『戦旗』『文芸戦線』七月号創作評
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著者名:梶井基次郎 

   『戰旗』


     彼女等の會話 (窪川いね子氏)

 この月讀んだプロ作品中での佳品である。
 取扱はれてゐるものは杉善といふ「かなり大きい、名の賣れた」書店に起つた爭議である。作者は素直な筆つきで、そこに傭はれてゐる女店員の心に映じた爭議を――彼女達がその爭議によつて體驗して來たことを描いてゐる。
 あまり名を見ない女流作家である。十五の女店員を、「彼女等はまだ髮を引つ詰めにして、身體の痩せた、着物の裾と足袋の間に脛の見えてゐる娘たちであつた。」と書く。また「みち代は土間の中で、亂雜に脱いである泥つぽい男ものの履物の中に、赤い鼻緒の友達の下駄を見つけると、自分のをそれに竝べて脱いだ。」と書く。女店員を書き女店員の些末な心遣ひを書くのに、作者の筆は正しく女流の筆である。女らしい眼つけ所がある。女流作家としての明瞭な足跡を印したと云つていい。
 筆致は手馴れてゐて、無駄な描寫がない。無駄がないといふことは、書いてあることがみなそれぞれの重要さで活きてゐるといふことである。それぞれの重要さで作品を活かしてゐるといふことである。生硬な論文や、強い言葉の竝列がそのまま戰死してゐるやうな小説から、このやうな小説へやつて來ると、自づから藝術圈内へはひつて來たことが納得される。描寫が想像をなだらかに誘つてゆく。――ところで私は一體この作品からどんな想像を得たのであるか。
 一言にして云へば一つの「世態」。――これは「世態人情」の世態であるが、作者の階級的な立場にも拘はらず、私にはその感じが非常に強かつた。これには「旦那さま」が「彼」になつたので驚ろいてゐるといふやうな經濟鬪爭の最初のシヨツクにあふ少女を作者が捕へて來たことに、既に題材的な制限があるのであるが、それにしてもなほ、現實を剔抉することの不足、主觀を書き込むことの不足が、この作品にそのやうな印象を與へるやうになつたことは爭へないのである。作者はこれが一つの世態の描寫、新らしい「浮世繪」として見られることには、必ずや大きい不滿があるだらう。
 しかし、ともあれ、ここには生きた生活が――書かれてある感情のみな動いてゐる描寫がある。定跡にあてはめて書き下ろされた爭議臺本では決してない。これは推稱さるべきものである。

     移住する彼の家 (本庄陸男氏)

 讀み憎い作品だ。
 例へば「川向ひの知り合ひに、みさは子供を連れて同居を情にかけられた。」
「學校では、藪睨みした。」など、讀んでなだらかに意味の掴めない地の文が隨所にある。讀み憎いもう一つの原因は方言であるが、これはかまはないとして、作者はどうしてこのやうに晦澁な地の文を書くのか了解に苦しむ。方言と地の文との緊密な組み合はせを企ててゐる努力が感じられないことはないが、これは「手前味噌」の表現といふものである。一種の單純化を志してゐるが、非效果的だ。變テツもないデイテイルを、無意味に捻つて見せたにとどまつてゐる。そのため事件の推移などに關する、肝腎な部分までが、そのなかへ埋沒し勝ちなのは、甚だ當を得ない。
 題材はある小作人の一家が先祖代々耕して來た土地を住み切れず、カラフトへ移住してゆく顛末を書いたのであるが、その晦澁を讀みこなせば描寫は甚だ通一遍で、眞に農民の生活のなかから書かれたものとしては首肯し難いものがある。
 しかし使はれた方言の效果が、この作品のレアリズムに役立つてゐることは認めなければならない。
 次に「街」西澤隆二氏の續きものであるから批評は完成を待つてやることにする。


   『文藝戰線』


     返される包 (細田源吉氏)

 凡作。これは小店員の話であるが、同じやうに中番頭のものが六月號の文章倶樂部に出てゐたが、その方がずつとよかつた。近江商人の店などでは、新潟あたりから小僧をやとひ番頭にしてやるといふ條件でながい間の奉公を勸めさせ、やがてそれが相當の年配になると、酒や女で店をしくじるやうに仕向けて、結局店から追つ放つてしまふといふことが、常套的に行はれてゐるさうである。文章倶樂部のものはさうした資本家惡の犧牲になる一人の中番頭のなんともならない境遇が實に丹念にかけてゐた。それに比べてこれはあまりに凡作だ。平凡なことを書くのもいいがそれがなにかの意味で見直されてゐなければ、結局意味のない退屈なものになつてしまふのではないだらうか。

     荒療治 (山本勝治氏)

 ある港町の沖仲仕達を組織化しようとしてゐる一人のコンミユニストが、大事な仕事を前にして自分の固い決意の弛緩をふと意識する。そして以前やはりさうした時にとつた荒療治――そのときはカフエーで五人連の暴力團に喧嘩を賣つたのであるが――によつて再び鬪志を強めようと思ふ。そして拳鬪試合に飛び入りをすることが、書いてあるのだが、鬪志といふものがさうした亂暴な荒療治を必要とするものかどうか、それが主人公の稱してゐる如く唯物論的なものであるかどうかはしばらくおくとして、作品の重心がまるで劍劇のやうな立廻りに置かれてゐるといふことは馬鹿々々しい氣を起させる。しかし一種の才筆。

     吹雪 (岩藤雪夫氏)

 北海道の監獄部屋のことが書かれてゐる。力作である。難點は描寫に知識的な語彙が多いことである。さうしたことがこの作一體に、生活からのものでない、描寫からの――文學からの詠嘆を與へてゐる。しかし讀みごたへのするものであることは爭へない。
 革鞭と樫の棒との間斷なき脅威、粗食と過勞と濕氣のための病氣――反抗の氣力も、性格さへもなくしてしまつた人夫達が、最後に解放されて吹雪のなかへ出てゆき、死物狂の復シユウに立ち歸るまでのことが重々しい印象で書かれてゐる。(昭和三年八月)



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