源氏物語
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著者名:紫式部 

二ごころたれ先(ま)づもちてさびしくも悲しき世をば作り初(そ)めけん  (晶子)
 小侍従が書いて来たことは道理に違いないがまた露骨なひどい言葉だとも衛門督(えもんのかみ)には思われた。しかももう浅薄な女房などの口先だけの言葉で心が慰められるものとは思われないのである。こんな人を中へ置かずに一言でも直接恋しい方と問答のできることは望めないのであろうかと苦しんでいた。限りない尊敬の念を持っている六条院に穢辱(おじょく)を加えるに等しい欲望をこうして衛門督が抱(いだ)くようになった。
 三月(やよい)の終わる日には高官も若い殿上役人たちも皆六条院へ参った。気不精になっている衛門督はこのことを皆といっしょにするのもおっくうなのであったが、恋しい方のおいでになる所の花でも見れば気の慰みになるかもしれぬと思って出て行った。賭弓(かけゆみ)の競技が御所で二月にありそうでなかった上に、三月は帝(みかど)の母后の御忌月(ぎょきづき)でだめであるのを残念がっている人たちは、六条院で弓の遊びが催されることを聞き伝えて例のように集まって来た。左右の大将は院の御養女の婿であり、御子息であったから列席するのがむろんで、そのために左右の近衛府(このえふ)の中将に競技の参加者が多くなり、小弓という定めであったが、大弓の巧者な人も来ていたために、呼び出されてそれらの手合わせもあった。殿上役人でも弓の芸のできる者は皆左右に分かれて勝ちを争いながら夕べに至った。春が終わる日の霞(かすみ)の下にあわただしく吹く夕風に桜の散りかう庭がだれの心をも引き立てて、大将たちをはじめ、すでに酔っている高官たちが、
「奥のかたがたからお出しになった懸賞品が皆平凡な品でないのを、技術の専門家にだけ取らせてしまうのはよろしくない。少し純真な下手者(へたもの)も競争にはいりましょう」
 などと言って庭へ下(お)りた。この時にも衛門督(えもんのかみ)がめいったふうでじっとしているのがその原因を正確ではないにしても想像のできる大将の目について、困ったことである。不祥事が起こってくるのではないかと不安を感じだし、自分までも一つの物思いのできた気がした。この二人は非常に仲がよいのである。大将のために衛門督が妻の兄であるというばかりでなく、古くからの友情が互いにあって睦(むつ)まじい青年たちであるから、一方がなんらかの煩悶(はんもん)にとらえられているのを、今一人が見てはかわいそうで堪えられがたくなるのである。衛門督自身も院のお顔を見ては恐怖に似たものを感じて、恥ずかしくなり、誤った考えにとらわれていることはわが心ながら許すべきことでない、少しのことにも人を不快にさせ、人から批難を受けることはすまいと決心している自分ではないか、ましてこれほどおそれおおいことはないではないかと心を鞭(むち)うっている人が、また慰められたくなって、せめてあの時に見た猫でも自分は得たい、人間の心の悩みが告げられる相手ではないが、寂しい自分はせめてその猫を馴(な)つけてそばに置きたいとこんな気持ちになった衛門督は、気違いじみた熱を持って、どうかしてその猫を盗み出したいと思うのであるが、それすらも困難なことではあった。
 衛門督は妹の女御(にょご)の所へ行って話すことで悩ましい心を紛らせようと試みた。貴女(きじょ)らしい慎しみ深さを多く備えた女御は、話し合っている時にも、兄の衛門督に顔を見せるようなことはなかった。同胞(きょうだい)ですらわれわれはこうして慣らされているのであるが、思いがけないお顔を外にいる者へ宮のお見せになったことは不思議なことであると、衛門督(えもんのかみ)もさすがに第三者になって考えれば肯定できないこととは思われるのであるが、熱愛を持つ人に対してはそれを欠点とは見なされないのである。衛門督は東宮へ伺候して、むろん御兄弟でいらせられるのであるから似ておいでになるに違いないと思って、お顔を熱心にお見上げするのであったが、東宮ははなやかな愛嬌(あいきょう)などはお持ちにならぬが、高貴の方だけにある上品に艶(えん)なお顔をしておいでになった。帝のお飼いになる猫の幾疋(ひき)かの同胞(きょうだい)があちらこちらに分かれて行っている一つが東宮の御猫にもなっていて、かわいい姿で歩いているのを見ても、衛門督には恋しい方の猫が思い出されて、
「六条院の姫宮の御殿におりますのはよい猫でございます。珍しい顔でして感じがよろしいのでございます。私はちょっと拝見することができました」
 こんなことを申し上げた。東宮は猫が非常にお好きであらせられるために、くわしくお尋ねになった。
「支那(しな)の猫でございまして、こちらの産のものとは変わっておりました。皆同じように思えば同じようなものでございますが、性質の優しい人馴(な)れた猫と申すものはよろしいものでございます」
 こんなふうに宮がお心をお動かしになるようにばかり衛門督は申すのであった。
 あとで東宮は淑景舎(しげいしゃ)の方(かた)の手から所望をおさせになったために、女三(にょさん)の宮(みや)から唐猫(からねこ)が献上された。噂(うわさ)されたとおりに美しい猫であると言って、東宮の御殿の人々はかわいがっているのであったが、衛門督は東宮は確かに興味をお持ちになってお取り寄せになりそうであると観察していたことであったから、猫のことを知りたく思って幾日かののちにまた参った。まだ子供であった時から朱雀(すざく)院が特別にお愛しになってお手もとでお使いになった衛門督であって、院が山の寺へおはいりになってからは東宮へもよく伺って敬意を表していた。琴など御教授をしながら、衛門督は、
「お猫がまたたくさんまいりましたね。どれでしょう、私の知人は」
 と言いながらその猫を見つけた。非常に愛らしく思われて衛門督は手でなでていた。宮は、
「実際容貌(きりょう)のよい猫だね。けれど私には馴(な)つかないよ。人見知りをする猫なのだね。しかし、これまで私の飼っている猫だってたいしてこれには劣っていないよ」
 とこの猫のことを仰せられた。
「猫は人を好ききらいなどあまりせぬものでございますが、しかし賢い猫にはそんな知恵があるかもしれません」
 などと衛門督は申して、また、
「これ以上のがおそばに幾つもいるのでございましたら、これはしばらく私にお預からせください」
 こんなお願いをした。心の中では愚かしい行為をするものであるという気もしているのである。
 結局衛門督(えもんのかみ)は望みどおりに女三の宮の猫を得ることができて、夜などもそばへ寝させた。夜が明けると猫を愛撫(あいぶ)するのに時を費やす衛門督であった。人馴(な)つきの悪い猫も衛門督にはよく馴れて、どうかすると着物の裾(すそ)へまつわりに来たり、身体(からだ)をこの人に寄せて眠りに来たりするようになって、衛門督はこの猫を心からかわいがるようになった。物思いをしながら顔をながめ入っている横で、にょうにょうとかわいい声で鳴くのを撫(な)でながら、愛におごる小さき者よと衛門督はほほえまれた。

「恋ひわぶる人の形見と手ならせば汝(なれ)よ何とて鳴く音(ね)なるらん

 これも前生の約束なんだろうか」
 顔を見ながらこう言うと、いよいよ猫は愛らしく鳴くのを懐中(ふところ)に入れて衛門督は物思いをしていた。女房などは、
「おかしいことですね。にわかに猫を御寵愛(ちょうあい)されるではありませんか。ああしたものには無関心だった方がね」
 と不審がってささやくのであった。東宮からお取りもどしの仰せがあって、衛門督はお返しをしないのである。お預かりのものを取り込んで自身の友にしていた。
 左大将夫人の玉鬘(たまかずら)の尚侍(ないしのかみ)は真実の兄弟に対するよりも右大将に多く兄弟の愛を持っていた。才気のあるはなやかな性質の人で、源大将の訪問を受ける時にも睦(むつ)まじいふうに取り扱って、昔のとおりに親しく語ってくれるため、大将も淑景舎(しげいしゃ)の方が羞恥(しゅうち)を少なくして打ち解けようとする気持ちのないようなのに比べて、風変わりな兄弟愛の満足がこの人から得られるのであった。左大将は月日に添えて玉鬘を重んじていった。もう前夫人は断然離別してしまって尚侍が唯一の夫人であった。この夫人から生まれたのは男の子ばかりであるため、左大将はそれだけを物足らず思い、真木柱(まきばしら)の姫君を引き取って手もとへ置きたがっているのであるが、祖父の式部卿(しきぶきょう)の宮が御同意をあそばさない。
「せめてこの姫君にだけは人から譏(そし)られない結婚を自分がさせてやりたい」
 と言っておいでになる。帝(みかど)は御伯父(おじ)のこの宮に深い御愛情をお持ちになって、宮から奏上されることにお背(そむ)きになることはおできにならないふうであった。もとからはなやかな御生活をしておいでになって、六条院、太政大臣家に続いての権勢の見える所で、世間の信望も得ておいでになった。左大将も第一人者たる将来が約束されている人であったから、式部卿の宮の御孫女(むすめ)、左大将の長女である姫君を人は重く見ているのである。求婚者がいろいろな人の手を通じて来てすでに多数に及んでいるが、宮はまだだれを婿にと選定されるふうもなかった。かれにその気があればと宮が心でお思いになる衛門督は猫ほどにも心を惹(ひ)かぬのかまったくの知らず顔であった。左大将の前夫人は今も病的な、陰気な暮らしを続けて、若い貴女のために朗らかな雰囲気(ふんいき)を作ろうとする努力もしてくれないために、姫君は寂しがって、人づてに聞く継母(ままはは)の生活ぶりにあこがれを持っていた。こうした明るい娘なのである。
 兵部卿(ひょうぶきょう)の宮は今も御独身で、熱心にお望みになった相手は皆ほかへ取られておしまいになる結果になって、世間体も恥ずかしくお思いになるのであったが、この姫君に興味をお感じになり、縁談をお申し入れになると、式部卿の宮は、
「私はそう信じているのだ。大事に思う娘は宮仕えに出すことを第一として、続いては宮たちと結婚させることがいいとね。普通の官吏と結婚させるのを頼もしいことのように思って親たちが娘の幸福のためにそれを願うのは卑しい態度だ」
 とお言いになって、あまり求婚期間の悩みもおさせにならずに御同意になった。兵部卿の宮はこの無造作な決まり方を物足らぬようにもお思いになったが、軽蔑(けいべつ)しがたい相手であったから、ずるずる延ばしで話の解消をお待ちになることもおできにならないで、通って行くようにおなりになった。式部卿の宮はこの婿の宮を大事にあそばすのであった。宮は幾人もの女王(にょおう)をお持ちになって、その宮仕え、結婚の結果によって苦労をされることの多かったのに懲りておいでになるはずであるが、最愛の御孫女のためにまたこうした婿かしずきをお始めになったのである。
「母親は時がたつにしたがって病的な女になるし、父親はそちらの意志には従わない子だと言ってそまつに見ている姫君だからかわいそうでならぬ」
 などとお言いになって、新夫婦の居間の装飾まで御自身で手を下してなされたり、またお指図(さしず)をされたりもするのであった。兵部卿の宮はお亡(な)くしになった先夫人をばかり恋しがっておいでになって、その人に似た新婦を得たいと願っておいでになったために、この姫君を、悪くはないが似た所がないと御覧になったせいか、通っておいでになるのにおっくうなふうをお見せになった。式部卿の宮は失望あそばした。病人である母君も気分の常態になっている時にはこの娘の思うようでない結婚を歎(なげ)いて、いよいよ人生をいやなものにきめてしまった。父親の左大将もこの話を聞いて、自分のあやぶんだとおりの結果になったではないか、多情者の宮様であるからと思って、初めから自分が賛成しなかった婿であったから困ったことであると歎いていた。玉鬘(たまかずら)夫人は宮のお情けの薄さを継娘(ままむすめ)の不幸として聞いていながら、自分がもし結婚をしてそうした目にあっていたなら、六条院の人々へも、実父の家族へも不名誉なことになるのであったと思った。そして左大将の妻になった運命を悲しむ気もなくなり、継娘に限りなく同情した。その自分の処女時代にも兵部卿の宮を良人(おっと)にしようとは少しも思わなかった。ただあれだけの情熱を運んでくだすった方が、左大将と平凡な夫婦になってしまったことを軽蔑(けいべつ)しておいでにならないかとそれ以来恥ずかしく思っていたのであると玉鬘夫人は思い、その宮が継娘の婿におなりになって、自分のことをどう聞いておいでになるであろうと思うと晴れがましいような気もするのであった。この夫人からも新婚した姫君の衣裳(いしょう)その他の世話をした。前夫人がどう恨んでいるかというようなことは知らぬふうにして、長男、次男を中にして好意を寄せる尚侍(ないしのかみ)に前夫人は友情をすら覚えているのであるが、式部卿の宮家には大夫人という性質の曲がった人が一人いて、この人は常にだれのことも憎んで、罵言(ばげん)をやめないのである。
「親王がたというものは一人だけの奥さんを大事になさるということで、派手(はで)な生活のできない補いにもなろうというものだのに」
 と陰口(かげぐち)をするのが兵部卿の宮のお耳にはいった時、不愉快なことを聞く、自分に最愛の妻があった時代にも他との恋愛の遊戯はやめなかった自分も、こうまではひどい恨み言葉は聞かないでいたとお思いになって、いっそう亡(な)き夫人を恋しく思召(おぼしめ)すことばかりがつのって、自邸で寂しく物思いをしておいでになる日が多かった。そうはいうものの二年もその状態で続いて来た今では、ただそれだけの淡い関係の夫婦として済んで行った。
 歳月(としつき)が重なり、帝(みかど)が即位をあそばされてから十八年になった。
「将来の天子になる子のないことで自分には人生が寂しい。せめて気楽な身の上になって自分の愛する人たちと始終出逢うこともできるようにして、私人として楽しい生活がしてみたい」
 以前からよくこう帝は仰せられたのであったが、重く御病気をあそばされた時ににわかに譲位を行なわせられた。世人は盛りの御代(みよ)をお捨てあそばされることを残念がって歎(なげ)いたが、東宮ももう大人(おとな)になっておいでになったから、お変わりになっても特別変わったこともなかった。ゆるぎない大御代(おおみよ)と見えた。太政大臣は関白職の辞表を出して自邸を出なかった。
「人生の頼みがたさから賢明な帝王さえ御位(みくらい)をお去りになるのであるから、老境に達した自分が挂冠(けいかん)するのに惜しい気持ちなどは少しもない」
 と言っていたに違いない。左大将が右大臣になって関白の仕事もした。御母君の女御(にょご)は新帝の御代を待たずに亡(な)くなっていたから、后(きさき)の位にお上(のぼ)されになっても、それはもう物の背面のことになって寂しく見えた。六条の女御のお生みした今上第一の皇子が東宮におなりになった。そうなるはずのことはだれも知っていたが、目前にそれが現われてみればまた一家の幸福さに驚きもされるのであった。右大将が大納言を兼ねて順序のままに左大将に移り、この人も幸福に見えた。六条院は御譲位になった冷泉(れいぜい)院に御後嗣(こうし)のないのを御心の中では遺憾に思召(おぼしめ)された。実は新東宮だって六条院の御血統なのだが、冷泉院の御在位中には御煩悶(はんもん)もなくて過ごされたほど、例の密通の秘密は隠しおおされたが、そのかわりにこの御系統が末まで続かぬように運命づけられておしまいになったのを六条院は寂しくお思いになったが、御口外あそばすことでもないのでただお心で味けなくお感じになるだけであった。東宮の御母女御は皇子たちが多くお生まれになって帝(みかど)の御寵(ちょう)はますます深くなるばかりであった。またも王氏の人が后にお立ちになることになっていることで、今度で三代にもなっていたから何かと飽き足らぬらしい世論があるのをお知りになった時、冷泉院の中宮(ちゅうぐう)は以前もこうした場合に六条院の強い御支持があって、自分の后の位は定(きま)ったのであると過去を回想あそばしてますます院の恩をお感じになった。
 冷泉院の帝は御期待あそばされたとおりに、御窮屈なお思いもなしに御幸(みゆき)などもおできになることになって、あちらこちらと御遊幸あそばされて、今日の御境遇ほどお楽しいものはないようにお見受けされるのであった。帝は六条院においでになる御妹の姫宮に深い関心をお持ちになったし、世間がその方に払う尊敬も大きいのであるが、なお紫夫人以上の夫人として六条院の御寵を受けておいでになるのではなかった。年月のたつにしたがって女王と宮の御中にこまやかな友情が生じて、六条院の中は理想的な穏やかな空気に満たされているが、紫夫人は、
「もう私はこうした出入りの多い住居(すまい)から退きまして、静かな信仰生活がしたいと思います。人生とはこんなものということも経験してしまったような年齢(とし)にもなっているのですもの、もう尼になることを許してくださいませんか」
 と、時々まじめに院へお話しするのであるが、
「もってのほかですよ。そんな恨めしいことをあなたは思うのですか。それは私自身が実行したいことなのだが、あなたがあとに残って寂しく思ったり、私といっしょにいる時と違った世間の態度を悲しく感じたりすることになってはという気がかりがあるために現状のままでいるだけなのですよ。それでもいつか私の実行の日が来るでしょう、あなたはそのあとのことになさい」
 などとばかり院はお言いになって、夫人の志を妨げておいでになった。女御は今も女王を真実の母として敬愛していて、明石夫人は隠れた女御の後見をするだけの人になって謙遜(けんそん)さを失わないでいることは、かえって将来のために頼もしく思われた。尼君もうれし泣きの涙を流す日が多くて、目もふきただれて幸福な老婆の見本になっていた。
 住吉(すみよし)の神への願果たしを思い立って参詣(さんけい)する女御は、以前に入道から送って来てあった箱をあけて、神へ約した条件を調べてみたが、それにはかなり大がかりなことを多く書き立ててあった。年々の春秋の神楽(かぐら)とともに必ず長久隆運の祈りをすることなどは、今日の女御の境遇になっていなければ実行のできぬことであった。ただ走り書きにした文章にも入道の学問と素養が見え、仏も神も聞き入れるであろうことが明らかに知られた。どうしてそんな世捨て人の心にこんな望みの楼閣が建てられたのであろうと、子孫への愛の深さが思われもし、神や仏に済まぬ気もされた。並みの人ではなくてしばらく自分の祖父になってこの世へ姿を現わしただけの、功徳を積んだ昔の聖僧ではなかったかなどと思われ、女御に明石(あかし)の入道を畏敬(いけい)する心が起こった。今度はまだ女御の行なうことにはせずに、六条院の参詣におつれになる形式で京を立ったのであった。
 須磨(すま)明石時代に神へお約しになったことは次々に果たされたのであるが、その以後もまた長く幸運が続き、一門子孫の繁栄を御覧になることによっても神の冥助(めいじょ)は忘られずに六条院は紫の女王(にょおう)も伴って御参詣あそばされるのであって、はなやかな一行である。簡素を旨として国の煩いになることはお避けになったのであるが、この御身分であってはある所までは必ず備えられねばならぬ旅の形式があって、自然に大きなことにもなった。公卿(こうけい)も二人の大臣以外は全部供奉(ぐぶ)した。神前の舞い人は各衛府(えふ)の次将たちの中の容貌(ようぼう)のよいのを、さらに背丈(せたけ)をそろえてとられたのであった。落選して歎(なげ)く風流公子もあった。奏楽者も石清水(いわしみず)や賀茂(かも)の臨時祭に使われる専門家がより整えられたのであるが、ほかから二人加えられたのは近衛府(このえふ)の中で音楽の上手(じょうず)として有名になっている人であった。また神楽のほうを受け持つ人も多数に行った。宮中、院、東宮の殿上役人が皆御命令によって供奉(ぐぶ)の中にいるのも無数にあった。華奢(かしゃ)を尽くした高官たちの馬、鞍(くら)、馬添い侍、随身、小侍の服装までもきらびやかな行列であった。院の御車(みくるま)には紫夫人と女御をいっしょに乗せておいでになって、次の車には明石夫人とその母の尼とが目だたぬふうに乗っていた。それには古い知り合いの女御の乳母(めのと)が陪乗したのである。女房たちの車は夫人付きの者のが五台、女御のが五台、明石夫人に属したのが三台で、それぞれに違った派手(はで)な味のある飾りと服装が人目に立った。明石の尼君がいっしょに来たのは、
「今度の参詣に尼君を優遇して同伴しよう。老人の心に満足ができるほどにして」
 と院がお言い出しになったのであって、はじめ明石夫人は、
「今度は院と女王様が主になっての御参詣なんですから、あなたなどが混じっておいでになっては私の立場も苦しくなりますからね、女御さんがもう一段御出世をなすったあとで、その時に私たちだけでお参りをいたしましょう」
 と言って、尼君をとどめていたのであるが、老人はそれまで長命で生きておられる自信もなく心細がってそっと一行に加わって来たのである。運命の寵児(ちょうじ)であることがしかるべきことと思われる女王や女御よりも、明石の母と娘の前生の善果がこの日ほどあざやかに見えたこともなかった。
 十月の二十日(はつか)のことであったから、中の忌垣(いがき)に這(は)う葛(くず)の葉も色づく時で、松原の下の雑木の紅葉(もみじ)が美しくて波の音だけ秋であるともいわれない浜のながめであった。本格的な支那(しな)楽高麗(こうらい)楽よりも東(あずま)遊びの音楽のほうがこんな時にはぴったりと、人の心にも波の音にも合っているようであった。高い梢(こずえ)で鳴る松風の下で吹く笛の音もほかの場所で聞く音とは変わって身にしみ、松風が琴に合わせる拍子は鼓を打ってするよりも柔らかでそして寂しくおもしろかった。伶人(れいじん)の着けた小忌衣(おみごろも)竹の模様と松の緑が混じり、挿頭(かざし)の造花は秋の草花といっしょになったように見えるが、「求(もと)の子(めこ)」の曲が終わりに近づいた時に、若い高官たちが正装の袍(ほう)の肩を脱いで舞の場へ加わった。黒の上着の下から臙脂(えんじ)、紅紫の下襲(したがさね)の袖(そで)をにわかに出し、それからまた下の袙(あこめ)の赤い袂(たもと)の見えるそれらの人の姿を通り雨が少しぬらした時には、松原であることも忘れて紅葉のいろいろが散りかかるように思われた。その派手(はで)な姿に白くほおけた荻(おぎ)の穂を挿(さ)してほんの舞の一節(ひとふし)だけを見せてはいったのがきわめておもしろかった。
 院は昔を追憶しておいでになった。中途で不幸な日のあったことも目の前のことのように思われて、それについては語る人もお持ちにならぬ院は、関白を退いた太政大臣を恋しく思召(おぼしめ)された。車へお帰りになった院は第二の車へ、

たれかまた心を知りて住吉(すみよし)の神代を経たる松にこと問ふ

 という歌を懐中紙(ふところがみ)に書いたのを持たせておやりになった。尼君は心を打たれたように萎(しお)れてしまった。今日のはなやかな光景を見るにつけても、明石を源氏のお立ちになったころの歎(なげ)かわしかったこと、女御が幼児であったころにした悲しい思いが追想されて、運命に恵まれていることを知った。そしてまた山へはいった良人(おっと)も恋しく思われて涙のこぼれる気持ちをおさえて、

住(すみ)の江を生けるかひある渚(なぎさ)とは年ふるあまも今日や知るらん

 と書いた。お返事がおそくなっては見苦しいと思い、感じたままの歌をもってしたのである。

昔こそ先(ま)づ忘られね住吉の神のしるしを見るにつけても

 とまた独言(ひとりごと)もしていた。一行は終夜を歌舞に明かしたのである。二十日(はつか)の月の明りではるかに白く海が見え渡り、霜が厚く置いて松原の昨日とは変わった色にも寒さが感じられて、快く身にしむ社前の朝ぼらけであった。自邸での遊びには馴(な)れていても、あまり外の見物に出ることを好まなかった紫の女王は京の外の旅もはじめての経験であったし、すべてのことが興味深く思われた。

住の江の松に夜深く置く霜は神の懸(か)けたる木綿(ゆふ)かづらかも

 紫夫人の作である。小野篁(おののたかむら)の「比良(ひら)の山さへ」と歌った雪の朝を思って見ると、奉った祭りを神が嘉納(かのう)された証(あかし)の霜とも思われて頼もしいのであった。
 女御(にょご)、

神人(かんびと)の手に取り持たる榊葉(さかきば)に木綿(ゆふ)かけ添ふる深き夜の霜

 中務(なかつかさ)の君、

祝子(はふりこ)が木綿(ゆふ)うち紛ひ置く霜は実(げ)にいちじるき神のしるしか

 そのほかの人々からも多くの歌は詠(よ)まれたが、書いておく必要がないと思って筆者は省いた。こんな場合の歌は文学者らしくしている男の人たちの作も、平生よりできの悪いのが普通で、松の千歳(ちとせ)から解放されて心の琴線に触れるようなものはないからである。
 朝の光がさし上るころにいよいよ霜は深くなって、夜通し飲んだ酒のために神楽(かぐら)の面のようになった自身の顔も知らずに、もう篝火(かがりび)も消えかかっている社前で、まだ万歳万歳と榊(さかき)を振って祝い合っている。この祝福は必ず院の御一族の上に形となって現われるであろうとますますはなばなしく未来が想像されるのであった。非常におもしろくて千夜の時のあれと望まれた一夜がむぞうさに明けていったのを見て、若い人たちは渚(なぎさ)の帰る波のようにここを去らねばならぬことを残念がった。はるばると長い列になって置かれた車の、垂(た)れ絹の風に開く中から見える女衣装は花の錦(にしき)を松原に張ったようであったが、男の人たちの位階によって変わった色の正装をして、美しい膳部を院の御車(みくるま)へ運び続けるのが布衣(ほい)たちには非常にうらやましく見られた。明石の尼君の分も浅香の折敷(おしき)に鈍(にび)色の紙を敷いて精進物で、院の御家族並みに運ばれるのを見ては、
「すばらしい運を持った女というものだね」
 などと彼らは仲間で言い合った。おいでになった時は神前へささげられる、持ち運びの面倒な物を守る人数も多くて、途中の見物も十分におできにならなかったのであったが、帰途は自由なおもしろい旅をされた。この楽しい旅行に山へはいりきりになった入道を与(あずか)らせることのできなかったことを院は物足らず思召されたが、それまでは無理なことであろう。実際老入道がこの一行に加わっているとしたら見苦しいことでなかったであろうか。その人の思い上がった空想がことごとく実現されたのであるから、だれも心は高く持つべきであると教訓をされたようである。いろいろな話題になって明石の人たちがうらやまれ、幸福な人のことを明石の尼君という言葉もはやった。太政大臣家の近江(おうみ)の君は双六(すごろく)の勝負の賽(さい)を振る前には、
「明石(あかし)の尼様、明石の尼様」
 と呪文(じゅもん)を唱えた。
 法皇は仏勤めに精進あそばされて、政治のことなどには何の干渉もあそばさない。春秋の行幸(みゆき)をお迎えになる時にだけ昔の御生活がお心の上に姿を現わすこともあるのであった。女三(にょさん)の宮(みや)をなお気がかりに思召(おぼしめ)されて、六条院は形式上の保護者と見て、内部からの保護を帝(みかど)にお託しになった。それで女三の宮は二品(にほん)の位にお上げられになって、得させられる封戸(ふこ)の数も多くなり、いよいよはなやかなお身の上になったわけである。紫夫人は一方の夫人の宮がこんなふうに年月に添えて勢力の増大していくのに対して、自分はただ院の御愛情だけを力にして今の所は負(ひ)け目がないとしても、そのお志というものも遂には衰えるであろう、そうした寂しい時にあわない前に今のうちに善処したいとは常に思っていることであったが、あまりに賢がるふうに思われてはという遠慮をして口へたびたびは出さないのである。院は法皇だけでなく帝までが関心をお持ちになるということがおそれおおく思召されて、冷淡にする噂(うわさ)を立てさすまいというお心から、今ではあちらへおいでになることと、こちらにおられることとがちょうど半々ほどになっていた。道理なこととは思いながらもかねて思ったとおりの寂しい日の来始めたことに女王(にょおう)は悲しまれたが、表面は冷静に以前のとおりにしていた。東宮に次いでお生まれになった女一の宮を紫夫人は手もとへお置きしてお育て申し上げていた。そのお世話の楽しさに院のお留守(るす)の夜の寂しさも慰められているのであった。御孫の宮はどの方をも皆非常にかわいく夫人は思っているのである。花散里(はなちるさと)夫人は紫夫人も明石夫人も御孫宮がたのお世話に没頭しているのがうらやましくて、左大将の典侍(ないしのすけ)に生ませた若君を懇望して手もとへ迎えたのを愛して育てていた。美しい子でりこうなこの孫君を院もおかわいがりになった。院は御子の数が少ないように見られた方であるが、こうして広く繁栄する御孫たちによって満足をしておいでになるようである。右大臣が院を尊敬して親しくお仕えすることは昔以上で、玉鬘(たまかずら)ももう中年の夫人になり、何かの時には六条院へ訪(たず)ねて来て紫夫人にも逢(あ)って話し合うほかにも親しみ深い往来(ゆきき)が始終あった。姫宮だけは今日もなお少女(おとめ)のようなたよりなさで、また若々しさでおいでになった。もう宮廷の人になりきってしまった女御に気づかいがなくおなりになった院は、この姫宮を幼い娘のように思召して、この方の教育に力を傾けておいでになるのであった。
 朱雀(すざく)院の法皇はもう御命数も少なくなったように心細くばかり思召されるのであるが、この世のことなどはもう顧みないことにしたいとお考えになりながらも、女三の宮にだけはもう一度お逢いあそばされたかった。このまま亡(な)くなって心の残るのはよろしくないことであるから、たいそうにはせず宮が訪(たず)ねておいでになることをお言いやりになった。院も、
「ごもっともなことですよ。こんな仰せがなくともこちらから進んでお伺いをなさらなければならないのに、ましてこうまでお待ちになっておられるのだから、実行しないではお気の毒ですよ」
 とお言いになり、機会をどんなふうにして作ろうかと考えておいでになった。何でもなくそっと伺候をするようなことはみすぼらしくてよろしくない。法皇をお喜ばせかたがた外見の整ったことがさせたいとお思いになるのである。来年法皇は五十におなりになるのであったから、若菜の賀を姫宮から奉らせようかと院はお思いつきになって、それに付帯した法会(ほうえ)の布施(ふせ)にお出しになる法服の仕度(したく)をおさせになり、すべて精進でされる御宴会の用意であるから普通のことと変わって、苦心の払われることを今からお指図(さしず)になっていた。昔から音楽がことにお好きな方であったから、舞の人、楽の人にすぐれたのを選定しようとしておいでになった。右大臣家の下の二人の子、大将の子を典侍腹のも加えて三人、そのほかの御孫も七歳以上の皆殿上勤めをさせておいでになった。それらと、兵部卿(ひょうぶきょう)の宮のまだ元服前の王子、そのほかの親王がたの子息、御親戚(しんせき)の子供たちを多く院はお選びになった。殿上人たちの舞い手も容貌(ようぼう)がよくて芸のすぐれたのを選(よ)りととのえて多くの曲の用意ができた。非常な晴れな場合と思ってその人たちは稽古(けいこ)を励むために師匠になる専門家たちは、舞のほうのも楽のほうのも繁忙をきわめていた。女三の宮は琴の稽古を御父の院のお手もとでしておいでになったのであるが、まだ少女時代に六条院へお移りになったために、どんなふうにその芸はなったかと法皇は不安に思召して、
「こちらへ来られた時に宮の琴の音が聞きたい。あの芸だけは仕上げたことと思うが」
 と言っておいでになることが宮中へも聞こえて、
「そう言われるのは決して平凡なお手並みでない芸に違いない。一所懸命に法皇の所へ来てお弾(ひ)きになるのを自分も聞きたいものだ」
 などと仰せられたということがまた六条院へ伝わって来た。院は、
「今までも何かの場合に自分からも教えているが、質はすぐれているがまだたいした芸になっていないのを、何心なくお伺いされた時に、ぜひ弾けと仰せになった場合に、恥ずかしい結果を生むことになってはならない」
 とお言いになって、それから女三の宮に熱心な琴の教授をお始めになった。変わったものを二、三曲、また大曲の長いのが四季の気候によって変わる音、寒い時と空気の暖かい時によっての弾き方を変えねばならぬことなどの特別な奥義をお教えになるのであったが、初めはたよりないふうであったものの、お心によくはいってきて上手(じょうず)におなりになった。昼は人の出入りの物音の多さに妨げられて、絃(いと)を揺(ゆ)すったり、おさえて変わる音の繊細な味を研究おさせになるのに不便なために、夜になってから静かに教うべきであるとお言いになって、女王(にょおう)の了解をお求めになって院はずっと宮の御殿のほうへお泊まりきりになり、朝夕のお稽古(けいこ)の世話をあそばされた。女御(にょご)にも女王にも琴はお教えにならなかったのであったから、このお稽古の時に珍しい秘曲もお弾きになるのであろうことを予期して、女御も得ることの困難なお暇(いとま)をようやくしばらく得て帰邸したのであった。もう皇子を二人お持ちしているのであるが、また妊娠して五月ほどになっていたから、神事の多い季節は御遠慮したいと言ってお暇を願って来たのである。
 十一月が過ぎるともどるようにと宮中からの御催促が急であるのもさしおいて、このごろの楽の音(ね)のおもしろさに女御は六条院を去りがたいのであった。なぜ自分には教えていただけなかったのかと院を恨めしくお思いもしていた。普通と変わって冬の月を最もお好みになる院は、雪のある月夜にふさわしい琴の曲をお弾きになって、女房の中の楽才のあるのに他に楽器で合奏をさせたりして楽しんでおいでになった。
 年末などはことに対の女王が忙しくていっさいの心配(こころくば)りのほかに、女御、宮たちのための春の仕度(したく)に追われて、
「春ののどかな気分になった夕方などにこの琴の音をよくお聞きしたい」
 などと言っていたが年も変わった。
 年の初めにまず帝(みかど)からのはなやかな御賀を法皇はお受けになることになっていて、差し合ってはよろしくないと院は思召し、少したった二月の十幾日のころと姫宮の奉られる賀の日をお定(き)めになり、楽の人、舞い手は始終六条院へ来てその下稽古を熱心にする日が多かった。
「対の女王がいつもお聞きしたがっているあなたの琴と、その人たちの十三絃(げん)や琵琶(びわ)を一度合奏する女ばかりの催しをしたい。現代の大家といっても私の家族たちの音楽に対する態度より純真なものを持っていませんよ。私はたいした音楽者ではないが、すべての芸に通じておきたいと思って、少年の時から世間の専門家を師にしてつきもしたし、また貴族の中の音楽の大家たちにも教えを乞(こ)うたものですが、特に尊敬すべき芸を持った人と思われるのはなかった。その時代よりもまた現在では音楽をやる人の素質が悪くなって、芸が浅薄になっていると思う。琴などはまして稽古をする者がなくなったということですからあなただけ弾ける人はあまりないでしょう」
 と院がお言いになると、宮は無邪気に微笑(ほほえ)んで、自分の芸がこんなにも認められるようになったかと喜んでおいでになった。もう二十一、二でおありになるのであるが、幼稚な所が抜けないで、そして見たお姿だけは美しかった。
「長くお目にかからないでおいでになるのだから、大人になってりっぱになったと認めていただけるようにしてお目にかからなければいけませんよ」
 と事に触れて院は教えておいでになるのであった。実際こうした良人(おっと)がおいでにならなければ外間のいろいろな噂(うわさ)にさえされる方であったかもしれぬと女房たちは思っていた。
 一月の二十日過ぎにはもうよほど春めいてぬるい微風(そよかぜ)が吹き、六条院の庭の梅も盛りになっていった。そのほかの花も木も明日の約されたような力が見えて、杜(もり)は霞(かす)み渡っていた。
「二月になってからでは賀宴の仕度(したく)で混雑するであろうし、こちらだけですることもその時の下調べのように思われるのも不快だから、今のうちがよい、あちらで会をなさい」
 と院はお言いになって女王を寝殿のほうへお誘いになった。供をしたいという希望者は多かったが、寝殿の人と知り合いになっている以外の人は残された。少し年はいっている人たちであるがりっぱな女房たちだけが夫人に添って行った。童女は顔のいい子が四人ついて行った。朱色の上に桜の色の汗袗(かざみ)を着せ、下には薄色の厚織の袙(あこめ)、浮き模様のある表袴(おもてばかま)、肌(はだ)には槌(つち)の打ち目のきれいなのをつけさせ、身の姿態(とりなし)も優美なのが選ばれたわけであった。女御の座敷のほうも春の新しい装飾がしわたされてあって、華奢(かしゃ)を尽くした女房たちの姿はめざましいものであった。童女は臙脂(えんじ)の色の汗袗(かざみ)に、支那綾(しなあや)の表袴で、袙(あこめ)は山吹(やまぶき)色の支那錦(にしき)のそろいの姿であった。明石夫人の童女は目だたせないような服装をさせて、紅梅色を着た者が二人、桜の色が二人で、下は皆青色を濃淡にした袙で、これも打ち目のでき上がりのよいものを下につけさせてあった。姫宮のほうでも女御や夫人たちの集まる日であったから、童女の服装はことによくさせてお置きになった。青丹(あおに)の色の服に、柳の色の汗袗(かざみ)で、赤紫の袙(あこめ)などは普通の好みであったが、なんとなく気高(けだか)く感ぜられることは疑いもなかった。縁側に近い座敷の襖子(からかみ)をはずして、貴女たちの席は几帳(きちょう)を隔てにしてあった。中央の室には院の御座(おんざ)が作られてある。今日の拍子合わせの笛の役には子供を呼ぼうとお言いになって、右大臣家の三男で玉鬘(たまかずら)夫人の生んだ上のほうの子が笙(しょう)の役をして、左大将の長男に横笛の役を命じ縁側へ置かれてあった。演奏者の茵(しとね)が皆敷かれて、その席へ院の御秘蔵の楽器が紺錦(こんにしき)の袋などから出されて配られた。明石夫人は琵琶(びわ)、紫の女王には和琴(わごん)、女御は箏(そう)の十三絃(げん)である。宮はまだ名楽器などはお扱いにくいであろうと、平生弾いておいでになるので調子を院がお弾き試みになったのをお配らせになった。院は、
「箏(そう)の琴(こと)は絃がゆるむわけではないが、他の楽器と合わせる時に琴柱(ことじ)の場所が動きやすいものなのだから、初めからその心得でいなければならないが、女の力では十分締めることがむずかしいであろうから、やはりこれは大将に頼まなければなるまい。それに拍子を受け持っている少年たちもあまり小さくて信用のできない点もあるから」
 とお笑いになりながら、
「大将にこちらへ」
 とお呼び出しになるのを聞いて、夫人たちは恥ずかしく思っていた。明石夫人以外は皆院の御弟子なのであるから、院も大将が聞いて難のないようにとできばえを祈っておいでになった。女御は平生から陛下の前で他の人と合奏も仕馴(な)れているからだいじょうぶ落ち着いた演奏はできるであろうが、和琴というものはむずかしい物でなく、きまったことがないだけ創作的の才が必要なのを、女の弾き手はもてあましはせぬか、春の絃楽は皆しっくり他に合ってゆかねばならぬものであるが、和琴がうまくいっしょになってゆかぬようなことはないかとも損な弾き手に同情もしておいでになった。
 左大将は晴れがましくて、音楽会のいかなる場合に立ち合うよりも気のつかわれるふうで、きれいな直衣(のうし)を薫香(たきもの)の香のよく染(し)んだ衣服に重ねて、なおも袖(そで)をたきしめることを忘れずに整った身姿(みなり)のこの人が現われて来たころはもう日が暮れていた。感じのよい早春の黄昏(たそがれ)の空の下に梅の花は旧年に見た雪ほどたわわに咲いていた。ゆるやかな風の通り通うごとに御簾(みす)の中の薫香(たきもの)の香も梅花の匂(にお)いを助けるように吹き迷って鶯(うぐいす)を誘うかと見えた。御簾の下のほうから箏(そう)の琴(こと)のさきのほうを少しお出しになって、院が、
「失礼だがこの絃(いと)の締まりぐあいをよく見て調音をしてほしい。他人に来てもらうことのできない場合だから」
 とお言いになると、大将はうやうやしく琴を受け取って、一越(いっこつ)調の音(ね)に発(はつ)の絃(いと)の標準の柱(じ)を置き全体を弾き試みることはせずにそのまま返そうとするのを院は御覧になって、
「調子をつけるだけの一弾きは気どらずにすべきだよ」
 と院がお言いになった。
「今日の会に私がいささかでも音を混ぜますようなだいそれた自信は持っておりません」
 大将は遠慮してこう言う。
「もっともだけれども、女だけの音楽に引きさがった、逃げたと言われるのは不名誉だろう」
 院はお笑いになった。で大将は調子をかき合わせて、それだけで御簾(みす)の中へ入れた。院の御孫にあたる小さい人たちが美しい直衣(のうし)姿をして吹き合わせる笛の音はまだ幼稚ではあるが、有望な未来の思われる響きであった。かき合わせが済んでいよいよ合奏になったが、どれもおもしろく思われた中に、琵琶(びわ)はすぐれた名手であることが思われ、神さびた撥(ばち)使いで澄み切った音をたてていた。大将は和琴に特別な関心を持っていたが、それはなつかしい、柔らかな、愛嬌(あいきょう)のある爪音(つまおと)で、逆にかく時の音が珍しくはなやかで、大家のもったいらしくして弾くのに少しも劣らない派手(はで)な音は、和琴にもこうした弾き方があるかと大将の心は驚かされた。深く精進を積んだ跡がよく現われたことによって院は安心をあそばされて夫人をうれしくお思いになった。十三絃の琴は他の楽器の音の合い間合い間に繊細な響きをもたらすのが特色であって、女御の爪音(つまおと)はその中にもきわめて美しく艶(えん)に聞こえた。琴は他に比べては洗練の足らぬ芸と思われたが、お若い稽古(けいこ)盛りの年ごろの方であったから、確かな弾き方はされて、ほかの楽器と交響する音もよくて、上達されたものであると大将も思った。この人が拍子を取って歌を歌った。院も時々扇を鳴らしてお加えになるお声が昔よりもまたおもしろく思われた。少し無技巧的におなりになったようである。大将も美音の人で、夜のふけてゆくにしたがって音楽三昧(ざんまい)の境地が作られていった。月がややおそく出るころであったから、燈籠(とうろう)が庭のそこここにともされた。院が宮の席をおのぞきになると、人よりも小柄なお姿は衣服だけが美しく重なっているように見えた。はなやかなお顔ではなくて、ただ貴族らしいお美しさが備わり、二月二十日ごろの柳の枝がわずかな芽の緑を見せているようで、鶯(うぐいす)の羽風にも乱れていくかと思われた。桜の色の細長を着ておいでになるのであるが、髪は右からも左からもこぼれかかってそれも柳の糸のようである。これこそ最上の女の姿というものであろうと院はおながめになるのであったが、女御には同じような艶(えん)な姿に今一段光る美の添って見える所があって、身のとりなしに気品のあるのは、咲きこぼれた藤(ふじ)の花が春から夏に続いて咲いているころの、他に並ぶもののない優越した朝ぼらけの趣であると院は御覧になった。この人は身ごもっていて、それがもうかなりに月が重なって悩ましいころであったから、済んだあとでは琴を前へ押しやって苦しそうに脇息(きょうそく)へよりかかっているのであるが、背の高くない身体(からだ)を少し伸ばすようにして、普通の大きさの脇息へ寄っているのが気の毒で、低いのを作り与えたい気もされて憐(あわれ)まれた。紅梅の上着の上にはらはらと髪のかかった灯(ほ)かげの姿の美しい横に、紫夫人が見えた。これは紅紫かと思われる濃い色の小袿(こうちぎ)に薄臙脂(えんじ)の細長を重ねた裾(すそ)に余ってゆるやかにたまった髪がみごとで、大きさもいい加減な姿で、あたりがこの人の美から放射される光で満ちているような女王(にょおう)は、花にたとえて桜といってもまだあたらないほどの容色なのである。こんな人たちの中に混じって明石夫人は当然見劣りするはずであるが、そうとも思われぬだけの美容のある人で、聡明(そうめい)らしい品のよさが見えた。柳の色の厚織物の細長に下へ萌葱(もえぎ)かと思われる小袿(こうちぎ)を着て、薄物の簡単な裳(も)をつけて卑下した姿も感じがよくて侮(あな)ずらわしくは少しも見えなかった。青地の高麗錦(こまにしき)の縁(ふち)を取った敷き物の中央にもすわらずに琵琶(びわ)を抱いて、きれいに持った撥(ばち)の尖(さき)を絃(いと)の上に置いているのは、音を聞く以上に美しい感じの受けられることであって、五月(さつき)の橘(たちばな)の花も実もついた折り枝が思われた。いずれもつつましくしているらしい内のものの気配(けはい)に大将の心は惹(ひ)かれるばかりであった。紫の女王の美は昔の野分(のわき)の夕べよりもさらに加わっているに違いないと思うと、ただその一事だけで胸がとどろきやまない。女三(にょさん)の宮(みや)に対しては運命が今少し自分に親切であったなら、自身のものとしてこの方を見ることができたのであったと思うと、自身の臆病(おくびょう)さも口惜(くちお)しかった。朱雀(すざく)院からはたびたびそのお気持ちを示され、それとなく仰せになったこともあったのであるがと思いながらも、よく隙(すき)の見えることを知っていては女王に惹かれたほど心は動きもしないのであった。女王とはだれも想像ができぬほど遠い間隔のある所に置かれている大将は、その忘れがたい感情などは別として、せめて自分の持つ好意だけでも紫の女王に認めてもらうだけを望んでできないのを考えては煩悶(はんもん)しているのである。あるまじい心などはいだいていない、その思いを抑制することはできる人である。
 夜がふけてゆくらしい冷ややかさが風に感ぜられて臥待月(ふしまちづき)が上り始めた。
「たよりない春の朧(おぼろ)月夜だ。秋のよさというのもまたこうした夜の音楽と虫の音がいっしょに立ち上ってゆく時にあるものだね」
 と院は大将に向かってお言いになった。
「秋の明るい月夜には、音楽でも何の響きでも澄み通って聞こえますが、あまりきれいに作り合わせたような空とか、草花の露の色とかは、専念に深く音楽を味わわせなくなる気もいたします。やはり春のたよりない雲の間から朧な月が出ますほどの夜に、静かな笛の音などの上ってゆくのを聞きますほうが、音楽そのものを楽しむのにはよいかと思われます。女は春を憐(あわれ)むという言葉がございますがもっともなことと思われます。すべてのものの調子がしっくり合うのは春の夕方に限るように考えられますが」
 と大将が言うと、
「それは断定的には言えないことだ。古人でさえ決めかねたことなのだから、末世のわれわれの力で正しい批判のできるわけもない。ただ音楽のほうでは秋の律の曲を、春の呂(りょ)の曲の下に置かれていることだけは今君が言ったような理由があるからだろう」
 院はこう仰せられた。また、
「どう思うかね。現在の優秀な音楽家とされている人たちの、宮中などのお催しなどの場合に演奏を命ぜられる人のを聴(き)いても名人だと思われるのは少なくなったようだが、先輩についてよく研究をしようとするような熱心が足りないのかね。今日のような女ばかりの音楽の会に交じっても、格別きわだつと思われる人があるようにも思われない。しかしそれは近年の私がどこへも行かずに一所に引きこもっていて、鑑識が悪く偏してしまったのかもしれないが、とにかく感激を覚えさせられる音楽者のいないのは残念だ。どんな芸事も演ぜられる場所によっては平生と違ったできばえを見せるものであるが、最も晴れの場所の宮中でのこのごろの音楽の遊びに選び出される人たちに、この女性たちのを比べて劣っていると思う点があるかね」
「それを申し上げたいと思ったのでございますが、しかし頭の悪い私はでたらめを申すことになるかもしれません。今の世間の者は昔の音楽の盛んな時を知らないからでもありますか衛門督(えもんのかみ)の和琴、兵部卿(ひょうぶきょう)の宮様の琵琶(びわ)などを激賞いたします。私どもも妙技とはしておりますが、今晩の皆様の御演奏には驚愕(きょうがく)いたしました。はじめはたいしたお遊びでもあるまいと軽く考えていたためにいっそう感激が大きいのでございましょうか。歌の役はまことに気がさして勤めにくうございました。和琴は太政大臣によってだけすべての楽音を率いるような巧妙な音のたつものと思っておりまして、その境地へは一歩も他の者がはいれないものと思われるむずかしい芸でございますが、今晩のはまた特別なものでございました。結構でした」
 大将はほめた。
「そんな最大級な言葉でほめられるほどのものではないのだが」
 得意な御微笑が院のお顔に現われた。
「私にはまずできそこねの弟子はないようだね。琵琶だけは私に骨を折らせた弟子(でし)の芸ではないがすぐれたものであったはずだ。意外なところで私の発見した天性の弾き手なのだよ。ずいぶん感心したものだが、そのころよりはまた進歩したようだ」
 こうして皆御自身の功にしてお言いになるのを聞いていて、女房たちなどは肱(ひじ)を互いに突き合わせたりして笑っていた。
「すべての芸というものは習い始めると奥の深さがわかって、自分で満足のできるだけを習得することはとうていできないものなのだが、しかしそれだけの熱を芸に持つ人が今は少ないから、少しでも稽古(けいこ)を積んだことに自身で満足して、それで済ませていくのだが、琴というものだけはちょっと手がつけられないものなのだよ。この芸をきわめれば天地も動かすことができ、鬼神の心も柔らげ、悲境にいた者も楽しみを受け、貧しい人も出世ができて、富貴な身の上になり、世の中の尊敬を受けるようなことも例のあることなのだ。この芸の伝わった初めの間は、これを学ぶ人は皆長く外国へ行っていて、あらゆる困難に打ち勝って、上達しようとしたものだが、そうまでして成功したものの数はわずかだったのだ。実際すぐれた琴の音は月や星の座を変えさせることもあったし、その時季でなしに霜や雪を降らせたり、黒雲が湧(わ)き出したり、雷鳴がそのためにしたりしたことも昔はあったのだよ。だれも音楽のうちの最高のものと知っていても、完全にその芸を習いおおせるものが少なかったし、末世にはなるし、今残っているのは昔のほんとうのものの断片だけの価値のものかとも思われる。それでもまだ鬼神が耳をとどめるものになっている琴の稽古(けいこ)をなまじいにして、上達はできずにかえっていろいろな不幸な終わりを見たりする人があるものだから、琴の稽古をする者は不吉を招くというような迷信もできて、近ごろではこの面倒な芸を習う人が少なくなったということだね。遺憾なことだ。琴がなくては世の中の音楽が根本の音を持たないものになるのだからね。すべての物は衰えかけると早い速力で退化する一方なんだから、そんな中で一人の人間だけが熱心にその芸に志して、高麗(こうらい)、支那(しな)と渡り歩いて家族も何も顧みない者になってしまうのも狂的だから、それほどはしないでも、この芸がどんなものであるかを知りうるだけのことを私はしたいと思って、一曲でも十分に習いうることは困難なものとしても、これにはむずかしい無数の曲目のあるものなのだから、若くて音楽熱の盛んな年ごろの私は世の中にあるだけの琴の譜を調べたり、あちらから来ているものは皆手もとへ取り寄せて、それによって研究をしたが、しまいには私以上の力のある先生というものもなくなって不便だったものの、独学で勉強をしたが、それでも古人の芸に及ぶものでは少しもなかったのだからね。ましてこれからは心細いものになるだろうとこの芸について私は悲しんでいる」
 などと院のお語りになるのを聞いていて大将は自身をふがいなく恥ずかしく思った。
「今上(きんじょう)の親王が御成人になれば、それまで生きているかどうかおぼつかないことだが、その時に私の習いえただけの琴の芸をお授けしようと願っている。二の宮は今からそうした天分を持たれるようだから」
 このお言葉を明石(あかし)夫人は自身の名誉であるように涙ぐんで側聞(かたえぎ)きをしていたのであった。
 女御は箏(そう)を紫夫人に譲って、悩ましい身を横たえてしまったので、和琴(わごん)を院がお弾(ひ)きになることになって、第二の合奏は柔らかい気分の派手(はで)なものになって、催馬楽(さいばら)の葛城(かつらぎ)が歌われた。院が繰り返しの所々で声をお添えになるのが非常に全体を美しいものにした。月の高く上る時間になり、梅花の美もあざやかになってきた。十三絃(げん)の箏(そう)の音は、女御のは可憐(かれん)で女らしく、母の明石夫人に似た揺(ゆ)の音が深く澄んだ響きをたてたが、女王のはそれとは変わってゆるやかな気分が出て、聴(き)き手の心に酔いを覚えるほどの愛嬌(あいきょう)があり、才のひらめきの添ったものであった。合奏の末段になって呂(りょ)の調子が律になる所の掻き合わせがいっせいにはなやかになり、琴は五つの調べの中の五六の絃(いと)のはじき方をおもしろく宮はお弾きになって、少しも未熟と思われる点がなく、よく澄んで聞こえた。春と秋その他のあらゆる場合に変化させねばならぬ弾法の使いこなしようを院がお教えになったのを誤たずによく会得して弾いておいでになるのに、院は誇りをお覚えになった。小さい御孫たちが熱心に笛の役を勤めたのをかわいく院は思召(おぼしめ)して、
「眠くなっただろうのに、今晩の合奏はそう長くしないはずでわずかな予定だったのがつい感興にまかせて長く続けていて、それも楽音で時間を知るほどの敏感がなく、思わずおそくなって、思いやりのないことをした」
 とお言いになり、笙(しょう)の笛を吹いた子に酒杯をお差しになり、御服を脱いでお与えになるのであった。横笛の子には紫夫人のほうから厚織物の細長に袴(はかま)などを添えて、あまり目だたせぬ纏頭(てんとう)が出された。大将には姫宮の御簾(みす)の中から酒器(かわらけ)が出されて、宮の御装束一そろいが纏頭にされた。
「変ですね。まず先生に御褒美(ほうび)をお出しにならないで。私は失望した」
 院がこう冗談(じょうだん)をお言いになると、宮の几帳(きちょう)の下からお贈り物の笛が出た。院は笑いながらお受け取りになるのであったが、それは非常によい高麗笛であった。少しお吹きになると、もう退出し始めていた人たちの中で大将が立ちどまって、子息の持っていた横笛を取ってよい音に吹き合わせるのが、至芸と思われるこの音を院はうれしくお聞きになり、これもまた自分の弟子(でし)であったと満足されたのであった。
 大将は子供をいっしょに車へ乗せて月夜の道を帰って行ったが、いつまでも第二回のおりの箏の音が耳についていて、遣(や)る瀬なく恋しかった。この人の妻は祖母の宮のお教えを受けていたといっても、まだよくも心にはいらぬうちに父の家へ引き取られ、十三絃もはんぱな稽古(けいこ)になってしまったのであるから、良人(おっと)の前では恥じて少しも弾かないのである。すべておおまかに外見をかまわず暮らしていて、あとへあとへ生まれる子供の世話に追われているのであるから、大将は若い妻の感じのよさなどは少しも受け取りえない良人なのである。しかも嫉妬(しっと)はして、腹をたてなどする時に天真爛漫(らんまん)な所の見える無邪気な夫人なのであった。
 院は対のほうへお帰りになり、紫夫人はあとに残って女三の宮とお話などをして、明け方に去ったが、昼近くなるまで寝室を出なかった。
「宮は上手(じょうず)になられたようではありませんか。あの琴をどう聞きましたか」
 と院は夫人へお話しかけになった。
「初めごろ、あちらでなさいますのを、聞いておりました時は、まだそうおできになるとは伺いませんでしたが、非常に御上達なさいましたね。ごもっともですわね、先生がそればかりに没頭していらっしゃったのですものね」
「そうですね、手を取りながら教えるのだからこんな確かな教授法はなかったわけですね。あなたにも教えるつもりでいたが、あれは面倒で時間のかかる稽古ですからね、つい実行ができなかったのだが、院の陛下も琴だけの稽古はさせているだろうと言っておられるということを聞くと、お気の毒で、せめてそれくらいのことは保護者に選ばれたものの義務としてしなければならないかという気になって、やり始めた先生なのですよ」
 などと仰せられるついでに、
「小さかったころのあなたを手もとへ置いて、理想的に育て上げたいとは思ったものの、そのころの私にはひまな時間が少なくて、特別なものの先生になってあげることもできなかったし、近年はまたいろいろなことが次から次へと私を駆使して、よく世話もしてあげなかった琴のできのよかったことで私は光栄を感じましたよ。大将が非常に感心しているのを見たこともうれしくてなりませんでしたよ」
 ともおほめになった。そうした芸術的な能力も豊かである上に、今は一方で祖母の義務を御孫の宮たちのために忠実に尽くしていて、家庭の実務をとることにも力の不足は少しも見せない夫人であることを院はお思いになり、こうまで完全な人というものは短命に終わるようなこともあるのであると、そんな不安をお覚えになった。多くの女性を御覧になった院が、これほどにも物の整った人は断じてほかにないときめておいでになる紫の女王であった。夫人は今年が三十七であった。同棲(どうせい)あそばされてからの長い時間を院は追懐あそばしながら、
「祈祷(きとう)のようなことを半生の年よりもたくさんさせて今年は無理をしないようにあなたは慎むのですね。
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