東京人の堕落時代
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著者名:夢野久作 URL:../../index_pages/person969

   はしがき


 この稿は昨年末まで書き続けた「街頭より見たる新東京の裏面」の別稿である。記者は特にこの稿を作るためには、単に街頭観にのみ依らず、この方面に責任を持っている医師、教育家、司法官、興行者、その他多数の人々に御迷惑をかけて記事の正確を期した。そのような人々の意見とても、記者が実地に調査し且つ共鳴し得たところだけを記者の意見として責任を負うて書いたのであるから、一々氏名を挙げる事は遠慮した。本人の御迷惑になる意味もあるし、さもなくとも不公平になる点が多いから一様に差し控えた訳である。ここに謹んでお詫びをすると同時にお礼を述べておく。只(ただ)その中に警視庁の不良少年少女係後藤四方太氏はこの稿のために非常に有力なヒントを与えてくれた。特に記して謝意を表する事を許して頂きたい。
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   各方面の徴候



     和漢洋の堕落風俗

 東京人は今や甚だしい堕落時代を作っている。西洋風、支那風、日本風のあらゆる意味で堕落腐敗し糜爛(びらん)して行きつつある。
 その影響は日本全国に行き渡りつつある。仮令(たとい)これを一時の事と見ても、その影響はかなり永く後を引く虞(おそ)れがある。
 現在の日本人は「東京」を無暗(むやみ)に崇拝している。何でも東京が本場でなければならぬ。すべてのものは東京が最新式の最上等と心得ている。この意味から見て東京人の堕落はやがて日本人の堕落である。三百里先の事と思うのは昔の頭である。
 この現象がいつ迄続くか。浜口蔵相の節約主義がこれをどの辺(あたり)で喰い止めるか。
 この疑問が解決される時機は手近く見たところで今年の三四月であろう。毎年の花時(はなどき)……特に昨年の花時は東京の人気に一大変化を画した時であったから。
 しかし今の通りの勢(いきおい)ならば、東京人の堕落傾向はなかなか止まるところでない。却(かえっ)てこの花時を区切って全盛時代を見せるかも知れぬ。又は第二期の深刻味をあらわし始めるかも知れぬ。
 いずれにしてもこの春が問題である。この記事がそうした人気や風俗の移りかわりを見分ける標準となったら幸である。
 更に地方の特色の美しさや尊さを忘れて、東京を神様のように思っている人々のために、又はその子弟を東京に遣っている人々のために参考となったら、記者の苦心はどれ位酬いられるであろうか。

     警視庁の映画検閲官曰(いわ)く

 東京人の堕落時代を描き出す前に、取り敢ず読者の記憶を呼び起しておかねばならぬ事がある。
 昨冬二十六日付の九州日報夕刊に大略左のような記事が載っていた。

       ×         ×         ×

 大正十三年の一月から十一月まで警視庁で検閲した映画の数が一万八千巻、千六百呎(フィート)、切った長さが約六万呎(フィート)……以て如何に「活動」が盛(さかん)であるかがわかる。
 次に切ったフイルムを国別にして見ると、
      検閲巻数        同上呎数       切除呎数
日本物    七、九五四    六、九一七、三二一   三六、四三四
米国物    七、六九六    六、八一〇、五六三   一九、三三六
欧州物      九一三      八三二、七四八    三、七〇〇
合計    一六、五六三   一四、五六〇、六三二   五九、四七〇
 となる。即ち割合から見て日本映画は欧州物よりも二三割方多く切られているし、米国物に比べると殆ど二倍近く切られている。
 外国映画が教育に有害だと今頃云っている人は、本当に頭の古い人である。
 尚、右に就いて警視庁の興行係長長田島太郎氏は左のように説明を付け加えている。
「由来、大災害の後には人心が弛緩して、民衆の実生活も余程淫蕩に流れる。安政の大地震や明暦の大火の後にも、放逸な仮宅(かりや)生活や、諸職人の金廻(かねまわ)りのよかった関係から、淫風蕩々たるものがあったことは史実の証明するところである。昨今、淫蕩場面の映画が歓迎されるのも、昨秋の大震災の民心に影響した結果であろうと思われる」云々。

     映画製作業者曰く

 東京郊外の或る大撮影所長は云う。
「活動の筋書欠乏は久しい話ですが、集まって来る原稿が皆狙いどころをそれているのにも困ります。先ず濃厚なところが七分、活劇的なところが二分、革命的な思想が一分といった割合で作れば大丈夫受けます。その中でも革命的な思想という奴は、ホンの筋を運ぶための背景位に取り扱って差支えないので、濃厚なところを主眼にして、ダレさせないために和漢洋各式の立廻りで気分を破って行くといったようなのが一番よろしい。つまり現代人の要求する場面は徹頭徹尾性的に深入りした場面で、ほかはホンのあしらいに過ぎませんネ」
 と。そこの撮影監督は又これに裏書して曰く、
「まったくです。近頃は甘物の連続でウンザリしているのです。大体わかり切った甘い材料を、どう料理したら飽きさせずに喰わせる事が出来るかと、毎日毎日そればかり苦心させられます。地震後は一層それが非道(ひど)くなったので、もう今ではこちらが中毒のフラフラ気味です。面白いのは地震ものが一向受けないのに、集まって来る脚本はどれもこれも地震を取り扱っていることです。一ツは当局初め一般の所謂(いわゆる)常識階級が、あの大地震を一種の教訓の意味にばかり考えて皆に宣伝するために、反感を起したものとも見えます。現在の東京人は『地震』と云うと――すぐに『ソラ又(また)天の何とかだ』と感づいて、出来る限りこれを避けよう、思い出すまい、そうして享楽しよう享楽しようとばかり考えているようです。地震の反動とでも云いましょうか」
 云々と。これ等の話は皆よく東京人の堕落時代を裏書している。

     痛切な悪魔の標語

 震災直後の東京ではライスカレー一皿で要求に応じた女が居たと甲(たれ)も乙(かれ)も云う。そのライスカレーは、玄米の飯に馬鈴薯と玉葱の汁をドロドロとまぜてカラシ粉をふりかけたもので、一杯十銭位であった。
 これ以上の高等なのも居たろう。これ以下の無茶なのも居たろう。とにもかくにも震災後間もない東京の人間は、人間性の美点と醜点とを極度までさらけ出した。その醜い半面のこうした傾向が如何に烈しいものであったかという一例がこれである。
 彼等東京人は食物に飢えたように性欲にも飢え渇いた。その烈しい食欲と性欲は、彼(か)の灰と煙の中でかようにみじめに交易された。
 彼等の自制力は地震で破壊された。土煙と火煙を吹いた。
「こうなればもう何でもいい」
 という投げやりの考え、六ヶ(むずか)しく云えば彼等は悪魔の標語を徹底的に味わった。
「必要の前に善悪無し」
 この悪魔の標語ポスターは今も尚、新東京の暗黒面の至る処にブラ下がっている。上中下各階級の人々は互にその同階級の人々と風儀を紊(みだ)し合っている。同時に上流は下層に、下層は上流に対して、益(ますます)その自由行動の範囲を広めつつある。

     性欲秘密薬と書画

 最近の東京では、性病又は性病予防等に関する秘密薬の売れ行きが盛である。Y書(学生語)出版も同時に大流行である。これ等の売薬や書籍は白昼堂々と店頭に曝(さら)されている。いずれも数年以前はその筋のお許しが出なかったものばかりである。
 これと同様に秘密の石版画、秘密のP・O・P、秘密の謄写版刷は、東京の暗(やみ)から暗(やみ)へ、恰(あたか)も独逸(ドイツ)の紙幣のように波を打ちまわっている。その価格も震災前の半分内外だという。
 このような商売をするものは、震災後、その筋の調(しらべ)の行届かぬのに乗じて非常に沢山出来たらしく、その商品は一時東京市中に生産過剰を来たした。一方に、被服廠その他の死体写真の秘密売買で呼吸を覚えた連中は、引続いてこの商売を引き受けたと伝えられる。
 現在では市内の商売が落ち付いて来た結果、このような生産物がよほど減ったらしいが、それでもかなり多い事はその筋の差押え高でわかる。

     怪しい大道商人

 以前東京では、縁日の出はずれ、浅草、神田、京橋辺(あたり)の露店の切れ目、活動館の付近、人通りの多い近所の蔭暗い処に、蝋燭(ろうそく)を一本立てて怪し気な絵を売買したものである。あとで見ると、忠臣蔵、弥次喜多、女と男の柔道の絵なぞで、買って少し行ってのぞいて見る間のねうちであった。中には本物もあったという。
 この商売が今は動的となった。
 日が暮れて九時頃になると、見すぼらしい風をして往来に出る。番頭風もある。労働者風もある。いずれにしても見すぼらしくなければいけないそうである。程よい人間を見るといきなり擦寄(すりよ)る。絵をチラリと見せて、一枚一円とか二円とか云う。相手を恐れるような、脅迫するような、そうして今にも逃げ出しそうな態度を見せるのが一番有効だそうである。これは死体写真の売り方と同一で、慣れると相手に品物を渡す。自由に見せながら、見え隠れについて行く。程よいところで金をせびる。もっと熟練すると、白昼、繁華な往来でもやれるそうである。
 同じ夜の九時過に、前のよりすこし上等の風をしてお客を探し出す。二三間離れた処から帽子を脱いで、心安げな、意味ありげな笑顔を見せて近付く。品物は見せずに、肩を並べてあるきながらお客の顔をのぞき込んで、
「突然失礼ですが、例の秘密写真は如何で。一枚一円から二十円までいろいろあります。ブックもあります」
 と露骨に云う。声は低いがハッキリしている。道でも聴くか、煙草の火でも借りるような態度である。そうして相手がうなずくと、共同便所や自動電話に連れ込む。
 この売り方は最新式で、二十円云々は只相手の好奇心をそそるに過ぎぬ。一枚二十円の秘密写真ときくと、見るだけでも見たくなるのが人情だそうである。
 このような行商人? の中に、只美人の絵葉書だけを持っているのがある。これはどんな人間が買うか。いくらで買うか。何になるのか。後に職業婦人の項で説明する。
 東京市中の暗い処を歩いていると、時々この種の商人にぶつかる。バラックになってから、特に暗い横町が殖(ふ)えたから便利である。
 何々ビル、何々会社という処には、白昼、こうした商人が出没するという。実見はせぬが、事実であろうと思われる。

     その筋の取締(とりしまり)が弛んだ

 俗に云う禁止物に対するその筋の取締が、この頃では眼に見えてゆるやかになった。特に東京ではそう見える。
 裸体物を取り入れた公刊の絵葉書、書籍の表紙なぞが、九州よりも多く店頭に曝されている。展覧会の絵や彫刻、活動写真の濡れ場、接吻なぞの場面も同様に殖えた。
 その中でも活動の看板やビラに血をあしらったのが殖えて来た。これは九州方面も同様らしく思われるが、特に注意する価値がある。頽廃思想の産物である変態性欲と関係があるから。そうしてこの傾向は、目下、東京で盛に醸成されつつあるように記者の眼に見えるから。(後段参照)
 いずれにしても、二三年前と比べると隔世の感がする。
 尚、このようなあらわれの裡面には、堪切れぬ社会の要求が、ある拒み難い力となって当局を動かしているのではあるまいかと疑っている向きもある。参考のため書き添えておく。

     或る秘密画家の話

 或る日の正午、記者は日比谷交叉点付近のカフェーに腰を卸(おろ)して、注文の来る間ズボンのゴミを払っていた。
 すると直ぐ横の卓子(テーブル)に、ダブダブのズボンを穿いた長髪の青白い男が来た。その男は、記者がテーブルの上に投(ほう)り出した大型のスケッチブックとマドロスパイプを見て、ニコニコと話しかけた。
「バラック建築の御研究ですか」
 これをキッカケに二人は同じ卓子(テーブル)に向い合った。名刺を交換していろいろ話し込んだ揚句(あげく)、彼は自分が秘密画家である事を告げた。
 彼は最初にこんな謎のような事を云った。面白いから書いておく。
「物には裏と表があります。私自身にもあります。そうして問題は、只、この裏と表を自分の頭でハッキリと区別して使いわけながら、生活し得るか得ないかにあります。特に芸術ではそうです」
「私は嘗て文展に能のお面を出して落選しました。その原因がこの頃になってわかりました。平生私が秘密画ばかり描いているために、お能のお面にもその気持ちがうつって、上品さを傷つけるのです。殊にあの不可思議な唇の開き工合のところで迷わされています」
「これは私が修養の出来てないせいでしょう。私が秘密画とお能の面とを美事に描き別け得た時は、私が芸術家として成功した時でしょう」
 彼はこう云いながらウイスキーを飲んだ。彼の眼は彼自身の神聖さに輝いた。
 彼は大森の下宿へ記者を引っぱって行った。そこで更に飲み続けながら、記者にいろんなものを見せ且つ話した。いろいろ儲かる話を持ちかけた。是非Y文を書いてくれ、それによって絵を描くからと云った。彼は記者を掘り出したつもりでいた。記者は掘り出される約束だけして逃げた。

     芸術家の生活と誘惑

 自分の高尚な絵が売れぬ。売れても絵の具代に追っつかぬ。一方に秘密画さえ描けば、粗末なものでも非常に高価(たか)く早く売れるという事実は、不断に在京の画家を誘惑している。
 文展や院展に出す絵のモデル代、旅行費、絵の具代、間借り代、その他の生活費は、つまらぬ絵を二三十枚描く辛棒さえあれば訳なく取れる。そのためには仲買人も居れば、モデルも居る。只、いつも浮世絵風の線で(無論ゴマカシでよい)描かなければならぬのが、洋画家なぞにとっては困るといえば困る位のものである。
 このような絵の直接御用命者には然(さ)る○○な方々もある。西洋人もある。間接の手を経て外国へも続々行くらしい。某ホテルのボーイ頭なぞはその仲介に立って大金を蓄(た)めていると聞く。
 同時に東京で出来る秘密画の最近傾向として、或る残忍な画題が喜ばれて来た事は、前記、活動の絵看板の赤ペンキと同様注目に価する。
 例えば殷(いん)の紂王(ちゅうおう)、生蕃軍、玉藻前(たまものまえ)、○○侯等の暴虐の図、又は普通の美人や少年などに血をあしらった場面等の注文が次第に殖えて来た。
 かようなデカダン傾向……それは単にこのような方面ばかりでない。東京市中の到る処にあらわれている。その中でも特に記者の注意を惹いたものが二つある。その一つは産児制限に関するパンフレットの流行である。

     「最新式避姙法」の書物

 マリーストーブとかブラングエンとかいう人々の著書の和訳、又は「性」という文字を標題に取入れた雑誌は、記者が街頭の書物屋で見ただけでも十種近くある。これ等は皆、○○や××、又は……をあしらったもの、又は医学上の説明にかたどった肉体、又は精神の解剖説明書である。いずれも辛うじてその筋の許可を得たものらしく見える。
 しかし、ここに取り立てて云うのは、こんな出版物ではない。謄写版、もしくは旧活字の、しかも滅字同様のもので、誤植だらけにきたならしく印刷されたもので、如何にも秘密出版物らしく装うたものである。
 その一例を挙げると、標題には、
「最新式避姙法」
 とあって、内容を見るとラード博士、バックスター博士、バスレー博士、メシンガ博士、レンデル氏、サンガー夫人等いう大家? の避姙法が詳細に比較研究されてある。その筆者は原著者たる「満鉄社人事課××氏」の名を掲げ、その原本が大正十年中発売禁止となった事を述べた上、次の如き意見を付け加えている。
「これ位のものは外国では公然と出版されているのであるが、遺憾ながら日本では文化程度が低いから、これを秘密出版としなければならぬ。そもそも産児制限なるものは、法律上文化的の生活が許されたる智識階級の……」云々。
 この書物は某教育家が記者に見せてくれたのであった。某氏は海軍出身で、退職後、軍隊、船舶、監獄等の性的衛生に就(つい)て研究し一家を成している人である。
 氏は次のような事を記者に云った。

     近代文化と民族的自滅

「この種の性的秘密出版物を見ると、いずれもその筆者が立派な高等教育を受けた人間である事がわかる。このような表面上高尚で、実は恐ろしく愚劣な仕事を敢てする勇気と知恵とを持っているものは、必ず高等教育を受けた人間である。高等教育を受ければ受ける程、良心が鈍くなるとも云える。これが近代文明の特徴である事を、私は経験上明言し得る。そうして今の東京の文化の裡面には、この傾向が日一日と濃厚になって行く。誠に遺憾である。たとえばこの書物『最新式避姙法』の文中にある、文化程度という言葉の意義なぞは頗(すこぶ)る可笑(おか)しいではないか。文化程度が高くなればなる程産児制限が公行するものとすれば、最高の文化は民族の自滅を意味する事になる。その事実は決して些(すくな)くない。元来、日光と土とは最大の享楽である。生命は最高の富源である。その民族の文化の第一義は、この富源を尊重するところにある。同時にその民族の教育の第一義は、その民族の生活を出来るだけ土と日光とに親しませる事にある。軍隊、船舶、刑務所、礦山、工場等の生活に対しては、今少しこのような注意が払ってもらいたい。現代の文化は人間に土と日光を軽蔑させるようにばかり仕向けている。そのために変態性欲なぞが流行するようになる。又、近代の文明は高価な生活を要求するようにばかり人間を教育している。そのために産児制限なぞがはやるのだ。文化が自滅を意味する事になるのだ。日光と土に親しい文化、農民やプロの文化、都会以外の地方的文化、これ等が発達しなければ、日本の文化は日本の自滅を意味する事になる。東京の裡面にこのような出版物が横行するのは、日本の前途のためにどうあろうか」云々。
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   上流社会



     秘密フイルムの流行

 震災後の東京の荒れ野原に、真っ先に興行物の色旗を翻えしたのは、浅草の活動写真十三館である。市内外各所の活動写真館は続いてイルミネーションを付けた。
 この勢(いきおい)につれて東京市内外の到る処に小さな撮影所が出来た。
 どんな仕事をするかというと、たとえば多摩川で情死があったと新聞に出る。直ぐに俳優を連れて現場に出張し、その新聞記事を脚本としてそのような場面を撮影し、活動小屋に売りつける。又は広告や宣伝用のフイルムの請負い、家庭の子供向き短尺物なぞを作る。その他いろんな事をしている。
 彼等の中には或る種のフイルムを作って大金儲けをしているのがある。否、このような小撮影所ばかりでない。現在日本で片手の指で数えられている大会社の重役で、これをやっているのがある。
 東京郊外にある自宅の天井を打ち抜いて、小さな撮影所(セット)を設ける。これに強力な電気を盗用して、その素晴らしく儲かるフイルムを作る。
 そのフイルムとは秘密映画の事である。

     映画室兼用の寝室

 秘密フイルムの場面の大抵は「間男」で、怪しい役者と女優? が演ずる。実にタワイもないものであるが、出来上ると「家庭教育フイルム」とか何とか真面目な名前をつけてブローカーの手に渡す。もしくは、自分の配下か又は自身に「○○活動写真会」なぞいうものを組織して、映写して廻らせる。
 お花客(とくい)は常に上流の家庭である。だから料金はいつも高価である。外国にあるという、興行的な料金を取るものがどこかで秘密にやっていはしまいかと注意して見たが、これは気が付かなかった。当局でも当業者も、無論そんなものはまだあるまいと云った。
 結局、日本では上流の家庭ばかりという事になる。
「近頃の富豪の家には映画室を兼ねた寝室だの書斎だのがありますよ。外国では普通だそうですが……」
 と或るフイルム仲買人は笑って云った。(後に出る変態性欲用具の項参照)
 こうした上流の人士が民心の頽廃を嘆いて、吾が児の活動見物を差し止めるのかと思うと可笑しい。

     押収フイルムの公開

 震災前、このようなフイルムに対する当局の取締がちょっと厳重になった事がある。但(ただし)、ことがあるだけで、結局、製造の手段が以前よりも巧妙になっただけに止まった。
 現在東京で流行しているこの種のフイルムの中には、舶来物もあるにはあるが僅(わずか)らしい。十中八九和製と見ていい程に製造が盛である。ほかのものと違って密輸入が六ヶしいというような関係があるのかも知れぬ。
 警視庁にはこの種のフイルムの押収したのを沢山溜めている。それを昨年の夏、或る特別な人々に限って映じて見せたそうである。特別な人とは映画関係業者、教育関係者、映画関係係官の中から撰まれた少数の人々で、参考のためとも、見せしめのためとも、又は御愛嬌とも考えられた。
 場所は警視庁の検閲室で、次から次へ映写される場面はいずれも型の如きものであった。何等芸術的の価値あるものでなかったが、官吏も商売人も昂奮の極情欲なぞは少しも起らなかった。只悽愴たる感じにのみ打たれた。
 済んで室を出てから笑う者などは一人も無かった。血色のある者も一人も無かった。皆青白く唇を噛んで、眼が血走って、まるで地獄の責苦から逃れた人のように生汗を流していた。挑発も度を過すと、却(かえ)ってその情を圧迫して萎縮させてしまうものだとその中の一人は云った。
 尚、右に就いて一人の官吏はこんな話をした。

     検閲係官の苦痛

「世間ではよく小説や何かの検閲係の役人が、只文句ばかりに拘泥して禁止をする。裏面の意味は却って見逃す事が多いために、いろんな不公平が起る。つまり検閲官に頭がないからだと云う人があります。この不平は尤(もっと)も千万ですが、一方に又止むを得ない事情があります。どんな頭のある人でも毎日毎日変な文字や絵を見ていると、頭がすっかり麻痺してしまって、どこを取締っていいかわからなくなります。文章の裏面からどんな非道(ひど)い意味を発見しても、ちっともわるいと感じなくなります。自宅へ帰ってから、又は旅行して平生の常識に立ち帰ってから……ああ、あすこはヒドかったなと気が付くような事が屡(しばしば)あります。そんな風ですから、毎日検閲をしていると、勢(いきおい)文字や文句ばかりによって禁止をしなければ、ほかに見当のつけようがないような頭になります。その上に忙しいと来たらなおの事です。書いた人間に依って、あまり非道くないものでも禁止するというような傾きがあるのも、こうした原因から来るものと思われます。何しろ一冊の本を押えるという事は相手にとって大打撃で、どんなに公平にしても不平は必ず出るものですから、その苦心といったら大変です。この点は大いに同情してもらわないと遣り切れませんよ」云々。

     美しい顔、拙い技巧

 東京人のうち上流に位する人々の堕落は、このほか各種の方面に証拠立てられている。そうしてその堕落の最近の原因を尋ねると必ず彼(か)の大震災に結び付く。彼の大震災は東京人の堕落を深むべく一新紀元を画したものと云い得る。
 東京人のプロ階級で震災後生活のために堕落したものは非常に多い。そしてこれを堕落すべく誘惑したものの大部分はブル階級と見られる。
 東京の上流人士は震災後の血迷った、混乱した人心につけ込んだ。あらゆる手段であらゆる異性を堕落さした。彼等が金や権力を持っている事その事が既に誘惑そのものであった。
 記者は社会主義者ではない。今の世の中で金や権力を持つ事を罪悪とは思わぬ。しかしこのような実例をあまりに多く見る事が出来る。
 嘗て帝劇が出来て女優を養成した事は、上流の東京人の裏面の生活に一新生面を開いた。それ以後、歌劇女優、女流声楽家等いう各種の職業婦人? が日本の芸術家に生み出されて、あまねく上流人士に新しい美の世界を提供した。
 その美のグループが今では暁の星のように光りを喪(うしな)った。活動女優全盛の世となってしまった。
 新しいスターが次から次へと現われる。その技巧が如何に下手(へた)で、その美が如何に甚だしく塗り飾られたものであるかは誰しも認むるところであろう。その傾向が震災後特に甚だしくなった事も、「そういえば成程」とうなずかれるであろう。

     女優は資本か玩具か

「芝居をする役者は、フイルムに入れると実感を壊すからダメだ。殊に日本の女は芝居をし過ぎるか、いじけ過ぎるかしていて、とてもアカン。野生のノビノビした女を探すに限る」
 というわけで、撮影場の首脳者が、帽子目深に東京の街頭をウロ付くようになったのは、二三年前の事である。
 一方に、現在の日本の活動会社の成功不成功の一面は、会社の役員が女優を自分のオモチャにするかしないか……言葉を換ゆれば、上流人士のオモチャに提供して資本の世話をさせるかさせないかにあるとさえ云われている。
「女優は活動会社の資本である」
 という意味を芸術的の意味に考えているファンがあったら、その人は最も幸福なファンであろう。

     上流人の女狩り

 現在、或る大フイルム会社では、女優撰択や教育等をその撮影場の重役と監督の考え一つに任せている。そのためにそのセット付属の女優は、いつも重役や監督の御機嫌を伺わなければならぬ。セット以外の処で甘い筋の試演に応じなければならぬ。でなければ、スターとしての運命は暗黒になる。ほかの会社の者はこれを羨しがっている。
「あの会社は大きいから、女優を富豪に売り付けなくとも、資本に事は欠かぬ。貧乏会社は女優を二重にも三重にも抵当に入れるので、こちとらの手にはまわらない」
 と。この話は一つの常識としてその仲間に語り合われている。
 以て推して知るべしである。
 次は上流人士の「女狩り」の話に移る。

     警官に対する誘惑

 上流人士の美の要求に対する仲介業は、昔から東京に沢山ある。待合、ホテル、料理屋等いうのは問題にしなくていい。女衒(ぜげん)、桂庵はどちらかといえば表面的にやっている。その他、出入りの理髪師、その他の商人で極めて裏面的にやっているものは数限りない。大きいところでは旧式の政治家、又は所謂政商なぞにも、商売上この手腕を振う者がいくらでもある。彼等はあらゆる手段で、あらゆる方面に「玉」を探している。
 彼等が今度の震災のドサクサを機会に、どれだけ沢山の「玉」を探し出したかは想像に余りある。
 しかし、こうした職業的、又は半職業的な周旋人にかかると、いい食い物にされる上に、あとがウルサイ。のみならず愉しみも薄い。そこでもっと秘密な、もっと巧妙な、そうして新しい味をしめようと種々に苦心をする。
 象潟(きさかた)署保安係の某氏は記者にこんな事を云った。
「この頃、上流の堂々たる人が私に『珍らしい女は居ないか』とよく尋ねられます。私は熊本県人ですが、どうもそんな方面には暗いので、いつも返事に困ります」
 と。記者がもし外国にこうした実例のある事を聴いていなかったならば、どんなに驚いた事であろうか。
 彼等上流人士は、自分の財産や権力の魔力を自惚(うぬぼ)れた結果、神聖な警官を女衒と間違えるようになった。幸いにして吾熊本県人某君はこの誘惑にかかっていなかった。御蔭でこのような証拠を記者に掴ましてくれた。記者は満腔の敬意と謝意とを表しないわけに行かぬ。
 しかし、東京市中のすべての警官が果してこの誘惑から免れているであろうか。彼(か)の震災に続く大騒動と新警官の採用は、却(かえっ)てこのような誘惑に乗ぜられる機会を作りはしなかったろうか。
 記者はその実際を見ている。
 しかし判断は読者の自由に任せる。

     不良老年の辣腕

 かように東京の風紀頽廃の原因を煎じ詰めると、
「不良老年が悪い」
 という事になる。不良老年とは所謂成功者、又は伝統的の有力者で、つまり上流社会に於ける相当の年輩の人々である。
 今度東京で知り合いになった司法官や教育家――と云うと大層立派であるが実は刑事や学校教員――でこの事を口にせぬものは無い。殊に刑事や巡査は、平生、彼等上流社会から抵抗すべからざる圧迫を受けているので、この実情をよく知っていると同時にその怨みも深い。
「震災後、私等は下層社会の堕落よりも、上流社会の堕落を余計に見せ付けられるようです。社会主義はこんなところから起るのかも知れませんね」
 とさえ云う。
 事実、彼等権力者、もしくは金力者は、混沌たるバラック都市の裡面に遺憾なく魔力を揮っている。それ程左様に新東京ではイージーに女が得られるのである。
 震災は大地からあらゆる女の塵(ごみ)をたたき出したらしい。
 その結果、上流人士の女道楽が次第に進んで来て、変態性欲にまで高潮して来た。安くて手軽なバラック建築の流行は、一層こうした傾向を助けた。毒々しい刺戟の強いバラック式の装飾は、こうした趣味の背景となるのに最もふさわしいのである。
 たとえば……と云い出すと、これ又無限にある。

     小事務所の秘密

 彼等上流人士が、東京市内到る処に建てている小事務所や、市街の各方面に建てている小住宅には、こうした趣味の享楽物が多い。
 表の方の事務室、又は応接室らしい処には暗い電燈……裏手の方には白昼を欺く光線を洩らしている家が数限りなく発見される。そんな家は、写真屋その他の特殊の工場でない限り、又は宿直の者が電流を盗用しているのでない限り、何かの秘密を含んだ家である。殊に表に何々事務所と書いてある以上、怪しいと思わぬわけに行かぬと、或る刑事は語った。
 このような見すぼらしい事務所から、眼の醒めるような美人が現われて、ピカピカした自動車に乗って去る光景を、近頃の東京人はあまり怪しまなくなった。これも震災の御蔭であろう。
 又近頃、東京には自動車が殖えると同時に、運転手も殖えた。彼等がその乗せた主人の行く先を決して口外せぬという事は、その運転手たる資格の中で最も大切な一つである。しかし彼等の仲間同志には、この秘密が輪に輪をかけて発表されている。

     特別収入煙草買い

 彼等自動車運転手連の話に依ると、震災後の東京には、彼等の所謂私設待合が到る処に殖えた。その待合では、普通の待合でも出来ない事が行われる。あんな事がある、こんな事があると、彼等は眼を丸くして語る。その中の一つとして、ここに書く事が出来る話がないのは遺憾である。只、彼等上流人士の最高? 道楽である賭博と性的遊戯……麻酔と昂奮のあらゆる方面に、最近に於て支那式と西洋臭味が加味されて来た事が、運転手の話に依って推察されると云い得るだけである。
 尚、彼等の話に依ると、私設待合には特別なのがある。彼等は、夜半、美人と弗旦(ドルだん)らしいのを乗せる光栄を有した場合に、郊外の人跡稀(まれ)な処でよく買い物に遣られる。これは真面目に買いに行かなくてもいいので、暫くそこいらで様子を見た上で、こんな物を売る店はありませんと云って帰って来ても、旦那は格別残念そうな顔をしないのが多いそうである。
 彼等はこれを「煙草買い」と名づけて、特別収入の一つに数えている。
 又、或る秘密フイルム周旋業者は、電車の中で記者にこんな話をした。

     変態性欲用具

 彼等の秘密映写は、いつも当り前の上流人の家庭ばかりで行われるのではない。堂々たる帝都の大通りに並んだ、金看板の事務室の裏二階や地下室等でも行われる。そのような処で彼等は、最近、奇妙な事実を発見し出した。
 初め、鞭(むち)、拍車、鞍(くら)、手綱なぞいう乗馬用具を見た時は、格別怪しいと思わなかった。
 毛皮や短銃(ピストル)、短剣なぞを発見した時も同様であった。
 支那や朝鮮にあるという手枷(てかせ)、足枷があるのは、一種の標本かとも思えた。
 只それだけであったが、その後度々こうした処に招かれているうちに、これらの器具の不思議な働きがわかった。
 秘密フイルム映写の場合は、一方の壁やカアテンがスクリーンに応用されるので、器械貸の場合でない限り、映写技師は別室から小さな穴を通じて映写せねばならぬ。無論、内部でどんな人間が、どんな態度で見物しているかわからないように出来ている。
 ところがそうなると、いよいよのぞきたいのは人情である。遂に彼等の中には、いろんな工夫をして、中をのぞきながら映写する方法に成功するものが出来た。
 その実見談は、遺憾ながらここに書く事が出来ぬ。只、前に述べた不思議な道具の使用法が如何に深刻なものであるかを、彼等はあらかた知る事が出来たと云うに止めておく。
 勿論、この話は彼等の話の要点だけであって、作り話や針小棒大と思われるところは皆削(けず)った。
 信ぜられぬと云う人は、信ぜられぬ方がいいかも知れぬ。

     上流婦人の堕落

 他所(よそ)では知らぬ。
 東京の女道楽に飽きた男は、次第にこうした変態性欲に落ちて行く。平凡な春画の他に、血を流す美少年、猛獣に喰われる美女なぞの絵を愛好する。そのような幻想に近い実感を得ようとあせっている。
 東京人の堕落は、こうして爛熟期が糜爛期に入って行く。
 上流婦人の堕落は、更にこの傾向を助けている。
 所謂紳士淑女の裡面が如何に醜いものであるかという事は、今に初めて知られた事でないが、今日の如く表面的に、当り前であるかのように露骨になった事はまだ聞かぬようである。
 東京又は東京付近に居る上流の婦人、殊に未亡人たちの或る要求を満たす機関は、男のそれと同時に昔から東京にあった。役者、蔭間(かげま)、力士、その他の芸人、占者(うらない)、祈祷師、絵草紙、薬種、化粧品の行商人等の中にこの種の商売人が居たのであるが、今ではずっとこの範囲が広まっている。

     色魔的商売人

 上流の婦人を相手とする色魔的商売人は様々の仮面を持っている。
 音楽や茶の湯、生花の師匠に怪しいのが少くない。近頃では、美容術師やマッサージなぞいうのが盛に上流の家庭に出入りして、婦人を直接間接に誘惑するそうである。
 又、何々光線、又は気合術、呼吸法なぞいう新治療の出張応需式なのも逐次増加の傾向である。甚だしきに至っては、仏教や基督(キリスト)教の牧師、又は家庭教師と称するもので、怪しい商売をするものが殖えたと聴いた。
 こんな商売は、遊芸や何かの師匠と違って、素人でも割合い手に入り易いと同時に、上流の家庭に出入りするのにも都合がいい。逆に云えば、上流の家庭から電話や何かで自由に呼び出しが利く便利がある。又、その家庭の秘密を掴む上にも好都合なので、扨(さて)こそかように流行するのだと云う。
 このような色魔式商売の中で、最も斬新奇抜と思われるのは保険会社の勧誘員である。

     最新式の色魔業

 このような保険会社員は、眼星をつけた夫人や未亡人に時間を見計らって電話をかけて、面会の許諾を得る。次に堂々たる男振りと、立派な保険会社の名刺を振りまわして面会に来て、加入の許諾を得る。勿論、この間(かん)には何回も断られたり、追い返されたりするのであるが、そこを根よく押して行くと、相手の方が次第に動いて来る。そこで加入? をすすめて、金を払込ませて、受取を渡す……とは表面で、金は本物、受取は偽ものである。しかも相手の夫人が承知の上だから恐ろしい。
 元来が保険会社の事だから、何回尋ねて来ても不審を持たれるようなことがすくない。未亡人は勿論の事、夫ある婦人でも、旦那の留守勝ちな場合なぞは殊に便利である。そうして関係を続けようとやめようと自由自在で、保険会社員として他の処で面会したり……今一歩進んで、相手の婦人の法律顧問になったりする事も可能である。
 只、この間(かん)最も警戒しなくてはならぬ事は、その名乗りをあげた保険会社に電話をかけられぬように注意を払う事、云い換ゆれば、未亡人にたしかに渡る時以外に取次に名刺を渡さぬ事だそうな。
 因(ちなみ)にこの行き方は震災前からもあったので、震災後、それが本当の商売化したまでの事である。又、日本で新発明の商売でなく舶来の古物(日本では新しい)である事は、その筋の役人でなくとも、少し外国の事情に通じている人々は容易に認めるところだそうである。

     未亡人の下宿屋

 上流(すなわち金持ち)婦人の秘密は、まだいくらもある。何々夫人、又は何々未亡人の手芸研究所通いの中には随分怪しいのが多い。非道(ひど)いヒステリーの夫人や未亡人が、妙な神様や気合術なぞに凝り固まって音(おと)なしくなったなぞいう例がいくらもある。
 中には、嫌がる亭主を無理に連れ出して、相手の技術者に紹介をする。こうして信用を得た上で、その技術者を自宅に引っぱり込むという式は、こうした婦人連の紋切型の手段である。
 尚(なお)このほかに、金のある未亡人に特に多く行われている方法で、震災後急に殖えたのは素人下宿である。
 これは一つには、震災当時の状況がこうした要求に満ち満ちていたためでもあろうが、しかし、それを機会に未亡人たちが新しい自己満足の途を求めた事が疑われぬ。
 それはいいが、今では、この素人下宿の女主人が商売人なのか、又は下宿人が商売人なのかわからぬ程度まで、お互に進化しているらしい。うっかり素人下宿に泊って非道(ひど)い眼に会った学生、又はうっかり腰弁さんを下宿さして散々な眼に会った未亡人なぞがいくらもある。「下宿代を払わないので困る」とか、「下宿人が出て行かないので困る」とかいう法律相談や人事相談の裏面には、よくこうした事情が含まれている。
 東京に行く学生諸君、又は故郷から仕送る父兄達なぞ、心しても心すべき事である。

     若い燕を求むる心

 話がすこし固くなるが、日本婦人の教育程度の向上は、すべての意味で喜ぶべき事である。現在では、この教育程度向上のお蔭で、黒人(くろうと)上がりでない限り、日本の上流婦人は女学校卒業程度以上の学力あるものと限られているようである。最近の分では、賢母良妻主義凋落(ちょうらく)以後の教育を受けた若い婦人が沢山にある。そのような女性の最も多く進出する処は、云う迄もなく東京であった。
 然るに、維新後の日本の教育は、智識教育に偏り過ぎていた。本能、真情等の、所謂人間味の教育の方はお留守になっていた。この事実は万人の認むるところで、「性教育」などが高唱されるのも、このような欠陥がある事を証明しているのではないかとさえ考えられる。
 この欠陥は現代の婦人(勿論男子も)の性格の上に遺憾なく現われている。現代婦人は名誉を重んじ、人格の意味を解し、新智識と見識とプライドを有している。そうして、このようなものを弥(いや)が上にも刺戟し、向上させ、極端化するのは東京である。
 但、それは智識と見識とプライドの上だけである。彼女達の本能、又は盲情というものは、持って生れたままなのが多い。只、その盲情や本能の発露を、極めて自然的に合理化する智識と弁才を持っているに過ぎぬ。
 彼女達は、嫁いだ家、又は夫の名誉、手腕、財産等に奉仕せねばならぬ不平を、何者かに依ってなぐさめてもらわねばならぬ理由を持っていた。
 彼女達は、自分の智識や容貌の権威に媚び、且つ盲従する異性が欲しかった。さもなくとも、男性の秘密境――とそこに流露される男の真実性を認め得る年頃になった時、彼女達の智識は、当然、男子と同様に心の自然を求め得る理由を発見した。
 彼女達は皆、実際上か、又は空想上の「若い燕」たるべき相手を求めていた。

     地震と智識階級婦人

 彼等智識階級の婦人は、それでも永年の習慣で、そうそう思い切った事をし得なかった。筑紫の女王白蓮夫人? を初め、日向きむ子、神近市子、平塚明子、又は武者小路夫人などいう人々の、所謂合理的な行いを、彼女達は口先だけででも驚き呆れていた。彼女達は彼女達の自然(獣性)を彼女達の不自然(良心)の城廓に封じ込めていたのである。
 ところへあの大震災である。
 彼(か)の土煙と火煙は、彼女等の頭の中のこうした城廓を、かなり烈しく打ち壊した。これと同時に、夥しい「若い燕」が東京市中に孵化して飛びまわる事になった。
 曠古(こうこ)の大震災はこのような人々を一様に単純化した。情熱化した。智識、見識、プライド、又はこれに伴う人格等のすべてを奪い去って、平等に本能の飢渇に陥れた。明日をも知れぬ運命を、引き続く余震で暗示した。彼等は、最も浅ましい事以外に、最も貴いことを認めなくなった。
 しかもそれは一時の現象でなかった。

     私のお馬鹿さん

 現在の東京には、このような浅ましい傾向が、どれだけ増大して行くかわからぬ勢である。そうしてこの中に浸(ひた)る東京の上流婦人の中に、次第にサジスムス性のソレが殖えてゆくのは、男性のソレと同様止むを得ない事である。
 このような婦人は、愛欲という言葉の中に含まれている「快感」が、必ずや「残忍」と「苦痛」とに依って強められなければ、本当の満足は得られないものと考えている。このような要求に応ずる男性は、初めから自分に征服されに来る者でなければいけない。学問あり見識ある智識階級の婦人が、特にこうした傾向を有する事は無論である。
 ところで、幸いにしてそのような性格を持った男性とスイートホームを作り得た婦人は、それこそ例の文化生活を徹底的に味わい得るわけであるが、さもない限りこうした要求は、自分の夫以外の「私のお馬鹿さん」や「お人形さん」に求めねばならぬ。そのような商売人が前述の通り東京にはいくらでも居る。殊に震災後急増したところを見ると、新東京の新文化の裏面が、如何に陰惨を極めたものであるかがわかるであろう。

     変態性欲と虚栄

 東京に於ける上流婦人のサジ式傾向の具体的説明はここに避ける。その男性(夫をも含む)を虐待し、その苦痛を忍受しつつ唯々諾々として自分の美の光りを渇仰する有様を見て、初めて愛欲の徹底的満足を受ける実況は、容易に覗(うかが)い得られぬと云うに止めておく。只ここに特筆しておきたいのは、このサジ式の性格を有する婦人のサジ趣味が所謂虚栄というものと関係がある、恰(あたか)も教育とヒステリーのそれのごとく切っても切れぬ関係があるということである。
 但、これは記者の新説でも何でもない。
 事実上、婦人のサジ性が生んだ虚栄は、新東京の新文化に興味ある影響を与えているのである。
 又話が理窟っぽくなるが、事実を説明するためには止むを得ない。
「理解ある結婚」という言葉が非常に流行するが、言葉と実際とは大きな違いで、現在のところでは、「理解ある」という言葉を「野合」の「野」の字に当てはめた方が早わかりである。
 九州あたりではそうではあるまいが、震災後の東京ではそうである。強いて理窟をつければ、教育ある男女の「野合」のことを「理解ある結婚」と名づくるとでも云おうか。そうして東京は、この流行の中心と認められている。
 こうした結婚が永続するかしないかは、男が女のヒス性又はサジ性を甘受するか否かにある。何でもハイハイと尻に敷かれるか否かにある事は、常識で判断してもわかる。

     二重の意味の快感

 女が一旦男を支配するようになると、どこまでも増長する。男を極度まで苦しめて飽きないものである事は、昔からその例証が多い。
 殊に、我儘からヒス性へ、ヒス性からサジ性へと加速度で進んで行くのは、教育ある婦人に限られているそうである。何故かと云うと、
 一、教育から見識が生れる。
 二、見識からプライドが生れる。
 三、プライドからヒステリーが生れる。
 四、ヒステリー性からサジスムス性が生れる。
 という四段論法が、最近の智識を有する男性社会に於て、真実と認められているからだそうである。
 ところでここに面白い事には、夜間はともかく、昼間に於て男性を窘(くる)しめる方法の第一は、買物に同伴する事だそうである。自分の好きなものを一ツ一ツ撰(え)り出す毎に、男が青くなったり赤くなったりするのを見るのは、二重の意味で云うに云われぬ面白さと愉快さだそうな。

     理解ある同伴

 東京が「理解ある結婚」の中心地である証拠に、最近の東京の街頭に異性と二人連れの姿を非常に多く見受けるのは記者ばかりでない。尤も、これを全部、街頭に於ける「理解ある結婚」の姿と名付けるのが無理ならば、単に「理解ある同伴」と云ってもいい。散歩もあろう。見物(みもの)、聞きものもあろう。しかしこの中に「買物のため」が沢山あるのは否まれぬ。
 前に述べた新東京の商売の模様を調べる序(ついで)に、店の者に聴いて見ると、
「近頃は御夫人連れのお客様が非常に殖えました。殊に御婦人の御趣味が高くなりまして、旦那様のお帽子からネクタイまで、なかなかお上手にお撰みになる向きが多いのです。殊にお帽子や何かにツヤツヤした毛のものとか、スベスベした絹のもの、又は冬の白い襟巻なんぞが流行(はや)りますのは、御婦人のお好みが大分まじっておりますようで……」
 と眼を細くして笑った。話だけでも身の毛が竦立(よだ)つようである。
 否、まだ恐ろしい話がある。

     変態性欲とヘアピン

 或る米国帰りのドクトルは記者にこんな話をした。
「近来、若い婦人は様々の形をしたヘアピンを挿しているが、最近では若い夫人でもよく用いるようになった。然るに自分は、彼(か)の鬼のような、獣(けもの)の頭のような、又は異形の鋸(のこぎり)のようなヘアピンを見ると、ゾッとするのを禁ずる事が出来ない。それは、震災後、彼(か)のヘアピンで傷つけられた男を二人程手当をしてやったからである。その一つは頸動脈のところ、今一つは眼の近くで、いずれもかなりの傷であったから理由を問うたところが、二人共顔を赤らめて語らなかった。しかしその傷から私は察して、兇器はヘアピンであると思った。あの式のヘアピンは閨房に於ける婦人の唯一の武器らしい。彼(か)のヘアピンの形は、婦人のヒステリー性や、サジスムス性を象徴した形をしている。流石(さすが)女性尊重の本家本元アメリカから輸入された事は争われぬ」
 おさし合いがあったら御免なさい。

     平民主義と風紀頽廃

 東京の上流人士が男女を通じてかように次第に堕落して行く原因の中に、今一つ記者の注意を惹いたものがある。それは古い言葉ではあるがデモクラシー世界の実現である。
 学生の鳥打帽――軍人の平服の事は前に書いた。畏(かしこ)きあたりの御事は申すも畏し、一般の華族と富豪とかいう者は、元来非常に見識を貴(たっと)ぶものであるが、それが今では頽(すた)れて来た。平民的になって来た。
 これはまことに結構な事であるが、一方から見るとあまり面白くないことがないでもない。
 見識を取るとか威張るとかいう事は、一面、家内万事を儀式張らせる事で、殊に家柄を重んずる華族とか、家風を八釜しく云う町人とかは、こうして家風の取締をしたものであった。そのために深窓に育った子女達は、非常にその世間を狭められると同時に、堕落の機会をも亦甚だしく狭められていたのである。
 デモクラシーと名づくる春風は、次第にこの善良なる美風を吹き破り始めたのであった。某華族や某富豪の家庭の素(す)っ破(ぱ)抜き記事が、次から次へと新聞を賑わした。デモクラ式男女関係を作る事が、新人の使命であるかのように思わるるに到った。

     天のデモクラ宣伝

 この傾向に大油をかけたのが過般の震火災であった。あれは天が人間界に試みた大々的デモクラ行為であった。あの名状すべからざるドサクサが、どれだけ上流の家庭に平民式を煽(あお)り込んだか。現在の新聞紙上で、上流の家庭の紊乱(びんらん)が如何に平凡な材料として取り扱われているかは、読者の熟知せらるるところであろう。思えば地震もいろんな揺れ方をしたものである。上下動何寸、水平動何寸という大ゆれのほかに、このような複雑な大震動が交(まじ)っていた事を思えば、東大の地震計が匙(さじ)を投げたのも無理はない。
 しかもその震動の影響は、なかなかこれ位のことに止まらないのである。
 下層社会の者は、革命と云えば、人殺し泥棒勝手次第という意味に考えるのと同様に、上流社会の人々は、平民的と云えば、不義乱倫自由自在と解釈するのは止むを得ないかも知れぬ。さもなくとも「恋は思案のほか」とやら。
 ……こんな事で記者の頭は古いと思われては困るから、これ位にして上流社会の堕落記をやめる。
 そうして職業婦人の話に移る。
[#改ページ]


   職業婦人



     職業婦人の真意義

 職業婦人!
 聞くだに美しく、勇ましい名前である。清い、新しい理想の光りをふり仰いで、一心に働く女性の姿が連想される。
 記者はそんな風に考えて東京に来て見た。そうしたらまるで違っていた。
 職業を持っている婦人……すなわち稼ぐ女を職業婦人というのなら何でもない。上は女官から女学校の教師、小学校教員、女判任官、女医、女歯科医、女薬剤師、婦人記者、婦人速記者、女会計、婦人外交員、女製図師、図書館その他の整理係。すこし有りふれては産婆、看護婦、保姆、タイピスト、女事務員、女店員、見張女、マッサージ師、美容術師、女車掌や運転士、交換嬢、モデル女、女優一切。女給、案内女、仲居、お茶子、芸娼妓もかためて中流に入れようか。ドン底に近付いてはトロの後押し、土方の手伝い、ヨイトマケ、紙屑撰(え)り、工女、掃除女に到るまで、数えて来ると随分ある。これ等はみんな職業婦人に相違ない。
 しかし、復活した東京の新文化の華(はな)然として、大道を闊歩している所謂職業婦人というのはそんなのではない。もっと新しい、現代的な意味でいう職業婦人である。

     自己見せ付け競争

 現代的職業婦人の名称には、単純な意味と複雑な意味と両方ある。
 単純な方はつまり醜業婦の事である。救世軍や婦人矯風会、又はその筋の言明に依ると、震災後特に馬力をかけて撲滅に努力しているという。又、実際、撲滅されかけているように見える。
 複雑な意味の職業婦人というのは、要するに裏と表と二重の職業を持っている婦人で、こちらは反対にドシドシ増加しつつある。
 この事実を疑うものは、東京人の中に一人も無いと云っていいであろう。
「ああ、あれかい。あれあ、君、職業婦人だよ」
 という言葉は、大抵の場合、この種類の婦人を意味すると考えるのが現代式だそうである。だから記者も、この種類の職業婦人のことを職業婦人と名づけて取り扱う事にする。
 彼女たち職業婦人は、その名前の美しく雄々しいように、その姿も派手で活溌である。最新流行は愚かなこと、永年東京に住んでいる東京人でも眼を丸くしてふり返るような、思い切ったスタイルでサッサと往来を歩いて行く。流行の競争はとっくの昔に通り越して、自分自身が万人の注目の焦点となるべく、あらゆる極端な工夫を凝らしているかのように見える。

     九州で福岡は東京流行の魁(さきがけ)

 九州で東京風の流行の真先に這入(はい)って来る処は福岡で、その次が大分県の別府だそうである。
 それかあらぬか、記者が東京の職業婦人の新スタイルを見て仰天して帰って来て見ると、こはいかん、ツイ一ヶ月ばかり前まで気ぶりも見えなかった福岡の淑女令夫人達が、堂々とその風(ふう)を輸入して、得意然と大道を練り歩いて御座る。別府には行って見ないからわからぬが、これは流行(はや)っているにしても、福岡のように土着の人がやっているのではあるまいから、さまで驚くにも及ばぬであろう。
 四五年このかた流行(はや)り始めた頭の結い方に、「ゆくえしらず」というのがある。今では通俗化して、一般の真面目な人――主として中年以上の婦人がやっておられるようであるが、髷(まげ)が無いために前髪や鬢(びん)をかなり思い切って膨らさねばならぬ。
 東京の職業婦人の頭はここいらから発達したものであろうか。その形の思い切って大きいのが何よりも先に眼に付く。

     頭髪の大きさの競争

 職業婦人の頭といえば、直ぐに一抱えもある毛髪の集団(かたまり)を思い出す。日露戦争当時流行した二百三高地どころでない。五百三から八百三位まである。それへ櫛(くし)やピンの旗差し物が立てられて、白昼の往来をねって行く……と云ったら法螺(ほら)と云う人があるかも知れぬ。
 法螺かも知れぬが、記者は間もなくそんな頭を見慣れてしまった。更にそれ以上の変妙不可思議な頭をいくつも見た。
 尤(もっと)も彼女達は初めからこんな大きな頭をしていたのではない。
 彼女たちは自分の頭を嘗(かつ)て見た最大の頭よりも見栄(みばえ)あらしめるために、一袋十銭のスキ毛を一ツ宛(ずつ)突込んで、遂に三十四十に及んだまでの事である。列強の大艦巨砲競争と似たような原因結果である事は疑われぬ。只、これを制限する華盛頓(ワシントン)会議がない代りに、讃美する新東京人があるだけ違う。だから彼女たちの頭の大きさの競争が、斃(たお)れて後(のち)止(や)むところまで行く。

     丸ビル式と銀座髷

 流石(さすが)に福岡あたりを歩いている新式の髷には、東京の職業婦人のそれのように非常識者なのは無い。これは、福岡の婦人に東京のような意味の職業婦人が少い、従って自己見せ付けの競争が東京程烈しく行われないからであるらしい。
 しかしこの競争もある程度まで行くと、行き詰まりになるのは止むを得ない。そこで今度は恰好の競争が始まる。
 その頭の恰好にも又いろいろある。記者が見たり聴いたりしただけでも新旧百幾通りもある。皆新聞や雑誌で宣伝されているから略するが、その中(うち)で有名な丸ビル式と銀座髷というのについて一寸(ちょっと)説明を加えておく。
 丸ビルというのは東京で丸の内ビルディングの事、銀座は同じく目抜の通りと云ったら笑われるかも知れぬ。それ程左様(さよう)に有名な建築や町の名を髷に戴いているわけは、その建築や町に出入りする職業婦人に新しい意味の職業婦人が多い証拠である。職業婦人たちが人気と注目の焦点となっている結果である。

     第二職業広告用の理髪

 彼女達職業婦人のグループはこうしたわけで派手を競うた。そうして、その背景や職業に依って服装が違って来ると同時に、頭もこれに釣り合って変化して来た。すなわち背景と職業が似通っているために、その服装から次の恰好にまで共通点が出来て来る。丸ビル式や銀座髷はこうして出来た。
 丸ビルの方は、丸ビルそのものはもとより、付近の背景が皆ガッシリした大建築ばかりで、そこに出入りをする職業婦人は大抵事務員式のスタイルであった。
 銀座の方は大部分バラック式の派手やかなもので、職業婦人といえば大部分飲食に関係ある店の女給である。
 そうした空気の中からこんな髷が生れたのか、それとも或る一人がその特徴から工夫し出して全体に広めたものか、その辺は判然せぬ。いずれにしてもこのような背景や職業に……そうしてその第二の職業の広告に最適当したスタイルである事は云う迄もない。
 尚、丸ビル式は大正十三年の秋の末まで勢(いきおい)があったが、例の不良少女団ジャンヌダルクの一件以来、勢力を打ち消された形になった。これに取って代るべく生れたのが銀座髷かどうか知らぬ。
 もしそうだったら、近い中(うち)に又一騒ぎ持ち上るかも知れぬ。

     髷の恰好とお手本

 職業婦人の頭には、こうしてチャンと名前の付いたのもあるが、尚このほかに名前のわからぬので凄いのが多い。猫型、木魚型、鳥型、帽子型、真甲鯨(まっこうくじら)型とでも名付けたい位である。
 その上から鏝(こて)をかけて大波小波を打たせる。耳のあたりは渦を捲いたように見せかける。それから髷の競争である。
 髷は前髪や鬢(びん)と平均を取るために極度に大きくしたのもあれば、正反対に首の根づるに押下げて小蜜柑大にしたのもある。又は様々の形に結んだり、横たえたり、ブラ下げたりして、横から見ると随分気味の悪い恰好をしているのがある。そこへ例の色羽根や花飾り、飾り櫛、ピン、その他様々の旗差し物を出来るだけ賑やかにあしらったところは、奇観というも愚かである。
 しかし彼女たちが決して出放題にこんな頭を発明したものでない事は、その恰好や装飾品の取合わせをよく気をつけて見ているとわかる。
 彼女たちの頭のお手本は、大抵日本や外国の活動女優、又は雑誌、新聞の挿し絵や口絵を真似したものらしい。中には自分の顔に似合わせたものもある。又はそんな事をお構いなしのもある。

     和漢洋入り乱れた様式の流行あたま

 雑誌や新聞に宣伝されている、新しい髷の結い方を真面目に研究して応用しているのは、職業婦人には皆ないと見た方が至当であろう。勿論、多少影響はしているに違いないが、とてもそんな手ぬるい結い方では満足しないらしい。
 又、例外と見えるのがいくらでもある。
 眉の上まで庇を冠せて、そのうしろに中将姫のようなビラビラを戴いているのがある。
 一方に、低い束髪にしてから、元禄髷に似た縦長い髪毛の束を三寸ばかり上に突上げたのが居るかと思うと、洗い髪同様の髪を玄冶店(げんやだな)のお富(とみ)式にうしろに投げ卸して、その先を三つ組にして輪飾りの七五三のようにしているのがある。この式は将来職業婦人用の頭として最新流行を作るかも知れぬ。
 サザエのツボヤキをずっと大きく高くして、リボンで鉢巻をしているのは、希臘(ギリシャ)の巫女の真似であろうか。
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