金色夜叉
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著者名:尾崎紅葉 

   目次

前編
中編
後編
続金色夜叉
続続金色夜叉
新続金色夜叉
[#改丁]

  前編


     第一章

 未(ま)だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠(さしこ)めて、真直(ますぐ)に長く東より西に横(よこた)はれる大道(だいどう)は掃きたるやうに物の影を留(とど)めず、いと寂(さびし)くも往来(ゆきき)の絶えたるに、例ならず繁(しげ)き車輪(くるま)の輾(きしり)は、或(あるひ)は忙(せはし)かりし、或(あるひ)は飲過ぎし年賀の帰来(かへり)なるべく、疎(まばら)に寄する獅子太鼓(ししだいこ)の遠響(とほひびき)は、はや今日に尽きぬる三箇日(さんがにち)を惜むが如く、その哀切(あはれさ)に小(ちひさ)き膓(はらわた)は断(たた)れぬべし。
 元日快晴、二日快晴、三日快晴と誌(しる)されたる日記を涜(けが)して、この黄昏(たそがれ)より凩(こがらし)は戦出(そよぎい)でぬ。今は「風吹くな、なあ吹くな」と優き声の宥(なだ)むる者無きより、憤(いかり)をも増したるやうに飾竹(かざりだけ)を吹靡(ふきなび)けつつ、乾(から)びたる葉を粗(はした)なげに鳴して、吼(ほ)えては走行(はしりゆ)き、狂ひては引返し、揉(も)みに揉んで独(ひと)り散々に騒げり。微曇(ほのぐも)りし空はこれが為に眠(ねむり)を覚(さま)されたる気色(けしき)にて、銀梨子地(ぎんなしぢ)の如く無数の星を顕(あらは)して、鋭く沍(さ)えたる光は寒気(かんき)を発(はな)つかと想(おも)はしむるまでに、その薄明(うすあかり)に曝(さら)さるる夜の街(ちまた)は殆(ほとん)ど氷らんとすなり。
 人この裏(うち)に立ちて寥々冥々(りようりようめいめい)たる四望の間に、争(いかで)か那(な)の世間あり、社会あり、都あり、町あることを想得べき、九重(きゆうちよう)の天、八際(はつさい)の地、始めて混沌(こんとん)の境(さかひ)を出(い)でたりといへども、万物未(いま)だ尽(ことごと)く化生(かせい)せず、風は試(こころみ)に吹き、星は新に輝ける一大荒原の、何等の旨意も、秩序も、趣味も無くて、唯濫(ただみだり)に□(ひろ)く横(よこた)はれるに過ぎざる哉(かな)。日の中(うち)は宛然(さながら)沸くが如く楽み、謳(うた)ひ、酔(ゑ)ひ、戯(たはむ)れ、歓(よろこ)び、笑ひ、語り、興ぜし人々よ、彼等は儚(はかな)くも夏果てし孑孑(ぼうふり)の形を歛(をさ)めて、今将(いまはた)何処(いづく)に如何(いか)にして在るかを疑はざらんとするも難(かた)からずや。多時(しばらく)静なりし後(のち)、遙(はるか)に拍子木の音は聞えぬ。その響の消ゆる頃忽(たちま)ち一点の燈火(ともしび)は見え初(そ)めしが、揺々(ゆらゆら)と町の尽頭(はづれ)を横截(よこぎ)りて失(う)せぬ。再び寒き風は寂(さびし)き星月夜を擅(ほしいまま)に吹くのみなりけり。唯有(とあ)る小路の湯屋は仕舞を急ぎて、廂間(ひあはひ)の下水口より噴出(ふきい)づる湯気は一団の白き雲を舞立てて、心地悪き微温(ぬくもり)の四方に溢(あふ)るるとともに、垢臭(あかくさ)き悪気の盛(さかん)に迸(ほとばし)るに遭(あ)へる綱引の車あり。勢ひで角(かど)より曲り来にければ、避くべき遑無(いとまな)くてその中を駈抜(かけぬ)けたり。
「うむ、臭い」
 車の上に声して行過ぎし跡には、葉巻の吸殻の捨てたるが赤く見えて煙れり。
「もう湯は抜けるのかな」
「へい、松の内は早仕舞でございます」
 車夫のかく答へし後は語(ことば)絶えて、車は驀直(ましぐら)に走れり、紳士は二重外套(にじゆうがいとう)の袖(そで)を犇(ひし)と掻合(かきあは)せて、獺(かはうそ)の衿皮(えりかは)の内に耳より深く面(おもて)を埋(うづ)めたり。灰色の毛皮の敷物の端(はし)を車の後に垂れて、横縞(よこじま)の華麗(はなやか)なる浮波織(ふはおり)の蔽膝(ひざかけ)して、提灯(ちようちん)の徽章(しるし)はTの花文字を二個(ふたつ)組合せたるなり。行き行きて車はこの小路の尽頭(はづれ)を北に折れ、稍(やや)広き街(とほり)に出(い)でしを、僅(わづか)に走りて又西に入(い)り、その南側の半程(なかほど)に箕輪(みのわ)と記(しる)したる軒燈(のきラムプ)を掲げて、□竹(そぎだけ)を飾れる門構(もんがまへ)の内に挽入(ひきい)れたり。玄関の障子に燈影(ひかげ)の映(さ)しながら、格子(こうし)は鎖固(さしかた)めたるを、車夫は打叩(うちたた)きて、
「頼む、頼む」
 奥の方(かた)なる響動(どよみ)の劇(はげし)きに紛れて、取合はんともせざりければ、二人の車夫は声を合せて訪(おとな)ひつつ、格子戸を連打(つづけうち)にすれば、やがて急足(いそぎあし)の音立てて人は出(い)で来(き)ぬ。
 円髷(まるわげ)に結ひたる四十ばかりの小(ちひさ)く痩(や)せて色白き女の、茶微塵(ちやみじん)の糸織の小袖(こそで)に黒の奉書紬(ほうしよつむぎ)の紋付の羽織着たるは、この家の内儀(ないぎ)なるべし。彼の忙(せは)しげに格子を啓(あく)るを待ちて、紳士は優然と内に入(い)らんとせしが、土間の一面に充満(みちみち)たる履物(はきもの)の杖(つゑ)を立つべき地さへあらざるに遅(ためら)へるを、彼は虚(すか)さず勤篤(まめやか)に下立(おりた)ちて、この敬ふべき賓(まらうど)の為に辛(から)くも一条の道を開けり。かくて紳士の脱捨てし駒下駄(こまげた)のみは独(ひと)り障子の内に取入れられたり。

     (一)の二

 箕輪(みのわ)の奥は十畳の客間と八畳の中の間(ま)とを打抜きて、広間の十個処(じつかしよ)に真鍮(しんちゆう)の燭台(しよくだい)を据ゑ、五十目掛(めかけ)の蝋燭(ろうそく)は沖の漁火(いさりび)の如く燃えたるに、間毎(まごと)の天井に白銅鍍(ニッケルめつき)の空気ラムプを点(とも)したれば、四辺(あたり)は真昼より明(あきらか)に、人顔も眩(まばゆ)きまでに耀(かがや)き遍(わた)れり。三十人に余んぬる若き男女(なんによ)は二分(ふたわかれ)に輪作りて、今を盛(さかり)と歌留多遊(かるたあそび)を為(す)るなりけり。蝋燭の焔(ほのほ)と炭火の熱と多人数(たにんず)の熱蒸(いきれ)と混じたる一種の温気(うんき)は殆(ほとん)ど凝りて動かざる一間の内を、莨(たばこ)の煙(けふり)と燈火(ともしび)の油煙とは更(たがひ)に縺(もつ)れて渦巻きつつ立迷へり。込合へる人々の面(おもて)は皆赤うなりて、白粉(おしろい)の薄剥(うすは)げたるあり、髪の解(ほつ)れたるあり、衣(きぬ)の乱次(しどな)く着頽(きくづ)れたるあり。女は粧(よそほ)ひ飾りたれば、取乱したるが特(こと)に著るく見ゆるなり。男はシャツの腋(わき)の裂けたるも知らで胴衣(ちよつき)ばかりになれるあり、羽織を脱ぎて帯の解けたる尻を突出すもあり、十の指をば四(よつ)まで紙にて結(ゆ)ひたるもあり。さしも息苦き温気(うんき)も、咽(むせ)ばさるる煙(けふり)の渦も、皆狂して知らざる如く、寧(むし)ろ喜びて罵(ののし)り喚(わめ)く声、笑頽(わらひくづ)るる声、捩合(ねぢあ)ひ、踏破(ふみしだ)く犇(ひしめ)き、一斉に揚ぐる響動(どよみ)など、絶間無き騒動の中(うち)に狼藉(ろうぜき)として戯(たはむ)れ遊ぶ為体(ていたらく)は三綱五常(さんこうごじよう)も糸瓜(へちま)の皮と地に塗(まび)れて、唯(ただ)これ修羅道(しゆらどう)を打覆(ぶつくりかへ)したるばかりなり。
 海上風波の難に遭(あ)へる時、若干(そくばく)の油を取りて航路に澆(そそ)げば、浪(なみ)は奇(くし)くも忽(たちま)ち鎮(しづま)りて、船は九死を出(い)づべしとよ。今この如何(いかに)とも為(す)べからざる乱脈の座中をば、その油の勢力をもて支配せる女王(によおう)あり。猛(たけ)びに猛ぶ男たちの心もその人の前には和(やはら)ぎて、終(つひ)に崇拝せざるはあらず。女たちは皆猜(そね)みつつも畏(おそれ)を懐(いだ)けり。中の間なる団欒(まどゐ)の柱側(はしらわき)に座を占めて、重(おも)げに戴(いただ)ける夜会結(やかいむすび)に淡紫(うすむらさき)のリボン飾(かざり)して、小豆鼠(あづきねずみ)の縮緬(ちりめん)の羽織を着たるが、人の打騒ぐを興あるやうに涼き目を□(みは)りて、躬(みづから)は淑(しとや)かに引繕(ひきつくろ)へる娘あり。粧飾(つくり)より相貌(かほだち)まで水際立(みづぎはた)ちて、凡(ただ)ならず媚(こび)を含めるは、色を売るものの仮の姿したるにはあらずやと、始めて彼を見るものは皆疑へり。一番の勝負の果てぬ間に、宮といふ名は普(あまね)く知られぬ。娘も数多(あまた)居たり。醜(みにく)きは、子守の借着したるか、茶番の姫君の戸惑(とまどひ)せるかと覚(おぼし)きもあれど、中には二十人並、五十人並優れたるもありき。服装(みなり)は宮より数等(すとう)立派なるは数多(あまた)あり。彼はその点にては中の位に過ぎず。貴族院議員の愛娘(まなむすめ)とて、最も不器量(ふきりよう)を極(きは)めて遺憾(いかん)なしと見えたるが、最も綺羅(きら)を飾りて、その起肩(いかりがた)に紋御召(もんおめし)の三枚襲(さんまいがさね)を被(かつ)ぎて、帯は紫根(しこん)の七糸(しちん)に百合(ゆり)の折枝(をりえだ)を縒金(よりきん)の盛上(もりあげ)にしたる、人々これが為に目も眩(く)れ、心も消えて眉(まゆ)を皺(しわ)めぬ。この外種々(さまざま)色々の絢爛(きらびやか)なる中に立交(たちまじ)らひては、宮の装(よそほひ)は纔(わづか)に暁の星の光を保つに過ぎざれども、彼の色の白さは如何(いか)なる美(うつくし)き染色(そめいろ)をも奪ひて、彼の整へる面(おもて)は如何なる麗(うるはし)き織物よりも文章(あや)ありて、醜き人たちは如何に着飾らんともその醜きを蔽(おほ)ふ能(あた)はざるが如く、彼は如何に飾らざるもその美きを害せざるなり。
 袋棚(ふくろだな)と障子との片隅(かたすみ)に手炉(てあぶり)を囲みて、蜜柑(みかん)を剥(む)きつつ語(かたら)ふ男の一個(ひとり)は、彼の横顔を恍惚(ほれぼれ)と遙(はるか)に見入りたりしが、遂(つひ)に思堪(おもひた)へざらんやうに呻(うめ)き出(いだ)せり。
「好(い)い、好い、全く好い! 馬士(まご)にも衣裳(いしよう)と謂(い)ふけれど、美(うつくし)いのは衣裳には及ばんね。物それ自(みづか)らが美いのだもの、着物などはどうでも可(い)い、実は何も着てをらんでも可い」
「裸体なら猶(なほ)結構だ!」
 この強き合槌(あひづち)撃つは、美術学校の学生なり。
 綱曳(つなひき)にて駈着(かけつ)けし紳士は姑(しばら)く休息の後内儀に導かれて入来(いりきた)りつ。その後(うしろ)には、今まで居間に潜みたりし主(あるじ)の箕輪亮輔(みのわりようすけ)も附添ひたり。席上は入乱れて、ここを先途(せんど)と激(はげし)き勝負の最中なれば、彼等の来(きた)れるに心着きしは稀(まれ)なりけれど、片隅に物語れる二人は逸早(いちはや)く目を側(そば)めて紳士の風采(ふうさい)を視(み)たり。
 広間の燈影(ひかげ)は入口に立てる三人(みたり)の姿を鮮(あざや)かに照せり。色白の小(ちひさ)き内儀の口は疳(かん)の為に引歪(ひきゆが)みて、その夫の額際(ひたひぎは)より赭禿(あかは)げたる頭顱(つむり)は滑(なめら)かに光れり。妻は尋常(ひとなみ)より小きに、夫は勝(すぐ)れたる大兵(だいひよう)肥満にて、彼の常に心遣(こころづかひ)ありげの面色(おももち)なるに引替へて、生きながら布袋(ほてい)を見る如き福相したり。
 紳士は年歯(としのころ)二十六七なるべく、長高(たけたか)く、好き程に肥えて、色は玉のやうなるに頬(ほほ)の辺(あたり)には薄紅(うすくれなゐ)を帯びて、額厚く、口大きく、腮(あぎと)は左右に蔓(はびこ)りて、面積の広き顔は稍(やや)正方形を成(な)せり。緩(ゆる)く波打てる髪を左の小鬢(こびん)より一文字に撫付(なでつ)けて、少しは油を塗りたり。濃(こ)からぬ口髭(くちひげ)を生(はや)して、小(ちひさ)からぬ鼻に金縁(きんぶち)の目鏡(めがね)を挾(はさ)み、五紋(いつつもん)の黒塩瀬(くろしほぜ)の羽織に華紋織(かもんおり)の小袖(こそで)を裾長(すそなが)に着做(きな)したるが、六寸の七糸帯(しちんおび)に金鏈子(きんぐさり)を垂れつつ、大様(おほやう)に面(おもて)を挙げて座中を□(みまは)したる容(かたち)は、実(げ)に光を発(はな)つらんやうに四辺(あたり)を払ひて見えぬ。この団欒(まどゐ)の中に彼の如く色白く、身奇麗に、しかも美々(びび)しく装(よそほ)ひたるはあらざるなり。
「何だ、あれは?」
 例の二人の一個(ひとり)はさも憎さげに呟(つぶや)けり。
「可厭(いや)な奴!」
 唾(つば)吐くやうに言ひて学生はわざと面(おもて)を背(そむ)けつ。
「お俊(しゆん)や、一寸(ちよいと)」と内儀は群集(くんじゆ)の中よりその娘を手招きぬ。
 お俊は両親の紳士を伴へるを見るより、慌忙(あわただし)く起ちて来(きた)れるが、顔好くはあらねど愛嬌(あいきよう)深く、いと善く父に肖(に)たり。高島田に結(ゆ)ひて、肉色縮緬(にくいろちりめん)の羽織に撮(つま)みたるほどの肩揚したり。顔を赧(あか)めつつ紳士の前に跪(ひざまづ)きて、慇懃(いんぎん)に頭(かしら)を低(さぐ)れば、彼は纔(わづか)に小腰を屈(かが)めしのみ。
「どうぞ此方(こちら)へ」
 娘は案内せんと待構へけれど、紳士はさして好ましからぬやうに頷(うなづ)けり。母は歪(ゆが)める口を怪しげに動して、
「あの、見事な、まあ、御年玉を御戴きだよ」
 お俊は再び頭(かしら)を低(さ)げぬ。紳士は笑(ゑみ)を含みて目礼せり。
「さあ、まあ、いらつしやいまし」
 主(あるじ)の勧むる傍(そば)より、妻はお俊を促して、お俊は紳士を案内(あない)して、客間の床柱の前なる火鉢(ひばち)在る方(かた)に伴(つ)れぬ。妻は其処(そこ)まで介添(かいぞへ)に附きたり。二人は家内(かない)の紳士を遇(あつか)ふことの極(きは)めて鄭重(ていちよう)なるを訝(いぶか)りて、彼の行くより坐るまで一挙一動も見脱(みのが)さざりけり。その行く時彼の姿はあたかも左の半面を見せて、団欒(まどゐ)の間を過ぎたりしが、無名指(むめいし)に輝ける物の凡(ただ)ならず強き光は燈火(ともしび)に照添(てりそ)ひて、殆(ほとん)ど正(ただし)く見る能(あた)はざるまでに眼(まなこ)を射られたるに呆(あき)れ惑へり。天上の最も明(あきらか)なる星は我手(わがて)に在りと言はまほしげに、紳士は彼等の未(いま)だ曾(かつ)て見ざりし大(おほき)さの金剛石(ダイアモンド)を飾れる黄金(きん)の指環を穿(は)めたるなり。
 お俊は骨牌(かるた)の席に復(かへ)ると□(ひとし)く、密(ひそか)に隣の娘の膝(ひざ)を衝(つ)きて口早に□(ささや)きぬ。彼は忙々(いそがはし)く顔を擡(もた)げて紳士の方(かた)を見たりしが、その人よりはその指に耀(かがや)く物の異常なるに駭(おどろ)かされたる体(てい)にて、
「まあ、あの指環は! 一寸(ちよいと)、金剛石(ダイアモンド)?」
「さうよ」
「大きいのねえ」
「三百円だつて」
 お俊の説明を聞きて彼は漫(そぞろ)に身毛(みのけ)の弥立(よだ)つを覚えつつ、
「まあ! 好いのねえ」
 □(ごまめ)の目ほどの真珠を附けたる指環をだに、この幾歳(いくとせ)か念懸(ねんが)くれども未(いま)だ容易に許されざる娘の胸は、忽(たちま)ち或事を思ひ浮べて攻皷(せめつづみ)の如く轟(とどろ)けり。彼は惘然(ぼうぜん)として殆ど我を失へる間(ま)に、電光の如く隣より伸来(のびきた)れる猿臂(えんぴ)は鼻の前(さき)なる一枚の骨牌(かるた)を引攫(ひきさら)へば、
「あら、貴女(あなた)どうしたのよ」
 お俊は苛立(いらだ)ちて彼の横膝(よこひざ)を続けさまに拊(はた)きぬ。
「可(よ)くつてよ、可くつてよ、以来(これから)もう可くつてよ」
 彼は始めて空想の夢を覚(さま)して、及ばざる身(み)の分(ぶん)を諦(あきら)めたりけれども、一旦金剛石(ダイアモンド)の強き光に焼かれたる心は幾分の知覚を失ひけんやうにて、さしも目覚(めざまし)かりける手腕(てなみ)の程も見る見る漸(やうや)く四途乱(しどろ)になりて、彼は敢無(あへな)くもこの時よりお俊の為に頼み難(がたな)き味方となれり。
 かくしてかれよりこれに伝へ、甲より乙に通じて、
「金剛石(ダイアモンド)!」
「うむ、金剛石だ」
「金剛石□」
「成程金剛石!」
「まあ、金剛石よ」
「あれが金剛石?」
「見給へ、金剛石」
「あら、まあ金剛石□」
「可感(すばらし)い金剛石」
「可恐(おそろし)い光るのね、金剛石」
「三百円の金剛石」
 瞬(またた)く間(ひま)に三十余人は相呼び相応じて紳士の富を謳(うた)へり。
 彼は人々の更互(かたみがはり)におのれの方(かた)を眺(なが)むるを見て、その手に形好く葉巻(シガア)を持たせて、右手(めて)を袖口(そでぐち)に差入れ、少し懈(たゆ)げに床柱に靠(もた)れて、目鏡の下より下界を見遍(みわた)すらんやうに目配(めくばり)してゐたり。
 かかる目印ある人の名は誰(たれ)しも問はであるべきにあらず、洩(も)れしはお俊の口よりなるべし。彼は富山唯継(とみやまただつぐ)とて、一代分限(ぶげん)ながら下谷(したや)区に聞ゆる資産家の家督なり。同じ区なる富山銀行はその父の私設する所にして、市会議員の中(うち)にも富山重平(じゆうへい)の名は見出(みいだ)さるべし。
 宮の名の男の方(かた)に持囃(もてはや)さるる如く、富山と知れたる彼の名は直(ただち)に女の口々に誦(ずん)ぜられぬ。あはれ一度(ひとたび)はこの紳士と組みて、世に愛(めで)たき宝石に咫尺(しせき)するの栄を得ばや、と彼等の心々(こころごころ)に冀(こひねが)はざるは希(まれ)なりき。人若(も)し彼に咫尺するの栄を得ば、啻(ただ)にその目の類無(たぐひな)く楽(たのしま)さるるのみならで、その鼻までも菫花(ヴァイオレット)の多く□(か)ぐべからざる異香(いきよう)に薫(くん)ぜらるるの幸(さいはひ)を受くべきなり。
 男たちは自(おのづ)から荒(すさ)められて、女の挙(こぞ)りて金剛石(ダイアモンド)に心牽(こころひか)さるる気色(けしき)なるを、或(あるひ)は妬(ねた)く、或は浅ましく、多少の興を冷(さま)さざるはあらざりけり。独(ひと)り宮のみは騒げる体(てい)も無くて、その清(すずし)き眼色(まなざし)はさしもの金剛石と光を争はんやうに、用意深(たしなみふか)く、心様(こころざま)も幽(ゆかし)く振舞へるを、崇拝者は益々懽(よろこ)びて、我等の慕ひ参らする効(かひ)はあるよ、偏(ひとへ)にこの君を奉じて孤忠(こちゆう)を全うし、美と富との勝負を唯一戦に決して、紳士の憎き面(つら)の皮を引剥(ひきむ)かん、と手薬煉(てぐすね)引いて待ちかけたり。されば宮と富山との勢(いきほひ)はあたかも日月(じつげつ)を並懸(ならべか)けたるやうなり。宮は誰(たれ)と組み、富山は誰と組むらんとは、人々の最も懸念(けねん)するところなりけるが、鬮(くじ)の結果は驚くべき予想外にて、目指されし紳士と美人とは他の三人(みたり)とともに一組になりぬ。始め二つに輪作りし人数(にんず)はこの時合併して一(いつ)の大(おほい)なる団欒(まどゐ)に成されたるなり。しかも富山と宮とは隣合(となりあひ)に坐りければ、夜と昼との一時(いちじ)に来にけんやうに皆狼狽(うろたへ)騒ぎて、忽(たちま)ちその隣に自ら社会党と称(とな)ふる一組を出(いだ)せり。彼等の主義は不平にして、その目的は破壊なり。則(すなは)ち彼等は専(もつぱ)ら腕力を用ゐて或組の果報と安寧(あんねい)とを妨害せんと為るなり。又その前面(むかひ)には一人の女に内を守らしめて、屈強の男四人左右に遠征軍を組織し、左翼を狼藉組(ろうぜきぐみ)と称し、右翼を蹂躙隊(じゆうりんたい)と称するも、実は金剛石の鼻柱を挫(くじ)かんと大童(おほわらは)になれるに外(ほか)ならざるなり。果せる哉(かな)、件(くだん)の組はこの勝負に蓬(きたな)き大敗を取りて、人も無げなる紳士もさすがに鼻白(はなしろ)み、美き人は顔を赧(あか)めて、座にも堪(た)ふべからざるばかりの面皮(めんぴ)を欠(かか)されたり。この一番にて紳士の姿は不知(いつか)見えずなりぬ。男たちは万歳を唱へけれども、女の中には掌(たなぞこ)の玉を失へる心地(ここち)したるも多かりき。散々に破壊され、狼藉され、蹂躙されし富山は、余りにこの文明的ならざる遊戯に怖(おそれ)をなして、密(ひそか)に主(あるじ)の居間に逃帰れるなりけり。
 鬘(かつら)を被(き)たるやうに梳(くしけづ)りたりし彼の髪は棕櫚箒(しゆろぼうき)の如く乱れて、環(かん)の隻(かたかた)□(も)げたる羽織の紐(ひも)は、手長猿(てながざる)の月を捉(とら)へんとする状(かたち)して揺曳(ぶらぶら)と垂(さが)れり。主は見るよりさも慌(あわ)てたる顔して、
「どう遊ばしました。おお、お手から血が出てをります」
 彼はやにはに煙管(きせる)を捨てて、忽(ゆるがせ)にすべからざらんやうに急遽(とつかは)と身を起せり。
「ああ、酷(ひど)い目に遭(あ)つた。どうもああ乱暴ぢや為様が無い。火事装束ででも出掛けなくつちやとても立切(たちき)れないよ。馬鹿にしてゐる! 頭を二つばかり撲(ぶた)れた」
 手の甲の血を吮(す)ひつつ富山は不快なる面色(おももち)して設(まうけ)の席に着きぬ。予(かね)て用意したれば、海老茶(えびちや)の紋縮緬(もんちりめん)の□(しとね)の傍(かたはら)に七宝焼(しちほうやき)の小判形(こばんがた)の大手炉(おほてあぶり)を置きて、蒔絵(まきゑ)の吸物膳(すひものぜん)をさへ据ゑたるなり。主は手を打鳴して婢(をんな)を呼び、大急(おほいそぎ)に銚子と料理とを誂(あつら)へて、
「それはどうも飛でもない事を。外(ほか)に何処(どこ)もお怪我(けが)はございませんでしたか」
「そんなに有られて耐(たま)るものかね」
 為(せ)う事無さに主も苦笑(にがわらひ)せり。
「唯今(ただいま)絆創膏(ばんそうこう)を差上げます。何しろ皆書生でございますから随分乱暴でございませう。故々(わざわざ)御招(おまねき)申しまして甚(はなは)だ恐入りました。もう彼地(あつち)へは御出陣にならんが宜(よろし)うございます。何もございませんがここで何卒(どうぞ)御寛(ごゆる)り」
「ところがもう一遍行つて見やうかとも思ふの」
「へえ、又いらつしやいますか」
 物は言はで打笑(うちゑ)める富山の腮(あぎと)は愈(いよいよ)展(ひろが)れり。早くもその意を得てや破顔(はがん)せる主(あるじ)の目は、薄(すすき)の切疵(きりきず)の如くほとほと有か無きかになりぬ。
「では御意(ぎよい)に召したのが、へえ?」
 富山は益(ますます)笑(ゑみ)を湛(ただ)へたり。
「ございましたらう、さうでございませうとも」
「何故(なぜ)な」
「何故も無いものでございます。十目(じゆうもく)の見るところぢやございませんか」
 富山は頷(うなづ)きつつ、
「さうだらうね」
「あれは宜(よろし)うございませう」
「一寸(ちよいと)好いね」
「まづその御意(おつもり)でお熱いところをお一盞(ひとつ)。不満家(むづかしや)の貴方(あなた)が一寸好いと有仰(おつしや)る位では、余程(よつぽど)尤物(まれもの)と思はなければなりません。全く寡(すくな)うございます」
 倉皇(あたふた)入来(いりきた)れる内儀は思ひも懸けず富山を見て、
「おや、此方(こちら)にお在(いで)あそばしたのでございますか」
 彼は先の程より台所に詰(つめ)きりて、中入(なかいり)の食物の指図(さしづ)などしてゐたるなりき。
「酷(ひど)く負けて迯(に)げて来ました」
「それは好く迯げていらつしやいました」
 例の歪(ゆが)める口を窄(すぼ)めて内儀は空々(そらぞら)しく笑ひしが、忽(たちま)ち彼の羽織の紐(ひも)の偏(かたかた)断(ちぎ)れたるを見尤(みとが)めて、環(かん)の失せたりと知るより、慌(あわ)て驚きて起たんとせり、如何(いか)にとなればその環は純金製のものなればなり。富山は事も無げに、
「なあに、宜(よろし)い」
「宜いではございません。純金(きん)では大変でございます」
「なあに、可(い)いと言ふのに」と聞きも訖(をは)らで彼は広間の方(かた)へ出(い)でて行けり。
「時にあれの身分はどうかね」
「さやう、悪い事はございませんが……」
「が、どうしたのさ」
「が、大(たい)した事はございませんです」
「それはさうだらう。然(しか)し凡(およ)そどんなものかね」
「旧(もと)は農商務省に勤めてをりましたが、唯今(ただいま)では地所や家作(かさく)などで暮してゐるやうでございます。どうか小金も有るやうな話で、鴫沢隆三(しぎさわりゆうぞう)と申して、直(ぢき)隣町(となりちよう)に居りまするが、極(ごく)手堅く小体(こてい)に遣(や)つてをるのでございます」
「はあ、知れたもんだね」
 我(われ)は顔(がほ)に頤(おとがひ)を掻撫(かいな)づれば、例の金剛石(ダイアモンド)は燦然(きらり)と光れり。
「それでも可いさ。然し嫁(く)れやうか、嗣子(あととり)ぢやないかい」
「さやう、一人娘のやうに思ひましたが」
「それぢや窮(こま)るぢやないか」
「私(わたくし)は悉(くはし)い事は存じませんから、一つ聞いて見ませうで」
 程無く内儀は環を捜得(さがしえ)て帰来(かへりき)にけるが、誰(た)が悪戯(いたづら)とも知らで耳掻(みみかき)の如く引展(ひきのば)されたり。主は彼に向ひて宮の家内(かない)の様子を訊(たづ)ねけるに、知れる一遍(ひととほり)は語りけれど、娘は猶能(なほよ)く知るらんを、後(のち)に招きて聴くべしとて、夫婦は頻(しきり)に觴(さかづき)を侑(すす)めけり。
 富山唯継の今宵ここに来(きた)りしは、年賀にあらず、骨牌遊(かるたあそび)にあらず、娘の多く聚(あつま)れるを機として、嫁選(よめえらみ)せんとてなり。彼は一昨年(をととし)の冬英吉利(イギリス)より帰朝するや否や、八方に手分(てわけ)して嫁を求めけれども、器量望(のぞみ)の太甚(はなはだ)しければ、二十余件の縁談皆意に称(かな)はで、今日が日までもなほその事に齷齪(あくさく)して已(や)まざるなり。当時取急ぎて普請せし芝(しば)の新宅は、未(いま)だ人の住着かざるに、はや日に黒(くろ)み、或所は雨に朽ちて、薄暗き一間に留守居の老夫婦の額を鳩(あつ)めては、寂しげに彼等の昔を語るのみ。

     第二章

 骨牌(かるた)の会は十二時に□(およ)びて終りぬ。十時頃より一人起ち、二人起ちて、見る間に人数(にんず)の三分の一強を失ひけれども、猶(なほ)飽かで残れるものは景気好く勝負を続けたり。富山の姿を隠したりと知らざる者は、彼敗走して帰りしならんと想へり。宮は会の終まで居たり。彼若(もし)疾(と)く還(かへ)りたらんには、恐(おそら)く踏留るは三分の一弱に過ぎざりけんを、と我物顔に富山は主と語合へり。
 彼に心を寄せし輩(やから)は皆彼が夜深(よふけ)の帰途(かへり)の程を気遣(きづか)ひて、我願(ねがは)くは何処(いづく)までも送らんと、絶(したた)か念(おも)ひに念ひけれど、彼等の深切(しんせつ)は無用にも、宮の帰る時一人の男附添ひたり。その人は高等中学の制服を着たる二十四五の学生なり。金剛石(ダイアモンド)に亜(つ)いでは彼の挙動の目指(めざさ)れしは、座中に宮と懇意に見えたるは彼一人なりければなり。この一事の外(ほか)は人目を牽(ひ)くべき点も無く、彼は多く語らず、又は躁(さわ)がず、始終慎(つつまし)くしてゐたり。終までこの両個(ふたり)の同伴(つれ)なりとは露顕せざりき。さあらんには余所々々(よそよそ)しさに過ぎたればなり。彼等の打連れて門(かど)を出(い)づるを見て、始めて失望せしもの寡(すくな)からず。
 宮は鳩羽鼠(はとばねずみ)の頭巾(ずきん)を被(かぶ)りて、濃浅黄地(こいあさぎぢ)に白く中形(ちゆうがた)模様ある毛織のシォールを絡(まと)ひ、学生は焦茶の外套(オバコオト)を着たるが、身を窄(すぼ)めて吹来る凩(こがらし)を遣過(やりすご)しつつ、遅れし宮の辿着(たどりつ)くを待ちて言出せり。
「宮(みい)さん、あの金剛石(ダイアモンド)の指環を穿(は)めてゐた奴はどうだい、可厭(いや)に気取つた奴ぢやないか」
「さうねえ、だけれど衆(みんな)があの人を目の敵(かたき)にして乱暴するので気の毒だつたわ。隣合つてゐたもんだから私まで酷(ひど)い目に遭(あは)されてよ」
「うむ、彼奴(あいつ)が高慢な顔をしてゐるからさ。実は僕も横腹(よこつぱら)を二つばかり突いて遣つた」
「まあ、酷いのね」
「ああ云ふ奴は男の目から見ると反吐(へど)が出るやうだけれど、女にはどうだらうね、あんなのが女の気に入るのぢやないか」
「私は可厭(いや)だわ」
「芬々(ぷんぷん)と香水の匂(にほひ)がして、金剛石(ダイアモンド)の金の指環を穿めて、殿様然たる服装(なり)をして、好(い)いに違無(ちがひな)いさ」
 学生は嘲(あざ)むが如く笑へり。
「私は可厭よ」
「可厭なものが組になるものか」
「組は鬮(くじ)だから為方(しかた)が無いわ」
「鬮だけれど、組に成つて可厭さうな様子も見えなかつたもの」
「そんな無理な事を言つて!」
「三百円の金剛石ぢや到底僕等の及ぶところにあらずだ」
「知らない!」
 宮はシォールを揺上(ゆりあ)げて鼻の半(なかば)まで掩隠(おほひかく)しつ。
「ああ寒い!」
 男は肩を峙(そばだ)てて直(ひた)と彼に寄添へり。宮は猶(なほ)黙して歩めり。
「ああ寒い□」
 宮はなほ答へず。
「ああ寒い※[#感嘆符三つ、23-5]」
 彼はこの時始めて男の方(かた)を見向きて、
「どうしたの」
「ああ寒い」
「あら可厭ね、どうしたの」
「寒くて耐(たま)らんからその中へ一処(いつしよ)に入れ給へ」
「どの中へ」
「シォールの中へ」
「可笑(をかし)い、可厭だわ」
 男は逸早(いちはや)く彼の押へしシォールの片端(かたはし)を奪ひて、その中(うち)に身を容(い)れたり。宮(みや)は歩み得ぬまでに笑ひて、
「あら貫一(かんいつ)さん。これぢや切なくて歩けやしない。ああ、前面(むかふ)から人が来てよ」
 かかる戯(たはむれ)を作(な)して憚(はばか)らず、女も為すままに信(まか)せて咎(とが)めざる彼等の関繋(かんけい)は抑(そもそ)も如何(いかに)。事情ありて十年来鴫沢に寄寓(きぐう)せるこの間貫一(はざまかんいち)は、此年(ことし)の夏大学に入(い)るを待ちて、宮が妻(めあは)せらるべき人なり。

     第三章

 間貫一の十年来鴫沢の家に寄寓せるは、怙(よ)る所無くて養はるるなり。母は彼の幼(いとけな)かりし頃世を去りて、父は彼の尋常中学を卒業するを見るに及ばずして病死せしより、彼は哀嘆(なげき)の中に父を葬るとともに、己(おのれ)が前途の望をさへ葬らざる可(べ)からざる不幸に遭(あ)へり。父在りし日さへ月謝の支出の血を絞るばかりに苦(くるし)き痩世帯(やせじよたい)なりけるを、当時彼なほ十五歳ながら間の戸主は学ぶに先(さきだ)ちて食(くら)ふべき急に迫られぬ。幼き戸主の学ぶに先ちては食ふべきの急、食ふべきに先ちては葬(はうむり)すべき急、猶(なほ)これに先ちては看護医薬の急ありしにあらずや。自活すべくもあらぬ幼(をさな)き者の如何(いか)にしてこれ等の急を救得(すくひえ)しか。固(もと)より貫一が力の能(あた)ふべきにあらず、鴫沢隆三の身一個(ひとつ)に引承(ひきう)けて万端の世話せしに因(よ)るなり。孤児(みなしご)の父は隆三の恩人にて、彼は聊(いささ)かその旧徳に報ゆるが為に、啻(ただ)にその病めりし時に扶助せしのみならず、常に心着(こころづ)けては貫一の月謝をさへ間(まま)支弁したり。かくて貧き父を亡(うしな)ひし孤児(みなしご)は富める後見(うしろみ)を得て鴫沢の家に引取られぬ。隆三は恩人に報ゆるにその短き生時(せいじ)を以(もつ)て慊(あきた)らず思ひければ、とかくはその忘形見を天晴(あつぱれ)人と成して、彼の一日も忘れざりし志を継がんとせるなり。
 亡(な)き人常に言ひけるは、苟(いやし)くも侍の家に生れながら、何の面目(めんぼく)ありて我子貫一をも人に侮(あなど)らすべきや。彼は学士となして、願くは再び四民(しみん)の上(かみ)に立たしめん。貫一は不断にこの言(ことば)を以(も)て警(いまし)められ、隆三は会ふ毎にまたこの言を以(も)て喞(かこ)たれしなり。彼は言(ものい)ふ遑(いとま)だに無くて暴(にはか)に歿(みまか)りけれども、その前常に口にせしところは明かに彼の遺言なるべきのみ。
 されば貫一が鴫沢の家内に於ける境遇は、決して厄介者として陰(ひそか)に疎(うと)まるる如き憂目(うきめ)に遭(あ)ふにはあらざりき。憖(なまじ)ひ継子(ままこ)などに生れたらんよりは、かくて在りなんこそ幾許(いかばかり)か幸(さいはひ)は多からんよ、と知る人は噂(うはさ)し合へり。隆三夫婦は実(げ)に彼を恩人の忘形見として疎(おろそか)ならず取扱ひけるなり。さばかり彼の愛せらるるを見て、彼等は貫一をば娘の婿にせむとすならんと想へる者もありしかど、当時彼等は構へてさる心ありしにはあらざりけるも、彼の篤学なるを見るに及びて、漸(やうや)くその心は出(い)で来(き)て、彼の高等中学校に入(い)りし時、彼等の了簡は始めて定りぬ。
 貫一は篤学のみならず、性質も直(すぐ)に、行(おこなひ)も正(ただし)かりければ、この人物を以つて学士の冠を戴(いただ)かんには、誠に獲易(えやす)からざる婿なるべし、と夫婦は私(ひそか)に喜びたり。この身代(しんだい)を譲られたりとて、他姓(たせい)を冒(をか)して得謂(えい)はれぬ屈辱を忍ばんは、彼の屑(いさぎよ)しと為ざるところなれども、美き宮を妻に為るを得ば、この身代も屈辱も何か有らんと、彼はなかなか夫婦に増したる懽(よろこび)を懐(いだ)きて、益(ますます)学問を励みたり。宮も貫一をば憎からず思へり。されど恐くは貫一の思へる半(なかば)には過ぎざらん。彼は自らその色好(いろよき)を知ればなり。世間の女の誰(たれ)か自らその色好を知らざるべき、憂ふるところは自ら知るに過(すぐ)るに在り。謂(い)ふ可くんば、宮は己(おのれ)が美しさの幾何(いかばかり)値するかを当然に知れるなり。彼の美しさを以てして纔(わづか)に箇程(かほど)の資産を嗣(つ)ぎ、類多き学士風情(ふぜい)を夫に有たんは、決して彼が所望(のぞみ)の絶頂にはあらざりき。彼は貴人の奥方の微賤(びせん)より出(い)でし例(ためし)寡(すくな)からざるを見たり。又は富人の醜き妻を厭(いと)ひて、美き妾(めかけ)に親むを見たり。才だにあらば男立身は思のままなる如く、女は色をもて富貴(ふうき)を得べしと信じたり。なほ彼は色を以て富貴を得たる人たちの若干(そくばく)を見たりしに、その容(かたち)の己(おのれ)に如(し)かざるものの多きを見出(みいだ)せり。剰(あまつさ)へ彼は行く所にその美しさを唱はれざるはあらざりき。なほ一件(ひとつ)最も彼の意を強うせし事あり。そは彼が十七の歳(とし)に起りし事なり。当時彼は明治音楽院に通ひたりしに、ヴァイオリンのプロフェッサアなる独逸(ドイツ)人は彼の愛らしき袂(たもと)に艶書(えんしよ)を投入れぬ。これ素(もと)より仇(あだ)なる恋にはあらで、女夫(めをと)の契(ちぎり)を望みしなり。殆(ほとん)ど同時に、院長の某(なにがし)は年四十を踰(こ)えたるに、先年その妻を喪(うしな)ひしをもて再び彼を娶(めと)らんとて、密(ひそか)に一室に招きて切なる心を打明かせし事あり。
 この時彼の小(ちひさ)き胸は破れんとするばかり轟(とどろ)けり。半(なかば)は曾(かつ)て覚えざる可羞(はづかしさ)の為に、半は遽(にはか)に大(おほい)なる希望(のぞみ)の宿りたるが為に。彼はここに始めて己(おのれ)の美しさの寡(すくな)くとも奏任以上の地位ある名流をその夫(つま)に値(あた)ひすべきを信じたるなり。彼を美く見たるは彼の教師と院長とのみならで、牆(かき)を隣れる男子部(だんじぶ)の諸生の常に彼を見んとて打騒ぐをも、宮は知らざりしにあらず。
 若(もし)かのプロフェッサアに添はんか、或(あるひ)は四十の院長に従はんか、彼の栄誉ある地位は、学士を婿にして鴫沢の後を嗣(つ)ぐの比にはあらざらんをと、一旦抱(いだ)ける希望(のぞみ)は年と共に太りて、彼は始終昼ながら夢みつつ、今にも貴き人又は富める人又は名ある人の己(おのれ)を見出(みいだ)して、玉の輿(こし)を舁(かか)せて迎に来(きた)るべき天縁の、必ず廻到(めぐりいた)らんことを信じて疑はざりき。彼のさまでに深く貫一を思はざりしは全くこれが為のみ。されども決して彼を嫌(きら)へるにはあらず、彼と添はばさすがに楽(たのし)からんとは念(おも)へるなり。如此(かくのごと)く決定(さだか)にそれとは無けれど又有りとし見ゆる箒木(ははきぎ)の好運を望みつつも、彼は怠らず貫一を愛してゐたり。貫一は彼の己を愛する外にはその胸の中に何もあらじとのみ思へるなりけり。

     第四章

 漆の如き闇(やみ)の中(うち)に貫一の書斎の枕時計は十時を打ちぬ。彼は午後四時より向島(むこうじま)の八百松(やおまつ)に新年会ありとて未(いま)だ還(かへ)らざるなり。
 宮は奥より手ラムプを持ちて入来(いりき)にけるが、机の上なる書燈を点(とも)し了(をは)れる時、婢(をんな)は台十能に火を盛りたるを持来(もちきた)れり。宮はこれを火鉢(ひばち)に移して、
「さうして奥のお鉄瓶(てつ)も持つて来ておくれ。ああ、もう彼方(あちら)は御寝(おやすみ)になるのだから」
 久(ひさし)く人気(ひとけ)の絶えたりし一間の寒(さむさ)は、今俄(にはか)に人の温き肉を得たるを喜びて、直(ただ)ちに咬(か)まんとするが如く膚(はだへ)に薄(せま)れり。宮は慌忙(あわただし)く火鉢に取付きつつ、目を挙げて書棚(しよだな)に飾れる時計を見たり。
 夜の闇(くら)く静なるに、燈(ともし)の光の独(ひと)り美き顔を照したる、限無く艶(えん)なり。松の内とて彼は常より着飾れるに、化粧をさへしたれば、露を帯びたる花の梢(こずゑ)に月のうつろへるが如く、背後(うしろ)の壁に映れる黒き影さへ香滴(にほひこぼ)るるやうなり。
 金剛石(ダイアモンド)と光を争ひし目は惜気(をしげ)も無く□(みは)りて時計の秒(セコンド)を刻むを打目戍(うちまも)れり。火に翳(かざ)せる彼の手を見よ、玉の如くなり。さらば友禅模様ある紫縮緬(むらさきちりめん)の半襟(はんえり)に韜(つつ)まれたる彼の胸を想へ。その胸の中(うち)に彼は今如何(いか)なる事を思へるかを想へ。彼は憎からぬ人の帰来(かへり)を待佗(まちわ)ぶるなりけり。
 一時(ひとしきり)又寒(さむさ)の太甚(はなはだし)きを覚えて、彼は時計より目を放つとともに起ちて、火鉢の対面(むかふ)なる貫一が□(しとね)の上に座を移せり。こは彼の手に縫ひしを貫一の常に敷くなり、貫一の敷くをば今夜彼の敷くなり。
 若(もし)やと聞着けし車の音は漸(やうや)く近(ちかづ)きて、益(ますます)轟(とどろ)きて、竟(つひ)に我門(わがかど)に停(とどま)りぬ。宮は疑無(うたがひな)しと思ひて起たんとする時、客はいと酔(ゑ)ひたる声して物言へり。貫一は生下戸(きげこ)なれば嘗(かつ)て酔(ゑ)ひて帰りし事あらざれば、宮は力無く又坐りつ。時計を見れば早や十一時に垂(なんな)んとす。
 門(かど)の戸引啓(ひきあ)けて、酔ひたる足音の土間に踏入りたるに、宮は何事とも分かず唯慌(ただあわ)ててラムプを持ちて出(い)でぬ。台所より婢(をんな)も、出合(いであ)へり。
 足の踏所(ふみど)も覚束無(おぼつかな)げに酔ひて、帽は落ちなんばかりに打傾(うちかたむ)き、ハンカチイフに裹(つつ)みたる折を左に挈(さ)げて、山車(だし)人形のやうに揺々(ゆらゆら)と立てるは貫一なり。面(おもて)は今にも破れぬべく紅(くれなゐ)に熱して、舌の乾(かわ)くに堪(た)へかねて連(しきり)に空唾(からつば)を吐きつつ、
「遅かつたかね。さあ御土産(おみやげ)です。還(かへ)つてこれを細君に遣(おく)る。何ぞ仁(じん)なるや」
「まあ、大変酔つて! どうしたの」
「酔つて了(しま)つた」
「あら、貫一(かんいつ)さん、こんな所に寐(ね)ちや困るわ。さあ、早くお上りなさいよ」
「かう見えても靴が脱げない。ああ酔つた」
 仰様(のけさま)に倒れたる貫一の脚(あし)を掻抱(かきいだ)きて、宮は辛(から)くもその靴を取去りぬ。
「起きる、ああ、今起きる。さあ、起きた。起きたけれど、手を牽(ひ)いてくれなければ僕には歩けませんよ」
 宮は婢(をんな)に燈(ともし)を把(と)らせ、自らは貫一の手を牽かんとせしに、彼は踉(よろめ)きつつ肩に縋(すが)りて遂(つひ)に放さざりければ、宮はその身一つさへ危(あやふ)きに、やうやう扶(たす)けて書斎に入(い)りぬ。
 □(しとね)の上に舁下(かきおろ)されし貫一は頽(くづ)るる体(たい)を机に支へて、打仰(うちあふ)ぎつつ微吟せり。
「君に勧む、金縷(きんる)の衣(ころも)を惜むなかれ。君に勧む、須(すべから)く少年の時を惜むべし。花有り折るに堪(た)へなば直(ただち)に折る須(べ)し。花無きを待つて空(むなし)く枝を折ることなかれ」
「貫一さん、どうしてそんなに酔つたの?」
「酔つてゐるでせう、僕は。ねえ、宮(みい)さん、非常に酔つてゐるでせう」
「酔つてゐるわ。苦(くるし)いでせう」
「然矣(しかり)、苦いほど酔つてゐる。こんなに酔つてゐるに就(つ)いては大(おほ)いに訳が有るのだ。さうして又宮さんなるものが大いに介抱して可い訳が有るのだ。宮さん!」
「可厭(いや)よ、私は、そんなに酔つてゐちや。不断嫌(きら)ひの癖に何故(なぜ)そんなに飲んだの。誰に飲(のま)されたの。端山(はやま)さんだの、荒尾さんだの、白瀬さんだのが附いてゐながら、酷(ひど)いわね、こんなに酔(よは)して。十時にはきつと帰ると云ふから私は待つてゐたのに、もう十一時過よ」
「本当に待つてゐてくれたのかい、宮(みい)さん。謝(しや)、多謝(たしや)! 若(もし)それが事実であるならばだ、僕はこのまま死んでも恨みません。こんなに酔されたのも、実はそれなのだ」
 彼は宮の手を取りて、情に堪へざる如く握緊(にぎりし)めつ。
「二人の事は荒尾より外に知る者は無いのだ。荒尾が又決して喋(しやべ)る男ぢやない。それがどうして知れたのか、衆(みんな)が知つてゐて……僕は実に驚いた。四方八方から祝盃(しゆくはい)だ祝盃だと、十も二十も一度に猪口(ちよく)を差されたのだ。祝盃などを受ける覚(おぼえ)は無いと言つて、手を引籠(ひつこ)めてゐたけれど、なかなか衆(みんな)聴かないぢやないか」
 宮は窃(ひそか)に笑(ゑみ)を帯びて余念なく聴きゐたり。
「それぢや祝盃の主意を変へて、仮初(かりそめ)にもああ云ふ美人と一所(いつしよ)に居て寝食を倶(とも)にすると云ふのが既に可羨(うらやまし)い。そこを祝すのだ。次には、君も男児(をとこ)なら、更に一歩を進めて、妻君に為るやうに十分運動したまへ。十年も一所に居てから、今更人に奪(と)られるやうな事があつたら、独(ひと)り間貫一一(いつ)個人の恥辱ばかりではない、我々朋友(ほうゆう)全体の面目にも関する事だ。我々朋友ばかりではない、延(ひ)いて高等中学の名折(なをれ)にもなるのだから、是非あの美人を君が妻君にするやうに、これは我々が心を一(いつ)にして結(むすぶ)の神に祷(いの)つた酒だから、辞退するのは礼ではない。受けなかつたら却(かへ)つて神罰が有ると、弄謔(からかひ)とは知れてゐるけれど、言草(いひぐさ)が面白かつたから、片端(かたつぱし)から引受けて呷々(ぐひぐひ)遣付(やつつ)けた。
 宮さんと夫婦に成れなかつたら、はははははは高等中学の名折になるのだと。恐入つたものだ。何分宜(よろし)く願ひます」
「可厭(いや)よ、もう貫一さんは」
「友達中にもさう知れて見ると、立派に夫婦にならなければ、弥(いよい)よ僕の男が立たない義(わけ)だ」
「もう極(きま)つてゐるものを、今更……」
「さうでないです。この頃翁(をぢ)さんや姨(をば)さんの様子を見るのに、どうも僕は……」
「そんな事は決(け)して無いわ、邪推だわ」
「実は翁さんや姨さんの了簡(りようけん)はどうでも可い、宮さんの心一つなのだ」
「私の心は極つてゐるわ」
「さうかしらん?」
「さうかしらんて、それぢや余(あんま)りだわ」
 貫一は酔(ゑひ)を支へかねて宮が膝(ひざ)を枕に倒れぬ。宮は彼が火の如き頬(ほほ)に、額に、手を加へて、
「水を上げませう。あれ、又寐(ね)ちや……貫一さん、貫一さん」
 寔(まこと)に愛の潔(いさぎよ)き哉(かな)、この時は宮が胸の中にも例の汚れたる希望(のぞみ)は跡を絶ちて彼の美き目は他に見るべきもののあらざらんやうに、その力を貫一の寐顔に鍾(あつ)めて、富も貴きも、乃至(ないし)有(あら)ゆる利慾の念は、その膝に覚ゆる一団の微温の為に溶(とろか)されて、彼は唯妙(ただたへ)に香(かうばし)き甘露(かんろ)の夢に酔(ゑ)ひて前後をも知らざるなりけり。
 諸(もろもろ)の可忌(いまはし)き妄想(もうぞう)はこの夜の如く眼(まなこ)を閉ぢて、この一間(ひとま)に彼等の二人よりは在らざる如く、彼は世間に別人の影を見ずして、又この明(あきらか)なる燈火(ともしび)の光の如きものありて、特(こと)に彼等をのみ照すやうに感ずるなり。

     第五章

 或日箕輪(みのわ)の内儀は思も懸けず訪来(とひきた)りぬ。その娘のお俊と宮とは学校朋輩(ほうばい)にて常に往来(ゆきき)したりけれども、未(いま)だ家(うち)と家との交際はあらざるなり。彼等の通学せし頃さへ親々は互に識(し)らで過ぎたりしに、今は二人の往来(おうらい)も漸(やうや)く踈(うと)くなりけるに及びて、俄(にはか)にその母の来(きた)れるは、如何(いか)なる故(ゆゑ)にか、と宮も両親(ふたおや)も怪(あやし)き事に念(おも)へり。
 凡(およ)そ三時間の後彼は帰行(かへりゆ)きぬ。
 先に怪みし家内は彼の来りしよりもその用事の更に思懸(おもひが)けざるに驚けり。貫一は不在なりしかばこの珍(めづらし)き客来(きやくらい)のありしを知らず、宮もまた敢(あへ)て告げずして、二日と過ぎ、三日と過ぎぬ。その日より宮は少(すこし)く食して、多く眠らずなりぬ。貫一は知らず、宮はいよいよ告げんとは為(せ)ざりき。この間に両親(ふたおや)は幾度(いくたび)と無く談合しては、その事を決しかねてゐたり。
 彼の陰に在りて起れる事、又は見るべからざる人の心に浮べる事どもは、貫一の知る因(よし)もあらねど、片時(へんじ)もその目の忘れざる宮の様子の常に変れるを見出(みいだ)さんは難(かた)き事にあらず。さも無かりし人の顔の色の遽(にはか)に光を失ひたるやうにて、振舞(ふるまひ)など別(わ)けて力無く、笑ふさへいと打湿(うちしめ)りたるを。
 宮が居間と謂(い)ふまでにはあらねど、彼の箪笥(たんす)手道具等(など)置きたる小座敷あり。ここには火燵(こたつ)の炉を切りて、用無き人の来ては迭(かたみ)に冬籠(ふゆごもり)する所にも用ゐらる。彼は常にここに居て針仕事するなり。倦(う)めば琴(こと)をも弾(ひ)くなり。彼が手玩(てすさみ)と見ゆる狗子柳(いのこやなぎ)のはや根を弛(ゆる)み、真(しん)の打傾きたるが、鮟鱇切(あんこうぎり)の水に埃(ほこり)を浮べて小机の傍(かたへ)に在り。庭に向へる肱懸窓(ひぢかけまど)の明(あかる)きに敷紙(しきがみ)を披(ひろ)げて、宮は膝(ひざ)の上に紅絹(もみ)の引解(ひきとき)を載せたれど、針は持たで、懶(ものう)げに火燵に靠(もた)れたり。
 彼は少(すこし)く食して多く眠らずなりてよりは、好みてこの一間に入(い)りて、深く物思ふなりけり。両親(ふたおや)は仔細(しさい)を知れるにや、この様子をば怪まんともせで、唯彼の為(な)すままに委(まか)せたり。
 この日貫一は授業始(はじめ)の式のみにて早く帰来(かへりき)にけるが、下(した)座敷には誰(たれ)も見えで、火燵(こたつ)の間に宮の咳(しはぶ)く声して、後は静に、我が帰りしを知らざるよと思ひければ、忍足に窺寄(うかがひよ)りぬ。襖(ふすま)の僅(わづか)に啓(あ)きたる隙(ひま)より差覗(さしのぞ)けば、宮は火燵に倚(よ)りて硝子(ガラス)障子を眺(なが)めては俯目(ふしめ)になり、又胸痛きやうに仰ぎては太息吐(ためいきつ)きて、忽(たちま)ち物の音を聞澄すが如く、美き目を瞠(みは)るは、何をか思凝(おもひこら)すなるべし。人の窺(うかが)ふと知らねば、彼は口もて訴ふるばかりに心の苦悶(くもん)をその状(かたち)に顕(あらは)して憚(はばか)らざるなり。
 貫一は異(あやし)みつつも息を潜めて、猶(なほ)彼の為(せ)んやうを見んとしたり。宮は少時(しばし)ありて火燵に入りけるが、遂(つひ)に櫓(やぐら)に打俯(うちふ)しぬ。
 柱に身を倚せて、斜(ななめ)に内を窺ひつつ貫一は眉(まゆ)を顰(ひそ)めて思惑(おもひまど)へり。
 彼は如何(いか)なる事ありてさばかり案じ煩(わづら)ふならん。さばかり案じ煩ふべき事を如何なれば我に明さざるならん。その故(ゆゑ)のあるべく覚えざるとともに、案じ煩ふ事のあるべきをも彼は信じ得ざるなりけり。
 かく又案じ煩へる彼の面(おもて)も自(おのづか)ら俯(うつむ)きぬ。問はずして知るべきにあらずと思定(おもひさだ)めて、再び内を差覗(さしのぞ)きけるに、宮は猶打俯してゐたり。何時(いつ)か落ちけむ、蒔絵(まきゑ)の櫛(くし)の零(こぼ)れたるも知らで。
 人の気勢(けはひ)に驚きて宮の振仰ぐ時、貫一は既にその傍(かたはら)に在り。彼は慌(あわ)てて思頽(おもひくづを)るる気色(けしき)を蔽(おほ)はんとしたるが如し。
「ああ、吃驚(びつくら)した。何時(いつ)御帰んなすつて」
「今帰つたの」
「さう。些(ちつと)も知らなかつた」
 宮はおのれの顔の頻(しきり)に眺めらるるを眩(まば)ゆがりて、
「何をそんなに視(み)るの、可厭(いや)、私は」
 されども彼は猶目を放たず、宮はわざと打背(うちそむ)きて、裁片畳(きれたたふ)の内を撈(かきさが)せり。
「宮(みい)さん、お前さんどうしたの。ええ、何処(どこ)か不快(わるい)のかい」
「何ともないのよ。何故(なぜ)?」
 かく言ひつつ益(ますます)急に撈(かきさが)せり。貫一は帽を冠(かぶ)りたるまま火燵に片肱掛(かたひぢか)けて、斜(ななめ)に彼の顔を見遣(みや)りつつ、
「だから僕は始終水臭いと言ふんだ。さう言へば、直(ぢき)に疑深(うたぐりぶか)いの、神経質だのと言ふけれど、それに違無いぢやないか」
「だつて何ともありもしないものを……」
「何ともないものが、惘然(ぼんやり)考へたり、太息(ためいき)を吐(つ)いたりして鬱(ふさ)いでゐるものか。僕は先之(さつき)から唐紙(からかみ)の外で立つて見てゐたんだよ。病気かい、心配でもあるのかい。言つて聞(きか)したつて可いぢやないか」
 宮は言ふところを知らず、纔(わづか)に膝の上なる紅絹(もみ)を手弄(てまさぐ)るのみ。
「病気なのかい」
 彼は僅(わづか)に頭(かしら)を掉(ふ)りぬ。
「それぢや心配でもあるのかい」
 彼はなほ頭を掉れば、
「ぢやどうしたと云ふのさ」
 宮は唯胸の中(うち)を車輪(くるま)などの廻(めぐ)るやうに覚ゆるのみにて、誠にも詐(いつはり)にも言(ことば)を出(いだ)すべき術(すべ)を知らざりき。彼は犯せる罪の終(つひ)に秘(つつ)む能(あた)はざるを悟れる如き恐怖(おそれ)の為に心慄(こころをのの)けるなり。如何(いか)に答へんとさへ惑へるに、傍(かたはら)には貫一の益詰(なじ)らんと待つよと思へば、身は搾(しぼ)らるるやうに迫来(せまりく)る息の隙(ひま)を、得も謂(い)はれず冷(ひやや)かなる汗の流れ流れぬ。
「それぢやどうしたのだと言ふのに」
 貫一の声音(こわね)は漸(やうや)く苛立(いらだ)ちぬ。彼の得言はぬを怪しと思へばなり。宮は驚きて不覚(そぞろ)に言出(いひいだ)せり。
「どうしたのだか私にも解らないけれど、……私はこの二三日どうしたのだか……変に色々な事を考へて、何だか世の中がつまらなくなつて、唯悲くなつて来るのよ」
 呆(あき)れたる貫一は瞬(またたき)もせで耳を傾(かたぶ)けぬ。
「人間と云ふものは今日かうして生きてゐても、何時(いつ)死んで了(しま)ふか解らないのね。かうしてゐれば、可楽(たのしみ)な事もある代(かはり)に辛(つら)い事や、悲い事や、苦(くるし)い事なんぞが有つて、二つ好い事は無し、考れば考るほど私は世の中が心細いわ。不図(ふつと)さう思出(おもひだ)したら、毎日そんな事ばかり考へて、可厭(いや)な心地(こころもち)になつて、自分でもどうか為(し)たのかしらんと思ふけれど、私病気のやうに見えて?」
 目を閉ぢて聴(きき)ゐし貫一は徐(しづか)に□(まぶた)を開くとともに眉(まゆ)を顰(ひそ)めて、
「それは病気だ!」
 宮は打萎(うちしを)れて頭(かしら)を垂れぬ。
「然(しか)し心配する事は無いさ。気に為ては可かんよ。可いかい」
「ええ、心配しはしません」
 異(あやし)く沈みたるその声の寂しさを、如何(いか)に貫一は聴きたりしぞ。
「それは病気の所為(せゐ)だ、脳でも不良(わるい)のだよ。そんな事を考へた日には、一日だつて笑つて暮せる日は有りはしない。固(もと)より世の中と云ふものはさう面白い義(わけ)のものぢやないので、又人の身の上ほど解らないものは無い。それはそれに違無いのだけれど、衆(みんな)が皆(みんな)そんな了簡(りようけん)を起して御覧な、世界中御寺ばかりになつて了(しま)ふ。儚(はかな)いのが世の中と覚悟した上で、その儚い、つまらない中で切(せめ)ては楽(たのしみ)を求めやうとして、究竟(つまり)我々が働いてゐるのだ。考へて鬱(ふさ)いだところで、つまらない世の中に儚い人間と生れて来た以上は、どうも今更為方が無いぢやないか。だから、つまらない世の中を幾分(いくら)か面白く暮さうと考へるより外は無いのさ。面白く暮すには、何か楽(たのしみ)が無ければならない。一事(ひとつ)かうと云ふ楽があつたら決して世の中はつまらんものではないよ。宮(みい)さんはそれでは楽と云ふものが無いのだね。この楽があればこそ生きてゐると思ふ程の楽は無いのだね」
 宮は美き目を挙げて、求むるところあるが如く偸(ひそか)に男の顔を見たり。
「きつと無いのだね」
 彼は笑(ゑみ)を含みぬ。されども苦しげに見えたり。
「無い?」
 宮の肩頭(かたさき)を捉(と)りて貫一は此方(こなた)に引向けんとすれば、為(な)すままに彼は緩(ゆる)く身を廻(めぐら)したれど、顔のみは可羞(はぢがまし)く背(そむ)けてゐたり。
「さあ、無いのか、有るのかよ」
 肩に懸けたる手をば放さで連(しきり)に揺(ゆすら)るるを、宮は銕(くろがね)の槌(つち)もて撃懲(うちこら)さるるやうに覚えて、安き心もあらず。冷(ひややか)なる汗は又一時(ひとしきり)流出(ながれい)でぬ。
「これは怪(け)しからん!」
 宮は危(あやぶ)みつつ彼の顔色を候(うかが)ひぬ。常の如く戯るるなるべし。その面(おもて)は和(やはら)ぎて一点の怒気だにあらず、寧(むし)ろ唇頭(くちもと)には笑を包めるなり。
「僕などは一件(ひとつ)大きな大きな楽があるので、世の中が愉快で愉快で耐(たま)らんの。一日が経(た)つて行くのが惜くて惜くてね。僕は世の中がつまらない為にその楽を拵(こしら)へたのではなくて、その楽の為にこの世の中に活きてゐるのだ。若(も)しこの世の中からその楽を取去つたら、世の中は無い! 貫一といふ者も無い! 僕はその楽と生死(しようし)を倶(とも)にするのだ。宮(みい)さん、可羨(うらやまし)いだらう」
 宮は忽(たちま)ち全身の血の氷れるばかりの寒さに堪(た)へかねて打顫(うちふる)ひしが、この心の中を覚(さと)られじと思へば、弱る力を励して、
「可羨(うらやまし)いわ」
「可羨ければ、お前さんの事だから分けてあげやう」
「何卒(どうぞ)」
「ええ悉皆(みんな)遣(や)つて了(しま)へ!」
 彼は外套(オバコオト)の衣兜(かくし)より一袋のボンボンを取出(とりいだ)して火燵(こたつ)の上に置けば、余力(はずみ)に袋の口は弛(ゆる)みて、紅白の玉は珊々(さらさら)と乱出(みだれい)でぬ。こは宮の最も好める菓子なり。

     第六章


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