
「知らぬ! 行けっ」
「やむをえませぬ! ……」
 さっと脇差抜くと、道弥のその手は腹にいった。途端である。対馬守の大喝がさらに下った。
「たわけ者めがっ。言外の情(なさけ)分らぬか。死んでならぬ者と、死なねばならぬ者がある――」
 そうしてふいっと声をおとすと言った。
「嬰児(やや)が父(てて)なし児になろうぞ。早う行けっ」
「左様で厶りましたか! 左様で厶りましたか!」
 血の匂う砂礫の上に道弥の涙が時雨(しぐれ)のようにおち散った。
 見眺(みなが)めて対馬守は、ほころびかかった微笑を慌てて殺すと、急いで眼鏡をかけた。
 はっと平伏し乍ら、並居る侍臣達は、そのとき新らしい発見をした。殿の眼鏡は時代の底の流れと、海の外を視(み)る御用にのみ役立つと思っていたのに、人の情の涙をもおしかくす御役に立つことを初めて知ったのである。
 その時何侯か登城した大名があったとみえて、城内遥(はる)かの彼方からドドンと高く登城しらせのお城太鼓が鳴り伝わった。




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