両国の秋
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著者名:岡本綺堂 

両国(りょうごく)の秋(あき)岡本綺堂     一「ことしの残暑は随分ひどいね」 お絹(きぬ)は楽屋へはいって水色の※※(かみしも)をぬいだ。八月なかばの夕日は孤城を囲んだ大軍のように筵張(むしろば)りの小屋のうしろまでひた寄せに押し寄せて、すこしの隙(すき)もあらば攻め入ろうと狙っているらしく、破れた荒筵のあいだから黄金(こがね)の火箭(ひや)のような強い光りを幾すじも射(い)込んだ。その箭をふせぐ楯のように、古ぼけた金巾(かなきん)のビラや、小ぎたない脱ぎ捨ての衣服(きもの)などがだらしなく掛かっているのも、狭い楽屋の空気をいよいよ暑苦しく感じさせたが、一座のかしらのお絹が今あわただしく脱いだ舞台の衣裳は、袂(たもと)の長い薄むらさきの紋付きの帷子(かたびら)で、これは見るからに涼しそうであった。 白い肌襦袢一枚の肌もあらわになって、お絹はがっかりしたようにそこに坐ると、附き添いの小女(こおんな)が大きい団扇(うちわ)を持って来てうしろからばさばさ[#「ばさばさ」に傍点]と煽(あお)いだ。白い仮面(めん)を着けたように白粉(おしろい)をあつく塗り立てたお絹のひたいぎわから首筋にかけて、白い汗が幾すじかの糸をひいてはじくように流れ落ちるのを、彼女(かれ)は四角に畳んだ濡(ぬ)れ手拭で幾たびか煩(うる)さそうに叩きつけると、高い島田の根が抜けそうにぐらぐらと揺らいで、紅い薬玉(くすだま)のかんざしに銀の長い総(ふさ)がひらひらと乱れてそよいだ。見たところはせいぜい十七、八のあどけない若粧(づく)りであるが、彼女がまことの暦(こよみ)は二十歳(はたち)をもう二つも越えていた。「ほんとうにお暑うござんすね」と、小女のお君(きみ)は団扇の手を働かせながら相槌(あいづち)を打った。「暑いせいか、木戸も閑(ひま)なようですね」「あたりまえさ。この暑さじゃあ、大抵の者はうだってしまわあね。どうでこんな時に口をあいて見ているのは、田舎者か、勤番者(きんばんもの)か陸尺(ろくしゃく)ぐらいの者さ」 手拭で目のふちを拭いてしまって、お絹は更に小さいふところ鏡をとり出して、まだらに剥げかかった白粉の顔を照らして視ていた。「中入(なかい)りが済むと、もう一度いつもの芸当をごらんに入れるか、忌(いや)だ、いやだ。からだが悪いとでもいって、お若(わか)のように二、三日休んでやろうかしら」「あら、姐(ねえ)さんが休んだら大変ですわ」と、お君はびっくりしたように眼を丸くした。「お若さんが休んでいるのはまだいいけれど、姐さんに引かれちゃあ、まったく大変だわ」と、茶碗に水を汲んで来た他の若い女が言った。「あたし達は、ほんの前芸(まえげい)ですもの」「前芸でたくさんだよ、この頃は……。ほんとうの芸当はもう少し涼風(すずかぜ)が立って来てからのことさ。この二、三日の暑さにあたったせいか、あたしは全くからだが変なんだよ」「そりゃあ陽気のせいじゃありますまい」と、地弾(ぢひ)きらしい年増(としま)の女が隅の方から忌(いや)に笑いながら口を出した。「向柳原(むこうやなぎわら)はどうしたのか、この二、三日見えないようですね」「二、三日どころか、八月にはいってからは、碌(ろく)に寄り付きゃあしないのさ、畜生、憶えているがいい」 お絹は眼にみえない相手を罵(ののし)るように呟(つぶや)いた。金地に紅い大きい花を毒々しく描いてある舞台持ちの扇で、彼女は傍にある箱を焦(じ)れったそうにとんとん[#「とんとん」に傍点]と叩くと、箱の小さい穴から青い頭の蛇がぬるぬると首を出した。「畜生、お前の出る幕じゃあないんだよ」 扇で頭を一つ叩かれて、蛇はおとなしく首をすくめて、もとの穴に隠れてしまった。「八つあたりね、可哀そうに……。ずいぶん邪慳(じゃけん)だこと」と、若い女が笑った。「あたしは邪慳さ。おまけにこの頃は癇(かん)が起ってじりじり[#「じりじり」に傍点]しているから、たれかれの遠慮はないんだよ」と、お絹は扇で又もやその箱を強く叩いたが、蛇はもう懲りたと見えて、今度は首を出さなかった。「お察し申しますよ」と、年増はすこし阿諛(おもね)るようにしみじみ言った。「向柳原はほんとうにどうしたんでしょう。まったく不実(ふじつ)ですね。そんな義理じゃないでしょうが……」「義理なんか知っている人間かい」と、お絹はさも憎いもののように扇を投げ捨てた。「今に見るがいい。どんな目に逢わせるか」 お君は左の手のひらにひと掴みの米をのせて来て、右の指さきで一粒ずつ摘(つま)みながら箱の穴のなかへ丁寧におとしてやると、青い蛇の頭が又あらわれた。ことし十五のお君ももう馴れているとみえて、別に気味の悪そうな顔もしていなかった。 舞台の方でかちかち[#「かちかち」に傍点]という拍子木(ひょうしぎ)の音がきこえると、お絹はそこにある茶碗の水をひと息にぐっと飲みほして、だるそうに立ちあがった。お君はうしろに廻って再び彼女に別の衣裳を着せかえた。 今度は前と違って、吉原の花魁(おいらん)の裲襠(しかけ)を見るような派手なけばけばしい扮装(いでたち)で、真っ紅な友禅模様の長い裾が暑苦しそうに彼女の白い脛(はぎ)にからみついた。お絹は緋縮緬の細紐(しごき)をゆるく締めながら年増の方を見かえった。「おばさん。きょうは三味線がのろかったぜ。もう少し早間(はやま)にね。いいかい」「はい、はい」 鬢(びん)をもう一度掻きあげて、お絹は悠々と楽屋を出ると、お君は蛇の箱をかかえてその後について行った。年増も三味線をかかえて起った。 あとに残った若い女はほっ[#「ほっ」に傍点]としたような顔をして、お絹が脱ぎ捨ての※※や帷子(かたびら)を畳み付けていると、今まで隅の方に黙って煙草をすっていた五十ぐらいの薄あばたのある男が、さっきの蛇のように頭をもたげて這い出して来て、若い女に話しかけた。「お花さん。姐さんはひどくお冠(かんむり)が曲がっているね」「おお曲がり。毎日みんなが呶鳴られ通しさ。やり切れない」と、お花は舌打ちした。「だが、無理じゃあねえ。向柳原が近来の仕向け方というのも、ちっと宜(よろ)しくねえからね」「まったく豊(とよ)さんの言う通りさ。けれども、姐さんもずいぶん無理をいってあの人をいじめるんだからね。いくら相手がおとなしくっても、あれじゃあ我慢がつづくまいよ」「それもそうだが……」と、豊という五十男はどっちに同情していいか判らないような顔をしてまた黙ってしまった。 この一座の姐さんと呼ばれている蛇つかいのお絹には、仁科林之助(にしなりんのすけ)という男があった。林之助は御直参(ごじきさん)の中でも身分のあまりよくない何某(なにがし)組の御家人(ごけにん)の次男で、ふとしたはずみからこのお絹と親しくなって、それがために実家をとうとう勘当されてしまった。低い家柄に生まれた江戸の侍としては、林之助はちっとも木綿摺(もめんず)れのしないおとなしやかな男であった。相当に読み書きもできた。殊にお家流(いえりゅう)を達者に書いた。 勘当された若い侍はすぐにお絹の家に引き取られた。お絹が可愛がっているものは、林之助と蛇とであった。こうして一年ほども仲よく暮らしているうちに、男はある人の世話で御納戸衆(おなんどしゅう)六百五十石の旗本杉浦中務(すぎうらなかつかさ)の屋敷へ中小姓(ちゅうごしょう)として住み付くことになった。窮屈な武家奉公などしないでも、お前さん一人ぐらいはあたしが立派にすごしてみせると、お絹はしきりにさえぎって止めたが、すなおな林之助もこの時ばかりは無理に振り切って出て行った。杉浦の屋敷は向柳原で、この両国と余り遠くもなかった。それはお絹が可愛がっている三匹の青い蛇がだんだん寒さに弱ってゆく去年の冬の初めであった。 旗本屋敷の中小姓がおもな勤めは、諸家への使番と祐筆(ゆうひつ)代理とであった。人品がよくてお家流を達者にかく林之助は、こうした奉公の人に生まれ付いていたので、屋敷内の気受けも悪くなかった。屋敷へはいってからも、林之助は用の間(ひま)をみてお絹にたびたび逢いに来た。東両国の観世物(みせもの)小屋の楽屋へも時どき遊びに来た。それが今年の川開き頃からしだいに足が遠くなって、お絹の家(うち)にも楽屋にも林之助の白い顔が見えなくなった。焼けるような真夏の暑さにむかって青い蛇は生き生きした鱗(うろこ)の色をよみがえらせたが、蛇つかいの顔には暗い影が始終まつわっていた。「どう考えても向柳原の仕打ちが其(そ)でねえようだ」と、豊は最後の判決をくだした。「ちっとぐれえ姐さんが無理をいったところで、そりゃあ柳に受けているだけの義理もあろうというもんだ。なにしろ、かれこれ一年の余もああして世話になった以上は……。おいらっちのようなこんな人間でも、人の世話になったことは覚えている。まして痩せても枯れても二本差しているんじゃねえか。堀川のお俊(しゅん)を悪く気取って、世話しられても恩に被(き)ぬは、あんまり義理が悪かろうと思うが……。ねえ、どんなもんだろう」「そりゃあこっちでばかり言うことで、男の方の身になったら又どんな理屈があるかも知れないからね」と、若いお花は冷やかに言って、扇で胸をあおいでいた。「お花さんはとかくに男の方の贔屓(ひいき)ばかりするが、こりゃあちっとおかしいぜ」「そうかも知れない」と、お花はつんと澄ましていた。「向柳原はいい男だからね」「姐さんより年下だろう」「ふたつ違いだから二十歳(はたち)さ」「色男盛りだな」と、豊は羨ましそうに言った。「世間に惚れ手もたくさんあらあね。姐さんばかりが女でもあるまい」「悟ったもんだね」「悟らなくって、こんな稼業ができるもんかね。姐さんはまだ悟りが開けないんだよ」「そうかしら。だって、蛇は執念深いというぜ」「蛇と人間と一緒にされて堪まるもんかね」「よう、よう。浮気者」と、豊は反り返って手をうった。「静かにおしよ。舞台へきこえらあね」 二人はだまって耳を澄ますと、舞台では見物の興をそそり立てるような、三味線の撥音(ばちおと)が調子づいて賑やかにきこえた。「姐さんはまったくこの頃は顔色がよくないね」と、豊は又ささやいた。「癇が昂(たか)ぶって焦(じ)れ切っているんだもの。あれじゃあからだにも障るだろうよ。あんなにも男が恋しいものかね」「浮気者にゃあ判らねえことさ」「知らないよ。禿(はげ)あたま、畜生、ももんじい[#「ももんじい」に傍点]」と、お花は扇を投げつけて笑ったが、また急に子細らしく顔をしかめて舞台の方を見かえった。 舞台の三味線の音は吹き消したように鎮まっていた。「おや、どうしたんだろう」 見物のざわめく声が俄(にわ)かにきこえた。舞台の上をあわてて駈けてゆく足音もみだれて響いた。一種の不安に襲われた二人は、思わず腰を浮かせて舞台の様子を窺おうとするときに、小女のお君が顔色を変えて楽屋へ駈け込んで来た。「大変。姐さんが舞台で倒れて……」 ふたりも飛び上がって舞台へ駈け出した。     二 向う両国の観世物小屋でこんな不意の出来事が人を驚かしたのは、文化三年の江戸の秋ももう一日でちょうど最中(もなか)の月を観(み)ようという八月十四日の昼(ひる)の七つ(四時)下がりであった。座がしらのお絹が舞台で突然に倒れたので、見物も楽屋の者も一時は驚いたが、お絹はすぐに楽屋へ担ぎ込まれた。あとは前芸のお花がすこし繋いでいて、それから太夫病気の口上(こうじょう)を述べて、いつもより早目に打ち出した。 お絹がほんとうに人心地の付いたのはそれから半※(はんとき)ばかりの後で、医者はやはり暑気あたりだといった。しかし、さのみに心配するほどのことはない、こうして静かに寝かして置けば自然におちつくに相違ないと気つけの薬をくれて行った。はじめは非常に驚かされた木戸の者も楽屋の者もこれで漸(ようや)くおちついて、見舞の口上などをいってだんだんに帰った。 お絹はもう目をあいていたが、それでもすぐに起きる元気はなかった。枕もとには前芸のお花と小女のお君のほかに地弾きのお辰と楽屋番の豊吉(とよきち)とが残っていた。楽屋にはほかにもう一人お若という前芸の女がいるが、これも暑気あたりで二、三日前から休んでいた。その上にお絹がまた病気引きということになれば、この小屋はあしたから休むよりほかはないと、関係の者はすぐにあしたの糧(かて)を気づかったが、こうなるとみんなも生き返ったような気になった。「まあ、まあ、なにしろよかった。この二、三日はあんまり残暑がひどいからさ。おまけにこの楽屋はちっとも風がはいらないんだからね」 お辰は病める太夫の枕もとをそっと離れて、楽屋のうしろに垂れている荒筵を少し押し分けると、夕日の光りはもう山の手の高台に隠れて、下町の空は薄い浅黄色に暮れかかっていた。上流(うわて)から一艘の屋根船がしずかに下って来て、大川の秋の水は冷やかに流れていた。近所の小屋もみな打ち出したとみえて、世間は洪水のあとのようにひっそりして、川向うの柳橋の桟橋(さんばし)で人を呼ぶ甲走(かんばし)った女の声が水にひびいて遠く聞えるばかりであった。「それでも日が落ちると、ずっと秋らしくなるね」と、お辰はもとの枕もとへかえって来た。そうして、お絹の青ざめた頬に団扇の風を軽く送りながら、その力のないひとみを覗き込むようにして訊いた。「気分はどうですえ。もういいの」 お絹はうなずくように眼をかすかに動かした。今お辰に声をかけられるまで、彼女の魂は夢とうつつの境にさまよいながら、男と自分との楽しい過去や、切(せつ)ない現在や、悲しい未来や、さまざまの恋の姿を胸の奥に描いていたのであった。 林之助が杉浦の屋敷へ住み付くときに、お前は再び侍になってこのわたしをどうしてくれると念を押したら、それは決して心配するな、時節が来ればきっと夫婦になる。蛇つかいの足を洗って相当の仮親(かりおや)をこしらえて、仁科林之助の御新造(ごしんぞ)さまと呼ばせてみせると、男は重い口で自分に誓った。しかしそれは一時の気休めで、自分が武家の女房になれようとは思えなかった。自分でもなりたいとは思わなかった。ここで一旦手を放せば、自分がつかんでいる男は鳥のように逃げてしまって、おそらく再び自分の手へは戻るまい。しょせん男と自分との縁は無いものだと、お絹は止めても止まらない男を出してやるときに、心の底では悲しく諦めていた。 しかし男はその後もたびたび逢いに来てくれた。そうして、時節を待ってくれ、きっと夫婦になると繰り返して言った。いくら嬉しいと思っても、お絹は窮屈な武家の女房にはなりたくはなかった。それでも男がそれほどに自分を思っていてくれるということに就いて、彼女は言い知れない楽しみと誇りをおさえることは出来なかった。彼女は諦めながらもやはり林之助に憬(こが)れぬいていた。男がこの頃ちっとも寄り付かないのを、彼女は病気になるほど怨んでいた。 上(かみ)の御用が忙がしいので屋敷が抜けられない。そういう余儀ない事情があるのを知りながら、男を怨むほどの初心(うぶ)でもない、わからずやでもないと、お絹は自分で自分の値踏みをしていた。しかし、林之助が姿をみせないのはほかに理由(わけ)があるらしい。その疑いが彼女の胸に強い根を張って、もしそれが果たして事実ならば、男を執り殺してやりたいほどに口惜(くや)しく思いつめていた。 うたがいの相手はやはりこの両国の列(なら)び茶屋のお里(さと)という娘で、その店へときどきに林之助が入り込んでいるという噂が、お辰やお花の口から彼女(かれ)の耳にもささやかれた。勿論、茶屋へ行って茶を飲んだからといって不思議はないが、このごろ自分のところへちっとも寄り付かないという事実に照らしあわせると、それが深い意味をもっているように疑われないでもなかった。お絹の疑いは一日増しに根強くなって、もうこの頃ではどうしてもそうなければならないと思われるようになってきた。「今に証拠を見つけてやる」と、彼女は心のうちで叫んでいた。お辰やお花にも鼻薬(はなぐすり)をやって、お里の店の様子を絶えず探らせようとしていた。 今も夢うつつでその事ばかりを考えていた。もう少し涼しくなると、彼女は鱗形(うろこがた)の銀紙を貼り付けた紅(あか)い振袖を着て、芝居で見る清姫(きよひめ)のような姿になって、舞台で蛇を使うことがある。自分が丁度その姿で男を追い掛けてゆくと、両国の川が日高川(ひだかがわ)になって、自分が蛇になって泳いでゆく。そんな姿がまぼろしのように彼女の眼の前に現われた。と思うと、自分の可愛がっている青い蛇が忽ち一丈あまりの大蛇(だいじゃ)になって、林之助とお里の二人を巻き殺そうとしている。男と女は悲鳴をあげて苦しみもがいている。そんなおそろしい景色が覗きからくり[#「からくり」に傍点]の絵のように彼女の眼の前に展開された。そのからくりの絵はまた変って、林之助と自分とが日傘をさして、のどかな春の日の両国橋を睦まじそうに手をひかれて渡ってゆく……。 それが悲しいか、怖ろしいか、気味がいいか、嬉しいか、お絹もそれをはっきりと意識するには、頭が余りにぼんやりしていた。「もう一度お茶を飲みませんか」と、お君が声をかけた。 お絹は又もや微かにうなずいた。薬を飲まされて、あたりが少し明かるくなったように思われた。彼女は肱(ひじ)をついて試みに起き直ったが、もう眩暈(めまい)がするようなことはなかった。さっきは舞台で蛇を頸(くび)に巻いていると、その蛇がだんだんに強く絞め付けて来るように思われて、しだいに眼がくらんで気が遠くなった。それから楽屋へ運び込まれるまで、彼女はなんにも知らなかったのである。多年可愛がって使い馴らしている蛇が自分を絞める筈がない。まったく暑気あたりで眼が眩(くら)んだものだと、お絹はその当時のありさまをおぼろげな記憶の中から呼び出した。「もう何ともありませんか」と、お花も摺り寄って訊いた。「もう大丈夫、みんなもびっくりしたろうね。堪忍しておくれよ」と、お絹は案外にはきはきした声で言った。「歩いて帰れますか。駕籠でも呼んでもらいましょうか」と、お花はまた訊いた。「そうねえ」 お絹は鳩尾(みずおち)をかかえるように俯向きながら考えていたが、ふと何物かがその眼先きをひらめいて過ぎたように、きっと顔をあげた。「なに、もういいだろう。あたし、あるいて帰るよ。すぐそこだもの」 酔いざめの人のように、まだ何となくふらふら[#「ふらふら」に傍点]する足元を踏みしめて、お絹は花魁(おいらん)のような紅い衣裳をぬぐと、肌襦袢は気味の悪いほどに冷たい汗にひたされていた。お君にからだを拭かせて、島田を解いて結び髪にして、銅盥(かなだらい)の水で顔を洗って、彼女は自分の浴衣に着かえた。ほかの者もみな帰り支度をした。あと片付けをしている豊吉だけを楽屋に残して、女たち四人は初めて外の風に吹かれた。 残暑は日の中のひとしきりで、暮れつくすと大川端には涼しい夕風が行く水と共に流れていた。高く澄んだ空には美しい玉のような星の光りが、二つ三つぱっちりとかがやいて、十四日の月を孕(はら)んでいる本所(ほんじょ)の東の空は、ぼかしたように薄明かるかった。川向うの列び茶屋ではもう軒提灯に火を入れて、その限りない蝋燭の火影が水に流れて黄色くゆらめいているのも、水辺の夜らしい秋の気分を見せていた。「じゃあ、お大事に……。あしたまた……」 お辰とお花はお絹に挨拶して別れた。お花は帰りに深川のお若の家へ寄って、病気の様子をみて来ると言った。「そうしておくれよ。あたしだって又なんどき倒れるか知れないから」 お絹はお君に蛇の箱を持たせて本所の方へ行きかけたが、すぐに立ち停まって明るい広小路の方を頤(あご)で指し示した。そうして、両国橋の方へ引っ返すと、お君も素直に黙って付いて行った。外の涼しい風に吹かれてお絹は拭ったようにさわやかな気分になったが、それでも足元はまだ何となくふら付いているので、時どきに橋の欄干によりかかって、なにを見るともなしに川のおもてを見おろしていた。一体どこまで行くつもりか、お君にはちょっと見当が付かなかった。 橋を渡り尽くしてお君も初めてさとった。お絹は列び茶屋の不二屋(ふじや)を目指しているらしく、軒提灯の涼しい灯のあいだを横切って通った。まだ宵ながらそこらには男や女の笑い声がきこえて、麦湯(むぎゆ)の匂いが香ばしかった。不二屋の軒提灯をみると、お絹は火に吸い寄せられた灯取虫(ひとりむし)のように、一直線にその店へはいって行った。ふたりは床几(しょうぎ)に腰をかけると、若い女が茶を汲んで来た。それが娘のお里でないことはお絹も知っているので、さらに身をねじ向けて店のなかを窺うと、お里はほかの客となにか笑いながら話をしていた。 お里はことし十八で、とかくにいろいろの浮いた噂を立てられ易いここらの茶屋娘のなかでも、初心(うぶ)でおとなしい女という評判を取っていることは、お絹もかねて聞いていた。林之助は今年二十歳(はたち)になるけれども、まるで生息子(きむすこ)のようなおとなしい男であった。おとなしい男とおとなしい女――お絹は林之助とお里とを結びつけて考えなければならなかった。彼女は黙って茶を飲みながら、絶えず後目(しりめ)づかいをして、お里の髪形から物言いや立ち振舞いをぬすみ見ていた。「たいへんに涼しくなりましたねえ」と、お君はわれ知らずに口から出たように言った。 ことしは残暑が強いので、お絹もお君もまわりの人たちもみな白地を着ていた。その白い影がなんとなく薄ら寂しく見えるほどに、今夜の風は俄かに秋らしくなった。     三 お絹は茶代を置いて床几を立った。「もうちっとそこらをぶら付いて見ようじゃないか」と、彼女はお君を見返った。「それにしてもお腹(なか)がすいたね。家(うち)へ帰っても仕様がないから、そこらで鰻(うなぎ)でも食べようか。つまらないことを考えていると人間は痩せるばかりだ。ちっと脂っこい物でも食べて肥(ふと)ろうじゃないか」「あら、姐さん肥りたいの」と、お君は暗いなかで驚いた顔をしているらしかった。「お前も肥るほうがいいよ。あたしのように痩せっぽちだと、さっきのように直きにぶっ倒れるよ」 こう言ううちにもお絹の眼には、小肥りに肥ってやや括(くく)れ頤(あご)になっている若いお里の丸顔がありありと映った。地蔵眉の下に鈴のような眼をかがやかしている人形のような顔――それがお絹には堪まらなく可愛く思われると同時に、堪まらなく憎いものにも思われた。「何だってあたしは、あいつの顔をわざわざ見に行ったんだろう」 ひょっとすると、そこに林之助を見つけ出すかも知れないと思わないでもなかったが、お絹はそれよりもまずなんとなくお里の様子が見たかったのであった。見てどうするということもない。まさかに喧嘩を売るわけにもいかない。大儀(たいぎ)な足を引き摺って長い橋を渡って、飲みたくもない茶を飲みに来たのは、自分ながら馬鹿ばかしいようにも思われた。お絹は列び茶屋や夜店の前を通りぬけて、広小路最寄(もよ)りの小さい鰻屋の二階へあがった。「もう気分はすっかりいいんですか」と、お君はまた訊いた。「ああ、もう大丈夫だよ」 お君に酌をさせて、お絹は酒を飲んだ。酒は舌に苦(にが)いようで味がなかった。やっぱりからだがよくないのかしら――こう思うと、彼女はそぞろに寂しくなった。女が二十二にもなって、ほとんど人まじりも出来ないような、こんな稼業をしていて、末はどう成り行くことであろう。去年の冬、林之助と別れてから、お絹はめっきりと肉の衰えを感じるようになった。さっきのようなことがたびたび続いたら――と、彼女はうしろの壁に映る自分の痩せた影法師(かげぼうし)を思わず見返らねばならなかった。 燭台の蝋(ろう)は音もせずに流れた。あしたの十五夜の用意であろう、小さい床の間にはひとたばの薄(すすき)が生けてあって、そのほの白い花のかげには悲しい秋が忍んでいるように思われた。お絹はいよいよ寂しくなった。「君ちゃん。なんだか陰気だから、そこの窓をおあけよ」 お君があけた肱掛け窓から秋の夜風は水のように流れ込んだ。となりの露地口の土蔵の白壁は今夜の月に明かるく照らされて、屋根の瓦には露のようなものが白く光っていた。お絹は林之助が発句(ほっく)を作ることをふと思い出した。あしたの晩は月を観て「名月や」などと頻(しき)りに首をひねることだろうと可笑(おか)しいようにも思われた。それとなくお里と約束して、どこへか月見にでも行くだろうかと、急に腹立たしくもなった。 こんな子供を相手にしても仕方がないと思いながらも、お絹はおみくじを探るような気でお君に訊いてみた。「お前、林さんが不二屋へ行くと思うかい。そうして、あのお里さんと仲よくしていると思うかい」「そんなこと知りませんわ」と、お君は食べかけた鰻のしっぽを口から出したり入れたりしながら答えた。「だけれども、そんなことはないでしょう。誰だって本当に見た人はないんですもの。お花さんは誰のことでもそう言うんですから」 お花にそんな癖のあることは事実であった。男と女とが少し馴れなれしく詞(ことば)をかわしていると、お花は必ずこれを意味ありげに解釈しなければ気が済まなかった。林之助とお里との名を結びつけて、お絹の前に黒い影を投げ出したのもお花が第一の口切りであった。しかしお花が自分に対してそんな無責任な嘘をつこうとは、お絹もさすがに信じられなかった。「嘘ですよ。きっと嘘ですよ」と、お君は鰻をのみ込んでしまってまた言った。 子供は正直である。正直なお君の口からこういう保証の詞(ことば)をきかされて、お絹は頼りないなかにも何だか心強いようにも感じた。 苦(にが)い酒も無理に飲んでいるうちに幾らか酔いがまわってきて、自分ひとりでくよくよ考えていても詰まらないというような浮いた気も起った。このあいだから自分の小屋へ足ちかく見物にくる若旦那ふうの男があって、それは浅草の質屋の息子だとお花が話したことも思い出された。その男もまんざらの男振りではないなどとも考えた。自分が舞台から情(じょう)のこもった眼を投げれば、かれを捕虜(とりこ)にすることはさのみむずかしくもないというような、一種の誇り心も起った。そうは思っても、やはり林之助が恋しかった。 お絹とお君が夜露にぬれて一つ目の家へ帰り着いたのは、その夜の五つごろ(午後八時)であった。家には毎日留守番をたのむ隣りのお婆さんが眠そうな眼をして待っていた。お婆さんはお土産の折(おり)を貰って喜んで帰った。「君ちゃん。戸をお閉めよ。もうすぐに寝ようじゃないか」「はい」 お君は素直に格子を閉めにいった。お君は近所の大工の娘で、家の都合がよくないのと、現在の母は生みの親でないのとで、去年からお絹の家(うち)へ弟子とも奉公人とも付かずに預けられているのであった。継(まま)しい母の手に育てられただけに、年の割には何かとよく気が付くので、お絹も彼女を可愛がっていた。「お寝(やす)みなさい」 眠い盛りのお君は床にはいると直ぐに又たたき起された。寝ぼけまなこを擦(こす)りながら格子をあけて出ると、外には若い男が忍ぶように立っていた。隣りと隣りとの庇合(ひさしあわ)いから落ち込んでくる月のひかりを浴びて、彼の横顔は露を帯びたように白く見えた。「あら、林さん」「たいへんに早寝だね」と、林之助は笑っていた。「姐さんはもう寝たのか」 お君にあとを閉めさせ、林之助はずっと奥の六畳へ通ると、お絹はもう寝床から脱け出していた。 林之助は主人の使いで割下水(わりげすい)まで来たので、その帰りにちょっと寄ってみたのだと言った。お君が火消し壺からまだ消えない火種を拾い出して来ると、林之助はとりあえず一服すった。「どうしたい。顔の色が悪いじゃないか」「きょうは舞台で倒れたの」「そりゃあいけない。どうしたんだ」「なに、すぐに癒ったの。やっぱり暑気あたりだってお医者がそう言って……」「なにしろ、大事にするがいいぜ。悪いようならば無理をしないで、二、三日休んで養生した方がいいだろう」「いいえ、それほどでもなかろうと思っているの。いっそひと思いに死んだ方がいいかも知れない」 こんな問答をしているうちにも、お絹は眼にみえない何物をか相手の顔色から見いだそうと努めているように、絶えずその顔をじっと見つめていると、男は女のひとみを恐れるように行燈(あんどう)の暗い方へ眼をそむけていた。 女はこの頃の無沙汰について正面から男を責めようともしなかった。男も言いそそくれたようなふうで、自分からはなんにも言い出さなかった。お絹は長い煙管(きせる)でしずかに煙草をすっていた。「あたし、考えると、さっきあのままで死んでしまった方が仕合せだったかも知れない。生きていたところで、あんまり面白い世の中でもなし、ひと思いに死んでしまった方が未練が残らなくっていい」 ふた口目には死にたいと繰り返して言うお絹の料簡(りょうけん)を、林之助も大抵は察していた。そんなことを言って自分の気を引いて見るのだということは能く判っていた。ここでうっかりした返事をすると、それを言いがかりに執念深く絡(から)みついて来るお絹のいつもの癖を知っている彼は、なるべく逆らわないように避けているのを唯一の楯(たて)と心得ているので、今夜もおとなしく黙って聞いていた。「君ちゃん。お酒は無いかい」と、お絹は次の間へ声をかけた。「いや、そうしちゃあいられない。もうすぐに帰らなけりゃあならないんだ。あんまり無沙汰をしているから、唯ちょいと寄って見たのさ。もう五つ過ぎだ。早く帰らなけりゃならない。御用人(ごようにん)がなかなかやかましいから」と、林之助は煙草をそろそろ仕舞いかかった。「それだから屋敷者は忌(いや)さ。あたしがあんなに止めたのに、お前さんなぜ行ったの。御用人に叱られたって構わない。屋敷をしくじるように、あたしはふだんから祈っているんだから」「冗談じゃあねえ」と、林之助は仕方なしに笑った。「いつも言う通り、おれも侍の子だ。いつまでもお前の厄介になって唯ぶらぶらしているのもあんまり口惜(くや)しい、どうにかまあ自分だけの身(み)じんまく[#「じんまく」に傍点]は自分でしなけりゃあならないと思って、窮屈な屋敷奉公も我慢しているんだ。おれの料簡も今にわかる。まあ、お互いにもう少しの辛抱だ」「へん、久しいものさ」 お絹は煙管を取って又すい始めた。そうして、横眼で男の顔をじろじろ[#「じろじろ」に傍点]眺めていた。その蛇のような眼が男にはおそろしかった。 お絹は色の青白い細面(ほそおもて)で、長い眉と美しい眼とをもっていた。林之助も昔はその妖艶なひとみの力に魅せられたのであった。しかもだんだんと深く馴染むに連れて、殊に一つの屋根の下に朝夕一緒に暮らすようになってから、彼女の妖艶な眼の底に言い知れぬ一種のおそろしい光りの忍んでいることを林之助は漸く発見した。自然の生まれ付きか、あるいは多年もてあそんでいる蛇の感化か、いずれにしてもお絹が蛇のような悽愴(ものすご)い眼をもっていることは争われなかった。お絹が天明五年巳年(みどし)の生まれであるということも思いあわされて、林之助は迷信的にいよいよ怖ろしくなった。彼がふたたび窮屈の武家生活に立ち戻ろうと思い立ったのも、実はこの怖ろしい眼から逃がれようとするのが第一の目的であった。 しかし林之助は、彼女の怪しい眼を恐れると同時に、彼女のあたたかい情けを忘れるほどの不人情者ではなかった。彼はお絹を振り放そうとは思わなかった。さりとて余りに接近するのも不安であった。つづめて言えば、不即不離(つかずはなれず)というような甚だあいまいな態度で、二人の関係を相変らず繋ぎ合わせて行こうと考えているのであった。恋に対してこうした不徹底な態度を取るということは、決して相手を満足させる方法ではなかった。お絹の胸にいろいろの疑いや妬みの芽をふくのも無理ではなかった。 今夜もそのおそろしい眼と向き合っている。 林之助が努めて相手の視線の外に逃がれ出ようと顔をそむけているのも、彼としてはまことによんどころない事情であった。それが久し振りで逢ったお絹にはなんだか物足りないような、疑わしいもののように思われてならなかった。 二人は又しばらく黙っていた。縁の下では虫の声がきこえた。     四「林さん。お前さん、お互いにこうしていては詰まらないとお思いでないかえ」 お絹はしずかに煙管をはたきながら、またしても男のこころを探るような疑いぶかい眼をして訊いた。林之助もまともに向き直らないわけにいかなくなった。「つまる、つまらないの論じゃない。いつも言う通り、今がお互いの辛抱どきだ。そりゃあこうして離れていれば、おれだって寂しいこともある。お前だってああ詰まらないと思うこともあるだろう。しかしそこが辛抱だよ。おれだっていつまでこうしちゃあいない。そのうちにはだんだん出世して給人(きゅうにん)か用人(ようにん)になれまいものでもない。そのあかつきにはお前を引き取るとも、又おまえが窮屈でいやだと言うならばそっと何処へか囲って置くとも、そりゃあ又どうにでも仕様があろうというものじゃあねえか」 林之助の言うことは大道(だいどう)うらないの講釈のように嘘で固めていた。彼の奉公している杉浦中務の屋敷は六百五十石で、旗本のうちでもまず歴々の分に数えられているので、用人や給人はすべて譜代(ふだい)である。渡り奉公の中小姓などが並大抵のことでその後釜に据われる訳のものではない。林之助も無論それを知らない筈はなかったが、この場合、まずこんなことでも言って女の手前をつくろって置くよりほかはなかった。 そうした気休めはもう幾たびか聞き慣れているので、お絹も身に沁みて聞こうとはしなかった。しかしそんな見え透いた嘘をついてまでも、自分の機嫌を取るように努めているらしい男の心は、やはり憎くなかった。「だけど、お前さん。歴々のお旗本の御用人さまが両国の橋向うの蛇つかいを御新造(ごしんぞ)にする。そんなことが出来ると思っているの」「表向きは無論できねえ理屈さ。だが、一旦綺麗に足を洗って置いて、それから担当の仮親(かりおや)を拵(こしら)えりゃあ又どうにか故事(こじ)つけられるというものだ。又それが小(こ)面倒だとすれば、今も言う通りどこへか囲っておく。つまり二人が末長く添い通せりゃあ、それで別に理屈はねえ筈だ」 これも去年の冬から何度繰り返しているか判らない。お絹も何度聞いているか判らない。二人が顔を突きあわせれば、いつもこの同じような問題を中心にして、男は的(あて)になりそうもないことを言い、女も的にならないことを知りながら渋々納得(なっとく)している。その間には言い知れない悩みと寂しさとを感じていながらも、お絹は切るに切れない糸に引き摺られていた。 今夜のお絹には、まだほかに言いたいことがあった。列び茶屋のお里のことが胸いっぱいにつかえていながらも、確かな手証(てしょう)を見とどけていない悲しさには、さすがに正面から切り出すのを差し控えていなければならなかった。それでも、何とかしてこの新しい問題を解決した上でなければ、男を今夜このままに帰したくないので、彼女はだまって俯向きながら、林之助を無理にひきとめる手だてをいろいろに工夫していた。 男も立端(たちは)を失ったように、一度しまいかかった袂落(たもとおと)しの煙草入れを又あけて、細い銀煙管から薄いけむりを吹かせていたが、その吸い殻をぽん[#「ぽん」に傍点]と叩くのをきっかけに、今度は思い切って起ちあがった。「まあ、からだを大事にするがいい。又近いうちに来るから」「列び茶屋へばかり行かないでね、ちっとこっちへも来てくださいよ」 思い余ったお絹の口から忌味(いやみ)らしいひと言がわれ知らずすべり出ると、林之助は少し顔をしかめて立ち停まった。「列び茶屋へ行く……。誰が」「お前さんがさ。みんな知っているよ」 乗りかかった船で、お絹もこう言った。「へん、つまらねえことを言うな」 問題にならないというような顔をして、男はすたすた[#「すたすた」に傍点]出て行こうとした。 そのうしろ姿をじっと見つめているうちに、お絹は物に憑(つ)かれたように俄かにむらむら[#「むらむら」に傍点]と気が昂(た)って来た。彼女は不意に起ちあがって長火鉢の角につまずきながら、よろけかかって男の肩にしがみついた。「林さん。おまえさん、ずいぶん薄情だね」 だしぬけに鋭いヒステリックの声を浴びせられて、気でも違いはしないかというように、林之助は呆気(あっけ)にとられた顔をしてお絹をみると、彼女のものすごい眼は上吊(うわづ)っていた。その声はもう嗄(か)れていた。「お前さん、あたしというものをどうして呉れるつもりなの。おまえさんを屋敷へやった以上は、どうで二人のあいだに長い正月のないことはあたしも大抵あきらめていたけれども、目と鼻の広小路へ来て列び茶屋の娘とふざけ散らしている。そんなことをされて、おとなしく見物しているあたしだと思っているのかえ」と、お絹は早口に言った。「いつもいう通り、蛇は執念ぶかいんだから、そう思っておいでなさいよ」「列び茶屋の娘……。そりゃあ思いもつかねえ濡衣(ぬれぎぬ)だ。なるほど友達のつきあいで、列び茶屋の不二屋へ此中(このじゅう)ちょいちょい遊びに行ったこともあるが、なにも乙に絡(から)んだことを言われるような覚えはねえ。こう見えてもおれは大川の水、あっさりと清いものだ」「悪くお洒落でないよ」と、お絹は男の肩を一つ小突いた。「お前さんが不二屋のお里とトチ狂っていることは両国でみんな知っているんだよ。さあ、これからあたしと一緒に不二屋へ行って、あたしの眼の前でお里と手を切っておくれ」 林之助はいよいよ煙(けむ)にまかれた。彼が友達と一緒にこのごろ列び茶屋へ入り込むことは事実であった。不二屋のお里とも馴染みであった。しかしどう考えてもお絹からこんな難題を持ち掛けられるような疚(やま)しい覚えはなかった。「馬鹿だな。誰かにしゃく[#「しゃく」に傍点]られたと見える」と、林之助はなまじ言い訳をしない方が却って自分の潔白を証明するかのように、ただ軽く笑っていた。 それでもお絹はどうしても肯(き)かなかった。彼女はまったく気でも違ったように男にむかって遮二無二(しゃにむに)食ってかかって、邪(じゃ)が非(ひ)でもこれから不二屋へ一緒に行けと言った。彼女の蛇のような眼はいよいよものすごくなって、眼尻には薄紅い血がにじんで来たように見えた。言い訳するよりも、なだめるよりも、林之助は一刻も早くこの怖ろしい眼から逃がれなければならなかった。彼は挨拶もそこそこにして、おびえた心をかかえながら格子の外へ逃げるように出て行ってしまった。「あれ、姐さん」 跣足(はだし)で追って出ようとするとお絹を、お君はころげるように駈けて来て抱き止めた。「姐さん、お待ちなさいよ。林さんはもう遠くへ行ってしまったわ」 お絹は燃えるような息をついて土間に突っ立っていた。「姐さん、嘘よ、嘘よ。お花さんの言うことはみんな嘘よ。林さんはなんにも知りゃあしないのよ。列び茶屋の娘なんて皆んな嘘よ。きっと嘘に相違ないのよ」 嘘という字を幾つも列べて、お君はおどおど[#「おどおど」に傍点]しながらも一生懸命にお絹をなだめようとすると、お絹は解けかかった水色の細紐(しごき)を長く曳きながら、上がり框(がまち)へくずれるように腰をおとした。「寝衣(ねまき)のまんまでこんなところにいると悪いわ。早く内へおはいんなさいよ」 台所から雑巾(ぞうきん)を持って来て、お君はお絹の足を綺麗に拭いてやって、六畳の寝所(ねどこ)の方へいたわりながら連れ込んだ。お絹は枕を抱えるようにして蒲団の上に俯伏したが、その痩せた肩に大きい波を打っているのを、お君は不安らしく眺めていた。「さっきのお薬をあげましょうか」「いいよ、いいよ。あたしに構わずに寝ておしまいよ」と、お絹はうるさそうに俯向きながら言った。 お君は起って格子を閉めに行ったが、やがて引っ返して来てお絹の枕もとに坐った。縁の下でじいじい[#「じいじい」に傍点]と刻んでゆくような虫の声が又もや耳についた。どこかの隙き間から忍び込んで来る夜の冷たい風に、行燈のうす紅い灯が微かにちろちろ[#「ちろちろ」に傍点]と揺らめいて、痩せおとろえた秋の蚊がその火影に迷っていた。「もうお前、お寝よ。あしたの朝、眠いから」「あたし、今夜は起きていますわ」「あたしはもういいんだよ」「でも、こんなに癇がたっていて、どんなことがあるかも知れませんもの。姐さん、ほんとうにからだを大事にしてくださいよ」「いいよ、判っているよ」と、お絹は邪慳(じゃけん)に叱りつけた。 叱られてもお君はまだそこにしょんぼりと坐っていた。露地のなかで犬の声がきこえたので、もしや林之助がまた引っ返して来たのではないかと、お君はそっと起って行って雨戸の外に耳を澄ましたが、犬の声はしだいに遠くなって、溝板(どぶいた)の上には誰も忍んでいるような気配もきこえなかった。「誰か来たの」と、お絹は急に顔をあげた。「いいえ」と、お君は枕もとへそろそろとまた戻って来た。「お前、いい加減にしてお寝よ」「ええ」と、お君はまだ渋っていた。「言うことを聞かないと承知しないよ」 枕をつかんで叩き付けそうな権幕をみせても、お君はまだ強情に動かなかった。黙って坐っている彼女の小さい眼からは白いしずくがほろほろ[#「ほろほろ」に傍点]と流れていた。それを見ると、お絹は急に堪まらなくなったように、蒲団の上から滑り出してお君のからだを横抱きにしっかりと抱えた。「君ちゃん、堪忍しておくれよ。あたし、この頃は時どきに癇が起るんだからね。もうなんにも叱りゃあしないよ。ね、ね、いいだろう。これからはいつまでも仲よくしようね」 お君の濡れた顔をじっと見つめながら、お絹は自分も子供のようにしくしくと泣き出した。なんとも言い知れない悲しさが胸の底から滲(にじ)み出して、お君も抱かれながらに啜(すす)り泣きをやめなかった。     五 お絹のおそろしい眼から逃れた林之助は、大川端(おおかわばた)まで来て初めてほっとした。十四日の大きい月はなかぞらに真ん丸く浮き上がって、その影をひたしている大川の波は銀(しろがね)を溶かしたように白くかがやきながら流れていた。長い橋の上には、雪駄(せった)の音もしないほどに夜露がしっとり[#「しっとり」に傍点]と冷たく降りていた。林之助はそのしめった夜露を踏んで急ぎ足に橋を渡って行った。「門番のじじいにまた忌(いや)な顔をされるのか」 そんなことを考えながら林之助は広小路へ出ると、列び茶屋でももう提灯をおろし始めたとみえて、どこの店でも床几を片づけていた。玉蜀黍(とうもろこし)や西瓜や枝豆の殻(から)が散らかっているなかを野良犬がうろうろさまよっていた。「今晩は。今お帰りでございますか」 自分の前をゆく若い女がふと振りむいて丁寧に挨拶したので、林之助も足を停めてよく見ると、女は不二屋のお里であった。「やあ、今晩は。里(さあ)ちゃんの家(うち)はこっちへ行くの」「ええ、外神田で……」 向柳原へ帰る男と外神田へ帰る女とは、途中まで肩をならべて歩いた。お絹から思いもよらない疑いを受けている林之助は、こうして夜ふけにお里と繋がって歩いていることが何だか疚(やま)しいように思われてならなかった。しかし先方から馴れなれしく近寄って来るものを、まさかに置き去りにして逃げて行くほどの野暮(やぼ)にもなれなかった。二人は軽い冗談などを言いながら連れ立って歩いた。「いいお月さまですことね」と、お里は明るい月をさも神々(こうごう)しいもののように仰いで見た。「ほんとうにいい月だ。あしたのお月見はどこも賑やかいだろう。里ちゃんも船か高台か、いずれお約束があるだろうね」「いいえ、家(うち)がやかましゅうござんすから」 家がやかましいのか、本人の生まれ付きか、とにかくにお里が物堅い初心(うぶ)な娘であることは林之助も認めていた。彼はお絹の妖艶な顔と、お里の人形のような顔とを比較して考えた。執念ぶかそうな蛇の眼と、無邪気らしい鈴のような眼とを比較して考えた。そうして、なんにも知らずに人から呪われているお里が気の毒にも思われた。 お絹は今夜自分を不二屋へ引き摺って行って、彼女の見る前でお里と手を切らせると言った。勿論、それは一時の言い懸りではあろうが、もし果たしてその通りに二人が不二屋へ押し掛けて行ったら、お里は一体どうするであろう。それを考えると、林之助はおかしくもあり、また気の毒でもあった。そのお里はなんにも知らずに自分と一緒にあるいている。人目には妬(ねた)ましく見えそうなこの姿を、お絹が見たらなんと思うであろう。林之助は自分のうしろから蛇の眼がじっと覗いているようにおののかれて、俄かにあたりを見まわすと、明るい月は頭の上から二人をみおろして、露の沁み込んだ大道の上に二つの影絵を描いていた。夜ももう更けているらしかった。「いつも一人で帰るの」「いいえ」 列び茶屋の或る家に奉公しているお久(ひさ)という女がやはりお里の近所に住んでいるので、毎晩誘いあわせて一緒に帰ることにしていたが、きょうはその女が店を休んだので、お里は連れを失って寂しく帰る途中であった。彼女が顔馴染みの林之助に声をかけたのも、ひっきょうは帰り途のさびしいためであった。この頃、柳原の堤(どて)に辻斬りが出るという物騒な噂があるので、お里はそんなことを言い出して足がすくむほど顫(ふる)えていた。しかしそれは闇夜のことで、昼のように明るい月夜に辻斬りなどがめったに出るものではないと、林之助は力をつけるように言い聞かせた。向柳原へ帰る彼は、堤の中途から横に切れて、神田川を渡らなければならなかった。「わたしはあっちへいくんだから、ここでお別れだ。まあ気を付けて……」「はい。ありがとうございます」と、お里は頼りないような声で挨拶した。 それが何となしに哀れを誘って、林之助はいっそ彼女の家まで一緒に送って行ってやろうかとも思ったが、自分も屋敷の門限を気遣っているので、このうえ道草を食っているわけにはいかなかった。そのままお里に別れて橋を渡り過ぎながらふと見かえると、堤の柳は夜風に白くなびいて、稲荷のやしろの大きい銀杏(いちょう)のこずえに月夜鴉(がらす)が啼いていた。白地の浴衣を着て俯向き勝ちに歩いてゆくお里のうしろ姿が、その柳の葉がくれに小さく見えた。 五、六間もゆき過ぎたかと思うと、あずま下駄のあわただしい音が、うしろから林之助を追って来た。振り向いてみると、それはお里であった。彼女は林之助にわかれると急に寂しく心細くなったので、ちっとぐらい廻り路をしてもいいから、自分も柳原堤をまっすぐに行かずに、林之助と一緒に向柳原へまわって、それから外神田へ出ようというのであった。ふたりはまた一緒にあるき出した。「しかし、向柳原まで来ちゃあ余程の廻り路になる。じゃあ、いっそわたしがお前の家まで送ってあげよう」と、林之助も見かねて言い出した。 お里も初めは辞退していたが、しまいには男の言うことをきいて、外神田の家まで送って貰うことになった。月はいよいよ冴え渡って、人通りの少ない夜の町をさまよっているたった二人の若い男と若い女をあざやかに照らした。ふたりの肌と肌は夜露にぬれて、冷たいままに寄り添ってあるいた。あるく道々で、お里は自分の身の上などを少しばかり話し出した。 お里は不二屋の娘ではなかった。不二屋の株を持っている婆さんはもう隠居して、日本橋の或る女が揚げ銭で店を借りている。お里はその女の遠縁に当るので、おととしの夏場から手伝いに頼まれて、外神田の自宅(うち)から毎晩かよっているが、内気の彼女は余りそんな稼業を好まない。自宅にはお徳という母があって、これも娘に浮いた稼業をさせることを好まないのであるが、幾らか稼いで貰わなければならない暮らしむきの都合もあるので、仕方がなしに娘を両国へ通わせている。七年前に死んだ惣領(そうりょう)の息子が今まで達者でいたらとは、母が明け暮れに繰り返す愚痴であった。「よけいなお世話だが、早くしっかりした婿でも貰ったらよさそうなもんだが……」と、林之助は慰めるように言った。「なんにも株家督(かぶかとく)があるじゃなし、なんでわたくしどものような貧乏人のところへ婿や養子に来る者があるもんですか」と、お里はさびしく笑った。「自分ひとりならば、いっそ堅気の御奉公にでも出ますけれど、母を見送らないうちはそうもまいりません」 お里の声は湿(うる)んできこえたので、林之助はそっと横顔を覗いてみると、彼女は月の光りから顔をそむけて袖のさきで眼がしらを拭いているらしかった。おとなしい林之助の眼にはそれがいじらしく悲しく見えた。そうして、こういう哀れな娘を呪(のろ)っているお絹の狂人染みた妬みが腹立たしいようにも思われて来た。 不二屋へ毎晩はいり込む客の八分通りは皆んなこのお里を的(まと)にしているのであるが、彼女がこうした悲しい寂しい思いに沈んでいることは恐らく夢にも知るまい。現に自分を誘ってゆく諸屋敷の若侍たちも「どうだ、いい旦那を世話してやろうか」などと時どきからかっている。自分も毒にならない程度の冗談をいっている。お里は丸い顔に可愛らしいえくぼをみせて、いい加減に相手になっている。 それは茶屋女の習いと林之助も今まで何の注意も払わずにいたが、今夜は彼女の身の上話をしみじみと聞かされて、もううっかりと詰まらない冗談も言えないような気になって、林之助もおのずと真面目な話し相手にならなければならなくなった。 二人の話し声はだんだんに沈んでいった。問われるに従ってお里はいろいろのことを打ち明けた。七年前に死んだ兄のほかには、ほとんど頼もしい身寄りもないと言った。不二屋のおかみさんも遠縁とはいえ、立ち入って面倒を見てくれるほどの親身(しんみ)の仲でもないと言った。母は賃仕事(ちんしごと)などをしていたが、それも病身で近頃はやめていると言った。お里の話は気の弱い林之助の胸に沁みるような悲しい頼りないことばかりであった。 林之助は自分とならんでゆくお里の姿を今更のように見返った。紅(あか)いきれをかけた大きい島田髷(まげ)が重そうに彼女の頭をおさえて、ふさふさした前髪にはさまれた鼈甲(べっこう)の櫛やかんざしが夜露に白く光っていた。白地の浴衣(ゆかた)に、この頃はやる麻の葉絞りの紅い帯は、十八の娘をいよいよ初々(ういうい)しく見せた。林之助はもう一度お絹とくらべて考えた。お里はとかく俯向き勝ちに歩いているので、その白い横顔を覗くだけでは何となく物足らないように思われた。「どうもありがとうございました。さぞ御迷惑でございましたろう」 外神田まで送り付けて、路の角で別れるときにお里は繰り返して礼をいった。自分の家はこの横町の酒屋の裏だから、雨の降る日にでも遊びに来てくれと言った。それがひと通りのお世辞ばかりでもないように林之助の耳に甘くささやかれた。まんざらの野暮でもない林之助は阿母(おっかあ)に好きなものでも買ってやれといって、いくらかの金を渡して別れた。お里は貰った金を帯に挟んで、幾たびか見かえりながら月の下をたどって行った。 お里に別れて林之助は肌寒くなった。夜もおいおいに更けて来るので、彼は向柳原へ急いで帰った。帰る途中でも、お絹とお里の顔がごっちゃになって彼の眼のさきにひらめいていた。「お絹に済まない」 お絹の眼を恐れている林之助は、お絹の心を憎もうとは思わなかった。彼は義理を知っていた。彼はお絹の濃(こま)やかな情を忘れることは出来なかった。お絹はとかく苛(いら)いらして、ややもすると途方もない気違い染みた真似をするのも去年の冬以来のことで、はっきり自分が彼女の家を立ち退いてからの煩らいである。現にきょうも舞台で倒れたという。林之助は近頃彼女のところへちっとも寄り付かなかった自分の不実らしい仕向けかたを悔まずにはいられなかった。無論、屋敷の御用も忙がしかった。友達のつきあいもあった。しかし無理に遣(や)り繰(く)ればどうにか間(ひま)のぬすめないこともなかった。 ひとにむかって何と上手に言い訳をしようとも、自分の心にむかっては立派に言い訳することができないような、うしろ暗い自分の行ないを林之助は自分で咎めた。 誰に水をさされたのか知らないが、お絹が飛んでもない疑いや妬みに心を狂わせるというのも、つまりは自分が無沙汰をかさねた結果である。世間には病気の女房をもっている夫もある。大あばたの女と仲よくしている男もある。うす気味の悪い蛇の眼を自分ばかりが恐れて嫌うのは間違っている。これからはまず自分の心を持ち直して、お絹のみだれ心を鎮める工夫をしなければならない。自分と、お絹と、蛇と、この三つは引き離すことの出来ない因果であると悟らなければならない。そうは思いきわめながらも、林之助がまつげの塵(ちり)ともいうべきは、かのお里の初々(ういうい)しいおとなしやかな顔かたちであった。それがなんとなしに彼の目さきを暗くして、お絹一人を一心に見つめていようとする彼のひとみの邪魔をした。 屋敷の門前へ来て再び空を仰ぐと、月は遠い火の見櫓(やぐら)の上にかかって、その裾をひと刷毛(はけ)なすったような白い雲の影が薄く流れていた。こういう景色はよく絵にあると林之助は思った。     六 十五夜のあくる日は雨になって、残暑は大川の水に押し流されたように消えてしまった。二十九日は打ちどめの花火というので、柳橋の茶屋や船宿では二十日(はつか)頃からもうその準備に忙がしそうであったが、五月の陽気な川開きとは違って、秋の花火はおのずと暗い心持ちが含まれて、前景気がいつも引き立たなかった。江戸名物の一つに数えられる大川筋の賑わいも、ことしはこれが終りかと思うと、心なく流れてゆく水の色にも冷たい秋の姿が浮かんで、うろうろ船の灯のかずが宵々ごとに減ってゆくのも寂しかった。 両国の秋――お絹はその秋の哀れを最も悲しく感じている一人であった。十四日の夜以来、林之助は思い出したように足近くたずねて来た。しかし、いつもそわそわ[#「そわそわ」に傍点]して忙がしそうに帰って行った。十日(とおか)のあいだに四日も訪ねて来たが、しみじみと話をする間(ひま)もないように急いで帰ってしまった。「人焦(ひとじ)らしな。いっそ来てくれない方がいい」と、お絹は物足らないような愚痴をいうこともあった。「来なければ来ないで恨みをいう、来れば来るで愚痴をいう。困ったお嬢さまだ」と、林之助は笑っていた。 まったく林之助の言う通り、どっちにしてもお絹には不足があった。男が屋敷奉公をやめて、再び自分の手許(てもと)へ戻って来ない限りは、ほんとうに胸の休まる筈はないと自分でも思っていた。男を引き戻したい。お絹は明けても暮れても唯そればかりを念じていた。そんなら去年なぜ出してやったかと自分のこころに訊いてみても、確かな返事をうけ取ることが出来なかった。去年は悲しくあきらめて離れた――しかも、いよいよ離れてみると恋い死ぬほどに懐かしくなって来た――お絹は去年おめおめ[#「おめおめ」に傍点]と男を出してやった自分の愚かな心を、笞(むち)うちたいほどに罵り悔まずにいられなかった。「お菓子はいかがです」 五十を二つ三つも越したらしい女が駄菓子の箱をさげて楽屋へそっとはいって来た。あさってが花火という二十六日のひる過ぎで、お絹が例の水色の※※をぬいで、中入りに一服すっているところであった。「相変らずお市(いち)か捻鉄(ねじがね)だろうね」と、前芸のお若が蒼い顔を突き出した。お若は病気が癒って五、六日前からようよう舞台へ出るようになったのであった。「お前さん、ずいぶん意地が綺麗だね。まだお医者の薬を飲んでいる癖に……」と、そばからお花も摺り寄って来た。そうして、「姐さん、いかが」と、笑いながらお絹にきいた。「たくさん」と、お絹は重そうに頭(かぶり)をふった。「だけども、みんなが食べるならお食べよ。代は一緒に払ってあげるから、君ちゃん、お前もたんとお食べ」「どうも御馳走さま」 みんなが一度に挨拶して、お若もお花もお君も、地弾きのお辰も、楽屋番の豊吉も、麩にあつまって来る鯉のように四方から菓子の箱を取りまいた。菓子売りはここらの観世物小屋の楽屋の者や列び茶屋の客などを相手に、毎日諸方へ入り込んでいるお此(この)という女であった。姐さんの奢(おご)りというので、みんながここを先途(せんど)と色気なしに、むしゃむしゃ食っているのを、お絹は箱に倚りかかりながら黙って離れて眺めていた。「おまえさん、列び茶屋へも行くんだね」と、お花は菓子を食ったあとの指をなめながらお此に訊いた。「はい。まいります」「不二屋へも行くだろう」「はい」 お花はお絹に眼くばせをしながら、なに食わぬ顔でお此にまた訊いた。「おまえさん、あの不二屋の里(さと)ちゃんという子を知っているだろう」「おとなしい姐さんでございますね」「あの子に、このごろ情人(いいひと)が出来たってね」「さあ、そんなことは存じませんが……」と、お此は笑っていた。「向柳原のほうのお屋敷さんだっていうじゃあないか」と、お花も笑いながらカマを掛けた。「おまえさん、毎日行くんだもの、知っているだろう」 お此の返事はあいまいであった。単に向柳原の屋敷者といえば大勢あるが、お絹の男も向柳原にいることをお此はかねて知っていた。その男がその不二屋へ遊びにゆくこともお此はやはり知っていた。ここでうっかりしたことをしゃべって、どんな当り障りがないとも限らない。諸方へ出入りする自分の商売上、なるべくこんな問題には係り合わない方が利口だと思ったらしく、お此は巧みにお花の問いを避けて、あさっての花火の噂などを始めた。 さっきから少しく眼の色の変っていたお絹は、もう焦れったくて堪まらないという気色で、倚りかかっていた箱をかかえながら衝(つ)と立って、お此の膝の前に詰め寄るように坐った。「お此さん」 その権幕が激しいので、相手はうろたえた。「は、はい」「向柳原といえば大抵判っているだろう。あたしのとこの林さんのことさ。あの人がこの頃むやみに不二屋へ行く。きのうもおとといも、さきおとといも、はいり込んでいたというが本当かえ。そうして、あのお里という子とおかしいというのも本当だろうね」 お此は返事に困ったような顔をしていた。しかし果たして林之助とお里とのあいだに情交(わけ)があるかないか、そんなことは彼女にも鑑定は付かないらしかった。お此はまったくなんにも知らないと正直そうに答えた。 林之助とお里との問題については、お花は初めから情交ありげに吹聴(ふいちょう)している一人であった。現にきょうも楽屋へ来て、林之助がこのごろ毎日のように不二屋へはいり込むという新しい事実を誇張的にお絹に報告した。その矢先きへ丁度お此が来あわせたのであるから、並大抵の言い訳ではお絹はどうしても承知しなかった。「お此さん。おまえさんも強情を張らないで、知っているだけのことは言っておしまいよ」と、お花もそばから口を出して責めた。「だって、お前さん。あたしがその本人じゃあるまいし、人のことがどうして判るもんですかね。そんな無理なことを……」 半分言うか言わないうちに、お絹は黙ってお此の腕をつかんだ。「あ、姐さん。どうなさるんです。
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