新橋
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著者名:北原白秋 

 私が東京に着いて一番に鋭く感じたのは新橋停車場の匂でした。門司ではバナナや鳳梨(あななす)の匂を嗅ぎながら税関の前に出るとすぐ煤烟のなかを小蒸汽に乗つて関門海峡を渡つたので都会と云ふ印象よりも殖民地といふ感が強かつた、究竟(つまり)、都会としての歴史や奥行といふものがなく出口と入口とが同一(いつしよ)になつてゐるからであらう。その他、神戸大阪京都名古屋と云ふ順序で東海道の各都会を通過しては来たものの、それはただ旅愁の対象として味ははれたに過ぎぬ。夜見た処は女の横顔(プロフイル)の様に月光と電気灯(でんき)とで美くしく、昼間一瞥し去つた所は汚ない芥蘚病(ひぜんやみ)の乞食の背部(せなか)を見るやうで醜かつたにせよ、何(いづ)れの停車場附近にも一種の明状し難い都会と田園とのアランジユメントがあつた。即ち汽車に附着(つ)いて来た新らしい野菜の匂が新聞やサンドウヰツチの呼声に交つてプラツトホームの冷え冷えした空気に満ちわたつてゐる。殊に売子の急がしい哀れげな声は人をして自分の旅中にある寂しさをしみじみと自覚させる。新橋はそれと違ふ。此処(こゝ)には調和と云ふよりも寧ろ旧都会と新市街との不可思議な対照(コントラスト)がある。東京の随所には敗残した、時代の遺骸(なきがら)の側(かたはら)に青い瓦斯の火が点(とも)り、強い色彩と三味線とに衰弱した神経が鉄橋と西洋料理(レストラント)との陰影に僅かに休息を求めてゐる。それで、その当時、私の乗つて居た汽車が横浜近くに来る頃から私の神経は阿片(オピウム)に点火して激しい快楽を待つて居る時の不安と憧憬とを覚えはじめた。都会が有する魔睡剤は煤烟である、コルタアである、石油である、瓦斯である、生々しいペンキの臭気と濃厚なる脂肪の蒸しっ[#「っ」はママ]ぐるしい溜息とである。神奈川辺から新しい材木とセメントの乾燥した粉が鎚や鶴嘴のしつきりなく音してゐる空に泌みこんで潮風に濡れて来る。夜だつたから猶更東京近しとの暗示が何となく神秘に聞えて、街から街へ殖えてゆく電気灯(でんき)の色までが、一刻一刻に少年のみづみづしい心を腐蝕してゆく中毒症の斑点の様に美くしく見えた。而(そ)してその時私は考へた、都会は美くしいが実に怖ろしい処だ、彼処(あすこ)には黄金、酒、毒薬、芸術、女、凡(すべ)てが爛壊(らんえ)に瀕してゐる。一度彼女(かのをんな)の冷酷なる微笑に魅せられた者は自己の破滅は予期しながら何時の間にかひきつけられて了(しま)ふ。そして迷ひ込んだが最後逃れやうたつて離れられるもんぢやない、次第に悪因縁は青い蛇のやうに柔らかに絡みつく、どうせ死ぬまでは白い歯形が霊の底までも喰ひ入らねば放すもんぢやない。
 燥々(いら/\)しながら立つて毛布(ケツト)をはたいた、煙草(シガア)の灰が蛇の抜殻のくづるる様にちる、私は熱湯の中に怖々(おづ/\)と身体(からだ)を沈める時に感ずる異様な悪感に顫へながら強ひて落着いた風をして沈(ぢつ)と坐つて見た。品川高輪芝浜を通り越す時分には、私は黒い際立つた建築や車庫や獣類の臭気に腐れたまま倒れかかつてゐる貨物車の影と、その湿つた九時頃の暗碧な夜の空に薄紫の弧灯(アアクとう)がしんみりした光を放つてゐるのを見た。愈(いよ/\)停車場の構内に着いたと思つた時には既に面と向つて驕奢な而(そ)して冷酷な都会にブツツカツてゐたのである。此処には最早(もはや)旅愁をそゝのかされるやうな物売の呼声を聞くことができぬ、意外に空気は急忙(あはた)だしいが厳粛なものであつた、私は押し流されるやうにして、この魔宮の正門に達する大理石の舗石(ペエブメント)の如く、又は、監獄へゆく灰白色の坦道に似た長いプラツトホームを顫へながら急ぎ足に歩いた時の心地は今にも忘れることができない。而(そ)して私が歩行(ある)きながら第一に受けた印象は清潔な青白い迄消毒されてゐる便所から泌み渡つてくるアルボースの臭気であつた。即ち都会の入口の厳粛な匂である。その他、停車場特有の貨物の匂、燻(くゆ)らす葉巻、ふくらかな羽毛襟巻(ボア)、強烈な香水、それらの凡てが私の疲れきつた官能にフレツシユな刺戟を与へたことは無論である。
 改札口へ出るとすぐ私は迎へにきてゐた数名の友人から取り巻かれながら、強ひて平気を装ひつゝ正面の階段へ押されて行つた。高貴な人々はここから幾組となく幌馬車を駆つてゆく、俥がゆく、電車がゆく。そしてそれらの行手に電気灯の黄色と白熱瓦斯の緑金色とが華やかに照り耀いてゐる市街が見えた。それが銀座だと教へられたばかり、美くしい『夜』の横顔(プロフイル)を遠くから見たままで、私は暗い烏森の芸妓屋(げいしやゝ)つづきの路次をぬけて、汚ないある街の某(なにがし)と云ふ素人下宿に辿りついた。そうして冷たい女主人の顔を見、友人の誇らしい浮薄な風采を見、牢獄(ひとや)同様に仕切られた狭い一室に、疲れはてた身体(からだ)を休めた時、つくづく私は何だか都会の幻影に欺かれてゐたやうな気がした。
 その後、私は寥しくなると何時も新橋停車場に出かけては五年前に経験した都会の入口の臭気と感覚とを新たに嗅いでくる。而して身も霊(たましひ)も顫へながらなほ新しい官能の刺戟を求めたかの時のみづみづしい心をあちらこちらと拾ふてあるくのが何時となしに私の習慣となつた。




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