籠釣瓶
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:岡本綺堂 

籠釣瓶(かごつるべ)岡本綺堂     一 次郎左衛門(じろざえもん)が野州(やしゅう)佐野の宿(しゅく)を出る朝は一面に白い霜が降(お)りていた。彼に伴うものは彼自身のさびしい影と、忠実な下男(げなん)の治六(じろく)だけであった。彼はそのほかに千両の金と村正(むらまさ)の刀とを持っていた。享保(きょうほう)三年の冬は暖かい日が多かったので、不運な彼も江戸入りまでは都合のいい旅をつづけて来た。日本橋馬喰町(ばくろちょう)の佐野屋が定宿(じょうやど)で、主(しゅう)と家来はここに草鞋(わらじ)の紐を解いた。「当分御逗留でござりますか」 宿の亭主に訊(き)かれた時に、次郎左衛門は来春(らいはる)まで御厄介になるといって、亭主の顔に暗いかげをなげた。正直な亭主は彼のためにその長逗留を喜ばなかったのである。治六が下へ降りて来たのをつかまえて、亭主は不安らしくまた訊いた。「旦那はまた長逗留かね。お家(うち)の方はどうなっているんだろう」「いや、もう、お話にならねえ」と、治六は帳場の前にぐたりと坐って馬士(まご)張りの煙管(きせる)をとり出した。彼の父も次郎左衛門の家(いえ)の作男(さくおとこ)であったが、彼が四つの秋に両親ともほとんど同時に死んでしまったので、みなし児の彼は主人の家に引き取られて二十歳(はたち)の今年まで養われて来た。侍でいえば譜代(ふだい)の家来で、殊に児飼(こが)いからの恩もあるので、彼はどうしても主人を見捨てることはできない因縁(いんねん)になっていた。「実をいうと、佐野のお家(いえ)はもう駄目だ。とうとう押っ潰(つぶ)れてしまったよ」と、治六は悲しそうな眼をしばたたいた。 亭主はしばらく黙って、旅疲ればかりではないらしい彼の痩せた顔を見つめていた。「お家が潰れた」と、亭主は呆れたように言った。「いつ、どうして……。この前に見えた時にはちっともそんな話はなかったが……」「なに、あのときにも内々覚悟はしていたのだが、この秋になって急にばたばた[#「ばたばた」に傍点]と傾いて来たので……。こうなっちゃあ人間の力で防ぎは付かねえ」 治六はきれいに諦めたらしく言っていた。去年からの主人の放蕩で、佐野で指折りの大家(たいけ)の身上(しんしょう)もしだいに痩せて来た。もっとも、これは吉原通いばかりのためではない。ほかに有力な原因があった。侠客肌の次郎左衛門は若いときから博奕場(ばくちば)へ入り込んで、旦那旦那と立てられているのを、先代の堅気な次郎左衛門はひどく苦に病んで、たびたび厳しい意見を加えたが、若い次郎左衛門の耳は横に付いているのか縦(たて)に付いているのか、ちっともその意見が響かないらしかった。「百姓の忰(せがれ)めが長いものを指(さ)してのさばり歩く。あいつの末は見たくない」 口癖にこう言っていた父は、自分の生きているあいだに、形見分けの始末なども残らず決めておいた。足利(あしかが)の町へ縁付いている惣領娘(そうりょうむすめ)にもいくらかの田地を分けてやった。檀那寺(だんなでら)へも田地(でんぢ)の寄進(きしん)をした。そのほか五、六軒の分家へも皆それぞれの分配をした。「これでいい。あとは潰すともどうとも勝手にしろ」 父は財産全部を忰の前に投げ出して、自分は思い切りよく隠居してしまった。それでも先代の息のかよっている間は、若い次郎左衛門はさすがに幾らか遠慮しているらしい様子も見えたが、その父が六十一の本卦(ほんけ)がえりを済まさないで死んだのちは、もう誰に憚(はばか)るところもない。二代目の次郎左衛門は長い脇指(わきざし)の柄(つか)をそらして、方々の賭場へ大手を振って入り込んだ。父が三回忌の法事を檀那寺で立派に営んだ時には、子分らしい者が大勢(おおぜい)手伝いに来ていて、田舎かたぎの親類たちを驚かした。足利の姉は涙をこぼして帰った。それは次郎左衛門が二十二の春であった。 次郎左衛門には栃木の町に許婚(いいなずけ)の娘があったが、そんなわけで破談となった。妾(めかけ)を二、三人取り替えたことはあったが、一度も本妻を迎えたことはなかった。いかに大家でも旧家でも、今の次郎左衛門に対して相当の家から娘をくれる筈はなかった。次郎左衛門の方でも野暮(やぼ)がたい田舎娘などを貰う気はなかった。彼はいつまでも独身(ひとりみ)で気ままに暮らしていた。 彼は博奕場へ入り込むようになってから、ある浪人者に就いて一心不乱に剣術を習った。その動機はこうであった。あるとき博奕場で他の者と論争を始めると、相手は腕をまくってこう言った。「いくら佐野のお大尽(だいじん)さまでも、こうなりゃあ腕づくだ。腕で来い」 幸いにささえる者があったので、その場は何事もなく納まったが、もし彼がいう通りに腕づくの勝負となったら、次郎左衛門はとても彼の敵でないことを自覚していた。次郎左衛門はその以来、人間がいざという場合にはおのれの力のほかに恃(たの)む物のないことを今更のように思い知って、まず剣術を習った。柔術を習った。取り分けて剣術に趣味をもって毎日精出して習ったために、後には立派な腕利きとなった。彼はその力を利用して方々を暴れ歩いた。少し気に食わないことがあると、誰にでも喧嘩を売った。子分でも妾でも容赦なしに踏んだり蹴(け)たりした。妾は一年と居付かないでみんな逃げてしまった。 父が死んだのちの彼はもう唯の百姓ではなかった。彼はむしろ博奕打ちとして世間から認められていた。彼もそれを得意としていた。しかし彼は大親分と立てられるような徳望にかけていたので、相当の子分をもちながら彼の縄張り内は余りに拡げられなかった。子分にも片腕になって働くような者が一人もできなかった。彼はいつまでも孤立の頼りない地位に立っていた。彼は吝(けち)でないので、ずいぶん思い切って金を遣った。しかもその縄張りは余り広くないので、収支がとても償(つぐな)わない。彼の身代はますます削(けず)られてゆくばかりであった。その上に彼は吉原狂いを始めた。 去年の春、彼は治六とほかに二、三人の子分を連れて江戸見物に出た。この佐野屋に宿を取って、彼はその頃の旅人がみんなするように、花の吉原の夜桜を観に行った。江戸めずらしいこのひと群れは誰也行燈(たそやあんどう)の灯(ほ)かげをさまよって、浮かれ烏の塒(ねぐら)をたずねた末に、仲(なか)の町(ちょう)の立花屋という引手茶屋(ひきてぢゃや)から送られて、江戸町(えどちょう)二丁目の大兵庫屋(おおひょうごや)にあがった。次郎左衛門の相方(あいかた)は八橋(やつはし)という若い美しい遊女であった。八橋は彼を好ましい客とも思わなかったが、別に疎略にも扱わなかった。彼はひととおりに遊んで無事に帰った。 江戸のよし原のいわゆる花魁(おいらん)なるものが、野州在の女ばかりを見馴れていた彼の眼に、いかに美しく神々(こうごう)しく映ったかは言うまでもなかった。彼はまた次の夜すぐに二回(うら)を返した。その次の夜には三回目(なじみ)を付けた。三回目の朝には八橋が大門口(おおもんぐち)まで送って来た。三月ももう末で、仲の町の散る花は女の駒下駄の下に雪を敷いていた。次郎左衛門もその雪を踏んで、一緒に歩いた。 彼はほかの子分どもをひとまず国へ帰してしまった。治六だけを宿に残して、それからほとんど一夜も欠かさずに廓(くるわ)へかよった。彼は見返り柳の雨にほととぎすを聞いたこともあった。待合いの辻の宵にほたるを買ったこともあった。彼は三月の末から七月の初めへかけて百日ほども八橋に逢い通した。金がつづかないので、国から幾度も取り寄せた。「旦那さま、盆がまいりますぞ。いい加減に戻らっしゃい」と、治六も呆れてたびたび催促したので、次郎左衛門もさすがに気が付いたらしく、盂蘭盆(うらぼん)まえに一旦帰ることになった。 帰って見ると、百日あまりの留守の間に子分どもの多くは散ってしまった。自分の縄張り内は大抵他人に踏み荒らされていた。いつもの次郎左衛門ならばとても堪忍する筈はなかった。彼は虎のように哮(たけ)って、自分の縄張りを荒らした相手に食ってかかるに相違なかった。彼は得意の剣術を役に立てて、相手と命の遣り取りをしたかも知れなかった。しかし彼の性質はこの春以来まったく変っていた。 彼が性格のいちじるしく変化したことは、佐野屋で一緒に起き臥(ふ)ししていた治六にもよく判っていた。虎はいつか猫に変って、彼のおそろしい爪も牙(きば)も見えなくなってしまった。彼は誰にも叱言(こごと)一ついわないようになった。彼は薄気味の悪いほどにおとなしくなった。その理由は治六にも判らなかったが、ともかくも吉原がよいを始めてから、主人の性質がこう変ったということだけは容易に想像された。「まあ、まあ、打っちゃって置け」と、次郎左衛門は子分どもを却ってなだめていた。 自分の縄張りを踏み荒らされても、指をくわえて黙っている次郎左衛門のなまぬるい態度が子分どもの気に入らなかった。かれらは歯がゆく思った。親分を意気地なしと卑しんだ。折角踏みとどまっていた少数の子分もみんな失望して散った。さらでも孤立の次郎左衛門は、いよいよほんとうの一本立ちになってしまった。彼の影はいよいよ寂しくなった。「いっそ、この方が旦那のためになるかも知れねえ」と、治六はひそかに喜んだ。 縄張りは人に奪(と)られ、子分はみんな散ってしまう。次郎左衛門はもう博奕打ちとしては世間に立てなくなったのである。それをしおに料簡(りょうけん)を切り替えて、もとの堅気の百姓に立ちかえれば、本人も家(いえ)も安泰である。そう祈っているのは治六ばかりでなく、分家の人たちもみんな同じ望みをもっていた。 次郎左衛門は果たして博奕打ちをやめた。喧嘩もやめた。今までは奉公人まかせにしておいた帳簿などを自分で丹念に検(あらた)めて、ついぞ持ったことのない十露盤(そろばん)などをせせくるようにもなった。彼は純な百姓生活にかえって、土の匂いに親しんだ。 それを聞いて、足利の姉は再び涙を流してよろこんだ。彼女(かれ)はここで弟に相当の嫁を持たせて、いよいよしっかりと彼と家とを結び付けようと試みたが、それは全く失敗に終った。余事は格別、縁談に就いて彼は誰の相手にもならなかった。 明くる年の春は来た。田面(たづら)の氷もようやく融(と)けて、彼岸の種蒔(ま)きも始まって、背戸(せど)の桃もそろそろ笑い出した頃になると、次郎左衛門はそわそわして落ち着かなくなった。彼は蔵に積んである米や麦を売って、あらん限りの金をふところに押し込んで、再び江戸見物にのぼった。ことしも治六が供をして出た。 吉原は去年にまして賑わっていた。年々栽(う)え替えられる桜にも去年の春の懐かしい匂いが迷っていた。 次郎左衛門は今年も立花屋から送られて、大兵庫屋の客になった。彼は八橋に二百両の土産をやった。そうして、ことしも春から夏の終りにかけて百日ほども遊んで帰った。「いくらお大尽さまでも、ちっと道楽が過ぎましょう」と、佐野屋の主人は二年越しの遊蕩に少しく顔をしかめていた。治六は喧嘩づらで急(せ)き立てて、ことしも盆前にひとまず国に帰ることになった。帰る時に次郎左衛門は宿の亭主に言った。「ことしの内にまた来るかも知れません」「お急ぎの御用があれば格別、今年はまあ在所(ざいしょ)に御辛抱なすって、また来春お出でなさいまし」と、亭主は言った。 次郎左衛門は唯にやにや[#「にやにや」に傍点]笑いながら草鞋(わらじ)の紐を結んで出た。それが果たして今年の内に出直して来た。しかも佐野屋[#「佐野屋」は「佐野」の誤記か]の家は潰れてしまったというのであった。亭主も夢のように思われてならなかった。「なにしろ、もう七、八年前から身代(しんだい)も痛み切っていたところへ、去年も吉原で二千両ほども遣う。ことしもそれに輪をかけて三千両ほども撒き散らす。それじゃあとても堪(たま)らねえ」と、治六は投げ出すように言った。「去年江戸から帰ってすっかり堅気になって辛抱しなさるようだったから、まあいい塩梅(あんばい)だとわしらも喜んでいたんだが、なあに、やっぱり駄目なことさ。おまけに今年の秋は八朔(はっさく)と二百十日(とおか)と二度つづいた大暴(おおあ)れで田も畑もめちゃめちゃ。こうなったら何も悪いことだらけで……。それにわしらが知っているのも知らねえのもあったが、田地のいい所は四、五年まえから大抵よそへ抵当(かた)にはいっている。それが四方から一度に取り立てに来たんだから、いやもう埒(らち)はねえ」「それで大家(たいけ)もばたばた[#「ばたばた」に傍点]と没落したんだね」と、亭主は深い溜め息をついた。「それでも足利のおあねえ様や分家の手合いが寄り集まって、何とか埒(らち)をあけることに苦労しているんだが、どうも右から左に纏(まと)まりそうもねえ。つまり、旦那は自分の身上(しんしょう)をみんな投げ出して、親類の人たちにあとの始末をいいように頼んで、空身(からみ)で生まれ故郷を立ち退くことになったのさ。空身といっても千両ほどの金をもっている。それを元手に江戸で何か商売でも始めるつもりだから、この後もまあよろしく願いますよ」「千両……。古河(ふるかわ)に水絶えずだね」と、亭主は感心したように言った。「それだけの元手がありゃあ、江戸でどんな商売でもできますよ。千両はさておいて、百両あっても気強いものさ」 二階で治六を呼ぶ声がきこえるので、彼はそそくさと煙管(きせる)をしまって起(た)ちあがった。     二 暗い行燈(あんどう)の前で、次郎左衛門は黙って石町(こくちょう)の四(よ)つ(午後十時)の鐘を聴いていた。治六は旅の疲れでもう正体もなく寝入ってしまったらしいが、彼の眼は冴えていた。彼は蒲団の上に起き直って、両手を膝に置いてじっと考えていた。師走の江戸の町には、まだ往来の足音が絶えなかった。今夜の霜の強いのを悲しむように、屋根の上を雁(がん)が鳴いて通った。 次郎左衛門も今夜はすぐに吉原へ行かなかった。あしたは月代(さかやき)でもして、それから改めて出かけるつもりであった。もう再び故郷の佐野へは帰らない。江戸に根を据えてしまう覚悟であるから、さすがに一夜を争うにも及ばないと思った。勿論、八橋が恋しいには相違なかった。それでも今年もう三十一になる次郎左衛門は、なま若いものと違って、幾らか落ち着いたところもあった。彼はおとなしくあしたを待っていた。 ちらちらと揺れる行燈の灯を見つめて、彼は自分の過去を静かに考えた。十六の年から博奕場に足を入れて、二十歳(はたち)で父に別れたのちは、博奕と喧嘩で彼は十幾年の月日を送った。そのあいだに妾を置いたこともあったが、それは自分の手廻りの用をさせるのにとどまって、それから温かい愛情を見いだそうなどとは思いも付かなかった。彼は手綱(たづな)の切れた暴馬(あれうま)のように、むやみに鬣毛(たてがみ)を振り立てて狂い廻っているのを無上の楽しみとしていた。彼は自分の野性を縦横無尽に発揮して、それを生き甲斐のある仕事と思っていた。 それが去年の春からがらりと変った。自分でも不思議に思うほどに変ってしまった。それは八橋から唯ひとこと、こう言われたからであった。 八橋があるとき彼の商売を訊くと、彼は野州佐野の博奕打ちで、三、四十人の子分を持っていると自慢らしく答えた。すると、八橋はにやり[#「にやり」に傍点]と笑った。「ほかにもいろいろの渡世(とせい)がありんしょう。喧嘩商売、よしなんし。あぶのうおざんす」 なるほど危ない商売には相違なかった。博奕打ちに喧嘩は付き物である。次郎左衛門はその命賭けの危ないなかに興味を求めていた。世間にはほかにいろいろの渡世があることも、喧嘩商売のあぶないことも、いまさら八橋の意見を聞くまでもなかった。そんなことは足利の姉からも、分家の人びとからも耳うるさいほどに聞かされていた。「あぶのうおざんす」 この一句が今夜はふかく彼の胸に食い入った。相手はどれほどの親切気で言い聞かしたのか知れないが、次郎左衛門は心からその親切を感謝した。自分の生命(いのち)を賭けるような危ない商売はもうふっつりと思い切ろうと女に誓った。「今度来るときには堅気の百姓で来る」 彼はその約束を忘れなかった。盂蘭盆まえに国に帰ると、もとの百姓生活に立ちかえる準備に取りかかった。しかし、もう遅かった。いわゆる喧嘩商売で幾年も送った禍いは、彼の身代の大部分を空(から)にしていた。いくら帳簿を整理しても十露盤をはじいても、いまさら療治のできるような浅い手疵(てきず)ではなかった。殊に今までの喧嘩商売を離れてから、彼の頭はぼんやりして来た。アルコール中毒の患者から酒を奪ったように、彼は活動の力を失った。おとなしくなった、堅気になったとよそ目に見えるのも、噴火山が死火山に変りつつあるというに過ぎなかった。彼としては、むしろ一種の衰えであった。 彼はその衰えを自覚しないほどに八橋にあこがれていた。そうして、約束通りに堅気の百姓になって、ことしの春ふたたび吉原へ来た。その話を聞いて、八橋は又こう言った。「よく気を入れ替えなんした。人間は堅気に限りいす」と、彼女(かれ)は身につまされたように言った。 その深い意味は判らなかったが、女に褒められた次郎左衛門は子供のように嬉しがった。 しかし、その百姓生活を長く営むことを許されなかった。彼が今年の盆に国に帰ってから後、いろいろの禍いがそれからそれへと落ちかかって来た。彼は一家の後始末を親類に頼んで故郷を立ち退(の)くよりほかはなかった。彼は江戸へ出て、何か生きてゆく方法を考えなければならなかった。彼はさらに百姓から商人に変らなければならなかった。それにしても急ぐことはない、まず暮れから正月は吉原でおもしろく遊んで、それから佐野屋の亭主とも相談して、なんとか相当の商売を見つけ出そうと考えていた。彼のふところには千両の金があった。「旦那さま。まだお寝(やす)みなさらねえのでごぜえますかえ」 治六は寝返りを打って、衾(よぎ)の中から主人に声をかけた。「天井でえらく鼠がさわぐので、眼が醒めてしまいました」と、彼はまた言った。 今までは気がつかなかったが、低い天井には鼠の駈けまわる音がおびただしく聞えた。次郎左衛門も無言で天井を仰いだ。「旦那さま。おめえさま何か考えているんじゃごぜえませんかね。道中では毎晩よく眠らっしゃるのに、どうして今夜は寝ねえんだね。もう江戸へへえったから、ゆっくりと手足が伸ばせる筈だが……」と、治六は半分起き返って言った。「おめえさま。あしたの晩に吉原へ行くつもりかね」「むむ。午前(ひるまえ)に髪月代でもして、午(ひる)過ぎから行くつもりだ。一緒に来い」 治六は黙っていた。「いやか」と、主人は少し面白くない顔をして苦笑いをした。「おめえさまも止したらどうだね。いや、行くなじゃあねえが、まあ当分は……。ともかくもここの御亭主と相談して、何か商売の道を立てて、自分たちの身分を決めた上で、それから行っても遅くはあるめえと思うが……」 今度は次郎左衛門の方が黙っていた。「佐野の家をぶっ潰して唯ぼんやり江戸へ出て来たじゃあ、吉原へ面(つら)を出しても幅が利くめえから、なんとかこっちの身分を立てて、さて今度はこういうことにしたと、誰にも話のできるようにしてから大手を振って行く方がよかろうと思うが、どうでごぜえますね」「まあ、いい。そんなことはあしたの話にして、今夜はお前も寝ろよ。おれももう寝る」と、次郎左衛門は相手にならずに衾(よぎ)をかぶろうとした。 主人が寝ると、家来があべこべに起き直った。「いや、こんな事は今のうちにしっかり決めて置くがいい。わしはさっきから寝た振りをしておめえさまの様子を見ていたが、何をそんなに考げえていなさるね。聞かねえでも判っていると言うかも知れねえが、もし、旦那さま。江戸へ出るまではなんにも言うめえと思って、道中でも口を結んでいたが、あの吉原の女はおめえさまに隠して情夫(おとこ)を持っているんでごぜえますよ」 去年の春は治六もちっとも気がつかなかったが、ことしの春になって彼はその噂を聞き出した。八橋には若い浪人者の馴染みがあって、起請(きしょう)までも取り交した深い仲である。治六はそれを主人に注意しようと幾たびか思ったが、確かな証拠もなしにそんなことを訴えたところで、とても取り合ってくれる気遣いもないと考えたので、今まで一度も口に出さなかったのであった。 彼は今夜初めてその秘密を洩らした。     三 八橋の男に宝生栄之丞(ほうしょうえいのじょう)という能役者(のうやくしゃ)あがりの浪人者があった。両親(ふたおや)に死に別れてから自堕落(じだらく)に身を持ち崩して、家の芸では世間に立っていられないようになった。妹のお光(みつ)と二人で下谷(したや)の大音寺(だいおんじ)前に小さい家を借りて、小鼓指南(こづつみしなん)という看板をかけていたが、弟子入りする者などほとんど一人もなかった。八橋は素人(しろうと)の時から栄之丞を識っていた。廓(くるわ)へはいって栄之丞を客にするようになってから、二人の親しみはいよいよ細(こま)やかになって来た。 治六もその以上のことは詳しく知らなかった。しかしこれだけの事実でも、主人の寝ぼけている顔を洗うには十分の冷たい水であると彼は考えていた。彼は今夜それを残らず打ち明けた。そうして、もともとが気晴らしの遊びであるから、女に情夫(おとこ)があろうが亭主があろうが、別にかけかまいはないようなものであるが、こっちもそのつもりで腹を締めて掛からないと、飛んだ馬鹿を見ることにもなる。吉原へ行くのもいいが、よくそのつもりでいて貰いたいと言った。「おめえさまも昔とは違う身分だ。千両の金をなくしてしまえば、乞食するよりほかはあるめえ。主人と家来が二人つながって三河万歳(みかわまんざい)もできめえから、よっくそこらも考げえて下せえましよ」 次郎左衛門は衾(よぎ)から首を出して、唯(ただ)せせら笑っているばかりであった。「馬鹿野郎、くよくよ心配するな。今だからこそ遊んでいられるのだ。これから商売を始めて、千両の金を元手にかけてしまったら、どの金で遊べる。遊ぶなら今のうちだ。八橋に情夫(おとこ)のあることはおれも知っている。現に、兵庫屋の二階で八橋からひきあわされたこともある。八橋は従弟(いとこ)だといったが、そうでないことは俺もちゃんと見ぬいていた。俺は近づきの印(しるし)だといって百両包みを出してやったら、その栄之丞という男は薄気味の悪そうな顔をしていて、容易に手を出そうともしなかった。無理に押し付けても、とうとう返して行った。いや、おとなしい可愛い男よ。あの男ならおれが訳をいって、この千両を半分やるから八橋と手を切ってくれと頼めば、いつでもきっと素直に承知してくれるに相違ない」「千両を半分やる……」と、治六は呆れて笑い出した。「それよりもおめえさまの首をやった方がよさそうだ。わはははは」「事によれば首をやらないとも限らない」と、次郎左衛門も笑った。「だが、金のあるうちは命が大事だ」 もう相手になるのが面倒になったらしい。次郎左衛門はくるりと寝返りを打ってこちらへ背を向けた。いつもの癖で、衾をすっぽりと頭からかぶってしまった。雁の声がまたきこえた。 ことばの行きがかりでそんなことを言ったのだろうとは思うものの、冗談にも千両の半分を八橋の情夫にやる――飛んでもないことだと治六は思った。どっちにしても、身上(しんしょう)を振ってもそれだけしかない金を、そう安っぽく扱うような料簡(りょうけん)では行く末が思いやられる。夜が明けたならば宿の亭主とも相談して、あの千両を宿にあずけてしまうに限る。当人の手に握らせて置くのはあぶないと考えた。 夜の明けるのを待ちかねて、治六は佐野屋の亭主に相談した。どうで千両の金を首へかけて歩いていられるものでない、外へ出る時には宿へあずけて行くに決まっている。そのときに受取ったが最後、なんとか文句を付けて迂闊(うかつ)に渡してくれるなと言った。客の金をあずかっておきながら、それを渡すときに文句を付けるというのは、宿屋として甚だ質(たち)のよくない遣り方で、亭主も少し躊躇したが、しょせんは自分の欲心ですることではない、預け主のために思うのであるという理屈から、亭主も治六の忠義に同情して、結局その相談に乗ることになった。しかし、いよいよその金をあずかるという段になると、次郎左衛門は半分だけしか亭主に渡さなかった。「八橋に土産もやらなければならない。二階じゅうの者にも相当のことをしてやりたい。まして歳の暮れの物日(ものび)前だ。それ相当の用意がなくって廓へ足踏みができると思うか」 彼は治六を叱り付けて、五百両を持って供をしろと言った。治六は渋々ながら付いて行くことになった。二人とも髪月代(かみさかやき)をして、衣服を着替えて出た。ここであくまでも逆らったところで仕方がない。ともかくも残りの半分にさえ手を着けなければまあいいと、治六も諦めを付けていた。 二人が駕籠で廓(くるわ)へ飛ばせたのは昼の八つ(午後二時)を少し過ぎた頃であった。雷門(かみなりもん)の前まで来ると、次郎左衛門を乗せた駕籠屋の先棒が草鞋の緒を踏み切った。その草鞋を穿き替えている間に、次郎左衛門は垂簾(たれ)のあいだから師走の広小路の賑わいを眺めていたが、やがて何を見付けたか急に駕籠を出ると言った。 駕籠を出ると、彼は小走りに駈けて行った。呼び止められたのは、編笠(あみがさ)をかぶった若い男であった。「栄之丞さんじゃあございませんか」 編笠の男は宝生栄之丞であった。「おお、次郎左衛門どの。また御出府(ごしゅっぷ)でござりましたか」と、彼は笠をぬいで丁寧に会釈(えしゃく)した。「江戸が懐かしいので又のぼりました」と、次郎左衛門は笑った。八橋に変ることはないかと取りあえず訊いた。 臆病らしい態度で栄之丞は始終挨拶していた。自分も久しく無沙汰をしているが、八橋には多分変ったこともあるまいと言った。自分は浅草観音へ参詣した帰りで、これから堀田原(ほったわら)の知りびとのところを訪ねようと思っていると言った。一緒に吉原へ行かないかと次郎左衛門に誘われたが、彼は振り切るように断わって別れて行った。 おとなしい男だと次郎左衛門はまた思った。従弟(いとこ)のなんのと言い拵(こしら)えてはいるものの、彼が八橋の情夫であることは能く判っていた。かりにこっちでは何とも思っていないとしても、普通の人情として彼がこっちに対して快(こころよ)く思っていないのは判り切っている。けれども決して忌(いや)な顔を見せない。むしろこっちを恐れるようなおどおどした態度で、いつも丁寧に挨拶している。単に身分の上から見ても、たとい浪々しても彼も宝生なにがしと名乗るお役者の一人である。こっちは唯の百姓である。その百姓に対して、彼は一目(いちもく)も二目も置いたような卑下(ひげ)した態度を取っている。どっちからいっても、よくよくおとなしい可愛い男だと次郎左衛門は思った。 治六にいくら注意されても、彼はこのおとなしい若い浪人者に対して、いわゆる色がたきの恋争いのという強い反抗心をもち得なかった。彼は恋のかたきというよりも、むしろ一種の親しみやすい友達として栄之丞を取扱いたかった。 しかしその親しみやすいといううちには、おのずからなる軽蔑の意味も含まれていた。次郎左衛門が彼に対して反抗心や競争心をもち得ないのは、相手を余りに見くびっていた結果でもあった。次郎左衛門は芝居や講談で伝えられているような醜(みにく)いあばた[#「あばた」に傍点]面(づら)の持ち主ではなかった。三十一の男盛りで身の丈(たけ)は五尺六、七寸もあろう。剣術と柔術とで多年鍛えあげた大きいからだの肉は引き締まって、あさ黒い顔に濃い眉を一文字に引いていた。彼は実に男らしい顔と男らしい体格とをもっていた。たしかに一人前の男として、大手を振って歩けるだけの資格をそなえていた。金も持っていた。力も持っていた。 それに較べると、栄之丞は哀れなほどに貧弱なものであった。目鼻立ちこそ整っているが、背も低い、病身らしく痩せている。次郎左衛門と立ちならぶと、まるで大人と子供ほどの相違があった。次郎左衛門もこんな者を相手にして、まじめに闘う気にはなれなかった。情夫であっても何でも構わない。八橋ぐるめに可愛がってやりたいと思っている位であった。 栄之丞のうしろ姿を見送って、次郎左衛門は駕籠の方へ引っ返すと、治六もいつの間にか駕籠を降りて、不安そうにこっちを窺っていた。「旦那さま。今のは栄之丞でねえかね」「むむ。丁度ここで逢ったのも不思議だ」「わしがゆうべ、あんなことを言ったから、この往来なかで喧嘩でもおっ始めるのじゃあねえかと思って内々心配していたが、だいぶ仲がよさそうに別れたね」「誰が喧嘩なんぞするものか、昔のおれとは違う」と、次郎左衛門は笑いながら駕籠に乗った。     四 仲の町の立花屋では、佐野のお大尽が不意に乗り込んで来たのに驚いた。亭主の長兵衛は留守であったが、女房のお藤がころげるように出て来て、すぐに二人を二階へ案内した。女中は兵庫屋へ報(しら)せに行った。 二階には手炙火鉢(てあぶり)が運ばれた。吸物椀や硯蓋(すずりぶた)のたぐいも運び出された。冬の西日が窓に明るいので女房は屏風を立て廻してくれた。次郎左衛門のうしろの床の間には、細い軸物(じくもの)の下に水仙の一輪挿しが据えてあった。二人は女房や女中の酌で酒を飲んでいた。 そのうちに女房はこんなことを言った。「八橋さんの花魁(おいらん)は、大尽がお越しになったのでさぞお喜びでござりましょう。そう申してはいかがですが、花魁もことしの暮れはちと手詰まりの御様子でしてね」「可哀そうに……。たんと金がいるのかね」と、次郎左衛門が訊いた。「さあ、どんなものでござりましょうか。わたくし共も詳しいことは存じませんが、なんでも浮橋(うきはし)さんからそんな話がござりました」 浮橋というのは八橋の振袖新造(ふりそでしんぞう)で、治六の相方であった。「そうか。おい、治六。貴様どうかしてやれよ」と、次郎左衛門は笑った。 治六はにっこりともしないで、黙って酒を飲んでいた。 そうでなくても、主人は金を遣いたがっているところへ、花魁が手詰まりだなどという噂を聞かされては堪まったものではない。治六はもう逃げて帰りたくなった。 女中の迎いを受けて浮橋がさきへ来た。女房と女中が階下(した)へ立ったあとで、浮橋は花魁がこの年の暮れに手詰まりの訳を話した。それも五十両ばかりあればいいのだが、さてその工面(くめん)が付かないのは情けないと言った。次郎左衛門はたったそれだけでいいのかと笑った。これは花魁へいつもの土産だといって、二百両の金包みを出した。浮橋にも十五両やった。「これで花魁も浮かみ上がるでおざんしょう」と、浮橋は自分も生き返ったように喜んでいた。「今ここへ来る途中で、栄之丞さんに丁度逢(あ)ったよ」と、次郎左衛門は杯を浮橋にさしながら言った。 どこで逢ったと訊き返したので、雷門まえで逢ったというと、浮橋は黙って少し考えているらしかった。この頃こっちへ来るかと訊くと、浮橋はちっとも寄り付かないと答えた。八橋と喧嘩でもしたのかと訊くと、そんな訳でもないらしいとのことであった。 いい加減な嘘をついているのだと治六は思っていた。しかしそれは客に対する新造の駈け引きでもなんでもなかった。じっさい栄之丞はこの冬の初め頃から八橋のところへ顔を見せないのであった。使いをやっても碌(ろく)に返事もよこさなかった。二、三日まえにも使いを出して、ぜひ相談したいことがあるからちょいと来てくれと言ってやったら、当時は病気で外へ出られないという返事であった。その栄之丞が雷門まえをうろうろ歩いていたというのは、浮橋にもちっと解(げ)せなかったが、今はそれを詮議している場合でもないので、彼女は寄らず障らずの廓ばなしなどをして、しばらくその席をつないでいたが、花魁の八橋は容易に茶屋へ姿を見せなかった。 女房も八橋があまり遅いのを待ちかねて、もう一度催促をやろうかと言った。「いいえ、わたしが見てきいんしょう」 浮橋は自分で兵庫屋へ引っ返して行った。番頭新造(ばんとうしんぞう)の掛橋(かけはし)に訊くと、花魁は急に癪が起ったので医者よ針よと一時は大騒ぎをしたが、やっと今落ち着いたとのことであった。浮橋はすぐに花魁の部屋へ行って見ると、八橋は蒼(あお)い刷毛(はけ)でなでられたような顔をして、緞子(どんす)に緋縮緬(ひぢりめん)のふちを取った鏡蒲団(かがみぶとん)の上に枕を抱いていた。 八橋は明けて十九になろうという若い遊女で、しもぶくれのまる顔で、眼の少し細いのと歯並みの余りよくないのとを疵にして、まず仲の町張りとしてひけを取りそうもない上品な花魁であった。彼女は持病の癪にひどく苦しんだと見えて、けさ結ったばかりの立兵庫(たてひょうご)がむしられたようにむごたらしく掻き散らされて、その上に水色縮緬(ちりめん)の病い鉢巻をだらりと垂れていた。自分の源氏名(げんじな)の八橋にちなんだのであろう、金糸で杜若(かきつばた)を縫いつめた紫繻子のふち取りの紅い胴抜きを着て、紫の緞子に緋縮緬の裏を付けた細紐(しごき)を胸高に結んでいた。「花魁。心持ちはもうようおすかえ」と、浮橋は摺り寄って彼女の蒼ざめた顔を覗くと、八橋はただひと言いった。「浮橋さん。くやしゅうおざんす」 彼女は張りつめた胸をせつなそうに抱えて、蒲団の上に又うつ伏してしまった。苦しいのは判っているが、くやしいのは判らなかった。浮橋は黙って暫くその顔を見つめていると、掛橋が薬を煎(せん)じて持って来た。そうして、浮橋の袖をそっと曳いて廊下へ連れ出した。「悪いことができいしてね。困ったものでおぜえすよ」と、掛橋は顔をしかめた。 十月頃からかの栄之丞がちっとも顔を見せない。手紙をやっても返事がない。呼びにやっても来ない。それで八橋はじれ切っている矢先へ、あいにくにまた悪いことが耳にはいった。店の若い者の伊之助がさっき馬道(うまみち)まで使いに出て、そのついでに観音さまへ参詣にゆくと、仲見世で栄之丞にぱったり出逢った。むこうは笠を傾けて挨拶もせずに行き過ぎたが、たしかにその人らしかったと家(うち)へ帰ってから何心(なにごころ)なくしゃべっていたのを、禿(かむろ)の八千代が立ち聞きして、それを八橋に訴えた。八橋は赫(かっ)となった。病気で外へも出られないという者が、この寒い風に吹かれて仲見世あたりをうろついている筈がない。病気は嘘に相違ない。そんな嘘をついてまでも、ここへ足踏みをしないからは、もうわたしを見限ったものに相違ない。わたしは捨てられたに相違ない、欺(だま)されたに相違ないと、廓育ちの彼女は何でも一途(いちず)に「相違ない」ことに決めてしまって、身もだえしてくやしがった。こうした機会を待ち設けていたように持病の癪の虫が頭をもたげた。さなきだに狂いかかっている彼女は、突然におそって来た差込(さしこ)みの苦痛に狂って倒れた。それは浮橋がここを出ると間もない出来事であった。 そんな騒ぎで、八橋は仲の町へも立花屋へも、とても出て行かれる訳ではなかった。「立花屋のお客は誰でおぜえすえ」と、掛橋はまた訊いた。それは佐野の大尽であることを浮橋は話した。そうして、次郎左衛門も雷門まえで栄之丞に逢ったという話を自分もいま聴いて、不思議に思っていたところだと言った。栄之丞が病人でないことはいよいよ確かめられた。 栄之丞がなぜそんな嘘をつくのか、二人にも判らなかった。なんにしても花魁の怒るのは無理もないと思った。くやしがって癪をおこすはずだと思った。しかし、そんなことを評議している場合でない。次郎左衛門は茶屋に待っている。いつまでも沙汰なしにしておいて、機嫌を損じては悪いと思ったので、浮橋と掛橋は取りあえず仲の町へ行った。出がけに掛橋は禿を叱った。「お前がよけいな告げ口をしなんすから、こんなことにもなるのでおざんす。これからはちっと口を慎みなんし」 わたし達がいないあいだは、花魁の枕もとへ行っておとなしく坐っていろ、何か変った事があったら直ぐに遣手(やりて)衆を呼べ。いうことを肯(き)かないと、約束の蜜柑(みかん)も買ってやらない、羽根も買ってやらないと、掛橋はきびしくおどしつけて出て行った。出ると、店口で立花屋の女中に逢った。彼女は待ちかねて二度の迎いに来たのであった。 二人は女中と一緒に立花屋へ行って、花魁が急病の話をすると、女房もおどろいた。そこで相談の上で、八橋の病気がもう少し納まるまで浮橋だけが茶屋に残っていて、いい頃を見て掛橋自身が迎いに来るか、禿を使いによこすか、それまでもう少し待っていて貰いたいということになった。女房も承知した。掛橋も二階へ顔をちょっと出して、気の毒そうにその訳をことわって行った。次郎左衛門は掛橋にも十五両やった。 掛橋が二階を降りると、やがてそのあとから便所へ起つ振りをして、治六も降りた。彼はすぐに茶屋を駈け出して、江戸町(ちょう)の角で掛橋に追いついた。「八橋花魁、よっぽど悪いのかね。もしよくねえようだったら、無理に我慢して迎いをよこすことはいらねえ。きょうは引っ返してもいいんだから」「馬鹿らしい」と、掛橋は笑った。たとい花魁の病気が納まらないとしても、茶屋からすぐに帰る法はない。こっちでも帰されるものでない。ともかくも一旦兵庫屋へ来て、花魁の様子を見届けて、ほかの座敷であっさりと飲んで、それから帰るとも名代(みょうだい)を買うとも勝手にするがいい。花魁の容態の善悪にかかわらず、もう一度必ず迎いに来るから、それまでおとなしく待っていてくれと言った。そうして、彼女は「おお、寒」と、袖をかき合わせて駈けて行ってしまった。 治六は詰まらない顔をして仲の町の曲がり角に突っ立っていた。八橋の病気というのを幸いに、彼は日のあるうちに主人を連れて帰ろうと思ったのであるが、そんな浅薄(あさはか)なくわだては「馬鹿らしい」の一言に破壊された。 自分の相方の浮橋は茶屋の二階に来ているのであるが、彼はそんなことに係り合いのないようにぼんやりと考えていた。 主人は八橋にもう二百両やった。新造二人に十五両ずつやった。まだやらないが、茶屋の女房にも女中にもきっとやるに相違ない。まずあしたの朝日を拝むまでに、あわせて三百両は朝の霜のように消えてしまうものと思わなければならない。千両の三分の一はもうなくなる――こう思うと、治六は肉をそがれるように情けなかった。それでも、あしたの朝すぐに帰ればいい、もしまた未練らしくぐずぐずしていたら、きょう持って来た五百両はみんな飛んでしまう。おとなしくここまでは付いて来たものの、彼はもう主人の胸倉を掴んで引き摺って帰りたいようにもいらいら[#「いらいら」に傍点]して来た。 背中合せの松飾りはまだ見えなかったが、家々の籬(まがき)のうちには炉を切って、新造や禿(かむろ)が庭釜の火を焚(た)いていた。その焚火の煙りが夕暮れの寒い色を誘い出すように、籬を洩れて薄白く流れているのも、あわただしいようで暢(のび)やかな廓の師走らしい心持ちを見せていた。治六は煙りのゆくえを見るともなしに眺めていた。寒い風が彼の小鬢(こびん)を吹いた。     五 その頃の大音寺まえは人の家もまばらであった。枯れ田を渡る夜の風は茅(かや)屋根の軒を時どきにざらざら[#「ざらざら」に傍点]なでて通って、水谷(みずのや)の屋敷の大池では雁(がん)の声が寒そうにきこえた。 栄之丞が堀田原から帰った時には冬の日はもう暮れていた。妹のお光(みつ)の給仕で夕飯を食ってしまうと、高い空には青ざめた冷たい星が二つ三つ光って、ここらの武家屋敷も寺も百姓家も、みんな冬の夜の暗闇(くらやみ)の底に沈んでしまった。遠い百姓家に火の影がちらちら[#「ちらちら」に傍点]と揺らいで、餅を搗(つ)く音が微かに調子を取って響くほかには、ここらに春を待っている人もありそうにも思われない程に、ひっそりと静まり返っていた。栄之丞の兄妹(きょうだい)も春を待っている人ではなかった。「今も言うような訳だが、どうだ、その家(うち)へ奉公に行って見ては……」と、栄之丞はうす暗い行燈の下にうつ向いている妹に優しく言った。 彼が堀田原の知りびとをきょう訪ねたのも、その用向きであった。妹のお光ももう明ければ十八になる。年頃の娘を浪々の兄の手もとにおいて、世帯(しょたい)やつれをさせるのも可哀そうだと思って、彼は妹のために然るべき奉公口を探していた。なるべく武家奉公をと望んでいたのであるが、どうも思わしい口が見つからなかった。しかし町家ならば相当の口があると、その人が親切に言ってくれた。町人といっても、人形町(にんぎょうちょう)の三河屋という大きい金物問屋で、そこのお内儀(かみ)さんがとかく病身のために橋場(はしば)の寮に出養生をしている。台所働きの下女はあるが、ほかに手廻りの用を達(た)してくれる小間使いのような若い女がほしい。年頃は十七、八で、あまり育ちの悪くない、行儀のよい、おとなしい娘がほしいというのである。別に忙がしいというほどの用もない、給金はまず一年一両二分と決めておいて、当人の辛抱次第で着物の移り替えその他の面倒も見てやる。もし長年(ちょうねん)するようならば、嫁入りの世話までしてやってもいいというので、まず結構な奉公口である。そこへ妹をやってはどうだと勧められて、栄之丞も考えた。 浪々しても宝生なにがしの妹を町家の奉公には出したくない。たとい小身(しょうしん)でも陪臣(ばいしん)でも、武家に奉公させたいと念じていたのであるが、それも時節で仕方がない、なまじいに選り好みをしているうちに、だんだんに年が長(た)けてしまっても困る。何もこれが嫁にやるという訳でもない、長くて二年か三年の奉公である。こういう奉公口を取りはずして後悔するよりも、いっそ思い切ってやった方がよかろうと決心して、何分よろしく頼むと挨拶して帰って来た。 帰ってゆっくりとその話をすると、お光にも別に故障はなかった。「兄(にい)さまさえ御承知ならば、わたくしは何処へでもまいります」 すなおな妹の返事を聞くと、栄之丞も何だかいじらしいような暗い心持ちになった。自分がまじめに家(いえ)の芸を継いでいれば、家には相当の禄も付いている。貧乏しても奉公人の一人ぐらいは使っていられるのに、今はその妹が却って町人の家へ奉公に行く。妹にはなんの罪もない。悪い兄をもったのが禍いである。結構な口を見付けたといいながらも、兄の心はやっぱり寂しかった。「わたくしが居なくなりますと、兄さまおひとりではさぞ御不自由でございましょう」と、お光も寂しそうに言った。「いや、こっちはわたしひとりでもどうにかなる。結構な主人といったところで、どうで奉公、楽なわけにも行くまい。まあ辛抱しろ」「それで、いつから参るのでございます」「さあ、いつと決めて来たわけでもないが、むこうも歳暮(くれ)から正月にかけて人出入りも多かろうし、なるべく一日も早いがいいだろう。お前の支度さえよければ、あしたにでも目見得(めみえ)に連れて行こう」 お光はもう一日待ってくれと言った。目見得に行くといっても碌な着物も持っていない。いま縫いかけている春着はあしたでなければ仕立てあがらないから、どうかあさってに延ばしてもらいたいと言った。栄之丞も承知した。約束さえ決めて置けば一日ぐらいはどうでも構わないと言った。それにしても気が急(せ)くので、お光は夜業(よなべ)で裁縫に取りかかった。[#ここから2字下げ]――心弱しや白真弓(しらまゆみ)、ゆん手にあるは我が子ぞと、思い切りつつ親心の、闇打ちにうつつなき、わが子を夢となしにけり――[#字下げ終わり] 栄之丞は柱に倚(よ)りかかって、小声で仲光(なかみつ)を謡っていた。寒そうな風が吹いて通った。堤へ急ぐらしい駕籠屋の掛け声がきこえた。うす暗い行燈の片明かりをたよりとして、お光はしきりに針を急がせていた。 今の栄之丞には妹に春着を買ってやるような余裕はなかった。お光がいま縫っているのは、先月の末に八橋から送ってよこしたものであった。八橋はお光も識っていた。栄之丞の妹といえば自分の妹も同様であるというので、彼女は今までにもお光にいろいろの物を送ってくれた。くるわの年季があければ八橋は自分の姉になるものとお光も思っていた。粗末ではあるが春着にでもと送ってくれた一反(いったん)の山繭(やままゆ)が、丁度お目見得の晴着となったのであった。いくら奉公でも若い女が着のみ着のままでは目見得にも行かれない。これもみんな八橋のお庇(かげ)であると、お光は今更のように有難がっていた。 それが今の栄之丞には心苦しく思われてならなかった。彼は八橋と縁を切りたいと思っていた。この夏の初めに八橋から使いが来て、少し用があるから是れから直ぐに来てくれとのことであった。 昼の九つ(十二時)過ぎで、栄之丞は夏の日を編笠によけながら出て行くと、八橋の座敷には次郎左衛門が流連(いつづけ)をしていた。彼女は栄之丞にささやいて、次郎左衛門には自分の従弟(いとこ)であるように話してあるから、お前はそのつもりで逢ってくれ。きっと幾らかの金をくれるに相違ないと言った。栄之丞は面白くなかった。いやだと振り切って帰ろうとするのを、八橋はしきりに止めた。彼は渋々ながら次郎左衛門に引き合わされて、八橋が注文通りの嘘をついてしまった。相手は別に疑うような顔を見せないで、近づきのしるしにといって百両の金を惜し気もなしにくれたが、栄之丞は恐ろしくて手が出せなかった。いくら自堕落に身を持ち崩しても、彼は決して腹からの悪人ではなかった。八橋が思うように、ひとを欺(だま)して平気ではいられなかった。ましてこれが三両や五両ではない、この時代において大枚(たいまい)百両の金をひとから欺して取ろうなどとは、彼として思いもつかないことであった。栄之丞はたって辞退してその金を受取らなかった。 彼がその金を断わったのは、ひとを欺すことのできない彼の正直な心から出たのでもあったが、もう一つ彼を恐れさせたのは、次郎左衛門その人の容貌と態度とであった。案外に正直らしい、鷹揚(おうよう)な、しかもその底には怖ろしい野性がひそんでいるらしい彼の前に曳き出された時に、栄之丞は言い知れぬ怖れを感じた。ひとを欺(だま)すことのできない彼は、いよいよこの人を欺すことを怖ろしく感じたのであった。「ぬしも気が弱い。なぜあの金を断わってしまいなんしたえ」 八橋はあとで失望したように言った。「いや、あの人を欺すのは悪い。ああいう人を欺すと殺されるぞ」と、栄之丞はおびえたように言った。八橋はただ笑っていた。 その以来、栄之丞は八橋に近づくことがなんだか忌(いや)になって来た。いかにひとを欺すのが商売でも八橋の仕方は余りに大胆だと思った。一面からいえば、あまりに残酷だとも思った。廓(くるわ)の水に染みると、こうも冷たい心にもなるものかと、彼はそぞろに怖ろしくもなった。それから惹(ひ)いて次郎左衛門の恨みを買うことを怖ろしかった。彼は相変らず八橋を懐かしいものに思いながらも、以前のように足近くかよって行く気にはなれなかった。それと同時に、彼はもう少しまじめになって、女を頼らずに生きてゆく方法を考えなければならないと思い立った。 それからいろいろに奔走して、この冬の初めから謡いの出稽古の口を見つけ出した。それは堀田原のある御家人(ごけにん)の家で、主人のほかに四、五人の友達が集まって、一六(いちろく)の日に栄之丞の出稽古を頼むということになった。それで乏しいながらも、どうにかこうにか食って行くだけの凌ぎは付けられるようになった。お光の奉公口もここの主人が親切に探してくれたのであった。「兄(にい)さま。なぜこの頃は八橋さんの所へお越しにならないのでございます」 文(ふみ)が来ても、使いが来ても、なるべく避けているらしい兄(あに)のこの頃の様子をお光は不思議に思っていたが、栄之丞は妹にその訳を明かさなかった。八橋の方からは時どきに金を送ってくれた。品物も届けてくれた。それを断わるのも辛(つら)し、受け取るのも辛いので、栄之丞はそのたびごとに言うに言われない忌(いや)な思いをさせられた。 その次郎左衛門にきょう測(はか)らずも途中で出逢った。むこうではなんにも知らないような風で馴れなれしく話しかけたが、こっちは気が咎めてならなかった。栄之丞は早々にはずして逃げて来た。こっちの気のせいか、きょうは取り分けて次郎左衛門の眼つきがおそろしく見えた。こういう人を欺しては末がおそろしいと、彼はつくづく考えた。 次郎左衛門はあれから直ぐに吉原へ行ったに相違ない。今頃は八橋が彼にむかってどんなことを言っているだろう。自分の噂も出たかも知れない。それを思うと、栄之丞はますます忌な心持ちになった。妹が一心に縫っているのは、八橋から送ってくれた品である。それを見ながら栄之丞は次郎左衛門と八橋との行く末を考えたりしていた。八橋が自分のために癪をおこして半病人になっていようなどとは、彼は思いも付かなかった。「これで妹のからだも落ちつく。おれも細ぼそながら、食(く)い続(つづ)きはできそうになって来た。不人情のようでもあるが、ここでいっそ思い切って八橋と離ればなれになってしまおうか。なんといっても向うは籠の鳥だ。こっちさえ寄り付かなければいい」 次郎左衛門を欺すと欺さないとは八橋の勝手であるが、自分だけはその係り合いを抜けたいと彼は思った。しかし、八橋に対してそれも余り薄情のようにも思われた。 ふんべつに迷った彼は、気をまぎらすために又もや小声で謡い始めると、お光はふと振り向いて訊いた。「兄さま。わたくしが橋場へまいることを、八橋さんへ一筆(ひとふで)知らせてやりましょうか」 お光は八橋と文通をしていた。兄の使いで吉原へ行ったこともあった。「いや、それにも及ぶまい。わたしからそのうちに知らせてやる。廓の者は無考えだから、お前の奉公さきへ返事などをよこされると迷惑だ。まあ止した方がよかろう」「そうでございますねえ」 お光はおとなしく黙ってしまった。     六 次郎左衛門はその明くる日も、またその明くる日も流連(いつづけ)をして帰った。馬喰町の佐野屋の閾(しきい)をまたいだのは、師走の二十四日の四つ頃(午前十時)で、彼は近所の銭湯へ行って、帰るとすぐに夕方まで高いびきで寝てしまった。「治六さん。相変らず長逗留だったね」と、佐野屋の亭主が顔をしかめてささやいた。「どうも仕方がねえ」と、治六もあきらめたように溜め息をついていた。しかしただ諦めてはいられないので、彼は亭主になんとかいい工夫はあるまいかと更に相談した。「いっそ、その花魁を請け出したらどうだろう」 亭主はしまいにそんなことを言い出した。こういう風にだらしなく金をつかっていたら、千両が二千両でも堪まったものではない。いっそ千両の金をたんと減らさないうちに八橋を請け出してしまって、残った金でどんな小商いでもはじめる。その方が却って無事かも知れないと彼は言った。 治六も考えた。さきおとといからの流連でも、自分が恐れていたほどに金は懸からなかった。ここの亭主に預けてある五百両のほかに、まだ百六七十両は確かに残っている。もし四、五百両ぐらいで、そっと八橋の身請(みう)けができるものならば、いっそそうした方が無事かも知れないと考えた。「花魁の身請けは幾らぐらいかかるだろうね」と、彼は試みに亭主に訊いた。 亭主も首をひねった。幾らの金があればこの問題が解決するのか、彼にも確かな見当は付かなかった。百両で身請けのできるのもあれば、千両かかるのもある。しかし、吉原で大兵庫屋の花魁を請け出すという以上は、何かの雑用(ぞうよう)を見積もって、まず千両仕事であるらしく思われた。その話を聴いて、治六も同じく首をかしげた。「千両かかっちゃあ大変だ。どうにもならねえ」 もともと千両しかない金のうちが、もう三分の一ほどは食い込んでいる。千両の身請けはとてもできない。たとい残りの三分の二で、どうやらこうやら埒が明いたところで、主人と花魁と自分との三人が一文なしではどうにもならない。して見ると、八橋の身請けなど初めからできない相談であった。「だが、一概にはいえない。花魁の借金が案外すくないようならば、親許(おやもと)身請けとでもいうことにして、なるべく眼立たないようにすれば、千両の半分でも話が付かないとも限らないが……。いったい花魁の借金はどの位あるんだろう」と、亭主はまた言った。 それは治六も知らなかった。しかし旦那は大抵知っているに相違ない。一応はそれとなく次郎左衛門に訊いて見て、とても出来そうもないことならば、その儘に聞き流してしまうもよし、又どうにか手出しのできそうな話であったら、改めて自分の考えも言い、旦那の料簡も訊いて見ようと、彼は亭主と相談して別れた。 日が暮れて、夜食の膳が運び出される頃になって、次郎左衛門はようよう眼を醒ました。彼は治六に、もうなんどきだと訊いた。すぐに駕籠を呼べとでも言いそうな気色(けしき)なので、治六は先(せん)を越して八橋の身代(みのしろ)を訊くと、次郎左衛門は知らないと言った。いずれにしても今の身の上では八橋を請け出すことはむずかしかろうと言った。請け出したところで連れて来る所もないと言った。「いっそ早くに請け出した方がよかったかも知れない」 次郎左衛門は今さら悔(くや)むように言った。この春よし原でつかった金だけでも、八橋の身請けは立派にできたのである。しかし自分は八橋の意見に従って、もとの堅気の百姓になろうと思っていた。堅気の百姓の家へ吉原の遊女を引き入れる訳にはゆかない。第一に親類の苦情が面倒である。それらの事情に妨げられて、今まで身請けを延引(えんいん)していたのであったが、こうなると知ったらば半年まえに思い切って身請けをしてしまった方が優(ま)しであった。それを悔んでももう遅い。自分はこの金のある限り、八橋に逢いつづけて、いよいよ金のなくなったあかつきに、なんとか料簡を決めるよりほかはないと言った。 その暁にどういう料簡を付けるのか、治六はそれを心もとなく思った。勿論、根掘り葉掘り詮議したところで、どうで要領を得るような返事を受取ることのできないのは万々(ばんばん)承知しているので、彼もそのままに口をつぐんでしまった。あかりがついて、夜の町に師走の人の往き来が繁くなると、次郎左衛門は果たして駕籠を呼べと言い出した。しょせん止めても止まらないと思ったので、治六も一緒に供をして行った。 その晩、治六は自分の相方の浮橋にむかって、それとなく八橋の身代のことを探って見ると、浮橋は急にまじめになった。「なぜそんなことを聞きなんす。身請けの下ばなしでもありいすのかえ」「なに、別にそういう訳じゃあねえ」と、治六はいい加減に胡麻化してしまったつもりでいた。 しかし相手の方では胡麻化されていなかった。くるわに馴れている彼女は、これを治六の一料簡ではないと見た。主人の次郎左衛門と内々相談の上で、それとなくさぐりを入れるに相違ないと鑑定した。彼女は直ぐにそれを花魁に耳打ちすると、八橋はしばらく考えていた。「あとでその御家来さんに逢わせておくんなんし」 引け過ぎになって、次郎左衛門を寝かしつけてから、八橋は治六の名代部屋(みょうだいべや)へそっと忍んで来た。浮橋をそばにおいて、彼女は身請けの話を言い出した。彼女も浮橋の考えた通りに、それはお前の一存ではあるまい、主人に言い付けられてよそながら捜るのであろうと言った。治六は決してそんな訳ではない、ただ一時の気まぐれに訊いて見ただけのことだとまじめに言い訳をしたが、二人の女はなかなか承知しなかった。なんでも正直に白状しろと責めた。「口は禍いの門(かど)で、飛んでもねえことになったが、まったくなんでもねえことでがすよ」と、治六も困り切っておろおろ声になった。「嘘をつきなんし」「隠すと、抓(つね)りんすによ」 八橋は睨んだ。浮橋は小突(こづ)いた。そうして、お前が言わなければ言わないでもいい、わたしが直かに主人に訊いてみると八橋は言った。そんなことを主人の耳に入れられては困ると、治六はあわててさえぎった。困るならば素直に言えと、二人は嵩(かさ)にかかって責めた。 防ぎ切れなくなって、治六もとうとう白状した。主人がいつまでも廓がよいをして、こういう風に無駄な金をつかっていては際限がない。廉(やす)い金でできることならば、いっそここで花魁を請け出してしまった方がいいと思ったので、ほんの自分の一料簡で訊いて見たまでのことである。主人はまったく知らないことであると、何もかも打ち明けて話した。それを聴いて、八橋は又かんがえていた。そうして、幾らぐらいまでの金を出してくれることが出来るのだと訊いた。「まず、三、四百両、その上はむずかしい」と、治六は正直に答えた。 二人の女は顔を見合せた。とても問題にならないとでもいうふうに、八橋はただ笑って起って行ってしまった。「久し振りの土産にさえ二百両もくれなんした佐野の大尽が、おいらんの身請けを四百両や五百両で……。ほほ、馬鹿らしい」と、浮橋もあざけるように笑った。 この廓へ足踏みをしてから、彼は幾たびかこの「馬鹿らしい」を浴びせられているので、治六は別に恥かしくも腹立たしくも感じなかったが、今の二人の顔色や口ぶりによると、身請けなどという相談はとても今の懐ろでは出来ないものと諦めるよりほかはなかった。 そうすると、主人は相変らず現在の放蕩を続けてゆく。金はみすみす減ってゆく。それから先きはどうなるだろうと思うと、彼は実に気が気でなかった。こうして暖かい蒲団の上に坐っていても、彼の胸には冬の夜の寒さが沁み渡るようにも思われた。しかもその「馬鹿らしい」ことを言った祟(たた)りで、彼は浮橋にさんざん振り付けられた。 けさも流連(いつづけ)かとひやひやしていると、次郎左衛門は思い切りよく朝の霜を踏んで帰った。途中はなんにも言わなかったが、馬喰町へ帰ると彼は怖い顔をして治六に宣告した。「貴様には暇をくれる。どこへでも勝手に行け」 ゆうべの祟りの余りに劇(はげ)しいのに治六も驚かされた。なぜ暇をくれると言うのか、それに就いて次郎左衛門はなんにも説明を与えなかったが、かの身請けの一条を八橋が訴えたものに相違ない。主人に恥をかかした――それが勘当の根となったことは、治六にもたやすく想像されたので、彼はいろいろに言い訳をしてあやまった。八橋の身請けのことを口走ったのも決して悪気ではない、つまりは旦那さまのおためを思うがためであったと、彼は泣いて言い訳をした。「今更ぐずぐず言うな。出て行け」 次郎左衛門はどうしても取り合わなかった。それでも十両の金をくれて、すぐにここを出て行けと言った。治六も途方に暮れて、帳場へ行って亭主に泣きついた。亭主もおどろいて二階へ行って共どもに口を添えて取りなしたが、次郎左衛門はやはり肯(き)かなかった。 いったん言い出したらあとへは戻らない主人の気質(きしつ)を呑み込んでいるので、治六もあきらめて階下(した)へ降りた。「ご亭主さん。いろいろ有難うごぜえました。これもわしの不運で仕方がごぜえませんよ」「だが、旦那の料簡が判らない。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:133 KB

担当:undef