近世快人伝
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著者名:夢野久作 

     まえがき


 筆者の記憶に残っている変った人物を挙げよ……という当代一流の尖端雑誌新青年子の註文である。もちろん新青年の事だから、郵便切手に残るような英傑の立志談でもあるまいし、神経衰弱式な忠臣孝子の列伝でもあるまいと思って、なるべく若い人達のお手本になりそうにない、処世方針の参考になんか絶対になりっこない奇人快人の露店を披(ひら)く事にした。
 とはいえ、何しろ相手が了簡(りょうけん)のわからない奇人快人揃いの事だからウッカリした事を発表したら何をされるかわからない。新青年子もコッチがなぐられるような事は書かないでくれという但書(ただしがき)を附けたものであるが、これは但書を附ける方が無理だ。奇行が相手の天性なら、それを書きたいのがこっちの生れ付きだから是非もない。サイドカーと広告球(アドバルン)を衝突させたがる人間の多い世の中である。お互いに運の尽きと諦めるさ。
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   頭山満


 ナアーンダ。奇人快人というから、どんな珍物が出て来るかと思ったら頭山(とうやま)先生が出て来た。第一あんまり有名過ぎるじゃないか。あんなのを奇人快人の店に並べる手はない。明治史の裡面に蟠踞(ばんきょ)する浪人界の巨頭じゃないか。維新後の政界の力石(ちからいし)じゃないか。歴代内閣の総理大臣で、この先生にジロリと睨(にら)まれて縮み上らなかった者は一人も居ない偉人じゃないか……とか何とか文句を云う者が大多数であろう。
 ……怪(け)しからん。頭山先生を雑誌の晒(さら)し物にするとは不埒(ふらち)な奴じゃ。頭山先生は現代の聖人、昭和維新の原動力だ。そんな無礼な奴は絞め上げるがヨカ……とか何とか腕まくりをして来る黒切符組もないとは限らないが、まあまあ待ったり。話せばわかる。
 筆者のお眼にかかった頭山先生は、御自身で、御自身を現代の聖人とも、昭和維新の原動力とも、何とも思って御座らぬ。「俺は若い時分にチットばかり、漢学を習うたダケで、世間の奴のように、骨を折って修養なぞした事はない。一向ツマラヌ芸無し猿じゃ」と自分でも云うて御座る。それでいて西郷隆盛の所謂(いわゆる)、生命(いのち)も要らず、名も要らず、金も官位も要らぬ九州浪人や、好漢安永氏の所謂「頭山先生の命令とあれば火の柱にでも登る」というニトロ・グリセリン性の青年連に尻を押されて、新興日本の尻を押し通して御座った……しかも一寸一刻も、寝ても醒めても押し外した事はなかった。日本民族をして日清、日露の国難を押し通させて、今は又、昭和維新の熱病にかかりかけている日本を、そのまんま、一九三五年の非常時の火の雨の中に押し出そうとして御座る。……ように見えるが、その実、御自身ではドウ思って御座るかわからない。ただ相も変らぬ芸無し猿、天才的な平凡児として持って生まれた天性を、あたり憚(はばか)らず発揮しつくしながら悠々たる好々爺(こうこうや)として、今日(こんにち)まで生き残って御座る。老幼賢愚の隔意なく胸襟(きょうきん)を開いて平々凡々に茶を啜(すす)り、談笑して御座る。そこが筆者の眼に古今無双の奇人兼、快人と見えたのだから仕方がない。世間の所謂快人傑士が、その足下(あしもと)にも寄り付けない奇行快動ぶりに、測り知られぬ平々凡々な先生の、人間性の偉大さを感じて、この八十幾歳の好々爺が心から好きになってしまったのだから致し方がない。そうして是非とも現代のハイカラ諸君に、このお爺さんを紹介して、諸君の神経衰弱を一挙に吹飛ばしてみたくなったのだから止むを得ない。
 元来、頭山先生が、この新青年に、きょうが日まで顔を出さないのが間違っている。それも頭山先生が時代遅れのせいではない。却(かえ)って新青年誌の方が頭山老人の思想よりも立ち遅れている事を筆者は確信しているのだから是非もない。ここに先生の許しを得て、逸話を御披露する。
 頭山満(とうやまみつる)翁の逸話といったら恐らく、浜の真砂(まさご)の数限りもあるまい。頭山満翁はさながらに逸話を作りに生まれて来たようなもので、その奇行快動ぶりといったら天下周知の事実と云っても憚らない位である。
 しかし仔細に点検して来ると、その鬼神も端倪(たんげい)すべからざる痛快的逸話の中にも牢乎(ろうこ)として動かすべからざる翁一流の信念、天性の一貫しているところを明白に認める事が出来る。
 すなわち翁の行動には智力を用いた形跡がない。何でも行きなりバッタリの無造作、無鉄砲を以(もっ)て押通して行くところに、翁の真面目(しんめんもく)が溢るるばかりに流露している。そうしてその真面目が、日常茶飯事に対しては意表に出づる逸話となり、国事に触れては鉄壁を砕く狂瀾怒濤となって行くもののようである。
 蛇(じゃ)は寸(すん)にして蛇(へび)を呑む。翁が十歳ばかりの年の冬に家人から十銭玉を一個握らせられて、蒟蒻(こんにゃく)買いに遣(や)られた。その頃の蒟蒻は一個二厘、三厘の時代であったから、定めし十個か二十個買って来いという家人の註文であったろう。
 ところが十幾歳の頭山満は蒟蒻屋の店先に立つと黙って十銭玉を一個投出したので、店の主人は驚いた。
「これだけミンナ蒟蒻をば買いなさるとな」
 翁は簡単にうなずいた。
 蒟蒻屋の主人は蒟蒻を山のように数えて、翁の前に持って来た。
「容れ物をば出しなさい」
 翁はやはりだまって襟元(えりもと)を寛(くつろ)げた。ここへ入れよという風に、うつむいて見せた。そうして主人が驚いて見ているうちに、氷よりも冷たい蒟蒻の山を懐中(ふところ)に掴み込んで、悠々と家(うち)へ帰った。
 頭山翁は終生をこの無造作と放胆振りでもって押通している。
「俺は無器用な奴じゃがのう。しかし、その無器用な御蔭で、天下の形勢の図星だけは見外(みはず)さぬようになっとる」云々。
「しかしこの頃俺に書画、骨董(こっとう)や、刀剣の鑑定を持込んで来るには閉口しとる。一番わからん奴の処へ見せに来る訳じゃからの。ハハハハ」

 グロの方ではコンナ傑作がある。
 大阪に菊地なにがしという市長が居たことがある。仲々の遣手(やりて)でシッカリ者という評判であったが、これに頭山先生が、何かの用を頼むべく会いに行った事がある。同伴者は先生の親友で、後(のち)の玄洋社長の進藤喜平太氏であったというが、市長官舎の応接室に通されて待てども待てども菊地市長が現われて来ない。天下の豪傑、頭山満が来たというので、才物の菊地市長尊大ぶって、羽根づくろいをするために待たせたものらしいという後人(こうじん)の下馬評である。
 ちょうどその時に頭山先生は、腹の中でサナダ虫を湧かして、下剤を飲んでいたので、そいつが利いたと見えて待っているうちに尻の穴がムズムズして来た。そこで頭山先生懐中(ふところ)から股倉へ手を突込んで探ってみると、何かしら柔らかいものがブラリと下っている。抓(つま)んで引っぱってみると、すぐにプツリと切れてしまった。股倉から手を出してみるといかにも名前の通りに白い、平べったい、サナダ紐(ひも)みたいなものが一寸ばかりブラブラしている。
 見ると目の前に、見事な金蒔絵(まきえ)をした桐の丸胴の火鉢があったので、頭山先生その丸胴の縁(ふち)に件(くだん)のサナダ虫を横たえた。進藤喜平太氏も不審に思って覗いてみたが、何やらわからないので知らん顔をしていたという。
 そのうちに又、頭山先生のお尻の穴がムズムズして来たので、又手を突込んで引っぱると、今度は二寸ばかりの奴が切れ離れて来たヤツを、やはり眼の前の火鉢の縁へ、前の一片(ひときれ)と並べておいた。察するに頭山先生いい退屈凌(しの)ぎを見付けたつもりであったろう。悠々と股倉へ手を突込んでは一寸、又二寸とサナダ虫の断片を取出して、火鉢の縁へ並べ初めた。
 誰でも知っている通りサナダ虫は一丈(じょう)も二丈もある上に、短かい節々のつながりが非常に切れ易いので、全部を引出し終るにはナカナカ時間がかかる。とうとう火鉢の周囲(まわり)へ二まわり半ほど並べたところへ、やっとの事、御大将の菊地市長が出て来た。黒羽二重(はぶたえ)五つ紋に仙台平(せんだいひら)か何かの風采堂々と、二人を眼下に見下して、
「ヤア。お待たせしました」
 と云いながら真正面の座布団に坐り込んだが、火鉢の縁へ手を載せたトタンにヒイヤリとしたので、ちょっと驚いたらしく掌(てのひら)を見ると、白い柔らかい、平べったい、豆腐の破片みたようなものが手の平へ二三枚ヘバリ付いている。嗅いでみると異様なたまらない臭いがする。菊地市長いよいよ驚いたらしく背後(うしろ)をかえりみて女中を呼んだ。
「オイオイ。この火鉢の縁の……コ……コレは何だ」
 女中が真青に面喰った。ちょっと見たところ、正体がわからないし、自分が並べたおぼえがないので、返事に窮していると頭山先生が静かに口を開いた。
「それは僕の尻から出たサナダ虫をば並べたとたい」
 菊地市長は「ウワアッ」と叫んで襖(ふすま)の蔭に転がり込んで行ったが、それっ切り出て来なかった。
 二人は仕方なしに市長官舎を辞したが、門を出ると間もなく正直者の進藤喜平太氏が、
「折角会えたのに惜しい事をした」
 とつぶやいた。頭山先生は又も股倉へ手を突込みながら、
「フフン。あいつは詰らん奴じゃ」

 まだある。
 これは少々グロを通り越しているが、頭山翁の真面目を百パーセントに発揮している話だから紹介する。頭山翁が玄洋社を提(ひっさ)げて、筑豊の炭田の争奪戦をやらせている頃、福岡随一の大料理屋常盤(ときわ)館で、偶然にも玄洋社壮士連の大宴会と、反対派の壮士連の大宴会が、大広間の襖一枚を隔ててぶつかり合った。
 何がさて明治もまだ中途半端(はんぱ)頃の血腥(ちなまぐさ)い時代の事とて、何か一(ひ)と騒動初まらねばよいがと、仲居(なかい)、芸妓(げいぎ)連中が心も空にサービスをやっているうちに果せる哉(かな)始まった。
 合(あい)の隔(へだ)ての襖が一斉に、どちらからともなく蹴開(けひら)かれて、敷居越しに白刃(しらは)が入り乱れ、遂には二つの大広間をブッ通した大殺陣が展開されて行った。
 大広間に置き並べられた百匁(め)蝋燭(ろうそく)の燭台が、次から次にブッ倒れて行った。
 そうして最後に、床の間の正面に端座している頭山満の左右に並んだ二つの燭台だけが消え残っていた。これは広間一面に血の雨を降らせ合っている殺陣連中が、敵も味方も目が眩(くら)んでいながらに、そうした頭山満の端然たる威風に近づくとハッと気が付いて遠ざかったからであった。
 その頭山満の左右と背後の安全地帯に逃げ損ねた芸者仲居が、小さくなって固まり合って、生きた空もなくなっていた。しかし頭山翁は格別変った気色(けしき)もなく、活動のスクリーンでも見てるような態度で、眼前(めのまえ)の殺陣を眺めまわしていたが、そのうちにフト自分の傍(そば)に一人の舞妓がヒレ伏しているのに気が付くと、片手でその背中を撫でながら耳に口を寄せた。
「オイ。今夜俺と一緒に寝るか」
 これは頭山翁お気に入りの仲居、筑紫お常婆さんの実話である。この婆さんも亦(また)、一通りならぬ変り物で、ミジンも作り飾りのない性格であったから、機会があったら別に紹介したいと思う。
 この婆さんが黙って死んだのでホッと安心して御座る北九州の名士諸君が多い事と思うが、しかしまだまだ御安心が出来ませぬぞ。この婆さんから筆者がドンナ話を聞いているか知れたものではないのだから……。

 頭山翁のノンセンス振りと来たら又一段と非凡離れがしている。つまるところは聖人以外の誰にでも出来る平々凡々振りであるが、その平々凡々振りが又なかなか容易に真似られないのだから不思議である。頭山翁の恐ろしさと偉大さは、その平々凡々なノンセンス振りの中に在ると云ってもいい位である。
 嘗て頭山翁が持っていた、北海道の某炭坑が七十五万円で売れた事がある。
 これを聞いた全日本の頭山翁の崇拝者連中、喜ぶまいことか、吾も吾もと押寄せて、当時霊南坂にあったかの頭山邸は夜も昼も押すな押すなの満員状態を呈した。下では幾流れとなく板を並べた上に食器を並べて、避難民式に雲集(うんしゅう)した書生や壮士が入代(いりかわ)り立代(たちかわ)り飯を喰うので毎日毎日戦争のような騒動である。また階上の翁の部屋では天下のインチキ名士連が翁を取巻いて借銭の後始末、寄附、運動費、記念碑建立、社会事業、満蒙問題なぞ、あらゆる鹿爪(しかつめ)らしい問題を提(ひっさ)げて、厚顔無恥に翁へ持ちかける。
 翁はそんな連中に対して面会謝絶をしないのみか、どんな事を頼まれても否(いや)とは云わない。黙々として話を聞き終ると金(かね)ならば金、印形(いんぎょう)なら印形を捺(お)してやってミジンも躊躇(ちゅうちょ)しない。市役所へハキダメの物でも渡すように瞬く間に七十五万円を費消してしまった。残るものは借金取りの催促と、雲集した書生壮士ばかりになってしまった。
 それでも、まだ印形や金を借りに来るものがある。しかも以前に、二度と来られないようなインチキで翁を引っかけて行った人間が、シャアシャアと又遣って来るのである。それでも翁は何も云わずに無理算段をした金を遣り、印形を貸す。翁の一家は、そのために、七十五万円の富豪から一躍、明日(あす)の米も無い窮迫に陥ってしまったが、それでも避難民張りの米喰虫は雲集するばかり……。
 或る人が見かねて、
「これはイカン。何とかしてコンナ恥知らずの連中を逐(お)い出さねば、先生の御一家は野タレ死にをしますぞ」
 と忠告した。翁はニコニコと笑って疎髯(そぜん)を撫でた。
「まあそう、急いで逐い出さんでもええ。喰う物が無くなったらどこかへ行くじゃろ」

 今一つノンセンス。翁と同郷の福岡に的野半助(まとのはんすけ)という愉快な代議士君が居た。(別人とも聞いているが)この代議士君……頭山先生は人物が出来とるから禅学をやったらキット成功する……というので翁を掴まえ、禅学を説き立てた。翁は黙ってウンウンとうなずきながら聞いていたが、とうとうこの愉快な代議士君に引っぱり出されて鎌倉の円覚寺に釈宗演和尚(しゃくそうえんおしょう)を訪う事になった。
 釈宗演和尚は人も知る禅風練達の英僧、且つ雄弁家で的野代議士の崇拝の的であった。さるほどに宗演老師は天下の豪傑頭山翁の来訪を喜んで、禅学に就いて弁ずる事良久(ややしばし)。徐(おもむ)ろに翁に問うて曰(いわ)く、
「あんたは前にも禅学を志された事がありますかな」
 翁曰く、
「ウム。在る。しかし素人じゃ」
「ハハア。誰に就いて御修業なされましたかな」
 翁傍(そば)に小さくなっている背広服の的野代議士をかえりみて、
「ナニ。コイツに習うただけじゃ」
 釈宗演和尚唖然。

 ツイこの間新聞を賑わした法政大学の騒動の時、教授の一人である山崎楽堂(がくどう)氏が喜多文子(きたふみこ)五段の紹介か何かで単身、頭山翁を渋谷の自宅に訪問した。山崎楽堂氏は現代能評界に於ける一方の大御所で、単純率直、達弁の士である。
 湯から上って来た頭山翁は、翁の居間にチョコンと坐っている楽堂君を見ると突立ったまま云った。
「君一人か」
「ハイ」
 と答えつつ楽堂君は簡単に一礼した。翁はこの時既に法政騒動の成行(なりゆき)と、楽堂氏の性格に関する概念を掴んでいたらしい事を、この簡単な問答の中から推測し得べき理由がある。
 それから楽堂君が持って生まれた快弁熱語を以て滔々(とうとう)と法政騒動の真相を披瀝(ひれき)すると、黙々として聞いていた翁は、やがて膝の前に拡げられた法政騒動渦中の諸教授の連名に眼を落した。
「ウーム。あんまり複雑で、ワシにはよくわからんがのう。この教授の中で正しい事を主張しよる奴の頭の上に丸を附けてくれんか」
 楽堂君ちょっと呆れたが命令通りに自分の味方の諸教授連の頭の上に丸を附けて見せると翁はニコニコと笑顔を見せた。
「フーム。正しい奴の方が、不正な奴よりもズット多いじゃないか」
「ハイ」
 翁はマジマジと楽堂君の顔を見た。
「フフ。意気地(いくじ)がないのう。人数(にんず)の多い方が負けよるのか」
 楽堂君は返事に窮した。こう端的に子供アシライにされようとは思わなかったので、眼をパチパチさせていると翁は一層ニコニコし出した。
「ウムウム。まあええから、そげな騒動しよる連中を皆一緒にここへ連れて来なさい。わしが聞き役になってやるけに、両方で議論してみなさい。わしが正しい方に加勢してやる」
 山崎楽堂氏は大喜びで帰ってこの旨を全教授に通告した。しかし折角の翁の心入れも、楽堂氏と反対側の諸教授の不出席によってオジャンとなったという。法政騒動裏面史の一席……。

 どうしてコンナ巨大な平凡児が日本に出現したかという……つまり頭山満の立志伝を書けと云われると筆者も少々困る。頭山満翁には、元来立志伝なるものがない。古往今来、あらゆる英雄豪傑は皆、豪(えら)い者になろうと志を立ててから、その志に向って勇往邁進(まいしん)したに相違ない。つまるところ志を立てなければ豪(えら)い者になれない訳であるが、頭山翁の生涯を見ると、その志なるものを立てた形跡がない。従ってその立志伝なるものの書きようがないから困るのだ。
 勿論、頭山翁は若い時代に、維新後の日本が、西洋文化に心酔した結果、日に月に唯物的に腐敗堕落して行く状況を見て、これではいけないぐらいの事は考えたかも知れないが、それを救うためには自分が先(ま)ず大人物にならなければとか、実社会に有力な人物にならなければとか、又は大衆の人気を集めなければとか、人格者として尊敬されなければ……とかいったようなセセコマしい志を立てた形跡はミジンもない。持って生れた平々凡々式で、万事ありのまんまの手掴みで片付けて来ている。そこが頭山翁の古来ありふれた人傑と違っている点で、その平々凡々式の行き方が又、筆者をして頭山翁を好きにならしめた第一の条件になっているらしいのだ。
 事実、頭山翁を平凡人なりと断定されて腹を立てる取巻きの非凡人諸君の中には、頭山翁が超特級の非凡人でなければ差支える連中が多いようである。頭山翁の爪の垢を煎(せん)じて第一に服(の)ませてやりたい人間は、頭山翁を取巻くそんな非凡人諸君に外ならないのだ。
 維新後、天下の大勢を牛耳って、新政府の政治と、新興日本の利権とを併せて壟断(ろうだん)しようと試みた者は、所謂、薩長土肥の藩閥諸公であった。その藩閥政治の弊害を打破るべく今の議会政治が提唱され初めたものであるが、そもそもその薩長土肥の諸藩士が、王政維新、倒幕の時運に参劃(さんかく)し、天下の形勢を定めた中に、九州の大藩筑前の黒田藩ばかりが何故に除外されて来たのか。筑前藩には人物が居なかったのか。もしくは居るとしても、天下を憂い、国を想う志士の気骨(きこつ)が筑前人には欠けていたのかというと、ナカナカそうでない。事実はその正反対で、恐らく日本広しと雖(いえど)も北九州の青年ほど天性、国家社会を患(うれ)うる気風を持っている者はあるまいと思われる。そうした事実は、明治、大正、昭和の歴史に出て来る暗殺犯人が大抵、福岡県人である実例を見ても容易に首肯出来るであろう。
 維新前の黒田藩には、西郷南洲、高杉晋作に比肩すべき大人物がジャンジャン居た。流石(さすが)の薩州も一時は筑前藩の鼻息ばかりを窺(うかが)っていた位である。有名な野村望東尼(ぼうとうに)を仲介として西郷、高杉の諸豪は勿論、その他の各藩の英傑が盛んに筑前藩と交渉した形勢は、筆者の幼少の時に屡々(しばしば)、祖父母から語って聞かされた事である。但しそれ等筑前藩の諸英傑が、何故に維新以後、音も香(におい)もなくこの地上から消え失せてしまったかという、その根元の理由に考え及ぶと、筆者も筆を投じて暗然たらざるを得ないものがある。
 筆者の祖先は代々黒田藩の禄(ろく)を喰(は)んでいた者だから黒田様の事はあまり云いたくない。しかし何故に維新後に筑前閥が出来なかったか……という真相を明らかにするためには、どうしても左(さ)の二つの事実を挙げなければならぬ事を遺憾とする。
一、当時の藩公が優柔不断であった事。二、黒田藩士が上下を問わず人情に篤(あつ)く、従って藩公に対する忠志が、他藩の藩士以上に潔白であった事。
 ところでここで今一つ、了解しておいてもらわねばならぬ事は、昔の各藩の藩士が日本の国体を知らなかった……換言すれば昔の武士というものは、自分の藩主以外に主君というものは認識していなかった事である。
 これは誠に怪(け)しからぬ事で、今の人には到底考えられない、同時にあまり知られていない大きな事実で、同時に時節柄、御同様まことに不愉快な史実ででもあり得るのであるが、しかしこの史実を認識しないで明治維新の歴史を読んでいると飛んでもない錯覚に陥る事がある。すくなくとも王政維新なる標語を各藩に徹底させるのが、どうして、あんなに骨が折れたのかと不思議の感に打たれるので、黒田藩では特にこうした傾向が甚しかった事が窺われるようである。
 そこへ藩公が優柔不断と来ているからたまらない。佐幕派が盛んになると勤王派の全部に腹を切らせる。そのうちに勤王派が盛り返すと今度は佐幕派の全部を誅戮(ちゅうりく)する。そうすると藩士が又、揃いも揃った正直者ばかりで、逃げも隠れもせずにハイハイと腹を切る……といった調子で、最初から一方にきめておけば、どちらかの人物の半分だけは救われたろうに、藩論が変るごとに行き戻りに引っかかってバタバタと死んで行ったのだからたまらない。とうとう黒田藩の眼星(めぼ)しい人物は、殆んど一人も居なくなってしまった。たまたま脱藩して生野(いくの)の銀山で旗を挙げた平野次郎ぐらいが目っけもの……という情ない状態に陥った。
 しかし世の中は何が仕合わせになるか、わからない。こうした事情で明治政府から筑前閥がノックアウトされたという事が、その後(のち)に於ける頭山満、平岡浩太郎、杉山茂丸、内田良平等々の所謂、福岡浪人の濶歩(かっぽ)の原因となり、歴代内閣の脅威となって新興日本の気勢を、背後から鞭撻しはじめた。……何も、それが日本のために仕合せであったに相違ないと断定する訳ではない。随分迷惑な筋もあったに違いないが、しかしそうした浪人の存在が、西洋文化崇拝の、唯物功利主義の、義理も、人情も、血も、涙も、良心も無い、厚顔無恥の個人主義一点張りで成功した所謂、資本家、支配階級の悩みの種となり、不言不語の中(うち)に日本人特有の生命(いのち)も要らず名も要らず、金(かね)も官位も要らぬ底(てい)の清浄潔白な忠君愛国思想を天下に普及、浸潤せしめた功績は大いに認めなければならぬであろう。
 従って歴史に現われない歴史の原動力として、福岡人を中心とする所謂九州浪人の名を史上に記念しておく必要がないとは言えないであろう。

 勿論浪人と雖(いえど)も生きた血の通う人間である。家族もあれば睾丸(きんたま)もある。生命(いのち)も金(かね)も官位も要らないとか何とか強情を張るにしても、そんな場面にぶつかる迄に何とかして喰い繋いで生きて行かなければならない。況(いわ)んやその命を捧げた乾児(こぶん)どもが、先生とか、親分とかいって蝟集(いしゅう)して、たより縋(すが)って来るに於てをやである。浪人生活の悩みは実に繋(かか)ってこの一点に存すると云っても過言でない。
 だから……という訳でもあるまいが、彼等浪人生活者の中にはいつもその浪人式の圧迫力を利用して何かの利権を漁(あさ)っている者が多い。しかしその漁り得た利権を散じて、何等か浪人的立場に立脚した国家的事業に邁進するならばともかく、一旦、この利権を掴むと、今まで骨身にコタエた浪人生活から転向をして、フッツリと大言壮語を止め、門戸を閉して面会謝絶を開業する者が珍らしくない。又はこれを資本として何等かの政権利権に接近し、ついこの間まで攻撃罵倒していた、唯物功利主義者のお台所に出入(しゅつにゅう)して、不純な栄華に膨れ返っている者も居る。もっとも、そんなのは浪人の中でも、第一流に属する部類で、それ以下の軽輩浪人に到っては、浪人と名づくるのも恥かしいヨタモンとなり、ギャングとなり、又は、高等乞食と化しつつ、自分の良心は棚に上げて他人の良心の欠陥を攻撃し、頼まれもせぬのに天下国家、社会民衆の事を思うているのは自分一人のような事を云って、放蕩無頼の限りをつくし、親兄弟を泣かせている者も居る。生命(いのち)が惜しくて名誉が欲しくて、金(かね)や職業が、焦(こ)げつくほど欲しい浪人が滔々として天下に満ち満ちている状態である。

 その中に吾が頭山満翁は超然として、一依旧様(いちいきゅうよう)、金銭、名誉なんどは勿論の事、持って生れた忠君愛国の一念以外のものは、数限りもない乾分(こぶん)、崇拝者、又は頭山満の沽券(こけん)と雖も、往来の古草鞋(わらじ)ぐらいにしか考えていないらしい。否(いな)現在の頭山満翁は既に浪人界の巨頭なぞいう俗な敬称を超越している。そこいらにイクラでも居る好々爺ぐらいにしか自分自身を考えていないらしい。
 嘗て筆者は数寄屋橋の何とか治療の病院に通う翁の自動車に同乗させてもらったことがある。その時に筆者は卒然として問うた。
「どこか、お悪いのですか」
「ウム。修繕(そそく)りよるとたい。何かの役に立つかも知れんと思うて……」
 その語気に含まれた老人らしい謙遜さは、今でも天籟(てんらい)の如く筆者の耳に残っている。

 以下は筆者が直接翁から聞いた話である。
「世の中で一番恐ろしいものは嬶(かかあ)に正直者じゃ。いつでも本気じゃけにのう」
「四五十年も前の事じゃった。友達の宮川太一郎が遣って来て、俺に弁護士になれと忠告しおった。これからは権利義務の世の中になって来るけに、法律を勉強して弁護士になれと云うのじゃ。その後、宮川は牛乳屋をやっておったが、まだ元気で居るかのう。俺に弁護士になれと云うた奴は彼奴(あいつ)一人じゃ」
 又或時傍の骨格逞しい眼付きの凄い老人に筆者を引合わせて曰く、
「この男は加波山(かばさん)事件の生残りじゃ。今でも、良(え)え荷物(国事犯的仕事。もしくは暗殺相手の意)があれば直ぐに引っ担いで行く男じゃ」

「西郷南洲の旧宅を訪うたところが、川口雪蓬(せつほう)という有名な八釜(やかま)し屋の爺(おやじ)が居った。ドケナ(如何なる)名士が来ても頭ゴナシに叱り飛ばして追い返すという話じゃったが、俺は南洲の遺愛の机の上に在る大塩平八郎の洗心洞□記(せんしんどうさつき)を引っ掴んで懐中(ふところ)に入れて来た。それは南洲が自身で朱筆を入れた珍らしいものじゃったが、その爺(おやじ)が鬼のようになって飛びかかって来る奴を、グッと睨み付けてサッサと持って来た。それから俺は日本廻国をはじめて越後まで行くうちに、とうとうその本を読み終ったので、叮嚀(ていねい)に礼を云うて送り返しておいたが、ちょっと面白い本じゃったよ」

 これ程の豪傑、頭山満氏がタッタ一つ屁古垂(へこた)れた話が残っているから面白い。
 その日本漫遊の途次、越後路まで来ると行けども行けども人家の無い一本道にさしかかった。同伴者がペコペコに腹が減っていたのだから無論、大食漢の頭山満氏も空腹を感じていたに相違ないのであるが、何しろ飯屋は愚か、百姓家すら見当らないので、皆空腹を抱えながら日の暮れ方まで歩き続けた。
 そのうちに、やっと一軒の汚ない茶屋が路傍(みちばた)に在るのを発見したので、一行は大喜びで腰をかけて、何よりも先に飯を命じた。ちょうど頭山満氏が第一パイ目の飯を喰い終るか終らない頃、その茶屋の赤ん坊が、頭山満氏のお膳の上の副食物を眼がけて這いかかって来るうちに、すこしばかり立上ったと思うと、お膳の横に夥しい粘液を垂れ流し、その上に坐って泣き出した。
 それと見た茶屋の女房が、直ぐに走り上って来て、何かペチャクチャ云い訳をしながら、自分の前垂れを外して、その赤ん坊の尻を拭い上げて、その粘液の全部を前垂れにグシャグシャと包んで上り口から投げ棄てると、そのまま臭気芬々たる右手を頭山満氏の前に差出した。
「ヘイ。あなた、お給仕しましょう。もう一杯……」
 頭山満氏黙々として箸(はし)を置いた。
「モウ良(え)え。お茶……」

 頭山翁の逸話は数限りもない。別に一冊の書物になっている位だからここにはあまり人の知らないものばかりを選んで書いた。あんまり書き続けているうちに、諸君の神経衰弱が全癒(なお)り過ぎては却(かえ)って有害だからこの辺で大略する。
 次は現代に於ける快人中の快人、杉山茂丸翁に触れて見よう。
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   杉山茂丸


 杉山茂丸(しげまる)なる人物が現代の政界にドレ位の勢力を持っているか、筆者は正直のところ、全然知らない。どんな経歴を以て、如何なる体験を潜りつつ、あの物すごい智力と、不屈不撓(ふくつふとう)の意力とを養い得て来たかというような事すら知らない。恐らく世間でも知っている人はあるまいと思われるので、筆者が知っているのは、そこに評価の不可能な彼……杉山茂丸の真面目(しんめんもく)がスタートしている事と、同時に、そうであるにも拘(かかわ)らず、その古今の名探偵以上の智力と、魅力とをもって、政界の裡面を縦横ムジンに馳けまわり、馳け悩まして行く、その怪活躍ぶりが今日(こんにち)まで、頭山満翁と同様に、新青年誌上に紹介されないのは嘘だという事を知っているのみである。

 杉山茂丸は福岡藩の儒者の長男として生れた。そうして維新改革後、父母と共に先祖伝来の知行所に引込み、そこで自ら田を作り、鍬(くわ)の柄(え)や下駄を製作し、又は父から授かった漢学を父の子弟に講義し、小学校の先生もつとめた事もあるという。その他の智識としては馬琴(ばきん)、為永(ためなが)の小説や経国美談、浮城(うきしろ)物語を愛読し、ルッソーの民約篇とかを多少噛(かじ)っただけである。中村正直(まさなお)訳の西国立志篇を読んだか読まぬかはまだ聞いた事がないが、いずれにしても杉山茂丸事、其日庵主(きじつあんしゅ)の智情意を培(やしな)った精彩が、右に述べたような漢学一(ひ)と通りと、馬琴、為永、経国美談、浮城物語、西国立志篇程度のもので、これに、後年になって学んだ義太夫の造詣(ぞうけい)と、聞き噛り式に学んだ禅語の情解的智識を加えたら、彼の精神生活の由来するところを掴むのは、さまで骨の折れる仕事ではあるまい。勿論彼の先天的に持って生まれた智力と、勇気は別問題にしての話である。

 明治と共に生れ、明治と共に老いて来た彼は明治維新の封建制度破壊以後、滔々(とうとう)として転変推移する、百色(ひゃくいろ)眼鏡式の時勢を見てじっとしておれなくなった。このままに放任しておいたら日本は将来、どうなるか知れぬ。支那から朝鮮、日本という順に西洋に取られてしまうかも知れぬと思ったという。その時代の西洋各国の強さ、殊に英国や露西亜(ロシア)の強さと来たら、とても現代の青年の想像の及ぶところでなかったのだから……。
 杉山茂丸は茲(ここ)に於て決然として起(た)った。頑固一徹な、明治二十年頃まで丁髷(ちょんまげ)を戴いて、民百姓は勿論、朝野の名士を眼下に見下していた漢学者の父、杉山三郎平灌園(かんえん)を説き伏せて隠居させ、一切の世事に関与する事を断念させて自身に家督を相続し、一身上の自由行動の権利を獲得すると同時に、赤手空拳、メクラ滅法の火の玉のようになって実社会に飛出したのが、彼自身の話によると十六歳の時だったというから驚く。大学を卒業してもまだウジウジしていたり、親から月給を貰ってスイートホームを作ったりしている連中とは無論、比較にならない火の玉小僧であった。
 その頃、彼の郷里、福岡で、豪傑ゴッコをする者は当然、一人残らず頭山満の率ゆる玄洋社の団中に編入されなければならなかった。だから彼も必然的に頭山満と交(まじわり)を結んで、濛々たる関羽髯(かんうひげ)を表道具として、玄洋社の事業に参劃し、炭坑の争奪戦に兵站(へいたん)の苦労を引受けたり、有名な品川弥二郎の選挙大干渉に反抗して壮士を指揮したりした。それが彼の二十歳から二十四五歳前後の事であったろうか。
 しかし彼は他の玄洋社の諸豪傑連と聊(いささ)か選(せん)を異にしていた。その頃の玄洋社の梁山泊(りょうざんぱく)連は皆、頭山満を首領とし偶像として崇拝していた。頭山満が左の肩を揚げて歩けば、玄洋社の小使まで左の肩を怒らして町を行く。頭山満が兵児帯(へこおび)を掴めば皆同じ処を掴む……といった調子であったが、杉山茂丸だけはソンナ真似を決してしなかった。否、むしろ玄洋社のこうした気風に対して異端的な考えをさえ抱いていたらしい事が、玄洋社を飛出してから以後の彼の活躍ぶりによって窺(うかが)われる。

 彼は玄洋社の旧式な、親分乾分(こぶん)式の活躍、又は郷党的な勢力を以て、為政者、議会等を圧迫脅威しつつ、政界の動向を指導して行く遣口(やりくち)を、手ぬるしと見たか、時代後(おく)れと見たか、その辺の事はわからない。しかし、たしかにモット近代的な、又は実際的な方法手段をもって、独力で日本をリードしようと試みて来た人間である事は事実である。
 事実、彼には乾児(こぶん)らしい乾児は一人も居ない。乾児らしいものが近付いて来る者はあっても、彼の懐中(ふところ)から何か甘い汁を吸おうと思って接近して来る者が大部分で、彼の人格を敬慕するというよりも、彼の智恵と胆力を利用しようとする世間師の部類に属する者が多く、それ等の煮ても焼いても喰えない連中を巧みに使いこなして自分の仕事に利用する。そうして利用するだけ利用して最早(もはや)使い手がないとなると弊履(へいり)の如く棄ててかえりみないところに、彼の腕前のスゴサが常に発揮されて行くのである。嘗て筆者は彼からコンナ話を聞いた。
「福沢桃介という男が四五年前に、福岡市の電車を布設するために俺に接近して来たことがある。俺は彼に利用される振りをして、彼の金(かね)を数万円使い棄てて見せたら、彼奴(きゃつ)め、驚いたと見えて、フッツリ来なくなってしまった。ところが、この頃又ヒョッコリ来はじめたところを見ると、何喰わぬ顔をして俺に仇討(あだう)ちをしに来ているらしいから面白いじゃないか。だから俺も一つ何喰わぬ顔をして彼奴に仇(あだ)を討たれてやるんだ。そうして今度は前よりもウンと彼奴の金を使ってやるんだ。事によると彼奴めが俺に仇(あだ)を討ち終(おお)せた時が身代限りをしている時かも知れぬから見ておれ」
 因(ちなみ)に彼……杉山其日庵主は、こうした喰うか喰われるか式の相手に対して最も多くの興味を持つ事を生涯の誇りとし楽しみとしている。そうして未だ嘗て喰われた事がないことを彼に対して野心を抱く人々の参考として附記しておく。

 話がすこし脱線したが、其日庵主は玄洋社を離脱してから海外貿易に着眼し、上海(シャンハイ)や香港(ホンコン)あたりを馳けまわって具(つぶさ)に辛酸を嘗(な)めた。
 その上海や香港で彼は何を見たか。
 その頃は支那に於ける欧米列強の国権拡張時代であった。従って彼、杉山茂丸は、その上海や香港に於て、東洋人の霊と肉を搾取しつつ鬱積し、醗酵し、糜爛(びらん)し、毒化しつつ在る強烈な西洋文化のカクテルの中に、所謂白禍(はっか)の害毒の最も惨烈なものを看取したに違いない。資本主義文化が体現するところの、虚無思想、唯物思想の機構の中に、血も涙も無い無良心な、獣性丸出しの優勝劣敗哲学と、功利道徳の行き止まり状態を発見したに違いない。そうして王政維新後、滔々たる西洋崇拝熱と共に鵜呑(うの)みにされて来た、こうした舶来の思想に侵犯され、毒化されて行きつつ在る日本の前途を見て、逸早(いちはや)く寒毛樹立したに違いない。
 当時の藩閥と、政党者流の行き方は、正にこの西洋流の優勝劣敗哲学、唯物一点張りの黄金崇拝式功利道徳の顕現であった。外国の政治組織を日本の政体の理想とし、権利義務式の功利道徳、法律的理論を以(もっ)て日本の国体を論じ合いつつ上下共に怪しまなかった時代であった。
 その中に、藩閥にも属せず、政党の真似もしない玄洋社の一派は、依然として頭山満を中心として九州の北隅に蟠(わだか)まりつつ、依然として旧式の親分乾分(こぶん)、友情、郷党関係の下に、国体擁護、国粋保存の精神を格守しつつ、日に日に欧化し、堕落して行く藩閥と政党を横目に睨(にら)んで、これを脅威し、戦慄せしめつつ、無けなしの銭(ぜに)を掻き集めては朝鮮、満蒙等の大陸的工作に憂身(うきみ)を窶(やつ)して来た。
 その中に政党屋流にも堕せず、玄洋社流にも共鳴しなかった彼、杉山其日庵主は、単身孤往(こおう)、明治後半期の政界の裡面にグングンと深入りして行った。
「玄洋社一流の真正直に国粋的なイデオロギーでは駄目だ。将来の日本は毛唐と同じような唯物功利主義一点張りの社会を現出するにきまっている。そうした血も涙も無い惨毒そのもののような社会の思潮に、在来の仁義道徳『正直の頭(こうべ)に神宿る』式のイデオロギーで対抗して行こうとするのは、西洋流の化学薬品に漢法の振出し薬を以て対抗して行くようなものだ。その無敵の唯物功利道徳に対して、それ以上の権謀術数と、それ以上の惨毒な怪線を放射して、その惨毒を克服して行けるものは天下に俺一人しか居ない筈だ。だから俺は、俺一人で……ホントウに俺一人で闘って行かねばならぬ。俺みたいな人間はほかに居る筈がないと同時に、俺みたいな真似は他人にさせてはならないのだ。だから俺は、どこまでも……どこまでも俺一人で行くのだ」
 彼は若いうちに、そう悟り切ってしまったらしい。そうして今日までもこうした悟りを以て生涯を一貫して行く覚悟らしく見える。

 それから後(のち)の彼は実際、目的のために手段を選まなかった。そうして乾児(こぶん)らしい乾児を一人も近づけないまま、万事タッタ一人の智恵と才覚でもって着々として成功して来た。
 彼はソレ以来いつも右のポケットに二三人の百万長者を忍ばせていた。そうして左のポケットにはその時代時代の政界の大立物を二三人か四五人忍ばせつつ、彼一流の活躍を続けて来た。「俺の道楽は政治だ」と口癖のように彼は云い続けて来たのであるが、しかし彼が果して、どんな政治を道楽にして来たか、知っている者は一人も居ない。同時に彼の左右のポケットに入れられている財界、政界の巨頭連が、どうして彼のポケットに転がり込んで来たか……もしくは転がり込ませられて来たか、知っているものは一人も居ないようである。そうして唯驚いて、感心して、彼の事を怪物怪物と評判して、彼のためにチンドン屋たるべく利用されているようである。

 事実、彼は現代に於ける最高度の宣伝上手である。彼に説明させると日清日露の両戦争の裡面の消息が手に取る如くわかると同時に、その両戦役が、彼の指先の加減一つで火蓋を切られた事が首肯されて来る。世人はだから彼を綽名(あだな)して法螺丸(ほらまる)という。しかし一旦、彼に接して、彼の生活に深入りしてみると、その両戦役前後に於ける朝野の巨頭連は皆、彼の深交があった事がわかる。事ある毎(ごと)に彼に呼び付けられて、お説教を喰って引退っていた事が、事実上に証明されて来る。そこで、イヨイヨホントウに心の底から驚いて、彼に何等かの御利益を祈願すべく、お賽銭(さいせん)を懐(ふところ)にして参詣して来る実業家が何人居るかわからない。そうして彼が絶対にお賽銭を取らない神様である事がわかるにつれてイヨイヨ崇拝敬慕の念を高める事になって来る。
 そんな人間にはイクラ云って聞かせる者が居てもわからない。
「君は法螺丸の法螺に引っかかっているのだ。そんな朝野の名士連は、皆、法螺丸に一身上の秘密や弱点を握られているか又は、彼等自身が法螺丸の巧妙、精密を極めた話術に魅せられて、法螺丸にそれだけの実力があるものと信じさせられているのだ。彼が古今無双のシャーロック・ホームズであると同時に、前代未聞のアルセーヌ・ルパンである事を君は知らないのだ。彼はそんな調子で現代日本の政界財界に、あらゆる機会を利用して法螺の空(から)小切手を濫発(らんぱつ)している。その空小切手を掴んだ連中は、その空小切手を潰されちゃ堪らないもんだから、寄ってたかってその空小切手を裏書きすべく余儀なくされているのだ。福沢桃介が法螺丸にシテヤラレた話だって、眉唾(まゆつば)ものかも知れないんだよ」
 と狐を落すように卓(テーブル)をたたいても、
「イヤ。たしかに法螺丸は豪(えら)いと思うね。それだけの空小切手を廻すだけでも、並の人間には出来ない事じゃないか」
 といったような事になってしまう。

 事実、法螺丸の法螺は、大隈重信の法螺とは段違いのところがある。少くとも大隈重信の法螺は、百科辞典の範疇を出(い)でないのに対して、法螺丸の法螺はたしかに百科辞典を超越した一種の洒落気(しゃれけ)と魔力とを兼ね備えている。たとえば医学博士を掴まえて医術の講釈をこころみ、禅宗坊主を向うに廻わして禅学の弊害を説教する。三井物産の重役が来ると不景気の救済策を授け、外務大臣が来ると軍部の実力を説いて感心させ、軍部の首脳部と会談すると外交の妙諦を説法して頭を掻かせる。皆、彼、法螺丸一流の悪魔のような理解力と、記憶力を基礎として、彼一流の座談の妙諦を駆使した、所謂、巧妙な空小切手であるのみならず、三時間でも五時間でもタッタ一人で喋舌(しゃべ)っておいて、そんな連中が帰ると直ぐに、あとから訪問して待っていた客に、
「イヤ。どうもお待たせしました。彼奴(きゃつ)が来ると長尻でね。僕の所を煩悶解決所と心得て一人で喋舌って帰るのでね」
 なぞとズバズバやるので、相当気の強い連中でもグラグラと参ってしまう。法螺丸の法螺がイヨイヨ後光がさして来る事になる。

 次に、法螺丸の法螺の実例を列挙してみる。
 医学博士を掴まえて曰(いわ)く、
「医者という商売は、商売とは云えませんね。何より先に脈を手に取る瞬間から、こいつを殺してやろうとは思っていない。たしかに助けてやろうと思っているのだから、商売とは云い条、全然、商売気を離れている。人の面(つら)さえ見れば儲けてやろうと思っている奴ばかり多い世の中にタッタ一つ絶対に信用出来るのはお医者様ですね」
 と来るから大抵の医学博士は感心してしまう。すっかり喜んでしまって、自分の苦心談や、研究の内容なぞをドン底まで喋舌ってしまう。法螺丸は又、そいつを地獄耳の中に細大洩らさずレコードしておいて、ほかの医学博士に応用する。
「独逸(ドイツ)の医学も底が見えて来ましたね。たとえばインシュリンの研究なんか……」
 なぞと引っ冠(かぶ)せて来るから肝を潰してしまう。その肝の潰れた博士を選んで法螺丸は、政界の有力者の処へ腎臓病のお見舞に差し遣わすのだから深刻である。
 禅宗坊主が寄附を頼みに来ると法螺丸曰く、
「禅宗は仏教のエキスみたいなものですな。面壁九年といって、釈迦一代の説法、各宗の精髄どころを達磨(だるま)という蒸溜器(ランビキ)に容(い)れて煎(せん)じて、煎じて、煎じ詰める事九年、液体だか気体だかわからない。マッチで火を点(つ)けるとボーッと燃えてしまって、アトカタも残らない。最極上のアルコールみたいな宗旨が出来上った。ところで、それは先ず結構としても、その最極上のアルコールをアラキのまま大衆に飲ませようとするからたまらない。大抵の奴は眼を眩(ま)わして引っくり返ってしまう。それから中毒を起して世間の役に立たなくなる。物を言いかけても十分間ぐらい人の顔をジイッと見たきり返事をしないような禅宗カブレの唐変木(とうへんぼく)が出来上る。又は浮世三分(ぶ)五厘(りん)、自分以外の人間はミンナ影法師ぐらいにしか見えない。義理人情を超越してしまうから他人の物も自分のものも区別が付かない。女も、酒も、金も、職業も要らない。その代り縦の物を横にもしない。電車に乗せるたんびに終点まで行ってしまうような健康な精神病者や痴呆患者が出来上る。そんな禅宗病患者が殖(ふ)えたら日本は運の尽きだと思いますよ。私も考えますから、貴方がたもよく考えて下さい」
 といったような事を云われると、相手も宗教の問答に来たのじゃない。寄附を頼みに来た弱味があるのだから歩(ぶ)が悪い。「喝(かつ)」とも何とも云わずに帰ってしまう。

 潰れかかった銀行屋さんが来て、救いを求めると、法螺丸は背中を撫でてやらんばかりにして慰める。曰く、
「そんなに心配しているとその心配で銀行が潰れてしまうよ。百円紙幣が銀行を経営しているのじゃない。人間が百円紙幣を使って銀行をやっているんだから、人間さえシッカリしておれば、潰れる気づかいはないもんだよ。金(かね)が無くなると同時に銀行が潰れるように思うのは、世間を知らないで算盤(そろばん)ばっかり弾(はじ)いている人間特有の錯覚なんだよ。ウンと頑張り給え。世間は広いんだ。人間万事、気で持って行くんだ。金なんか気持ちの家来みたいなもんだ。コンナ話がある聞き給え。二百万や三百万の金は屁(へ)でもなくなる話だ。
 日清戦争以前の事だったが、支那の横暴を憎み、露西亜(ロシア)の東方経略を警戒した玄洋社の連中が、生命(いのち)知らずの若い連中を満蒙の野(や)に放って、恐支病と恐露病に陥っている日本の腰抜け政府を激励し、止むを得なければ玄洋社の力で戦争の火蓋を切ってやろうというので、寄ると触(さわ)ると腕を撫でたり四股を踏んだりしたもんだが、生憎(あいにく)な事に金が一文も無い。むろん頭山満も貧乏の天井を打っている時分だ。俺にも相談だけはしてくれたが、三月(みつき)縛(しば)り三割天引という東京切ってのスゴイ高利貸連を片端(かたっぱし)から泣かせて、
かくばかりたふしても武蔵野の
  原には尽きぬ黄金草(こがねぐさ)かな
 なんてやってた時代だから満蒙経営どころか、わが家賃を払うのすら勿体ない非常時なんだ。
 そこへ誰が聞いて来たか、ドエライ話が転がり込んで来たもんだ。その頃まだ元気で居た日本一の正直物、大井憲太郎という爺さんが、眼の色を変えて担ぎ込んだ話のようにも思うが、とにかくこんな話だ。……その頃まで北海道の砂金といったらカリフォルニヤの向う張る勢いで、しかも夕張川の上流の各支流の源泉附近は到る処、砂金ならざるなしという評判で、全国の成金病患者がワンワンと押しかけていたものだ。……ところが不思議な事に、その砂金が、本流の夕張川の下流に在る名前は忘れたが一つの大きな滝を段階として、その下流には一粒の砂金も見当らない。つまるところ、その滝壺の底にはイザナギ、イザナミの尊(みこと)以来、沈澱している砂金が、計算してみると四百億円ぐらいは在るらしい……というのだ。エライ事を考えたもんだ。
 これには流石(さすが)の頭山満もチョイト本気になったらしい。俺も貧すれば鈍するでスッカリ共鳴してしまって技師を派遣する費用の調達を引受ける事になった。つまりその滝の横に運河を掘ってその滝の上流を堰(せ)き止めて、滝壺の水を掻き干して、底の方に溜まっている四百億円の砂金をスコップで貨車へ積み込もうという曠古(こうこ)の大事業だ。その費用を調達のために俺は白真剣(しらしんけん)になって東奔西走したものだ。その頃雇っていた抱え俥(くるま)の車夫に、もしこの事業に成功した暁には、貴様に米俵一杯の砂金を遣ると云ったもんだから、真(ま)に受けた俥夫(しゃふ)の奴め真夏の炎天をキチガイのように走りまわったものだが、一方にこの話が玄洋社の連中に伝わった時の壮士連の活気付きようと来たら、それこそ前代未聞の壮観だったね。四百億円あれば、朝鮮、支那、満洲、手に唾(つばき)して取るべしと云うのだ。アトは宜しくお願いしますというので弦(つる)を離れた矢のように、手弁当でビュービューと満洲へ飛んで行く。到る処に根を下し、羽根を拡げて、日本内地から来る四百億円を待っている……という勇敢さだ。その中(うち)に俺の軍資金調達が不可能になって、この話はオジャンになった。一番残念がったのは俺の俥屋(くるまや)だったが、満洲に根を下した豪傑連は、そんな事はわからない。一秒もジッとしておれない連中だからグングンと活躍を続けて行く。日清日露の両戦役に彼等の活躍がドレ位助けになったかわからない。現在の満洲国の独立は夕張川の四百億円の御蔭と云ってもいい位だ。否、玄洋社連の四百億円の夢が、満洲に於て現実化されたと云ってもいいだろう。世の中というものは、そんなものだ。シッカリさえしておれば恐ろしい事はない。気を大きく持って時節を待ち給え。四百億円というと大戦後の独逸を、カイゼルもヒンデンブルグもヒトラーもコミにして丸ごと買える金額だからね。それ位の夢は時々見ていないと早死にをするよ。ハハハハ」
 可哀相にスッカリ気まりが悪くなった銀行家は、法螺丸の俥引(くるまひ)きにも劣るというミジメな烙印を捺(お)されて、スゴスゴと帰って行く。
 デモクラシーと社会主義の華やかなりし頃、法螺丸の処に居る秘書役みたいな書生さんが、或る時雑誌を買って来て、その中に書いてあるサンジカリズムの項を、先生の法螺丸氏に読んで聞かせた。するとその翌(あく)る日のこと、東京市長をやっていた親友の後藤新平氏が遣って来たので、法螺丸は早速引っ捉えて講釈を始めた。
 法螺丸「貴公はこの頃仏蘭西(フランス)で勃興しているサンジカリズムの運動を知っているか」
 後藤新平「何じゃいサンジカリズムというのは……」
 法螺丸「これを知らんで東京市長はつとまらんぞ。今の社会主義やデモクラシーなんぞよりも数層倍恐ろしい破壊思想じゃ」
 後藤新平「ふうむ。そんな恐ろしい思想があるかのう。話してみい」
 法螺丸「心得たり」
 というので、昨日(きのう)聞いたばかりのホヤホヤのサンジカリズムの話を、その雑誌丸出しの内容に輪をかけたケレンやヨタ交りに、面白おかしく講釈すること約二時間、流石(さすが)の後藤新平氏も言句も出ずに傾聴すると「シンペイ」するなとも何とも云わずに、大急ぎで帰って行った。アトに昨日雑誌を読んで聞かせた書生さんが手に汗を握ったままオロオロしているのに気が付いた法螺丸、ハッとするにはしたらしいが、何喰わぬ顔で、
「面白いだろう。後藤新平というのは存外正直もんじゃよ」

 そもそも杉山法螺丸が、どこからこれ程の神通力を得て来たか。生馬(いきうま)の眼を抜き、生猿(いきざる)の皮を剥(は)ぎ、生きたライオンの歯を抜く底(てい)の神変不可思議の術を如何なる修養によって会得して来たか。
 請う先ず彼の青年に説くところを聞け。
「竹片(たけぎれ)で水をタタクと泡が出る。その泡が水の表面をフワリフワリと回転して、無常の風に会って又もとの水と空気にフッと立ち帰るまでのお慰みが所謂人生という奴だ。それ以上に深く考える奴がすなわち精神病者か、白痴で、そこまで考え付かない奴が所謂オッチョコチョイの蛆虫(うじむし)野郎だ。この修養が出来れば地蔵様でも閻魔(えんま)大王でも手玉に取れるんだ。人生はそう深く考えるもんじゃない。あんまり深く考えると、人生の行き止まりは三原山と華厳の滝以外になくなるんだ。三十歳まで大学に通ってベースボールをやる必要なんか無論ないよ」
「其日庵という俺の雅号の由来を知っているかい。これは俺の処世の秘訣なんだから、少々惜しいが説明して聞かせる。論語の中で会参は日に三度(みたび)己(おのれ)をかえりみると云った。基督(キリスト)は一日の苦労は一日にて足れりと云ったが、俺は耶蘇(やそ)教ではないが其日暮(そのひぐら)しが一番性に合っているようだね。……まず……朝起きると匆々から飯を喰う隙もないくらいジャンジャン訪問客が遣って来る。一番多いのが就職口と高利貸で、親の脛(すね)を噛じって野球をやったり、女給の尻を嗅ぎまわったり、豆腐屋の喇叭(ラッパ)みたいな歌を唄ったりした功労によって卒業免状という奴を一枚貰うと、そいつをオデコの中央に貼り付けて就職の権利でも授かった気で諸官庁会社を押しまわる。親爺(おやじ)も亦(また)親爺で、伜(せがれ)を育てるのと債券を買うのと同じ事に心得ているんだから遣り切れない。そこで就職出来ないとなると世の中が悪いと云って俺の処へ訴えに来る。俺が世の中じゃなし、知った限りではないんだが、そんな連中もたしかに世の中の一部分で、所謂大衆に相違ないんだから仕方なしに俺の責任みたような顔をして文句を聞いてやるんだ。高利貸は又高利貸で、勝手に俺の印形(いんぎょう)を信用して、手前一存の条件を附けて貸しやがった連中だ。中には一面識もない奴の借銭も混っているんだが、俺が議会に命じて作らせた法律というものを楯に取って来るから仕方ない。日歩(ひぶ)五銭ぐらいを呉れるつもりで会ってやるんだ。その次が大臣病患者、政権利権の脾胃虚病(ひいきょや)み、人格屋の私生児の後始末、名家名門の次男三男の女出入りの尻拭い、ボテレン芸者の身上相談、鼻垂れ小僧と寝小便娘の橋渡しに到るまで、アラユル社会の難物ばかりが、ハキダメみたいに杉山博士の診察、投薬を仰ぎに来る。しかもどの患者もどの患者も方々の名医の処を持ってまわって、コジラかした上にもコジラかした救うべからざる鼻ポンや骨がらみばかりがウヨウヨたかって来るんだから敵(かな)わない。
 もっともそういうこっちもお上(かみ)に鑑札を願っている専門医じゃないのだから、診察料や薬礼は一切取らない。その代りに万一助からなくたって責任は無い。殺すつもりで生かしたり、生かすつもりで殺したりする事も珍らしくないんだが、毛頭怨まれる筋はないんだから呑気な商売だ。ともかくも会ってやって、ともかくも病状を聞いてやる。金が有れば払ってやる。面識がある奴には紹介してやる。信用があれば小切手でも何でも書いてやる。それでも方法の附かない難物は、考えておいてやるから明日来いと云って一先(ひとま)ず追っ払っておく。むろん明日来たって明後日(あさって)来たって成算の立ちっこない難物ばかりだが、アトは野となれ山となれだ。その日一日を送りさえすればいいのだから、他人の迷惑になろうが、後(あと)になって大事件になることが、わかり切っていようが構わない。盲目滅法(めくらめっぽう)に押しまくってその日一日を暮らす。それから妻子(つまこ)や書生の御機嫌取りだが、これも生きている利子と思えば何でもない。好きな小説本か何か読んで何も考えずに寝てしまう。
 サテ翌る朝になったと見えて雀の声がする。パッチリと眼を開くとサア今日こそは大変な日だぞ。昨日(きのう)の尻は勿論の事、一昨日(おととい)、再昨日(さきおととい)……昨年、一昨年の尻が一時に固まって来る日だぞと覚悟して待っているとサア来るわ来るわ。あらん限りのヨタや出鱈目(でたらめ)を並べたり、恩人を裏切ったり、正直者を欺(だま)したりした方法でもって押し送って来た過去の罪業が、一時に鬨(とき)の声をあげて押しかけて来る。貴様が教えた通りに喋(しゃべ)ったら議会の空気が悪化して解散になりそうになった。万一解散になったら俺は一文も運動費が無いとあれほど云っておいたではないか、という代議士や、貴方のお世話で娘を嫁に遣ったら相手は梅毒の第三期だったと大声をあげて泣く母親や、先生から貰った小切手は銀行で支払いませんというのや、貴方の紹介状に限って大臣は会わないと云います。其日庵の紹介には懲(こ)り懲(ご)りだという話です。お蔭で会社が潰れて二百名の職工が路頭に迷いますというのや、貴方の乾分の弁護士の御蔭で三年の懲役が五年になりました。そのお礼を申上げに来ましたという紋々(もんもん)倶利迦羅(くりから)なんどが、眼の色を変えて三等急行の改札口みたいに押かけて来る。地獄に俺みたいな仏様が居るか居ないか知らないが、居るとしたら読むお経は一行も無いね。空気が在るから仕方なしに生きている。生きているから腹が減るのは止むを得ないという連中ばかりが、元来持って行き処のない尻を俺の処へ持って来るんだ。まあまあ待ったり、君等は自分の用事さえ済めば、アトは俺が死んでも構わない了簡(りょうけん)だろう。自分の尻を他人に拭いてもらう奴を小児(こども)といい、自分の垂れ物を自分で片付ける奴を大人という。君は元来大人なのか小供なのか。前をまくって見せろ……とか何とか云って追っ払ってしまうが、その手の利かない奴は、仕方がないから前に倍した手酷い手段で押し片付けて行く。明日の事は考えない。きょうさえ片付けばいいという方針だから、何を持って来たって驚かないんだ。
 尤(もっと)もこの頃は年を老(と)ったせいか、人に会うのと、字を書くのが大儀になった。心臓にコタエて息が切れたり脈が結滞(けったい)したりするから、面会と字書きを御免蒙っている。一方から云うと、そんな自分の尻を持て余しているような連中の尻をイクラ拭いてやったって相手は当り前だと心得ている。俺に尻を拭いてもらうのを楽しみにイクラでも不始末を仕出かす事になる。結局、そんな世話を続行するのは日本亡国の原因を作るようなものだとつくづくこの頃思い当ったせいでもあるんだがね」

 こうして縷述(るじゅつ)して来ると彼の法螺の底力は殆んど底止(ていし)するところを知らない。
「自ら王将を以て任ずる奴は天下に掃き棄てる程居る。金将たり、銀将たり、飛車角、桂香を以て自ら任じつつ飯喰い種にして行く者が滔々として皆然(しか)りであるが、その飯喰い種を皆棄てて、将棋盤の外にいて将棋を指している奴は、なかなか居るものでない。だから世間の事が行き詰まるんだ。あぶなくて見ていられなくなるんだ」
 という、頭山満以上の超凡超聖的彼自身の自負的心境を、そっくりそのまま認めてやらなければならなくなって来るのであるが、彼とても人間である。時と場合によっては平凡人以下の血もあり涙もあるばかりでない。彼の手に合わない人物も多少は出現して来るのだから面白い。
 頭山満曰く、
「杉山みたような頭の人間が又と二人居るものでない。彼奴(きゃつ)は玄洋社と別行動を執(と)って来た人間じゃが、この間久し振りに合うた時には俺の事を頭山先生と云いおった。
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