食魔
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著者名:岡本かの子 

 菊萵苣(きくぢさ)と和名はついているが、原名のアンディーヴと呼ぶ方が食通の間には通りがよいようである。その蔬菜(そさい)が姉娘のお千代の手で水洗いされ笊(ざる)で水を切って部屋のまん中の台俎板(だいまないた)の上に置かれた。
 素人の家にしては道具万端整っている料理部屋である。ただ少し手狭なようだ。
 若い料理教師の鼈四郎(べつしろう)は椅子(いす)に踏み反り返り煙草(たばこ)の手を止めて戸外の物音を聞き澄ましている。外では初冬の風が町の雑音を吹き靡(なび)けている。それは都会の木枯しとでもいえそうな賑(にぎや)かで寂しい音だ。
 妹娘のお絹はこどものように、姉のあとについて一々、姉のすることを覗(のぞ)いて来たが、今は台俎板の傍に立って笊の中の蔬菜を見入る。蔬菜は小柄で、ちょうど白菜を中指の丈けあまりに縮めた形である。しかし胴の肥(ふと)り方の可憐(かれん)で、貴重品の感じがするところは、譬(たと)えば蕗(ふき)の薹(とう)といったような、草の芽株に属するたちの品かともおもえる。
 笊の目から□(した)った蔬菜の雫(しずく)が、まだ新しい台俎板の面に濡木(ぬれぎ)の肌の地図を浸み拡(ひろ)げて行く勢いも鈍って来た。その間に、棚や、戸棚や抽出(ひきだ)しから、調理に使いそうな道具と、薬味容(やくみい)れを、おずおず運び出しては台俎板の上に並べていたお千代は、並び終えても動かない料理教師の姿に少し不安になった。自分よりは教師に容易く口の利ける妹に、用意万端整ったことを教師に告げよと、目まぜをする。妹は知らん顔をしている。
 若い料理教師は、煙草の喫(す)い殻を屑籠(くずかご)の中に投げ込み立上って来た。じろりと台俎板の上を見亙(みわた)す。これはいらんという道具を二三品、抽(ぬ)き出して台俎板の向う側へ黙って抛(ほう)り出した。
 それから、笊の蔬菜を白磁の鉢の中に移した。わざと肩肘(かたひじ)を張るのではないかと思えるほどの横柄な所作は、また荒っぽく無雑作に見えた。教師は左の手で一つの匙(さじ)を、鉢の蔬菜の上へ控えた。塩と胡椒(こしょう)と辛子(からし)を入れる。酢を入れる。そうしてから右の手で取上げたフォークの尖(さき)で匙の酢を掻(か)き混ぜる段になると、急に神経質な様子を見せた。狭い匙の中でフォークの尖はミシン機械のように動く。それは卑劣と思えるほど小器用で脇(わき)の下がこそばゆくなる。酢の面に縮緬皺(ちりめんじわ)のようなさざなみか果てしもなく立つ。
 妹娘のお絹は彼の矛盾にくすりと笑った。鼈四郎は手の働きは止めず眼だけ横眼にじろりと睨(にら)んだ。
 姉娘の方が肝が冷えた。
 匙の酢は鉢の蔬菜の上へ万遍(まんべん)なく撒(ま)き注がれた。
 若い料理教師は、再び鉢の上へ銀の匙を横へ、今度はオレフ油を罎(びん)から注いだ。
「酢の一に対して、油は三の割合」
 厳かな宣告のようにこういい放ち、匙で三杯、オレフ油を蔬菜の上に撒き注ぐときには、教師は再び横柄で、無雑作で、冷淡な態度を採上げていた。
 およそ和(あ)えものの和え方は、女の化粧と同じで、できるだけ生地(きじ)の新鮮味を損(そこな)わないようにしなければならぬ。掻き交ぜ過ぎた和えものはお白粉(しろい)を塗りたくった顔と同じで気韻(きいん)は生動しない。
「揚ものの衣の粉の掻き交ぜ方だって同じことだ」
 こんな意味のことを喋(しゃべ)った鼈四郎は、自分のいったことを立証するように、鉢の中の蔬菜を大ざっぱに掻き交ぜた。それでいて蔬菜が底の方からむらなく攪乱(かくらん)されるさまはやはり手馴(てな)れの技倆(ぎりょう)らしかった。
 アンディーヴの戻茎の群れは白磁の鉢の中に在って油の照りが行亙り、硝子越(ガラスご)しの日ざしを鋭く撥(は)ね上げた。
 蔬菜の浅黄いろを眼に染(し)ませるように香辛入りの酢が匂(にお)う。それは初冬ながら、もはや早春が訪れでもしたような爽(さわや)かさであった。
 鼈四郎は今度は匙をナイフに換えて、蔬菜の群れを鉢の中のまま、ざっと截(き)り捌(さば)いた。程のよろしき部分の截片を覗(うかが)ってフォークでぐざと刺し取り、
「食って見給え」
 と姉娘の前へ突き出した。その態度は物の味の試しを勧めるというより芝居でしれ者が脅(おど)しに突出す白刃に似ていた。
 お千代はおどおどしてしまって胸をあとへ引き、妹へ譲り加減に妹の方へ顔をそ向けた。
「おや。――じゃ。さあ」
 鼈四郎はフォークを妹娘の胸さきへ移した。
 お絹は滑らかな頸(くび)の奥で、喉頭(こうとう)をこくりと動かした。煙るような長い睫(まつげ)の間から瞳(ひとみ)を凝らしてフォークに眼を遣(や)り、瞳の焦点が截片に中(あた)ると同時に、小丸い指尖(ゆびさき)を出してアンディーヴを撮(つま)み取った。お絹の小隆い鼻の、種子(たね)の形をした鼻の穴が食慾で拡がった。
 アンディーヴの截片はお絹の口の中で慎重に噛(か)み砕かれた。青酸(あおずっぱ)い滋味が漿液(しょうえき)となり嚥下(のみくだ)される刹那(せつな)に、あなやと心をうつろにするうまさがお絹の胸をときめかした。物憎いことには、あとの口腔(こうこう)に淡い苦味が二日月(ふつかづき)の影のようにほのかにとどまったことだ。この淡い苦味は、またさっき喰(た)べた昼食の肉の味のしつこい記憶を軽く拭(ふ)き消して、親しみ返せる想(おも)い出にした。アンディーヴの截片はこの効果を起すと共に、それ自身、食べて食べた負担を感ぜしめないほど軟く口の中で尽きた。滓(かす)というほどのものも残らない。
「口惜しいけれど、おいしいわよ」
 お絹は唾液(だえき)がにじんだ脣(くちびる)の角を手の甲でちょっと押えてこういった。
「うまかろう。だから食ものは食ってから、文句をいいなさいというのだ」
 鼈四郎の小さい眼が得意そうに輝いた。
「ふだん人に難癖をつける娘も、僕の作った食もののうまさには一言も無いぜ。どうだ参ったか」
 鼈四郎は追い討ちしていい放った。
 お絹は両袖(りょうそで)を胸へ抱え上げてくるりと若い料理教師に背を向けながら、
「参ったことにしとくわ」
 と笑い声で応けた。
 ふだん言葉かたき同志の若い料理教師と、妹との間に、これ以上のうるさい口争いもなく、さればといって因縁を深めるような意地の張り合いもなく、あっさり済んでしまったのをみて、お千代はほっとした。安心するとこの姉にも試しに食べてみたい気持がこみ上げて来た。
「じゃ、あたしも一つ食べてみようかしら」
 とよそ事のようにいいながらそっと指尖を鉢に送って小さい截片を一つ撮み取って食べる。
「あら、ほんとにおいしいのね」
 眼を空にして、割烹衣(かっぽうい)の端で口を拭(ぬぐ)っているときお千代は少し顔を赭(あから)めた。お絹は姉の肩越しに、アンディーヴの鉢を覗き込んだが、
「鼈四郎さん、それ取っといてね、晩のご飯のとき食べるわ」
 そういった。
 巻煙草(まきたばこ)を取出していた鼈四郎(べつしろう)はこれを聞くと、煙草を口に銜(くわ)えたまま鉢を掴(つか)み上げ臂(ひじ)を伸して屑箱(くずばこ)の中へあけてしまった。
「あらッ!」
「料理だって音楽的のものさ、同じうまみがそう晩までも続くものか、刹那(せつな)に充実し刹那に消える。そこに料理は最高の芸術だといえる性質があるのだ」
 お絹は屑箱の中からまだ覗(のぞ)いているアンディーヴの早春の色を見遣(みや)りながら
「鼈四郎の意地悪る」
 と口惜しそうにいった。「おとうさまにいいつけてやるから」と若い料理教師を睨(にら)んだ。お千代も黙ってはいられない気がして妹の肩へ手を置いて、お交際(つきあ)いに睨んだ。
 令嬢たちの四つの瞳(ひとみ)を受けて、鼈四郎はさすがに眩(まぶ)しいらしく小さい眼をしばたたいて伏せた。態度はいよいよ傲慢(ごうまん)に、肩肘(かたひじ)張って口の煙草にマッチで火をつけてから
「そんなに食ってみたいのなら、晩に自分たちで作って食いなさい。それも今のものそっくりの模倣じゃいかんよ。何か自分の工風(くふう)を加えて、――料理だって独創が肝心だ」
 まだ中に蔬菜(そさい)が残っている紙袋をお絹の前の台俎板(だいまないた)へ抛(ほう)り出した。
 これといって学歴も無い素人出の料理教師が、なにかにつけて理窟を捏(こ)ね芸術家振りたがるのは片腹痛い。だがこの青年が身も魂も食ものに殉じていることは確だ。若い身空で女の襷(たすき)をして漬物樽(つけものだる)の糠(ぬか)加減(かげん)を弄(いじ)っている姿なぞは頼まれてもできる芸ではない。生れ附き飛び離れた食辛棒(くいしんぼう)なのだろうか、それとも意趣があって懸命にこの本能に縋(すが)り通して行こうとしているのか。
 お絹のこころに鼈四郎がいい捨てた言葉の切れ端が蘇(よみがえ)って来る。「世は遷(うつ)り人は代るが、人間の食意地は変らない」「食ものぐらい正直なものはない、うまいかまずいかすぐ判る」「うまさということは神秘だ」――それは人間の他の本能とその対象物との間の魅力に就(つい)てもいえることなのだが、鼈四郎がいうとき特にこの一味だけがそれであるように受取らせる。ひょっとしたらこの青年は性情の片端者なのではあるまいか、他の性情や感覚や才能まで、その芽を□(も)ぎ取られ、いのちは止むなく食味の一方に育ち上った。鼈四郎が料理をしてみせるとき味利きということをしたことが無い。身体全体が舌の代表となっていて、料理の所作の順序、運び、拍子、そんなもののカンから味の調不調の結果がひとりでに見分けられるらしい。食慾だけ取立てられて人類の文化に寄与すべく運命付けられた畸形(きけい)な天才。天才は大概片端者だという。そういえばこの端麗な食青年にも愚かしいものの持つ美しさがあって、それが素焼の壺(つぼ)とも造花とも感じさせる。情慾が食気にだけ偏ってしまって普通の人情に及ぼさないためかしらん。
 一ばん口数を利く妹娘のお絹がこんな考えに耽(ふけ)ってしまっていると、もはや三人の間には形の上の繋(つなが)りがなく、鼈四郎はしきりに煙草の煙を吹き上げては椅子(いす)に踏み反って行くだけ、姉娘のお千代は、居竦(いすく)まされる辛(つら)さに堪えないというふうにこそこそ料理道具の後片付けをしている。一しきり風が窓硝子(まどガラス)に砂ほこりを吹き当てる音が極立(きわだ)つ。
「天才にしても」とお絹はひとり言のようにいった。
「男の癖にお料理がうまいなんて、ずいぶん下卑(げび)た天才だわよ」
 と鼈四郎の顔を見ていった。
 それから溜(たま)ったものを吐き出すように、続けさまに笑った。
 鼈四郎はむっとしてお絹の方を見たが、こみ上げるものを飲み込んでしまったらしい。
「さあ、帰るかな」
 としょんぼり立上ると、ストーヴの角に置いた帽子を取ると送りに立った姉娘に向い
「きょうは、おとうさんに会ってかないからよろしくって、いっといて呉(く)れ給え」
 といって御用聞きの出入り口から出て行った。


 靴の裏と大地の堅さとの間に、さりさり砂ほこりが感じられる初冬の町を歩るいて鼈四郎は自宅へ帰りかかった。姉妹の娘に料理を教えに行く荒木家蛍雪館のある芝の愛宕台(あたごだい)と自宅のある京橋区の中橋広小路との間に相当の距離はあるのだが、彼は最寄(もより)の電車筋へも出ずゆっくり歩るいて行った。
 一つは電車賃さえ倹約の身の上だが、急いで用も無い身体である。もう一つの理由はトンネル横町と呼ばれる変った巷路(こうろ)を通り度(た)いためでもある。
 いずれは明治初期の早急な洋物輸入熱の名残りであろう。街の小道の上に煉瓦(れんが)積みのトンネルが幅広く架け渡され、その上は二階家のようにして住んでいるらしい。瓦屋根(かわらやね)の下の壁に切ってある横窓からはこどもの着ものなど、竹竿で干し出されているのをときどき見受ける。
 鼠色(ねずみいろ)の瓦屋根も、黄土色の壁も、トンネルの紅色の煉瓦も、燻(いぶ)されまた晒(さら)されて、すっかり原色を失い、これを舌の風味にしたなら裸麦で作った黒パンの感じだと鼈四郎はいつも思う。そしてこの性を抜いた豪華の空骸(なきがら)に向け、左右から両側になって取り付いている二階建の小さい長屋は、そのくすんだねばねばした感じから、鶫(つぐみ)の腸(わた)の塩辛のようにも思う。鼈四郎はわたりの風趣を強いて食味に翻訳して味わうとではないが、ここへ彼は来ると、裸麦の匂(にお)いや、鶫の腸にまで染(し)みている木の実の匂いがひとりでにした。佐久間町の大銀杏(おおいちょう)が長屋を掠(かす)めて箒(ほうき)のように見える。
 彼はこの横町に入り、トンネルを抜け横町が尽きて、やや広い通りに折れ曲るまでの間は自分の数奇の生立ちや、燃え盛る野心や、ままならぬ浮世や、癪(しゃく)に触る現在の境遇をしばし忘れて、靉靆(あいたい)とした気持になれた。それはこの上墜(お)ちようもない世の底に身を置く泰(やす)らかさと現実離れのした高貴性に魂を提げられる思いとが一つに中和していた。これを侘(わ)びとでもいうのかしらんと鼈四郎は考える。この巷路を通り抜ける間は、姿形に現れるほども彼は自分が素直な人間になっているのを意識するのであった。ならば振り戻って、もう一度トンネルを潜(くぐ)ることによって、靉靆とした意識に浸り還(かえ)せるかというと、そうはゆかなかった。感銘は一度限りであった。引き返してトンネル横町を徘徊(はいかい)してもただ汚らしく和洋蕪雑(わようぶざつ)に混っている擬(まが)いものの感じのする街に過ぎなかった。それゆえ彼は、蛍雪館へ教えに通う往き来のどちらかにだけ日に一度通り過ぎた。
 土橋を渡って、西仲通りに歩るきかかるとちらほら町には灯が入って来た。鼈四郎はそこから中橋広小路の自宅までの僅(わずか)な道程を不自然な曲り方をして歩るいた。表通りへ出てみたりまた横町へ折れ戻り、そして露路の中へ切れ込んだりした。彼が覗(のぞ)き込む要所要所には必ず大小の食もの屋の店先があった。彼はそれ等の店先を通りかかりながら、店々が今宵(こよい)、どんな品を特品に用意して客を牽(ひ)き付けようとしているかを、じろりと見検めるのだった。
 ある店では、紋のついた油障子の蔭から、赤い蟹(かに)や大粒の蛤(はまぐり)を表に見せていた。ある店では、ショウウィンドーの中に、焼串(やきぐし)に鴫(しぎ)を刺して赤蕪(あかかぶ)や和蘭芹(オランダぜり)と一しょに皿に並べてあった。
「どこも、ここも、相変らず月並なものばかり仕込んでやがる。智慧(ちえ)のない奴等ばかりだ」
 鼈四郎は、こう呟(つぶや)くと、歯痒(はがゆ)いような、また得意の色があった。そしてもし自分ならば、――と胸で、季節の食品月令から意表で恰好(かっこう)の品々を物色してみるのだった。
 彼の姿を見かけると、食もの屋の家の中から声がかけられるのであった。
「やあ、先生寄ってらっしゃい」
 けれども、その挨拶振(あいさつぶ)りは義理か、通り一遍のものだった。どの店の人間も彼の当身(あてみ)の多い講釈には参らされていた。
「寄ってらっしゃいたって、僕が食うようなものはありやしまいじゃないか」
「そりゃどうせ、しがない垂簾(のれん)の食もの屋ですからねえ」
 こんな応対で通り過ぎてしまう店先が多かった。無学を見透されまいと、嵩(かさ)にかかって人に立向う癖が彼についてしまっている。それはやがて敬遠される基と彼は知りながら自分でどうしようもなかった。彼は寂しく自宅へ近付いて行った。


 表通りの呉服屋と畳表問屋の間の狭い露路の溝板へ足を踏みかけると、幽(かす)かな音で溝板の上に弾(は)ねているこまかいものの気配いがする。暗くなった夜空を振り仰ぐと古帽子の鍔(つば)を外ずれてまたこまかいものが冷たく顔を撫(なで)る。「もう霰(あられ)が降るのか。」彼は一瞬の間に、伯母から令押被(おっかぶせ)の平凡な妻と小児を抱えて貧しく暮している現在の境遇の行体(ぎょうたい)が胸に泛(うか)び上った。いま二足三足の足の運びで、それを眼のあたりに見なければならない運命を思うと鼈四郎(べつしろう)は、うんざりするより憤怒(ふんぬ)の情が胸にこみ上げて来た。ふと蛍雪館の妹娘のお絹の姿が俤(おもかげ)に浮ぶ。いつも軽蔑(けいべつ)した顔をして冷淡につけつけものをいい、それでいて自分に肌目(きめ)のこまかい、しなやかで寂しくも調子の高い、文字では書けない若い詩を夢見させて呉(く)れる不思議な存在なのだ。
「なんだって、自分はあんなに好きなお絹と一しょになり、好きな生活のできる富裕な邸宅に住めないのだろう。人間に好くという慾を植えつけて置きながら、その慾の欲しがるものを真(ま)っ直(すぐ)には与えない。誰だか知らないが、世界を慥えた奴はいやな奴だ」
 その憤懣(ふんまん)を抱いて敷居を跨(また)ぐのだったから、家へ上って行くときの声は抉(えぐ)るような意地悪さを帯びていた。
「おい。ビール、取っといたか。忘れやしまいな」
 こどもに向き合い、五燭(しょく)の電灯の下で、こどもに一箸(ひとはし)、自分が二箸というふうにして夕飯をしたためていた妻の逸子は、自分の口の中のものを見悟られまいとするように周章(あわて)て嚥(の)み下した。口を袖(そで)で押えて駆け出して来た。
「お帰りなさいまし。篤がお腹が減ったってあんまり泣くものですから、ご飯を食べさせていましたので、つい気がつきませんでして、済みません」
 いいつつ奥歯と頬(ほお)の間に挟った嚥み残しのものを、口の奥で仕末している。
「ビールを取っといたかと訊(き)くんだ」
「はいはい」
 逸子は、握り箸の篤を、そのまま斜に背中へ抛(ほう)り上げて負(おぶ)うと、霰の溝板を下駄で踏み鳴らして東仲通りの酒屋までビールを誂(あつら)えに行った。
 もう一突きで、カッとなるか涙をぽろっと滴すかの悲惨な界の気持にまで追い込められた硬直の表情で、鼈四郎はチャブ台の前に胡坐(あぐら)をかいた。チャブ台の上は少しばかりの皿小鉢が散らされ抛り置かれた飯茶碗(めしぢゃわん)から飯は傾いてこぼれている。五燭の灯の下にぼんやり照し出される憐(あわ)れな狼藉(ろうぜき)の有様は、何か動物が生命を繋(つな)ぐことのために僅(わず)かなものを必死と食い貪(むさぼ)る途中を闖入者(ちんにゅうしゃ)のために追い退けられた跡とも見える。
「浅間しい」
 鼈四郎は吐くようにこういって腕組みをした。
 この市隠荘はお絹等姉妹の父で漢学者の荒木蛍雪が、中橋の表通りに画帖や拓本を売る蛍雪館の店を開いていた時分に、店の家が狭いところから、斜向うのこの露路内に売家が出たのを幸、買取って手入れをし寝泊りしたものである。ちょっとした庭もあり、十二畳の本座敷なぞは唐木が使ってある床の間があって瀟洒(しょうしゃ)としている。蛍雪はその後、漢和の辞典なぞ作ったものが当り、利殖の才もあってだんだん富裕になった。表通りの店は人に譲り邸宅を芝の愛宕山の見晴しの台に普請し、蛍雪館の名もその方へ持って行った。露路内の市隠荘はしばらく戸を閉めたままであったのを、鼈四郎が蛍雪に取入り、荒木家の抱えのようになったので、蛍雪は鼈四郎にこの市隠荘を月々僅な生活費を添えて貸与えた。但し条件附であった。掃除をよくすること、本座敷は滅多に使わぬこと――。それゆえ、鼈四郎夫妻は次の間の六畳を常の住いに宛(あ)てているのであった。一昨年の秋、夫妻にこどもが生れると蛍雪は家が汚れるといって嫌な顔をした。
「ちっとばかりの宛がい扶持(ぶち)で、勝手な熱を吹く。いずれ一泡吹かしてやらなきゃ」
 それかといって、急にさしたる工夫もない。そんなことを考えるほど眼の前をみじめなものに感じさすだけだった。
 鼈四郎は舌打ちして、またもとのチャブ台へ首を振り向けた。懐手をして掌を宛てている胃拡張の胃が、鳩尾(みぞおち)のあたりでぐうぐうと鳴った。
「うちの奴等、何を食ってやがったんだろう」
 浅い皿の上から甘藷(いも)の煮ころばしが飯粒をつけて転げ出している。
「なんだ、いもを食ってやがる。貧弱な奴等だ」
 鼈四郎は、軽蔑し切った顔をしたけれども、ふだん家族のものには廉価なものしか食べることを許さぬ彼は、家族が自分の掟(おきて)通りにしていることに、いくらか気を取直したらしい。
「ふ、ふ、ふ、いもをどんな煮方をして食ってやがるだろう。一つ試(ため)してみてやれ」
 彼は甘藷についてる飯粒を振り払い、ぱくんと開いた口の中へ抛り込んだ。それは案外上手に煮えていた。
「こりゃ、うまいや、ばかにしとらい」
 鼈四郎は、何ともいいようのない擽(くすぐ)ったいような顔をした。
 霰を前髪のうしろに溜めて逸子が帰って来た。こどもを支えない方の手で提げて来たビール壜(びん)を二本差出した。
「さし当ってこれだけ持って参りました。あとは小僧さんが届けて呉れるそうでございますわ」
 鼈四郎はつねづね妻にいい含めて置いた。一本のビールを飲もうとするときにはあとに三本の用意をせよ。かかる用意あってはじめて、自分は無制限と豪快の気持で、その一本を飲み干すことができる。一本を飲もうとするときに一本こっきりでは、その限数が気になり伸々した気持でその一本すら分量の価打(ねう)ちだけに飲み足らうことができない。結局損な飲ませ方なのだ。罎詰(びんづめ)のビールなぞというものは腐るものではないから余計とって置いて差支えない。よろしく気持の上の後詰の分として余分の本数をとって置くべきであると。いま、逸子が酒屋へのビール注文の仕方は、鼈四郎のふだんのいい含めの旨に叶(かな)うものであった。
「よしよし」と鼈四郎はいった。
 彼は妻に、本座敷へ彼の夕食の席を設ることを命じた。これは珍しいことだった。妻は
「もし、ひょっとして汚しちゃ、悪かございません?」と一応念を押してみたが、良人(おっと)は眉(まゆ)をぴくりと動かしただけで返事をしなかった。この上機嫌を損じてはと、逸子は子供を紐(ひも)で負い替え本座敷の支度にかかった。
 畳の上には汚れ除(よ)けの渋紙が敷き詰めてある、屏風(びょうぶ)や長押(なげし)の額、床の置ものにまで塵除(ちりよ)けの布ぶくろが冠(かぶ)せてある。まるで座敷の中の調度が、住む自分等を異人種に取扱い、見られるのも触れられるのも冒涜(ぼうとく)として、極力、防避を申合せてるようであった。こうしてから自分等に家を貸し与えた持主の蛍雪の非人情をまざまざ見せつけられるようで、逸子には憎々しかった。
 彼女は復讐(ふくしゅう)の小気味よさを感じながらこれ等の覆いものを悉(ことごと)く剥(は)ぎ取った。子供の眼鼻に塵(ちり)の入らぬよう手拭(てぬぐい)を冠(かぶ)せといて座敷の中をざっと叩(はた)いたり掃いたりした。何かしら今夜の良人(おっと)の気分を察するところがあって、電灯も五十燭(しょく)の球につけ替えた。明(あかり)煌々(こうこう)と照り輝く座敷の中に立ち、あたりを見廻(みまわ)すと、逸子も久振りに気も晴々となった。しかし臆(おく)し心の逸子はやはり家の持主に対して内証の隠事をしている気持が出て来て、永くは見廻していられなかった。彼女は座布団(ざぶとん)を置き、傍にビール罎(びん)を置くと次の茶の間に引下りそこで中断された母子の夕飯を食べ続けた。
 この間台所で賑(にぎ)やかな物音を立て何か支度をしていた鼈四郎(べつしろう)は、襖(ふすま)を開けて陶器鍋(とうきなべ)のかかった焜炉(こんろ)を持ち出した。白いものの山型に盛られている壺(つぼ)と、茶色の塊が入っている鉢と白いものの横っている皿と香のものと配置よろしき塗膳(ぬりぜん)を持出した。醤油注(しょうゆつ)ぎ、手塩皿、ちりれんげ、なぞの載っている盆を持出した。四度目にビールの栓抜(せんぬ)きとコップを、ちょうど士(さむらい)が座敷に入るとき片手で提げるような形式張った肘(ひじ)の張り方で持出すと、洋服の腰に巻いていた妙な覆い布を剥ぎ去って台所へ抛(ほう)り込んだ。襖を閉め切ると、座敷を歩み過し椽側(えんがわ)のところまで来て硝子障子(ガラスしょうじ)を明け放した。闇(やみ)の庭は電燭の光りに、小さな築山や池のおも影を薄肉彫刻のように浮出させ、その表を僅(わずか)な霰(あられ)が縦に掠(かす)めて落ちている。幸に風が無いので、寒いだけ室内の焜炉の火も、火鉢の火も穏かだった。
 彼は座布団の上に胡座(あぐら)を掻(か)くと、ビール罎に手をかけ、にこにこしながら壁越しに向っていった。
「おい、頼むから今夜は子供を泣かしなさんな」
 彼は、ビールの最初のコップに口をつけこくこくこくと飲み干した。掌で唇の泡を拭(ぬぐ)い払うと、さも甘そうにうえーと□気(おくび)を吐いた。その誇張した味い方は落語家の所作を真似(まね)をして遊んでいるようにも妻の逸子には壁越しに取れた。
 彼は次に、焜炉にかけた陶器鍋の蓋(ふた)に手をかけ、やあっと掛声してその蓋を高く擡(もた)げた。大根の茹(ゆだ)った匂(にお)いが、汁の煮出しの匂いと共に湯気を上げた。
「細工はりゅうりゅう、手並をごろうじろ」
 と彼は抑揚をつけていったが、蓋の熱さに堪えなかったものと見え、ち、ちちちといって、蓋を急ぎ下に置いた様子も、逸子には壁越しに察せられた。
 じかに置いたらしい蓋の雫(しずく)で、畳が損ぜられやしないか? ひやりとした懸念を押しのけて、逸子におかしさがこみ上げた。彼女はくすりと笑った。世間からは傲慢(ごうまん)一方の人間に、また自分たち家族に対しては暴君(タイラント)の良人が、食物に係っているときだけ、温順(おとな)しく無邪気で子供のようでもある。何となくいじらしい気持が湧(わ)くのを泣かさぬよう添寝をして寝かしつけている子供の上に被(かず)けた。彼女は子供のちゃんちゃんこと着ものの間に手をさし入れて子供を引寄せた。寝つきかかっている子供の身体は性なく軟かに、ほっこり温かだった。
 本座敷で鼈四郎は、大根料理を肴(さかな)にビールを飲み進んで行った。材料は、厨(くりや)で僅に見出した、しかも平凡な練馬大根一本に過ぎないのだが、彼はこれを一汁三菜の膳組(ぜんぐみ)に従って調理し、品附した。すなわち鱠(なます)には大根を卸しにし、煮物には大根を輪切にしたものを鰹節(かつおぶし)で煮てこれに宛(あ)てた。焼物皿には大根を小魚の形に刻んで載せてあった。鍋は汁の代りになる。
 かくて一汁三菜の献立は彼に於て完(まっと)うしたつもりである。
 彼には何か意固地(いこじ)なものがあった。富贍(ふせん)な食品にぶつかったときはひと種(いろ)で満足するが、貧寒な品にぶつかったときは形式美を欲した。彼は明治初期に文明開化の評論家であり、後に九代目団十郎のための劇作家となった桜痴居士(おうちこじ)福地源一郎の生活態度を聞知っていた。この旗本出で江戸っ子の作者は、極貧の中に在って客に食事を供するときには家の粗末な惣菜(そうざい)のものにしろ、これを必ず一汁三菜の膳組の様式に盛り整えた。従って焼物には塩鮭(しおじゃけ)の切身なぞもしばしば使われたという。
 彼は料理に関係する実話や逸話を、諸方の料理人に、例の高飛車な教え方をする間に、聞出して、いくつとなく耳学問に貯える。何かという場合にはその知識に加担を頼んで工夫し出した。彼は独創よりもどっちかというと記憶のよい人間だった。
 彼は形式通り膳組されている膳を眺めながら、ビールの合の手に鍋の大根のちりを喰(た)べ進んで行った。この料理に就(つい)ても、彼には基礎の知識があった。これは西園寺陶庵公が好まれる食品だということであった。彼は人伝(ひとづ)てにこの事を聞いたとき、政治家の傍、あれだけの趣味人である老公が、舌に於て最後に到り付く食味はそんな簡単なものであるのか。それは思いがけない気もしたが、しかし肯(うなず)かせるところのある思いがけなさでもあった。そして彼には、いわゆる偉い人が好んだという食品はぜひ自分も一度は味ってみようという念願があった。それは一方彼の英雄主義の現れであり、一方偉い人の探索でもあった。その人が好くという食品を味ってみて、その人がどんな人であるかを溯(さかのぼ)り知り当てることは、もっとも正直で容易い人物鑑識法のように彼には思えた。
 鍋の煮出し汁は、兼(かね)て貯えの彼特製の野菜のエキスで調味されてあった。大根は初冬に入り肥えかかっていた。七つ八つの泡によって鍋底から浮上り漂う銀杏形(いちょうがた)の片(き)れの中で、ほど良しと思うものを彼は箸(はし)で選み上げた。手塩皿の溜醤油(たまり)に片れの一角を浸し熱さを吹いては喰べた。
 生(き)で純で、自然の質そのものだけの持つ謙遜(けんそん)な滋味が片れを口の中へ入れる度びに脆(もろ)く柔く溶けた。大まかな菜根の匂いがする。それは案外、甘(あま)いものであった。
「成程なア」
 彼は、感歎(かんたん)して独り言をいった。
 彼は盛に煮上って来るのを、今度は立て続けに吹きもて食べた。それは食べるというよりは、吸い取るという恰好(かっこう)に近かった。土鼠が食い耽(ふけ)る飽くなき態があった。
 その間、たまに彼は箸を、大根卸しの壺に差出したが、ついに煮大根の鉢にはつけなかった。
 食い終って一通り堪能(たんのう)したと見え、彼は焜炉の口を閉じはじめて霰の庭を眺め遣(や)った。
 あまり酒に強くない彼は胡座の左の膝(ひざ)に左の肘を突立て、もう上体をふらふらさしていた。□気をしきりに吐くのは、もはや景気附けではなく、胃拡張の胃壁の遅緩が、飲食したものの刺激に遭いうねり戻す本もののものだった。ときどき甘苦い粘塊が口中へ噎(む)せ上って来る。その中には大根の片れの生噛(なまが)みのものも混っている。彼は食後には必ず、この□気をやり、そして、人前をも憚(はばか)らず反芻(はんすう)する癖があった。壁越しに聞いている逸子は「また、始めた」と浅間しく思う。家庭の食後にそれをする父を見慣れて、こどもの篤が真似(まね)て仕方が無いからであった。
 □気は不快だったが、その不快を克服するため、なおもビールを飲み煙草(たばこ)を喫(す)うところに、身体に非現実な美しい不安が起る。「このとき、僕は、人並の気持になれるらしい。妻も子も可愛(かわい)がれる――」彼はこんなことを逸子によくいう。逸子は寝かしついた子供に布団を重ねて掛けてやりながら、「すると、そのとき以外は、良人に蛍雪が綽名(あだな)に付けたその鼈(すっぽん)のような動物の気持でいるのかしらん」と疑う。
 鼈四郎は、煙草を喫いながら、彼のいう人並の気持になって、霰の庭を味っていた。時刻は夜に入り闇(やみ)の深まりも増したかに感ぜられる。庭の構いの板塀は見えないで、無限に地平に抜けている目途の闇が感じられる。小さな築山と木枝の茂みや、池と庭草は、電灯の光は受けても薄板金で張ったり、針金で輪廓(りんかく)を取ったりした小さなセットにしか見えない。呑(の)むことだけして吐くことを知らない闇(やみ)。もし人間が、こんな怖(おそ)ろしい暗くて鈍感な無限の消化力のようなものに捉(とら)えられたとしたならどうだろう。泣いても喚(わめ)き叫んでも、追付かない、そして身体は毛氈苔(もうせんごけ)に粘られた小虫のように、徐々に溶かされて行く、溶かされるのを知りつつ、何と術もなく、じーじー鳴きながら捉えられている。永遠に――。鼈四郎(べつしろう)はときどき死ということを想(おも)い見ないことはない。彼が生み付けられた自分でも仕末に終えない激しいものを、せめて世間に理解して貰おうと彼は世間にうち衝(つか)って行く。世間は他人(ひと)ごとどころではないと素気なく弾(は)ね返す。彼はいきり立ち武者振(むしゃぶ)りついて行く。気狂い染(じ)みているとて今度は体を更わされる。あの手この手。彼は世間から拒絶されて心身の髄に重苦しくてしかも薄痒(うすがゆ)い疼(うず)きが残るだけの性抜きに草臥(くたび)れ果てたとき、彼は死を想い見るのだった。それはすべてを清算して呉(く)れるものであった。想い見た死に身を横えるとき、自分の生を眺め返せば「あれは、まず、あれだけのもの」と、あっさり諦(あきら)められた。潔い苦笑が唇に泛(うか)べられた。かかる死を時せつ想い見ないで、なんで自分のような激しい人間が三十に手の届く年齢にまでこの世に生き永らえて来られようぞと彼は思う。
 生を顧みて「あれは、まず、あれだけのもの」と諦めさすところの彼の想い見た死はまた、生をそう想い諦めさすことによってそれ自らを至って性の軽いものにした。生が「あれは、まず、あれだけのもの」としたなら、死もまた「これは、まず、これだけのもの」に過ぎなかった。彼は衒学的(げんがくてき)な口を利くことを好むが、彼には深い思惟(しい)の素養も脳力も無い筈(はず)である。
 これは全く押し詰められた体験の感じから来たもので、それだけにまた、動かぬものであった。彼は少青年の頃まで、拓本の職工をしていたことがあるが、その拓本中に往々出て来る死生一如とか、人生一泡滓(ほうさい)とかいう文字をこの感じに於て解していた。それ故にこそ、とどのつまりは「うまいものでも食って」ということになった。世間に肩肘(かたひじ)張って暮すのも左様大儀な芝居でもなかった。
 だが、今宵(こよい)の闇の深さ、粘っこさ、それはなかなか自分の感じ捉えた死などいう潔く諦めよいものとは違っていて、不思議な力に充(み)ちている。絶望の空虚と、残忍な愛とが一つになっていて、捉えたものは嘗(な)め溶し溶し尽きたら、また、原形に生み戻し、また嘗め溶す作業を永遠に、繰返さでは満足しない執拗(しつよう)さを持っている。こんな力が世の中に在るのか。鼈四郎は、今迄、いろいろの食品を貪(むさぼ)り味ってみて、一つの食品というものには、意志と力があってかくなりわい出たもののように感じていた。押拡(おしひろ)げて食品以外の事物にも、何かの種類の意味で味いというものを帯びている以上、それがあるように思われている。だが、今宵の闇の味い! これほど無窮無限と繰返しを象徴しているものは無かった。人間が虫の好く好物を食べても食べても食べ飽きた気持がしたことはない。あの虫の好きと一路通ずるものがありはしないか。
 これは天地の食慾とでもいうものではないかしらん、これに較(くら)べると人間の食慾なんて高が知れている。
「しまった」と彼は呟(つぶや)いてみた。
 彼は久振りで、自分の嫌な過去の生い立ちを点検してみた。


 京都の由緒ある大きな寺のひとり子に生れ幼くして父を失った。母親は内縁の若い後妻で入籍して無かったし、寺には寺で法縁上の紛擾(ふんじょう)があり、寺の後董(ごとう)は思いがけない他所(よそ)の方から来てしまった。親子のものはほとんど裸同様で寺を追出される形となった。これみな恬澹(てんたん)な名僧といわれた父親の世務をうるさがる性癖から来た結果だが、母親はどういうものか父を恨まなかった。「なにしろこどものような方だったから罪はない」そしてたった一つの遺言ともいうべき彼が誕生したときいったという父の言葉を伝えた。「この子がもし物ごころがつく時分わしも老齢(とし)じゃから死んどるかも知れん。それで苦労して、なんでこんな苦しい娑婆(しゃば)に頼みもせんのに生み付けたのだと親を恨むかも知れん。だがそのときはいってやりなさい。こっちとて同じことだ、何でも頼みもせんのに親に苦労をかけるようなこの苦しい娑婆に生れて出て来なすったのだお互いさまだ、と」この言葉はとても薄情にとれた、しかし薄情だけでは片付けられない妙な響が鼈四郎の心に残された。
 はじめは寺の弟子たちも故師の遺族に恩を返すため順番にめいめいの持寺に引取って世話をした。しかしそれは永く続かなかった。どの寺にも寄食人(かかりゅうど)を息詰らす家族というものがあった。最後に厄介になったのは父の碁敵であった拓本職人の老人の家だった。貧しいが鰥暮(やもめぐら)しなので気は楽だった。母親は老人の家の煮炊き洗濯の面倒を見てやり、彼はちょうど高等小学も卒業したので老人の元に法帖(ほうじょう)造りの職人として仕込まれることになった。老人は変り者だった、碁を打ちに出るときは数日も家に帰らないが、それよりも春秋の頃おい小学校の運動会が始り出すと、彼はほとんど毎日家に居なかった。京都の市中や近郊で催されるそれを漁(あさ)り尋ね見物して来るのだった。「今日の××小学校の遊戯はよく手が揃(そろ)った」とか、「今日の△△小学校の駈足(かけあし)競争で、今迄にない早い足の子がいた」とか噂(うわさ)して悦(よろこ)んでいた。
 その留守の間、彼は糊臭(のりくさ)い仕事場で、法帖作りをやっているのだが、墨色に多少の変化こそあれ蝉翅搨(せんしとう)といったところで、烏金搨(うきんとう)といったところで再び生物の上には戻って来ぬ過去そのものを色にしたような非情な黒に過ぎない。その黒へもって行って寒白い空閑を抜いて浮出す拓本の字劃(じかく)というものは少年の鼈四郎にとってまたあまりに寂しいものであった。「雨降りあとじゃ、川へいて、雑魚(ざこ)なと、取って来なはれ、あんじょ、おいしゅう煮て、食べまひょ」継ものをしていた母親がいった。鼈四郎は笊(ざる)を持って堤を越え川へ下りて行く。
 その頃まだ加茂川にも小魚がいた。季節季節によって、鮴(ごり)、川鯊(かわはぜ)、鮠(はや)、雨降り揚句には鮒や鰻も浮出てとんだ獲ものもあった。こちらの河原には近所の子供の一群がすでに漁(あさ)り騒いでいる。むこうの土手では摘草の一家族が水ぎわまでも摘み下りている。鞍馬(くらま)へ岐(わか)れ路の堤の辺には日傘をさした人影も増えている。境遇に負けて人臆(ひとおく)れのする少年であった鼈四郎は、これ等の人気(ひとけ)を避けて、土手の屈曲の影になる川の枝流れに、芽出し柳の参差(しんし)を盾に、姿を隠すようにして漁った。すみれ草が甘く匂(にお)う。糺(ただす)の森(もり)がぼーっと霞んで見えなくなる。おや自分は泣いてるなと思って眼瞼(まぶた)を閉じてみると、雫(しずく)の玉がブリキ屑(くず)に落ちたかしてぽとんという音がした。器用な彼はそれでも少しの間に一握りほどの雑魚を漁り得る。持って帰ると母親はそれを巧に煮て、春先の夕暮のうす明りで他人の家の留守を預りながら母子二人だけの夕餉(ゆうげ)をしたためるのであった。
 母親は身の上の素性を息子に語るのを好まなかった。ただ彼女は食べ意地だけは張っていて、朝からでも少しのおなまぐさが無ければ飯の箸(はし)は取れなかった。それの言訳のように彼女はこういった。「なんしい、食べ辛棒の土地で気儘放題(きままほうだい)に育てられたもんやて!」
 鼈四郎は母親の素性を僅(わずか)に他人から聞き貯めることが出来た。大阪船場(せんば)目ぬきの場所にある旧舗(しにせ)の主人で鼈四郎の父へ深く帰依(きえ)していた信徒があった。不思議な不幸続きで、店は潰(つぶ)れ娘一人を残して自分も死病にかかった。鼈四郎の父はそれまで不得手ながら金銭上の事に関ってまでいろいろ面倒を見てやったのだがついにその甲斐(かい)もなかった。しかし、すべてを過去の罪障のなす業と諦(あきら)めた病主人は、罪障消滅のためにも、一つは永年の恩義に酬(むく)ゆるため、妻を失ってしばらく鰥暮(やもめぐら)しでいた鼈四郎(べつしろう)の父へ、せめて身の周りの世話でもさせたいと、娘を父の寺へ上せて身罷(みまか)ったという。他の事情は語らない母親も「お罪障消滅のため寺方に上った身が、食べ慾ぐらい断ち切れんで、ほんまに済まんと思うが、やっぱりお罪障の残りがあるかして、こればかりはしようもない」この述懐だけは亦ときどき口に洩(もら)しながら、最小限度のつもりにしろ、食べもの漁(あさ)りはやめなかった。
 少青年の頃おいになって鼈四郎は、諸方の風雅の莚(むしろ)の手伝いに頼まれ出した。市民一般に趣味人をもって任ずるこの古都には、いわゆる琴棋書画の会が多かった。はじめ拓本職人の老人が出入りの骨董商(こっとうしょう)に展観の会があるのを老人に代って手伝いに出たのがきっかけとなり、あちらこちらより頼まれるようになった。才はじけた性質を人臆(ひとおく)しする性質が暈(ぼか)しをかけている若者は何か人目につくものがあった。薄皮仕立で桜色の皮膚は下膨(しもぶく)れの顔から胸鼈へかけて嫩葉(わかば)のような匂(にお)いと潤いを持っていた。それが拓本老職人の古風な着物や袴(はかま)を仕立て直した衣服を身につけて座を斡旋(あっせん)するさまも趣味人の間には好もしかった。人々は戯れに千の与四郎、――茶祖の利休の幼名をもって彼を呼ぶようになった。利休の少年時が果して彼のように美貌(びぼう)であったか判らないが、少くとも利休が与四郎時代秋の庭を掃き浄(きよ)めたのち、あらためて一握りの紅葉をもって庭上に撒(ま)き散らしたという利休の趣味性の早熟を物語る逸話から聯想(れんそう)して来る与四郎は、彼のような美少年でなければならなかった。与えられたこの戯名を彼も諾(あまな)い受け寧(むし)ろ少からぬ誇りをもって自称するようにさえなった。
 洒落(しゃ)れた[#「洒落(しゃ)れた」は底本では「洒落(しゃれ)れた」]お弁当が食べられ、なにがしかずつ心付けの銭さえ貰えるこの手伝いの役は彼を悦(よろこ)ばした。そのお弁当を二つも貰って食べ抹茶も一服よばれたのち、しばらくの休憩をとるため、座敷に張り廻(めぐ)らした紅白だんだらの幔幕(まんまく)を向うへ弾(は)ね潜って出る。そこは庭に沿った椽側(えんがわ)であった。陽(ひ)はさんさんと照り輝いて満庭の青葉若葉から陽の雫(しずく)が滴っているようである。椽も遺憾なく照らし暖められている。彼はその椽に大の字なりに寝て満腹の腹を撫(な)でさすりながらうとうとしかける。智恩院聖護院の昼鐘が、まだ鳴り止まない。夏霞(なつがすみ)棚引きかけ、眼を細めてでもいるような和(なご)み方の東山三十六峯。ここの椽に人影はない。しかし別書院の控室の間から演奏場へ通ずる中廊下には人の足音が地車でも続いて通っているよう絶えずとどろと鳴っている。その控室の方に当っては、もはや、午後の演奏の支度にかかっているらしく、尺八に対して音締めを直している琴や胡弓(こきゅう)の音が、音のこぼれもののように聞えて来る。間に混って盲人の鼻詰り声、娘たちの若い笑い声。
 若者の鼈四郎は、こういう景致や物音に遠巻きされながら、それに煩わされず、逃れて一人うとうとする束(つか)の間(ま)を楽しいものに思い做(な)した。腹に満ちた咀嚼物(そしゃくぶつ)は陽のあたためを受けて滋味は油のように溶け骨、肉を潤し剰(あま)り今や身体の全面にまでにじみ出して来るのを艶(つや)やかに感ずる。金目がかかり、値打ちのある肉体になったように感ずる。心の底に押籠(おしこ)められながら焦々した怒ろしい想(おも)いはこの豊潤な肉体に対し、いよいよその豊潤を刺激して引立てる内部からの香辛料になったような気がする。その快さ甘くときめかす匂い、芍薬畑(しゃくやくばたけ)が庭のどこかにあるらしい。
 古都の空は浅葱色(あさぎいろ)に晴れ渡っている。和み合う睫(まつげ)の間にか、充(み)ち足りた胸の中にか白雲の一浮きが軽く渡って行く。その一浮きは同時にうたた寝の夢の中にも通い、濡(ぬ)れ色の白鳥となって翼に乗せて過ぎる。はつ夏の哀愁。「与四郎さん、こんなとこで寝てなはる。用事あるんやわ、もう起きていなあ、」鼻の尖(さき)を摘まれる。美しい年増夫人のやわらかくしなやかな指。
 鼈四郎はだんだん家へ帰らなくなった。貧寒な拓本職人の家で、女餓鬼(めがき)の官女のような母を相手にみじめな暮しをするより、若い女のいる派手で賑(にぎや)かな会席を渡り歩るいてる方がその日その日を面白く糊塗(こと)できて気持よかった。何か一筋、心のしんになる確(しっか)りした考え。何か一業、人に優れて身の立つような職能を捉(とら)えないでは生きて行くに危いという不安は、殊にあの心の底に伏っている焦々(いらいら)した怒ろしい想いに煽(あお)られると、居ても立ってもいられない悩みの焔(ほのお)となって彼を焼くのであるが、その焦熱を感ずれば感ずるほど、彼はそれをまわりで擦(こす)って掻(か)き落すよう、いよいよ雑多と変化の世界へ紛れ込んで行くのであった。彼はこの間に持って生れた器用さから、趣味の技芸なら大概のものを田舎初段程度にこなす腕を自然に習い覚えた。彼は調法な与四郎となった。どこの師匠の家でも彼を歓迎した。棋院では初心の客の相手役になってやるし、琴の家では琴師を頼まないでも彼によって絃(げん)の緩みは締められた。生花の家でお嬢さんたちのための花の下慥え、茶の湯の家ではまたお嬢さんや夫人たちのための点茶や懐石のよき相談相手だった。拓本職人は石刷りを法帖(ほうじょう)に仕立てる表具師のようなこともやれば、石刷りを版木に模刻して印刷をする彫版師のような仕事もした。そこから自ずから彼は表具もやれば刀を採って、木彫篆刻(てんこく)の業もした。字は宋拓を見よう見真似(みまね)に書いた。画は彼が最得意とするところで、ひょっとしたら、これ一途(いちず)に身を立てて行こうかとさえ思うときがあった。
 頼めば何でも間に合わして呉(く)れる。こんな調法人をどこで歓迎しないところがあろうか。
 彼は紛れるともなく、その日その日の憂さを忘れて渡り歩るいた。母は鼈四郎が勉強のため世間に知識を漁(あさ)っていて今に何か掴(つか)んで来るものと思い込んでるので呑込(のみこ)み顔で放って置いたし、拓本職人の老爺(ろうや)は仕事の手が欠けたのをこぼしこぼし、しかし叱言(こごと)というほどの叱言はいわなかった。
 師匠連や有力な弟子たちは彼を取巻のようにして瓢亭・俵やをはじめ市中の名料理へ飲食に連れて行った。彼は美食に事欠かぬのみならず、天稟(てんぴん)から、料理の秘奥を感取った。
 そうしているうち、ふと鼈四郎に気が付いて来たことがあった。このように諸方で歓迎されながら彼は未だ嘗(かつ)て尊敬というものをされたことがない。大寺に生れ、幼時だけにしろ、総領息子という格に立てられた経験のある、旧舗(しにせ)の娘として母の持てる気位を伝えているらしい彼の持前は頭の高い男なのであった。それがただ調法の与四郎で扱い済されるだけでは口惜しいものがあった。彼の心の底に伏っていつも焦々する怒ろしい想いもどうやら一半はそこから起るらしく思われて来た。どうかして先生と呼ばれてみたい。
 人中に揉(も)まれて臆(おく)し心(ごころ)はほとんど除かれている彼に、この衷心から頭を擡(もた)げて来た新しい慾望は、更に積極へと彼に拍車をかけた。彼は高飛車に人をこなし付ける手を覚え、軽蔑(けいべつ)して鼻であしろう手を覚えた。何事にも批判を加えて己れを表示する術(すべ)も覚えた。彼はなりの恰好(かっこう)さえ肩肘(かたひじ)を張ることを心掛けた。彼は手鏡を取出してつくづく自分を見る。そこに映り出る青年があまりに若く美しくして先生と呼ばれるに相応(ふさわ)しい老成した貫禄が無いことを嘆いた。彼はせめて言葉附だけでもいかつく、ませたものにしようと骨を折った。彼の取って付けたような豹変(ひょうへん)の態度に、弱いものは怯(おび)えて敬遠し出した。強いものは反撥(はんぱつ)して罵(ののし)った。「なんだ石刷り職人の癖に」そして先生といって呉れるものは料理人だけだった。
「与四郎は変った」「おかしゅうならはった」というのが風雅社会の一般の評であった。彼の心地に宿った露草の花のようないじらしい恋人もあったのだけれども、この噂(うわさ)に脆(もろ)くも破れて、実を得結ばずに失せた。
 若者であって一度この威猛高(いたけだか)な誇張の態度に身を任せたものは二度と沈潜して肌質(きめ)をこまかくするのは余程難しかった。鼈四郎(べつしろう)はこの目的外れの評判が自分のどこの辺から来るものか自分自身に向って知らないとはいい徹せなかった。「学問が無いからだ」この事実は彼に取って最も痛くていまいましい反省だった。そして今更に、悲運な境遇から上の学校へも行けず、秩序立った勉強の課程も踏めなかった自分を憐(あわれ)むのであった。しかしこれを恨みとして、その恨みの根を何処へ持って行くのかとなると、それはまたあまりに多岐に亘(わた)り複雑過ぎて当時の彼には考え切れなかった。嘆くより後(おく)れ走(ば)せでも秘(ひそ)かに学んで追い付くより仕方がない。彼はしきりに書物を読もうと努めた。だが才気とカンと苦労で世間のあらましは、すでに結論だけを摘み取ってしまっている彼のような人間にとって、その過程を煩わしく諄(くど)く記述してある書物というものを、どうして迂遠(うえん)で悪丁寧(わるていねい)とより以外のものに思い做(な)されようぞ。彼は頁(ページ)を開くとすぐ眠くなった。それは努めて読んで行くとその索寞(さくばく)さに頭が痛くなって、しきりに喉頭(こうとう)へ味なるものが恋い慕われた。彼は美味な食物を漁(あさ)りに立上ってしまった。
 結局、彼は遣(や)り慣れた眼学問、耳学問を長じさせて行くより仕方なかった。そしていま迄、下手(したで)に謙遜(けんそん)に学び取っていた仕方は今度からは、争い食ってかかる紛擾(ふんじょう)の間に相手から□(も)ぎ取る仕方に方法を替えたに過ぎなかった。それほどまでにして彼は尊敬なるものを贏(か)ち得たかったのであろうか。然(しか)り。彼は彼が食味に於て意識的に人生の息抜きを見出す以前は、実に先生といわれる敬称は彼に取って恋人以上の魅力を持っていたのだった。彼はこの仕方によって数多の旧知己をば失ったが、僅(わず)かばかりの変りものの知遇者を得た。世間には啀(いが)み合う鑼(どら)、捩(ねじ)り合う銅□(にょうばち)のような騒々しいものを混えることに於て、却(かえ)って知音や友情が通じられる支那楽のような交際も無いことはない。鼈四郎が向き嵌(はま)って行ったのはそういう苦労胼胝(たこ)で心の感膜が厚くなっている年長の連中であった。
 その頃、京極でモダンな洋食店のメーゾン檜垣の主人もその一人であった。このアメリカ帰りの料理人は、妙に芸術や芸術家の生活に渇仰をもっていて、店の監督の暇には油画を描いていた。寝泊りする自分の室は画室のようにしていた。彼は客の誰彼を掴(つかま)えてはニューヨークの文士村(グリンウィッチビレージ)の話をした。巴里(パリ)の芸術街を真似(まね)ようとするこの街はアメリカ人気質と、憧憬による誇張によって異様で刺激的なものがあった。主人はそれを語るのに使徒のような情熱をもってした。店の施設にもできるだけ応用した。酒神(バッカス)の祭の夕。青蝋燭(あおろうそく)の部屋、新しいものに牽(ひ)かれる青年や、若い芸術家がこの店に集ったことは見易き道理である。この古都には若い人々の肺には重苦しくて寂寥(せきりょう)だけの空気があった。これを撥(は)ね除(の)け攪(か)き壊すには極端な反撥(はんぱつ)が要った。それ故、一般に東京のモダンより、上方のモダンの方が調子外れで薬が強いとされていた。
 鼈四郎はこの店に入浸るようになった。お互いに基礎知識を欠く弱味を見透すが故に、お互いに吐き合う気焔(きえん)も圧迫感を伴わなかった。飄々(ひょうひょう)とカンのまま雲に上り空に架することができた。立会いに相手を傲慢(ごうまん)で呑(の)んでかかってから軽蔑(けいべつ)の歯を剥出(むきだ)して、意見を噛(か)み合わす無遠慮な談敵を得て、彼等は渾身(こんしん)の力が出し切れるように思った。その間に狡(ずる)さを働かして耳学問を盗み合い、椀ぎ取る利益も彼等には歓(よろこ)びであった。鼈四郎が東洋趣味の幽玄を高嘯(こうしょう)するに対し、檜垣の主人は西洋趣味の生々(なまなま)しさを誇った。かかるうち知識は交換されて互いの薬籠中(やくろうちゅう)に収められていた。
 いつでも意見が一致するのは、芸術至上主義の態度であった。誤って下層階級に生い立たせられたところから自恃(じじ)に相応わしい位置にまで自分を取戻すにはカンで攀(よ)じ登れる芸術と称するもの以外には彼等は無いと感じた。彼等は鑑識の高さや広さを誇った。この点ではお互いに許し合った。琴棋書画、それから女、芝居、陶器、食もの、思想に亙(わた)るものまでも、分け距(へだ)てなく味い批評できる彼等をお互いに褒め合った。「僕らは、天才じゃね」「天才じゃねえ」
 檜垣の主人は、胸の病持ちであった。彼が独身生活を続けるのも、そこから来るのであったが、情慾は強いかして彼の描く茫漠(ぼうばく)とした油絵にも、雑多に蒐(あつ)められる蒐集品(しゅうしゅうひん)にも何かエロチックの匂(にお)いがあった。痩(や)せて青黒い隈(くま)の多い長身の肉体は内部から慾求するものを充(みた)し得ない悩みにいつも喘(あえ)いでいた。それに較(くら)べると中背ではあるが異常に強壮な身体を持っている鼈四郎はあらゆる官能慾を貪(むさぼ)るに堪えた。ある種の嗜慾(しよく)以外は、貪り能(あと)う飽和点を味い締められるが故に却(かえ)って恬淡(てんたん)になれた。
 檜垣の主人は、鼈四郎を連れて、鴨川の夕涼みのゆかから、宮川町辺の赤黒い行灯(あんどん)のかげに至るまで、上品や下品の遊びに連れて歩るいた。そこでも、味い剰(あま)すがゆえにいつも暗鬱(あんうつ)な未練を残している人間と、飽和に達するがゆえに明色の恬淡に冴(さえ)る人間とは極端な対象を做した。鼈四郎は檜垣の主人の暗鬱な未練に対し、本能の浅間しさと共に本能の深さを感じ、檜垣の主人は鼈四郎の肉体に対して嫉妬(しっと)と驚異を感じた。二人は心秘(こころひそ)かに「あいつ偉い奴じゃ」と互いに舌を巻いた。
 起伏表裏がありながら、また最後に認め合うものを持つ二人の交際は、縄のように絡(から)み合い段々その結ぼれを深めた。正常な教養を持つ世間の知識階級に対し、脅威を感ずるが故に、睥睨(へいげい)しようとする職人上りで頭が高い壮年者と青年は自らの孤独な階級に立籠(たてこも)って脅威し来るものを罵(ののし)る快を貪るには一あって二無き相手だった。彼等は毎日のように会わないでは寂しいようになった。
 鼈四郎は檜垣の主人に対しては対蹠的(たいしょてき)に、いつも東洋芸術の幽邃高遠(ゆうすいこうえん)を主張して立向う立場に立つのだが、反噬(はんぜい)して来る檜垣の主人の西洋芸術なるものを、その範とするところの名品の複写などで味わされる場合に、躊躇(ちゅうちょ)なく感得されるものがあった。檜垣の主人が持ち帰ったのは主にフランス近代の巨匠のものだったが、本能を許し、官能を許し、享受を許し、肉情さえ許したもののあることは東洋の躾(しつけ)と道徳の間から僅にそれ等を垣間(かいま)見させられていたものに取っては驚きの外無かった。恥も外聞も無い露(む)き出しで、きまりが悪いほどだった。「こいつ等は、まるで素人じゃねえ、」鼈四郎は檜垣の主人に向ってはこうも押えた口を利くようなものの、彼の肉体的感覚は発言者を得たように喝采(かっさい)した。
 彼はこの店へ出入りをして食べ増した洋食もうまかったし、主人によっていろいろ話して聴かされた西洋の文化的生活の様式も、便利で新鮮に思われた。
 鼈四郎はこれ等の感得と知識をもって、彼の育ちの職場に引返して行った。彼は書画に携る輩(やから)に向ってはデッサンを説き、ゴッホとかセザンヌとかの名を口にした。茶の湯生花の行われる巷(ちまた)に向っては、ティパーティの催しを説き、アペリチーフの功徳を説き、コンポジションとかニュアンスとかいう洋名の術語を口にした。
 東洋の諸芸術にも実践上の必需から来る自らなるそれ等にあって、ただ名前と伝統が違っているだけだった。それゆえ、鼈四郎のいうことはこれ等に携る人々にもほぼ察しはつき、心ある者は、なんだ西洋とてそんなものかと嵩(たか)を括(くく)らせはしたが当時モダンの名に於て新味と時代適応性を西洋的なものから採入れようとする一般の風潮は彼の後姿に向っては「葵祭(あおいまつり)の竹の欄干(てすり)で」青く擦(す)れてなはると蔭口を利きながら、この古都の風雅の社会は、彼の前に廻(まわ)っては刺激と思い付を求めねばならなかった。彼の人気は恢復(かいふく)した。三曲の演奏にアンコールを許したり、裸体彫像に生花を配したり、ずいぶん突飛なことも彼によって示唆されたが、椅子(いす)テーブルの点茶式や、洋食を緩和して懐石の献立中に含めることや、そのときまで、一部の間にしか企てられていなかった方法を一般に流布せしめる椽(えん)の下の力持とはなった。彼は、ところどころで「先生」と呼ばれるようになった。
 彼はこの勢を駆って、メーゾン檜垣に集る若い芸術家の仲間に割り込んだ。彼の高飛車と粗雑はさすがに、神経のこまかいインテリ青年たちと肌合いの合わないものがあった。彼は彼等を吹き靡(なび)け、煙に巻いたつもりでも最後に、沈黙の中で拒まれているコツンとしたものを感じた。それは何とも説明し難いものではあるが彼をして現代の青年の仲間入りしようとする勇気を無雑作に取拉(とりひし)ぐ薄気味悪い力を持っていた。彼は考えざるを得なかった。
 春の宵であった。檜垣の二階に、歓迎会の集りがあった。女流歌人で仏教家の夫人がこの古都のある宗派の女学校へ講演に頼まれて来たのを幸、招いて会食するものであった。画家の良人(おっと)も一しょに来ていた。テーブルスピーチのようなこともあっさり切上がり、内輪で寛(くつろ)いだ会に見えた。しかし鼈四郎(べつしろう)にとってこの夫人に対する気構えは兼々雑誌などで見て、納らぬものがあった。芸術をやるものが宗教に捉(とら)われるなんて――、夫人が仏教を提唱することは、自分に幼時から辛い目を見せた寺や、境遇の肩を持つもののようにも感じられた。とうとう彼は雑談の環の中から声を皮肉にして詰(なじ)った。夫人が童女のままで大きくなったような容貌(ようぼう)も苦労なしに見えて、何やら苛(いじ)め付けたかった。

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