旗本退屈男
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著者名:佐々木味津三 

旗本退屈男 第十一話千代田城へ乗り込んだ退屈男佐々木味津三       一 その第十一話です。少し長物語です。 神田明神(かんだみょうじん)の裏手、江戸ッ児が自慢のご明神様だが、あの裏手は、地つづきと言っていい湯島天神へかけて、あんまり賑やかなところではない。藤堂家(とうどうけ)の大きな屋敷があって、内藤豊後守(ないとうぶんごのかみ)の屋敷があって、ちょっぴりとその真中へ狭まった町家のうちに、円山派(まるやまは)の画描き篠原梅甫(しのはらばいほ)の住いがある。 大していい腕ではないが、妻女の小芳(こよし)というのがつい近頃まで吉原で明石(あかし)と名乗った遊女あがりで、ちょっと別嬪(べっぴん)、これが町内での評判でした。 そのほかに今一つ、世間町内の評判になっているものがある。住いの庭にある生き埋めの井戸というのがそれです。 勿論この住いは、篠原梅甫が今の妻女の小芳を吉原から身請(みうけ)したとき、場所が閑静なのと、構えの洒落(しゃれ)ている割に値が安かったところから買い取ったものだが、安いというのも実はその生き埋めの井戸というあまりぞッとしない景物があったからのことでした。その井戸のある場所がまた変なところで、玄関の丁度右、寒竹(かんちく)が植わって、今は全く井戸の形も影もないが、人の噂によると、昔、ここは神谷なにがしというお旗本の下屋敷で、その某(それがし)の弟君というのが狂気乱心のためにここへ幽閉されていたところ、次第に乱行が募ったため、三河以来の名門の名がけがされるという理由から、むざんなことにもこの井戸へ生き埋めにされたと言うのです。 だから出る。 いいや、出ない。 出たとも。ゆうべも出たぞ。日の暮れ頃だ。あの寒竹の中から、ふんわり白い影が、煙のようにふわふわと歩き出したとかしないとか、噂とりどり。評判もさまざま。「馬鹿言っちゃいけねえ。惚れた女と一緒になって、むつまじいところを見せてやりゃ、幽霊の方が逃げらあな。それに井戸はもう埋めてあるし、家だって造りは変っておるし、出て来りゃ、おまえとふたりでのろけをきかすのさ。これが二十たア安いもんだ。新世帯にかっこうだぜ」 買って住み出したのが五月のつゆどき。 画はそんなにうまくはないが、篠原梅甫、真似ごとにやっとうのひと手ふた手ぐらいは遣って、なかなかに肝が据っているのです。「よそで食ってもうまくねえ。おまえのお給仕が一番さ。おそくなっても晩にゃ帰るからね。やっこ豆腐で、一本たのんでおくぜ」 出来あがった画を浅草へ持っていって、小急ぎに帰って来たのが六月初めのむしむしとする夕まぐれ……。 ひょいと玄関の格子戸へ手をかけようとすると、ふわりと煙のような影だ。寒竹の繁みがガサガサと幽(かす)かにゆれたかと思うと、うす白い男の影がふんわり浮きあがりました。「誰だッ」「………」「まてッ。誰だッ」 そのまにすうと煙のように向うへ。 肝は据っていたが、いいこころもちではない。少し青ざめて這入ってゆくと、妻の小芳が湯あがりの化粧姿もあらわに、胸のあたり、乳房のあたり、なまめかしい肉の肌をのぞかせながら気を失って打ち倒れているのです。「どうした!」「俺だ! 小芳! どうしたんだ!」「あッ……」 ふッと息を吹きかえすと、「怕い!……。怕い怕い!……」 かきすがりざま訴えた言葉がまた奇怪でした。「白い影が……、煙のような男の影が……」「のぞいたか!」「そうざます。お湯からあがって、身仕舞いしているところへ、あのうす暗い庭さきからふうわりとのぞいて、また向うへ――」 梅甫、ききながらぎょッと粟つぶ立ちました「アハハ……。気のせいだよ」「いいえ、ほんとうざます。ほかのことはぬしにさからいませぬが、こればっかりは――」 ぞッと水でも浴びたように身ぶるいさせると、もう懲(こ)りごりと言うように訴えました。「このようなうちに住むは、もういっ刻もいやざます。今宵にもどこぞへ引ッ越してくんなまし」「馬鹿言っちゃいけねえ。俺もちらりと、――いいや、ちらりと見たという奴が目のせい、気のせい、みんなこっちの心で作り出すまぼろしさ、今御繁昌のお江戸に幽霊なんかまごまごしておってたまるかよ。それよりいい話があるんだ。おまえの兄さんに会ったぜ」「まあ! いつ、どこで?」 脅えていた小芳の顔が、急にはればれと晴れ渡りました。「兄さんなら、下総(しもふさ)にいらっしゃる筈、嘘でありんしょう」「嘘なもんか? 用を足して、来たついでだからと、観音さまにお詣りしていたら、ぽんと肩を叩いて、篠原の先生、という声がするじゃないかよ。ひょいとみたら田舎の兄さんさ。よいところじゃ、小芳も会いたがっておりますから、一緒にどうでござんすと誘ったが、ぜひにも今夜足さなくちゃならない用が馬道とかにあるから、今は行かれない、その代りあしたの朝早く行こうと言うからね。あすならなお幸い、小芳とふたりで森田座(こびきちょう)へ行くことになっているから、じゃ御一緒にあんたも芝居見はどうでござんすと言ったら大よろこびさ。朝早く起きぬけにこっちへやって来ると言ったよ」「でも、不思議でござんすな。江戸へ来るなら来るとお便り位さきによこしておきそうなものなのに、忙しいお身体の兄さんがまた、何しに来たんでござんしょう」「何の用だか知らないが、今朝、早立ちしたと言ってたよ。それから、こんなことも言ってたぜ。小芳め、さぞかし尻(しり)に敷くことでござんしょうな、とね。アハハ……」「ま! いけすかない……。でも、兄さんが来るときいてすこうし胸がおちつきました。もういや! これから、わちきひとりにさせたらいやざんすよ。今のような怕いことがあるんだから……」 丸あんどんの灯影(ほかげ)の下を、小芳のむっちりとした湯上がりの肉体が、不気味な生き物かなんかのように、ぐいと梅甫の両腕の中にいだきよせられました。       二「これはようこそ。毎度、ご贔屓(ひいき)さまにありがとうござんす。まもなく二番目が開きますゆえ、お早くどうぞ。ひとり殖(ふ)えた、三人にしろとゆうべお使いがござりましたんで、ちやんと平土間が取ってござります……」「じゃ兄さん……」 顔なじみの出方に迎えられて導かれていった桟敷(さじき)は、花道寄りの恰好な場所でした。――下総から来た小芳の兄というのは、打ち見たところ先ず三十五六。小作りの実体(じってい)そうな男です。そのあとから小芳、つづいて梅甫、兄さんなる男も梅甫も別に人目を引く筈はないが、この日の小芳はまたいちだんの仇っぽさ。こういうところへ来ると、三年曲輪(くるわ)の水でみがきあげた灰汁(あく)の抜けた美しさが、ひとしお化粧栄えがして、梅甫の鼻もまた自然と高い……。 出しものは景政雷問答(かげまさいかずちもんどう)、五番続き。 もう中日はすぎていたが、団十郎(なりたや)と上方くだりの女形(おやま)、上村吉三郎(うえむらきちさぶろう)の顔合せが珍しいところへ、出しものの狂言そのものが団十郎自作というところから、人気に人気をあおって、まこと文字通り大入り大繁昌でした。「兄さん、下総の筵(むしろ)芝居とはちと違いましょう?」「人前で恥をかかすものじゃねえ。下総、下総と大きな声で言や、田舎もののお里が分るじゃねえかよ。それにしても梅甫さん、江戸ってところは、よくよく閑人(ひまじん)の多いところだね」 小芳を真中にして、幕のあくのを待ちながら、三人むつまじく話し合っているところを、「ちょっとご免やす」 変なところを通る男があればあるものです、すぐそばに花道もあることだし、横には桝目(ますめ)の仕切り板もあることだから、わざわざ三人の真中を割って通らなくてもよさそうなのに、幇間風(たいこもちふう)の男が無遠慮にも小芳の肩を乗りこえて、ひょいと大きく跨ぎながら通り越しました。 咄嗟に首をまげてこちらは避けたが、向うは故意からか、それとも跨ぐはずみからか、その裾がひらりと舞うように小芳の結い立ての髪に触れて、見事に出した小鬢(こびん)をゆらりとくずしたからたまらない。――梅甫の声が咎めるように追いかけました。「おいおい。ちょっとまてッ」「へえへえ、毎度ありがとうござりやす」「白っぱくれたこと言うな。大切な髪をこわして、毎度ありがとうござりやすとは何だよ。貴様、たいこだな」「左様で。何かそそうを致しましたかい」「これをみろ。この髪のこわれた奴が分らねえのかよ」「なるほど。ちっとこわれましたね、しかし、こういう大入り繁昌の人込みなんだからね。こわれてわるい髪なら、兜(かぶと)でもやっていらっしゃることですよ」「なに! 跨いで通るってことがそもそも間違っているんだ。詫(あやま)[#「詫」は底本では「詑」と誤植]りもしねえでその言い草は何だよ」「何だ! 何だ!」 声と一緒に、そのときどやどやと立ち上がって、花道向うの鶉(うずら)から飛び出して来たのは、六人ばかりのいかつい大小腰にした木綿袴のひと組です。たいこもちとは同じ連れか、でなくば見知り越しらしい話工合でした。「何じゃ。三平。こやつら何をしたのじゃ」「いいえなに、このおめかしさんの髪へ触ったとか触らないとか言ってね。大層もないお叱りをうけましたんで、ちょっとわびを言ったら、そのわびの言い草が気に入らないというんですよ」「文句を言ったは貴様等か!」「何でござんす」 ひょいと見あげた梅甫の目と小芳の目とが、なにげなくうしろの鶉へ向けられると一緒に、「あッ……」 小さなおどろきの叫びが先ず小芳の口からあげられました。見覚えのある顔! いや、見覚えどころではない。小侍たち六人が飛び出して来たその鶉席に傲然(ごうぜん)と陣取って、嘲笑(あざわら)うようにこちらを見眺めていた顔こそは、小芳がまだ曲輪にいた頃、梅甫とたびたび張り合った腰本(こしもと)治右(じえ)衛門なのです。――元は卑(いや)しい黒鍬組(くろくわぐみ)の人足頭にすぎなかったが、娘が将軍家のお手かけ者となってこのかた、俄かに引き立てられて、今では禄も千石、城中へ出入りも自由のお小納戸頭取(こなんどとうどり)というすばらしい冥加者(みょうがもの)でした。「あいつめが来ておるとすると――」「企んで仕かけた事かも分りませぬ。兄さん!……」 小芳はさッと青ざめ、兄の方へ目まぜを送ると、小声で囁きました。「何とかうまく扱っておくんなんし……」「よしよし。惚れ合っていると兎角こんなことになるんだ。こっちへどきな」 小作りの下総男、田舎じみた風体をしているが、なかなか扱いが馴れたものです、腰低く小侍たちに一礼すると、人中で騒ぎを起して、近所迷惑になってはならぬと言うように、ひたすらわび入りました。「こちらこそ飛んだ粗相、本当に三平さんとやらがおっしゃる通りです。髪なんどこわれようとつぶれようと、また結い直せば済みますこと、もう追っつけ幕もあくことでござんしょうから、いざこざなしにきれいさっぱり旦那方もお引きあげなすって下せえまし」「いざこざなしとは何じゃ。こっちで売った喧嘩でない。うぬらがつけた因縁じゃ。わびを言うならそのように法をつけい」「だから、立つ腹もこっちが納めて、この通り下手(したて)からおわびを申しているんでごぜえます」「なにッ。下手からとは何じゃ! その言い草が面憎い! こっちへ出い!」「笑(じょ)、笑談(じょうだん)じゃござんせぬ。ごらんの通りわたしどもは田舎ものばかり、この人前で手前ども風情(ふぜい)を恥ずかしめてみたとて、お旦那方のご自慢になるわけじゃござんせぬ。騒ぎ立てたら、みなさまも迷惑、小屋も迷惑、この位でもう御勘弁下さいまし」「お旦那方がご自慢とは何じゃ! きさま、見くびっておるなッ。たわけものめがッ。出い! 出い! ここへ出い! こうしてやるわ!」 ピシャリ、と、理も非もない。初めから売る因縁、売る喧嘩だったと見えるのです。前後左右から木綿袴の小侍共がこぶしを固めて、小芳の兄の横びんをおそいました。「喧嘩だッ。喧嘩だッ」「出方はおらんか! おうい! 出方! 早く鎮めろッ」 どッとわき立つ人の波! 騒ぎの中を、六人の木綿袴は、なおピシャリピシャリとおそいました。 打たれるままにまかせていたが、なかなかに打ち打擲(ちょうちゃく)はやむ色がないのです。 刹那! 下総男、すさまじい豹変(ひょうへん)でした。「さんぴん、よさねえなッ」 ダッと一躍、花道の上へ飛び上がると、パラリぬいだもろ肌いちめん、どくろ首の大朱彫(しゅぼ)り!「べらぼうめ! 下手に出りゃつけ上がりゃがって、下総十五郎を知らねえか! 不死身(ふじみ)の肌だッ。度胸をすえてかかって来やがれッ」 彫りも見ごと、啖呵(たんか)も見事、背いちめんの野晒(のざら)し彫りに、ぶりぶりと筋肉の波を打たせて、ぐいと大きくあぐらを掻(か)きました。 同時です。 舞台の幕をやんわり揚げて、ぬうと静かにのぞいた顔がある。「御前だ!」「早乙女の御前だ!」 まことやそれこそ、眉間の傷もなつかしい早乙女の退屈男でした。       三 観衆の目は、一斉に退屈男の姿へそそがれました。江戸名代(なだい)の眉間傷がのぞいたからには、只ですむ筈はない。その眉間傷が今日はいちだんとよく光る。主水之介がまた実におちついているのです。 揚げ幕からずいと出て、のそり、のそりと花道をやって来ると、猛(たけ)り狂っている黒鍬組小侍たちのうしろに、黙って立ちはだかりました。 勿論下総十五郎の啖呵(たんか)は、大野ざらしの彫り物の中から、井水(いみず)のように凄じく噴きあげている最中なのです。「べらぼうめ、見損った真似しやがるねえ! 江戸でこそ下総十五郎じゃ睨みが利かねえかも知れねえが、九十九里ガ浜へ行きゃ、松のてっぺんまで聞えた名めえだ。松魚(かつお)にしてもこんな生きのいい生き身はありゃしねえやい! 生かして帰(け)えせと言うんじゃねえんだ。のめすならのめす、斬るなら斬ってみろい!」「な、な、何ッ」「何を、何を大口叩くかッ。出、出、出ろッ」「のめして貰いたくばのめしてもやるわ。斬ってもやるわッ。もそっとこっちへ出ろッ」「べらぼうめ、出なくたって斬れらあ! 俎板(まないた)代りにちゃんと花道を背負っているんだ。斬ってみろ!」「何ッ。な、な、何だと! もういっぺん言ってみろ!」 劣らずに口では小侍たち、猛りつづけてはいたが、十五郎の思わざる豹変(ひょうへん)にいささか怖(お)じ気づいたらしい容子でした。真赤な髑髏(どくろ)首もこの際この場合、相当に六人の肝を冷やしていると見えるのです。――しかし、何を言うにも当人たちの腰には二本ある。背後にはまた、成上がり者ながら権勢に奢(おご)る腰本治右衛門がいるのです。そのうえに見物の目もある。手前もある。「やれッ。やれッ。構わぬわッ、斬れ斬れッ」「打(ぶ)ッた斬って吠え面(づら)掻(か)かしてやれッ」 半分は脅すつもりもあったらしく、黒鞘の大刀(だいとう)を横にヒネってプツリ鯉口(こいぐち)切(き)ったところを、「こりゃ下郎々々…」 気味わるく静かにうしろから呼びかけて、のっそりと主水之介がその顔の真ん前へ立ちはだかると、あとは無言でした。黙ってにんめり打ち笑みながら、ぬうと向うの顔へこっちの顔をさしつけて、みい、みい、これを見い、というようにおのが指でおのが額の大看板を静かに指さしたものです。 ぎょッとなってたじろいだところを、「出口はあちらじゃ。行けッ」「………」「行かぬかッ。行かねば光るぞッ」 睨んだ傷は江戸御免、しいんと見すくめたひと睨みに、たじ、たじとなりながら六人がさがりかけたのを見眺めて、怒気もろとも泳ぐように主水之介の前へ飛び出して来たのは腰本治右衛門でした。黒鍬者といえば土工です。千石の大身に成り上がっても、もとの素姓はなかなか洗い切れぬとみえて、言葉のところどころが巻舌がかってもつれました。「誰に頼まれて要らざる真似をしやがるんじゃ。うぬは何者という野郎じゃ」「その方、もぐりじゃな」「なにッ。もぐりとは何じゃ! 怪しからぬことを申しやがって、もぐりとは何が何じゃ!」「申しやがると申しおったのう。江戸に住まって、この眉間傷知らぬような奴は、もぐりじゃと申すのよ。その方も仲間ならば、出口はあちらじゃ。行けッ」「た、たわけ申すなッ。鶉(うずら)ひと桝(ます)小判で買って参ったのじゃ。うぬのさし図うけんわい!」「控えろッ。この小屋は喧嘩場でない。見物が迷惑するゆえ、表へ出いと言うのじゃ。参らねばこれなる眉間傷が今に鼠啼(ねずみな)きいたすぞッ。――行けい! 道が分らねば手伝うてやる! 早う行けい!」 青白く光らして、柄頭(つかがしら)ぐいとこきあげながらその胸元へ突きつけると、もうどうしようもない。腕には諸羽流(もろはりゅう)の術がある。柄頭ながらそのひと突きは大身槍の穂尖(ほさき)にもまさるのです。腰本治右衛門の顔が盃んだかとみるまに、六人の小侍ともども、ぐいぐいと押されて木戸口から表へ消えました。 わッと小屋の中は総立の大どよめき。「兄さん! 兄さん! あれが早乙女の御前さまじゃ。お救い願えてようござりましたな。早う肌をお入れなんし……」 打ちよろこびながら小芳が手伝って十五郎の肌をおさめさせたところへ、木戸からずいずい主水之介が戻って来ると、裁きに手落ちがない。「その方たちも出い!」「でも、あっしたちゃ――」「売られた喧嘩であろうとも、出入りがあった上は両成敗(せいばい)じゃ。何かと芝居の邪魔になる。早う出い!」「なるほど、お裁き、よく分りました。ご尤もでござります――お見物のみなさま、飛んだお騒がせ致しまして相すみませぬ。下総十五郎、おわびいたしまする。小芳! 梅甫さん! 殿様のお裁きに手落ちはねえ。出ましょうよ」 下総十五郎、背中の野ざらし彫りは伊達ではないとみえるのです。物分りよく立ち去ったあとから小屋のうちは、またひとしきりどッとどよめき立ちました。       四「御前。有難うござります! 申しようもござりませぬ。すんでのことに狂言が割れますところを有難うござります!」 事もなげに舞台の奥へ引き揚げていった主水之介を見てとるや、楽屋姿のまま飛び出して、拝まんばかりに迎えたのは団十郎(なりたや)でした。「何ともお礼の言いようがござりませぬ。御前なればこそ、怪我人も出ずに納まりましてござります。お礼の申しようもござんせぬ」「そうでもないのよ。丸く納まったとすればこの眉間傷のお蔭じゃ。身共に礼は要らぬわい!」「いいえ、左様ではござりませぬ。手前風情(ふぜい)がご贔屓(ひいき)頂いておりますさえも身の冥加(みょうが)、そのうえ直き直きにあのようなお扱いを頂きましては空恐しゅうござります。甚だぶしつけでござりまするが――」「何じゃい。退屈払いでもしてくれると申すか」「致しまする段ではござりませぬ。日頃御贔屓に預りまするお礼方々、今宵深川へお供させて頂きとうござりまするが、いかがでござります」「深川はどこじゃ。女子がおるか」「御前は御名代(おなだい)の女ぎらい、――いいえ、おすきなようなお嫌いなような変ったお気性でござりますゆえ、手前にいささか趣向がござります。女子(おなご)もおると思えばおるような、いないと思えばいないようなところでござります」 さすがは団十郎です。主水之介ほどの男を招くからには、何かあッと言わせるようなすばらしい思いつきがあるらしい口吻(くちぶり)でした。「気に入った。その言い草が面白い。主水之介も嫌いなような好きなような顔をして参ろうぞ。早う舞台を勤めい」「有難い倖(しあわ)せでござります。お退屈でござりましょうが、ハネるまでこの楽屋ででも御待ち下さりませ」 その大切りのひと幕が終ったのは、街にチラリ、ホラリと夏の灯の涼しい夕まぐれでした。「では、お約束の趣向に取りかかりますゆえ、少々お待ち下さりませ。――おい。誰か、若い者、若い者は誰かおりませぬか」 番頭を呼び招くと団十郎は、何の趣向にとりかかろうというのか、小声でそっと命じました。「さき程ちょっと耳打ちしておいたから来て下さる筈だ。上方(かみがた)の親方を呼んで来な」「いいえ、お使いには及びませぬ。参りました」 まるで声は女です。恥ずかしそうに身をくねらせながら、鬘下地(かつらしたぢ)の艶(えん)な姿を見せたのは、上方下りの立女形(たておやま)上村吉三郎でした。「お初に……」「おう。主水之介じゃ。世の中がちと退屈でのう。楽屋トンビをしておるのよ。舞台は言うがまでもないが、そうしておる姿もなかなかあでやかじゃのう」「御前が、御笑談ばっかり……。江戸の親方さん、では、身支度に――」「ああ、急いでね。早乙女のお殿様のお目の前で女に化(な)ってお見せ申すのも一興だから、一ツ腕によりをかけて頼みますよ」「ようます」 吉三郎の姿は、みるみるうちに女と変りました。しかも只の女ではない。持ち役そのままの傾城姿(けいせいすがた)、奥州に早変りしたのです。いや、その声は言うもさらなり、言葉までがすっかり吉原育ちの傾城言葉に変りました。「ごぜん、どうざます。女子(おなご)に見えますかえ。およろしかったら、わちきに酌なとさせておくんなまし……」「わはは、そうか、そうか、団十郎(なりたや)め、心憎い趣向をやりおった。女子(おなご)がおると思えばおるような、いないと思えばいないようなと申したはこのことか。いや、いないどころか立派な女子じゃわい。主水之介、苦労がしとうなった。どうじゃ、奥州、いっそ成田屋を撒(ま)いてどこぞでしっぽり濡れてみるか」「お口さきばっかり……。では成田屋さん、お伴(とも)させて頂きんしょう」 櫛(くし)、こうがい、裲襠(うちかけ)姿のままで吉三郎が真ん中、先を成田屋、うしろに主水之介がつづいて、木挽町(こびきちょう)の楽屋を出た三挺(ちょう)の列(つら)ね駕籠は、ひたひたと深川を目ざしました。 すだれ越しに街の灯がゆれて、大川端は、涼味肌に泌(し)みるようです……。 さしかかったのが江戸名代の永代橋。「あの、もうし、かご屋さん……」 渡り切ると、不意に簾垂(すだ)れの中から、吉三郎の奥州が、もじもじしながら恥ずかしそうに呼びとめました。「ちょっと、あの、かごを止めてくんなんし……」「へえへえ。止めますがお気分でもわりいんですかい」「いいえ、あの、わちき、――おししがやりたい……」 主水之介の目が簾垂れの中で、思わずピカリと光りました。消え入るような声で恥じらわしげに、おししがやりたいと言ったその声は、何ともかとも言いがたくなまめかしかったからです。 ――しかもその身のこなし! どう見てもそれは男ではない。「ごぜん、ごめんなんし……」 パッと赤くもみじを散らして、消えも入りたげに、恥じらい恥じらい、駕籠の向うの小蔭へいって身をこごませると、さながらに女そのままの風情で用を足しました。 そのえも言いがたいなまめかしさ!……。 その身だしなみの言いようなきゆかしさ!……。「ああ、いい女形(おやま)だな……。名人芸だ」 思わず団十郎(なりたや)が感に堪えかねたように、すだれの中から呟きました。 主水之介もまた恍惚となって見とれました。 そのまに駕籠は大川端を下って料亭へ。       五「いらっしゃいまし!……」「あら! 成田屋さんじゃござんせんか。どうぞ! どうぞ! さあどうぞ……」 行きつけのうちと見えて、下へも置かない歓待ぶりです。 屋号は谷の家。 川にのぞんだ座敷には、いく張りかの涼しげな夏提灯がつるされて、青い灯影(ほかげ)が川風にゆれながら流れ散って、ひとしおに涼しげでした。「ま! 花魁(おいらん)も……」「傷の御前も……」 婢(おんな)たちは、目が高いと言っていいか、低いと言っていいか、主水之介をそれと看破(みやぶ)って成田屋、おいらん、二人が取巻きの川涼みと思ったらしく、忽ちそこへ見る目もさらに涼しい幾品かの酒肴(しゅこう)を運びました。「おいらん、一献(こん)汲むか」「あい。お酌いたしんす……」「のう、成田屋」「はッ」「は、とは返事がきびしいぞ。市川流の返事は舞台だけの売り物じゃ。もそっと二枚目の返事をせんと、奥州に振られるぞ。さきほどのおししは、十万石位のおししだったのう」「あんなことを! 憎らしい御前ざます。覚えておいでなんし。そのようなてんごうお言いなんすなら――」 くねりと身をくねらせて吉三郎の奥州が、やさしく主水之介を睨めながら、チクリと膝のあたりをつねりました。――こぼるるばかりの仇ッぽさ、退屈男上機嫌です。「痛い! 痛い! おししが十万石なら、この痛さは百万石じゃ。――のう、成田屋。昼間の喧嘩(でいり)も女がもとらしいが、そち、あの女を見たか」「いいえ、御本尊にはお目にかかりませぬが、番頭どもがきき出して参った話しによると、曲輪上りだそうでござります。玄人(くろうと)でいた頃、あの二人が張り合っていたそうでござりましてな、売ったお武家さまは、腰本治右衛門とかおっしゃるお歴々、売られたお方は湯島とやらの町絵師とかききました。ところがいぶかしいことにはその絵師の住いに、ときどきどろどろと――」「出るか!」「尾花のような幽霊とやらが折々出ると申すんですよ。それもおかしい、売った工合もおかしい、御前のお扱いをうけて、あの場はどうにか無事に納まりましたが、あとで何かまたやったんではないかと、番頭どもも心配しておりましてござります」「のう」「また喧嘩に花が咲きましたら、何をいうにも対手は七人、それにお武家、先ず十中八九――」「どくろ首の入れ墨男が負けじゃと申すか」「ではないかと思いまする。狂言の方ではえてして、あの類(たぐい)の勇み肌が勝つことに筋が仕組まれておりまするが、啖呵(たんか)では勝ちましても、本身の刄先が飛び出したとなりますると、筋書通りに参りますまいかと思いまする」「いや、そうでない。喧嘩とても胆(きも)のものじゃ。抜身の二本三本あの度胸ならへし折ろうわい」「いいえ、やられましてござります……」 そのとき不意でした。突然、不気味に言った声と一緒に、するするとうしろの襖が開くと、降って湧いたかのように、そこへ姿を見せた男がある。血達磨(ちだるま)のように全身朱(あけ)に染って、喘(あえ)ぎながら手をついているのです。「ま! 怕い!……」 すがりついた吉三郎の奥州を抱きかかえながら、ギョッとなって主水之介も目を瞠(みは)りました。「おう! そちは!」 同時におどろきの声がはぜました。 誰あろう、十五郎なのです、血に包まれたその男こそは、今噂をしたばかりの下総十五郎だったのです。       六 血を見て、傷を見て、いたずらにうろたえるような退屈男ではない。主水之介は、しんしんと目を光らして、十五郎の先ず傷個所を見しらべました。 右腕に二カ所、左肩に一カ所、腰に一カ所、小鬢(こびん)に一カ所、背の方にもあるらしいが、目に見えるは以上の五カ所です。 しかし血は惨(むご)たらしい程に噴いていても、傷は皆浅い。「女! 焼酎を一升ほど持って参れ。なにはともかく手当をしてやろう。襦袢(じゅばん)でも肌衣でもよい、巻き巾になりそうなものを沢山持って参れ」 諸事無駄もなく、また手馴れたことでした。 団十郎も手を貸し、吉三郎のおいらんも片袖をくわえて甲斐々々しく手伝い、血止めの手当が出来てしまうと、下総十五郎がまたすばらしく精悍(せいかん)なのです。「焼酎がヒリヒリと泌みていい心持がいたしやす。ぶしつけでござんすが、景気づけに一杯呑ましておくんなさいまし」 激痛をこらえて、歪んだように笑うと、なみなみ注いだ大盃をギュウと一気に呑みほしながら、ぶるぶると身ぶるいを立てました。 主水之介の声が泳ぎ出しました。「小気味のよい男じゃのう。対手はさっきのあれか」「そうでござんす。喧嘩両成敗じゃ、おまえらも小屋を出ろと、殿様がお裁きなすったんで、御言葉通り出るは出たんですが、出れば刄物三昧(ざんまい)になるは知れ切ったこと、――ええ、ままよ、おれも下総十五郎だ、江戸で膾斬(なますき)りになってみるのも、地獄へいってからの話の種だと、男らしく斬られる覚悟をしたんですが、妹という足手まといがござんす。どうにかして女たちふたりを逃がさなくちゃならねえ、しかし、逃がすにはあの通りの真ッ昼間、日の暮れるまで待とうとお茶屋で待って、こっそりふたりを裏から駕籠で落してから、あっしひとりでいのちを張りにいったんでござんす」「喧嘩の花はどこで咲いた」「小屋を出ると、案の定黒鍬組の奴等が、今出るか今出るかと待っていやがったとみえて、来いというからあの前の河岸(かし)ッぷちへいったんでござんす。抜いたのは手下のあの六人でした。さすがに腰本治右衛門だけや抜かなかったところが親分でござんす」「得物(えもの)もあるまいに、よくそれだけの傷で済んだものじゃのう。どうしてまたその姿でここへ参った」「そのことでござんす。こっちは只の素人(しろうと)、向うはともかくも二本差(りゃんこ)が六匹、無手の素町人が六人の侍を対手にして斬り殺されたと世間に知れたら、下総十五郎褒め者になっても死に恥じは掻くめえと、いのちを棄てる覚悟でござんしたが、斬られているうちに、ふいッと妹たちふたりのことを思い出したんでござんす。喧嘩のもとというのは妹のあの小芳、死ぬあっしゃいいが、あとで黒鍬組の奴等がきっと何かあのふたりにあくどい真似をするだろうと思いつきましたんで、こいつうっかり死なれねえ、死ぬにゃどなたかに妹たちふたりの身の上を頼んでからと、御迷惑なことですが、ふと気のついたのはお殿様のことでござんした。男が気ッ腑を張ってお頼み申したら、お眉間傷にかけても御いやとはおっしゃるまいと、地獄の一丁目から急に逃げ出して、楽屋の中へ駈け込んだんでござんす。ところが、お殿様たちはこっちへもうひと足違い――成田屋さんのお弟子さんでござんしょう、大層もなく御親切なお方がひとりおいでなすってな、行った先は深川(たつみ)の谷の家だ、気付けをあげます、駕籠も雇うてあげます、すぐにおいでなさいましと、いろいろ涙のこぼれるような御介抱をして下さいましたんで、こんな血まみれの姿のまますぐ、おあとをお慕い申して来たんでござんす」「ほほう、そうか。では主水之介にそちの気ッ腑を買えと申すんじゃな」「十五郎、無駄は申しませぬ。あっしの気ッ腑はともかく、妹たちは惚れ合った同士、不憫(ふびん)と思召しでござりましたら、うしろ楯となってやって下さいまし……」「嫌と申したら?」「………」「人の喧嘩じゃ、身共の知ったことではない、嫌じゃ勝手にせいと申したら何とする?」「………」「どうする了簡(りょうけん)じゃ」「いたし方がござんせぬ」 さみしそうな声でした。あの気性なら、この気性を買って下さるだろうと思ったのに、当てがはずれたか! ――口では言わなかったが、十五郎は急にこの世がさみしくなったとみえるのです。全身これ精悍と思われた男が、しょんぼり立ち上がると、生血にもつれたおどろ髪を川風にそよがせながら、しょんぼりと出て行きました。「まてッ」 刹那でした。ひとたび命を張れば豹虎(ひょうこ)のごとく、ひとたび悲しめば枯れ葉のごとくに打ち沈んで行くその生一本の気性が、こよなくも主水之介の胸を衝(う)ったのです。「眉間傷貸してやる! 妹の住いはいずれじゃ」「え! じゃ、あの!……」「眉間傷に暑気払いさせてやろうわい。小芳とやらの住いはいずれじゃ」「十五郎、うれしくて声も出ませぬ。神田の明神裏の篠原梅甫というのが配(つ)れ合いでござんす。手前、ご案内いたします……」「無用じゃ。その怪我ほってもおかれまい。そちはどこぞへ隠れて傷養生せい。成田屋、その方も江戸ッ児じゃ。下総男にひと肌ぬがぬか」「よろしゅうござります。医者のこと、隠れ家のこと、一切お引きうけいたしましょう。たんと眉間傷を啼かしておいでなさいまし」「味を言うのう。吉三郎のおいらん、浮気するでないぞ」「あんなことを……。ぬしさんこそ、小芳さんとやらに岡惚れしんすなえ」「腰本黒鍬左衛門とはちと手筋が違うわい。アハハ……。世の中にはまだ退屈払いがたんとあるのう。女共、気まぐれ主水之介、罷(まか)り帰るぞ。乗物仕立てい」 眉間傷の出馬となると、主水之介の声までが冴えるのです。――ゆらゆらゆれて行く駕籠の右と左りに、江戸の夏の灯の海が涯なくつづきました。       七 鐘が鳴る……。 そんなにふけたわけではないが、明神裏というと元々宵の口から、街の底のようなさみしい街なのです。「これか。惚れた同士の恋の巣は、どこかやっぱり洒落(しゃれ)ておるのう。駕籠屋ども、すき見するでない。早う行け」 灯影一ツ洩れない暗い玄関先へ、主水之介はずかずかと這入りました。 右手の寒竹の繁みが、ザアッと鳴った。 生き埋めの井戸の上のあの繁みなのです。 しかし、何も出たわけではない。黒い影も白い影も何の影もない。 うちの中もしいんと静まり返っているのです。 仔細にのぞいてみると、奥の座敷あたりに灯の影がある。 退屈男はどんどんと上がりました。 梅甫と小芳とがその灯の蔭で抱き合って、びっくりしながら、青ざめつ、目をみはりつつ、ふるえているのです。「どうした!」「………?」「何をふるえているのじゃ。昼間小屋で会うた主水之介ぞよ。どうしたのじゃ」「あの、ほ、ほんとに、傷(きず)のお殿様でござりますか!」「おかしなことを申すのう、主水之介はふたりない。兄が駈けこんで来たゆえ参ったのじゃ。何を怕(こわ)がっているぞよ」「兄!……。あの、十五郎がいったんでござりまするか!」「そうよ。ほんの今深川まで血を浴びて身共を追っかけて来たゆえ、眉間傷の供養にやって来たのじゃ。何をそのようにびっくりしているのじゃ」「いいえ! そ、そんな馬鹿なことはありませぬ! ある筈がござりませぬ!」 真ッ青になると、梅甫が突然実に意外なことを言ってふるえ出しました。「あ、兄が、十、十五郎が、深川なぞへ行かれる筈がござりませぬ。兄はほんの今しがた血を浴びて、ふわふわとここへ来たばかりでござります」「なに!」「うそではござりませぬ。それも二度、つい今しがたふわふわとその庭先へ来たばかりなんです。髪をみだして、血を浴びて、しょんぼりとそこの暗い庭先へ立って、にらめつけておりましたんで、どうしたんですとおどろいて声をかけたら、俺は喧嘩で斬られて死んだ、気になることが一ツあって行かれるところへも行かれないから、小芳に言いに来たんだ。この屋敷には生き埋めの井戸があってよくない、住んだのが因果だ、祟(たた)りがあるから夫婦別れをしろ、別れないと兄は恨むぞ、斬られたのもみんなおまえらのせいだ、兄が可哀そうなら今別れろ、別れないと何度でも迷って来てやるから、と二度が二度うらめしそうに言って、ふわふわと庭の向うの闇の中へ消えましたんで、ふたりがこの通りふるえていたところなんです……」 不思議きわまる言葉でした。 下総十五郎にふたりある筈はない。深川へ来た十五郎が嘘の十五郎か、こっちへ現れた十五郎が本当の十五郎か、どっちかの十五郎が怪しむべき十五郎なのです。 主水之介の目がキラリと光りました。「まだ出ると申したか」「今別れろ、別れると約束するまでは何度でも迷って来るぞと、気味のわるいことを言いのこして、ふわふわと消えていったんでござんす」 言うか言わないかに、ふわりと薄暗い庭先へ浮いた影がある。 血を浴びたおどろ髪の十五郎なのです。 刹那。「あッ」 と言ってその十五郎がおどろいたのと、「まてッ」 叫んで主水之介が庭へ飛びおりたのと同時でした。 逃げ走る影をみると、同じ姿の同じ血を浴びた十五郎がふたりいるのです。「たわけッ。化けたかッ」 声と一緒に泳いで五尺、主水之介の手が手馴れの一刀にかかったと見るまに、見事な一斬り、五千両が程の涼しさでした。すういと薙(な)いでおいて、逃げのびようとしていた今ひとりの十五郎へ躍りかかると、「面体みせい!」 襟首押えて引きすえた下から、声がもうふるえているのです。「相すみませぬ。十、十五郎ではござりませぬ。お見のがし願わしゅうござります。手、手前でござります」「控えろッ。どこの手前かその手前を見るのじゃ。梅甫、灯(あか)りを持てい!」 灯りをさしつけて見しらべると、傷なぞある筈はない。血は塗(ぬ)った血、おろか千万なこのつくり十五郎は、まぎれもなく昼間森田座(こびきちょう)で見かけたあの黒鍬組の小侍のひとりなのです。「たわけがッ。傷の早乙女主水之介を何と心得おるぞ。腰本治右の差図か!」「そ、そ、そうなんでござります。おまえらふたり、十五郎に化けて、かようかように梅甫夫婦を脅(おど)して来いと言われましたゆえ、迷って出たのじゃ、今すぐ別れろと、うまうまひと狂言書いたのでござります」「夜な夜な玄関先の寒竹の繁みの中とやらへも、白い影が出るとか申したが、それもおまえらの仕業(しわざ)か」「相済みませぬ。あそこの生き埋めの井戸というのがあるのを幸い、脅しつけろ、と腰本様がおっしゃりましたゆえ、変化(へんげ)の真似をしたのでござります……」「たわけものめがッ。その方共も黒鍬組のはしくれであろう。下賤者ではあろうとも黒鍬組はとにもかくにも御直参の御家人じゃ。他愛もない幽霊の真似なぞするとは何のことかッ。腰本治右に申すことがある。少し痛いが待て。――梅甫、料紙(りょうし)をこれへ持参せい」 足で踏んまえながら、さし出した筆と紙を手にとると、主水之介はさらさらと書きしたためました。「早乙女主水之介、傷供養に喧嘩を買った。いつでも退屈払いに参ってつかわす。汝、お手かけ馬の権を藉(か)りて挑(いど)み参らば、主水之介、眉間傷の威を以って応対いたそう。参れ」 くるくると巻いてその果し状を小柄(こづか)へ結(ゆわ)いつけると、「少し痛いぞ。天罰じゃ。我慢せい」 プツリと背中の肉を抉(えぐ)って小柄を縫いとおしました。 ひいひいと身をよじって悲鳴をあげた小侍を、どんと蹴起しながら小気味よげに言い放ちました。「十五郎はもっと痛い目に会うているわッ、たわけものめがッ。いのちがあるだけ倖(しあわ)せじゃ。早う飛んで帰って腰本治右にしかじかかくかくとあることないこと搗(つ)きまぜて申し伝えい。アッハハ。……ずんと涼しゅうなった。梅甫夫婦また来てやるぞ。売られた喧嘩でも喧嘩のあとはまた、しっぽりとしていいもんじゃ。たんと楽しめ」 ぽたぽたと血を撒きながら、飛んでいった小侍のあとから、退屈男の颯爽とした姿がゆらりゆらりと涼しげに街の灯の中へ遠のきました。       八「アッハハ……。罷り帰ったぞ。兄は機嫌がよいぞ」 いとも機嫌よく帰っていったところは、妹菊路と小姓京弥と、あでやかなお人形たちが待っていたおのが屋敷です。 待っていたというものの、この美しく憎らしやかな人形たちは、兄主水之介のいない方がいいとみえて、なんということもなく戯(たわ)むれに戯(たわ)むれていた手をパッと放すと、ふたりとも真赤になって迎えました。「おかえり遊ばしませ……」「何じゃい。気の抜けたころおかえり遊ばせもないもんじゃ。煮て喰うぞ。アッハハハ。兄が留守してうれしかったか」「ああいうことばっかり……。ご機嫌でござりますのな」「機嫌がようてはわるいかよ」「またあんなことばっかり……。どこへお越しでござりました」「あっちへいってのう」「どこのあっちでござります」「鼻の先の向いたあっちよ」「またあんなことばっかり……。わたし、もう知りませぬ」「わたしもう知りませぬ。わッははは。怒ったのう。おいちゃいちゃの巴御前(ともえごぜん)、兄が留守したとても、あんまり京弥とおいちゃいちゃをしてはいかんぞよ。兄はすばらしい恋の鞘当(さやあて)買うてのう。久方ぶりで眉間傷が大啼きしそうゆえ上機嫌じゃ。先ず早ければあすの朝、お膳立てに手間をとれば夕方あたり、――果報は寝て待てじゃ。床取れい」 心待ちしながら上機嫌でその朝を迎えたのに、しかし腰本治右衛門からは、何の音沙汰もないのです。 夕方までには、何か仕かけて来るだろうと待っていたが、やはりないのでした。 二日経っても来ない。 三日経っても来ない。「腰本治右(じえ)は意気地がのうても、娘は将軍家の息がかかっておるという話じゃからのう、おてかけ馬に乗って来そうなものじゃが――」「何でござります。お将軍さまのお息がかかるというのは何のことでござります」「おまえと京弥みたいなものよ」「菊路はそんな、京弥さまに息なぞかけたことござりませぬ」「アハハ。かけたことがなければ急いでかけいでもいい。このうえ見せつけられたら、兄は焼け死ぬでのう。あすは来るやも知れぬ。来たら分るゆえまてまて」 しかし、四日が来たのにやはり何の沙汰もないのです。 五日が経(た)ったがやはりない。 こっちへは何の挑戦がなくとも湯島の方へ何か仕掛けたら、梅甫から急の使いでも来そうなのに、それすらもないのです。 いぶかしみつつ六日目の夕方を迎えたとき、京弥が色めき立って手をつきました。「来たか!」「はッ」「何人じゃ」「ひとりでござります」「なに、ひとり?」「このようなもの持参いたしました」「みせい!」 さし出したのは、すばらしくも贅沢(ぜいたく)きわまる文筥(ふばこ)なのです。 しかし、中の書状に見える文字(もんじ)は、またすばらしくもまずい金釘流なのでした。「てまえごときもの、とうてい、お対手は出来申さず候。ついてはおわび旁々(かたがた)、おちかづきのしるしに、粗酒一献(こん)さしあげたく候間、拙邸(せってい)までおこし下さらば腰本治右衛門、ありがたきしあわせと存じ奉りあげ候」 粗酒一献とあるのです。 拙邸ともある。「わッははは。黒鍬組の親方、漢語を使いおるのう。拙邸と申しおるぞ。使いはいずれじゃ」「お玄関に御返事お待ち申しておりまする」「今行くと伝えい! 乗り物じゃ。すぐ支度させい!」「御前、おひとりで?」「そうだ。わるいか」「でも、もし何ぞよからぬ企らみでもござりましたら――」「企らみがあったら、ピカリと光るわ。江戸御免の眉間傷対手(あいて)に治右(じえ)ごとき何するものぞよ。あとで菊路とおいちゃいちゃ遊ばしませい。わッははは。六日待たすとはしびれを切らしおった。いつ罷りかえるか分らぬぞ」 乗って本所長割下水を出かけたのが日暮れどき。 番町の治右衛門邸へ乗りつけたのが、かれこれもう初更(しょこう)近い刻限でした。 成上がり者ながら、とにもかくにも千石という大禄を喰(は)んでいるのです。役がまたお小納戸頭(おなんどがしら)という袖の下勝手次第、収賄(しゅうわい)御免の儲け役であるだけに、何から何までがこれみよがしの贅沢ぶりでした。「早乙女の御前様、御入来にござります」「これはこれは、ようこそ。さあどうぞ。御案内仕りまする。さあ、どうぞ」 ずらずらと配下の小侍が三四名飛び出すと、下へもおかぬ歓待ぶりが気に入らないのです。 導いていった座敷というのも油断がならぬ。 酒がある。 燭台(しょくだい)がある。 ずらずらと広間の左右に八九名の者が居並んで、正面にどっかと治右が陣取り、主水之介の姿をみるや否や座をすべって、気味のわるい程にもいんぎんに手をつきつつ迎えました。「ようこそお越し下さりました。酒肴(しゅこう)の用意この通りととのいおりまする。どうぞこちらへ……」 どんな酒肴か、槍肴(やりざかな)、白刄肴(しらはざかな)、けっこうとばかり退屈男はのっしのっしと這入って行くと、座敷の真中にぬうと立ちはだかりました。       九 その夜ふけ……。 丑満近(うしみつちか)い本所あたりは、死の国のような静けさでした。 もうおかえりか、もう御戻りの頃であろうと、寝もやらず兄の帰りを待ったが、しかし主水之介は、番町の腰本治右屋敷へ乗り込んでいったきり、待てど暮せど一向に帰る気色(けしき)もないのです。 るすを守る京弥と菊路のふたりは、当然のごとくに不安がつのりました。「ちとおそうござりますのな。どうしたのでござりましょう。大丈夫かしら?」「………」「なぜお黙りでござります! 菊がこんなに心配しておりますものを、あなたさまは何ともござりませぬのか。もう他人ではない筈、いいえ、菊の兄ならあなたさまにもお兄上の筈、一緒に心配してくれたらいいではありませぬか」「心配すればこそ、京弥もこうして、さきほどからいろいろと考えているのでござりまするよ」「あんなことを! 心配していたら、御返事ぐらいしたとていいではありませぬか。憎らしい……。このごろのあなたさまは何だかわたくしにつれなくなりましたのな。そのような薄情のお方は――」「イタイ! イタイ! なにをなさります! そんなところを抓(つね)ってなぞして痛いではありませぬか!」「いいえ、つねります! 抓ります! もっとつねります!……」 同じ心配をするにしても、このふたりの心配振りは諸事穏やかでない。 だが、肝腎の主水之介は、いつまで経っても帰らないのです。 しらじらとして、ついに夜があけかかりました。 しかし、沓(よう)として消息はない。「どうしたのでござりましょうな。いかなお兄上さまでも、少しおかえりがおそうござります。それにお招きなさった方は、素姓(すじょう)が素姓、わたくし何だか胸(むな)騒ぎがしてなりませぬ」「ゆうべ届いた腰本の書面はどこにござります? ちょっとお貸しなされませい」 読み直してみたが、しかしそれには、てまえごときもの、とうていお対手は出来申さず候、おちかづきのしるしに粗酒一献(こん)さしあげたく、拙邸までお越し下さらば云々と書いてあるばかりなのです。 何でもないと思えば何でもない。 何か企らみがあると思えば思えないこともない。 突然、京弥のおもてに、さッと血の色がのぼりました。「お支度なさりませ!」「いってくれまするか!」「ぼんやり待っておりましたとて、心配がつのるばかりでござります。何ぞ容易ならぬこと、起きているやも計られませぬ。お伴仕ります!」 緋じりめん鹿ノ子絞りの目ざめるような扱帯(しごき)キリキリと締め直して、懐剣(かいけん)甲斐々々しく乳房の奥にかくした菊路を随えながら、ふたりの姿は朝あけの本所をいち路番町に急ぎました。 陽があがって間もないのに、江戸の六月は朝まだきから蒸し風呂のなかに這入ったような暑さです。「あれじゃ、あれじゃ。あの大きな屋敷がそうでござります」「どのようなことがあっても、狼狽(うろた)えてはなりませぬぞ。京弥が抜くまでは抜いてはなりませぬぞ」 うしろに菊路を庇(かば)って、油断なく門前へ近づきました。 だが、屋敷のうちはしいんと静まり返って、ことりとの音もない。 八文字にひらかれた門から大玄関まで、打ち水さえもが打ってあって、血の嵐、争闘、殺陣は元よりのこと、騒ぎらしい騒ぎがあったらしい跡もなく、不気味なほどに静まり返っているのです。 しかしそれだけに京弥たちふたりは、一層不安がつのりました。 この静まり方は尋常な静まり方ではない。とうにもう主水之介を陥(おと)し入れて、あと片附けまでが済んだようにも思えるのです。 京弥の目はいつのまにかほのぼのとして美しい殺気に彩(いろ)どられました。「頼もう! 頼もう!」「………」「急用で参ったものじゃ。取次の者はおいで召さらぬか。頼もう! 頼もう!」 二度目の声でようやくに小侍(こざむらい)がそこへ手を突いたのを見迎えると、京弥は殺気におどる声であびせました。「侮(あなど)ったことを申すと、手は見せませぬぞ! 早乙女の屋敷から参った者じゃ。御前はいずれでござる!」「ああ、なるほど。お暑いところをようこそ。少々お待ち下されませ」 奥へ消えていったかと思うまもなく、再び姿をみせて手をつくと、言葉までが実に気味のわるいほどいんぎん鄭重(ていちょう)なのです。「主人は火急の御用向にて只今御登城中にござりまするが、お出かけぎわにお言いのこしなされたとのことでござりました。早乙女家の方々が御前をお迎いに参られるやも知れぬ。参られたならばねんごろに御案内申せとの御伝言でござりますゆえ、手前これより御案内申しまするでござります。御遠慮なくどうぞあれへ――」 指さしたのは駕籠である。 それも只の乗物ではない。二挺ともにためぬり、定紋(じょうもん)入りの屋敷駕籠なのでした。「まだ計るつもりか!」「計るとは?」「御前もこの手でたばかったであろう! われら二人も計るつもりか!」「滅相もござりませぬ。あの通り陸尺(ろくしゃく)どもは只の下郎、御案内いたすものはこの手前ひとり、計るなぞとそのような悪企み毛頭ござりませぬ。早乙女の御前は少々他言を憚(はばか)るところに至って御満悦の体にてお越しにござりますゆえ、そこまで御案内を申上げるのでございます。どうぞお疑いなくお乗り下されませ」「よしッ。乗ってやろう。菊どの、御油断あってはなりませぬぞ」「あなたさまも!」 乗るのを待って駕籠は、小侍を道案内に立てながら、しずしずと歩き出しました。       一〇 土手沿いに午込御門へ出て、そこから濠ばた沿いに右へ道をとり、水戸邸の手前からさらに左へ折れて、どうやら駕籠は伝通院を目ざしているらしいのです。 目ざしているところも不思議だが、今か今かと油断なく駕籠の中から左右へ目を光らしていたのに、出る気色(けしき)もない。 やがて乗りつけたところは、やはり伝通院でした。開基(かいき)は了誉上人(りょうよしょうにん)、始祖(しそ)家康(いえやす)の生母がここに葬られているために、寺領六百石を領して、開山堂、弁財天祠(べんざいてんし)、外久蔵主稲荷(たくぞうぬしいなり)、常念仏堂(じょうねんぶつどう)、経堂(きょうどう)、無縁塚(むえんづか)坊舎(ぼうしゃ)が三カ寺、所北寮(しょけのりょう)が百軒、浄土宗(じょうどしゅう)関東十八檀林中(だんりんちゅう)の随一を誇るだけあって、広大壮麗言うばかりない大伽藍(だいがらん)です。「ここからはお乗物さし止めでござりますゆえ、お拾いにてどうぞ。手前御案内いたしまするでござります」 山門のまえで乗物をとめさせて、心得顔に小侍はさきに立ちながら、しんしんと静かな境内の中へ這入りました。 場所が寺です。 墓のあるお寺なのです。 もしやもうお墓に!……。「まてッ!」 京弥は抑え切れぬ胸騒ぎを覚えて、するどく呼びとめました。「われら、御前のむくろや新墓検分(にいばかけんぶん)に参ったのではない。不埓(ふらち)な振舞いいたすと容赦はせぬぞ!」「どうぞお静かに。ご案内せいとの主人言いつけでござりますゆえ、手前は只御案内するだけでござります……」 しいんとした声で言って、取り合おうともせずに小侍は本堂わきから裏へ廻ると、一杯の墓だ。 ハッとなったとき、だが、導き入れたところはそこではない。墓の中を通り越して、そこの柴折戸(しおりど)をしずかにあけると、目で笑いながら立っているのです。「ここにおいでか!」「さようでござります。伝通院自慢の裏書院でござります。今もまだたしかにおいでの筈、手前の役目はこれで終りました。どうぞごゆっくり……」 言いすてかとみるまに、もう一二間向うでした。 躊躇(ちゅうちょ)はない。京弥は脇差し、菊路は懐剣、にぎりしめながら高縁におどりあがって、ガラリと左右からぬり骨障子をあけた刹那、――あッとおどろいてふたりは棒立ちになりました。書院というは名ばかり、几帳(きちょう)、簾垂(すだ)れ、脇息(きょうそく)、褥(しとね)、目にうつるほどのものはみな忍びの茶屋のかくれ部屋と言ったなまめかしさなのです。 しかも、その几帳のわきには女がいるのです。年の頃二十二三。青ざおとした落し眉に、妖(あや)しき色香がこぼれんばかりにあふれ散って、肉はふくらみ、目はとろみ、だが只の女ではない。姿、容子、化粧(つくり)の奢(おご)り、身分のあるもののおてかけか寵姫(おもいもの)か、およそ容易ならぬ女でした。 その女の膝へまた主水之介が何と穏やかならぬことか、江戸にゆかりの眉間傷を軽くのせて、この世の極楽ここにありと言いたげに、悠々と膝枕の夢を結んでいるのでした。のみならず不思議なのはその女です。さぞやおどろくだろうと思いのほかに、気色(けしき)ばんでふたりが闖入(ちんにゅう)したのを見眺めると、ことさらに主水之介の首のあたりを抱きすくめながら、恋をえたことを見せびらかそうとでもするかのように、淫花(いんか)のごとく嫣然(えんぜん)と笑いました。 京弥は言うまでもないこと、妹菊路のろうばいはいたいたしい位でした。女遊び、曲輪通い、折々の退屈払いに兄主水之介がこの世の女どもとかりそめのたわむれはすることがあっても、こんなのは、寺の裏書院のかくれ部屋で素姓(すじょう)も計りがたい女と、かような目にあまる所業は今が初めてなのです。 菊路の美しい柳眉(りゅうび)は知らぬまに逆立ちしました。「何ごとでござります! お兄上!」「………」「この有様は何のことでござります! お兄上!」「御案じ申してはるばると御迎いに参ったのではござりませぬか! このはしたないお姿は何のことでござります!」 声に膝枕したまま薄目をあけて、物うげに見眺めていたが、こんな兄というものはまたとない。「よう。お人形さまたち、いちゃいちゃとやって来おったのう。アハハハ……。膝枕五千石という奴じゃ。後学のためにようみい。男女陰陽(なんにょおんよう)の道にもとづいてたわむれするはこうするものぞよ。どうじゃ、妬(や)き加減は? アッハハハ。では、罷りかえるかのう。……」 飄々(ひょうひょう)として立ち上がると、けろりとしているのです。「いかい御馳走さまで御座った。御縁があらばまたお膝をお借り申したい。これにて御免仕る。両人かえるぞ。参れ」 すうと出て行きました。       一一 不審(ふしん)なのは女の素姓です。 京弥と菊路の目と顔が探るように左右からつめよりました。「あれなる女はいったい何ものでござります」「ききたいか」「ききたければこそお尋ねするのでござります。どこの女狐(めぎつね)でござります」「女狐なぞと申すと口が腫(は)れるぞ。あれこそはまさしく――」「何者でござります」「腰本治右の娘、将軍家御愛妾お紋の方よ」「えッ! ……。ほ、ほ、ほんとうでござりまするか!」「懸値(かけね)はない。びっくりいたしたか。なかなかの美人じゃ。別して膝の肉づきは格別じゃったのう」 格別どころの段ではない。将軍家御愛妾の膝に枕したとあっては、いかに主水之介、江戸に名代の傷の御前であろうとも、事が只ですむ筈はないのです。 京弥のおもても菊路の顔も血のいろを失いました。「飛んだことになりましたな。もしもこの一条が上様お耳に這入りましたら何となされます!」「何としようもない、先ず切腹よ」「それ知ってかようなおたわむれ遊ばしましたか!」「当り前よ。右膝は将軍家、左り膝は主水之介、恋には上下がのうてのう。美人の膝国を傾けるという位じゃ。切腹ですむなら先ず安いものよ。寄るぞ。寄るぞ。心配いたすと折角の顔に皺(しわ)がよる。そちたちも膝枕の工合、とくと見物した筈じゃ。やりたくば屋敷へかえって稽古せい」「なにを笑談仰せでござります! いつものお対手とは対手が違いまするぞ! かりにも将軍家、もしもの事がありましたならば――」「………」「御前!」「………」「お兄様!」「………」「殿!」 いち途(ず)の不安に京弥たちふたりはおろおろして左右からつめよったが、しかし主水之介はもう高枕です。屋敷へかえりつくと、ゆうべの膝枕を楽しみでもするかのようにそのまま横になって、かろやかな鼾(いびき)すらも立て初めました。「飛んだことになりましたな……。さき程番町の屋敷へ訪れたときの容子、案内(あない)していきましたときの容子、お紋の方様が治右衛門めの娘とあっては、まさしく腰本が仕組んだ企らみに相違ござりませぬ。主人は只今火急の用向にて登城中と申したが気がかり、今になにか御城中から恐ろしいお使者が参るに相違ござりませぬぞ」「な! ……。それにしてはお兄様の憎らしいこのお姿。こんなに御案じ申しあげておりますのに、すやすやとお休み遊ばして何のことでござりましょう。もし、お兄様!」「………」「お兄様!」 起きる気色もない。ことさらに落ちついているあたり、今に訪れるに違いない禍いのその使者を待ちうけているかのようにも見えるのです。 だが、不思議でした。 もう来るかもう来るかと、菊路たちふたりはおびえつづけていたのに、城中はおろか、どこからも使者らしい使者は来る気勢(けはい)もないのでした。 水の里本所は水に陽が沈んで、やがて訪れたのは夕ぐれです。高枕したまま起きようともしない主水之介の居間にもその夕やみが忍びよったとき、突然、玄関先で憚(はば)るように訪(おと)のうた声がある。 ハッとなって京弥が出ていったと思うまもなく、青ざめて帰って来ると主水之介をゆり起しました。「御前! 御前! ……。参りましたぞ!」「来たか」「来たかではござりませぬ。大目付様、おしのびで参りましたぞ」「大目付にも多勢(おおぜい)ある。誰じゃ」「溝口豊後守様(みぞぐちぶんごのかみさま)でござります」「ほほう、豊後とのう。智恵者が参ったな」 主水之介はようやくに起き上がりました。――大目付は芙蓉(ふよう)の間詰、禄は三千石、相役四人ともに旗本ばかりで、時には老中の耳目となり、時にはまた、将軍家の耳目となり、大名旗本の行状素行(ぎょうじょうそこう)にわたる事から、公儀お政治向き百般の事に目を光らす目付見張りの監察(かんさつ)の役目でした。その四人の中でも溝口豊後守と言えば、世にきこえた智恵者なのです。「ここへ通せ」 さすがにひと膝退って主水之介は下座。上座に直した褥(しとね)のうえに導かれて来たのは、目の底に静かな光りの見える微行(しのび)姿の豊後守でした。「ようこそ……」 目礼とともに見迎えた主水之介のその目の前へ、黙って豊後守はいきなり脇差しをつきつけると、声が静かです。「これをお貸し申そう。早乙女主水之介の最期を飾らっしゃい」「アハハ……。なるほど、ゆうべの膝枕の借財をお取り立てに参られましたか。なかなかよい膝で御座った。まさにひと膝五千石、切腹せいとの謎で御座るかな」「その口が憎い。ひと膝五千石とは何ごとでござる。江戸八百万石、お上が御寵愛のお膝じゃ。言うも恐れ多い不義密通、上のお耳にもお這入りで御座るぞ。表沙汰とならばお身は申すに及はず、お紋の方のお名にもかかわろうと思うて、溝口豊後、かく密々に自刄(じじん)すすめに参ったのじゃ。わるうは計らぬわ。いさぎよう切腹さっしゃい」「アハハハ。なるほど、五千石はちと安う御座ったか。いかさま八百万石の御膝じゃ。そうすればゆうべの片膝は四百万石で御座ったのう。道理でふくよかなぬくみの工合、世にえがたき珍品で御座りましたわい」 恐るる色もないのです。ピカリと眉間傷光らして、静かに言葉を返しました。「主水之介、もし切腹せぬと申さば?」「知れたことじゃ。今宵にもお上よりお差し紙が参るは必定(ひつじょう)、お手討、禄は没収、家名は断絶で御座るぞ」「智恵者に似合わぬことを申しますのう。もしもお紋の方、父治右衛門と腹を併(あわ)せて、知りつつ企らんだ不義ならば何と召さる。かような膳立てになろうとは承知のうえでこの主水之介、わざとお借り申した膝枕じゃ。どうあっても切腹せぬと申さば何と召さる!」「さようかせぬか……」 突然です。静かに見えた豊後守の目の底に冷たい光りがさッと走ったかと見えるや、何か第二段の用意が出来ているとみえて、そのまますうと玄関口へ消えました。 刹那。異様な気勢(けはい)です。
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