「いき」の構造
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:九鬼周造 

[#横組みで、ページの上部、左右中央に]
La pens□e doit remplir toute l'existence.
MAINE DE BIRAN, Journal intime.


[#改ページ、ページの左右中央に]



     序

 この書は雑誌『思想』第九十二号および第九十三号(昭和五年一月号および二月号)所載の論文に修補を加えたものである。
 生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ。我々は「いき」という現象のあることを知っている。しからばこの現象はいかなる構造をもっているか。「いき」とは畢竟(ひっきょう)わが民族に独自な「生き」かたの一つではあるまいか。現実をありのままに把握することが、また、味得さるべき体験を論理的に言表することが、この書の追う課題である。

  昭和五年十月
著者


[#改ページ、ページの左右中央に]



       目  次

     一 序  説
     二 「いき」の内包的構造
     三 「いき」の外延的構造
     四 「いき」の自然的表現
     五 「いき」の芸術的表現
     六 結  論



[#改丁]




     一 序  説

 「いき」という現象はいかなる構造をもっているか。まず我々は、いかなる方法によって「いき」の構造を闡明(せんめい)し、「いき」の存在を把握することができるであろうか。「いき」が一の意味を構成していることはいうまでもない。また「いき」が言語として成立していることも事実である。しからば「いき」という語は各国語のうちに見出(みいだ)されるという普遍性を備えたものであろうか。我々はまずそれを調べてみなければならない。そうして、もし「いき」という語がわが国語にのみ存するものであるとしたならば、「いき」は特殊の民族性をもった意味であることになる。しからば特殊な民族性をもった意味、すなわち特殊の文化存在はいかなる方法論的態度をもって取扱わるべきものであろうか。「いき」の構造を明らかにする前に我々はこれらの先決問題に答えなければならぬ。
 まず一般に言語というものは民族といかなる関係を有するものか。言語の内容たる意味と民族存在とはいかなる関係に立つか。意味の妥当問題は意味の存在問題を無用になし得るものではない。否(いな)、往々、存在問題の方が原本的である。我々はまず与えられた具体から出発しなければならない。我々に直接に与えられているものは「我々」である。また我々の綜合と考えられる「民族」である。そうして民族の存在様態は、その民族にとって核心的のものである場合に、一定の「意味」として現われてくる。また、その一定の意味は「言語」によって通路を開く。それ故に一の意味または言語は、一民族の過去および現在の存在様態の自己表明、歴史を有する特殊の文化の自己開示にほかならない。したがって、意味および言語と民族の意識的存在との関係は、前者が集合して後者を形成するのではなくて、民族の生きた存在が意味および言語を創造するのである。両者の関係は、部分が全体に先立つ機械的構成関係ではなくて、全体が部分を規定する有機的構成関係を示している。それ故に、一民族の有する或る具体的意味または言語は、その民族の存在の表明として、民族の体験の特殊な色合(いろあい)を帯びていないはずはない。
 もとより、いわゆる自然現象に属する意味および言語は大なる普遍性をもっている。しかもなお、その普遍性たるや決して絶対的のものではない。例えばフランス語の ciel とか bois とかいう語を英語の sky, wood 、ドイツ語の Himmel, Wald と比較する場合に、その意味内容は必ずしも全然同一のものではない。これはその国土に住んだことのある者は誰しも直ちに了解することである。Le ciel est triste et beau の ciel と、 What shapes of sky or plain? の sky と、 Der bestirnte Himmel □ber mir の Himmel とは、国土と住民とによっておのおのその内容に特殊の規定を受けている。自然現象に関する言葉でさえ既にかようであるから、まして社会の特殊な現象に関する語は他国語に意味の上での厳密なる対当者を見出すことはできない。ギリシャ語のπολισ[#οに鋭アクセント。σはファイナルシグマ]にしてもεταιρα[#εに帯気。ιに鋭アクセント]にしても、フランス語の ville や courtisane とは異なった意味内容をもっている。またたとえ語源を同じくするものでも、一国語として成立する場合には、その意味内容に相違を生じてくる。ラテン語の caesar とドイツ語の Kaiser との意味内容は決して同一のものではない。
 無形的な意味および言語においても同様である。のみならず、或る民族の特殊の存在様態が核心的のものとして意味および言語の形で自己を開示しているのに、他の民族は同様の体験を核心的のものとして有せざるがために、その意味および言語を明らかに欠く場合がある。例えば、esprit という意味はフランス国民の性情と歴史全体とを反映している。この意味および言語は実にフランス国民の存在を予想するもので、他の民族の語彙(ごい)のうちに索(もと)めても全然同様のものは見出し得ない。ドイツ語では Geist をもってこれに当てるのが普通であるが、 Geist の固有の意味はヘーゲルの用語法によって表現されているもので、フランス語の esprit とは意味を異にしている。 geistreich という語もなお esprit の有する色合を完全にもっているものではない。もし、もっているとすれば、それは意識的に esprit の翻訳としてこの語を用いた場合のみである。その場合には本来の意味内容のほかに強(し)いて他の新しい色彩を帯びさせられたものである。否(いな)、他の新しい意味を言語の中に導入したものである。そうしてその新しい意味は自国民が有機的に創造したものではなくて、他国から機械的に輸入したものに過ぎないのである。英語の spirit も intelligence も wit もみな esprit ではない。前の二つは意味が不足しているし、 wit は意味が過剰である。なお一例を挙げれば Sehnsucht という語はドイツ民族が産んだ言葉であって、ドイツ民族とは有機的関係をもっている。陰鬱(いんうつ)な気候風土や戦乱の下(もと)に悩んだ民族が明るい幸(さち)ある世界に憬(あこが)れる意識である。レモンの花咲く国に憧(あこが)れるのは単にミニョンの思郷の情のみではない。ドイツ国民全体の明るい南に対する悩ましい憧憬(しょうけい)である。「夢もなお及ばない遠い未来のかなた、彫刻家たちのかつて夢みたよりも更に熱い南のかなた、神々が踊りながら一切の衣裳を恥ずる彼地(かのち)へ{1}」の憧憬、ニイチェのいわゆる fl□gelbrausende Sehnsucht はドイツ国民の斉(ひと)しく懐くものである。そうしてこの悩みはやがてまた noumenon の世界の措定(そてい)として形而上的(けいじじょうてき)情調をも取って来るのである。英語の longing またはフランス語の langueur, soupir, d□sir などは Sehnsucht の色合の全体を写し得るものではない。ブートルーは「神秘説の心理」と題する論文のうちで、神秘説に関して「その出発点は精神の定義しがたい一の状態で、ドイツ語の Sehnsucht がこの状態をかなり善(よ)く言い表わしている{2}」といっているが、すなわち彼はフランス語のうちに Sehnsucht の意味を表現する語のないことを認めている。
 「いき」という日本語もこの種の民族的色彩の著しい語の一つである。いま仮りに同意義の語を欧洲語のうちに索めてみよう。まず英、独の両語でこれに類似するものは、ほとんど悉(ことごと)くフランス語の借用に基づいている。しからばフランス語のうちに「いき」に該当するものを見出すことができるであろうか。第一に問題となるのは chic という言葉である。この語は英語にもドイツ語にもそのまま借用されていて、日本ではしばしば「いき」と訳される。元来、この語の語源に関しては二説ある。一説によれば chicane の略で裁判沙汰を縺(もつ)れさせる「繊巧(せんこう)な詭計(きけい)」を心得ているというような意味がもとになっている。他説によれば chic の原形は schick である。すなわち schicken から来たドイツ語である。そうして geschickt と同じに、諸事についての「巧妙」の意味をもっていた。その語をフランスが輸入して、次第に趣味についての □l□gant に近接する意味に変えて用いるようになった。今度はこの新しい意味をもった chic として、すなわちフランス語としてドイツにも逆輸入された。しからば、この語の現在有する意味はいかなる内容をもっているかというに、決して「いき」ほど限定されたものではない。外延のなお一層広いものである。すなわち「いき」をも「上品」をも均(ひと)しく要素として包摂(ほうせつ)し、「野暮(やぼ)」「下品」などに対して、趣味の「繊巧」または「卓越」を表明している。次に coquet という語がある。この語は coq から来ていて、一羽の雄鶏(おんどり)が数羽の牝鶏(めんどり)に取巻かれていることを条件として展開する光景に関するものである。すなわち「媚態的(びたいてき)」を意味する。この語も英語にもドイツ語にもそのまま用いられている。ドイツでは十八世紀に coquetterie に対して F□ngereiという語が案出されたが一般に通用するに至らなかった。この特に「フランス的」といわれる語は確かに「いき」の徴表(ちょうひょう)の一つを形成している。しかしなお、他の徴表の加わらざる限り「いき」の意味を生じては来ない。しかのみならず徴表結合の如何(いかん)によっては「下品」ともなり「甘く」もなる。カルメンがハバネラを歌いつつドン・ジョゼに媚(こ)びる態度は coquetterie には相違ないが決して「いき」ではない。なおまたフランスには raffin□という語がある。 re-affiner すなわち「一層精細にする」という語から来ていて、「洗練」を意味する。英語にもドイツ語にも移って行っている。そうしてこの語は「いき」の徴表の一をなすものである。しかしながら「いき」の意味を成すにはなお重要な徴表を欠いている。かつまた或る徴表と結合する場合には「いき」と或る意味で対立している「渋味」となることもできる。要するに「いき」は欧洲語としては単に類似の語を有するのみで全然同価値の語は見出し得ない。したがって「いき」とは東洋文化の、否、大和(やまと)民族の特殊の存在様態の顕著な自己表明の一つであると考えて差支(さしつかえ)ない。
 もとより「いき」と類似の意味を西洋文化のうちに索めて、形式化的抽象によって何らか共通点を見出すことは決して不可能ではない。しかしながら、それは民族の存在様態としての文化存在の理解には適切な方法論的態度ではない。民族的、歴史的存在規定をもった現象を自由に変更して可能の領域においていわゆる「イデアチオン」を行(おこな)っても、それは単にその現象を包含する抽象的の類概念を得るに過ぎない。文化存在の理解の要諦(ようたい)は、事実としての具体性を害(そこな)うことなくありのままの生ける形態において把握することである。ベルクソンは、薔薇(ばら)の匂(におい)を嗅(か)いで過去を回想する場合に、薔薇の匂が与えられてそれによって過去のことが連想されるのではない。過去の回想を薔薇の匂のうちに嗅ぐのであるといっている。薔薇の匂という一定不変のもの、万人に共通な類概念的のものが現実として存するのではない。内容を異にした個々の匂があるのみである。そうして薔薇の匂という一般的なものと回想という特殊なものとの連合によって体験を説明するのは、多くの国語に共通なアルファベットの幾字かを並べて或る一定の国語の有する特殊な音(おん)を出そうとするようなものであるといっている{3}。「いき」の形式化的抽象を行って、西洋文化のうちに存する類似の現象との共通点を求めようとするのもその類(たぐい)である。およそ「いき」の現象の把握に関して方法論的考察をする場合に、我々はほかでもない universalia の問題に面接している。アンセルムスは、類(るい)概念を実在であると見る立場に基づいて、三位(さんみ)は畢竟(ひっきょう)一体の神であるという正統派の信仰を擁護した。それに対してロスケリヌスは、類概念を名目に過ぎずとする唯名論(ゆいめいろん)の立場から、父と子と聖霊の三位は三つの独立した神々であることを主張して、三神説の誹(そし)りを甘受した。我々は「いき」の理解に際して universalia の問題を唯名論の方向に解決する異端者たるの覚悟を要する。すなわち、「いき」を単に種(しゅ)概念として取扱って、それを包括する類概念の抽象的普遍を向観する「本質直観」を索(もと)めてはならない。意味体験としての「いき」の理解は、具体的な、事実的な、特殊な「存在会得(えとく)」でなくてはならない。我々は「いき」の essentia を問う前に、まず「いき」の existentia を問うべきである。一言にしていえば「いき」の研究は「形相的」であってはならない。「解釈的」であるべきはずである{4}。
 しからば、民族的具体の形で体験される意味としての「いき」はいかなる構造をもっているか。我々はまず意識現象の名の下(もと)に成立する存在様態としての「いき」を会得し、ついで客観的表現を取った存在様態としての「いき」の理解に進まなければならぬ。前者を無視し、または前者と後者との考察の順序を顛倒(てんとう)するにおいては「いき」の把握は単に空(むな)しい意図に終るであろう。しかも、たまたま「いき」の闡明(せんめい)が試みられる場合には、おおむねこの誤謬(ごびゅう)に陥っている。まず客観的表現を研究の対象として、その範囲内における一般的特徴を索めるから、客観的表現に関する限りでさえも「いき」の民族的特殊性の把握に失敗する。また客観的表現の理解をもって直ちに意識現象の会得と見做(みな)すため、意識現象としての「いき」の説明が抽象的、形相的に流れて、歴史的、民族的に規定された存在様態を、具体的、解釈的に闡明することができないのである。我々はそれと反対に具体的な意識現象から出発しなければならぬ。

 {1}Nietzsche, Also sprach Zarathustra, Teil III, Von alten und neuen Tafeln.
 {2}Boutroux, La psychologie du mysticisme(La nature et l'esprit, 1926, p. 177).
 {3}Bergson, Essai sur les donn□es imm□diates de la conscience, 20e □d., 1921, p. 124.
 {4}「形相的」および「解釈的」の意義につき、また「本質」と「存在」との関係については左の諸書参照。
    Husserl, Ideen zu einer reinen Ph□nomenologie, 1913, I, S. 4, S. 12.
    Heidegger, Sein und Zeit, 1927, I, S. 37 f.
    Oskar Becker, Mathematische Existenz, 1927, S. 1.


[#改ページ]




     二「いき」の内包的構造

 意識現象の形において意味として開示される「いき」の会得(えとく)の第一の課題として、我々はまず「いき」の意味内容を形成する徴表を内包的に識別してこの意味を判明ならしめねばならない。ついで第二の課題として、類似の諸意味とこの意味との区別を外延的に明らかにしてこの意味に明晰を与えることを計らねばならない。かように「いき」の内包的構造と外延的構造とを均(ひと)しく闡明(せんめい)することによって、我々は意識現象としての「いき」の存在を完全に会得することができるのである。
 まず内包的見地にあって、「いき」の第一の徴表は異性に対する「媚態」である。異性との関係が「いき」の原本的存在を形成していることは、「いきごと」が「いろごと」を意味するのでもわかる。「いきな話」といえば、異性との交渉に関する話を意味している。なお「いきな話」とか「いきな事」とかいううちには、その異性との交渉が尋常の交渉でないことを含んでいる。近松秋江(ちかまつしゅうこう)の『意気なこと』という短篇小説は「女を囲う」ことに関している。そうして異性間の尋常ならざる交渉は媚態(びたい)の皆無を前提としては成立を想像することができない。すなわち「いきな事」の必然的制約は何らかの意味の媚態である。しからば媚態とは何であるか。媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定(そてい)し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。そうして「いき」のうちに見られる「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」などは、すべてこの二元的可能性を基礎とする緊張にほかならない。いわゆる「上品」はこの二元性の欠乏を示している。そうしてこの二元的可能性は媚態の原本的存在規定であって、異性が完全なる合同を遂(と)げて緊張性を失う場合には媚態はおのずから消滅する。媚態は異性の征服を仮想的目的とし、目的の実現とともに消滅の運命をもったものである。永井荷風(ながいかふう)が『歓楽』のうちで「得ようとして、得た後の女ほど情(なさけ)無いものはない」といっているのは、異性の双方において活躍していた媚態の自己消滅によって齎(もた)らされた「倦怠、絶望、嫌悪」の情を意味しているに相違ない。それ故に、二元的関係を持続せしむること、すなわち可能性を可能性として擁護することは、媚態の本領であり、したがって「歓楽」の要諦(ようたい)である。しかしながら、媚態の強度は異性間の距離の接近するに従って減少するものではない。距離の接近はかえって媚態の強度を増す。菊池寛(きくちかん)の『不壊(ふえ)の白珠(しらたま)』のうちで「媚態」という表題の下に次の描写がある。「片山(かたやま)氏は……玲子(れいこ)と間隔をあけるやうに、なるべく早足に歩かうとした。だが、玲子は、そのスラリと長い脚で……片山氏が、離れようとすればするほど寄り添つて、すれずれに歩いた」。媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。可能性としての媚態は、実に動的可能性として可能である。アキレウスは「そのスラリと長い脚で」無限に亀(かめ)に近迫するがよい。しかし、ヅェノンの逆説を成立せしめることを忘れてはならない。けだし、媚態とは、その完全なる形においては、異性間の二元的、動的可能性が可能性のままに絶対化されたものでなければならない。「継続された有限性」を継続する放浪者、「悪い無限性」を喜ぶ悪性者(あくしょうもの)、「無窮に」追跡して仆(たお)れないアキレウス、この種の人間だけが本当の媚態を知っているのである。そうして、かような媚態が「いき」の基調たる「色っぽさ」を規定している。
 「いき」の第二の徴表は「意気」すなわち「意気地」である。意識現象としての存在様態である「いき」のうちには、江戸文化の道徳的理想が鮮やかに反映されている。江戸児(えどっこ)の気概が契機として含まれている。野暮と化物とは箱根より東に住まぬことを「生粋(きっすい)」の江戸児は誇りとした。「江戸の花」には、命をも惜しまない町火消(まちびけし)、鳶者(とびのもの)は寒中でも白足袋(しろたび)はだし、法被(はっぴ)一枚の「男伊達(おとこだて)」を尚(とうと)んだ。「いき」には、「江戸の意気張り」「辰巳(たつみ)の侠骨(きょうこつ)」がなければならない。「いなせ」「いさみ」「伝法(でんぽう)」などに共通な犯すべからざる気品・気格がなければならない。「野暮は垣根の外がまへ、三千楼の色競(くら)べ、意気地(いきじ)くらべや張競べ」というように、「いき」は媚態でありながらなお異性に対して一種の反抗を示す強味をもった意識である。「鉢巻の江戸紫」に「粋(いき)なゆかり」を象徴する助六(すけろく)は「若い者、間近く寄つてしやつつらを拝み奉れ、やい」といって喧嘩を売る助六であった。「映らふ色やくれなゐの薄花桜」と歌われた三浦屋の揚巻(あげまき)も髭(ひげ)の意休(いきゅう)に対して「慮外ながら揚巻で御座んす。暗がりで見ても助六さんとお前、取違へてよいものか」という思い切った気概を示した。「色と意気地を立てぬいて、気立(きだて)が粋(すい)で」とはこの事である。かくして高尾(たかお)も小紫(こむらさき)も出た。「いき」のうちには溌剌(はつらつ)として武士道の理想が生きている。「武士は食わねど高楊枝(たかようじ)」の心が、やがて江戸者の「宵越(よいごし)の銭(ぜに)を持たぬ」誇りとなり、更にまた「蹴(け)ころ」「不見転(みずてん)」を卑(いや)しむ凛乎(りんこ)たる意気となったのである。「傾城(けいせい)は金でかふものにあらず、意気地にかゆるものとこころへべし」とは廓(くるわ)の掟(おきて)であった。「金銀は卑しきものとて手にも触れず、仮初(かりそめ)にも物の直段(ねだん)を知らず、泣言(なきごと)を言はず、まことに公家大名(くげだいみょう)の息女(そくじょ)の如し」とは江戸の太夫(たゆう)の讃美であった。「五丁町(ごちょうまち)の辱(はじ)なり、吉原(よしわら)の名折れなり」という動機の下(もと)に、吉原の遊女は「野暮な大尽(だいじん)などは幾度もはねつけ」たのである。「とんと落ちなば名は立たん、どこの女郎衆(じょろしゅ)の下紐(したひも)を結ぶの神の下心」によって女郎は心中立(しんじゅうだて)をしたのである。理想主義の生んだ「意気地」によって媚態が霊化されていることが「いき」の特色である。
 「いき」の第三の徴表は「諦め」である。運命に対する知見に基づいて執着(しゅうじゃく)を離脱した無関心である。「いき」は垢抜(あかぬけ)がしていなくてはならぬ。あっさり、すっきり、瀟洒(しょうしゃ)たる心持でなくてはならぬ。この解脱(げだつ)は何によって生じたのであろうか。異性間の通路として設けられている特殊な社会の存在は、恋の実現に関して幻滅の悩みを経験させる機会を与えやすい。「たまたま逢ふに切れよとは、仏姿(ほとけすがた)にあり乍(なが)ら、お前は鬼か清心様(せいしんさま)」という歎きは十六夜(いざよい)ひとりの歎きではないであろう。魂を打込んだ真心が幾度か無惨に裏切られ、悩みに悩みを嘗(な)めて鍛えられた心がいつわりやすい目的に目をくれなくなるのである。異性に対する淳朴(じゅんぼく)な信頼を失ってさっぱりと諦(あきら)むる心は決して無代価で生れたものではない。「思ふ事、叶はねばこそ浮世とは、よく諦めた無理なこと」なのである。その裏面には「情(つれ)ないは唯(ただ)うつり気な、どうでも男は悪性者(あくしょうもの)」という煩悩(ぼんのう)の体験と、「糸より細き縁ぢやもの、つい切れ易く綻(ほころ)びて」という万法の運命とを蔵している。そうしてその上で「人の心は飛鳥川(あすかがわ)、変るは勤めのならひぢやもの」という懐疑的な帰趨(きすう)と、「わしらがやうな勤めの身で、可愛(かわい)と思ふ人もなし、思うて呉(く)れるお客もまた、広い世界にないものぢやわいな」という厭世的な結論とを掲げているのである。「いき」を若い芸者に見るよりはむしろ年増(としま)の芸者に見出すことの多いのはおそらくこの理由によるものであろう{1}。要するに、「いき」は「浮かみもやらぬ、流れのうき身」という「苦界(くがい)」にその起原をもっている。そうして「いき」のうちの「諦め」したがって「無関心」は、世智辛(せちがら)い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜した心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡無碍(てんたんむげ)の心である。「野暮は揉(も)まれて粋となる」というのはこの謂(いい)にほかならない。婀娜(あだ)っぽい、かろらかな微笑の裏に、真摯(しんし)な熱い涙のほのかな痕跡(こんせき)を見詰めたときに、はじめて「いき」の真相を把握(はあく)し得たのである。「いき」の「諦め」は爛熟頽廃(らんじゅくたいはい)の生んだ気分であるかもしれない。またその蔵する体験と批判的知見とは、個人的に獲得したものであるよりは社会的に継承したものである場合が多いかもしれない。それはいずれであってもよい。ともかくも「いき」のうちには運命に対する「諦め」と、「諦め」に基づく恬淡とが否(いな)み得ない事実性を示している。そうしてまた、流転(るてん)、無常を差別相の形式と見、空無(くうむ)、涅槃(ねはん)を平等相の原理とする仏教の世界観、悪縁にむかって諦めを説き、運命に対して静観を教える宗教的人生観が背景をなして、「いき」のうちのこの契機を強調しかつ純化していることは疑いない。
 以上を概括すれば、「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」との三契機を示している。そうして、第一の「媚態」はその基調を構成し、第二の「意気地」と第三の「諦め」の二つはその民族的、歴史的色彩を規定している。この第二および第三の徴表は、第一の徴表たる「媚態」と一見相容(あいい)れないようであるが、はたして真に相容れないであろうか。さきに述べたように、媚態の原本的存在規定は二元的可能性にある。しかるに第二の徴表たる「意気地」は理想主義の齎(もたら)した心の強味で、媚態の二元的可能性に一層の緊張と一層の持久力とを呈供(ていきょう)し、可能性を可能性として終始せしめようとする。すなわち「意気地」は媚態の存在性を強調し、その光沢を増し、その角度を鋭くする。媚態の二元的可能性を「意気地」によって限定することは、畢竟(ひっきょう)、自由の擁護を高唱するにほかならない。第三の徴表たる「諦め」も決して媚態と相容れないものではない。媚態はその仮想的目的を達せざる点において、自己に忠実なるものである。それ故に、媚態が目的に対して「諦め」を有することは不合理でないのみならず、かえって媚態そのものの原本的存在性を開示せしむることである。媚態と「諦め」との結合は、自由への帰依(きえ)が運命によって強要され、可能性の措定(そてい)が必然性によって規定されたことを意味している。すなわち、そこには否定による肯定が見られる。要するに、「いき」という存在様態において、「媚態」は、武士道の理想主義に基づく「意気地」と、仏教の非現実性を背景とする「諦め」とによって、存在完成にまで限定されるのである。それ故に、「いき」は媚態の「粋(すい)」{2}である。「いき」は安価なる現実の提立(ていりつ)を無視し、実生活に大胆なる括弧(かっこ)を施し、超然として中和の空気を吸いながら、無目的なまた無関心な自律的遊戯をしている。一言にしていえば、媚態のための媚態である。恋の真剣と妄執とは、その現実性とその非可能性によって「いき」の存在に悖(もと)る。「いき」は恋の束縛に超越した自由なる浮気心でなければならぬ。「月の漏(も)るより闇がよい」というのは恋に迷った暗がりの心である。「月がよいとの言草(ことぐさ)」がすなわち恋人にとっては腹の立つ「粋な心」である。「粋な浮世を恋ゆえに野暮にくらすも心から」というときも、恋の現実的必然性と、「いき」の超越的可能性との対峙(たいじ)が明示されている。「粋と云(い)はれて浮いた同士(どし)」が「つひ岡惚(おかぼれ)の浮気から」いつしか恬淡洒脱(てんたんしゃだつ)の心を失って行った場合には「またいとしさが弥増(いやま)して、深く鳴子の野暮らしい」ことを託(かこ)たねばならない。「蓮(はす)の浮気は一寸(ちょいと)惚(ぼ)れ」という時は未だ「いき」の領域にいた。「野暮な事ぢやが比翼紋(ひよくもん)、離れぬ中(なか)」となった時には既に「いき」の境地を遠く去っている。そうして「意気なお方につり合ぬ、野暮なやの字の屋敷者」という皮肉な嘲笑を甘んじて受けなければならぬ。およそ「胸の煙は瓦焼く竈(かまど)にまさる」のは「粋な小梅(こうめ)の名にも似ぬ」のである。スタンダアルのいわゆる amour-passion の陶酔はまさしく「いき」からの背離である。「いき」に左袒(さたん)する者は amour-go□tの淡い空気のうちで蕨(わらび)を摘んで生きる解脱(げだつ)に達していなければならぬ。しかしながら、「いき」はロココ時代に見るような「影に至るまでも一切が薔薇色の絵{3}」ではない。「いき」の色彩はおそらく「遠つ昔の伊達姿、白茶苧袴(しらちゃおばかま)」の白茶色であろう。
 要するに「いき」とは、わが国の文化を特色附けている道徳的理想主義と宗教的非現実性との形相因によって、質料因たる媚態が自己の存在実現を完成したものであるということができる。したがって「いき」は無上の権威を恣(ほしいまま)にし、至大の魅力を振うのである。「粋な心についたらされて、嘘(うそ)と知りてもほんまに受けて」という言葉はその消息を簡明に語っている。ケレルマンがその著『日本に於(お)ける散歩』のうちで、日本の或る女について「欧羅巴(ヨーロッパ)の女がかつて到達しない愛嬌をもって彼女は媚(こび)を呈した{4}」といっているのは、おそらく「いき」の魅惑を感じたのであろう。我々は最後に、この豊かな特彩をもつ意識現象としての「いき」、理想性と非現実性とによって自己の存在を実現する媚態としての「いき」を定義して「垢抜して(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ(媚態)」ということができないであろうか。

 {1}『春色辰巳園(しゅんしょくたつみのその)』巻之七に「さぞ意気な年増(としま)になるだらうと思ふと、今ツから楽しみだわ」という言葉がある。また『春色梅暦(しゅんしょくうめごよみ)』巻之二に「素顔の意気な中年増(ちゅうどしま)」ということもある。また同書巻之一に「意気な美しいおかみさんが居ると言ひましたから、それぢやア違ツたかと思つて、猶(なお)くはしく聞いたれば、おまはんの年よりおかみさんの方が、年うへのやうだといひますし云々」の言葉があるが、すなわち、ここでは「いき」と形容されている女は、男よりも年上である。一般に「いき」は知見を含むもので、したがって「年の功」を前提としている。「いき」の所有者は、「垢のぬけたる苦労人」でなければならない。
 {2}我々が問題を見ている地平にあっては、「いき」と「粋(すい)」とを同一の意味内容を有するものと考えても差支ないと思う。式亭三馬の『浮世風呂(うきよぶろ)』第二編巻之上で、染色に関して、江戸の女と上方(かみがた)の女との間に次の問答がある。江戸女「薄紫(うすむらさき)といふやうなあんばいで意気だねえ」上方女「いつかう粋ぢや。こちや江戸紫(えどむらさき)なら大好(だいすき)/\」。すなわち、「いき」と「粋」とはこの場合全然同意義である。染色の問答に続いて、三馬はこの二人の女に江戸語と上方語との巧みな使い別けをさせている。のみならず「すつぽん」と「まる」、「から」と「さかい」などのような、江戸語と上方語との相違について口論をさせている。「いき」と「粋」との相違は、同一内容に対する江戸語と上方語との相違であるらしい。したがって、両語の発達を時代的に規定することが出来るかもしれない(『元禄文学辞典』『近松語彙(ちかまつごい)』参照)。もっとも単に土地や時代の相違のみならず、意識現象には好んで「粋(すい)」の語を用い、客観的表現には主として「いき」の語を使うように考えられる場合もある。例えば『春色梅暦』巻之七に出ている流行唄(はやりうた)に「気だてが粋で、なりふりまでも意気で」とある。しかし、また同書巻之九に「意気の情(なさけ)の源」とあるように、意識現象に「いき」の語を用いる場合も多いし、『春色辰巳園』巻之三に「姿も粋な米八(よねはち)」といっているように、客観的表現に「粋」の語を使う場合も少なくない。要するに、「いき」と「粋」とは意味内容を同じくするものと見て差支ないであろう。また、たとえ一は特に意識現象に、他は専ら客観的表現に用いられると仮定しても、客観的表現とは意識現象の客観化にほかならず、したがって両者は結局その根柢においては同一意味内容をもっていることになる。
 {3}Stendhal, De l'amour, livre I, chapitre I.
 {4}Kellermann, Ein Spaziergang in Japan, 1924, S. 256.


[#改ページ]




     三「いき」の外延的構造

 前節において、我々は「いき」の包含する徴表を内包的に弁別して、「いき」の意味を判明ならしめたつもりである。我々はここに、「いき」と「いき」に関係を有する他の諸意味との区別を考察して、外延的に「いき」の意味を明晰(めいせき)ならしめねばならない。
 「いき」に関係を有する主要な意味は「上品」、「派手(はで)」、「渋味」などである。これらはその成立上の存在規定に遡(さかのぼ)って区分の原理を索(もと)める場合に、おのずから二群に分かれる。「上品」や「派手」が存在様態として成立する公共圏は、「いき」や「渋味」が存在様態として成立する公共圏とは性質を異(こと)にしている。そうしてこの二つの公共圏のうち、「上品」および「派手」の属するものは人性的一般存在であり、「いき」および「渋味」の属するものは異性的特殊存在であると断定してもおそらく誤りではなかろう。
 これらの意味は大概みなその反対意味をもっている。「上品」は対立者として「下品」をもっている。「派手」は対立者に「地味」を有する。「いき」の対立者は「野暮」である。ただ、「渋味」だけは判然たる対立者をもっていない。普通には「渋味」と「派手」とを対立させて考えるが、「派手」は相手として「地味」をもっている。さて、「渋味」という言葉はおそらく柿の味から来ているのであろう。しかるに柿は「渋味」のほかになお「甘味」をももっている。渋柿に対しては甘柿がある。それ故、「渋味」の対立者としては「甘味」を考えても差支ないと信ずる。渋茶、甘茶、渋糟(しぶかす)、甘糟、渋皮、甘皮などの反対語の存在も、この対立関係を裏書する。しからば、これらの対立意味はどういう内容をもっているか。また、「いき」といかなる関係に立っているか。
 (一) 上品―下品とは価値判断に基づいた対自性の区別、すなわち物自身の品質上の区別である。言葉が表わしているように、上品とは品柄の勝(すぐ)れたもの、下品とは品柄の劣ったものを指している。ただし品(ひん)の意味は一様ではない。上品、下品とはまず物品に関する区別であり得る。ついで人事にもこの区別が適用される。「上品無寒門、下品無勢族」というときには、上品、下品は、人事関係、特に社会的階級性に関係したものとして見られている。歌麿(うたまろ)の『風俗三段娘』は、上品之部、中品之部、下品之部の三段に分れているが、当時の婦女風俗を上流、中流、下流の三に分って描いている。なお仏教語として品を呉音(ごおん)で読んで極楽浄土の階級性を表わす場合もあるが、広義における人事関係と見て差支ない。上品、下品の対立は、人事関係に基づいて更に人間の趣味そのものの性質を表明するようになり、上品とは高雅なこと、下品とは下卑(げび)たことを意味するようになる。
 しからば「いき」とこれらの意味とはいかなる関係に立っているであろうか。上品は人性的一般存在の公共圏に属するものとして、媚態とは交渉ないものと考えられる。『春色梅暦(しゅんしょくうめごよみ)』に藤兵衛の母親に関して「さも上品なるそのいでたち」という形容があるが、この母親は既に後家になっているのみならず「歳(とし)のころ、五十歳(いそじ)あまりの尼御前(あまごぜ)」である。そうして、藤兵衛の情婦お由(よし)の示す媚態とは絶好の対照をなしている。しかるにまた「いき」は、その徴表中に「意気地(いきじ)」と「諦め」とを有することに基づいて、趣味の卓越として理解される。したがって、「いき」と上品との関係は、一方に趣味の卓越という意味で有価値的であるという共通点を有し、他方に媚態の有無(うむ)という差異点を有するものと考えられる。また、下品はそれ自身媚態と何ら関係ないことは上品と同様であるが、ただ媚態と一定の関係に置かれやすい性質をもっている。それ故に、「いき」と下品との関係を考える場合には、共通点としては媚態の存在、差異点としては趣味の上下優劣を理解するのが普通である。「いき」が有価値的であるに対して下品は反価値的である。そうしてその場合、しばしば、両者に共通の媚態そのものが趣味の上下によって異なった様態を取るものとして思惟(しい)される。たとえば「意気にして賤(いや)しからず」とか、または「意気で人柄がよくて、下卑た事と云(い)つたら是計(これっぱかり)もない」などといっている場合、「いき」と下品との関係が言表(いいあら)わされている。
 「いき」が一方に上品と、他方に下品と、かような関係に立っていることを考えれば、何ゆえにしばしば「いき」が上品と下品との中間者と見做(みな)されるかの理由がわかって来る。一般に上品に或るものを加えて「いき」となり、更に加えて或る程度を越えると下品になるという見方がある。上品と「いき」とは共に有価値的でありながら或るものの有無によって区別される。その或るものを「いき」は反価値的な下品と共有している。それ故に「いき」は上品と下品との中間者と見られるのである。しかしながら、三者の関係をかように直線的に見るのは二次的に起ったことで、存在規定上、原本的ではない。
 (二) 派手―地味とは対他性の様態上の区別である。他に対する自己主張の強度または有無の差である。派手(はで)とは葉が外へ出るのである。「葉出」の義である。地味(じみ)とは根が地を味わうのである。「地の味」の義である。前者は自己から出て他へ行く存在様態、後者は自己の素質のうちへ沈む存在様態である。自己から出て他へ行くものは華美を好み、花やかに飾るのである。自己のうちへ沈むものは飾りを示すべき相手をもたないから、飾らないのである。豊太閤(ほうたいこう)は、自己を朝鮮にまでも主張する性情に基づいて、桃山時代の豪華燦爛(ごうかさんらん)たる文化を致(いた)した。家康(いえやす)は「上を見な」「身の程(ほど)を知れ」の「五字七字」を秘伝とまで考えたから、家臣の美服を戒め鹵簿(ろぼ)の倹素を命じた。そこに趣味の相違が現われている。すなわち、派手、地味の対立はそれ自身においては何ら価値判断を含んでいない非価値的のものである。対立の意味は積極的と消極的との差別に存している。
 「いき」との関係をいえば、派手は「いき」と同じに他に対して積極的に媚態を示し得る可能性をもっている。「派手な浮名が嬉しうて」の言葉でもわかる。また「うらはづかしき派手姿も、みなこれ男を思ふより」というときにも、派手と媚態との可能的関係が示されている。しかし、派手の特色たるきらびやかな衒(てら)いは「いき」のもつ「諦め」と相容れない。江戸褄(えどづま)の下から加茂川染の襦袢(じゅばん)を見せるというので「派手娘江戸の下より京を見せ」という句があるが、調和も統一も考えないで単に華美濃艶(かびのうえん)を衒う「派手娘」の心事と、「つやなし結城(ゆうき)の五ほんて縞(じま)、花色裏のふきさへも、たんとはださぬ」粋者(すいしゃ)の意中とには著しい隔(へだた)りがある。それ故に派手は品質の検校(けんこう)が行われる場合には、往々趣味の下劣が暴露されて下品の極印(ごくいん)を押されることがある。地味は原本的に消極的対他関係に立つために「いき」の有する媚態をもち得ない。その代りに樸素(ぼくそ)な地味は、一種の「さび」を見せて「いき」のうちの「諦め」に通う可能性をもっている。地味が品質の検校を受けてしばしば上品の列に加わるのは、さびた心の奥床(おくゆか)しさによるのである。
 (三) 意気―野暮は異性的特殊性の公共圏内における価値判断に基づいた対自性の区別である。もとよりその成立上の存在規定が異性的特殊性である限り、「いき」のうちには異性に対する措定(そてい)が言表されている。しかし、「いき」が野暮と一対(いっつい)の意味として強調している客観的内容は、対他性の強度または有無(うむ)ではなく、対自性に関する価値判断である。すなわち「いき」と野暮との対立にあっては、或る特殊な洗練の有無が断定されているのである。「いき」はさきにもいったように字通りの「意気」である。「気象」である。そうして「気象の精粋」の意味とともに、「世態人情に通暁すること」「異性的特殊社会のことに明るいこと」「垢抜(あかぬけ)していること」を意味してきている。野暮は「野夫(やぶ)」の音転であるという。すなわち通人粋客に対して、世態に通じない、人情を解しない野人(やじん)田夫(でんぷ)の意である。それより惹(ひ)いて、「鄙(ひな)びたこと」「垢抜のしていないこと」を意味するようになってきた。『春告鳥(はるつげどり)』のうちに「生質野夫(やぼ)にて世間の事をすこしも知らず、青楼妓院(せいろうぎいん)は夢にも見たる事なし。されば通君子(つうくんし)の謗(そし)りすくなからず」という言葉がある。また『英対暖語(えいたいだんご)』のうちに「唄女(はおり)とかいふ意気なのでないと、お気には入らないと聞いて居ました。どうして私のやうな、おやしきの野暮な風で、お気には入りませんのサ」という言葉がある。
 もとより、「私は野暮です」というときには、多くの場合に野暮であることに対する自負が裏面に言表されている。異性的特殊性の公共圏内の洗練を経ていないことに関する誇りが主張されている。そこには自負に価(あたい)する何らかのものが存している。「いき」を好むか、野暮を択(えら)ぶかは趣味の相違である。絶対的な価値判断は客観的には与えられていない。しかしながら、文化的存在規定を内容とする一対の意味が、一は肯定的に言表され、他は否定的の言葉を冠している場合には、その成立上における原本性および非原本性に関して断定を下すことができるとともに、その意味内容の成立した公共圏内における相対的な価値判断を推知することができる。合理、不合理という語は、理性を標準とする公共圏内でできた語である。信仰、無信仰は、宗教的公共圏を成立規定にもっている。そうして、これらの語はその基礎附けられている公共圏内にあっては明らかに価値判断を担(にな)っている。さて、意気といい粋といい、いずれも肯定的にいい表わされている。それに反して野暮は同義語として、否定的に言表された不意気(ぶいき)と不粋(ぶすい)とを有する。我々はこれによって「いき」が原本的で、ついで野暮がその反対意味として発生したことを知り得るとともに、異性的特殊性の公共圏内にあっては「いき」は有価値的として、野暮は反価値的として判断されることを想像することができる。玄人(くろうと)から見れば素人(しろうと)は不粋である。自分に近接している「町風(まちふう)」は「いき」として許されるが、自分から疎隔している「屋敷風」は不意気である。うぶな恋も野暮である。不器量な女の厚化粧も野暮である。「不粋なこなさんぢや有るまいし、色里の諸わけをば知らぬ野暮でもあるまいし」という場合にも、異性的特殊性の公共圏内における価値判断の結果として、不粋と野暮とによって反価値性が示されている。
 (四) 渋味―甘味は対他性から見た区別で、かつまた、それ自身には何らの価値判断を含んでいない。すなわち、対他性が積極的であるか、消極的であるかの区別が言表されているだけである。渋味は消極的対他性を意味している。柿が肉の中(うち)に渋味を蔵するのは烏(からす)に対して自己を保護するのである。栗が渋い内皮をもっているのは昆虫類に対する防禦(ぼうぎょ)である。人間も渋紙で物を包んで水の浸入に備えたり、渋面(じゅうめん)をして他人との交渉を避けたりする。甘味はその反対に積極的対他性を表わしている。甘える者と甘えられる者との間には、常に積極的な通路が開けている。また、人に取入ろうとする者は甘言を提供し、下心ある者は進んで甘茶を飲ませようとする。
 対他性上の区別である渋味と甘味とは、それ自身には何ら一定の価値判断を担(にな)っていない。価値的意味はその場合その場合の背景によって生じて来るのである。「しぶかはにまあだいそれた江戸のみづ」の渋皮は反価値的のものである。それに反して、しぶうるかという場合、うるかは味の渋さを賞するものであるから、渋味は有価値的意味を表現している。甘味についても、たとえば、茶のうちでは玉露に「甘い優美な趣味」があるとか、政(まつりごと)よろしきを得れば天が甘露を降らすとか、または快く承諾することを甘諾(かんだく)といったりする時には、甘味は有価値的意味をもっている。しかるに、「あまっちょ」「甘ったるい物の言い方」「甘い文学」などいう場合には、甘味によって明らかに反価値性が言表されている。
 さて、渋味と甘味とが対他性上の消極的または積極的の存在様態として理解される場合には、両者は勝義において異性的特殊性の公共圏に属するものとして考えられる。この公共圏内の対他的関係の常態は甘味である。「甘えてすねて」とか「甘えるすがた色ふかし」などいう言葉に表われている。そうして、渋味は甘味の否定である。荷風は『歓楽』の中で、「其の土地では一口に姐(ねえ)さんで通るかと思ふ年頃の渋いつくりの女」に出逢(であ)って、その女が十年前に自分と死のうと約束した小菊(こぎく)という芸者であったことを述べている。この場合、その女のもっていた昔の甘味は否定されて渋味になっているのである。渋味はしばしば派手の反対意味として取扱われる。しかしながらそれは渋味の存在性を把握するに妨害をする。派手の反対意味としては地味がある。渋味をも地味をも斉(ひと)しく派手に対立させることによって、渋味と地味とを混同する結果を来たす。渋味と地味とは共に消極的対他性を表わす点に共通点をもっているが、重要なる相違点は、地味が人性的一般性を公共圏として甘味とは始めより何ら関係なく成立しているに反して、渋味は異性的特殊性を公共圏として甘味の否定によって生じたものであるという事実である。したがって、渋味は地味よりも豊富な過去および現在をもっている。渋味は甘味の否定には相違ないが、その否定は忘却とともに回想を可能とする否定である。逆説のようであるが、渋味には艶(つや)がある。
 しからば、渋味および甘味は「いき」とはいかなる関係に立っているか。三者とも異性的特殊存在の様態である。そうして、甘味を常態と考えて、対他的消極性の方向へ移り行くときに、「いき」を経て渋味に到る路があることに気附くのである。この意味において、甘味と「いき」と渋味とは直線的関係に立っている。そうして「いき」は肯定より否定への進路の中間に位(くらい)している{1}。
 独断の「甘い」夢が破られて批判的知見に富んだ「いき」が目醒(めざ)めることは、「いき」の内包的構造のところで述べた。また、「いき」が「媚態のための媚態」もしくは「自律的遊戯」の形を取るのは「否定による肯定」として可能であることも言った。それは甘味から「いき」への推移について語ったにほかならない。しかるに、更に否定が優勢を示して極限に近づく時には「いき」は渋味に変ずるのである。荷風の「渋いつくりの女」は、甘味から「いき」を経て渋味に行ったに相違ない。歌沢(うたざわ)の或るもののうちに味わわれる渋味も畢竟(ひっきょう)、清元(きよもと)などのうちに存する「いき」の様態化であろう。辞書『言海』の「しぶし」の条下に「くすみていきなり」と説明してあるが、渋味が「いき」の様態化であることを認めているわけである。そうしてまた、この直線的関係において「いき」が甘味へ逆戻りをする場合も考え得る。すなわち「いき」のうちの「意気地」や「諦め」が存在を失って、砂糖のような甘ったるい甘味のみが「甘口」な人間の特徴として残るのである。国貞(くにさだ)の女が清長(きよなが)や歌麿(うたまろ)から生れたのはこういう径路(けいろ)を取っている。
 以上において我々はほぼ「いき」の意味を他の主要なる類似意味と区別することができたと信ずる。また、これらの類似意味との比較によって、意味体験としての「いき」が、単に意味としての客観性を有するのみならず、趣味として価値判断の主体および客体となることが暗示されたと思う。その結果として我々は、「いき」を或る趣味体系の一員として他の成員との関係において会得(えとく)することができるのである。その関係はすなわち左のとおりである。

[#図が入るが省略。底本43ページ]

 もとより、趣味はその場合その場合には何らかの主観的価値判断を伴っている。しかしその判断が客観的に明瞭に主張される場合と、主観内に止(とど)まって曖昧(あいまい)な形より取らない場合とがある。いま仮りに前者を価値的といい、後者を非価値的というのである。
 なお、この関係は、左図のように、直六面体の形で表わすことができる。

[#図が入るが省略。底本44ページ]

この図において、正方形をなす上下の両面は、ここに取扱う趣味様態の成立規定たる両公共圏を示す。底面は人性的一般性、上面は異性的特殊性を表わす。八個の趣味を八つの頂点に置く。上面および底面上にて対角線によって結び付けられた頂点に位置を占むる趣味は相(あい)対立する一対を示す。もとより何と何とを一対として考えるかは絶対的には決定されていない。上面と底面において、正方形の各辺によって結び付けられた頂点(例えば意気と渋味)、側面の矩形(くけい)において、対角線によって結び付けられた頂点(例えば意気と派手)、直六面体の側稜(そくりょう)によって結び付けられた頂点(例えば意気と上品)、直六面体の対角線によって結び付けられた頂点(例えば意気と下品)、これらのものは常に何らかの対立を示している。すなわち、すべての頂点は互いに対立関係に立つことができる。上面と底面において、正方形の対角線によって対立する頂点はそのうちで対立性の最も顕著なものである。その対立の原理として、我々は、各公共圏において、対自性と対他性とを考えた。対自性上の対立は価値判断に基づくもので、対立者は有価値的と反価値的との対照を示した。対他性上の対立は価値とは関係ない対立で、対立者は積極的と消極的とに分れた。六面体では、対自性上の価値的対立と、対他性上の非価値的対立とは、上下の正方形の二対の対角線が六面体を垂直に截(き)ることによって生ずる二つの互に垂直に交わる矩形によって表わされている。すなわち、上品、意気、野暮、下品を角頂にもつ矩形は対自性上の対立を示し、派手、甘味、渋味、地味を角頂とする矩形は対他性上の対立を表わしている。いま、底面の正方形の二つの対角線の交点をOとし、上面の正方形の二つの対角線の交点をPとし、この二点を結び付ける法線OPを引いてみる。この法線OPは対自性的矩形面と対他性的矩形面との相交(まじわ)る直線にほかならないが、この趣味体系内にあっての具体的普遍者を意味している。その内面的発展によって外囲(がいい)に特殊の趣味が現われて来る。さてこの法線OPは、対自性的矩形と、対他性的矩形とのおのおのを垂直に二等分している。その結果としてできたO、P、意気、上品の矩形は有価値性を表わし、O、P、野暮、下品の矩形は反価値性を表わす。また、O、P、甘味、派手の矩形は積極性、O、P、渋味、地味の矩形は消極性を表わしている。
 なおこの直六面体は、他の同系統の種々の趣味をその表面または内部の一定点に含有すると考えても差支ないであろう。いま、すこし例を挙げてみよう。
 「さび」とは、O、上品、地味のつくる三角形と、P、意気、渋味のつくる三角形とを両端面に有する三角※(さんかくちゅう)[#「※」は「つちへん+壽」、46-2]の名称である。わが大和民族の趣味上の特色は、この三角※[#「※」は「つちへん+壽」、読みは「ちゅう」、46-2]が三角※[#「※」は「つちへん+壽」、読みは「ちゅう」、46-2]の形で現勢的に存在する点にある。
 「雅」は、上品と地味と渋味との作る三角形を底面とし、Oを頂点とする四面体のうちに求むべきものである。
 「味」とは、甘味と意気と渋味とのつくる三角形を指していう。甘味、意気、渋味が異性的特殊存在の様態化として直線的関係をもつごとく考え得る可能性は、この直角三角形の斜辺ならざる二辺上において、甘味より意気を経て渋味に至る運動を考えることに存している。
 「乙」とは、この同じ三角形を底面とし、下品を頂点とする四面体のうちに位置を占めているものであろう。
 「きざ」は、派手と下品とを結び付ける直線上に位している。
 「いろっぽさ」すなわち coquet は、上面の正方形内に成立するものであるが、底面上に射影を投ずることがある。上面の正方形においては、甘味と意気とを結び付けている直線に平行してPを通る直線が正方形の二辺と交わる二点がある。この二つの交点と甘味と意気とのつくる矩形全体がいろっぽさである。底面上に射影を投ずる場合には、派手と下品とを結び付ける直線に平行してOを通る直線が正方形の二辺と交わる二つの交点と、派手と、下品とがつくる矩形がいろっぽさを表わしている。上品と意気と下品とを直線的に考えるのは、いろっぽさの射影を底面上に仮定した後、上品と意気と下品の三点を結んで一の三角形を作り、上品から出発して意気を経て下品へ行く運動を考えることを意味しているはずである。影は往々実物よりも暗いものである。
 chic とは、上品と意気との二頂点を結び付ける直線全体を漠然(ばくぜん)と指している。
 raffin□とは、意気と渋味とを結び付ける直線が六面体の底面に向って垂直に運動し、間もなく静止した時に、その運動が描いた矩形の名称である。
 要するに、この直六面体の図式的価値は、他の同系統の趣味がこの六面体の表面および内部の一定点に配置され得る可能性と函数的(かんすうてき)関係をもっている。

 {1}『船頭部屋』に「ここも都の辰巳(たつみ)とて、喜撰(きせん)は朝茶の梅干に、栄代団子(えいたいだんご)の角(かど)とれて、酸いも甘いもかみわけた」という言葉があるように、「いき」すなわち粋の味は酸いのである。そうして、自然界における関係の如何(いかん)は別として、意識の世界にあっては、酸味は甘味と渋味との中間にあるのである。また渋味は、自然界にあっては不熟の味である場合が多いが、精神界にあってはしばしば円熟した趣味である。広義の擬古主義が蒼古的(そうこてき)様式の古拙性を尊ぶ理由もそこにある。渋味に関して、正、反、合の形式をとって弁証法が行われているとも考えられる。「鶯(うぐいす)の声まだ渋く聞(きこ)ゆなり、すだちの小野の春の曙(あけぼの)」というときの渋味は、渋滞の意で第一段たる「正」の段階を示している。それに対して、甘味は第二段たる「反」の段階を形成する。そうして「無地表(むじおもて)、裏模様(うらもよう)」の渋味、すなわち趣味としての渋味は、甘味を止揚したもので、第三段たる「合」の段階を表わしている。


[#改ページ]




     四「いき」の自然的表現

 今までは意識現象としての「いき」を考察してきた。今度は客観的表現の形を取った「いき」を、理解さるべき存在様態と見てゆかねばならぬ。意味としての「いき」の把握(はあく)は、後者を前者の上に基礎附け、同時に全体の構造を会得する可能性に懸(かか)っている。さて「いき」の客観的表現は、自然形式としての表現、すなわち自然的表現と、芸術形式としての表現、すなわち芸術的表現との二つに区別することができる。この両表現形式がはたして截然(せつぜん)たる区別を許すかの問題{1}、すなわち自然形式とは畢竟(ひっきょう)芸術形式にほかならないのではないかという問題は極めて興味ある問題であるが、今はその問題には触れずに、単に便宜上、通俗の考え方に従って自然形式と芸術形式との二つに分けてみる。まず自然形式としての表現について考えてみよう。自然形式といえば、いわゆる「象徴的感情移入」の形で自然界に自然象徴を見る場合、たとえば柳や小雨を「いき」と感ずるごとき場合をも意味し得るが、ここでは特に「本来的感情移入」の範囲に属する身体的発表を自然形式と考えておく。
 身体的発表としての「いき」の自然形式は、聴覚としてはまず言葉づかい、すなわちものの言振(いいぶ)りに表われる。「男へ対しそのものいひは、あまえずして色気あり」とか「言(こと)の葉草(はぐさ)も野暮ならぬ」とかいう場合がそれであるが、この種の「いき」は普通は一語の発音の仕方、語尾の抑揚などに特色をもってくる。すなわち、一語を普通よりもやや長く引いて発音し、しかる後、急に抑揚を附けて言い切ることは言葉遣(ことばづかい)としての「いき」の基礎をなしている。この際、長く引いて発音した部分と、急に言い切った部分とに、言葉のリズムの上の二元的対立が存在し、かつ、この二元的対立が「いき」のうちの媚態(びたい)の二元性の客観的表現と解される。音声としては、甲走(かんばし)った最高音よりも、ややさびの加わった次高音の方が「いき」である。そうして、言葉のリズムの二元的対立が次高音によって構成された場合に、「いき」の質料因と形相因とが完全に客観化されるのである。しかし、身体的発表としての「いき」の表現の自然形式は視覚において最も明瞭なかつ多様な形で見られる{2}。
 視覚に関する自然形式としての表現とは、姿勢、身振(みぶり)その他を含めた広義の表情と、その表情の支持者たる基体とを指していうのである。まず、全身に関しては、姿勢を軽く崩すことが「いき」の表現である。鳥居清長(とりいきよなが)の絵には、男姿、女姿、立姿、居姿、後姿、前向、横向などあらゆる意味において、またあらゆるニュアンスにおいて、この表情が驚くべき感受性をもって捉(とら)えてある。「いき」の質料因たる二元性としての媚態は、姿体の一元的平衡(へいこう)を破ることによって、異性へ向う能動性および異性を迎うる受動性を表現する。しかし「いき」の形相因たる非現実的理想性は、一元的平衡の破却に抑制と節度とを加えて、放縦なる二元性の措定(そてい)を妨止(ぼうし)する。「白楊の枝の上で体をゆすぶる」セイレネスの妖態(ようたい)や「サチロス仲間に気に入る」バックス祭尼の狂態、すなわち腰部を左右に振って現実の露骨のうちに演ずる西洋流の媚態は、「いき」とは極めて縁遠い。「いき」は異性への方向をほのかに暗示するものである。姿勢の相称性が打破せらるる場合に、中央の垂直線が、曲線への推移において、非現実的理想主義を自覚することが、「いき」の表現としては重要なことである。
 なお、全身に関して「いき」の表現と見られるのはうすものを身に纏うことである。「明石(あかし)からほのぼのとすく緋縮緬(ひぢりめん)」という句があるが、明石縮(あかしちぢみ)を着た女の緋の襦袢(じゅばん)が透いて見えることをいっている。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:106 KB

担当:undef