十二支考
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著者名:南方熊楠 

『古今要覧稿』巻五三一に「およそ十二辰に生物を配当せしは王充の『論衡』に初めて見たれども、『淮南子(えなんじ)』に山中未(ひつじ)の日主人と称うるは羊なり、『荘子』に〈いまだかつて牧を為さず、而して□(しょう)奥に生ず〉といえるを『釈文』に西南隅の未地(ひつじのち)といいしは羊を以て未(ひつじ)に配当せしもその由来古し」と論じた。果してその通りなら十二支に十二の動物を配る事戦国時既に支那に存したらしく、『淮南子』に〈巳の日山中に寡人と称せるは、社中の蛇なり〉とある、蛇を以て巳に当てたのも前漢以前から行われた事だろうか。すべて蛇類は好んで水に近づきまたこれに入る。沙漠無水の地に長じた蛇すら能く水を泳ぎ、インドで崇拝さるる帽蛇(コブラ)は井にも入れば遠く船を追うて海に出る事もあり。されば諸国でいわゆる水怪の多くは水中また水辺に棲(す)む蛇である(バルフォール『印度事彙』蛇の条、テンネント『錫蘭博物志(ナチュラル・ヒストリ・オヴ・セイロン)』九章、グベルナチス『動物譚原(ゾーロジカル・ミソロジー)』二)。わが邦でも水辺に住んで人に怖れらるる諸蛇を水の主というほどの意(こころ)でミヅチと呼んだらしくそれに蛟※[#「虫+罔」、222-12]□等の漢字を充(あ)てたはこれらも各支那の水怪の号(な)故だ。現今ミヅシ(加(かが)能(のと))、メドチ(南部)、ミンツチ(蝦夷)など呼ぶは河童なれど、最上川と佐渡の水蛇能(よ)く人を殺すといえば(『善庵随筆』)、支那の蛟同様水の主たる蛇が人に化けて兇行するものをもとミヅチと呼びしが、後世その変形たる河童が専らミヅシの名を擅(ほしいまま)にし、御本体の蛇は池の主淵の主で通れどミヅチの称を失うたらしい。かく蛇を霊怪(ふしぎ)視した号(な)なるミヅチを、十二支の巳(し)に当て略してミと呼んだは同じく十二支の子(し)をネズミの略ネ、卯(ぼう)を兎の略ウで呼ぶに等し。また『和名抄』に蛇(じゃ)和名(わみょう)倍美(へみ)、蝮(ふく)和名(わみょう)波美(はみ)とあれば蛇類の最も古い総称がミで、宣長の説にツチは尊称だそうだから、ミヅチは蛇の主の義ちょうど支那で蟒(うわばみ)を王蛇と呼ぶ(『爾雅』)と同例だろう。さてグベルナチスが動物伝説のもっとも広く行き渡ったは蛇話だといったごとく、現存の蛇が千六百余種あり。寒帯地とニューゼーランドハワイ等少数の島を除き諸方の原野山林沼沢湖海雑多の場所に棲み大小形色動作習性各同じからず、中には劇毒無類で人畜に大難を蒙(こうむ)らするもあれば無毒ながら丸呑みと来る奴も多く古来人類の歴史に関係甚だ深い。故にこれに関する民族と伝説は無尽蔵でこれを概要して規律正しく叙(の)ぶるはとても拙筆では出来ぬ。だが昨年三月号竜の話の末文に大分メートル高く約束をしたから、今更黙ってもおれず、ざっと次のごとく事項を分け列ねた各題目の下に蛇についての諸国の民俗と伝説の一斑(いっぱん)を書き集めよう、竜の話に出た事なるべくまた言わぬ故双(ふたつ)参(あわ)せて欲しい。

     名義

 本居宣長いわく、「『古事記』の遠呂智(おろち)は『書紀』に大蛇とあり、『和名抄』に蛇和名倍美(へみ)一名久知奈波(くちなわ)、『日本紀私記』にいふ乎呂知(おろち)とあり、今俗には小さく尋常なるを久知奈波といひ、やや大なるを幣毘(へび)といふ、なほ大なるを宇波婆美(うわばみ)といひ、極めて大なるを蛇(じゃ)といふなり、遠呂智とは俗に蛇といふばかりなるをぞいひけむ云々」。またいわく、「『和名抄』に蛇和名倍美※蛇(げんじゃ)[#「虫+元」、224-5]加良須倍美(からすへみ)※蛇(ぜんじゃ)[#「虫+冉」、224-6]仁之木倍美(にしきへみ)とありて幣美(へみ)てふ(〔という〕)名ぞ主(むね)と聞ゆる、同じ『和名抄』蝮の条に、〈俗あるいは蛇を呼ぶに反鼻と為す、その音片尾(へんび)〉といへるは和名倍美とは似たれども別なりと聞ゆ、反鼻は本より正名にあらず一名なるを、その音を取りて和名とすべきにあらず、それも上代この御国になかりし物は漢の一名などをも取りて名づくる例かれこれあれども、蛇などは神代よりある物なれば名もなかるべきにあらず云々、その上幣美といふ名は広くいひ習はしたるやうに聞ゆるをや、しかればこは反鼻の音と自然似たるのみなりけり」。また『和名抄』に蟒蛇(ぼうじゃ)、和名夜万加々知(やまかがち)、『古事記』に赤加賀智(あかかがち)とは酸漿(ほおずき)なりとあれば、山に棲んで眼光強い蛇を山酸漿(やまかがち)といったのであろう。今もヤマカガシちゅう蛇赤くて斑紋あり山野に住み長(たけ)六、七尺に及び、剛強にして人に敵抗す。三河の俗説に愛宕または山神の使といい、雷鳴の際天上すともいう(早川孝太郎(はやかわこうたろう)氏説)。ありふれた本邦の蛇の中で一番大きいからこれを支那の巨蟒(きょぼう)に充(あ)てたものか。普通に蟒に充てるウワバミは小野蘭山これを『和名抄』の夜万加々智とす。深山に棲み眼大にして光り深紅の舌と二寸ばかりの小さき耳あり、物を食えば高鼾(たかいびき)して睡(ねむ)る由(『和漢三才図会』)、何かの間違いと見え近頃一向かかる蛇あるを聞かず。ただし昔到る処林野多くも深くもあった世には、尋常のヤマカガシなども今より迥(ずっ)と老大のもありたるべく、それらを恐怖もて誤察し種々誇大のウワバミ譚をも生じたなるべし、『本草綱目』には巨蟒(きょぼう)一名鱗蛇(りんじゃ)と見えて、さきに書いたごとく大蛇様で四足ある大蜥蜴だが、〈蟒は蛇の最も大なるもの、故に王蛇という〉といい(『爾雅』註)、諸書特にその大きさを記して四足ありと言わぬを見れば、アジアの暖地に数種あるピゾン属の諸大蛇、また時にはその他諸蛇の甚だしく成長したのを総括した名らしい。ここに一例としてインド産のピゾン一種人に馴(な)るる状(さま)を示す(図略す)。これは身長二丈余に達する事あり。英人のいわゆる岩蛇(ロック・スネーク)だ。
『和名抄』に仁之木倍美(にしきへみ)と訓(よ)んだ※[#「虫+冉」、225-11]蛇は日本にない。予漢洋諸典を調べるに後インドとマレー諸島産なる大蛇ピゾン・レチクラツスに相違ない。この学名はその脊紋が網眼に似居るに基づき、すこぶる美麗でかの辺の三絃様な楽器の胴に張りおり、『本草』に〈※[#「虫+冉」、225-13]蛇嶺南に生ず、大なるは五、六丈、囲り四、五尺、小なるも三、四丈を下らず〉とあるが、『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』十一版に南米熱地産なるアナコンダに次いで諸蛇の最大なるものとあり。アはベーツ説に四十フィートに達するそうだが、ピゾン・レチクラツスは三十フィートまで長ずというから『本草』の懸値(かけね)は恕(ゆる)すべしで、実に東半球最大の蛇だ。さて『本草』に〈身斑紋あり、故に錦纈(きんけつ)のごとし春夏山林中にて鹿を伺いてこれを呑む云々〉とあるは事実で、その肉や胆(い)の薬効を『本草』に記せると実際旅行中実験した欧人輩(ら)の話とが十分二者を同物とする拙見を扶(たす)け立たしむ。マルコ・ポロ南詔国(なんしょうこく)の極めて大きな蛇を記して「その長(たけ)三丈ほど、太さ大樽のごとく、大きな奴は周り三尺ばかり、頭に近く二前脚あり、後足は鷹また獅子の爪ごとき爪でこれを表わすのみ、頭すこぶる大きく眼は巨なる麪麭(パン)より大きく、口広くして人を丸嚥(まるの)みにすべく歯大にして尖(とが)れり、これを見て人畜何ぞ戦慄せざらん、日中は暑ければ地下に躱(かく)れ夜出て食を覓(もと)め、また河や湖泉に行き水を飲む、その身重き故行くごとに尾のために地凹(くぼ)む事大樽に酒を詰めて挽(ひ)きずりしごとし、この蛇往還必ず一途に由る故、猟師その跡に深く杭(くい)を打ち込み、その頂に鋭き鋼(はがね)の刃剃刀(かみそり)様なるを植え、沙(すな)もて覆うて見えざらしむ。かかる杭と刃物を蛇跡へ幾つも設け置いたと知らないかの蛇は、走る力が速ければ刃の当りも強くしてやにわに落命してしまう、烏これを見て鳴くと、猟師が聞き付け走り来ると果して蛇が死んでおり、その胆を取りて高価に售(う)る。狂犬に咬まれた者少しく服(の)まば即座に治る、また難産や疥癬に神効あり、その肉また甘(うま)ければ人好んで購(あがな)い食う」と言った。『淮南子(えなんじ)』に、越人※[#「虫+冉」、226-14]蛇を得て上(よき)肴(さかな)となせど中国人は棄て用いるなし。『嶺表録異』に、晋安州で※[#「虫+冉」、226-15]蛇を養い胆を取りて上貢としたと載せ、『五雑俎』に、〈※[#「虫+冉」、226-16]蛇大にして能く鹿を呑む、その胆一粟を口に※(ふく)[#「口+禽」、226-16]めば、拷椋(ごうりゃく)百数といえどもついに死せず、ただし性大寒にして能く陽道を萎せしめ人をして子なからしむ〉。ランドの『安南風俗迷信記』にこの蛇土名コン・トラン、その脂を塗れば鬚生ずとあれば漢医がこれを大寒性とせるは理あり、『□雅』には〈※[#「虫+冉」、227-3]蛇の脂人骨に著(つ)くればすなわち軟らかなり〉。さてマルコの書をユールが注して、これは□(がく)の事だろう、イタリアのマッチオリは□の胆が小瘡(かさ)や眼腫に無比の良薬だといったと言うたは甚だ物足らぬ。両(ふたつ)ながら胆が薬用さるるからマルコの大蛇と□と同物だとは、不埒(ふらち)な論法なる上何種の□にもマルコが記したごとき変な肢がない。予謂(おも)うにマルコはこの事を人伝(ひとづて)に聞書(ききがき)した故多少の間違いは免れぬ。すなわち頭に近く二前脚ありとは全く誤聞だが、ここに件(くだん)の大蛇が※[#「虫+冉」、227-8]蛇すなわちピゾン・レチクラツスたる最も有力な証拠はすべて蛇類は比較的新しき地質紀に蜥蜴類が漸次四脚を失うて化成した物で、精確にこれまでが蜥蜴類これからが蛇と別つ事はならぬ。されば過去世のピゾノモルファ(擬蟒蛇(うわばみもどき))など体長きこと蟒蛇に逼(せま)りながら確かに肢を具えていた。さて※蛇(ボイダエ)[#「虫+冉」、227-11]群の蛇はおよそ六十種あり、熱帯アメリカのボアやアナコンダ、それから眼前予の論題たる※蛇(ピゾン)[#「虫+冉」、227-12]、いずれも横綱著(つき)の大蛇がその内にある。知人英学士会員プーランゼーは、※蛇(ボイダエ)[#「虫+冉」、227-13]群は蛇のもっとも原始な性質を保存すと言った。その訳はこの一群の諸蛇蜥蜴を離るる事極めて遠からず、腰骨と後足の痕(あと)をいささかながら留めおり、すなわち後足の代りに何の役にも立たぬ爪二つ相対して腹下にある。これ正しくマルコが鷹また獅の爪ごとき爪が後足を表わすといえるに合い、南詔国(現時雲南省とシャン国の一部)辺に※[#「虫+冉」、228-1]蛇(ピゾン・レチクラツス)のほか大蛇体でかかる爪もて後足を表わすものなければ、マルコは多少の誤りはあるとも※[#「虫+冉」、228-2]蛇を記載した事疑いを容れず、予往年ロンドンに之(ゆ)きし時、この事をユールに報ぜんとダグラス男に頼むと、ユールは五年前に死んだと聞いて今まで黙りいたが、折角の聞を潰(つぶ)してしまうは惜しいから今となっては遼東の豕かも知れぬが筆し置く、この※[#「虫+冉」、228-5]蛇もまた竜に二足のみあるてふ説の一因であろう。
 英語でサーペントもスネイクも、蛇とは誰も知り居るが、時にサーペントおよび(エンド)スネイクと書いた文に遭(あ)う。その時は前者は人に害を加うる力ある蝮また蟒蛇等でその余平凡な蛇が後者だ。ヴァイパーとは上顎骨甚だ短く大毒牙を戴いたまま動かし得る蛇どもで、和漢の蝮もこれに属するからまず蝮と訳するほかなかろう。それからアスプといってエジプトの美女皇クレオパトラが敵に降らばその凱旋(がいせん)行列に引き歩かさるべきを恥じこの蛇に咬まれて自殺したとある。これはアフリカ諸方に多いハジ蛇なりという。これは既述竜の話中に図に出したインドのコブラ・デ・カペロ(帽蛇(ぼうじゃ))に酷(よく)似るが喉後の眼鏡様の紋なし。インドで帽蛇を神視しまた蛇遣(つか)いが種々戯弄して観(み)せるごとく古エジプトで神視され今も見世物に使わる物である。帽蛇は今も梵名ナーガで専ら通りおり、那伽(ナーガ)は漢訳仏典の竜なる由は既述竜の話で繰り返し述べた。また仏教に摩□羅伽(まほらか)てふ一部の下等神ありて天、竜、夜叉、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅、金翅鳥(がるら)、緊那羅(きんなら)の最後に列(なら)んで八部を成す。いずれも働きは人より優(まし)だが人ほど前途成道の望みないだけが劣るという。この摩□羅伽は蟒神には大腹(たいふく)と訳し地竜にして腹行すと羅什(らじゅう)は言った。竜衆(ナーガ)すなわち帽蛇は毎度頭を高く立て歩くに蟒神衆は長く身を引いて行くのでこれは※蛇(ピゾン)[#「虫+冉」、229-2]を神とするから出たのだ。

     産地

 ニューゼーランドハワイアゾールス等諸島や南北冱寒(ごかん)の地は蛇を産せぬ。ギリシア海に小島多く相近きに産するところの物有無異同あり。例せばシフノス島には毒蛇あり、ケオス島に蠍(かつ)、アンチパロス島には蜥蜴のみありて全く蛇なし(ベントの『シクラデス』九〇頁)。『大和本草』に四国に狐なしというが『続沙石集』に四国で狐に取り付かれた話を載す。いずれが間違って居るかしら、『甲子夜話』に壱岐(いき)に□鼠(うごろもち)なしとある。ロンドンなどは近代全く蛇を生ぜぬという、アイルランドは蛇なきを以て名高く、伝説にこれはパトリク尊者の制禁に因るという。この尊者の生国は定かならず、西暦三七二年頃生まれ十六歳で海賊に捉われアイルランドに売られて人奴となりしが脱(のが)れて大陸に渡り、仏国で修業およそ十四年ついに僧正となり法皇の命を奉じてアイルランドに伝道した。その国のドルイド教の僧輩反抗もっとも烈しかったので尊者やむをえずその沃野(よくや)を詛(とこ)うてたちまち荒れた沼となし川を詛うて魚を生ぜざらしめ缶子を詛うていくら火を多く焼(た)いても沸かざらしめ、ついにかの僧輩を詛うて地中に陥り没せしめた。一朝その徒と山中におり寒風堪ゆべからなんだ時、氷雪を集めて息を吹き掛けるとたちまち火となったと詠んだ詩人もある。尊者また太鼓を打ちてアイルランドから毒虫を駆り尽くすに余り力を入れ過ぎて太鼓中途で破れ、その挙また破れかかった時神使下ってこれを繕い目出たく悪虫を除き去り、爾来(じらい)永久この国の土に触れば蝮が即死する。この国の石や砂を他邦へ持ち行き毒虫を取り廻らせば虫その輪を脱け出で得ず皆死す。この国の木で圏(わ)を画くもまたしかり。一説に狼と鼬(いたち)と狐には利(き)かぬとあり。また一説にはこれら皆空(うそ)で実は尊者の名パトリックをノールス人がパド・レクルと間違え蟾蜍(ひき)を(パダ)逐(お)い去る(レカ)と解した。蟾蜍を欧人は大変な毒物とするところから拡げて、すべての悪性動物を制禁して生ずるなからしめたというたんだそうな(チャンバース『日次事纂(ブック・オヴ・デイス)』二、『フォクロール』五巻四号)。アイスランドも蛇なきを以て聞えた。ボスエルの『ジョンソン伝』に、ジョンソンわれ能くデンマーク語でホレボウの『氷州(アイスランド)博物誌』の一章を暗誦(あんしょう)すと誇るので試(やら)せて見ると、「第五十二章蛇の事、全島に蛇なし」とあるばかりだそうな。熊楠ウェブストルの字書を見るとルジクラス(可笑(おかし)い)の例としてド・クインシーの語を引く。いわくファン・トロールの書に「アイスランドの蛇―なし」これだけを一章として居ると。前年一英人ファン・トロールの書をデンマークより取り寄せ仔細に穿鑿(せんさく)せしもかかる章を見ざりしと聞く。ド・クインシー例の変態精神から心得違うてかかる無実を言い出したなるべし。

     身の大きさ

 ベーツの『亜馬孫河畔の博物学者(ゼ・ナチュラリスト・オン・ゼ・リヴァー・アマゾンス)』アナコンダ蛇が四十二フィートまで長じた事ありと載せ、テッフェ河汀で小児が遊び居る所へアナコンダが潜み来て巻き付いて動き得ざらしめその父児の啼(な)くを聞きて走り寄り、奮って蛇の頭を執らえ両齶(あご)を□(ひ)き裂いたと言う。錦絵や五姓田(ごせだ)氏の油絵で見た鷺池平九郎の譚もまるで無根とも想われぬ。アマゾン辺の民一汎(いっぱん)に信ずるはマイダゴア(水の母また精)とて長(たけ)数百フィートの怪蛇あり、前後次第して河の諸部に現わると。『千一夜譚(サウザンドナイツ・エンド・ア・ナイト)』に海商シンドバッド一友と樹に上り宿すると夜中大蛇来てその友を肩から嚥(の)みおわり緊(きび)しく樹幹を纏(まと)うて腹中の人の骨砕くる音が聞えたと出で、有名な東洋ゴロ兼法螺(ほら)の日下開山(かいさん)ピントはスマトラで息で人殺す巨蛇に逢ったといい、ドラセルダ、ブラジルのサンパウロを旅行中その僕(しもべ)大木の幹に腰掛くると動き出したから熟(よく)視(み)ると木でなくて大蛇だったと記した。『山海経(せんがいきょう)』に巴蛇(はじゃ)象を呑む、一六八三年ヴェネチア版ヴィンセンツオ・マリヤの『東方行記(イル・ヴィアジオ・オリエンタリ)』四一六頁にインドのマズレ辺に長九丈に達する巨蛇ありて能く象を捲き殺す、その脂は薬用さる、『梁書』に〈倭国獣あり牛のごとし、山鼠と名づく、また大蛇あり、この獣を呑む、蛇皮堅くして斫(き)るべからず、その上孔あり、乍(はや)く開き乍く閉づ、時にあるいは光あり、これを射て中(あつ)れば蛇すなわち死す〉。日本人たるわれわれ何とも見当の付かぬ珍談だが何か鯨の潮吹(しおふき)の孔などから思い付いた捏造(ねつぞう)説でなかろうか。昔ローマとカルタゴと戦争中アフリカのバグダラ河で長百二十フィートの蛇がローマ軍の行進を遮(さえぎ)った。羅(ロ)の名将レグルス兵隊をして大弩(おおゆみ)等諸機を発して包囲する事塁砦(るいさい)を攻むるごとくせしめ、ついにこれを平らげその皮と齶をローマの一堂に保存した(プリニの『博物志(ヒストリア・ナチュラリス)』八巻十四章)。北欧の古伝に魔蛇ヨルムンガンド大地を囲める大洋にありて尾を口に啣(くわ)え大地を繞(めぐ)り、動く時は地震起る(マレー『北方考古篇(ノルザーン・アンチクイチース)』)。インドの教説に乳洋中にシェシャ蛇ありて常紐天(ヴィシュニュ)その上に眠る。この蛇頭に大地を戴く。『山海経』に〈崑崙(こんろん)山西北に山あり、周囲三万里、巨蛇これを繞り三周するを得、蛇ために長九万里、蛇この上におり、滄海(そうかい)に飲食す〉。十六年ほど前アンドリウスはエジプトで長六十フィートなる蛇の化石を発見した。

     蛇の特質

 蛇の特質は述べ尽くされぬほどあるだろうから、思い出すままに少々書いて見る。豊後の三浦魯一氏の説に(『郷土研究』二巻三号、以下この雑誌を単に『郷』と書き、巻数と頁数は数字のみ挙ぐる)蛇を川に流しこっちに首を向ければ戻って来る。向う岸の方に向ければ帰って来ぬとあるは何でもない事のようだが、蟾蜍が首を向けたと反対の方へ行くと全く異(ちが)って面白い。『古史通』に「『神代巻抄』に人を呪詛(じゅそ)する符などをば後様(うしろざま)に棄つる時は我身に負わぬという、反鼻(へび)をも後様に棄つれば再び帰り来らずというと見えたり」、紀州西牟婁郡では今もこうして蛇を捨てる。本邦でも異邦でも蛇が往来稀(まれ)ならぬ官道に夏日臥して動かぬ事がある。これは人馬や携帯品に附いて来る虫や様々の遺棄物を餌(くら)うためでもあろう。ルマニヤの俗伝にいわく昔犬頭痛甚だしくほとんど狂せんとし、諸所駈け廻るうち蛇に邂逅(でくわ)せ療法を尋ねた。蛇いわく僕も頭痛持ちだが蛇の頭痛療法を知ると同時に犬の頭痛療法を心得おらぬから詰まらない。犬いわく汝(おまえ)の事はどうでもよい、とにかく予(おれ)の頭痛を治す法を教えてくれ後生(ごしょう)だ。蛇いわくそれそこにある草を食べなされ、直ちに治ると、犬すなわち往きてその草を食い頭痛たちまち快くなった。人さえ背恩の輩多き世に犬が恩など知ろうはずなく、頭痛が治った意趣返しをやらにゃならぬと怪(け)しからぬ考えを起し、蛇を尋ねておかげで己の病は治ったが頃日(このごろ)忘れいた蛇の頭痛療法を憶(おも)い出したと語り、蛇に懇請されてそれなら教えよう、造作もない事だ、汝が頭痛したら官道に往って全く総身を伸ばして暫(しばら)く居れば輙(たやす)く治ると告げた。蛇教えのままに身を伸ばして官道に横たわり居ると、棒持った人が来て蛇を見付けると同時に烈しくその頭を打ったので、蛇の頭痛はまるで何処(どこか)へ飛んでしまった。蛇は犬の奸計とは気付かず爾来頭が痛むごとに律義に犬の訓(おし)え通り官道へ横たわり行く。つまり頭が打ち砕かれたら死んでしまうから療治も入(い)らず。幸い身を以て遁(のが)れ得たら太(ひど)く驚いて何処かへ頭痛が散ってしまうのである(一九一五年版ガスター著『羅馬尼(ルーマニア)禽獣譚』)。コラン・ド・プランシーの『妖怪字彙(ジクショネーランフェルナル)』四版四一四頁には、欧州に蛇が蛻(かわぬ)ぐごとに若くなり決して死なぬと信ずる人あるという。英領ギヤナのアラワク人の談に、往時上帝地に降(くだ)って人を視察した、しかるに人ことごとく悪くて上帝を殺そうとし、上帝怒って不死性質を人より奪い蛇蜥蜴甲虫などに与えてよりこれらいずれも皮脱で若返ると。フレザーの『不死の信念(ゼ・ビリーフ・イン・インモータリチー)』(一九一三年版)一に、こんな例を夥しく挙げて昔彼輩(かれら)と人と死なざるよう競争の末人敗れて必ず死ぬと定ったと信ずるが普通だと論じた。この類の信念から生じたものか、本邦で蛇の脱皮(ぬけがら)で湯を使えば膚(はだ)光沢を生ずと信じ、『和漢三才図会』に雨に濡れざる蛇脱(へびのかわ)の黒焼を油で煉(ね)って禿頭(はげあたま)に塗らば毛髪を生ずといい、オエンの『老兎巫蠱篇(オールド・ラビット・ゼ・ヴーズー)』に蛇卵や蛇脂が老女を若返らすと載せ、『絵本太閤記』に淀君妖僧日瞬をして秘法を修せしめ、己が内股の肉を大蛇の肉と入れ替えた。それより艶容匹(たぐい)なく姿色衰えず淫心しきりに生じて制すべからず。ために内寵多しとあるは作事ながら多少の根柢はあるなるべし。本邦で蛇は一通りの殺しようで死に切らぬ故執念深いという。これに反し蝮は強き一打ちで死ぬ。『和漢三才図会』に蝮甚だ勇悍(ゆうかん)なり、農夫これを見付けて殺そうにも刀杖の持ち合せない時、これに向って汝は卑怯者だ逃げ去る事はならぬぞといい置き、家に還って鋤(すき)鍬(くわ)を持ち行かば蝮ちゃんと元のままに待って居る。竿でその頭を※(せせ)[#「てへん+孑」、234-14]るにかつて逃げ去らず。徐々(そろそろ)と身を縮め肥えてわずかに五、六寸となって跳び懸かるその頭を拗(ひし)げば死すとある。蝮は蛇ほど速く逃げ去らぬもの故、人に詞(ことば)懸けられてその人が刀杖を取りに往く間待って居るなど言い出したのだ。
 英国や米国南部やジャマイカでは、蛇をいかほど打ち拗(ひし)ぐとも尾依然動きて生命あるを示し、日没して後やっと死ぬと信ず(『ノーツ・エンド・キーリス』十輯一巻二五四頁)。英のリンコルンシャーで伝うるは、蛇切れたら切片が種々動き廻り切り口と切り口と逢わば継ぎ合うて蘇る。それ故蛇を殺すにはなるべく多くの細片に切り□(きざ)めばことごとく継ぎ合うに時が掛かる、その内に日が没(い)るから死んでしまうそうじゃ。日向(ひゅうが)の俗信に、新死(しんし)の蛇の死骸に馬糞と小便を掛けると蘇ると(『郷』四の五五五)。右リンコルンシャーの伝は欧州支那ビルマ米国に産する蛇状蜥蜴(オフィオサウルス)を蛇と心得て言い出したのだ。外貌甚だ蛇に似た物だが実は蜥蜴が退化して前脚を失い後脚わずかに二小刺となりいる。すべてこんな蜥蜴が退化してほとんどまたは全く四脚を失うたものと真の蛇を見分けるには、無脚蜥蜴の瞼(まぶた)は動くが蛇のは(少数の例外を除いて)動かぬ。蛇の下齶の前(さき)にちょっと欠けた所があって口を閉じながらそこから舌を出し得るが蜥蜴の口は開かねば舌を出し得ぬ。また蛇の腹は横に広くて脇から脇へ続いて大きな鱗一行(稀に二行)を被るに蜥蜴の腹は鱗七、八行またそれより少なくとも一行では済まぬ。それから蜥蜴の腹を逆(さか)さに撫でるに滑らかなれど、蛇の腹を逆撫ですると鱗の下端が指に鈎(かか)る。また無脚蜥蜴は蛇の速やかに走るに似ず行歩甚だ鈍い。さて蛇状蜥蜴(オフィオサウルス)はすべて三種あるが皆尾が体より遥かに長くその区分がちょっとむつかしい。その尾に夥(おびただ)しく節あり、驚く時非常な力で尾肉を固く縮める故ちょっと触(さわ)れば二、三片に断(き)れながら跳(おど)り廻る。これは蜥蜴の尾にも能く見るところで切った尾が跳り行くのに敵が見とれ居る間に蜥蜴は逃げ去るべき仕組みだ。こんな事から米国でも欧州でも蛇状蜥蜴(オフィオサウルス)を硝子蛇(グラス・スネーク)と呼ぶ。鱗が硝子(ガラス)様に光り長い尾が硝子のごとく脆(もろ)く折れるからだ。したがって支那にも『淮南子』に神蛇自らその尾を断ち自ら相続(あいつ)ぐ、その怒りに触ればすなわち自ら断つ事刀もて截(た)つごとし、怒り定まれば相就(あいつ)いて故(もと)のごとし。『潜確類書』に〈脆蛇一名片蛇、雲南の大侯禦夷州に出(い)づ、長二尺ばかり、人に遇わばすなわち自ら断ちて三、四となる人去ればすなわちまた続(つな)ぐ、これを乾して悪疽(あくそ)を治す云々〉。米国でも硝子蛇ちょっと触れば数片に折(さ)け散りまた合して全身となるといい、それより転じて真の蛇断れた時艾(よもぎ)のような草で自ら続(つ)ぎ合すという(オエン『老兎および巫蠱篇(オールド・ラビット・ゼ・ヴーズー)』)。
 プリニウス言う、ハジ(アフリカの帽蛇)の眼は頭の前になくて顳□(こめかみ)にあれば前を見る事ならず、視覚より足音を聴いて動作する事多しと。テンネントの『錫蘭博物志(ゼ・ナチュラル・ヒストリー・オブ・セイロン)』にいわく、セイロンで蛇に咬まるるはほとんど皆夜なり。昼は人が蛇を見て注意すれど闇中不意に踏まば蛇驚いて正当防禦で咬むのだ。故に土人闇夜外出するに必ず錫杖(しゃくじょう)を突き蛇その音を聴いて逃げ去ると。しかるに蝮は逃ぐる事遅いから英国労働者などこれを聾と見、その脊の斑紋実は文字で歌を書いて居るという。その歌を南方先生が字余り都々逸(どどいつ)に訳すると「わが眼ほど耳がきくなら逃げ支度して人に捉(と)られはせぬものを」だ。鶯も蛙も同じ歌仲間というが敷島の大倭(おおやまと)での事、西洋では蝮が唄を作るのじゃ。蛇は多く卵で子を生むが蝮や海蛇や多くの水蛇や響尾蛇(ラトル・スネーク)は胎生だ。『和漢三才図会』に蝮の子生まるる時尾まず出で竹木を巻き母と子と引き合うごとく、出生後直ぐに這い行く、およそ六、七子ありという。ホワイトの『セルボルン博物志』には、蝮の子は生まるると直ぐ歯もないくせに人を咬まんとす、雛鶏趾(けづめ)なきに蹴り、羔(こひつじ)と犢(こうし)は角なきに頭もて物を推し退くと記した。いわゆる蛇は寸にしてその気ありだ。蟾蜍(ひきがえる)など蛙類に進退究(きわ)まる時頭を以て敵を押し退けんとする性あり。コープ博士だったかかくてこの輩の頭に追々角が生(は)える筈といったと覚える。支那の書に角ある蟾蜍の話あるは虚構とするも、予輩しばしば睹(み)た南米産の大蛙ケラトリフス・コルナタは両眼の上に角二つある。それ羔(こう)犢(とく)角なきに衝(つ)く真似し歯もなき蝮子が咬まんとするは角あり牙ある親の性を伝えたに相違ないが、件(くだん)のコープの説に拠ると、いずれも最初に衝こう咬もうという一念から牛羊の始祖は角、蝮の始祖は牙を生じたのだ。ブラウンの『俗説弁惑(プセウドドキシア)』三巻十六章にヘロドテ等昔の学者は、蝮子母の腹を破って生まる。これ交会の後雌蝮その雄を噛み殺す故、その子父の復仇に母の腹を破るのだと信じた。かく蝮は父殺しを悪(にく)むもの故ローマ人は父殺した人を蝮とともに嚢(ふくろ)に容れて水に投げ込み誅したと出(い)づ。ただし天主教のテクラ尊者は蛇坑に投げられ、英国中古の物語に回主がサー・ベヴィス・オブ・ハムプタウンを竜の牢に入れたなどいう事あれば、ローマ人のほかに蛇で人を刑した例は西洋に少なからぬじゃ。東洋では『通鑑(つがん)』に後漢の高祖が毒蛇を集めた水中に罪人を投じ水獄と名づけた。また仏経地獄の呵責を述ぶる内に罪人蛇に咬まるる例多きは、インドにも実際蛇刑があったに基づくであろう。わが邦にそんな実例のあった由を聞かねど、加賀騒動の講談に大槻蔵人一味の老女竹尾が彼輩姦謀露(あら)われた時蛇責めに逢うたとあるは多分虚譚であろう。大水の時蛇多く屋根に集まり、わずかに取り縋(すが)りいる婦女や児輩が驚き怖れて手を放ち溺死する事しばしばあったと聞く。
 毒蛇が窘(くるし)められた時思い切って自分の身を咬んで絶命するという事しばしば聞いたが、毒蛇を酒精に浸すと困(くるし)んで七転八倒し、怒って自分の体に咬み付いたまま死ぬ事あり、また火を以て蠍(かつ)を取り囲むにその毒尾の尖(さき)を曲げて脊を衝いて死する事もあるが、これらは狂人が自身を咬むと等しく、決して企ててする自殺でなくまた毒分が自身を害するでもないから、ただ自殺と見えるばかりだ。朝鮮にある沖縄人から前日報ぜられたは、以前ハブ蛇多き山を焼くとかように自身を咬んだまま死んだハブばかり間(まま)見当った由。仏が寺門屋下に鴿(はと)蛇猪を画いて貪(どん)瞋(しん)痴(ち)を表せよと教え(『根本説一切有部毘奈耶』三四)、その他蛇を瞋恚(しんい)の標識とせる事多きは、右の擬自殺の体を見たるがその主なる一因だろう、古インド人も蛇自殺する事ありと信じたと見える。たとえば『弥沙塞五分律(みしゃそくごぶんりつ)』に舎利弗(しゃりほつ)風病に罹(かか)り呵梨勒果(かりこくか)一を牀脚辺に著(つ)けたまま忘れ置いて出た。瞿伽離(くがり)見付けて諸比丘に向い、世尊毎(いつ)も舎利弗は欲少なく足るを知ると讃むるが我らの手に入らぬこの珍物を蓄うるは世尊の言と違うと言った。舎利弗聞いてその果(み)を棄てた。諸比丘それは大徳病気の療治に蓄えたのだから棄つるなかれと言うと、舎利弗われこの少しの物を持ったばかりに梵行人をして我を怪しましめたは遺憾なり、捨てた物は復(ふたた)び取れぬと答えた。仏言(のたま)わく、舎利弗は一度思い立ったら五分でも後へ退(ひ)かぬ気質だ。過去世にもまたその通りだった。過去世一黒蛇あり、一犢子を螫(さ)した後穴に退いた。呪師羊の角もて呪したがなかなか出で来ぬから、更に犢子の前に火を燃して呪するとその火蜂と化(な)って蛇穴に入った黒蛇蜂に螫され痛みに堪えず、穴を出でしを羊角で抄(すく)うて呪師の前に置いた。呪師蛇に向い、汝かの犢を舐(ねぶ)って毒を取り去るか、それがいやならこの火に投身せよと言うと蛇答えて、彼この毒を吐いた上は還(また)これを収めず、たとい死ぬともこの意(こころ)を翻さぬと言いおわって毒を収めず自ら火に投じて死んだが舎利弗に転生(うまれかわ)った。死苦に臨むもなお一旦吐いた毒を収(とりい)れず、いわんや今更に棄つるところの薬を収めんやと。『十誦律毘尼序(じゅうじゅりつびにじょ)』にこの譚の異伝あり。大要を挙げんに、舎婆提(しゃばてい)の一居士諸僧を請(しょう)ぜしに舎利弗上座たり。仏の法として比丘の食後今日は飲食美味に飽満たりや否やと問う定めだったので、僧ども帰りて後仏が一子羅喉羅(らごら)その時沙弥(しゃみ)(小僧)たりしにかく問うに得た者は足り得ざる者は不足だったと答えた。仔細を尋ぬるに上座中座の諸僧は美食に飽きたが、下座と沙弥とは古飯と胡麻滓(ごまかす)を菜に合せて煮た麁食(そしょく)のみくれたので痩(や)せ弱ったという。仏舎利弗は怪(け)しからぬ不浄食をしたというを聞きて、舎利弗食べた物を吐き出し、一生馳走に招かれず布施を受けずと決心し常に乞食した。諸居士何卒(なにとぞ)舎利弗が馳走を受けくれるよう仏から勧めて欲しいと言うと、仏言(のたま)わく舎利弗の性もし受くれば必ず受けもし棄つれば必ず棄つ、過去世もまたしかりとて毒蛇だった時火で自殺した一件を説き種々の因縁を以て舎利弗を呵(しか)り、以後馳走に招かれたら上座の僧まず食いに掛からず、一同へあまねく行き届いたか見届けた後食うべしと定めたそうじゃ。而(しか)して件(くだん)の毒蛇を呪する法を舎伽羅呪(しゃがらじゅ)だと書き居る。そんなもの今もあるにや、一九一四年ボンベイ版エントホヴェンの『グジャラット民俗記(フォークロール・ノーツ)』一四二頁に或る術士は符□(ふろく)を以て人咬みし蛇を招致し、命じて創口(きずぐち)から毒を吸い出さしめて癒す。蛇咬を療ずる呪を心得た術士は蛇と同色の物を食わず産蓐(さんじょく)と経行中の女人に触れると呪が利かなくなる。しかる時は身を浄(きよ)め洗浴し、乳香の烟を吸いつつ呪を誦(ず)して呪の力を復すと見ゆ。

     蛇と方術

 インドは毒蛇繁盛の国だけに、その呪法が極めて多い。『弥沙塞五分律』に、一比丘浴室の火を燃さんとて薪を破る時、木の孔より蛇出で、脚を螫(さ)して比丘を殺した。仏言(のたま)わくかの比丘八種の蛇名を知らず、慈心もて蛇に向わず、また呪を説かずして蛇に殺されたとて、八種の蛇名を挙げたるを見るに、竜王の名多し。仏経の竜は某々の蛇にほかならぬからだ。その呪言は、〈我諸竜王を慈(いつく)しむ、天上および世間、わが慈心を以て、諸恚毒(いどく)を滅し得、我智慧(ちえ)を以て取り、これを用いこの毒を殺す、味毒無味毒、滅され地に入りて去る〉、仏曰く、この呪もて自ら護る者は、毒蛇に傷殺されずと。味毒無味毒とは、蛇の牙から出る毒液に、味あると味なきとあるを、古くインド人が試み知ったと見ゆ。
 一九〇六年版、ドラコット女史の『シムラ村話(ヴィレージ・テールス)』二一八頁にいわく、インドの小邦ラゴグールの王は、帽蛇(コブラ)を始め諸蛇の咬んだのを治す力を代々受け伝う。毒蛇に咬まれた人、糸一条を七所結び頸に掛け、ジェット・シン、ジェット・シンと唱え続けながら、王宮に趨(おもむ)く途中、結び目を六つまで解く、宮に入って王の前で、七つ目の結びを解く、時に王水をその創(きず)に灌(そそ)ぎ、また両手に懸け、一梵士来りて祈りくれると、平治して村へ還ると。トダ人蛇咬を療するに、女の髪を捻(ねじ)り合せて、創の近処三所括り呪言を称う(リヴァルス著『トダ人篇』)。いかなる理由ありてか、紀州でウグちゅう魚に刺されたら、一日ばかり劇しく痛み、死ぬ方が優(まし)じゃなど叫ぶ時、女の陰毛三本で創口を衝(つ)かば治るという。『郷土研究』二巻三六八頁にも、門司でオコゼに刺された処へ、女陰の毛三筋当て置けば、神効ありと出(い)づ。ある人いわく、ウグもオコゼも人を刺し、女は□□□□。その事大いに異なれど国言相通ず。陰陽和合して世間治安する訳だから、魚に一たび刺された代りに□□□□仇を、徳で征服する意で、女人の名代にその毛を用いるのだと。これは大分受け取りがたい。しかし女の髪といい、三という数がインドのトダ人の呪術にもあるが面白い。
『古事記』にも、須佐之男命(すさのおのみこと)の女須勢理毘売(すせりびめ)が、大国主命(おおくにぬしのみこと)に蛇の領巾(ひれ)を授けて、蛇室中の蛇を制せしめたとあれば、上古本邦で女がかかる術を心得いたらしい。インドの術士は能く呪して、手で触れずに蛇を引き出し払い去る(一九一五年版エントホヴェンの『コンカン民俗記』七七頁)。アツボットの『マセドニアン民俗(フォークロール)』に、かの地で蛇来るを留むる呪あり。「諸害物の駆除者モセスは、柱と棒の上に投鎗を加えて、十字架に像(かた)どり、その上に地を這う蛇を結い付けて、邪悪に全勝せり、モセスかくて威光を揚げたれば、吾輩は吾輩の神たるキリストに向いて唄うべし」という事だ。欧州で中古禁厭(まじない)を行う者を火刑にしたが、アダム、エヴァの時代より、詛(のろ)われた蛇のみ厭(まじな)う者を咎(とが)めなんだ。蛇を見付けた処から、少しも身動きせざらしむる呪言は「汝を造れる上帝を援(ひ)いてわれ汝に、汝の機嫌が向おうが向くまいが、今汝が居る処に永く留まれと命じ、兼ねて上帝が汝を詛いしところのものを以て汝を詛う」というのだ(チャムバースの『ブック・オブ・デイス』一巻一二九頁)。『嬉遊笑覧』に、『萩原随筆』に蛇の怖るる歌とて「あくまたち我たつみちに横(よこた)へば、やまなしひめにありと伝へん」というを載せたり。こは北沢村の北見伊右衛門が伝えの歌なるべし。その歌は、「この路に錦斑(まだ)らの虫あらば、山立姫に告(い)ひて取らせん」。『四神地名録』多摩郡喜多見村条下に、この村に蛇除(へびよけ)伊右衛門とて、毒蛇に食われし時に呪いをする百姓あり、この辺土人のいえるには、蛇多き草中に入るには、伊右衛門/\と唱えて入らば、毒蛇に食われずという、守りも出す。蛇多き時は、三里も五里も、守りを受けに来るとの事なり、奇というべしといえり。さてかの歌は、その守りなるべし。あくまたちは赤斑なるべく、山なし姫は、山立ひめなるべし。野猪をいうとなん、野猪は蛇を好んで食う、殊に蝮(まむし)を好む由なり。予在米の頃、ペンシルヴァニア州の何処(どこ)かに、蛇多きを平らげんとて、欧州より野猪を多く輸入し、放ちし事ありし。右の歌、蛇を悪魔とせしは、耶蘇(ヤソ)教説に同じ。梨(ありのみ)と言い掛けた山梨姫とは、野猪が山梨を嗜(この)むにや、識者の教えを竢(ま)つ。
 三河国池鯉鮒(ちりふ)大明神の守符、蛇の害を避く。その氏子の住所は蛇なく、他の神の氏子の住所は、わずかに径(こみち)を隔つも蛇棲む。たといその境雑(まじ)るもかくのごとし(『甲子夜話』続篇八〇)。和歌山近在、矢宮より出す守符は妙に蝮に利(き)く。蝮を見付けてこれを抛(な)げ付くると、麻酔せしようで動く能わずというが、予尋常(なみ)の紙を畳んで抛げ付けても、暫くは動かなんだ。世に蝮指というは、指を緊張して伸ばし、先端の第一関節のみ折れ曲がりて、蛇の鎌頸状を成すので、五指ことごとくそうなるを苦手(にがて)といい、蛇その人を見れば怖れて動かず、自在に捕わるそうだ(『郷土研究』四の五〇二)。予の現住地の俗信に、蝮指の爪は横に広く、癪(しゃく)を抑うるに効あり、その人手が利くという。拙妻は左手のみ蝮指だから、亭主勝(まさ)りの左利(きき)じゃなかろうかと案じたが、実は一滴も戴(いただ)けませんから安心しやした。それからまた、苦手の人蟹を掴み、少時経つとその甲と手足と分れてしまうという、『仏説穣麌梨童女経』は、蛇を死活せしむる真言を説いた物だ。
 蛇で占う事、『淵鑑類函』四三九に、『詩経類考』を引いて、江西の人、菜花蛇てふ緑色の蛇を捕え、その蟠(わだかま)る形を種々の卦(け)と名づけ、禍福を判断し俚俗これを信ずと出(い)づ。『酉陽雑俎』に、蛇交(つる)むを見る人は三年内に死す。ハツリットの『諸信および民俗(フェース・エンド・フォークロール)』二に、古ローマ人は蛇の動作を見て卜(うらの)うた。ロッス説に、水蛇と陸上の蛇の闘いは、人民の不幸を予示すと。アツボットいわく、マセドニア人、首途(かどで)に蛇を見れば不吉として引き還すと。ラームグハリット言う、ニルカンス鳥は、女神シタージの使物として、インドに尊ばる帽蛇、蛙を啣(くわ)え、頭にこの鳥を載せて川を渡るを見る人は、翌年必ず国王となると。南方先生裸で寝て居る所へ、禁酒家の娘が百万円持参で、押し付け娵入(よめい)りに推し懸くるところを見た人はという事ほど、さようにあり得べからざる事である。
 ハツリット説に、一八六九年アルゼリアのコンスタンチナ市裁判所で、夫が妻の貞操を疑うて、その鼻と上唇を截(き)った裁判あった時、妻の母いわく、この男は悋気(りんき)甚だしいから、妾それを止めんとて、高名な道士に蛇の頭を麻の葉に裹(つつ)んでもらい、婿の頭巾の襞(ひだ)の中へ入れるつもりでしたと言い、傍聴人に向って、何とこの法が一番能く利くでありませぬかと問うと、たちまちアラブ人数名頭巾を脱いで、銘々そうともそうとも、吾輩も悋気が豪(えら)いからこの通りと言って、件(くだん)の禁厭品(まじないもの)を取り出し示したが、陪席の土人官員一名、また判官の問いをも俟(ま)たず、僕も妻について焼かぬ間もなしだから、この通り蛇頭を戴きおります、蛇頭は男子を強力、女人を貞実ならしむる物ですと述べたそうだ。ブラックの『俚薬方篇(フォーク・メジシン)』五九頁に、英国サセックスの俗頸腫(は)れた時、蛇を頸の上に挽(ひ)きずり、罎(びん)に封じ固く栓して埋めると、蛇腐るに随って腫れ減ずと見ゆ。これは英国で、蝸牛(かたつむり)や牛肉や林檎(りんご)に疣(いぼ)を移し、わが邦(くに)でも、鳥居や蚊子木葉(いすのきのは)に疣を伝え去るごとく、頸の腫れを蛇に移すのだ。紀伊、伊勢等で蛇の屍を丁寧に埋め、線香供え日参すれば、歯痛癒ると信じ、予小時毎度頼まれて蛇を殺した。中世スペインの天主教名僧、ロムアルドの遺骸を、分配供養して功徳とせんと、熱心の余り、上人(しょうにん)を殺さんとしたごとし。今となっては仔細判らざれど、初めは蛇の屍で歯を撫(な)で、痛みを移して埋めたであろう。三河で病人久しく一の場所で臥せば、青大将に血を吸わるという(『郷土研究』三の一一八)。
『英国人類学会雑誌』十巻三〇九頁にいう、ソロモン島では、人の余食を神池の魚や蛇に食わせば、その人死すというと。インドのパンジャブで伝うるは、孕婦(ようふ)の影、蛇に懸れば、その蛇盲となると(『パンジャブ随筆問答雑誌』一)。また、コルベル・ロンギシムスは、医神エスクラピウスの使で、その到る処万病を除くとて、ローマの軍隊遠征にこの蛇数疋(ひき)を伴れ行いた。米人リーランドの『俗伝に残った、ユトラスカとローマの旧習』(一八九二年ロンドン版)にいわく、「イタリアのロマニヤ地方の民、邪視と妖巫(ようふ)を避け、奇幸を迎うるため壁に蛇を画く、ただし尾を上に頭を下に、身体諸部混雑して結び居るを要す。また二、三の蛇、互いに纏うた処を編み物にして戸口に掲ぐる。ペルシアで絨氈(じゅうたん)の紋の条を、なるべく込み入って相絡(から)んだ画にするも、邪視を禦(ふせ)ぐためだ」とあって、長々その理由を演(の)べ居る。すべてかくのごとく小むずかしく縺(もつ)れ絡んだ蛇の画を、護符として諸多の災害を避くるは、イタリアに限らず、例せば一切経中に見る火難除(よ)けの符画も、熟(よく)視(み)るとやはり蛇の画だ。日本でも吾輩幼時、出雲の竜蛇、その他蛇の画符を悪魔除けとして、門戸に貼(は)ったのが多かった。リーランドいう、妖巫や邪視する人が、かく縺れ絡んだ物を見ると、線の始めから終りまで、細(くわ)しく視届けるその間に、邪念も邪視力も大いに弱り減ずる故、災難を起し得ぬ。ちょうど疳持(かんもち)の小児が、むつかしくぐずり掛かるところへ、迷宮様に道筋を引き廻した図や、縺れ解けぬ片糸を手渡せば、一心不乱にその方をほどきに懸る内、最初思い立ちいた小理窟は、忘れてしまうがごとしと。ここにいえる妖巫、英語でウィッチ、伊語でストレガ、女人殊に老女が、左道を修め鬼魅に事(つか)え、悪念を以て人畜を害する者で、中には世襲の妖巫輩出する部落も家族もある。而(しか)してその妖巫の眼力が邪視だ。本邦にも、飛騨(ひだ)の牛蒡(ごぼう)種てふ家筋あり、その男女が悪意もて睨(にら)むと、人は申すに及ばず菜大根すら萎(しぼ)む。他家へ牛蒡種の女が縁付いて、夫を睥(にら)むとたちまち病むから、閉口してその妻の尻に敷かれ続くというが、てっきり西洋の妖巫に当る。
 邪視英語でイヴル・アイ、伊語でマロキオ、梵語でクドルシュチス。明治四十二年五月の『東京人類学会雑誌』へ、予その事を長く書き邪視と訳した。その後一切経を調べると、『四分律蔵』に邪眼、『玉耶経』に邪盻(じゃけい)、『増一阿含』に悪眼、『僧護経』『菩薩処胎経』に見毒、『蘇婆呼童子経』に眼毒とあるが、邪視という字も『普賢行願品』二十八に出でおり、また一番好いようでもあり、柳田氏その他も用いられ居るから、手前味噌ながら邪視と定め置く。もっとも本統の邪視のほかにインドでナザールというのがあって、悪念を以てせず、何の気もなく、もしくは賞讃して人や物を眺めても、眺められた者が害を受けるので、予これを視害と訳し置いたが、これは経文に因って見毒と極(き)めるがよかろう。
 南欧や北アフリカからペルシア、インドに、今もこの迷信甚だ行われ、悪(にく)み蔑(みさぐ)るどころか賞めてなりとも、人の顔を見ると非常に機嫌を損じ、時に大騒動に及ぶ事あり。故に邪視を惧るる者、ことさらに悪衣を着、顔を穢(よご)し痣(あざ)を作りなどして、なるべく人に注視されぬようにし、あるいは男女の陰像を佩(お)びて、まず前方の眼力をその方に注ぎ弱らしむ。支那の古塚に、猥褻(わいせつ)の像を蔵(おさ)めありたり。本邦で書箱鎧櫃(よろいびつ)等に、春画(まくらえ)を一冊ずつ入れて、災難除けとしたなども、とどの詰まりはこの意に基づくであろう。アイルランドには、古建築殊に寺院の前に、陰を露わせる女の像を立てたるものあり、邪視の者に強く睨まるれば火災等起る。しかるにその人の眼、第一に女陰の方へ惹(ひ)かれて、邪力幾分か減散すれば、次に寺院を睥んでも、大事を起さぬ。すなわち女陰が避雷柱(かみなりよけ)のような役目を務むるのじゃと。かの国人で、只今大英博物館人類学部長たるリード男の直話だった。わが邦で、拇指を食指と中指の間に挟(はさ)み出し人に示すは、汝好色なりという意という事だが、イタリア人などにそれを見せると、火のごとくなって怒る。それから殺人に及んだ例もある。自分を邪視力ある者と見定め、その害を避けんとて、陰相を作り示すと心得て怒るのだ。仏経に鴦掘魔(おうくつま)僧となり、樹下に目を閉じ居る。国王これを訪(おとな)い眼を開きて相面せよといいしに、わが眼睛耀(てり)射(い)て、君輩当りがたしと答え、国史に猿田彦大神、眼八咫鏡(やたのかがみ)のごとくにして、赤酸漿(あかかがち)ほど※(かがや)[#「赤+色」、248-3]く、八百万(やおよろず)神、皆目勝(まか)ちて相問うを得ずとある。いずれも邪視強くて、他(ひと)を破るなり。さて天鈿女(あまのうずめ)は、目人に勝(すぐ)れたる者なれば、選ばれ往きて胸乳(むなち)を露わし、裳帯(ものひも)を臍下に垂れ、笑うて向い立ち、猿田彦と問答を遂げたとあるは、女の出すまじき所を見せて、猿田彦の見毒を制服したのだ。
『郷土研究』四巻二九六頁、尾佐竹猛氏、伊豆新島(にいじま)の話に、正月二十四日は、大島の泉津村利島(としま)神津島とともに日忌(ひいみ)で、この日海難坊(またカンナンボウシ)が来るといい、夜は門戸を閉じ、柊(ひいらぎ)またトベラの枝を入口に挿し、その上に笊(ざる)を被(かぶ)せ、一切外を覗(のぞ)かず物音せず、外の見えぬようにして夜明けを待つ。島の伝説に、昔泉津の代官暴戻(ぼうれい)なりし故、村民これを殺し、利島に逃れしも上陸を許されず。神津島に上ったので、その代官の亡霊が襲い来るというのだが、どうも要領を得ぬとある。吾輩一家でさえ、父の若い時の事を、父に聞いても分らぬ事多く、祖父の少時の事を、祖父に聞くと一層解しがたく、曾祖高祖等が履歴を自筆せるを読むに、寝言また白痴のごとき譫語(たわごと)のみ、さっぱり要領を得ぬが、いずれも村の庄屋を勤めた人故、狂人にもあるまじ、その要領を得がたきは、彼らが朝夕見慣れいた平凡極まる事物一切が、既に変り移ってしまったから、彼らが常事と心得た事も、吾輩に取っては稀代の異聞としか想われぬに因る。
 一九〇三―四年の間、グリーンランドのエスキモ人の中に棲んだ、デンマルク人ラスムッセンの『極北の人民(ゼ・ピープル・オヴ・ゼ・ポラー・ノース)』を読むに、輓近(ばんきん)エスキモ人がキリスト教に化する事多きより、一代前の事は全く虚誕のごとく聞えるが、遺老に就いて種々調べると、欧人が聞いて無残極まり、世にあり得べからずと思われる事や、奇怪千万な行いなどは、彼らに取ってはありふれた事で、欧人が聞くに堪えぬと惟(おも)う話のその聞くに堪えぬところが、彼らのもっとも面白がるところである。したがって欧人が何とも要領を得ず、拙作極まる小説としか受け取れぬ諸誕は、ことごとく実在した事歴を述べたものだと論じ居る。新島(にいじま)の伝説もこの通りで、代官暗殺云々は全く事実であろう。代官の幽公が来るのを懼れて、戸を閉じ夜を守ったも事実であろう。柊は刺で、トベラは臭気で悪霊を禦ぐは分りやすいが、笊(ざる)を何故用いるか。種彦(たねひこ)の『用捨箱(ようしゃばこ)』巻上に、ある島国にていと暗き夜、鬼の遊行するとて戸外へ出でざる事あり。その夜去りがたき用あらば、目籠を持ちて出るなり、さすれば禍なしと、かの島人の話なりといえるは、やはり新島辺の事で、昔は戸口にも笊を掛け、外出にも持ち歩いたであろう。種彦は、江戸で二月八日御事始(おことはじめ)に笊を門口に懸けた旧俗を釈(と)くとて、昔より目籠は鬼の怖るるといい習わせり、これは目籠の底の角々は☆如此(かく)晴明九字(あるいは曰く晴明の判)という物なればなり。原来の俗説、ただ古老の伝を記すと言ったが、その俗説こそ大いに研究に用立つなれ。すなわちこの星状多角形の辺線は、幾度見廻しても止まるところなきもの故、悪鬼来りて家や人に邪視を加えんとする時、まずこの形に見取れ居る内、邪視が利かなくなるの上、この晴明の判がなくとも、すべて籠細工の竹条は、此処(ここ)に没して彼処(かしこ)に出で、交互起伏して首尾容易に見極めにくいから、鬼がそれを念入れて数える間に、邪視力を失うので、イタリア人が、無数の星点ある石や沙や穀粒を、袋に盛って邪視する者に示し、彼これを算(かぞ)え尽くすの後にあらざれば、その力利(き)かずと信ずると同義である。節分の夜、豆撒(ま)くなども、鬼が無数の豆を数え拾う内に、邪力衰うべき用意であろう。
 かつて強盗多かった村人に聞いたは、強盗盛んな年は、家に小銭を多く貯え置く、泥的御来臨のみぎり、二、三問答の上、しからばやむをえない、貴公らに金を仮りたとあっては相済まぬ、少々ながら有金すっかり進呈しよう、大臣にでもなったら返しくだされ、その節は、子供を引き立てくだされなど、能(いい)加減に述べて、引き出しを抽(ひ)いて、たちまち彼奴(かやつ)の眼前へ打ち覆(かえ)すと、無数の小銭が八方へ転がり走る。泥公一心これを手早く掻き込むに取り忙ぎ、銭の多寡を論じたり、凶器を弄(もてあそ)ぶに暇なく、集めおわりてヘイさようならで慌(あわ)て去るものだ。強盗に逢ったら僕の名を言いたまえ、毎度逢って善い顧客だから麁略(そりゃく)にすまい、貴下のような文なしには、少々置いて行くかも知れぬと教えくれたが、まだ一度も逢わぬから、折角の妙案も実試せぬ。全体予の事を、人々が女に眉毛を読まれやすいと言うを、いかにも眉毛が鮮かなと讃めてくれると思うたが、拙妻聞いて更に懌(よろこ)ばぬから、奇妙と惟(おも)いいた。ところが『郷土研究』四の四三三頁に、林魁一君が、美濃の俗伝を報じた内に、眉毛に唾(つば)を塗ると毛が付き合うて、狐その数を読む能わず、したがって魅(ばか)す事がならぬとあるを読んで大いに解り、〈人書を読まざればそれなお夜行のごとし〉と嘆じた。マアこんな訳故、新島の一条も、もと目籠を以て邪視を避くる風が、エジプト、インド、東京(トンキン)、イタリア等同様、日本にもありしが、新島ごとき辺土に永く留まった。そこへ代官暗殺されその幽霊の来襲を惧(おそ)るる事甚だしくなりて、今更盛んに目籠を以てこれを禦ぎしより、ついに専ら代官殺しが、日忌の夜笊を出す唯一つの起りのよう、訛伝(かでん)したのであろう。
 邪視は、人種学民族学、また宗教学上の大問題で、エルウォーシー等の著述もあり。本邦これに関する事どもは、明治四十二年五月の『東京人類学会雑誌』と、英京の『ネーチュール』に拙文を出したから、御覧を願うとして、改めて蛇と邪視の関係を述べんに、前述のごとく蛇の画もて、鬼や妖巫の邪視を禦ぎ、大効あると同時に、蛇自身の眼にも、強い邪視力があると信ずる民多し。いわゆる蛇の魅力(ファッシネーション)だ。

     蛇の魅力

『塵塚(ちりづか)物語』は、天文二十一年作という、その内にいわく「ある人の曰く、およそ山中広野を過ぐるに、昼夜を分たず心得あるべし、人気罕(まれ)なる所で、天狗魔魅の類、あるいは蝮蛇を見付けたらば、逃げ隠るる時、必ず目を見合すべからず。怖ろしき物を見れば、いかなる猛(たけ)き人も、頭髪立て足に力なく振い出(い)づ。これ一心顛倒するに因ってかかる事あり。この時眼を見合すれば、ことごとくかの物に気を奪われて、即時に死するものなり。ほかの物は見るとも、構えて眼ばかりは窺(うかが)うべからず。これ秘蔵の事なり。たとえば暑き頃、天に向いて日輪を見る事暫く間あらば、たちまち昏盲として目見えず。これ太陽の光明熾(さかん)なるが故に云々。万人に降臨して、平等に臨みたもう日天さえかくのごとし、いわんや魔魅障礙(しょうげ)の物をや、毫髪(ごうはつ)なりとも便を得て、その物に化して真気を奪わんと窺う時、眼を見るべからずとぞ」。曖昧な文だが、日本にも邪視を怖るる人あり、蛇に邪視ありと信じた証に立つ。この論に、日の光が人の眼を眩ますを、邪視に比したは、古エジプトで諸神の眼力極めて強く、能く諸物を滅すとせるに似て面白い。たとえば、古エジプトの神ホルスは、日を右眼とし、月を左眼とし、その眼力能く神敵たる巨蛇アペプを剄(くびき)る。また神怒れば、その眼力叢林を剿蕩(そうとう)す。またラー神の眼、諸魔を平らぐるに足るなど信じた。『薩婆多論』に、むしろ身分を以て毒蛇口中に入るも、女人を犯さざれ、蛇に三事ありて人を害す、見て人を害すると、触れて害すると、噛んで害するとあり。蛇と等しく女人にも三害あり。もし女人を見れば、心欲想を発し人の善法を滅す、もし女人の身に触るれば、身中罪を犯し、人の善法を滅す。もし共に交会せば、身重罪を犯し人の善法を滅す。また七害あり。一には、もし毒蛇に害せらるればこの一身を害すれど、女人に害せらるれば、無数身を害す云々と、長たらしく女の害、遥かに蛇に勝(まさ)れる由数え立て居る。ここに蛇見て人を害すとあるは、インドでも蛇は邪視を行うとしたのだ。ただし女人には、邪視や見毒のほかに、愛眼というやつがあって、その効果もっとも怖ろしい。本町二丁目の糸屋の娘、姉が二十一、妹が二十、諸国諸大名は刃(やいば)で殺す、この女二人は、眼元で殺すと唄うこれなり。その糸屋はどうなったか、博文館は同町故、取り調べて史蹟保存とするがよい。要するに女人は、毒蛇よりも忌むべしなどいうは、今日に適せぬ愚論で、中古の天主徒が洗浴を罪悪として、某尊者は、幾年浴(ふろ)に入らなんだなど特書したり、今日の耶蘇(ヤソ)徒が禁酒とか、公娼廃止とか喋舌(しゃべ)ると同程度の変痴気説じゃ。一六四四年、オランダで出版された『ヒポリツス・レジヴィヴス』てふ詩は、手苛(てひど)く婦女を攻撃したものだが、発端に作者自ら理論上女ほど厭な者はない、しかし実行上好きで好きで神と仰ぐと断わって居るは、最(いと)粋な人だ。惜しい事にはその本名が伝わらぬ。上に引いた『薩婆多論』の述者も、多分こんな性の坊主だろう。
 女の方へ脱線ばかりすると方付(かたづ)かぬから、また蛇の方へ懸るとしよう。まず蛇の魅力の豪い奴から始める。『酉陽雑俎』の十に、〈蘇都瑟匿国西北に蛇磧あり、南北蛇原五百余里、中間あまねき地に、毒気烟のごとくして飛鳥地に墜つ、蛇因って呑み食う〉、これは地より毒烟上りて、鳥を毒殺するその屍を蛇が食うのか、蛇がその磧(すなはら)一面に群居し、毒気を吐きて鳥を堕(おと)し食うのか判らぬ。蛇が物を魅するというは、普通に邪視を以て睥(にら)み詰めると、虫や鳥などが精神恍惚(とぼけ)て逃ぐる能わず、蛇に近づき来り、もしくは蛇に自在に近づかれて、その口に入るをいうので、鰻が蛇に睥まれて、頭を蛇の方へ向け游(およ)ぎ、少しも逃げ出す能わなんだ例さえ記されある。『予章記』に、呉猛が殺せし大蛇は、長(たけ)十余丈で道を過ぐる者を、気で吸い取り呑んだので、行旅(たびびと)断絶した。『博物志』に、天門山に大巌壁あり、直上数千仭(じん)、草木交(こもご)も連なり雲霧掩蔽(えんぺい)す。その下の細道を行く人、たちまち林の表へ飛び上がる事幾人と知れず。仙となりて昇天するようだから、これを仙谷と号(な)づけた。遠方から来て昇天を望む者、この林下にさえ往けば飛び去る。しかるにこれを疑う者あり、石を自分の身に繋(つな)ぎ、犬を牽(ひ)いて谷に入ると犬が飛び去った。さては妖邪の気が吸うのだと感付き、若少者(わかもの)数百人を募り捜索して、長数十丈なる一大蟒蛇(うわばみ)を見出し殺した(『淵鑑類函』四三九)。
 プリニウスいわく、ポンツスのリンダクス河辺にある蛇は、その上を飛ぶ鳥を取り呑む、鳥がどれほど高く速く飛んでも必ず捉わると。『サミュール・ペピスの日記』一六六一年二月四日の条に、記者ある人より聞いたは、英国ランカシャーの荒野に大蛇あり、雲雀(ひばり)が高く舞い上がるを見て、その真下まで這い行き口を擡(もた)げて毒を吐かば、雲雀たちまち旋(かえ)り堕ちて蛇口に入り、餌食となると書いた。コラン・ド・プランシーの『妖怪辞彙(ジクチョネーランフェルナル)』五版四一三頁に、ペンシルヴァニアの黒蛇、樹下に臥して上なる鳥や栗鼠(りす)を睥むと、たちまち落ちてその口に入るといい、サンゼルマンの『緬甸帝国誌(ゼ・バーミース・エンパイヤー)』に、ビルマ人は、蛇が諸動物を魅して口へ吸い込む、かつて大きな野猪が、虎と噛み合うていたところを、大蛇がこの伝で呑んだといい、帽蛇に睥まれた蛙は、哀鳴してその口に飛び入り食わるというとある。ペンナントいわく、響尾蛇(ラトル・スネーク)、樹上の栗鼠を睨めば、栗鼠遁(のが)れ能わず悲しみ鳴く、行人その声を聞いて、響尾蛇がそこに居ると知る(熊楠、米国南部で数回かかる事あった)。栗鼠は樹を走り、上りまた下り、また上り下る。一回は一回より増えて多く下る。この間蛇は、栗鼠を見詰めて他念なく、人これに近づくもよほど大きな音せねば逃げず、最後に栗鼠蛇の方へ跳び下りるを、待ってましたと頂戴(ちょうだい)しおわると。ル・ヴァーヤンも、親(みずか)ら鳥が四フィートばかり隔てて、蛇に覘(ねら)わるるを見しに、身体痙攣(ひきつり)て動く能わず。傍人蛇を殺して鳥を救いしも、全く怖れたばかりで死にいた証拠には、その身を検(しら)べしに少しも疵(きず)なかった。また二ヤードほど距てて蛇に覘わるる鼠を見しに、痙攣(ひきつり)て大苦悩したが、蛇を追い去って見れば鼠は死にいたりと。
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