白菊
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著者名:夢野久作 

 脱獄囚の虎蔵(とらぞう)は、深夜の街道の中央(まんなか)に立ち悚(すく)んだ。
 黒血だらけの引っ掻き傷と、泥と、ホコリに塗(ま)みれた素跣足(すはだし)の上に、背縫(せぬい)の開いた囚人服を引っかけて、太い、新しい荒縄をグルグルと胸の上まで巻き立てている彼の姿を見たら、大抵の者が震え上がったであろう。毬栗頭(いがぐりあたま)を包んだ破れ手拭(てぬぐい)の上には、冴(さ)え返った晩秋の星座が、ゆるやかに廻転していた。
 虎蔵はそのまま身動き一つしないで、遥か向うの山蔭に光っている赤いものを凝視していた。その真白く剥き出した両眼と、ガックリ開(あ)いた鬚(ひげ)だらけの下顎(したあご)に、云い知れぬ驚愕(きょうがく)と恐怖を凝固させたまま……。
 それは虎蔵が生れて初めて見るような美しい、赤い光りであった。それは彼が永いこと飢え、憧憬(あこが)れて来たチャブ屋の赤い光りとは全然違った赤さであった。又、彼が時々刻々に警戒して来た駐在所や、鉄道線路の赤ラムプの色とも違っていた。ネオンサインの赤よりもズット上品に、花火の赤玉よりもズットなごやかな、綺麗なものであった。……といって閨房(けいぼう)の灯(あかり)らしい艶媚(なまめか)しさも、ほのめいていない……夢のように淡い、処女のように人なつかしげな、桃色のマン丸い光明(こうみょう)が、巨大(おおき)な山脈の一端(はな)らしい黒い山影の中腹に、ほのぼのと匂っているのであった……ほほえみかけるように……吸い寄せるように……。
 虎蔵はブルッと一つ身震いをした。口の中でつぶやいた。
 ……まさか……手がまわっている合図じゃあんめえが……ハアテ……。

 虎蔵は一箇月ばかり前に、網走(あばしり)の監獄を破った五人組の一人であった。その中でも、ほかの四人は、それから一週間も経たないうちにバタバタと捕まってしまったので、今では全国の新聞の注意と、北海道の全当局の努力を、彼一人に集中させているのであった。
 そればかりでない。
 虎蔵の強盗時代の仕事ぶりは「ハヤテの虎」とか「カン虎」とかいう綽名(あだな)と一緒に、ズット以前から、世間の評判になっていた。
 綽名の通りカンの強い彼は、脅迫(おどし)のために人を傷(きずつ)ける場合でも、決して生命(いのち)を取るようなヘマをやらないのを一つの誇りにしていた。……のみならず彼は仕事をした界隈(かいわい)で、決して女にかからなかった。遥かの遠い地方に飛んで、絶対安全の見込みが付いた上でなければ、ドンナ事があっても酒と女を近付けなかった。そうして蓄積した不眠不休の精力とすばらしい溜(た)め喰(ぐ)いと、無敵の健脚を利用した逃走力でもって、到る処の警戒線を嘲弄(ちょうろう)し、面喰らわせるのを、一本槍(やり)の逃走戦術にして来たものであった。
 だからその虎蔵が、久し振りにその筋の手にあがると間もなく、網走の監獄を破って逃走したという一事は、全国のセンセーションを捲き起すのに十分であった。況(いわ)んや、それが一箇月もの永い間、縛(ばく)に就(つ)かない事が一般に知れ渡ってしまった今日、結局……「虎蔵が北海道を出ないうちに捕まるか、捕まらないか」という問題が、全国の紙面に戦慄的な興味を渦巻かせているのは当然であった。
 そればかりでない。
 今度の脱獄後の彼は、どこまでも囚人服を着換えなかった。到る処で彼自身に相違ない事を名乗り上げながら仕事をして来た。そうした方が脅喝(きょうかつ)に有利であったばかりでなく、そこを目星にして集中して来るその筋の手配りを、引外(ひきはず)し引外し仕事をした方が、遥かに安全である事を幾度となく、事実上に証拠立てて来たものであった。
 ……俺は普通(ただ)の強盗とは違うんだぞ。そのうちにタッタ一つ大きな仕事をして、大威張りで北海道を脱け出すまでは、ケチな金や、ハシタ女(め)には眼もくれないんだぞ……。
 といったような彼一流のプライドを、そうした仕事ぶりの到る処に閃(ひら)めかして来たことは云うまでもない。
 ……とはいえ……虎蔵のこうした精力の鬱積が、今度の脱獄後に限って、異常な影響を彼の仕事振りに及ぼして来た事実だけは、流石(さすが)の虎蔵も自覚していなかった。それはその脱獄当時に、一人の老看守の頭を、彼自身の手でタタキ割った一刹那(せつな)から来た、心境の変化であったかも知れない。又は四十を越した彼の体質から来た性格上の変化であったかも知れないが、いずれにしても今度の脱獄後の彼の手口は、まるで今までとは別人のように残虐な、無鉄砲なものに変形していた。
 彼は人跡絶えた北海道の原始林や処女林の中を、殆んど人間業(わざ)とは思えない超速度で飛びまわりながら、時々、思いもかけぬ方向に姿を現わして、彼独特の奇怪な犯行を逞しくして来た。……酔い臥(ふ)しているアイヌの酋長(しゅうちょう)を、その家族たちの眼の前で絞殺して、秘蔵のマキリ(アイヌが熊狩りに用いる鋭利な短刀)一挺(ちょう)と、数本の干魚(ほしうお)を奪い去った。……かと思うと、それから二三日のうちに、三十里も距たった新開農場の一軒家に押入って、ちょうど泣き出した嬰児(あかんぼ)の両足を掴むと、面白そうに笑いながら土壁にタタキ付けた。そうして若夫婦を威嚇(いかく)しいしい、悠々と大飯を平らげて立去った。……かと思うと、その兇行がまだ新聞に出ない翌日の白昼に、今度は十数里を飛んだ山越えの街道に現われて、二人の行商人に襲いかかった。若い二人の男が、仲よく笑い話をして行く背後(うしろ)から突然に躍りかかって一人を刺殺(さしころ)すと、残った一人を威嚇しながら、やはり二人の弁当の包みだけを奪って、又も悠々と山林に姿を消した。北海道のような深い山々では、内地のような山狩りが絶対に行われない事を、知って知り抜いているかのように悠々と……。
 ……虎蔵が人を殺した……しかも連続的に……そうしてまだ捕まらずにいる……という事実に対して、毎日毎日の新聞紙面が、如何(いか)に最大級の驚愕と戦慄を続けて来たか。全北海道の住民が、そうした脱獄囚の姿に毎夜毎夜どれほど魘(うな)されて来たか、そうして全道の警察の神経と血管が、連日連夜、どれ程の努力に疲れ果てて来たことか……。
 その中を脱(ぬ)けつ潜(くぐ)りつ虎蔵は、寒い寒い北海道の山の中を馳けまわる事一箇月あまり……とうとうどこがどうやら解からなくなったまま、人を殺しては飯を喰い、食料品(くいもの)を奪っては兇器を振廻わして来た。そうして真冬にならない内に、是が非でも何か一つの大仕事にぶつかるべく、突詰められた餓え狼のような気持ちで山又山を越えて来るうちに、タッタ今ヒョッコリと、どこかわからない大きな街道に出たと思う間もなく、思いがけない真向うの山蔭に、今まで見た事もない美しい、赤い光りを発見したのであった。何となく神秘的な……不可思議な……たまらなくなつかしいような……。

 虎蔵は面喰らった上にもめんくらった。幾度も幾度も眼を擦(こす)った。何故(なにゆえ)ともなく胸の躍るのを感じながら、左右に白々と横たわっている闇夜の街道を見まわした。自分で自分に云い聞かせるようにつぶやいた。
「……まさか……俺を威(おど)かすつもりじゃあんめえが……ハアテナ……」
 虎蔵はやがて両腕を組んだまま、その光りに吸い寄せられるようにスタスタと歩き出していた。深夜の草山を押し分けて、一直線に赤い光りの方向へ近付いて行くと、そのうちに虎蔵の眼の前の闇の中に、要塞のように仄(ほの)黄色い、西洋館造りの大邸宅が浮かみ現われて来た。
 赤い光りは、その大邸宅の右の端にタッタ一つ建っている、屋根の尖(と)んがった、奇妙な恰好の二階の窓から洩れて来るのであった。そのほかに燈光(あかり)の洩れている部屋は一つもないらしく、さしもの大邸宅が隅から隅まで死んだように寝静まっている事が、間もなく彼の第六感にシミジミと感じられて来た。
 虎蔵はモウ一度、前後左右を見まわした。
「……フフン……コイツは案外、大仕事かも知れんぞ……」
 とつぶやきながら微(ひそ)かに胸を躍らした。本能的に用心深い足取りで、高い混凝土塀(コンクリートべい)を半まわりして、裏手の突角(とっかく)の処まで来た。そうして矢張り本能的に懐中のマキリを鞘(さや)から抜き出して、歯の間にガッチリと啣(くわ)えた。その突角を両手と両膝の間に挟んでジリジリと上の方へ登り初めた。気が遠くなる程の空腹を感じながら……。
 一丈(じょう)ばかりの高い混凝土塀を越えると、内部(なか)は広い花壇になっているらしい。何だかわからない秋の草花が闇の中に行儀よく列を作って、一パイに露を含んでいる中を、マキリを啣えた囚人姿の虎蔵が、ヒソヒソと匐(は)い進んで行くのであったが、そのうちに闇夜の草花の水っぽい、清新な芳香(におい)が、生娘(きむすめ)の体臭のように、彼の空腹に泓(し)み透って来た。白々とした女の首や、手足や、唇や、腹部の幻像を、真暗な彼の眼の前に、千切れ千切れに渦巻かせながら、全身が粟立(あわだ)って、クラクラと発狂しそうになるまで、彼の盲情をソソリ立てるのであった。彼は暫くの間、唇を噛んで、ベコニヤの鉢の間にヒレ伏していた。
 ……助けてくれ……。
 と叫び出したいような気持ちを、ジッと我慢しながら……そうしてヤットの思いで気分を取り直すと、虎蔵はイヨイヨ静かにベコニヤの鉢の間を抜けて、綺麗に刈り込んだ芝生の上に匐い上った。
 眼ざす二階家は直ぐ眼の前に在った。
 彼は極度に冷静になった。同時にたまらない程、残忍になった。容易ならぬ荒療治に引っかかりそうな予感と、世にも不思議な赤い光りに対する緊張が、彼の全身を空気のように軽くした。

 彼の眼の前には、白っぽい石の外廊下の支柱が並んでいて、その行き止まりが、やはり白い石の外階段になっている。その中央に続きに敷かれた棕梠(しゅろ)のマットの上を、猫のように緊張しながら匐い登って行くと、すぐに一つの頑丈な扉(と)に行き当った。
 その扉を見上げ、見下しているうちに虎蔵は又も、ドキンドキンとさせられた。
 それは虎蔵が今日(こんにち)まで幾度となく、あこがれ望んでいながら、一度も行当(ぶつか)った記憶(おぼえ)のない種類の扉であった。その内側に巨万の富を蔵(しま)い込んでいるらしい……黒い……重たい……マン丸く光る黄金色の鋲(びょう)を縦横に打ち並べた……ただその扉が普通と違うところは、その把手(ハンドル)が少し低目に取付けてある事と、鍵穴らしいものがどこにも見当らない事であった。
 ……ハテナ……内側から堅固(じょうぶ)な閂(かんぬき)が突支(つっか)ってあるのかな……。
 そう気が付くと同時に虎蔵は、全身がシインとなるほど失望した。この扉(とびら)を破るのは容易でない……と考えたからであった。そうしてここまで、無意味に釣り寄せられて来た自分の冒険慾を、心の片隅で後悔し初めた。
 ……この扉(と)に触ると、直ぐに電気仕掛か何かで、ほかへ知らせるようになっているに違いない……。
 と思い思い虎蔵は、仄かな赤い光りに照らし出された花壇の片隅を、暫くの間、見下していた……が……それでも僅かに残った糸のような未練と、万一の場合の逃走力を空頼みにした彼は、彼の生涯の運命を賭ける気持で、扉の把手(ノッブ)を確(しっか)りと掴んだ。ソーッと右へ捻(ね)じってみた……。
 ……アッ……と声を挙げるところであった。電気に打たれたように階段を二三段飛び降りた。
 扉は何の締りもしてなかった。僅かな力で把手(ノッブ)を捻じられた扉が、音もなく開くと、思いもかけぬ赤い光りの隙間が、彼の鼻の先に、縦に一直線に出来たのであった。
 虎蔵はジリジリと首を縮めた。背中を丸くして膝を曲げた。息を殺して背後(うしろ)を見廻わした。どこからか怪しい物音が近付いて来はしまいかと、耳を澄まし、眼を凝(こ)らしながら身構えていたが、そのうちに薄黒いダンダラを作った花壇の向う側の暗黒を、白々と横切っている混凝土(コンクリート)塀に眼を止めると、彼は思わずニンガリと冷笑して首肯(うなず)いた。ゆるゆると背中を伸ばしながら、眼の前の赤い光りの隙間をかえりみた。
 ……ハハン……あの高土塀が在ると思って、安心してケツカルんだな……。
 そう思い付くと同時に、虎蔵の全血管の中に新しい勇気が蘇って来た。深刻な空腹と、極度に緊張した冷血さが、彼の全身数百の筋肉に疼(うず)きみちみちて来た。それにつれて、
 ……これこそ俺の最後の大仕事かも知れないぞ……。
 という強烈な職業意識が、スキ透るほどギリギリと、彼の奥歯に噛み締められて来た。
 恐ろしいものが一つ一つに彼の周囲から消え失せて行った。
 彼は生皮革(なまがわ)で巻いたマキリの□(つか)をシッカリと握り直した。谷川の石で荒磨(あらとぎ)を掛けた反(そり)の強い白刃(しらは)を、自分の背中に押し廻しながら、左手で静かに扉を押した。

 それは天井の高い、五間(けん)四方ぐらいの部屋であった。幽雅な近代風のゴチック様式で、ゴブラン織の深紅(しんく)の窓掛を絞った高い窓が、四方の壁にシンカンと並んでいた。
 その窓と窓の間の壁面(かべ)に、天井近くまで畳み上げられている夥(おびただ)しい棚という棚には、一面に、子供の人形が重なり合っているようである。和洋、男女、大小を問わず、裸体、半裸体、軽装、盛装の種類をつくして、世界中のあらゆる風俗を現わしているらしい抱き人形の一つ一つが皆、その大きく開いた眼で、あらぬ空間を眺めながら、この上もなく可愛らしい微笑を含んでいるようである。永遠に変らぬ空虚のイジラシサを競い合っているようである。
 虎蔵は眼をパチパチさせた。瞼(まぶた)をゴシゴシとこすって瞳を定めた。
 部屋の中央には土耳古(トルコ)更紗(さらさ)を蔽(おお)うた、巨大な丸卓子(テーブル)が置いてある。その上には、さながらに、それ等の人形たちが遊び戯れた遺跡であるかのように、色々な食器、豆のような玩具、花籠(はなかご)、小さな犬、猫、鼠、猿、小鼠のたぐいが、殆んど数限りなく、行儀のいい円陣や、方陣を作って並んでいる。その間に静止している巨大な甲虫(かぶとむし)、華麗な蝶々、実物大の鳩、雛子(ひよっこ)、木兎(みみずく)……。
 又、その丸卓子(テーブル)の周囲には、路易(ルイ)王朝好みのお乳母(うば)車、華奢(きゃしゃ)な籐椅子(とういす)、花で飾った揺籠(クレードル)、カンガルー型のロッキングなぞが、メリー・ゴー・ラウンド式に排列されている……そんなもの一つ一つにも、それぞれ様々の微笑を含んだ人形が、ピエロ姿の行列を作ってブラ下がったり、振袖(ふりそで)姿で枕を並べたり、海水着のまま、魚のようにビックリした瞳(め)をして重なり合ったりしている。
 その中央の高い、暗い、円(まる)天井から、淡紅(うすべに)色の絹布(きぬぎれ)に包まれた海月(くらげ)型のシャンデリヤが酸漿(ほおずき)のように吊り下っていたが、その絹地に柔らげられた、まぼろしのような光線が、部屋中の人形を、さながらに生きたお伽話(とぎばなし)のようにホノボノと、神秘めかしく照し出しているのであった。
 虎蔵は、その光りを浴びたまま棒立ちになってしまった。鼻息さえもし得ないまま、そうした不可思議な光景を見まわしていた。
 それは彼が夢にも予期していなかった光景であった。……否(いや)……彼が生れて初めて見る不可解な部屋であった。彼の頭脳(あたま)では到底、理解出来そうにない人形ばかりの小宇宙……この上もなく美しい桃色の微笑の世界……その神秘と、平和にみちみちた永遠の空虚の中に、偶然に……真に偶然に迷い込んでいる彼自身の野獣ソックリの姿……。
 彼は気もちが変テコになって来た。頭がガランドウになって、今にも眼がまわりそうに胸が悪くなって来た。
 彼はヨロヨロと背後(うしろ)によろめいた……が……又も、ひとりでに立止った。そうして彼自身の浅猿(あさま)しい姿を今更のように見まわしながら、何故(なにゆえ)ともわからない、長い長いふるえた溜息をしかけた。同時に、全身にビッショリと生汗(なまあせ)を掻いているのに気が付いたが、そのうちに又、フト気が付いて、見るともなく丸卓子(テーブル)の向う側を見るとハッとした。頭の毛がザワザワと駈け出しかけて又止んだ。
 丸卓子(テーブル)の向うの仄(ほの)暗い右側には、黝(くろ)ずんだ古代雛(びな)……又、左側には近代式の綺羅(きら)びやかな現代式のお姫様が、それぞれに赤い段々を作って飾り付けてある。その中央の特別に大きな、高い窓に近く、こればかりは本式らしい金モールと緋房(ひぶさ)を飾った紫緞子(むらさきどんす)の寝台が置いてあって、女王様のお寝間(ねま)じみた黄絹(きぎぬ)の帷帳(とばり)が、やはり金モールと緋房ずくめの四角い天蓋(てんがい)から、滝の水のように流れ落ちている。その蔭に仄見えている白絹らしい掛布団から、半分ほど握り締めた左手の手首が覗(のぞ)いている。……それが、どうやら七八ツばかりの、生きた女の児(こ)の手首に見えるのであった。
 その無心な可愛らしい手首を見ているうちに虎蔵はやっと吾に帰った。同時に、生汗に冷え切った全身がゾクゾクとして来た。……この部屋の全体が含んでいる不可思議な意味と、この部屋の主人公の正体が、同時にわかって来たような気がしたので……。

 虎蔵は自分でも気付かないうちに身を屈(かが)めていた。床の上の華麗(はなやか)な露西亜(ロシア)絨氈(じゅうたん)の上に腹匍(はらば)いになって、ソロソロとその寝台の脚下(あしもと)に忍び寄って行った。何故(なぜ)ともわからない焦燥を感じながら……。
 ……それはこの部屋の女主人公(ヒロイン)と思われる緞子(どんす)の寝台の主(ぬし)が、果して自分の推量通りに生きた女の児に相違ないか……それとも、やはり、ほかの人形と同様の飾り物に過ぎないかどうかを、是非とも一度たしかめてみたい……というような彼一流の無智な、盲目的な好奇心に、彼自身が囚(とら)われていたせいかも知れない。又は現在、極度に鋭敏になっている彼の嗅覚(きゅうかく)が、その寝台の方向からほのめいて来るチョコレートのような、牛乳のような、甘い甘い芳香(ほうこう)に誘われたせいであったかも知れないが……。
 彼は丸卓子(テーブル)の蔭を、寝台の一間(けん)ばかり手前まで匍って来ると、ソ――ッと顔を上げてみた。思ったよりも薄暗い、寝台の中に瞳を凝らした。
 彼は今更のように固唾(かたず)を嚥(の)んだ。
 それは夥しい、美しい黄金色(こがねいろ)の渦巻毛(カール)を、大きな白麻(しろあさ)の西洋枕の上に横たえている西洋人の女の児であった。年頃はよくわからないが、恐らくこの部屋中のどの人形よりも端麗な、神々しい眼鼻立ちであったろう。額(ひたい)と鼻筋のすきとおった……眉の長い、睫(まつげ)の濃い、花びらのように頬を紅くした寝顔が、あどけなく開(あ)いた小さな唇から、キレイな乳歯をあらわしながら、こころもちこっち向きに傾いているのであった。
 その枕元には萎(しお)れた秋草の花束と、二三冊の絵本と、明日(あす)のおめざらしい西洋菓子が二つ、白紙に包んで置いてあった。そうしてその寝台の裾(すそ)の床の上には、少女よりも心持ち大きいかと思われる棕梠(しゅろ)の毛製の熊が一匹、少女の眠りを守護(まも)るかのように、黒い、ビックリした瞳(め)を見開きながら、寝台に倚(よ)りかかって坐っているのであった。
 ……人形じゃねえぞ……これは……。
 彼は息を殺して固くなった。
 彼は脚下の熊とおなじように、両眼をマン丸く見開きながら、なおも一心に寝台の中を覗き込んだ。今にも眼の前の少女が大きな寝息をしそうに思われたので……そうしてパッチリと青い眼を見開いて、彼を見上げそうな気がしたので……。
 部屋の中の何もかもが、彼の耳の中でシンカンと静まり返った。
 少女の寝息とも……牛乳の香気(におい)とも……萎れた花の吐息(といき)ともつかぬ、なつかしい、甘ったるい匂いが、又もホノボノと黄絹の帷帳の中から迷い出して来た。

 ……突然……彼はブルブルと身震いをした。
 この一箇月の間じゅう、彼の全身に渦巻き、みちみちて来たアラユル戦慄的なものが、その甘ったるい芳香(におい)の中で、一斉に喚(よ)び醒(さ)まされたのであった。その中からモウ一つ更に、極度の惨烈さにまで尖鋭化され、変態化され、猟奇化されて来た或るものが、トテモ抵抗出来そうにない、最後的の威力をもってモリモリと爆発しかけて来たのであった。
 ……コンナ機会(やま)は二度とねえんだぞ……しかも相手は毛唐(けとう)の娘じゃないか……構う事はねえ……やっつけろ……やっつけろ……。
 と絶叫しながら……。
 彼は今一度ブルブルと身震いをした。鮮やかな空色と、血紅色と、黒色の稜角(りょうかく)を、花型に織り出した露西亜絨氈の一角に、泥足のままスックリと立ち上った。右手に持ったマキリを赤い光線に透かしてみると、眼と口を真白く見開いて、声のない高笑いを笑いながら、おもむろに仄暗い丸天井を仰ぎ見た。
 それはさながらに鉄の檻(おり)を出た狂人の表情であった。
 彼は何の躊躇もなく悠々と寝台に近寄って、薄い黄絹を引き捲くった。白いレエスに包まれている少女の、透きとおった首筋の向う側に、イキナリ右手のマキリを差し廻わしながら、左手でソロソロと緞子の羽根布団をめくった。同時にモウ一度、彼独特の物凄い笑いを、顔面に痙攣(ひきつ)らせた。
「……エヘ……エヘ……声を立てる間(ま)はねえんだよ。ええかねお嬢さん。温柔(おとな)しく夢を見ているんだよ……ウフウフ……」
 それから返り血を避けるべく、羽根布団を引き上げながら、すこしばかり身を背向けた。……すると……そうした気持ちにふさわしくそこいら中がモウ一度、彼の耳の中でシンカンとなった。

 ……その一刹那であった。
 少女の枕元に当る大きな硝子(ガラス)窓の向うを、何かしら青白いものが、一直線にスウーと横切(よぎ)って行った。
 彼はハッとしてその方向を見た。少女の首筋からマキリを遠ざけながら首を伸ばした。
 ……今まで気が付かなかったが、薄い黄絹の帷越(とばりご)しによく見ると、窓の外は一パイの星空であった。今の青白い直線は、その星の中の一つが飛び失せたものに相違なかった。それに連れて……やはり今まで気が付かなかった事であるが、どこか遠く遠くの海岸に打ち寄せるらしい深夜の潮の音が、微(かす)かに微かに硝子窓越しに聞えて来るのであった。それは、おおかた彼自身が、知らず知らずのうちに高い処へ来ていたせいであったろう……。
 彼は緊張し切った態度のまま、その音に耳を澄ました。それから、やはりシッカリした身構えのうちに少女の寝顔と、右手のマキリを見比べた。
 部屋の中に漾(ただよ)うている桃色の光りを白眼(にら)みまわした。
 その光りが淀(よど)ませている薄赤い暗がりの四方八方から、彼に微笑(ほほえ)みかけている、あらゆる愛くるしい瞳(め)と、唇の一つ一つを念入りに眺めまわしているうちに、又もギックリと振り返って、窓の外の暗黒を凝視した。
 ……その時に又一つ……。
 ……ハッキリと星が飛んだ……。
 ……銀色の尾を細長く引いて……。
 彼は愕然(がくぜん)となった。魘(おび)えたゴリラのように身構えをし直して、少女の顔を振り返った。
 ……この深夜に……開放(あけはな)された部屋の中で……タッタ一人眠っている西洋人の娘……。
 ……物騒な北海道の山の中で、可愛い娘にコンナ事をさせている毛唐の大富豪(おおがねもち)……。
 ……これは人間の心か……。
 ……神様の心か……。
 そんなような超常識的な常識……犯罪者特有の低能な、ヒネクレた理智が、一時に彼の中に蘇ったのであった。白熱化した彼の慾情をみるみる氷点下に冷却し初めたのであった。云い知れぬ恐怖の旋風となって、彼の足の下から襲いかかったのであった。
 ……俺は……俺は現在(いま)、何かしらスバラシイ陥穽(おとしあな)の中に誘い込まれているのじゃないか……。
 ……コンナ大邸宅の中にタッタ一つ灯(とも)されている赤い灯(ひ)……。
 ……締りのない扉(と)……。
 ……数限りない人形の部屋……。
 ……その中にタッタ一人眠っている生きた人形のような美しい少女……。
 ……思いも付かない、おそろしい西洋人の係蹄(わな)……???……。
 彼の膝頭(ひざがしら)が我れ知らずガクガクと動いた。歯の根がカチカチと鳴り出した。ジリジリと後退(あとずさ)りをしながら、薄い黄絹のカアテンを、腫れ物に触るようにして潜(もぐ)り出た。一足飛びに大卓子(テーブル)をめぐって部屋の外へ飛び出した。
 ハヤテのように石の階段を馳け降りて、外廊下から芝生の上に飛び出した。と、思った瞬間に、何かしら人間らしいものから片足を抄(すく)い上げられたと思うと、モンドリ打って芝生の上にタタキ付けられた。
 ……息が詰まったかと思う腰の痛さを、頭の中心まで泌(し)み渡らせながら彼は、咄嗟(とっさ)に半身を起してマキリを構えた。眼の前、一間(けん)ばかり向うの闇の中に跼(うずく)まっている白い物体に対(むか)って身構えた。
 ……破滅……???……。
 と心の中で魘えながら……。
 しかし白いものは動かなかった。依然として外廊下の石柱の根元に跼(かが)まっているばかりでなく、その白い、フックリした固まりの各部分が、すこしずつユラユラと揺れ合っているのが、星明りに透かして見えるようである。それに連れて何ともいえない品のいい菊の花の芳香(におい)がスッキリと闇を透して、彼の周囲に慕い寄って来た。
 彼はマキリを取落した。……三度(みたび)、呆然(ぼうぜん)となった。
 何から何まで馬鹿にされ、オモチャにされつくしたまま、ミジメに投げ出されている彼自身を、ヒイヤリとした芝生の上に発見して、泣く事も、笑う事も出来ない気持ちになってしまった。極度にタタキ付けられた選手のように、スッカリ混乱してしまったまま……両脚を投げ出して、後手(うしろで)を突いたまま……腹立たしい菊の花の芳香(におい)を、いつまでもいつまでも呼吸していた。

 しかし、そのうちに彼はヤットの思いで立ち上った。手も力もなく蹌踉(よろめ)きながら、はだかった胸を掻き合わせて、露深い草の上に落ちたマキリを探し当てて、懐中(ふところ)の鞘(さや)に納めながら、花壇の方向へスタスタと立ち去ろうとした……が……又もピッタリと立佇(たちど)まって振り返った。石柱の下に静まり返っている白菊の鉢を見返りながら腕を組んで考え込んだ。混乱した頭を鎮(しず)めよう鎮めようと努力した。
 ……俺はここへ何をしに来たんだ。……そうして……このまま帰ったら俺は一体どうなるんか……。
 やがて彼は闇の中でガックリとうなずいた。
 忽ちツカツカと石柱の根元に歩み寄って、盛り上った白菊の鉢に両手をかけた。
「……エエ糞(くそ)……このまま帰ったら俺あ型なしになるんだぞ……畜生。どうするか見よれ」
 とイキミ声を出しながらジワジワと鉢を持ち上げかけた。
「俺が来た証拠だ……畜生……」
 それは疲れ切った、空腹の彼にとっては、実に容易ならぬ大事業であった。大の男が二人がかりでもどうかと思われる巨大な白菊の満開の鉢を、ヤットの思いで胸の上まで抱え上げるうちに、彼の全身は、新しい汗で水を浴びたようになった。その夜露と泥とで辷(すべ)り易くなった鉢の底を、生命(いのち)カラガラ肩の上に押し上げて、よろめく足を踏み締めながら、外廊下のマットの上を一歩一歩と階段に近づいて行った時に彼は、幾度も幾度も今度こそ……今度こそ気が遠くなって、引っくり返るのじゃないかと危ぶんだ。
 彼はそれから一歩一歩と、無限の地獄に陥(お)ち込むような怖ろしい思いを繰り返しながら、石の階段を登って行った。それから開け放されたままの扉(と)の中へ、中腰のままジリジリと歩み入って、向うの窓際まで一歩一歩と近づいて来ると、両足を力一パイ踏み締めて立ち佇(どま)った。
 彼は肩の上に喰い込んでいる菊の鉢を、そのまま、眠っている少女の頭部(あたま)めがけて投げ付けたい衝動を、ジット我慢しながらモウ一度、寝台の中を白眼(にら)み付けた。
 ……畜生……ブチ殺した方が面黒(おもくれ)えかも知れねえんだが……それじゃ俺の意地が通らねえ。タタキ付けて逃げ出したと思われちゃ詰まらねえかんな……畜生……。
 と唇を噛み締めながら考えた。
 彼は、それから更に、今までの苦しみに何層倍した、新しい苦しみに直面させられた。彼が、四十年の生涯のうちに一度も体験した事のない……髪の毛が一本一本に白髪(しらが)になってしまいそうな、危険極まる刹那刹那を、刻一刻に新しく新しく感じながら、死ぬ程重たい花と土の塊(かた)まりを、肩から胸へ……胸から床の上へソーッと抱え下した。アザヤカな淡紅色を帯びて、噎(む)せかえるほど深刻に匂う白い花ビラの大群を、静かに少女の枕元に置き直すと、ポキンポキンと音を立てる腰骨を一生懸命に伸ばしながら、長い長いふるえた溜め息を吐(つ)いた。そのまま、暫くの間、眼を閉じ、唇を噛んで、荒い鼻息を落ち付けていたが、そのうちに彼は思い出したように眼を見開いて、泥塗(どろま)みれになった両掌(りょうて)を、腰の荒縄の上にコスリ付けた。その掌(てのひら)で、鬚(ひげ)だらけの顔を撫で上げて汗を拭こうとした。
 しかし彼はモウ汗も出ないほど青褪(あおざ)め切っていた。
 その薄黒い、落ち窪んだ両眼は、老人のように白々と弱り込んで、唇が紙のように干乾(ひから)びていた。その額と頬は、僅かの間に生命(いのち)を削り取られたかのように蒼白く骨張って、力ない皺の波が、彫刻のようにコビリ付いていた。……が……そうした死人じみた片頬に、弱々しい、泣き笑いじみた表情をビクビクさせると、彼は仁王立(におうだ)ちに突立ったまま、鼻の先の空間に眼を据えた。
 咽喉(のど)の奥をゼイゼイと鳴らした。
「……オレは……オレは……ちっとも怖くないんだぞ……畜生。コレ位の事は平気なんだぞ……エヘ……エヘ……」
 そう云ううちに彼は力が尽きたらしくガックリと低頭(うなだ)れた。タッタ今、自分が成し遂げた最大、最高の仕事を、振り返り振り返り、懐中(ふところ)のマキリを押えながら、ヒョロヒョロと出て行った。
 彼の背後(うしろ)から静かに静かに閉まって行った重たい扉(とびら)が、忽ち、轟然(ごうぜん)たる大音響を立てて、深夜の大邸宅にどよめき渡りつつ消え失せた。

 ……あくる朝……。
 晴れ渡った晩秋の旭光(きょっこう)がウラウラと山懐(やまぶところ)の大邸宅を照し出すと、黄色い支柱を並べた外廊下に、白い人影が二つほど歩みあらわれた。
 それは白絹のパジャマを着流した、若い、洋髪の日本婦人と、やはり純白のタオル寝巻を纏(まと)うた四ツか五ツ位の、お合羽(かっぱ)さんの女の児(こ)が並んで、むつまじそうに手を引き合った姿であった。
 若い洋髪の女性は、片手で寝乱れた髪を撫で上げながらも、こうした大邸宅にふさわしい気品のうちにユックリユックリと白羅紗(らしゃ)のスリッパを運んで来たが、やがて棕櫚(しゅろ)のマットの中央まで来ると、すこし寒くなったらしく、襟元(えりもと)を引き合わせて立ち止まった。
 すると、その時に、お合羽さんの女の児が、つながり合った手を無邪気に引離しながらチョコチョコ走りに廊下を伝わって、真綿(まわた)の白靴をひるがえしひるがえし石の段々を一つ一つに登って行った。そうしてサモサモ嬉しそうに扉(ドア)の把手(ノッブ)を押しながら、内側へ消え込んで行ったが、やがて間もなく、眼をマン丸にして重たい扉(と)を引き開くと、一散に階段を馳け降りて来た。
 若い女性は、それを見迎えながら微笑した。
「……まあ……あぶない……ゆっくりオンリしていらっしゃい」
 しかし女の児は聴かなかった。
 可愛いお合羽さんを左右に振りながら、若い女性のパジャマの裾(すそ)に縋(すが)り付いた。
「……いいえ……お母チャマ大変よ……アノネ……アノネ……アタチ……アノお人形のお姫(ひい)チャマのおめざを、いただきに行ったのよ……ソウチタラネ……」
 と云いさして女の児は息を切らした。
「ホホホ……チュウチュが引いていたのですか」
 女の児は一層眼を丸くして頭を振った。
「……イイエ。お母チャマ……ソウチタラネ……お部屋の中が泥ダラケなのよ……」
「……エ……」
 若い女性は顔の色をなくした。女の児の顔をシゲシゲと見下した。
「……ソウチタラネ……アノお人形のお姫(ひい)チャマのお枕元に、大きい、白(ちろ)い菊の花が置いてあったのよ」
「……まあ……」
 といううちに若い女性は唇の色までなくしてしまった。その唇の近くで白い指先をわななかしながらすぐ傍の芝生の上に残っている輪形の鉢の痕跡(あと)を見まわしていたが、やがてオドオドした魘(おび)えたような眼付きで、階段の上を見上げた。
「……マア……昨夜(ゆうべ)まで……ここに在ったのに……誰がまあ……」
「イーエ……お母チャマ……アタチ知っててよ。ゆうべね。アタチ達が帰ってからね。アノお人形のお姫(ひい)チャマが、菊の花を見たいって仰言(おっしゃ)ったのよ」
 女性はすこしばかり血色を取り返した。
「……まあ……オホホ……」
「それでね……アノ御家来の熊さんが、持って行って上げたのよ……キット……」
「……ネ……ソウデチョ……お母チャマ……」
「……………」




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