お住の霊
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著者名:岡本綺堂 

 これは小生(わたくし)の父が、眼前(まのあたり)に見届けたとは申し兼(かね)るが、直接にその本人から聞取った一種の怪談で今はむかし文久の頃の事。その思召(おぼしめし)[#ルビの「おぼしめし」は底本では「そのおぼしめし」]で御覧を願う。その頃、麹町霞ヶ関に江原桂助という旗下(これは漢学に達して、後には御目附に出身した人)が住んでいた。その妹(いもご)は五年以前、飯田町に邸(やしき)を構えている同じ旗下で何某隼人(この家は今も残っているから、姓だけは憚る)という人の許(もと)へ縁付き、児まで儲けて睦じく暮らしていたが、ある日だしぬけに実家(さと)へ尋ねて来て、どうか離縁を申し込んでくれと云う。兄も驚いて、これが昨日今日の仲でも無し、縁でこそあれ五年越しも睦じく連添っていたものを、今更突然に出るの去るのと云うは一向その意を得ぬ事、一体どうした情由(わけ)だと、最初(はじめ)は物柔かに尋ねたが、妹は容易にその仔細を明かさずただ一刻も彼(あ)の邸には居られませぬと云う。けれども小児(こども)では無し、ただ嫌だ、一刻も居られぬとばかりでは事が済まぬ、その仔細を云え、情由を話せと厳しく詰問すると、妹は今は據(よんどころ)なく、顔色変えて語り出したのが、即ち次の怪談で――。
 妾(わたくし)が彼(あ)の邸へ縁付きましてから、今年で丁度満(まる)五年その間別に変わった事もございませんでしたが、今から十日ほど以前(まえ)の晩、時刻は子(ね)の刻過でもありましょうか、薄暗い行燈(あんどう)のかげに何物(なに)か居て、もしもしと細い声で妾(わたくし)を呼起しますから、何心なく枕をあげて視(み)ると、年齢(とし)は十八九頭は散し髪で顔色(いろ)の蒼ざめた女、不思議な事には頭から着物までビショ湿(ぬ)れに湿(ぬれ)しおれた女が、悲しそうに悄然(しょんぼり)座って居りました。おやッと思う中に、その女はスルスルと枕辺(まくらもと)へ這って来て、どうぞお助け下さい、ご免なすッて下さいと、乱れ髪を畳に摺付けて潜然(さめざめ)と泣く。その姿の悲惨(いじら)しいような、怖しいような、何とも云えない心持がして、思わずハッと眼を閉じると、燈火(あかり)は消える、女の姿も消える。この途端に抱寝していた小児(こども)が俄に魘(おび)えて、アレ住(すみ)が来た、怖いよゥと火の付くように泣立てる。ようよう欺し賺(すか)してその晩は兎(と)もかく寝付きましたが、その翌(あく)る晩も右の散し髪の湿しおれた女が枕辺に這い寄って、御免下さい御免下さいと悲しそうに訴える、その都度に小児までが夢に魘(おそ)われて、アレ住が来た、ソレ住が来た、怖い怖いと泣いて騒ぐ、妾は心の迷いという事もありましょうが、何にも知らぬ三歳(みつ)や四歳(よつ)の小児が、何を怖がって何を泣くか一向解りませぬ、その上何(ど)うして住という名を識って居りますか、それも解りませぬ。それが一晩や二晩でなく三晩も四晩も、昨夜(ゆうべ)でモウ十日も続くのでございますから、とても我慢も辛抱もできません。その蒼ざめた顔その悲しそうな声、今も眼に着いて耳について、思い出しても悚然(ぞっ)とします――と声顫(ふる)わせて物語る。
 兄は武士、斯(か)くと聞くより冷笑(あざわら)って、お前も武士の女房でないか、幽霊の変化のと云う物が斯世(このよ)にあろうと思うか、馬鹿も好(いい)加減にしろと頭ごなしに叱り付けたが妹は中々承知せず、何(ど)うあっても彼(あ)の邸には居られませぬと思い入ったる気色(けしき)に、兄も殆ど持余(もてあま)して、これには何か仔細があろう、妹の片言ばかりでは証にならぬから、兎もかくも一応先方へ問合せた上、また分別もあろうと思案して、取あえず飯田町の邸へ出向いて主人(あるじ)の隼人に面会し、さて甚だ馬鹿馬鹿しい事で、実にお噺にもならぬ次第ではあるが、妹が斯(か)く斯く申して是非とも離縁を申し込んで呉れと云う、ついては右に付き、何か御心当りの事でもござろうかと尋ねると、隼人も最初(はじめ)は笑い、後には眉を顰めて、それは近ごろ不思議な事を承わる、御存知の通り、拙者は当邸(やしき)に生れて已に二十余年に相成るが、左様な事は見もせず聞も及ばぬ、しかし拙者の妻に限って毎夜左様な不思議を見るというも何分解(げ)し難き次第、兎も角も念の為に一応詮議致して見ましょうと云うので、年古く召仕っている下女下男などを呼出して、何か心当りの事でもないか、その以前に邸内で変死した者でもあるかと吟味したが、何(いず)れも顔を見合せるばかりで返答(こたえ)がない。しかしその女が湿(ぬれ)しおたれて居ると云うのを見れば、或は水死した者ではあるまいか、とてもの事に池を探して見ろと隼人が云う。
 何さま斯(こ)の邸には大きな池があって、水の淀んで碧黒い処(ところ)には水草が一面に漂っていて、夏になれば蛇や蛙宮守(やもり)[#「宮守」はママ]の棲家となる、殊(こと)にこの池は中々底深いと聞くから、或はこの水中に何物か沈んでいるのではあるまいか、物は試しで一応その掻堀(かいぼり)をして見ろと云うことになって、下男や家来共はその用意に取かかる処(ところ)へ、この噂を聞いて奥から怖々(おずおず)出て来たのは、当年八十歳の女隠居で、当主隼人の祖母に当る人だ。見ると、手には珠数を爪繰って、口には何か念仏を唱えている。
 この隠居が椽端(えんばた)近く歩み出て、今や掻堀を面白半分に騒ぎ立つ家来共を制して、もうもうそれには及びませぬ、縡(こと)の仔細は妾(わし)が能(よ)う知っていますと云うから、一同も不思議に思ってその顔を見つめていると、隠居は思わず大息ついて、アア悪い事は出来ぬもの、成ほど住も迷って来ましょう思えば怖しい事、南無阿弥陀仏と念じながら、ここに語り出す懺悔噺を聴くと、当主の祖父が未だ在世の頃、手廻りの侍女(こしもと)にお住と云う眉目妍(みめよ)い女があって、是に主人が手をつけて何日(いつ)かお住は懐妊の様子、これをその奥様即ちこの隠居が悟って、お定まりの嫉妬から或日の事、主人の殿が不在(るす)を幸いに、右のお住を庭前へ引据えて散々に折檻し、その半死半生になったのをそのままに捨て置いた。で、お住は苦しいと口惜(くやし)いに心も乱れたと見えて、いつかその池の畔(ほとり)へ這寄って、水底深く沈んで了(しま)ったとは、如何にも無惨極まる次第で、その時代の事であるから何事も内分に済せて、死骸は親許(もと)へ引渡し、それで無雑作に埒が明いた、しかしその後に別に怪しい事もなく、その主人は已に世を去り、その息子も世を去って、当主隼人の代になった、その間恰(あたか)も五十年を経過しているから、その頃の奉公人なども或は死し、或は暇を取って、当時は誰もこれを知る者もなく、現に当主の隼人すらも一向に知らぬ位、随(したが)って他から縁付いた江原の妹やましてその小児などが夢にも知ろう筈はなく、又曾てそんな事があったろうと偶然に思い付く道理もない。知っていればこそ心の迷いも起れ、知らぬ者の眼に怪しい影の映ろう筈がなく、ましてその小児がお住の名を知って居ろう筈がない、シテ見れば正しくお住その者の幽魂が迷って出たに相違ない。数うれば当年(ことし)は恰もその五十回忌に相当すると、隠居は懺愧と恐怖に顔色を変えて了った。
 隠居一人が胸に秘めて、五十年来誰にも洩さなかった秘密が、ここに初めて露見したので、孫の隼人を初め江原も縡(こと)の不思議に驚いて、この上は唯一図(いちず)に嘘だとか馬鹿馬鹿しいとか云(いい)消して了う訳には往かぬ。殊に当年が五十回忌に相当するというもいよいよ不思議と、何れも奇異の感に打れて、兎も角もそのお住の得脱(とくだつ)成仏(じょうぶつ)するように、仏事供養を営むが可かろうという事に一決して、一同その墓所へ参詣し、懇切(ねんごろ)に回向した。で、その幽魂が果して成仏したかどうか知らぬが、その後は何の不思議もなく、妹も旧の如くその邸へ戻って夫婦睦じく暮したという。
 私も武士、且(かつ)は青表紙の一冊も読んだ者、世に幽霊や妖怪変化があろうとは、どうしても信じられぬが、この一条ばかりは何分にも合点が往かぬ。その亭主も知らず、まして当人は夢にも知らぬ女の姿がありありと眼に映り、しかも小児までがその名を知っていると云うのは、どういう情由(わけ)であろう。実に世には理外の理というものが有るものだと、右の江原が折々に人に語って生涯その疑惑(うたがい)が解(とけ)なかったとの事。
(『文藝倶楽部』02[#「02」は縦中横]年4月号)*不通庵〈妖怪談〉より。筆名は「狂生」使用。



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