十二支考
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著者名:南方熊楠 

十二支考(1)虎に関する史話と伝説民俗南方熊楠[表記について]
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(一) 名義の事
(二) 虎の記載概略
(三) 虎と人や他の獣との関係
(四) 史 話
(五) 仏教譚
(六) 虎に関する信念
(七) 虎に関する民俗
(付) 狼が人の子を育つること
(付) 虎が人に方術を教えた事

    (一) 名義の事

 虎梵(ぼん)名ヴィヤグラ、今のインド語でバグ、南インドのタミル語でピリ、ジャワ名マチャム、マレー名リマウ、アラブ名ニムル、英語でタイガー、その他欧州諸国大抵これに似おり、いずれもギリシアやラテンのチグリスに基づく。そのチグリスなる名は古ペルシア語のチグリ(箭(や))より出で、虎の駛(はや)く走るを箭の飛ぶに比べたるに因るならんという。わが国でも古来虎を実際見ずに千里を走ると信じ、戯曲に清正の捷疾(すばやさ)を賞して千里一跳虎之助(せんりひとはねとらのすけ)などと洒落(しゃれ)て居る。プリニの『博物志』に拠れば生きた虎をローマ人が初めて見たのはアウグスッス帝の代だった。それより前に欧州人が実物を見る事極めて罕(まれ)だったから、虎が餌を捕うるため跳る疾(はや)さをペルシアで箭の飛ぶに比べたのを聞き違えてかプリニの第八巻二十五章にこんな言(こと)を述べて居る。曰(いわ)く「ヒルカニアとインドに虎あり疾く走る事驚くべし。子を多く産むその子ことごとく取り去られた時最も疾く走る。例えば猟夫間(ひま)に乗じその子供を取りて馬を替えて極力馳(は)せ去るも、父虎もとより一向子の世話を焼かず。母虎巣に帰って変を覚ると直ちに臭(におい)を嗅(か)いで跡を尋ね箭のごとく走り追う。その声近くなる時猟夫虎の子一つを落す。母これを銜(くわ)えて巣に奔(はし)り帰りその子を※(お)きてまた猟夫を追う。また子一つを落すを拾い巣に伴い帰りてまた拾いに奔る。かかる間に猟師余すところの虎の子供を全うして船に乗る。母虎浜に立ちて望み見ていたずらに惆恨(ちゅうこん)す」と。しかれども十七世紀には欧人東洋に航して親(まのあた)り活(い)きた虎を自然生活のまま観察した者多くなり、噂ほど長途を疾く走るものでないと解ったので、英国サー・トマス・ブラウンの『俗 説 弁 惑(プセウドドキシヤ・エピデミカ)』にプリニの説を破り居る。李時珍いう虎はその声に象(かたど)ると、虎唐音フウ、虎がフウと吼(ほ)えるその声をそのまま名としたというんだ。これはしかるべき説で凡(すべ)てどこでもオノマトープとて動物の声をその物の名としたのがすこぶる多い。往年『学芸志林』で浜田健次郎君がわが国の諸例を詳しく述べられた。虎の異名多くある中に晋(しん)梁(りょう)以後の書にしばしば大虫と呼んだ事が見える。大きな動物すなわち大親分と尊称した語らしい。スウェーデンの牧牛女(うしかいめ)は狼を黙者(だんまり)、灰色脚(はいいろあし)、金歯(きんば)など呼び、熊を老爺(おやじ)、大父(おおちち)、十二人力(にんりき)、金脚(きんあし)など名づけ決してその本名を呼ばず、また同国の小農輩キリスト昇天日の前の第二週の間鼠蛇等の名を言わず、いずれもその害を避けんためだ(ロイド『瑞 典 小 農 生 活(ピザント・ライフ・イン・スエデン)』)。カナリース族は矮の本名を言わずベンガルでは必ず虎を外叔父(ははかたのおじ)と唱う(リウィス『錫蘭(セイロン)俗伝』)。わが邦(くに)にも諸職各々忌詞(いみことば)あって、『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』に杣人(そまびと)や猟師が熊狼から女根まで決して本名を称(とな)えぬ例を挙げ、熊野でも兎(うさぎ)を巫輩(みこども)狼を山の神また御客様など言い山中で天狗を天狗と呼ばず高様(たかさま)と言った。また支那で虎を李耳(りじ)と称う、晋の郭璞(かくはく)は〈虎物を食うに耳に値(あ)えばすなわち止(や)む、故に李耳と呼ぶ、その諱(いみな)に触るればなり〉、漢の応劭(おうしょう)は南郡の李翁が虎に化けた故李耳と名づくと言ったが、明の李時珍これを妄とし李耳は狸児(りじ)を訛(なま)ったので、今も南支那人虎を呼んで猫と為すと言った。狸は日本で専(もっぱ)ら「たぬき」と訓(よ)ますが支那では「たぬき」のほかに学名フェリス・ヴィヴェリナ、フェリス・マヌル等の野猫をも狸と呼ぶ。したがって野狸に別(わか)たんとて猫を家狸と異名す。因って想うに仏経に竜を罵って小蛇子と言うごとく狸児は虎を蔑して児猫といった意味だろう。これに似て日本で猫を虎に擬(なぞら)えた事『世事(せじ)百談』に「虎を猫とは大小剛柔遥かに殊(こと)なるといえども、その形状の相類する事絶えて能く似たり、されば我邦の古(いにし)え猫を手飼の虎といえる事『古今六帖(こきんろくじょう)』の歌に「浅茅生(あさぢふ)の小野の篠原いかなれば、手飼の虎の伏所(ふしどころ)なる」、また『源氏物語』女三宮の条に見えたり、唐土(もろこし)の小説に虎を山猫という事、『西遊記』第十三回〈虎穴に陥って金星厄を解(とりのぞ)く〉といえる条に「〈伯欽道(い)う風※是個(こ)の山猫来れり云々、只見る一隻の班爛虎〉」とあり云々」、これも伯欽が勇を恃(たの)んで虎を山猫と蔑語したのだ。

    (二) 虎の記載概略

 虎の記載を学術上七面倒に書くより『本草綱目』に引いた『格物論』(唐代の物という)を又引(またびき)するが一番手軽うて解りやすい。いわく虎は山獣の君なり、状(かたち)猫のごとくにて大きさ牛のごとく黄質黒章(きのしたじくろきすじ)、鋸牙鉤爪(のこぎりばかぎのつめ)鬚健にして尖(とが)り舌大きさ掌のごとく倒(さかさま)に刺(はり)を生ず、項(うなじ)短く鼻※(ふさが)る、これまでは誠に文簡にして写生の妙を極め居る。さてそれから追々支那人流の法螺(ほら)を吹き出していわく、夜視るに一目は光を放ち、一目は物を看(み)る、声吼(ほ)ゆる事雷のごとく風従って生じ百獣震え恐るとある。しかし全くの虚譚でもないらしく思わるるは予闇室に猫を閉じ籠(こ)めて毎度験(ため)すと、こちらの見ようと、またあちらの向きようで一目強く光を放ち、他の目はなきがごとく暗い事がしばしばあった。また虎嘯(うそぶ)けば風生ずとか風は虎に従うとかいうは、支那の暦に立秋虎始めて嘯くとあるごとく、秋風吹く頃より専ら嘯く故虎が鳴くのと風が吹くのと同時に起る例が至って多いのだろう。予が現住する田辺(たなべ)の船頭大波に逢うとオイオイオイと連呼(よびつづ)くれば鎮(しず)まるといい、町内の男子暴風吹き荒(すさ)むと大声挙げて風を制止する俗習がある。両(ふたつ)ながら予その場に臨んで験(ため)したが波風が呼声を聞いて停止するでなく、人が風波のやむまで呼び続けるのだった。バッチの『埃 及 諸 神 譜(ゴッズ・オヴ・ゼ・エジプチアンス)』に古エジプト人狗頭猴(チノケフアルス)を暁の精とし日が地平より昇りおわればこの猴(さる)に化すと信じた。実はこの猴アフリカの林中に多く棲み日の出前ごとに喧噪呼号するを暁の精が旭を歓迎頌讃すと心得たからだと出づ。これも猴に呼ばれて旭が出るでなく旭が出掛かるによって猴が騒ぐのだ。さて虎も獅(しし)も同じく猫属の獣で外貌は大いに差(ちが)うが骨骼(こっかく)や爪や歯牙は余り違わぬ、毛と皮が大いに異なるのだ。ただし虎の髑髏(されこうべ)を獅のと較べると獅の鼻梁(はなばしら)と上顎骨が一線を成して額骨と画(わか)れ居るに虎の鼻梁は上顎骨よりも高く額骨に突き上り居る、獅は最大(いとおお)いなるもの鼻尖(はなさき)から尾の端まで十フィート六インチなるに虎は十一フィートに達するがある由。インドや南アジア諸島の虎は毛短く滑らかで色深く章条(すじ)鮮やかなるに、北支那やシベリア等寒地に棲むものは毛長く色淡し、虎の産地はアジアに限りアムール州を最北限、スマトラ、ジャワとバリを最南限とし、東は樺太(からふと)、西は土領ジョルジアに達すれど日本およびセイロン、ボルネオ等諸島にこれなし、インドの虎は専ら牛鹿野猪(いのしし)孔雀(くじゃく)を食いまた蛙や他の小猛獣をも食い往々(まま)人を啖(く)う。創(きず)を受けまた究迫さるるにあらざれば人と争闘せず。毎(いつ)も人を食う奴は勢竭(つ)き歯弱れる老虎で村落近く棲み野獣よりも人を捉うるを便とす、草野と沼沢に棲む事多きも林中にも住み、また古建築の廃址(はいし)に居るを好く、水を泳ぐが上手で急がぬ時は前足もて浅深を試みて後渡る。虎ごとに章条(すじ)異なり、また一疋(ぴき)の体で左右異なるもある。『淵鑑類函』巻四二九に虎骨甚(はなは)だ異なり、咫尺(しせき)浅草といえども能(よ)く身伏して露(あら)われず、その※然(こうぜん)声を作(な)すに及んではすなわち巍然(ぎぜん)として大なりとある。動物園や博物館で見ると虎ほど目に立つ物はないようだが、実際野に伏す時は草葉やその蔭を虎の章条と混じやすくて目立たず、わずかに低く薄く生えた叢(くさむら)の上に伏すもなお見分けにくい、それを支那人が誤って骨があるいは伸び脹(ふく)れあるいは縮小して虎の身が大小変化するとしたんだ。バルフォールの『印度事彙』に人あり孕んだ牝虎を十七疋まで銃殺し剖(さ)いて見ると必ず腹に四児を持っていた。しかるに生まれて最(いと)幼き児が三疋より多く母に伴(つ)れられ居るを見ず、自分で餌を覓(あさ)るほど長じた児が二疋より多く母に偕(ともな)われ居るを見なんだ。因って想うに四疋孕んでその内一、二疋は必ず死んで産まるるんだろう。インド土人いわく虎子を生まばきっとその一疋は父虎に食わると、ロメーンスの説に猫甚(いた)く子を愛するの余り、人がむやみにその子に触(さわ)るを見ると自分で自分の子を食ってしまうとあった。予本邦の猫についてその事実たることを目撃した。虎も四疋生みながら、一、二疋足手纏いになり過ぎるので食ってしまうのかも知れぬ。虎一生一乳、乳必双虎と『類函』にも見ゆ、また人これに遇(あ)うもの敵勢を作(な)ししばしば引いて曲路に至りすなわち避け去るべし。けだし虎頂短くて回顧する能(あた)わず直行する故なりとある、これも事実らしい。ウットの『博  物  画  譜(イラストレイテット・ナチュラル・ヒストリー)』に虎道傍にあって餌獣の至るを俟(ま)つに必ず自分の巣に対せる側においてす。これ獣を捉えて真直(まっす)ぐに巣に行かんためで、もし巣の側にあって餌を捉えたら真直ぐに遠い向側に進み、それから身を廻して道を横ぎり元の巣の側へ還(かえ)る迂路を取らねばならぬからだ。また虎が餌獣を打たんとて跳びついて仕損じたら周章(あわ)て慙愧(はじい)り二度試みて見ずに低頭して去るとある。支那にも『本草』にその物を搏(う)つや三(み)たび躍(おど)って中(あた)らずんばすなわちこれを捨つと出(い)づ。川柳に「三たび口説(くど)いて聴かれず身退(ひ)く振られ客」とあるごとし、『爾雅』に虎の浅毛なるを山※(さんみょう)、白いのを※(かん)、黒きを※(いく)、虎に似て五指のを※(ちゅ)、虎に似て真でないを彪(ひょう)、虎に似て角あるを※(し)というと言って、むつかしい文字ばかり列(なら)べ居る。『国史補』には四指のを天虎(てんこ)五指のを人虎と俗称すと出づ。ちょっと聞くと誠に出任せな譫語(たわごと)のようだが実は支那に古来虎多く、その民また特に虎に注意して色々と区別を付ける事あたかもわが邦で鷹や馬に色々種別を立てたごとし。サモエデスは馴鹿(となかい)に注意深き余りその灰褐色の浅深を十一、二の別名で言い分け、アフリカのヘレロ人は盛んに牧牛に勤め牛の毛色を言い分くる語すこぶる多く、芝や空の色を一つの語で混じ言うを何とも思わぬが牛の褐色を種別して言い能わぬ者を大痴(おおばか)とす(ラッツェル『人  類  史(ヒストリー・オブ・マンカインド)』巻一)。田辺の漁夫は大きさに準(よ)って鰤(ぶり)を「つはだ、いなだ、はまち、めじろ、ぶり」と即座に言い別くる。しかるに綿羊と山羊の見分けが出来ぬ。開明を以て誇る英米人が兄弟をブラザー姉妹をシスターと言うて、兄と弟、姉と妹をそれぞれ手軽く言い顕(あらわ)す語がないのでアフリカ行の宣教師が聖書を講ずる際、某人(それがし)は某人(それがし)のブラザーだと説くと、黒人がそれは兄か弟かと問い返し返答に毎々困るというが(ラッツェル『人類史』二)、予もイタリア書に甥も孫もニポテとあるを見るごとにどっちか分らず大いに面喫(めんくら)う事である。
 『本草』に虎が狗(いぬ)を食えば酔う狗は虎の酒だ、また虎は羊の角を焼いた煙を忌みその臭(かざ)を悪(にく)んで逃げ去る、また人や諸獣に勝つが蝟(はりねずみ)に制せらるとある。佐藤成裕の『中陵漫録』二に虎狗を好み狗赤小豆(あずき)を好み猫天蓼(またたび)を好み狐焼鼠を好み猩(しょうじょう)桃を好み鼠蕎麦(そば)を好み雉子(きじ)胡麻を好み、虎狗を食して淫を起し狗赤小豆(あずき)を食して百疾を癒(いや)し猫天蓼を※(くろ)うてしきりに接(まじわ)る、狐焼鼠を見て命を失う猩桃を得て空に擲(なげう)つ、鼠蕎麦に就いて去る事を知らず、雉子胡麻を食して毎朝来ると見ゆ。皆まで嘘でなかろう、虎が蝟に制せらるるは昨今聞かぬが豪猪(やまあらし)を搏(う)つとてその刺(はり)に犯され致命傷を受くる事は近年も聞くところだ。『物類相感志』に虎が人を食うごとに耳上に欠痕もしくは割裂を生ずる、その数を験して何人食ったと判るとある。また『淵鑑類函』に〈虎小児を食わず、児痴にして虎の懼るべきを知らず、故に食わず、また酔人を食わず、必ず坐して守り以てその醒(さ)むるを俟(ま)つ、その醒むるを俟つにあらず、その懼るるを俟つなり〉とある、自分を懼れぬ者を食わぬのだ。さていわく〈およそ男子を食う必ず勢より起る、婦人は必ず乳より起る、ただ婦人の陰を食わず〉とは大椿件だ。十六世紀にレオ・アフリカヌスが著した『亜 非 利 加 紀 行(デスクリプチヨネ・デル・アフリカ)』に婦女山中で獅に出会うた時その陰を露(あらわ)せばたちまち眼を低うして去るとある。これは邪視(イヴル・アイ)を避くるに女陰を以てすると同一の迷信から出たらしい。邪視の詳しき事は、『東京人類学会雑誌』二七八号二九二頁以下に長く述べ置いた、ただし支那説は虎が女陰を食わぬばかりで、見たら逃げるとないからアフリカの獅のごとくこれを怖るるでなく単にその臭味を忌む事という意味らしい。

    (三) 虎と人や他の獣との関係

 『大  英  類  典(エンサイクロペジア・ブリタニカ)』第十一版巻二十六に「牝虎は二ないし五、六児を一度に産むが三疋が普通だ、その子を愛する事甚だしく最も注意してこれを守る、生れて二年目に早(はや)自分で餌を求める、それまで母と一緒に居る、その間母虎の性殊に兇暴で子が乳離れする頃より鹿犢(こうし)豕等を搏(う)って見せその法を教ゆ、この際牝虎の猛勢惨酷その極に達する、多分子を激して手練を積ましむるためだろう、さて十分殺獲術を究めた上ならでは子と離れぬ、若い虎は老虎より迥(はる)かに物多く殺し一度に三、四牛を殺す事あり、老虎は一度に一つより多く殺す事稀(まれ)で、それも三、四また七日に一度だ」とある。虎が一たび人を啖(く)うとその癖が付く。インドのニルゲリ山間などは虎はあれど人を殺す事至って稀だが家に飼った水牛を害する事しきりだ(リウァース著『トダ人族篇』四三二頁)。このほど死んだワレス氏が六十年前シンガポールに寓した時常に近所を彷徨(うろつ)く虎若干ありて、新開の阿仙薬園(アンビエルえん)に働く支那人を平均日に一人ずつ殺したと『巫来群島篇(ゼ・マレー・アーキペラゴ)』第二章に言われた。十七世紀に支那に宣教したナヴワレッテがキリスト教を奉ずる支那人に聞いたは、その頃百また二百虎群を成して広東より海関に至る、旅人百五十人以上隊を組むにあらざれば旅し得ず、これがため僅々数年間に五万人死せりとは大層な話ながらかかる話の行わるるを見て如何(いか)に虎害が支那に繁かりしかを察せらるる。また支那の書に馬虎を載す、全く馬同様だが鱗を被(かぶ)り虎の爪あり、性殺を好む、春日川より出でて人畜を捉うと。欧人湖南にこの獣ありと聞き往って精(くわ)しく捜せしも見出さず全然法螺話だろうという(アストレイ『新 編 紀 行 航 記 全 集(ア・ニュウ・ゼネラル・コレクション・オブ・ウオエージス・エンド・トラヴェルス)』巻四、頁三一三)。これは『水経註(すいけいちゅう)』に見えた水虎の話を西人が誤聞したのでないか。『本草綱目』虫部や『和漢三才図会』巻四十にも引かれ、わが国の河童(かっぱ)だろうという人多いが確かならぬ。エイモニエーの『安南記』にはオラングライー族の村に虎入りて人なり犬なり豕なり一頭でも捉わるると直ぐ村を他処へ移すと見ゆ。一七六九年インドの北西部飢饉し牛多く死し虎常時の食を得ず、ブハワバール市を侵しおよそ四百人を殲(ころ)し、住民逃げ散じて市ために数年間空虚となったとクルックの『西北印度諸州篇(ゼ・ノース・ウエスターン・プロヴインセス・オブ・インジア)』に見え、次に開化の増進に随い虎が追々減少する事体を述べ居る。虎を狩る法は種々あり、虎自身が触れ動かして捕わるる弾弓や、落ちたら出る事ならぬ穽(おとしあな)や木葉に黐(もち)塗りて虎に粘(ねばりつ)き狂うてついに眼が見えぬに至らしむる設計(しかけ)等あるが、欧人インドで虎を狩るには銃を揃え象に乗って撃つのだ。康熙帝自ら虎狩せしを見た西人の記には専ら槍手隊を使うたよう出で居る。遼元の諸朝は主として弓を用いたらしい。『類函』四二九巻に陳氏義興山中に家(す)む、夜虎門に当って大いに吼(ほ)ゆるを聞き、開き視(み)れば一少艾衣類凋損(ひとりのむすめきものそこね)たれど妍姿傷(みめそこ)ねず問うてこれ商人の女(むすめ)母に随い塚に上り寒食を作(な)すところを虎に搏たれ逃げ来た者と知り、見れば見るほど麗(うつく)しいから陳の妻が能(よ)くわが子婦たらんかと問うと諾した。依ってその季子に配す。月を踰(こ)えてその父母尋ね来り喜び甚だしく遂に婚姻を為し目(なづ)けて虎媒といったとある。
 虎を殺した者を褒(ほ)むるは虎棲む国の常法だ。秦の昭襄王(しょうじょうおう)の時白虎害を為せしかば能く殺す者を募る、夷人※※(くじん)廖仲薬(りょうちゅうやく)[#底本ではルビの「りょうちゅうやく」が「こうちゅうやく」と誤記]秦精(しんせい)等弩(いしゆみ)を高楼に伏せて射殺す、王曰く虎四郡を経(へ)すべて千二百人を害せり、一朝これを降せる功焉(これ)より大なるはなしとて石を刻んで盟を成したと『類函』に『華陽国志』を引いて居るが、かかる猛虎を殺した報酬に石を刻んで盟を成したばかりでは一向詰まらぬ、きっと何物かくれたのじゃろう。一六八三年ヴェネチア版、ヴィンツェンツォ・マリア師の『東 方 遊 記(イル・ヴィアッジオ・オリエンター)』に西インドコチン王は躬(みずか)ら重臣輩の見る所で白質黒条の虎を獲るにあらざれば即位するを得ず、この辺の虎に三品あり武功の次第に因ってそれぞれの虎の皮を楯に用い得る、また虎を殺した者は直ちにその鬚と舌を抜き王に献ず、王受け取ってこれを焼きその勇者に武士号を与え金また銀に金を被(かぶ)せたる環中空(かんなかくう)にして小礫(こいし)また種子を入れたるを賜う。勇士これを腕に貫けば身動くごとに鳴る事鈴のごとし。かくて虎の尸(しかばね)もしくはその一部を提(たずさ)え諸方を巡遊すれば衆集まり来りてこれを見贈遺多く数日にして富足るとある。これに似た一事を挙げんにアフリカの仏領コンゴー国では蟹(ンカラ)を海の印号とし虎に縁近き豹(ンゴ)を陸の印号としまた王家の印号とす。因って豹を尊ぶ事無類で王族ならではその皮を衣(き)るを得ず、これを猟(と)り殺すに種々の作法あり、例せばデンネットの『フィオート民俗篇』(一八九七年版)十八章に「豹を殺した者あると聞いて吾輩忙(いそ)いで町へ還(かえ)った、何故というと豹が殺された時は各町民が思うままに他町民と勝手次第に相掠奪す、殺した人が豹皮を王に献ずる日はその人思い付きのまま町のどの部分でも通り、その間家内にさえなくば何でもかでも押領し得るんだ、さてかの者自身縛られて王前に詣(いた)り叮嚀に豹首を布に包み携う、王問う「吾子よ何故汝はこの人(豹)を殺したか」、豹殺し対(こた)う「彼は甚だ危険な人で王の民の羊や鶏を夥しく殺しました」、王いわく「吾子よ汝は善くした、それじゃ彼の髯(ほおひげ)を数え見よ、汝も知る通りすべて三九二十七毛あるはずだ、一つでも足らなんだら汝は孤(わし)に布二匹を賠(はら)わにゃならぬ」、かの者答う「父よ勘定が合うて二十七毛確かにござります」、王「そんなら注意(きをつけて)髯を皆抜け、次に歯と爪と皮もことごとく取って孤の用に立てよ」、豹殺し命のまにまに抜き取り剥ぎ取りおわる、ここにおいて王言う「吾子よ汝は大勇の猟師だから爾後狩に出る時食事を調(ととの)うる者を欲しいだろ、因ってこの若い嬢子(むすめ)を汝の婢なり妾なりにして取って置け」と聞いて豹殺し腰抜かすばかり悦(よろこ)びながら「父様見やんせ、余りに衣類が弊(やぶ)れているので、とてもこんな結構な品を戴かれません」、王「吾子よ最もな事を吐(ぬか)す、さらばこの衣類を遣わすからそこで着よ」、豹殺し「父様有難くて冥加(みょうが)に余って誠にどうもどうも、しかしこんな尤物(べっぴん)に木を斫(き)ってやる人がござらぬ」、王「委細は先刻から承知の介だ、この少童を伴れ去って木を斫らすがよい、またこの人を遣(や)るから鉄砲を持たせ」、豹殺し「父よ今こそ掌を掌(う)って御礼を白(もう)します」、そこで王この盛事のために大饗宴を張る」とある。小説ながら『水滸伝』の武行者や黒旋風が虎を殺して村民に大持てなところは宋元時代の風俗を実写したに相違ない。
 盗人にも三分の理ありとか、虎はかく人畜を残害するもののそれは「柿食いに来るは烏の道理哉(かな)」で、食肉獣の悲しさ他の動物を生食せずば自分の命が立ち往かぬからやむを得ぬ事だ、既に故ハクスレーも人が獣を何の必要なしに残殺するは不道徳を免れぬが虎や熊が牛馬を害したって不道徳でなくて無道徳だと言われたと憶(おぼ)える。閑話休題(それはさておき)、虎はまず猛獣中のもっとも大きな物で毛皮美麗貌形雄偉行動また何となく痒序(おちつい)たところから東洋諸邦殊に支那で獣中の王として尊ばれた。『説文』に虎を獣君という、山獣の君たればなり、また山君というと、わが邦で狼を大神と呼び今も熊野でこれを獣の王としまた山の神と称うるごとし。『揚子』に聖人虎別、君子豹別、弁人狸別、狸変ずればすなわち豹、豹変ずればすなわち虎、これは聖人君子弁人を順次虎豹狸に比べたのだ。『管子』に〈虎豹は獣の猛者なり、深林広沢の中に居る、すなわち人その威を畏れてこれを載す、虎豹その幽を去って而して人に近づくすなわち人これを得てその威を易(あなど)る、故に曰く虎豹幽に託(よ)って威載すべきなり〉。熊楠謂(おも)うに昔朱※(しゅゆう)隠居して仕えず、閻負涼(えんぶりょう)に使し※を以て王猛に比し並称す。秦主苻堅(ふけん)猛を侍中とせし時猛※に譲れり、のち猛死し堅南晋に寇(こう)せんとす、苻融石越等皆諫(いさ)めしも※独りこれを賛し、にわかに※水の敗を致し以て亡国に至れり、これ豈(あに)景略(王猛の字)の匹(ひつ)ならんや、処士虚声を盗む何代(なんのよ)か人なからんと王阮亭は言った(『池北偶談』巻二)。ちょうど虎豹が林沢におれば威あり、幽棲を去って人に近づくと三文の値もなくなるに似たり、インドでは欧州と等しく獅(しし)を獣王とす、仏を獅に比べた文諸経に多い、たとえば隋訳『大集譬喩王経』上にいわく、仏言う舎利弗(しゃりほつ)譬(たと)えば須弥山(しゅみせん)王金色辺あり、もし諸鳥獣その辺に至らば皆同一色いわゆる金色なればすなわち師子(しし)獣王と同色なり、諸鳥獣既に師子と同一金色なりといえどもその力勢功徳名称ことごとく師子王と等しからず、またまた師子獣王遊戯するにしきりに無畏吼声を発するごとくならずとて、声聞(しょうもん)と独覚が多少如来に似たところあるもその間全く懸隔しいるに喩(たと)えある。玄奘(げんじょう)が訳した『大毘婆娑論』巻百三に菩薩菩提樹下に修道する所に魔王攻め来る、菩薩念ずらく魔軍鳥形を作(な)し来らば我れ猫狸形を作して敵せん、魔軍猫狸形を作し来らば我れ狗狼形を作して敵せん、魔軍狗狼形を作し来らば豺豹形、豺豹形で来らば虎形、虎形で来ると師子形、師子形で来るなら竜鱗を化作し竜鱗で来たら猛火、猛火で来たら暴雨、暴雨で来たら大蓋を化作してこれに敵せんと、鳥に初まって大蓋に至るその間逓次(ていじ)後者が前者より強い、しかして虎より獅、獅より竜鱗、それから火、次に雨、次に蓋が一番強いとしているが、蓋は鳥に啄き破らるべきものだからこの目次中の最強者が最弱者より弱い事となる。想うに一九(いっく)などの小説にしばしば繰り返された一話はこの仏語より来たんでないか、いわく猫を畜(か)って名を命(つけ)んと苦心し猫は猫だから猫と号(な)づく、さて攷(かんが)うると猫より強いから虎、それよりも強い故竜、竜は雲なくんば行き得ぬ故雲、雨ふれば雲散ずる故雨、それを吹き飛ばす風、風を防ぎ遮る障子、それを噛み破る鼠と段々改称してさて鼠より猫が強いので猫を猫と号づけて最初の名に戻ったと。虎や獅に王威ある由を述べたついでに言い置くは虎の威を仮る狐てふ[#「てふ」に「という」の注記]諺だ、これは江乙(こういつ)が楚王に〈狐虎の威を仮る〉と言った故事で『戦国策』に出ている。『今昔物語集』巻五第二十一語に天竺(てんじく)の山に狐と虎住み、その狐虎の威を仮りて諸獣を恐(おど)す、虎行きて狐を責め狐恐れて逃ぐるほどに井に落ちたとありて、弁財天と堅※地神(けんろうじしん)の縁起譚だがその出処が解らぬ。芳賀博士の攷証本にも聢(しか)と出ておらぬ、多分インドで出来たのでなく江乙の語に拠って支那で作られたものかと思う。
 マルコポロ紀行に元世祖(せいそ)将官に位勲の牌を賜い佩用せしむるに、金また銀を鍍(めっき)した牌に獅の頭を鐫(え)り付けたとあるが、ユールの註に拠るとマルコの書諸所に虎を獅と訛称しあるそうだ。古くより虎賁(こほん)などいう武官職名もあり、虎符を用いた事もあるから件の牌には虎頭を鐫り付けたのだろう。今日といえどもアフリカで虎と呼ぶは豹でアメリカで虎と呼ぶは旧世界に全くなきジャギュアル、また獅と呼ぶのは同じく東半球に住まぬピューマなるなど猫属の諸獣の性質酷(はなは)だ相似たる点から名称の混雑は尠(すく)なくない。
 『戦国策』に人あり係蹄(わな)を置きて虎を得たるに、虎怒りて※(あしのうら)を決(き)って去る、虎の情その※を愛せざるにあらざれど、環寸(わずか)の※を以て七尺の躯を害せざる者は権なりとあって虎の決断を褒(ほ)め居る。ロメーンスの説に狐が足を係蹄に捉われて危殆と見ると即刻自ら咬み切って逃ぐるは事実だとある。『大  英  類  典(エンサイクロペジア・ブリタニカ)』第十一版獅の条を見ると近来獅の性実は卑怯なる由言う人多しとあって、要は人と同じく獅もことごとく勇猛ならず、中には至って臆病な奴もありなんと結論し居る。かかる噂は今に始まったのでなくレオ・アフリカヌスが十六世紀に既に言って居る。モロッコのマグラ市近き野に獅が多いが極めて怯懦(きょうだ)で、小児が叱ると狼狽遁(に)げ去(さ)る、その辺の大都フェスの諺に口ばかり剛情な怯者を詈(ののし)って汝はアグラの獅ほど勇なり犢(こうし)にさえ尾を啖(く)わるべしというとある。虎もこの例で至って臆病なのもあるらしく、前年スヴェン・ヘジン、チベット辺で水を渡る虎の尾を小児に曳かれて何事もなからざりしを見たと何かで読んだ。さらば虎に勝った勇士の内には真の勇士でなくて機会好(よ)く怯弱な虎に出逢って迎えざるの誉れを得たのもあるだろう。『瑣語』に周王太子宜臼を虎に啗(くら)わさんとした時太子虎を叱ると耳を低(た)れて服したといい、『衝波伝』に孔子山に遊び子路をして水を取らしむ水所にて虎に逢い戦うてその尾を攬(と)りこれを得懐に内(い)れ水を取って還(かえ)る、さて孔子に問いけるは上士虎を殺す如何(いかん)、子曰(いわ)く虎頭を持つ、また中士の作法を問うと耳を捉えると答えた、下士虎を殺さば如何(どう)すると問うと、虎の尾を捉えると答えたので子路自分の下士たるを慙(は)じ尾を出して棄てたとある。子路は至って勇ありしと聞くが周王太子などいずれ柔弱な人なるべきに叱られて服した虎はよほど弱腰の生れだったと見える。『朝野僉載(ちょうやせんさい)』には大酔して崖辺で睡(ねむ)った人の上へ虎が来て嗅ぐと虎鬚がその人の鼻孔に入りハックションと遣(や)った声に驚きその虎が崖から落ちて人に得られたとある。
 ローマ帝国の盛時虎を多く畜(か)って闘わしめまた車を牽(ひ)かせた例もある。今もジャワで虎や犀を闘わす由(ラッツェル『人類史』二)、『管子』に桀王の時女楽三万人虎を市に放ってその驚駭を見て娯(たのし)んだとあるから、支那にも古くから帝王が畜ったのだろう。
 虎が仙人や僧に仕えた話は支那にすこぶる多い。例せば西晋の末天竺(てんじく)より支那に来た博識耆域(きいき)は渉船を断られて虎に騎(の)って川を渡り、北斉の僧稠は錫杖を以て両虎の交闘を解く、後梁の法聡は坐するところの縄牀(じょうしょう)の両各々一虎あり、晋安王来りしも進む能わず、聡手を以て頭を按(おさ)え地に著(つ)けその両目を閉ざしめ、王を召し展礼せしむとはなかなか豪(えら)い坊主だ。王境内虎災大きを救えと乞うと入定する事須臾(しゅゆ)にして十七大虎来る、すなわち戒を授け百姓を犯すなからしめた、また弟子に命じ布の故衣(ふるぎ)で諸虎の頸を繋ぐ、七日経て王また来り斎(とき)を設くると諸虎も僧徒と共に至る、食を与え布を解きやるとその後害を成さず、唐の豊干禅師が虎に騎って松門に入ったは名高い談(はなし)で後趙の竺仏調は山で大雪に会うと虎が窟を譲ってその内に臥さしめ自分は下山した、唐の僖宗の子普聞禅師は山に入って菜なきを憂うると虎が行者に化けてその種子をくれて耕植し得た、南嶽の慧思は山に水なきを患(うれ)うると二虎あり師を引きて嶺に登り地を※(か)いて哮(ほえ)ると虎※泉とて素敵な浄水が湧出した、また朝廷から詰問使が来た時二虎石橋を守り吼えてこれを郤(しりぞ)けた、『独異志』に劉牧南山野中に果蔬(かそ)を植えると人多く樹を伐(き)り囿(その)を践(ふ)む、にわかに二虎来り近づき居り牧を見て尾を揺(ゆる)がす、我を護るつもりかと問うと首を俛(ふ)せてさようと言う態(てい)だった、牧死んで後虎が去ったと『類函』に引いて居る。虎が孝子を恵んだ話は『二十四孝』の内にもあるが、ほかにも宋の朱泰貧乏で百里薪(たきぎ)を鬻(ひさ)ぎ母を養う、ある時虎来り泰を負うて去らんとす、泰声を※(はげま)して我は惜しむに足らず母を託する方なしと歎くと虎が放ち去った、里人輩感心して醵金を遣り虎残と名づけた。また楊豊虎に噛まる、十四になる娘が手に刀刃なきに直ちに虎頭を捉えて父の難を救うたとある。予もそんな孝行をして見たいが子孝ならんと欲すれども父母俟(ま)たずで、海外留学中に双親(ふたおや)とも冥途に往かれたから今さら何ともならぬ。

    (四) 史 話

 史書や伝記に載った虎に関する話はすこぶる夥しいから今ただ手当り次第に略述する事とせり。まず虎が恩を人に報じた例[#「例」は底本では「礼」]を挙げると、晋の干宝の『捜神記』に廬陵の婦人蘇易なる者善く産を看る、夜たちまち虎に取られ、行く事六、七里、大壙(おおあな)に至り地に置き蹲(うずくま)りて守る、そこに牝虎あり難産中で易を仰ぎ視(み)る、因って助けて三子を産ましめると虎がまた易を負うて宅へ還し、返礼に獣肉を易の門内に再三送ったと見ゆ。天主教僧ニコラス・デル・テコの『南米諸州誌』に、一五三五年、メンドツァ今日アルゼンチナ国の首都ブエノサイレスの地に初めて殖民地を建て、程無く土蕃と難を構え大敗し、次いで糧食乏しくなりて人相食(あいは)むに※(およ)んだ、その時一婦人坐して餓死するよりはいっそインディアンか野獣に殺さるるが優(まし)と決心して、広野に彷徨(さまよ)う中ある窟に亜米利加獅(ピューマ)の牝が子を産むに苦しむを見、大胆にも進んで産婆の役をして遣った、米獅(ピューマ)これを徳とし産後外出して獣を搏(う)ち将(も)ち来て肉を子供と彼女に分ちくれたので餓死を免がれた、そのうちインディアンが彼女を擒(いけど)り、種々難儀な目に遭わせたが、遂にスペイン人に賠(つぐな)われて城に帰った、それは吉(よ)かったが全体この女性質慓悍で上長の人の命に遵(したが)わぬから遂に野獣に啖(く)わす刑に処せられた、ところが天幸にも一番に彼女を啖わんと近づき寄ったのが、以前出産を助けもろうた牝米獅(めピューマ)で、見るより気が付き、これは飛んだところで御目に懸ります、忰(せがれ)どもも一人前になって毎度御噂を致しいる、女ながらも西大陸の獣中王たる妾(わたし)が御恩報(ごおんがえ)しに腕を見せましょうと、口に言わねど畜生にも相応の人情ありて、爪牙を尖らせ他の諸獣を捍(ふせ)いで一向彼女に近づかしめず、見物一同これほど奇特な米獅(ピューマ)に免じて彼女を赦さずば、人間が畜生に及ばぬ証明をするようなもの、人として獣に羞(は)じざらめやと感動して彼女を許し、久しく無事で活命させたとある。『淵鑑類函』に晋の郭文かつて虎あり、たちまち口を張って文に向うたんで視ると口中に骨哽(たて)り、手を以て去(と)ってやると明日鹿一疋持ち来って献じた。また都区宝という人父の喪で籠りいた時里人虎を追う、虎その廬に匿(かく)れたのを宝が簔で蔵(かく)しやって免がれしめた、それから時々野獣を負ってくれに来たとある。古ギリシアの人が獅のために刺(とげ)を抜きやり、のち罪獲て有司(やくにん)その人を獅に啖わすとちょうど以前刺を抜いてやった獅であって一向啖おうとせず、依って罪を赦された話は誰も知るところだ。これらはちょっと聞くと嘘ばかりのようだが予年久しく経験するところに故ロメーンス氏の説などを攷(かんが)え合わすと猫や梟(ふくろう)は獲物を人に見せて誇る性がある、お手の物たる鼠ばかりでなく猫は蝙蝠(こうもり)、梟は蛇や蟾蜍(ひきがえる)など持ち来り予の前へさらけ出し誠に迷惑な事度々だった。故セントジョージ・ミヴワートは学者一汎(いっぱん)に猴類を哺乳動物中最高度に発達したる者と断定し居るは、人と猴類と体格すこぶる近く、その人が自分免許で万物の長と己惚(うぬぼ)るる縁に付けて猴が獣中の最高位を占めたに過ぎぬが、人も猴も体格の完備した点からいうと遠く猫属すなわち猫や虎豹獅米獅等の輩に及ばぬと論じた。この事については熊楠いまだ公けにせぬ年来の大議論があって、かつて福本日南に大英博物館(ブリチシュ・ミュジユム)で諸標品について長々しく説教し、日南感嘆して真に天下の奇才と称揚されたが、日本の官吏など自分の穢(きたな)い根性から万事万物汚く見る故折角の名説も日本では出し得ず、これを公にすると直ぐに風俗壊乱などとやられる。ここばかりに日が照らぬからいずれ海外で出す事としよう、とにかく眼で視(み)数で測り得る体格上でさえ人間の己惚れから観察に錯誤ある事ミヴワートの説のごとし、まして他の諸動物の心性の上に至っては近時まで学者も何たる仔細の観察をまるでせなんだ、これは耶蘇(ヤソ)教で人は上帝特別の思召しもて他の諸動物と絶えて別に創作された物といい伝えたからで、それなら人と諸動物と業報次第輪廻(りんね)転生すと説く仏教を奉じた東洋の学者は諸動物の心性を深く究めたかというと、なるほど仏教の経論に多少そんな論もあるが、後世の学者が一向気に留めなんだから何の増補研覈(けんかく)するところなかった、人と諸動物の心性の比較論はなかなか一朝にして言い尽すべきでないが、諸動物中にも特種の心性の発達に甚だしく逕庭がある、その例としてラカッサニュは犬が恩を記(おぼ)ゆる事かくまで発達しおるに人の見る前で交会して少しも羞じざると反対に、猫が恩を記ゆる事甚だ少なきに交会の態を人に見する事なきを挙げた。ただし猫のうちにも不行儀なもあって、予は英国で一回わが邦で二回市街で人の多く見る所で猫が交わるを見た。また貝原益軒は猫の特質として死ぬ時の貌いかにも醜(みぐるし)いから必ず死ぬ態を人に見せぬと言って居る。猫属の輩は羞恥という念に富んでいるもので、虎や豹が獣を搏ち損う時は大いに恥じた風で周章(あわて)て首を低(た)れて這い廻り逃げ去るは実際を見た者のしばしば述べたところだ。『本草』にも〈それ物を搏ち三躍して中(あた)らざればすなわちこれを捨つ〉と出づ。獣の中には色々変な心性の奴もあって大食獣(グラットン)とて鼬(いたち)と熊の類の間にあるものは、両半球の北極地に住み幽囚中でも肉十三ポンドすなわち一貫五百七十二匁(もんめ)余ずつ毎日食う、野にあるうちはどれだけ大食するか知れぬ至極の難物だが、このものの奇質は貯蓄のため食物を盗みまた自分の害になる係蹄(わな)を窃(ぬす)み隠すのみか、猟師の舎に入って毛氈鉄砲薬鑵(やかん)小刀その他一切の什具を盗み去って諸処に匿すのだ、これらは食うためでないからただただ好奇心から出る事と知らる(ウット『博  物  画  譜(イラストレーテット・ナチュラル・ヒストリー)』巻一、『大 英 類 典(エンサイクロペジア・ブリタニカ)』十一版、巻十二)。言わばこの獣は人間に窃盗狂(クリプトマニア)に罹ったように心性が窃みの方に発達を極め居るのだ。因って想うに虎や獅や米獅は時として友愛の情が甚だ盛んな性質で、自分を助けくれた人を同類と見做し、猫や梟同前手柄自慢で種々の物を捉えて見せに来る、特に礼物進上という訳でないが、人の立場から見るとちょうど助けやった返礼に物を持ち来てくれる事となるのだろう。
 わが国で寅年に生れた男女に於菟(おと)という名を付ける例がしばしばある、その由来は『左伝』に楚の若敖(じゃくごう)、※(うん)より妻を娶り闘伯比を生む、若敖卒してのち母と共に※に畜(やしな)わるる間※子の女に淫し令尹(れいいん)子文を生んだ、※の夫人これを夢中に弃(す)てしむると、虎が自分の乳で子文を育った、※子田(かり)して見付け惧れ帰ると夫人実を以て告げ、ついに収めて育った、楚人乳を穀(こう)虎を於菟という、因って子文の幼名を闘穀於菟(とうこうおと)すなわち闘氏の子で虎の乳で育った者といったと見ゆ。ロメーンスの『動物知慧論(アニマル・インテリジェンス)』に猫が他の猫を養い甚だしきは鼠をすら乳する事を載せ、貝原益軒も猫は邪気多きものだが他の猫の孤(みなしご)をも己れの子同様に育つるは博愛だと言った。虎も猫の近類だから時として人や他の獣類の子を乳育せぬとも限らぬであろう。参考のため狼が人の子を乳育する事について述べよう。誰も知るごとくローマの始祖ロムルス兄弟は生れてほどなく川へ流され、パラチン山の麓に打ち上げられたところへ牝狼来て乳育したと言い伝う。後世これを解くにその説区々(まちまち)で、中にはローマで牝狼をも下等娼妓をも同名で呼んだから実は下等の売淫女に養育されたんだと言った人もある、それはそれとしておき狼が人児を養うた例はインドや欧州等に実際あるらしい、一八八〇年版ポールの『印 度 藪 榛 生 活(ジャングル・ライフ・イン・インジア)』四五七頁以下に詳論しある故少々引用しよう。曰くインドで狼が人子を乳した例ウーズ州に最も多い、しかしてこの州がインド中で最も狼害の多い所でまず平均年々百人は狼に啖(く)わる。スリーマン大佐の経験譚によればその辺で年々小児が狼に食わるる数多きは狼窟の辺で啖われた小児の体に親が付け置いた黄金(きん)の飾具を聚(あつ)めて渡世とする人があるので知れる、その人々は生計上から狼を勦滅(とりつく)すを好まぬという。一八七二年の末セカンドラ孤児院報告に十歳ほどの男児が狼※より燻(ふす)べ出された事を載せた。どれほど長く狼と共に棲んだか解らぬが、四肢で行(ある)く事上手なと生肉を嗜むところから見ると習慣の久しきほとんど天性と成したと見える、孤児院に養われて後も若き狗様(いぬよう)に喚(うな)るなど獣ごとき点多しと載せた。また一八七二年ミネプリ辺で猟師が狼※から燻べ出し創(きず)だらけのまま件の孤児院に伴れ来た児は動作全く野獣で水を飲む様狗に異(かわ)らず、別けて骨と生肉を好み食う、常に他の孤児と一所に居らず暗き隅に竄(かく)る、衣を着せると細かく裂いて糸と為(な)しおわる、数月院にあって熱病に罹り食事を絶って死した。今一人狼※より得られこの院に六年ばかりある児は年十三、四なるべし、種々の声を発し得るが談話は出来ず喜怒は能(よ)く他人に解らせ得、時として少しく仕事をするが食う方が大好きだ、追々生肉を好まぬようになったが今なお骨を拾うて歯を磨(と)ぐ、これら狼※から出た児が四肢で巧く歩くは驚くべきもので、物を食う前に必ずこれを嗅ぎ試むとある。著者ポール氏自らかの孤児院に往きてその一人を延見(ひきみ)しに普通の白痴児の容体で額低く歯やや反(そ)り出(で)動作軽噪時々歯を鳴らし下顎攣(ひき)つる、室に入り来てまず四周(ぐるり)と人々を見廻し地板(ゆかいた)に坐り両掌を地板に較(の)せ、また諸方に伸ばして紙や麪包(パン)の小片(かけ)を拾い嗅ぐ事猴のごとし、この児痩形(やせがた)にて十五歳ばかりこの院に九年棲(す)めり、初めはどこにも独り行き得なんだがこの頃(一八七四年)は多少行き得、仕事をさせるに他が番せねばたちまち休(やめ)る癖あり、最も著しき一事はその前肢甚だ短き事でこれは長く四ツ這いのみし行(ある)きしに因るだろうという、最初この児捕われた時一牝狼の尸(しかばね)とその子二疋とともに裁判庁へ将(も)ち来(きた)る、全く四肢で行(ある)き万事獣と異(かわ)らず、煮た物を一切食わず、生肉は何程(いかほど)も啖う、その両脚を直にするため数月間土人用の寝牀に縛り付けて後ようやく直立するに及べり、今一人狼※より燻べ出された児は年はるかに少(わか)かったが夜分動(やや)もすれば藪に逃げ入りて骨を捜し這い行(ある)く、犬の子のごとく悲吟するほか音声を発せず、これらの二児相憐愛し長者少者に鍾(コップ)より水飲む事を教えた、この少者わずかに四ケ月この院にあったその間ヒンズー人しばしば来てこれを礼拝し、かくすればその一族狼害を免がると言った。一八五一年スリーマン大佐曰く数年前ウーズ王の臣騎馬で河岸を通り三疋の獣が水飲みに来るを見ると、二疋は疑いなく幼い狼だが一疋は狼でなかった、直ちに突前して捉え見ると驚くべし、その一疋は小さき裸の男児で、四肢で行(ある)き膝と肘(ひじしり)が贅(こぶ)に固まりいた、烈しくもがく奴をついに擒(いけど)ってルクノーに伴れ行き畜(こ)うたが、全く言語せず才智狗同前で手真似や身ぶりで人意を悟る事敏(はや)かった、大佐また曰く今一児狼群中より捉え来られたのは久しき間強き狼臭が脱けず、捉えられて後三疋の狼来て子細に吟味した後その児少しも惧れずともに戯れた、数夜後には六疋尋ねて来た、もとかの児と同夥(どうか)と見えると、またマクス・ミュラーの説にチャンズールの収税吏が河辺で大きな牝狼が穴から出ると三疋の狼子と一人の小児が随いて行くを見て捕えんとすると狼子の斉(ひと)しく四肢で走り母狼に随い皆穴に入った、土民集まり土を掘ってかの児を獲たが、穴さえ見れば這入(はい)らんとす、大人を見て憚る色あったが小児を見れば躍(と)び付いて咬もうとした、煮た肉を嫌い生肉と骨を好み犬のごとく手で押えいた、言語を教えるも呻吟(うなる)ばかりだった、この児のち英人ニコレツ大尉の監督で養われたが生肉を嗜む事甚だしく一度に羊児半分を食った、衣を着ず綿入れた蒲団を寒夜の禦(ふせ)ぎに遣ると破ってその一部分を嚥(の)んでしまったが一八五〇年九月死去した、生存中笑った事なく誰を好くとも見えず何を聞くも解らぬごとし、捕われた時九歳ほどらしく三年して死んだ、毎(いつ)も四這(よつばい)だが希(まれ)に直立し言語せず餓える時は口に指した。ミュラーこのほか狼に養われた児の譚を多く挙げて結論に、すべて狼に養われた児は言語(ものい)わぬらしい、古エジプト王やフレリック二世ジェームス四世それからインドの一莫臥爾(モゴル)帝いずれも嬰児を独り閉じ籠めて養いどんな語(ことば)を発するかを試したというが、今日そんな酷い事は出来ず、人の言語は天賦で自ずから出来(いできた)るか、他より伝習して始めて成るかを判ずるにこれら狼に養われた児輩に拠るのほかないと言った、さて人の児がどうして狼に乳育さるるに※(およ)んだかてふ問題をポール解いて次の通り述べた。曰くたとえば一※中の一狼が生きながら人児を捉え帰り今一狼は一羊を捉え帰るに、その羊肉のみで当分腹を充たすに足る時は人児は無益に殺されず、その間牝狼の乳を吸いそのまま狼の一族と認められたのだろう、また一層もっともらしき解説は狼その子を失い乳房腫(は)れ脹(ふく)るるより人児を窃(ぬす)み来って吸わせ自然にこれを愛育したのだろう、また奇態な事は従来男児に限って狼に養われたらしいと。
 勇士が虎に勝った史話は多く『淵鑑類函』や『佩文韻府』に列(なら)べある。例せば『列士伝』に秦王朱亥(しゅがい)を虎圏(おり)の中に著(お)いた時亥目を瞋(いか)らし虎を視るに眥(まなじり)裂け血出濺(そそ)ぐ、虎ついにあえて動かず。『周書』に楊忠周太祖竜門の狩に随うた時独り一虎に当り、左にその腰を挟み右にその舌を抜く、小説には『水滸伝』の武松(ぶしょう)李逵(りき)など単身虎を殺した者が少なからぬ、ただし上の(三)にも述べた通り虎の内にも自ずから強弱種々だから、弱い虎に邂逅(めぐりあわ)せた人は迎えざるに勇士の名を得たのもあろう、『五雑俎』巻九に虎地に拠りて一たび吼ゆれば屋瓦皆震う、予黄山の雪峰にあって常に虎を聞く、黄山やや近し、時に坐客数人まさに満を引く、※然(こうぜん)の声左右にあるごとく酒几上(きじょう)に傾かざる者なしとあって、虎の声は随分大きいが獅に劣る事遠しだ、『類函』に魏明帝宣武場上にて虎の爪を断ち百姓をして縦観せしむ、虎しばしば圏(おり)を攀(よ)じて吼ゆる声地を震わし観者辟易せしに、王戎(おうじゅう)まさに十歳湛然懼色(くしょく)なしとある、予などは毎度多くの獅、虎が圏中で吼ゆるを観たが一向懼ろしくなかった、家内にあって山上の虎声に駭(おどろ)き酒を傾(こぼ)したなどは余程の臆病者じゃ。『五雑俎』にまた曰く壮士水碓(みずぐるま)を守りしが虎に攫(つか)まれ上に坐らる、水碓飛ぶがごとく輪(まわ)るを虎が見詰め居る内にその人甦った、手足圧(おさ)えられて詮術(せんすべ)ない、ところが虎の陽物翹然(にょっきり)口に近きを見、極力噛み付いたので虎大いに驚き吼え走ってその人脱(のが)るるを得た、またいわく胡人虎を射るにただ二壮士を以て弓を※(ひ)き両頭より射る、虎を射るに毛に逆らえば入り毛に順(したが)えば入らず、前なる者馬を引き走り避けて後なる者射る、虎回れば後なる者また然(しか)す、虎多しといえども立(たちどこ)ろに尽すべしとは、虎を相手に鬼事(おにごと)するようで余りに容易な言いようだが、とにかくその法をさえ用いれば虎を殺すは至難の事でないらしい。また曰く支那の馬は虎を見れば便尿下りて行く能わず、胡地の馬も犬も然る事なし、これに似た話ラヤードの『波斯(ペルシア)スシヤナおよび巴比崙(バビロン)初探検記(しょたんけんき)』(一八八七年版)にクジスタンで馬が獅を怖るる事甚だしく獅近処に来れば眼これを見ざるにたちまち鼻鳴らして絆を切り逃げんとす、この辺の諸酋長獅の皮を剥製して馬に示しその貌と臭に狎(な)れて惧るるなからしむと見ゆ。畜生と等しく人も慣れたら虎を何ともなくなるだろう。したがって虎を獲た者必ずしも皆勇士でもなかろう。ベッカリはマラッカのマレー一人で十四虎を捕えた者を知る由記し、クルックは西北インドで百以上の虎を銃殺した一地方官吏ありと言った、『国史補』に唐の斐旻(はいびん)一日に虎三十一を斃(たお)し自慢しいると、父老がいうにはこれは皆彪だ、将軍真の虎に遇えば能く為すなからんと言ったので、真の虎の在処(ありか)を聞き往って見ると、地に拠って一度吼ゆれば山石震い裂け馬辟易し弓矢皆墜(お)ち、逃げ帰ってまた虎を射なんだとある。字書に彪は小虎といえり、虎の躯が小さい一変種であろう。『類函』に虎能く人気を識る、いまだ百歩に至らざるに伏して※(ほ)ゆれば声山谷に震う、須臾(しばらく)して奮い躍りて人を搏(う)つ、人勇ある者動かざれば虎止って坐り逡巡(ためらい)耳を弭(た)れて去ると。猛獣に遇った時地に坐れば撃たれぬとは欧人も説くところだ。勇士に限らず至極の腰抜けでも出来る芸当だ。本邦にはあいにく虎がないから外国に渡った勇士でなければ虎で腕試しした者がない。膳臣巴提便(かしわでのおみはすひ)(『日本紀』)、壱岐守宗于(いきのかみむねゆき)が郎等(『宇治拾遺』)、加藤清正(『常山紀談』)、そのほか捜さばまだ多少あるべし。『常山紀談』に黒田長政の厩に虎入り恐れて出合う者なかりしに菅政利と後藤基次これを斬り殺す、長政汝ら先陣の士大将して下知する身が獣と勇を争うは大人気(おとなげ)なしと言った。その時政利が用いた刀に羅山銘を作りて南山と名づく、周処が白額虎を除いた故事に拠ると出づ、『菅氏世譜』に政利寛永六年五十九歳で歿したとあるから、文禄中虎を斬った時は三十四、五の時だ。長政罪人を誅するに諸士に命じて見逢(みあい)に切り殺させらる、長政側近く呼んでその事を命じ命を承(う)けて退出する、その形気を次の間にある諸士察して仕置(しおき)をいい付けられたと知った、しかるに政利に命じた時ばかり人その形気を察する能わず、この人天性勇猛で物に動ぜなんだからだと貝原好古が記し居る。『紀伊続風土記』九十に尾鷲(おわせ)郷の地士世古慶十郎高麗陣に新宮城主堀内に従って出征し、手負(ておい)の虎を刺殺し秀吉に献じたが、噛まれた疵(きず)を煩い帰国後死んだとは気の毒千万な。
 「虎と見て石に立つ矢もあるぞかし」という歌がある。普通に『前漢書』列伝李広善く射る、出猟し草中の石を見て虎と思い射て石に中(あ)て矢をい没(しず)む、見れば石なり。他日これを射たが入る能わずとあるを本拠とするが、『韓詩外伝』に〈楚熊渠子(ゆうきょし)夜行きて寝石を見る、以て伏虎と為し、弓を彎(ひ)きてこれを射る、金を没し羽を飲む、下り視てその石たるを知る、またこれを射るに矢摧(くだ)け跡なし〉とある方が一層古い。『曽我物語』にはこの事を敷衍(ふえん)して李将軍の妻孕んで虎肝を食わんと望む、将軍虎を狩りて咋(くわ)れ死す、子生れ長じて父の仇を覓(もと)め虎の左眼を射、馬より下りて斬らんと見れば虎でなくて苔蒸(む)した石だった、その時石に立てた矢が石竹という草となったとある。『宋史』に〈元達かつて酔って道傍槐樹を見る、剣を抜きてこれを斬るに樹立ちどころに断つ、達ひそかに喜びて曰く、われ聞く李将軍臥虎を射て羽を飲ましむと、今樹我がために断つ豈(あに)神助か〉、『東海道名所記』等に見えた石地蔵が女に化けて旅人に斬られた話は、石橋臥波氏輯『民俗』第三報へ拙考を出し置いた。南宋の淳熙三年金国へ往った大使の紀行『北轅録』にも〈趙州に至る、道光武廟を経て二石人あり、首路に横たわる、俗に伝う、光武河を渡らんと欲し、二人餉を致す、その蹤を洩さんと慮りすなわちこれを除く、またいう、二人に遇いて道を問うに答えず、怒ってこれを斬る、すでにして皆石なり〉とある。
 沈約(しんやく)の『宋書』に檀和之(だんわし)林邑国を討った時林邑王象軍もて逆戦(むかえたたか)う、和之に蹤(つ)いていた宗愨(そうかく)謀って獅の形を製し象軍に向かうと象果して驚き奔(はし)りついに林邑に克(か)ったとある、この謀ずっと古くよりあった証(しるし)は『左伝』に城濮(じょうぼく)の戦に晋の胥臣(しょしん)虎皮を馬に蒙(かぶ)せて敵の軍馬を驚かし大勝したとある。
 林宗甫の『和州旧跡幽考』五に超昇寺真如法親王建、天正年中絶え果て今は形ばかりなる廬(いおり)に大日如来一躯あり云々、平城帝第三の御子、母は贈従三位伊勢朝臣継子、大同の末春宮(とうぐう)に坐し世人蹲踞太子と申したてまつる、弘仁元年九月十二日三十七歳にて落飾し東大寺の道詮律師の室に入らせて真如親王となん申しき、弘法大師に随いて真言宗を極めたまえり、貞観(じょうがん)三年奏聞を経(へ)唐に渡りここには明師なしとて天竺に渡る、唐土の帝渡天の志を感じて多くの宝を与えたまいけるに、その由なしとて皆々返しまいらせて道の用意とて大柑子(こうじ)を三つ留めたまえりとぞ、僧宗叡は帰朝すれども伴いたまえる親王は見えたまわねば唐土へ生死を尋ねたまえりける、その返事に渡天すとて獅子州にて群れける虎の逢いて食いたてまつらんとしけるに、我身を惜しむにはあらず我はこれ仏法の器物なり、過(あやま)つ事なかれとて錫杖にてあばえりけれどついに情なく食いたてまつるとはるかになん聞えしとこそ書きたれとある、弘仁元年に三十七歳とは誤写で確か七、八十歳の高齢で虎に食われたまいしと記憶する、さしも九五(きゅうご)の位に即(つ)きたもうべかりし御方の虎腹に葬られたまいしは誠に畏れ多き事だが、かつて「聞く説(なら)く奈落の底に沈みなば刹利(せつり)も首陀(しゅだ)も異ならざるなり」と詠みたまいしを空海がかく悟りてこそ「如来位までは成り登るなり」と讃めまいらせたなどを攷(かんが)うるとよほど得脱した方と察したてまつる。インドにも親王の御履歴に少しく似た話が『賢愚因縁経』十二に出て居る。仏鷲頭山に在った時波羅奈(はらな)王の輔相一男児を生むに三十二相備わり満身紫金色で相師感嘆す、その母素性良善ならず、しかるにこの子を姙んでより慈悲厚くなる、因って生れた子を慈氏と名づく、王その高徳あって必ず位を奪わん事を恐れ宮中に召して殺さんとす、父これを愍(あわれ)み子をその舅波梨富羅国(はりふらこく)の師(し)波婆利に送る、舅に就いて学問甚だ通じければ会(え)を作(な)してその美を顕揚せんと一弟子を波羅奈国に遣わし輔相に謀り会資として珍宝を得んとす、その弟子中道で人が仏の無量の徳行を説くを聞きて仏に趣く途中虎に食われ、善心の報いで天に生まる、旧師波婆利慈氏のために大会を催すところへ悪波羅門(ばらもん)押し懸けて詛(のろ)い波婆利大いに困る、ところへ虎に食われた弟子天より降り殃(わざわい)を脱れんとならば仏に詣(まい)れと教え一同を仏教に化した、話が長いから詳しくここに述べ得ぬ。『経律異相』四五には牧牛児あり常に沙門の経誦(よ)むを歓び聞く、山に入りて虎に食われ長者の家に生まる、懐姙中その母能く経を誦む、父この子の所為(しわざ)と知らず鬼病(もののけ)と為(おも)う、その子の前生に経を聞かせた僧往きて訳を話しその子生れて七歳道法ことごとく備わった大知識となったとある。支那には虎に食われたのを知らずに天に上ったと思っていた話がある。『類函』に『伝異志』を引いて唐の天宝中河南※氏(こうし)県仙鶴観毎年九月二日の夜道士一人天に登るといって戸を締む、県令張竭忠これを疑いその日二勇者に兵器を以て潜み窺わしむ、三更後一黒虎観に入り一道士を銜(ふく)み出づるを射しが中(あた)らず、翌日竭忠大いに太子陵東の石穴中に猟し数虎を格殺(うちころ)した、その穴に道士の冠服遺髪甚だ多かったと見ゆ。後漢の張道陵が蟒(うわばみ)に呑まれたのをその徒が天に上ったと信じたのにちょっと似て居る。

    (五) 仏教譚

 仏教も虎もインドが本元故、虎に関する伝説や譬喩や物語が仏教書に多い、釈尊の前身も毎度虎に関係したと見えて、北涼の法盛訳『菩薩投身餓虎起塔因縁経』に拠れば如来前身乾陀摩提国(かんだまじこく)の栴檀(せんだん)摩提太子たり、貧民に施すを好み所有物一切を施し余物なきに至り、自身を千金銭に売って諸貧人に施し他国の波羅門の奴たり、たまたま薪を伐りに山に入って牛頭(ごず)栴檀を得、時にその国の王癩病に罹り名医の教に従い半国を分け与うべしと懸賞して牛頭栴檀を求む、波羅門太子に教えこの栴檀を奉って立身せよという、太子往きて王に献(たてまつ)り王これを身に塗って全快し約のごとく半国を与うるも受けず、その代りに王に乞うて五十日間あまねく貧民に施さしむ。
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