一足お先に
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著者名:夢野久作 

       一

……聖書に曰(いわ)く「もし汝(なんじ)の右の眼、なんじを罪に陥(おと)さば、抉(えぐ)り出してこれを棄てよ……もし右の手、なんじを罪に陥さばこれを断(き)り棄てよ。蓋(そは)、五体の一つを失うは、全身を地獄に投げ入れらるるよりは勝れり」と……。
……けれどもトックの昔に断(き)り棄てられた、私の右足の幽霊が私に取り憑(つ)いて、私に強盗、強姦(ごうかん)、殺人の世にも恐ろしい罪を犯させている事がわかったとしたら、私は一体どうしたらいいのだろう。
……私は悪魔になってもいいのかしら……。

 右の膝小僧の曲り目の処が、不意にキリキリと疼(いた)み出したので、私はビックリして跳ね起きた。何かしら鋭い刃物で突き刺されたような痛みであった……
 ……と思い思い、半分夢心地のまま、そのあたりと思う処を両手で探りまわしてみると……
 ……私は又ドキンとした。眼がハッキリと醒(さ)めてしまった。
 ……私の右足が無い……
 私の右足は股(もも)の付根の処からスッポリと消失せている。毛布の上から叩(たた)いても……毛布をめくっても見当らない。小さな禿頭(はげあたま)のようにブルブル震えている股の切口と、ブクブクした敷蒲団ばかりである。
 しかし片っ方の左足はチャンと胴体にくっ付いている。縒(よ)れ縒(よ)れのタオル寝巻の下に折れ曲って、垢(あか)だらけの足首を覗(のぞ)かせている。それだのに右足はいくら探しても無い。タッタ今飛び上るほど疼(いた)んだキリ、影も形も無くなっている。
 これはどうした事であろう……怪訝(おか)しい。不思議だ。
 私はねぼけ眼(まなこ)をこすりこすり、そこいらを見まわした。
 森閑(しんかん)とした真夜中である。
 黒いメリンスの風呂敷に包(くる)まった十燭(しょく)の電燈が、眼の前にブラ下がっている。
 窓の外には黒い空が垂直に屹立(きった)っている。
 その電燈の向うの壁際にはモウ一つ鉄の寝台があって、その上に逞(たくま)しい大男が向うむきに寝ている。脱(ぬ)けはだかったドテラの襟元から、半出来の龍の刺青(ほりもの)をあらわして、まん中の薄くなったイガ栗頭と、鬚(ひげ)だらけの達磨(だるま)みたいな横顔を見せている。
 その枕元の茶器棚には、可愛い桃の小枝を挿(さ)した薬瓶が乗っかっている。妙な、トンチンカンな光景……。
 ……そうだ。私は入院しているのだ。ここは東京の築地の奎洋堂(けいようどう)という大きな外科病院の二等室なのだ。向うむきに寝ている大男は私の同室患者で、青木という大連(たいれん)の八百屋さんである。その枕元の桃の小枝は、昨日(きのう)私の妹の美代子が、見舞いに来た時に挿して行ったものだ……。
 ……こんな事をボンヤリと考えているうちに、又も右脚の膝小僧の処が、ズキンズキンと飛び上る程疼(いた)んだ。私は思わず毛布の上から、そこを圧(おさ)え付けようとしたが、又、ハッと気が付いた。
 ……無い方の足が痛んだのだ……今のは……。
 私は開(あ)いた口が塞(ふさ)がらなくなった。そのまま眼球(めだま)ばかり動かして、キョロキョロとそこいらを見まわしていたようであったが、そのうちにハッと眼を据(す)えると、私の全身がゾーッと粟立(あわだ)って来た。両方の眼を拳固(げんこ)で力一パイこすりまわした。寝台の足の先の処をジイッと凝視(みつめ)たまま、石像のように固くなった。
 ……私の右足がニューとそこに突っ立っている。
 それは私の右足に相違ない……瘠(や)せこけた、青白い股の切り口が、薄桃色にクルクルと引っ括(くく)っている。……そのまん中から灰色の大腿骨(だいたいこつ)が一寸(いっすん)ばかり抜け出している。……その膝っ小僧の曲り目の処へ、小さなミットの形をした肉腫が、血の気(け)を無くしたまま、シッカリと獅噛(しが)み付いている。
 ……それはタッタ今、寝台から辷(すべ)り降りたまんまジッとしていたものらしい。リノリウム張りの床の上に足の平(ひら)を当てて、尺蠖(しゃくとりむし)のように一本立ちをしていた。そうして全体の中心を取るかのように、薄くらがりの中でフウラリフウラリと、前後左右に傾いていたが、そのうちに心もち「く」の字型(なり)に曲ったと思うと、普通の人間の片足がする通りに、ヒョコリヒョコリと左手の窓の方へ歩き出した。
 私の心臓が二度ばかりドキンドキンとした。そうしてそのまま又、ピッタリと静まった。……と思うと同時に頭の毛が一本一本にザワザワザワザワと動きまわりはじめた。
 そのうちに私の右足は、そうした私の気持を感じないらしく、悠々と四足か、五足ほど歩いて行ったと思うと、窓の下の白壁に、膝小僧の肉腫をブッ付けた。そこで又、暫(しばら)くの間フウラリフウラリと躊躇(ちゅうちょ)していたが、今度は斜(ななめ)に横たおしになって、切っ立った壁をすこしずつ、爪探(つまさぐ)りをしながら登って行った。そうしてチョウド窓枠の処まで来ると、框(かまち)に爪先をかけながら、又もとの垂直に返って、そのまま前後左右にユラリユラリと中心を取っていたが、やがて薄汚れた窓硝子(がらす)の中を、影絵のようにスッと通り抜けると、真暗い廊下の空間へ一歩踏み出した。
「……ア…アブナイッ……」
 と私は思わず叫んだが間に合わなかった。私の右足が横たおしになって、窓の向う側の廊下に落ちた。森閑(しんかん)とした病院じゅうに「ドターン」という反響を作りながら………………。
「モシモシ……モシモシイ」
 と濁った声で呼びながら、私の胸の上に手をかけて、揺すぶり起す者がある。ハッと気が付いて眼を見開くと、痛いほど眩(まぶ)しい白昼(まひる)の光線が流れ込んだので、私は又シッカリと眼を閉じてしまった。
「モシモシ。新東(しんとう)さん新東さん。どうかなすったんですか。もうじき廻診ですよ」
 という男の胴間声(どうまごえ)が、急に耳元に近づいて来た。
 私は今一度、思い切って眼を見開いた。シビレの切れかかったボンノクボを枕に凭(もた)せかけたまま、ウソウソと四周(あたり)を見まわした。
 たしかに真昼間(まっぴるま)である。奎洋堂病院の二等室である。タッタ今、夢の中………どうしても夢としか思えない……で見た深夜の光景はアトカタも無い。今しがた私の右脚が出て行った廊下の、モウ一つ向うの窓の外には、和(な)ごやかな太陽の光りが満ち満ちて、エニシダの黄色い花と、深緑の糸の乱れが、窓硝子(がらす)一パイになって透きとおっている。その向うの、ダリヤの花壇越しに見える特等病室の窓に、昨日(きのう)までは見かけなかった白麻の、素晴らしいドローンウォークのカーテンが垂れかかっているのは、誰か身分のある人でも入院したのであろうか……。
 ふり返ってみると右手の壁に、煤(すす)けた入院規則の印刷物が貼り付けてある。「医員の命令に服従すべし」とか「許可なくして外泊すべからず」とか「入院料は十日目毎(ごと)に支払うべし」とかいう、トテモ旧式な文句であったが、それを見ているうちに私はスッカリ吾(われ)に還(かえ)る事が出来た。
 私はこの春休みの末の日に、この外科病院に入院して、今から一週間ばかり前に、股の処から右足を切断してもらったのであった。それは、その右の膝小僧の上に大きな肉腫が出来たからで、私が母校のW大学のトラックで、ハイハードルの練習中にこしらえた小さな疵(きず)が、現在の医学では説明不可能な……しかも癌(がん)以上に恐ろしい生命(いのち)取りだと云われている、肉腫の病原を誘い入れたものらしいという院長の説明であった。
「ハッハッハッハッ………どうしたんですか。大層唸(うな)っておいでになりましたが。痛むんですか」
 今しがた私を揺り起した青木という患者は、こう云って快闊(かいかつ)に笑いながら半身を起した。私も同時に寝台の上に起き直ったが、その時に私はビッショリと盗汗(ねあせ)を掻(か)いているのに気が付いた。
「……イヤ……夢を見たんです……ハハハ……」
 と私はカスレた声で笑いながら、右足の処の毛布を見た。……がもとよりそこに右足が在(あ)ろう筈は無い。ただ毛布の皺(しわ)が山脈のように重なり合っているばかりである。私は苦笑も出来ない気持ちになった。
「ハハア。夢ですか。エヘヘヘヘ。それじゃもしや足の夢を御覧になったんじゃありませんか」
「エッ……」
 私は又ギックリとさせられながら、そう云う青木のニヤニヤした鬚面(ひげづら)をふり返った。どうして私の夢を透視したのだろうと疑いながら、その脂肪光りする赤黒い顔を凝視した。

 この青木という男は、コンナ奇蹟じみた事を云い出す性質(たち)の人間では絶対になかった。長いこと大連に住んでいるお蔭で、言葉付きこそ少々生温(なまぬる)くなっているけれども、生れは生(き)っ粋(すい)の江戸ッ子で、親ゆずりの青物屋だったそうであるが、女道楽で身代(しんだい)を左前にしたあげく、四五年前に左足の関節炎にかかって、この病院に這入(はい)ると、一と思いに股(もも)の中途から切断してもらったので、トウトウ身代限りの義足一本になってしまった。ところが、その時まで一緒に居た細君というのが又、世にも下らない女で、青木の義足がシミジミ嫌(いや)になったらしく、ほかの男と逃げてしまったので、青木の方でも占(し)めたとばかり、早速なじみの芸者をそそのかして、合わせて三本足で道行きを極(き)め込んだが、それから又、色々と苦労をしたあげくに、やっと大連で落ち付いて八百屋を開く事になった。すると又そのうちに、大勢の女を欺(だま)した天罰かして、今度は右の足首に関節炎が来はじめたのであったが、青木はそれを大連に沢山ある病院のどこにも見せずに、わざわざお金を算段して、昔なじみのこの病院に入院しに来た。……だから今度右の足を切られたら又、今の女房が逃げ出して、新しい女が入れ代りに来るに違いない。それが楽しみで楽しみで……と誰にも彼にも自慢そうにボカボカ話している。それくらい単純なアケスケな頭の持ち主である。だからタッタ今見たばかりの私の夢を云い当てるような、深刻な芸当が出来よう筈が無い。それとも、もしかしたら今、私が夢を見ているうちに、囈言(うわごと)か何か云ったのじゃないかしらん……なぞと一瞬間に考えまわしながら、独りで赤面していると、その眼の前で、青木はツルリと顔を撫でまわして、黄色い歯を一パイに剥(む)き出して見せた。
「ハッハッハッ。驚いたもんでしょう。千里眼でしょう。多分そんな事だろうと思いましたよ。さっきから左足を伸ばしたり縮めたりして歩く真似をしていなすったんですからね。ハッハッハッ。おまけにアブナイなんて大きな声を出して……」
「……………」
 私は無言のまま、首の処まで赤くなったのを感じた。
「ハッハッ。実は私(あっし)もそんな経験があるんですよ。この病院で足を切ってもらった最初のうちは、よく足の夢を見たもんです」
「……足の夢……」
 と私は口の中でつぶやいた。いよいよ煙(けむ)に捲かれてしまいながら……。すると青木も、いよいよ得意そうにうなずいた。
「そうなんです。足を切られた連中は、よく足の夢を見るものなんです。それこそ足の幽霊かと思うくらいハッキリしていて、トッテモ気味がわるいんですがね」
「足の幽霊……」
「そうなんです。しかし幽霊には足が無いって事に、昔から相場が極(きま)っているんですから、足ばかりの幽霊と来ると、まことに調子が悪いんですが……もっともこっちが幽霊になっちゃ敵(かな)いませんがね。ハッハッハッ……」
 唖然(あぜん)となっていた私は思わず微苦笑させられた。それを見ると青木は益々(ますます)乗り気になって、片膝で寝台の端まで乗り出して来た。
「しかし何ですよ。そんな足の夢というものは、切った傷口が痛んでいるうちはチットモ見えて来ないんです。夜も昼も痛いことばっかりに気を取られているんですからね。ところがその痛みが薄らいで、傷口がソロソロ癒(なお)りかけて来ると、色んな変テコな事が起るんです。切り小口(こぐち)の神経の筋が縮んで、肉の中に引っ釣(つ)り込んで行く時なんぞは、特別にキンキン痛いのですが、それが実際に在りもしない膝っ小僧だの、足の裏だのに響くのです」
 私は「成る程」とうなずいた。そうして感心した証拠に深い溜息をして見せた。青木は平生から無学文盲を自慢にしているけれども、世間が広い上に、根が話好きと来ているので、ナカナカ説明の要領がいい。
「実は私(あっし)も、あんまり不思議なので、そん時院長さんに訊(き)いたんですが、何でも足の神経っていう奴は、みんな背骨(せぼね)の下から三つ目とか四つ目とかに在る、神経の親方につながっているんだそうです。しかもその背骨の中に納まっている、神経の親方ってえ奴が、片っ方の足が無くなった事を、死ぬが死ぬまで知らないでいるんだそうでね。つまりその神経の親方はドコドコまでも両脚(りょうあし)が生れた時と同様に、チャンとくっ付いたつもりでいるんですね。グッスリと寝込んでいる時なんぞは尚更(なおさら)のこと、そう思っている訳なんですが……ですから切られた方の神経の端ッコが痛み出すと、その親方が、そいつをズット足の先の事だと思ったり、膝っ節(ぷし)の痛みだと感違いしたりするんだそうで……むずかしい理窟はわかりませんが……とにかくソンナ訳なんだそうです。そのたんびにビックリして眼を醒ますと、タッタ今痛んだばかしの足が見えないので、二度ビックリさせられた事が何度あったか知れません。ハハハハハ」
「……僕は……僕はきょう初めてこんな夢を見たんですが……」
「ハハア。そうですか。それじゃモウ治りかけている証拠ですよ。もうじき義足がはめられるでしょう」
「ヘエ。そんなもんでしょうか」
「大丈夫です。そういう順序で治って行くのが、オキマリになっているんですからね……青木院長が請合いますよ。ハッハッハ」
「どうも……ありがとう」
「ところがですね……その義足が出来て来ると、まだまだ気色のわりい事が、いくらでもオッ始まるんですよ。こいつは経験の無い人に話してもホントにしませんがね。大連みたような寒い処に居ると、義足に霜やけがするんです。ハハハハハ。イヤ……したように思うんですがね。……とにかく義足の指の先あたりが、ムズムズして痒(かゆ)くてたまらなくなるんです。ですから義足のそこん処を、足袋(たび)の上から揉(も)んだり掻いたりしてやると、それがチャント治るのです。夜なぞは外(はず)した義足を、煖房(ペーチカ)の這入った壁に立てかけて寝るんですが、大雪の降る前なぞは、その義足の爪先や、膝っ小僧の節々がズキズキするのが、一間(けん)も離れた寝台の上に寝ている、こっちの神経にハッキリと感じて来るんです。気色の悪い話ですが、よくそれで眼を覚(さ)まさせられますので……とうとうたまらなくなって、夜中に起き上って、御苦労様に義足をはめ込んで、そこいらと思う処へ湯タンポを入れたりしてやると、綺麗に治ってしまいましてね。いつの間にか眠ってしまうんです。ハハハハ。馬鹿馬鹿しいたって、これぐらい馬鹿馬鹿しい話はありませんがね」
「ハア……つまり二重の錯覚ですね。神経の切り口の痛みが、脊髄に反射されて、無い処の痛みのように錯覚されたのを、もう一度錯覚して、義足の痛みのように感ずるんですね」
 私はこんな理窟を云って気持ちのわるさを転換しようとした。青木の話につれて、タッタ今見た自分の足の幻影が、又も眼の前の灰色の壁の中から、クネクネと躍り出して来そうな気がして来たので……しかし青木は、そんな私の気持ちにはお構いなしに話をつづけた。
「ヘヘエ。成る程。そんな理窟のもんですかねえ。私(あっし)も多分そんな事だろうと思っているにはいるんですが……ですから一緒に寝ている嬶(かかあ)がトテモ義足を怖がり始めましてね。どうぞ後生だから、枕元の壁に立てかけて寝る事だけは止(よ)してくれ……気味がわるくて寝られないからと云いますので、それから後(のち)は、冬になると寝台(ねだい)の下に別に床を取って、その中にこの義足を寝かして、湯タンポを入れて寝る事にしたんですが……ハハハハハ。まるで赤ん坊を寝かしたような恰好で、その方がヨッポド気味が悪いんですが、嬶(かかあ)はその方が安心らしく、よく眠るようになりましたよ。ハッハッハッ……でもヒョット支那人(チャンチャン)の泥棒か何かが這入(へえ)りやがって……あっちでは泥棒といったら大抵チャンチャンなんで、それも旧の師走(しわす)頃が一番多いんですが、そんな奴がコイツを見付けたら、胆(きも)っ玉をデングリ返すだろうと思いましてね。アッハッハッハッ」
 私も仕方なしに青木の笑い声に釣られて、
「アハ……アハ……アハ……」
 と力なく笑い出した。けれども、それに連れて、ヒドイ神経衰弱式の憂鬱(ゆううつ)が、眼の前に薄暗く蔽(おお)いかぶさって来るのを、ドウする事も出来なかった。

 ……コツコツ……コツコツコツ……
 とノックする音……。
「オ――イ」
 と青木が大きな声で返事をすると同時に、足の先の処の扉(ドア)が開(あ)いて、看護婦の白い服がバサバサと音を立てて這入って来た。それはシャクレた顔を女給みたいに塗りこくった女で、この病院の中でも一番生意気な看護婦であったが、手に持って来た大きな体温器をチョットひねくると、イキナリ私の鼻の先に突き付けた。外科病院の看護婦は、荒療治を見つけているせいか、どこでもイケゾンザイで生意気だそうで、この病院でも、コンナ無作法な仕打ちは珍らしくないのであった。だから私は温柔(おとな)しく体温器を受け取って腋(わき)の下に挟んだ。
「こっちには寄こさないのかね」
 と横合いから青木が頓狂(とんきょう)な声を出した。すると出て行きかけた看護婦がツンとしたまま振り返った。
「熱があるのですか」
「大いにあるんです。ベラ棒に高い熱が……」
「風邪でも引いたんですか」
「お気の毒様……あなたに惚れたんです。おかげで死ぬくらい熱が……」
「タント馬鹿になさい」
「アハハハハハハハハ」
 看護婦は怒った身ぶりをして出て行きかけた。
「……オットオット……チョットチョット。チョチョチョチョチョチョット……」
「ウルサイわねえ。何ですか。尿器ですか」
「イヤ。尿瓶(しびん)ぐらいの事なら、自分で都合が出来るんですが……エエ。その何です。チョットお伺いしたいことがあるんです」
「イヤに御丁寧ね……何ですか」
「イヤ。別に何てこともないんですが……あの……向うの特別室ですね」
「ハア……舶来の飛び切りのリネンのカーテンが掛かって、何十円もするチューリップの鉢が、幾つも並んでいるのが不思議と仰有(おっしゃ)るのでしょう」
「……そ……その通りその通り……千里眼千里眼……尤(もっと)もチューリップはここから見えませんがね。あれは一体どなた様が御入院遊ばしたのですか」
「あれはね……」
 と看護婦は、急にニヤニヤ笑い出しながら引返(ひっかえ)して来た。真赤な唇をユの字型に歪(ゆが)めて私の寝台の端に腰をかけた。
「あれはね……青木さんがビックリする人よ」
「ヘエ――ッ。あっしの昔なじみか何かで……」
「プッ。馬鹿ねアンタは……乗り出して来たって駄目よ。そんな安っぽい人じゃないのよ」
「オヤオヤ……ガッカリ……」
「それあトテモ素敵な別嬪(べっぴん)さんですよ。ホホホホホ……。青木さん……見たいでしょう」
「聞いただけでもゾ――ッとするね。どっかの筥入娘(はこいりむすめ)か何か……」
「イイエ。どうしてどうして。そんなありふれた御連中じゃないの」
「……そ……それじゃどこかの病院の看護婦さんか何か……」
「……プーッ……馬鹿にしちゃ嫌(いや)よ。勿体(もったい)なくも歌原男爵の未亡人(びぼうじん)様よ」
「ゲ――ッ……あの千万長者の……」
「ホラ御覧なさい。ビックリするでしょう。ホッホッホ。あの人が昨夜(ゆんべ)入院した時の騒ぎったらなかってよ。何しろ歌原商事会社の社長さんで、不景気知らずの千万長者で、女盛りの未亡人で、新聞でも大評判の吸血鬼(バンパイア)と来ているんですからね」
「ウ――ン。それが又何だってコンナ処へ……」
「エエ。それが又大変なのよ。何でもね。昨日(きのう)の特急で、神戸の港に着いている外国人の処へ取引に行きかけた途中で、まだ国府津(こうづ)に着かないうちに、藤沢あたりから左のお乳が痛み出したっていうの……それでお附きの医者に見せると、乳癌(にゅうがん)かも知れないと云ったもんだから、すぐに自動車で東京に引返して、旅支度(たびじたく)のまんま当病院(ここ)へ入院したって云うのよ」
「フ――ン。それじゃ昨夜(ゆんべ)の夜中だな」
「そうよ。十二時近くだったでしょう。ちょうど院長さんがこの間から、肺炎で寝ていらっしゃるので、副院長さんが代りに診察したら、やっぱし乳癌に違いなかったの。おまけに痛んで仕様(しよう)がないもんだから、副院長さんの執刀で今朝(けさ)早く手術しちゃったのよ。バンカインの局部麻酔が利かないので、トウトウ全身麻酔にしちゃったけど、それあ綺麗な肌だったのよ。手入れも届いているんでしょうけど……副院長さんが真白いお乳に、ズブリとメスを刺した時には、妾(わたし)、眼が眩(くら)むような思いをしたわよ、乳癌ぐらいの手術だったら、いつも平気で見ていたんだけど……美しい人はやっぱし得ね。同情されるから……」
「フ――ム、大したもんだな。ちっとも知らなかった。ウ――ム」
「アラ。唸(うな)っているわよこの人は……イヤアね。ホホホホホホ」
「唸りゃしないよ。感心しているんだ」
「だって手術を見もしないのにサア……」
「一体幾歳(いくつ)なんだえその人は……」
「オホホホホホ。もう四十四五でしょうよ。だけどウッカリすると二十代ぐらいに見えそうよ。指の先までお化粧をしているから……」
「ヘエ――ッ。指の先まで……贅沢だな」
「贅沢じゃないわよ。上流の人はみんなそうよ。おまけに男妾(おとこめかけ)だの、若い燕(つばめ)だのがワンサ取り巻いているんですもの……」
「呆(あき)れたもんだナ。そんなのを連れて入院したんかい」
「……まさか……。そんな事が出来るもんですか。現在(いま)附き添っているのは年老(としと)った女中頭が一人と、赤十字から来た看護婦が二人と、都合四人キリよ」
「でもお見舞人で一パイだろう」
「イイエ。玄関に書生さんが二人、今朝(けさ)早くから頑張っていて、専務取締とかいう頭の禿(はげ)た紳士のほかは、みんな玄関払いにしているから、病室の中は静かなもんよ。それでも自動車が後から後から押しかけて来て、立派な紳士が入れ代り立ち代り、名刺を置いては帰って行くの」
「フ――ン、豪気なもんだナ。ソ――ッと病室を覗くわけには行かないかナ」
「駄目よ。トテモ。妾(わたし)達でさえ這入れないんですもの………。あの室に這入れるのは副院長さんだけよ」
「何だってソンナに用心するんだろう」
「それがね……それが泥棒の用心らしいから癪(しゃく)に障(さわ)るじゃないの。威張っているだけでも沢山なのにサア」
「ウ――ム。シコタマ持ち込んでいるんだな」
「そうよ。何しろ旅支度のまんまで入院したんだから、宝石だけでも大変なもんですってサア」
「そんな物あ病院の金庫に入れとけあいいのに……」
「それがね。あの歌原未亡人っていうのは、日本でも指折りの宝石キチガイでね。世界でも珍らしい上等のダイヤを、幾個(いくつ)も仕舞い込んだ革のサックを、誰にもわからないように肌身に着けて持っているんですってさあ」
「厄介な道楽だナ。しかし、そんなものを持っている事がどうしてわかったんだ」
「それがトテモ面白いのよ。誰でも全身麻酔にかかると、飛んでもない秘密をペラペラ喋舌(しゃべ)るもの………っていう事を歌原未亡人は誰からか聞いて知っていたんでしょう。副院長さんが、それでは全身麻酔に致しますよって云うと直ぐにね。懐(ふところ)の奥の方から小さな革のサックを出して、これを済みませんが貴方の手で、病院の金庫に入れといて下さいって云ったのよ。そうして全身麻酔にかかると間もなく、そのサックの中の宝石の事を、幾度も幾度も副院長に念を押して聞いたのでスッカリ解っちゃったのよ」
「フ――ン。じゃ副院長だけ信用されているんだナ」
「ええ。あんな男前の人だから、未亡人(おくさん)の気に入るくらい何でもないでしょうよ」
「ハハハハハ嫉(や)いてやがら……」
「嫉けやしないけど危いもんだわ」
「何とかいったっけな。エート。胴忘(どうわす)れしちゃった。副院長の名前は……」
「柳井(やない)さんよ」
「そうそう。柳井博士、柳井博士。色男らしい名前だと思った。……畜生。うめえ事をしやがったな」
「オホホホ。あんたこそ嫉いてるじゃないの」
「ウ――ン。羨しいね。涎(よだれ)が垂れそうだ。一目でもいいからその奥さんを……」
「駄目よ。あんたはもう二三日うちに退院なさるんだから……」
「エッ。本当かい」
「本当ですとも。副院長さんがそう云っていたんだから大丈夫よ」
「フ――ン。俺が色男だもんだから、邪魔っけにして追払(おっぱら)いやがるんだな」
「プーッ。まさか。新東さんじゃあるまいし……アラ御免なさいね。ホホホホ……」
「畜生ッ。お安くねえぞッ」
「バカねえ。外(ほか)に聞こえるじゃないの。それよりも早く大連の奥さんの処へ行っていらっしゃい。キット、待ちかねていらっしゃるわよ」
「アハハハハ。スッカリ忘れていた。違(ちげ)えねえ違(ちげ)えねえ。エヘヘヘヘ……」
 看護婦は眼を白くして出て行った。

 私は情なくなった。こんな下等の病院の、しかも二等室に入院(はい)った事を、つくづく後悔しながら仰向けに寝ころんだ。体温器を出して見ると六度二分しか無い。二三日前から続いている体温である。……ああ早く退院したい……外の空気を吸いたい……と思い思い眼をつぶると、眼の前に白いハードルが幾つも幾つも並んで見えた。私にはもう永久に飛び越せないであろうハードルが……。
 私はすっかりセンチメンタルになりながら、切断された股(もも)の付け根を、繃帯(ほうたい)の上から撫でて見た。そうして眠るともなくウトウトしていると、突然に又もや扉(ドア)の開(あ)く音がして、誰か二三人這入って来た気はいである。
 眼を開いて見るとタッタ今噂をしていた柳井副院長が、新米(しんまい)らしい看護婦を二人従えて、ニコニコしながら近づいて来た。鼻眼鏡をかけた、背のスラリと高い、如何(いか)にも医者らしい好男子であるが、柔和な声で、
「どうです」
 と等分に二人へ云いかけながら、先ず青木の脚の繃帯を解(と)いた。色の黒い毛ムクジャラの脛(すね)のあたりを、拇指(おやゆび)でグイグイと押しこころみながら、
「痛くないですな……ここも……こちらも……」
 と訊(き)いていたが、青木が一つ一つにうなずくと、フンフンと気軽そうにうなずいた。
「大変によろしいようです。もう二三日模様を見てから退院されたらいいでしょう。何なら今日の午後あたりは、ソロソロと外を歩いてみられてもいいです」
「エッ。もういいんですか」
「ええ。そうして、痛むか痛まないか様子を御覧になって、イヨイヨ大丈夫ときまってから、退院されるといいですな。御遠方ですから……」
 青木は乞食みたいにピョコピョコと頭ばかり下げたが、よっぽど嬉しかったと見える。
「お蔭様で……お蔭様で……」
 そう云う青木を看護婦と一緒に、尻目にかけながら副院長は、私の方に向き直った。そうして一(ひ)と通り繃帯の下を見まわると、看護婦がさし出した膿盤(のうばん)を押し退(の)けながら、私の顔を見て、女のようにニッコリした。
「もうあまり痛くないでしょう」
 私は無愛想にうなずきつつ、ピカピカ光る副院長の鼻眼鏡を見上げた。又も、何とはなしに憂鬱(ゆううつ)になりながら……。
「体温は何ぼかね」
 と副院長は傍(そば)の看護婦に訊いた。
 私は無言のまま、最前(さっき)から挟んでおいた体温器を取り出して、副院長の前にさし出した。
「六度二分。……ハハア……昨日(きのう)とかわりませんな。貴方も経過が特別にいいようです。スッカリ癒合(ゆごう)していますし、切口の恰好も理想的ですから、もう近いうちに義足の型が取れるでしょう」
 私はやはり黙ったまま頭を下げた。われながら見すぼらしい恰好で……。「罪人は、罪を犯した時には、自分を罪人とも何とも思わないけれど、手錠をかけられると初めて罪人らしい気持になる」と聞いていたが、その通りに違いないと思った。手術を受けた時はチットもそんな気がしなかったが、タッタ今義足という言葉を聞くと同時に、スッカリ片輪(かたわ)らしい、情ない気もちになってしまった。
「……何なら今日の午後あたりから、松葉杖を突いて廊下を歩いて見られるのもいいでしょう。義足が出来たにしましても、松葉杖に慣れておかれる必要がありますからね」
「……どうです。私(あたし)が云った通りでしょう」
 と青木が如何にも自慢そうに横合いから口を出した。外出してもいいと聞いたので、一層浮き浮きしているらしい。
「新東さんは先刻(さっき)から足の夢を見られたんですよ」
 私は「余計な事を云うな」という風に、頬を膨(ふく)らして青木の方を睨(にら)んだが、生憎(あいにく)、青木の顔は、副院長の身体(からだ)の蔭になっているので通じなかった。
 その中(うち)に副院長は青木の方へ向き直った。
「ハーア。足の夢ですか」
「そうなんです。先生。私(あっし)も足が無くなった当時は、足の夢をよく見たもんですが、新東さんはきょう初めて見られたんで、トテも気味を悪がって御座るんです」
「アハハハハ。その足の夢ですか。ハハア。よくソンナ話を聞きますが、よっぽど気味がわるいものらしいですね」
「ねえ先生。あれは脊髄(せきずい)神経が見る夢なんでげしょう」
「ヤッ……こいつは……」
 と柳井副院長は、チョット面喰ったらしく、頭を掻いて、苦笑した。
「えらい事を知っていますね貴方は……」
「ナアニ。私(あっし)はこの前の時に、ここの院長さんから聞かしてもらったんです。脊髄神経の中に残っている足の神経が見る夢だ……といったようなお話を伺ったように思うんですが」
「アハハハハ。イヤ。何も脊髄神経に限った事はないんです。脳神経の錯覚も混(まじ)っているでしょうよ」
「ヘヘーエ。脳神経……」
「そうです。何しろ手術の直後というものは、麻酔の疲れが残っていますし、それから後の痛みが非道(ひど)いので、誰でも多少の神経衰弱にかかるのです。その上に運動不足とか、消化不良とかが、一緒に来る事もありますので、飛んでもない夢を見たり、酷(ひど)く憂鬱になったりする訳ですね。中にはかなりに高度な夢遊病を起す人もあるらしいのですが……現にこの病院を夜中に脱(ぬ)け出して、日比谷あたりまで行って、ブッ倒れていた例がズット前にあったそうです。私は見なかったですけれども……」
「ヘエ、そいつあ驚きましたね。片っ方の足が無いのに、どうしてあんなに遠くまで行けるんでしょう」
「それあ解りませんがね。誰も見ていた人がないのですから。しかし、どうかして片足で歩いて行くのは事実らしいですな。欧洲大戦後にも、よく、そんな話をききましたよ。甚(はなは)だしいのになると或る温柔(おとな)しい軍人が、片足を切断されると間もなく夢中遊行を起すようになって、自分でも知らないうちに、他所(よそ)のものを盗んで来る事が屡(しばしば)あるようになった。しかも、それはみんな自分が欲しいと思っていた品物ばかりなのに、盗んだ場所をチットモ記憶しないので困ってしまった。とうとうおしまいには遠方に居る自分の恋人を殺してしまったので、スッカリ悲観したらしく、その旨(むね)を書き残して自殺した……というような話が報告されていますがね」
「ブルブル。物騒物騒。まるっきり本性が変ってしまうんですね」
「まあそんなものです。つまり手でも足でも、大きな処を身体(からだ)から切り離されると、今までそこに消費されていた栄養分が有り余って、ほかの処に押しかける事になるので、スッカリ身体(からだ)の調子が変る人があるのは事実です」
「ナアル程、思い当る事がありますね」
「そうでしょう。ちょうど軍縮で国費が余るのと同じ理窟ですからね。手術前の体質は勿論、性格までも全然違ってしまう人がある訳です。神経衰弱になったり、夢中遊行を起したりするのは、そんな風に体質や性格が変化して行く、過渡時代の徴候(ちょうこう)だという説もあるくらいですが……」
「ヘエ――。道理で、私は足を切ってから、コンナにムクムク肥りましたよ。おまけに精力がとても強くなりましてね。ヘッヘッヘッ」
 副院長は赤面しながら慌てて鼻眼鏡をかけ直した。同時に二人の看護婦も、赤い顔をしいしい扉(ドア)の外へ辷(すべ)り出た。
「しかし……」
 と副院長は今一度鼻眼鏡をかけ直しながら、青木の冗談を打ち消すように言葉を続けた。
「しかし御参考までに云っておきますが、そんな夢中遊行を起す例は、大抵そんな遺伝性を持っている人に限られている筈です。殊に新東君なぞは、立派な教養を持っておられるんですから、そんな御心配は御無用ですよ。ハッハッハッ。まあお大切になさい。体力が恢復すれば、神経衰弱も治るのですから……」
 副院長はコンナ固くるしいお世辞を云って、自分の饒舌(しゃべ)り過ぎを取り繕(つくろ)いつつ、気取った態度で出て行った。
 私はホッとしながら毛布にもぐり込んだ。徹底的にタタキ付けられた時と同様の残酷(みじめ)さを感じながら……。

       二

 午食(ごしょく)が済むと、青木が寝台の隅で、シャツ一貫になって、重たい義足のバンドを肩から斜(はす)かいに吊り着けた。その上からメリヤスのズボンを穿(は)いて、新しい紺飛白(こんがすり)の袷(あわせ)を着ると、義足の爪先にスリッパを冠せてやりながら、大ニコニコでお辞儀をした。
「それじゃ出かけて参ります。今夜は片っ方の足が、どこかへ引っかかるかも知れませんが、ソン時は宜(よろ)しくお頼み申しますよ。アハハハハハ。お妹さんのお好きな紅梅焼を買って来て上げますからナ。ワハハハハ」
 と訳のわからない事を喋舌(しゃべ)って噪(はし)ゃいでいるうちに、ゴトンゴトンと音を立てて出て行った。
 青木の足音が聞えなくなると私もムックリ起き上った。タオル寝巻を脱いで、メリヤスのシャツを着て、その上から洗い立ての浴衣(ゆかた)を引っかけた。最前看護婦が、枕元に立てかけて行った、病院備(そな)え付(つけ)の白木の松葉杖を左右に突っ張って、キマリわるわる廊下に出てみた。
 云う迄もなく、コンナ姿をして人中に出るのは、生れて始めての経験であった。だから扉(ドア)を締めがけに、片っ方の松葉杖の所置に困った時には、思わず胸がドキドキして、顔がカッカと熱くなるように思ったが、幸い廊下には誰も居なかったので、十歩も歩かないうちに、気持がスッカリ落ち着いて来た。
 私は生れ付きの瘠(や)せっぽちで、身軽く出来ている上に、ランニングの練習で身体(からだ)のコナシを鍛え上げていたので、松葉杖の呼吸を呑み込むくらい何でもなかった。敷詰(しきつ)めた棕梠(しゅろ)のマットの上を、片足で二十歩ばかりも漕(こ)いで行って、病院のまん中を通る大廊下に出た時には、もう片っ方の松葉杖が邪魔になるような気がしたくらい、調子よく歩いていた。その上に、久し振りに歩く気持よさと、持って生れた競争本能で、横を通り抜けて行く女の人を追い越して行くうちに、もう病院の大玄関まで来てしまった。
 その玄関は入院しがけに、担架(たんか)の上からチラリと天井を見ただけで、本当に見まわすのは今が初めてであった。花崗石(みかげいし)と、木煉瓦と、蛇紋石と、ステインドグラスと、白ペンキ塗りの材木とで組上げた、華麗荘重なゴチック式で、その左側の壁に「御見舞受付……歌原家」という貼札がしてある。その横に、木綿の紋付きを着た頑固そうな書生が二人、大きな名刺受けを置いたデスクを前にして腰をかけているが、その受付のうしろへ曲り込んだ廊下は、急に薄暗くなって、ピカピカ光る真鍮(しんちゅう)の把手(ノッブ)が四つ宛(ずつ)、両側に並んでいる。その一番奥の左手のノッブに白い繃帯が捲いてあるのが、問題の歌原未亡人の病室になっているのであった。
 私はそこで暫(しばら)く立ち止まっていた。ドンナ人間が歌原未亡人を見舞いに来るかと思ったので……けれどもそのうちに、受付係の書生が二人とも、ジロジロと私の顔を振り返り初めたので、私はさり気なく引返して、右手の廊下に曲り込んで行った。
 その廊下には、大きな診察室兼手術室が、会計室と、外来患者室と、薬局とに向い合って並んでいたが、その薬局の前の廊下をモウ一つ右に曲り込むと、手術室と壁一重(ひとえ)になった標本室の前に出るのであった。
 私はその標本室の青い扉(ドア)の前で立ち止まった。素早く前後左右を見まわして、誰も居ない事をたしかめた。胸をドキドキさせながら、出来るだけ静かに真鍮の把手(ハンドル)を廻してみると、誰の不注意かわからないが、鍵が掛かっていなかったので、私は音もなく扉(ドア)の内側に辷り込む事が出来た。
 標本室の内部は、廊下よりも二尺ばかり低いタタキになっていて、夥(おびただ)しい解剖学の書物や、古い会計の帳簿類、又は昇汞(しょうこう)、石炭酸、クロロホルムなぞいう色々な毒薬が、新薬らしい、読み方も解らない名前を書いた瓶と一所に、天井まで届く数層の棚を、行儀よく並んで埋めている。そうしてソンナ棚の間を、二つほど奥の方へ通り抜けると、今度は標本ばかり並べた数列の棚の間に出るのであったが、換気法がいいせいか、そんな標本特有の妙な臭気がチットモしない。大小数百の瓶に納まっている外科参考の異類異形(いぎょう)な標本たちは、一様に漂白されて、お菓子のような感じに変ったまま、澄明なフォルマリン液の中に静まり返っている。
 私はその標本の棚を一つ一つに見上げ見下して行った。そうして一番奥の窓際の処まで来ると、最上層の棚を見上げたまま立ち止まって、松葉杖を突っ張った。
 私の右足がそこに立っているのであった。
 それは最上層の棚でなければ置けないくらい丈(たけ)の高い瓶の中に、股(もも)の途中から切り離された片足の殆(ほと)んど全体が、こころもち「く」の字型に屈(かが)んだままフォルマリン液の中に突っ立っているのであった。それは最早(もう)、他の標本と同様に真白くなっていたし、足首から下は、棚の縁に遮(さえぎ)られて見えなくなっていたが、その膝っ小僧の処に獅噛(しが)み付いている肉腫の形から、全体の長さから、肉付きの工合なぞを見ると、どうしても私の足に相違なかった。そればかりでなく、なおよく瞳を凝(こ)らしてみると、その瓶の外側に貼り付けてある紙布(かみきれ)に、横文字でクシャクシャと病名らしいものが書いてある中に「23」という数字が見えるのは、私の年齢(とし)に相違無い事が直覚されたのであった。
 私はソレを見ると、心の底からホッとした。
 何を隠そう私は、これが見たいばっかりに、わざわざ病室を出て来たのであった。午前中に同室の青木だの、柳井副院長だのから聞かされた「足の幽霊」の話で、スッカリ神経を攪(か)き乱された私は、もう二度と「足の夢」を見まい……今朝(けさ)みたような気味のわるい「自分の足の幻影」にチョイチョイ悩まされるような事になっては、とてもタマラナイ……とスッカリ震え上がってしまったのであった。……のみならず私は、この上に足の夢を見続けていると、そのうちに副院長の話にあったような、片足の夢中遊行を起して、思いもかけぬ処へ迷い込んで行って、飛んでもない事を仕出(しで)かすような事にならないとも限らないと思ったのであった。……私たち兄妹(きょうだい)は、早くから両親に別れたし、親類らしい親類も別に居ないのだから、私の血統に夢遊病の遺伝性が在(あ)るかどうか知らない。しかし、些(すくな)くとも私は、小さい時からよく寝呆(ねぼ)ける癖があったので、今でも妹によく笑われる位だから、私の何代か前の先祖の誰かにソンナ病癖(びょうへき)があって、それが私の神経組織の中に遺伝していないとは、誰が保証出来よう。しかも、その遺伝した病癖が、今朝(けさ)みたような「足の夢」に刺戟(しげき)されて、極度に大きく夢遊し現われるような事があったら、それこそ大変である。否々(いないな)……今朝(けさ)から、あんな変テコな夢に魘(うな)されて、同室の患者に怪しまれるような声を立てたり、妙な動作をしたりしたところを見ると、将来そんな心配が無いとは、どうして云えよう。天にも地にもタッタ一人の妹に心配をかけるばかりでなく、両親がやっとの思いで残してくれた、無けなしの学費を、この上に喰い込むような事があったら、どうしよう。
 私は今後絶対に足の夢を見ないようにしなければならぬ。私は自分の右足が無いという事を、寝た間(ま)も忘れないようにしなければならぬ義務がある。
 それには取りあえず標本室に行って、自分の右足が立派な標本になっているソノ姿を、徹底的にハッキリと頭に印象づけておくのが一番であろう。
「貴方の足に出来ている肉腫は珍らしい大きなものですが……当病院の標本に頂戴出来ませんでしょうか。無論お名前なぞは書きませぬ。ただ御年齢(おとし)と病歴だけ書かして頂くのですが、如何(いかが)でしょうか……イヤ。大きに有り難う。それでは……」
 と院長が頭を下げて、特に手術料を負けてくれた位だから、キット標本室に置いて在るに違い無い。その自分の右足が、巨大な硝子筒(がらすとう)の中にピッタリと封じ籠(こ)められて、強烈な薬液の中に涵(ひた)されて、漂白されて、コチンコチンに凝固させられたまま、確かに、標本室の一隅に蔵(しま)い込まれているに相違無い事を、潜在意識のドン底まで印象させておいたならば、それ以上に有効な足の幽霊封じは無いであろう。それに上越(うえこ)す精神的な「足禁(あしど)め」の方法は無いであろう。
 こう決心すると私は矢も楯(たて)もたまらなくなって、同室の青木が外出するのを今か今かと待っていたのであった。そうしてヤット今、その目的を遂(と)げたのであった。果して足の幽霊封じに有効かドウカは別として……。

 私のこうした心配は局外者から見たら、どんなにか馬鹿馬鹿しい限りであろう。あんまり神経過敏になり過ぎていると云って、笑われるに違い無いであろう事を、私自身にも意識し過ぎるくらい意識していた。だから副院長に話したら訳なく見せてもらえるであろう自分の足の標本を、わざわざ人目を忍んで見に来た位であったが、しかし、そうした私の行動がイクラ滑稽(こっけい)に見えたにしても、私自身にとっては決して、笑い事ではないのであった。この不景気のさ中(なか)に、妹と二人切りで、利子の薄い、限られた貯金を使って、ドウデモコウデモ学校を卒業しなければならないという、兄らしい意識で、いつも一パイに緊張して来た私は、もう自分ながら同情に堪(た)えないくらい神経過敏になり切っていた。妹に話したら噴(ふ)き出すかも知れないほど、臆病者になり切っていたのであった。それはもうこの時既に、逸早(いちはや)く私の心理に蔽(おお)いかかっていた、片輪者(かたわもの)らしいヒガミ根性のせいであったかも知れないけれども……。
 そう思い思い私は、変り果てた姿で、高い処に上がっている自分の足を見上げて、今一つホーッと溜息をした。
 その溜息はホントウの意味で「一足お先(さ)きに」失敬した自分の足の行方を、眼の前に見届けた安心そのもののあらわれに外(ほか)ならなかった。同時に、これからは断然足の夢を見まい……両脚のある時と同様に、快活に元気よくしよう……片輪者のヒガミ根性なぞを、ミジンも見せないようにして、他人(ひと)様に対しよう……放ったらかしていた勉強もポツポツ始めよう。そうして妹に安心させよう……と心の底で固く固く誓い固めた溜め息でもあった。
 私はアンマリ長い事あおむいて首が痛くなったので、頭をガックリとうつ向けて頸(くび)の骨を休めた。そのついでに、足下の棚の低い瓶の中に眠っている赤ん坊が、額(ひたい)の中央から鼻の下まで切り割られた痕(あと)を、太い麻糸でブツブツに縫い合わせられたまま、奇妙な泣き笑いみたような表情を凝固させているのを見返りながら、ソロソロと入口の扉(ドア)の前に引返(ひっかえ)した。そこで耳を澄まして扉(ドア)を開くと、幸い誰も居ない様子なので、大急ぎで廊下へ出た。そうして元来た道とは反対に、賄場(まかないば)の前の狭い廊下から、近道伝いに自分の室(へや)に帰ると、急にガッカリして寝台の上に這い上った。枕元に松葉杖を立てかけたまま、手足を投げ出して引っくり返ってしまった。

 久しく身体(からだ)を使わなかったせいか、僅かばかりの散歩のうちに非常に疲れてしまったらしい。私は思わずグッスリと眠ってしまった。しかし余り長く眠ったようにも思わないうちに眼を醒ますと、いつの間にか日が暮れていて、窓の外には青い月影が映っている。その光りで室(へや)の中も薄明(うすあか)くなっているが、青木はまだ帰っていないらしく、夜具を畳んだままの寝台の上に、私の松葉杖が二本とも並べて投げ出してある。大方、私が眠っているうちに看護婦が来て、室(へや)の掃除をしたものであろう。
 いったい何時頃かしらんと思って、枕元の腕時計を月あかりに透かしてみると驚いた……四時をすこしまわっている。恐ろしくよく寝たものだ。ことによると時計が違っているのかも知れないが、それにしても病院中が森閑(しんかん)となっているのだから、真夜中には違い無いであろう。とにかく用を足して本当に寝る事にしようと思い思い、もう一度窓の外を振り返ると、その時にタッタ今まで真暗(まっくら)であった窓の向うの特等病室の電燈が、真白に輝き出しているのに気が付いた。こっちの窓一パイに乱れかかっているエニシダの枝越(ごし)に、白いドローンウォークの花模様が、青紫色の光明を反射さしているのがトテモ眩(まぶ)しくて美しかった。
 私はその美しさに心を惹かるるともなく、ボンヤリと見惚(みと)れていたが、そのうちに又、奇妙な事に気が付いた。
 気のせいか知れないけれども、病院中がヒッソリと寝鎮(ねしず)まっている中に、玄関の方向から特等室の前の廊下へかけては、何かしらバタバタと足音がしているようである。そう思って見ると、その特等室の眩(まぶ)しい電燈の光りまでもブルブルと震えているようで、人影は見えないけれども室(へや)の中まで何かしら混雑しているらしい気はいが感じられるようである。……もしかしたら歌原未亡人の容態が変ったのかも知れない……と思ううちに、どこか遠くからケタタマしく自動車の警笛(サイレン)が聞えて、素晴らしい速度(スピード)でグングンこっちへ近付いて来た。そうして間もなく病院の前の曲り角で、二三度ブーブーと鳴らしながらピッタリと止まった。……と思って見ているうちに、今度は特等室の電燈がパッと消えた。ドローンウォークの花模様のネガチブをハッキリと、私の網膜に残したまま……。
 その瞬間に……サテは歌原未亡人が死んだのだな……と私は直覚した。そうして……タッタ今死体を運び出して、自宅へ持って行くところだな……と考え付いた。
 私はそう考え付きながらタッタ一人、腕を組んで微笑した……が……しかし……ナゼこの時に微笑したのか自分でもよく解らなかった。多分、一昨日の夜中から昨日(きのう)の昼間へかけて、さしもに異常なセンセーションを病院中に捲き起した歌原未亡人……まだ顔も姿も知らないまんまに、私の悪夢の対象になりそうに思われて、怖くて怖くて仕様がなかったその当の本人が、案外手もなく、コロリと死んでしまったらしいので、チョット張り合い抜けがしたのが可笑(おか)しかったのであろう。それと同時に、介抱が巧く行かなかった当の責任者の副院長が、嘸(さぞ)かし狼狽しているだろうと想像した、嘲(あざけ)りの意味の微笑も交(まじ)っていたように思う。とにかくこの時の私が、妙に冷静な、悪魔的な気分になりつつ、寝台から辷り降りたことは事実であった。それから悠々と片足をさし伸ばして、寝台の下のスリッパを探すべく、暗い床の上を爪先で掻きまわしたのであったが、不思議な事に、この時はいくら探してもスリッパが足に触れなかった。私は昨日(きのう)が昨日(きのう)まで、片っ方しか要らないスリッパを、両方とも、寝台の枕元の左側にキチンと揃えておく事にしていたのだから、ドッチかに探り当らない筈は無いのであったが……。
 そんな事を考えまわしているうちに私は、何かしら、ドキンドキンとするような、気味のわるい予感に襲われたように思う。そうして尚も不思議に思い思い、慌てて片足をさし伸ばして、遠くの方まで爪先で引っ掻きまわしているうちに又、フト気が付いた。これは寝がけに松葉杖を突いて来たのだから、ウッカリして平生(いつも)と違った処にスリッパを脱いだものに違い無い。それじゃイクラ探しても解らない筈だと、又も微苦笑しいしい電燈のスイッチをひねったが……その途端に私はツイ鼻の先に、思いもかけぬ人間の姿を発見したので、思わずアッと声を上げた。寝台のまん中に坐り直して、うしろ手を突いたまま固くなってしまった。
 それは入口の扉(ドア)の前に突っ立っている、副院長の姿であった。いつの間に這入って来たものかわからないが、大方私がまだ眠っているうちに、コッソリと忍び込んだものであろう。霜降りのモーニングを着て、派手な縞のズボンを穿(は)いているが、鼻眼鏡はかけていなかった。髪の毛をクシャクシャにしたまま、青白い、冴え返るほどスゴイ表情をして、両手を高々と胸の上に組んで、私をジイと睨み付けているのであったが、その近眼らしい眩しそうな眼付きを見ると、発狂しているのではないらしい。鋭敏な理智と、深刻な憎悪の光りに満ち満ちているようである。
 臆病者の私が咄嗟(とっさ)の間(ま)に、これだけの観察をする余裕を持っていたのは、吾ながら意外であった。それは多分、眼が醒めた時から私を支配していた、悪魔的な冷静さのお蔭であったろうと思うが、そのまま瞬(またた)きもせずに相手の瞳を見詰めていると、柳井副院長も、私に負けない冷静さで私の視線を睨み返しつつ、タッタ一言、白い唇を動かした。
「歌原未亡人は、貴方(あなた)が殺したのでしょう」
「……………」
 私は思わず息を詰めた。高圧電気に打たれたように全身を硬直さして、副院長の顔を一瞬間、穴の明(あ)くほど凝視した……が……その次の瞬間には、もう、全身の骨が消え失せたかと思うくらい力が抜けて来た。そのままフラフラと寝床の上にヒレ伏してしまったのであった。
 私の眼の前が真暗になった。同時に気が遠くなりかけて、シイイインと耳鳴りがし初めた……と思う間もなく、私の頭の奥の奥の方から、世にもおそろしい、物すごい出来事の記憶がアリアリと浮かみ現われ初めた……と見るうちに、次から次へと非常な高速度でグングン展開して行った。……と同時に私の腋(わき)の下からポタポタと、氷のような汗が滴(したた)り初めた。
 それはツイ今しがた、私が起き上る前の睡眠中に起った出来事であった。
 私はマザマザとした夢中遊行を起しながら、この室をさまよい出て、思いもかけぬ恐ろしい大罪を平気で犯して来たのであった。しかも、その大罪に関する私の記憶は、普通の夢中遊行者のソレと同様に、夢遊発作のあとの疲れで、グッスリと眠り込んでいるうちに、あとかたもなく私の潜在意識の底に消え込んでしまっていたので、ツイ今しがた眼を醒ました時には、チットモ思い出し得ずにいたのであったが……そのタマラナイ浅ましい記憶がタッタ今、副院長の暗示的な言葉で刺戟されると同時に、いともアザヤカに……電光のように眼まぐるしく閃(ひら)めき現われて来たのであった。
 それは確かに私の夢中遊行に違い無いと思われた。

 ……フト気が付いてみると私は、タオル寝巻に、黒い革のバンドを捲き付けて、一本足の素跣足(すはだし)のまま、とある暗い廊下の途中に在る青ペンキ塗りの扉(ドア)の前に、ピッタリと身体(からだ)を押し付けていた。そうして廊下の左右の外(はず)れにさしている電燈の光りを、不思議そうにキョロキョロと見まわしているところであった。
 その時に私はチョット驚いた。……ここは一体どこなのだろう。俺は松葉杖を持たないまま、どうしてコンナ処まで来ているのだろう。そもそも俺は何の用事があってコンナペンキ塗りの扉(ドア)の前にヘバリ付いているのだろう……と一生懸命に考え廻していたが、そのうちに、廊下の外れから反射して来る薄黄色い光線をタヨリに、頭の上の鴨居(かもい)に取り付けてある瀬戸物の白い標札を読んでみると、小さなゴチック文字で「標本室」と書いてあることがわかった。
 それを見た瞬間に私は、私の立っている場所がどこなのかハッキリとわかった。……と同時に私自身を、この真夜中にコンナ処まで誘い出して来た、或るおそろしい、深刻な慾望の目標が何であるかという事を、身ぶるいするほどアリアリと思い出したのであった。
 私はソレを思い出すと同時に、暗がりの中で襟元をつくろった。前後を見まわしてニヤリと笑いながら、タオル寝巻の片袖で、手の先を念入りに包んで、眼の前の青ペンキ塗りの扉(ドア)に手をかけたが、昼間の通りに何の苦もなく開(あ)いたので、そのまま影法師のように内側へ辷り込んで、コトリとも云わせずに扉(ドア)を閉め切る事が出来た。
 向うの窓の磨硝子(すりガラス)から沁(し)み込む、月の光りに照らし出されたタタキの上は、大地と同様にシットリとして冷めたかった。私はその上を片足で飛び飛び、向うの棚の端まで行ったが、その端の方に並んでいる小さな瓶の群の中でも、一番小さい一つを取り上げて、中を透かしてみると、何も這入っていないようである。キルクの栓を開けて嗅(か)いでみても薬品らしい香気が全く無い。
 私はその瓶を片手に持ったまま、室の隅に飛んで行って、そこに取り付けてある手洗場の水でゆすぎ上げて、指紋を残さないように龍口栓(コック)の周囲まで洗い浄めた。それからその瓶を懐中(ふところ)に入れて、又も一本足で小刻みに飛びながら棚の向う側に来たが、ちょうど下から三段目の眼の高さの処に並んだ、中位の瓶の中でも、タッタ一つホコリのたかっていない紫色のヤツを両袖で抱え卸(おろ)して、月あかりに透かしてみると、白いレッテルに明瞭な羅馬(ローマ)字体で「CHLOROFORM」……「[#ここから横組み]十ポンド[#ここで横組み終わり]」と印刷してあった。
 その瓶の中に七分通り満たされている透明な、冷たい麻酔薬の動揺を両手に感じた時の、私の陶酔(とうすい)気分といったら無かった。この気持ちよさを味わいたいために、私はこの計画を思い立つのだと考えても、決して大袈裟(おおげさ)ではないくらいに思った。
 私はその瓶を大切に抱えたまま、ソロソロと月明りの磨硝子(すりガラス)にニジリ寄った。窓の框(かまち)に瓶の底を載せて、パラフィンを塗った固い栓を、矢張り袖口で捉えて引き抜いた。顔をそむけながら、その中の液体を少し宛(ずつ)小瓶の中に移してしまうと、両方の瓶の栓をシッカリと締めて、大きい方を元の棚に返し、小さい方を内懐(うちぶところ)に落し込んだ……が……その濡れた小瓶が、臍(へそ)の上の処で直接に肌に触れて、ヒヤリヒヤリとするその気持ちよさ……。
 それから私はソロソロと扉(ドア)の処へ帰って来て、聴神経を遠くの方まで冴え返らせながら、ソット扉(ドア)を細目に開いてみると、相変らず誰も居ない。病院中は地の底のようにシンカンと寝静まっている。
 私の心は又も歓喜にふるえた。心臓がピクンピクンと喜び踊り出した。それを無理に押ししずめて廊下に出ると、ゼンマイ人形のようにピョンピョン飛び出したが、鍛えに鍛えた私の趾(あしゆび)の弾力は、マットを敷いた床の上に何の物音も立てないばかりでなく、普通人が歩くよりも早い速度で飛んで行くのであった。
 私の胸は又も躍った。
 片足の人間がコンナに静かに、早い速度で飛んで行けるものとは誰が想像し得よう。これは中学時代からハードルで鍛え上げた私にだけ出来る芸当ではなかろうか。これならドンナ罪を犯しても知れる気づかいは無いであろう。……逃げる早さだって女なぞより早いかも知れないから、自分の病室に帰って来て寝ておれば、誰一人気づかないであろう。……俺は片足を無くした代りに、ドンナ悪事をしても決して見付からない天分を恵まれたのかも知れない……なぞと考えまわすうちに、モウ玄関の処まで来てしまった。
 ……これは拙(まず)かった。こっちへ来てはいけなかった。やはり一先ず自分の病室に帰って、裏の廊下伝いに行かなければ……と私はその時に気が付いたが、そう思い思い壁の蔭からソッと首をさし伸ばしてみると、いい幸いに重症患者が居ないと見えて、玄関前の大廊下には人っ子一人影を見せていない。玄関の正面に掛かった大時計が、一時九分のところを指しながら……コクーン……コクーン……と金色の玉を振っているばかりである。
 その大きな真鍮(しんちゅう)の振り子を見上げているうちに、私の胸が云い知れぬ緊張で一パイになって来た。
 ……グズグズするな……。
 ……ヤッチマエ……ヤッチマエ……。
 と舌打ちする声が、廊下の隅々から聞えて来るように思ったので、我れ知らずピョンピョンと玄関を通り抜けて、向うの廊下のマットに飛び乗って行った。
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