あきあはせ
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著者名:樋口一葉 

あやしうつむりのなやましうて、夢のやうなるきのふ今日、うき世(よ)はしげるわか葉(ば)のかげに、初(はつ)ほとゝぎすなきわたる頃(ころ)を、こぞの秋袷(あきあはせ)ふるめかしう取出(とりいで)ぬる、さりとは心もなしや。垣(かき)の竹(たけ)の子(こ)きぬゝぎすてゝ、まき葉(は)にかゝる朝露の新らしきを見るもいと恥かしうこそ。


        雨(あめ)の夜(よ)

 庭の芭蕉(ばせを)のいと高やかに延びて、葉は垣根(かきね)の上やがて五尺(ごしやく)もこえつべし。今歳(ことし)はいかなれば、かくいつまでも丈(たけ)のひくきなど言ひてしを、夏の末(すゑ)つかた極(きは)めて暑かりしに唯(ただ)一日(ひとひ)ふつか、三日(みつか)とも数へずして驚くばかりになりぬ。秋(あき)かぜ少しそよ/\とすれば、端(はし)のかたより果敢(はか)なげに破れて、風情(ふぜい)次第に淋(さび)しくなるほど、雨(あめ)の夜(よ)の音(おと)なひこれこそは哀れなれ。こまかき雨ははら/\と音して草村(くさむら)がくれ鳴(なく)こほろぎのふしをも乱さず、風一(ひと)しきり颯(さつ)と降(ふり)くるは、あの葉にばかり懸(かか)るかといたまし。
 雨は何時(いつ)も哀れなる中に秋はまして身にしむこと多かり。更(ふ)けゆくまゝに燈火(ともしび)のかげなどうら淋しく、寝られぬ夜(よ)なれば臥床(ふしど)に入(い)らんも詮(せん)なしとて、小切(こぎ)れ入れたる畳紙(たたうがみ)とり出だし、何(なに)とはなしに針をも取られぬ。まだ幼(いとけ)なくて伯母(をば)なる人に縫物ならひつる頃、衽先(おくみさき)、褄(つま)の形(なり)など六(む)づかしう言はれし。いと恥かしうて、これ習ひ得ざらんほどはと、家に近き某(それ)の社(やしろ)に日参(につさん)といふ事をなしける、思へばそれも昔しなりけり。をしへし人は苔(こけ)の下になりて、習ひとりし身は大方(おほかた)もの忘れしつ。かくたまさかに取出(とりいづ)るにも指の先こわきやうにて、はか/″\しうは得(え)も縫(ぬ)ひがたきを、かの人あらばいかばかり言ふ甲斐(かひ)なく浅ましと思ふらん、など打返しそのむかしの恋しうて、無端(そゞろ)に袖(そで)もぬれそふ心地す。
 遠くより音して歩(あゆ)み来(く)るやうなる雨、近き板戸に打(うち)つけの騒がしさ、いづれも淋しからぬかは。老(おい)たる親の痩(や)せたる肩もむとて、骨の手に当りたるも、かかる夜(よ)はいとゞ心細さのやるかたなし。


        月(つき)の夜(よ)

 村雲(むらくも)すこし有るもよし、無きもよし。みがき立てたるやうの月のかげに尺八(しやくはち)の音(ね)の聞えたる、上手(じやうず)ならばいとをかしかるべし。三味(さみ)も同じこと、琴(こと)は西片町(にしかたまち)あたりの垣根(かきね)ごしに聞(きき)たるが、いと良き月に弾く人のかげも見まほしく、物がたりめきて床(ゆか)しかりし。親しき友に別れたる頃(ころ)の月、いとなぐさめがたうもあるかな。千里(ちさと)のほかまでと思ひやるに、添ひても行(ゆか)れぬ物なれば唯(ただ)うらやましうて、これを仮に鏡となしたらば、人のかげも映るべしやなど、果敢(はか)なき事さへ思ひ出でらる。
 さゝやかなる庭の池水(いけみづ)にゆられて見ゆるかげ物いふやうにて、手すりめきたる所に寄りて久しう見入るれば、はじめは浮きたるやうなりしも次第に底ふかく、この池の深さいくばくとも量(はか)られぬ心地になりて、月はそのそこの底のいと深くに住(すむ)らん物のやうに思はれぬ。久しうありて仰ぎ見るに、空なる月と水のかげと孰(いづ)れを誠(まこと)のかたちとも思はれず。物ぐるほしけれど箱庭に作りたる石一つ水(みづ)の面(おもて)にそと取落せば、さゞ波(なみ)すこし分れて、これにぞ月のかげ漂ひぬ。かくはかなき事して見せつれば、甥(をひ)なる子の小さきが真似(まね)て、姉(あね)さまのする事我(わ)れも為(す)とて、硯(すずり)の石いつのほどに持(も)て出でつらん、我れもお月さま砕くのなりとて、はたと捨てつ。それは亡き兄の物なりしを身に伝へていと大事と思ひたりしに、果敢(はか)なき事にて失なひつる罪得(え)がましき事とおもふ。この池かへさせてなど言へども、まださながらにてなん。明(あけ)ぬれば月は空に帰りて余波(なごり)もとゞめぬを、硯はいかさまになりぬらん、夜(よ)な/\影や待(まち)とるらんと哀(あはれ)なり。
 嬉(うれ)しきは月の夜(よ)の客人(まれびと)、つねは疎々(うとうと)しくなどある人の心安げに訪(と)ひ寄(より)たる。男にても嬉しきを、まして女の友にさる人あらば、いかばかり嬉しからん。みづから出(いづ)るに難(かた)からば文(ふみ)にてもおこせかし。歌よみがましきは憎くき物なれど、かかる夜(よ)の一(ひ)ト言(こと)には身にしみて思ふ友ともなりぬべし。大路(おほぢ)ゆく辻占(つじうら)うりのこゑ、汽車の笛の遠くひゞきたるも、何(なに)とはなしに魂あくがるゝ心地す。


        雁(かり)がね

 朝月夜(あさづくよ)のかげ空に残りて、見し夢の余波(なごり)もまだ現(うつつ)なきやうなるに、雨戸あけさして打(うち)ながむれば、さと吹く風竹(たけ)の葉(は)の露を払ひて、そゞろ寒けく身にしみ渡る折(をり)しも、落(おち)くるやうに雁がねの聞えたる、孤(ひと)つなるは猶(なほ)さら、連ねし姿もあはれなり。思ふ人を遠き県(あがた)などにやりて、明(あけ)くれ便りの待(まち)わたらるゝ頃、これを聞(きき)たらばいかなる思ひやすらんと哀れなり。朝霧ゆふ霧のまぎれに、声のみ洩(も)らして過ぎゆくもをかしく、更けたる枕(まくら)に鐘の音(ね)きこえて、月すむ田面(たのも)に落(おつ)らんかげ思ひやるも哀れ深しや。旅寐(たびね)の床(とこ)、侘人(わびびと)の住家(すみか)、いづれに聞(きき)ても物おもひ添ふる種(たね)なるべし。
 一(ひと)とせ下谷(したや)のほとりに仮初(かりそめ)の家居(いへゐ)して、商人(あきびと)といふ名も恥かしき、唯(ただ)いさゝかの物とり並(なら)べて朝夕(あさゆふ)のたつきとせし頃、軒端(のきば)の庇(ひさし)あれたれども、月さすたよりとなるにはあらで、向ひの家の二階のはづれを僅(わづ)かにもれ出(いづ)る影したはしく、大路に立(たち)て心ぼそく打(うち)あふぐに、秋風たかく吹きて空にはいさゝかの雲もなし。あはれかかる夜(よ)よ、歌よむ友のたれかれ集(つど)ひて、静かに浮世(うきよ)の外(ほか)の物がたりなど言ひ交はしつるはと、俄(には)かにそのわたり恋しう涙ぐまるゝに、友に別れし雁唯一(ただひと)つ、空に声して何処(いづこ)にかゆく。さびしとは世のつね、命つれなくさへ思はれぬ。擣衣(きぬた)の音(おと)に交(まじ)りて聞えたるいかならん。三(み)つ口(くち)など囃(はや)して小さき子の大路を走れるは、さも淋しき物のをかしう聞ゆるやと浦山(うらやま)しくなん。


        虫(むし)の声(こゑ)

 垣根(かきね)の朝顔やう/\小さく咲きて、昨日今日葉(は)がくれに一花(ひとはな)みゆるも、そのはじめの事おもはれて哀れなるに、松虫すゞ虫いつしか鳴(なき)よわりて、朝日まちとりて竈馬(こほろぎ)の果敢(はか)なげに声する、小溝(こみぞ)の端(はし)、壁の中など有るか無きかの命のほど、老(おい)たる人、病める身などにて聞(きき)たらば、さこそ比らべられて物がなしからん。まだ初霜は置くまじきを、今年は虫の齢(よは)ひいと短かくて、はやくに声のかれ/″\になりしかな。くつわ虫はかしましき声もかたちもいと丈夫(ぢやうぶ)めかしきを、何(いつ)しか時(とき)の間(ま)におとろへ行くらん。人にもさる類(たぐ)ひはありけりとをかし。鈴虫はふり出(いで)てなく声のうつくしければ、物ねたみされて齢(よは)ひの短かきなめりと点頭(うなづ)かる。松虫も同じことなれど、名(な)と実(じつ)と伴はねばあやしまるゝぞかし。常盤(ときは)の松を名に呼べれば、千歳(ちとせ)ならずとも枯野の末まではあるべきを、萩(はぎ)の花ちりこぼるゝやがて声せずなり行く。さる盛りの短かきものなれば、暫時(しばし)も似(あへ)よとこの名は負(おは)せけん、名づけ親ぞ知らまほしき。
 この虫一(ひと)とせ籠(こ)に飼ひて、露にも霜にも当てじといたはりしが、その頃(ころ)病ひに臥(ふ)したりし兄の、夜(よ)な/\鳴くこゑ耳につきて物侘(ものわび)しく厭(いと)はしく、あの声なくは、この夜(よ)やすく睡(ねむ)らるべしなど言へるも道理(ことわり)にて、いそぎ取(とり)おろして庭草の茂みに放ちぬ。その夜(よ)なくやと試みたれど、さらに声の聞えねば、俄(には)かに露の身に寒(さぶ)く、鳴くべき勢ひのなくなりしかと憐(あは)れみ合ひし、そのとし暮れて兄は空(むな)しき数に入(い)りつ。又の年の秋、今日ぞこの頃(ごろ)など思(おも)ひ出(いづ)る折しも、ある夜(よ)ふけて近き垣根のうちにさながらの声きこえ出ぬ。よもあらじとは思へど、唯(ただ)そのものゝやうに懐かしく、恋しきにも珍らしきにも涙のみこぼれて、この虫がやうに、よし異物(こともの)なりとも声かたち同じかるべき人の、唯今(ただいま)こゝに立出で来たらばいかならん。我れはその袖(そで)をつと捉(と)らへて放つ事をなすまじく、母は嬉(うれ)しさに物は言はれで涙のみふりこぼし給ふや、父はいかさまに為(な)し給ふらんなど怪しき事を思ひよる。かくて二夜(ふたよ)ばかりは鳴きつ。その後(ご)は何処(いづこ)にゆきけん、仮にも声の聞えずなりぬ。
 今も松虫の声きけばやがてその折おもひ出(いで)られて物がなしきに、籠(こ)に飼ふ事は更(さら)にも思ひ寄らず、おのづからの野辺(のべ)に鳴弱(なきよわ)りゆくなど、唯(ただ)その人の別れのやうに思はるゝぞかし。




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