源氏物語
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:紫式部 

たちまちに知らぬ花さくおぼつかな天(あめ)よりこしをうたがはねども (晶子)
 あの六条院の行幸(みゆき)のあった直後から朱雀(すざく)院の帝(みかど)は御病気になっておいでになった。平生から御病身な方ではあったが、今度の病におなりになってからは非常に心細く前途を思召(おぼしめ)すのであった。
「私はもうずっと以前から信仰生活にはいりたかったのだが、太后がおいでになる間は自身の感情のおもむくままなことができないで今日に及んだのだが、これも仏の御催促なのか、もう余命のいくばくもないことばかりが思われてならない」
 などと仰せになって、御出家をあそばされる場合の用意をしておいでになった。皇子は東宮のほかに女宮様がただけが四人おいでになった。その中で藤壺(ふじつぼ)の女御(にょご)と以前言われていたのは三代前の帝の皇女で源姓(みなもとせい)を得た人であるが、院がまだ東宮でいらせられた時代から侍していて、后(きさき)の位にも上ってよい人であったが、たいした後援をする人たちもなく、母方といっても無勢力で、更衣(こうい)から生まれた人だったから、競争のはげしい後宮の生活もこの人には苦しそうであって、一方では皇太后が尚侍(ないしのかみ)をお入れになって、第一人者の位置をそれ以外の人に与えまいという強い援助をなされたのであったから、帝も御心(みこころ)の中では愍然(びんぜん)に思召しながら后に擬してお考えになることもなく、しかもお若くて御退位をあそばされたあとでは、藤壺の女御にもう光明の夢を作らせる日もなくて、女御は悲観をしたままで病気になり薨去(こうきょ)したが、その人のお生みした女三(にょさん)の宮(みや)を御子(みこ)の中のだれよりも院はお愛しになった。このころは十三、四でいらせられる。世の中を捨てて山寺へはいったあとに、残された内親王はだれをたよりに暮らすかと思召されることが院の第一の御苦痛であった。西山に御堂(みどう)の御建築ができて、お移りになる用意をあそばしながらも、一方では女三の宮の裳着(もぎ)の挙式の仕度(したく)をさせておいでになった。貴重な多くの御財産、美術の価値のあるお品々などはもとより、楽器や遊戯の具なども名品に近いような物は皆この宮へお譲りになって、その他の御財産、お道具類を他の宮がたへ御分配あそばされた。
 東宮は院の重い御病気と、御出家の御用意のあることをお聞きになって、お見舞いの行啓をあそばされた。母君の女御もお付き添いして行った。殊寵(しゅちょう)があったわけではないが、東宮の御母となる宿縁のあった人を御尊重あそばされて、院はこの方にもこまやかにお話をあそばされた。東宮にも帝王とおなりになる日のお心得事などをお教えあそばされるのであった。御年齢(とし)よりも大人(おとな)びておいでになったし、御後援をする人が母方のそばにも多くある方であったから、院は御安心をしておいでになるのである。
「私はもうこの世に遺憾だと心に残るようなこともない。ただ内親王たちが幾人もいることで将来どうなるかと案ぜられることは、今の場合だけでなくこの世を離れる際にも絆(ほだし)になるであろうと思われる。今まで一般の世の中に見ていても、女というものは、その人の意志でもなしに、ほかから働きかける者のために悪名も立てられ、恥辱も受けるような運命になっていくのがかわいそうだ。どの姉妹(きょうだい)にもあなたの御代(みよ)が来た時にはあたたかい庇護を加えてやってもらいたい。その中でも後見をする母などのついている者は託して行く所があるような気もしてまずいいが、女三の宮は年のゆかないのに母のない内親王なのだから、私だけをたよりにして育ってきたことを思うと、私が寺へはいったあとではどんな心細い身の上になることかと気がかりでならない」
 と、涙をお拭(ぬぐ)いになりながら東宮へ後事をお頼みになるのであった。母君の女御にも信じ切ったようにして院は女三の宮のことを仰せになった。とはいっても昔宮中にあった時代には、内親王の御母の女御は格別な御寵愛(ちょうあい)を得ていて、この方にとっては強力な競争者だったのであるから、その宮にまで憎悪(ぞうお)を持つわけはないが真心からお世話をする気にはなれなかったであろうと想像される。
 院は明けても暮れても女三の宮の将来についてばかり御心配をあそばされるせいもあって、年末が近づいてから御容態がいちじるしくお悪くなり、御簾(みす)の外へおいでになることもなくなった。これまでも妖気(もののけ)がもとでおりおりお煩(わずら)いになることはあっても、こんなに続いて永(なが)く御容態のすぐれぬようなことはなかったのであるから、御自身では御命数の尽きる世が来たというように解釈をあそばすのであった。御退位になってからも御在位時代に恩顧を受けた人たちは、今も優しく寛容な御性質をお慕い申し上げて、屈託なことのある時の慰安を賜わる所のようにして参候する慣(なら)いになっていて、その人たちは院の御悩(ごのう)の重いのを皆心から惜しみ悲しんでいた。六条院からもお見舞いの使いが常に来た。そのうち御自身でもおいでになりたいという御通知のあった時、院は非常にお喜びになった。六条院の御子の源中納言が参院した時に、御病室の御簾(みす)の中へお招きになり、朱雀(すざく)院はいろいろなお話をあそばされた。
「お崩(かく)れになった陛下が御終焉(しゅうえん)の前に私へいろいろな御遺言をなされたのだが、その中で特に六条院と今の陛下のことについては熱心に仰せられて私へお託しになったのだが、帝王というものになっては、自分の意志を単純に実行へ移すことのできない点があってね。個人としての愛は少しも変わらなかったが、しかも私の過失によって、あの方にとって私が恨めしかっただろうと思うこともしたのに、今日までそれに対する復讐的なことは何の端にもお見せにならない。どんな賢人でも自身の問題になると恨むことも憎むことも凡人どおりにすることからいろいろな事件の起こるのは歴史の上にあることだからね。機会があれば私への復讐が姿になって現われることであろうと、世人も言うことだったし、私自身も罰を受ける気でいたのだが、あの方に見たのは絶対の愛だけだった。東宮などにも好意をお寄せになったり、また現在では婿舅(むこしゅうと)の関係までも作っていただいているのを私はどんなに感激しているかしれないが、愚かな上に盲目的な親の愛までも暴露してお目にかけることも恥ずかしくて、父である私が東宮に対してかえって冷淡なふうをしている。陛下のことは院の御遺言どおりに万事計らって位をお譲り申し上げたから、この聖天子を国民がいただきうることになり、私の不名誉まで取り返していただいている。これだけは意志を強くして遂行なしえた善事だと信じて満足している。六条院にこの秋の行幸の節にお目にかかった時から、私の心にはしきりに青春時代の兄弟間の愛が再燃してお目にかかりたくてならない。直接お目にかかってお話し申したいこともある。ぜひ御自身でおいでくださるようにあなたからもお勧めしてほしい」
 などとしおれたふうで院が仰せられたのである。
「御過失でございましたか、正当な御処置でございましたか、昔のことは今になって御批評の申し上げようもございません。私が大人になりまして一官吏の職を奉じますようになりましてから、私のために院がいろいろの注意を実例によってお与えくださいます際などにも、自分は冤罪(えんざい)によってどんなことが過去にあったというようなことを少しでも仰せになることはございません。一生を通じて陛下の御補佐をすべきであるのを、人生を静かに考えたい欲求から中途で閑散な地位に移らせていただいたために、故院の御遺言もお守りできぬことになり、またあなた様に対しては御在位の節には若輩であり、力もなく、上のかたがたが多くおいでにもなって、御自身の至誠をお尽くしする機会がなかったと申されまして、静かな御環境においでになります今日はせめてたびたび御訪問も申し上げてお話も承りたいのを、さすがに事の大仰(おおぎょう)になるのに遠慮されて御無沙汰(ごぶさた)を申し上げているとこんなことをおりおり歎息(たんそく)しておいでになるのでございます」
 などと中納言は申し上げた。二十歳(はたち)に少し足らぬのであるが、すべてが整って美しいこの人に院の御目はとまって、じっと顔をおながめになりながら、どう処置すべきかと御煩悶(はんもん)あそばされる姫宮を、この中納言に嫁(とつ)がせたならと人知れず思召(おぼしめ)された。
「太政大臣の家に行っているそうだね。長い間私なども大臣の態度を腑(ふ)に落ちなく思っていたところ、円満な結果を得てよいことと思っているが、またどうしたことか大臣がうらやまれもしてね」
 との院の仰せを不思議に思って中納言は考えてみたが、それは女三の宮のお身の上をとやかくとお案じになって、相当な人があれば結婚をさせて安心して宗教の中へはいりたいという思召(おぼしめ)しが院におありになるということがほかから耳にもはいっていたことであったから、その問題に触れて仰せられることかと気がついたものの、呑(の)み込み顔なお返辞はできないことであった。ただ、
「つまらない者でございますから、配偶者を得ますこともとかく困難でございまして」
 と申し上げるのにとどめた。
 のぞき見をしていた若い女房たちが、
「珍しい美男でいらっしゃる。御様子だってねえ、なんというごりっぱさでしょう」
 集まってこんなことを言っているのを、聞いていた老(ふ)けたほうに属する女房らが、
「それでも六条院様のあのお年ごろのおきれいさというものはそんなものではありませんでしたよ。比較には、まあなりませんね、それはね、目もくらんでしまうほどお美しかったものですよ」
 と言っても、若い人たちは承知をしない。こうした争いのお耳にはいった院が、
「そのとおりだよ。あの人の美は普通の美の標準にはあてはまらないものだった。近ごろはまたいっそうりっぱになられて光彩そのもののような気がする。正しくしていられれば端麗であるし、打ち解けて冗談(じょうだん)でも言われる時には愛嬌(あいきょう)があふれて、二人とないなつかしさが出てくる。何事にもどうした前生の大きな報いを得ておられる人かとすぐれた点から想像させられる人だ。宮廷で育って、帝王の愛を一身に集めるような幸福さがあって、まったくだよ。故院は御自身の命にも代えたいほど御大切にあそばしたものだが、それで慢心せず謙遜(けんそん)で、二十歳(はたち)までには納言にもならなかった。二十一になって参議で大将を兼ねたかと思う。それに比べると中納言の官等の上がり方は早い。子になり孫になりして威福の盛んになる家らしい。実際中納言は秀才であり、確かな教養を受けている点で昔の光源氏にあまり劣るまい。父君の昔に越えて幸福な道を踏んでもそれが不当とも思えない偉さが彼(あれ)にある」
 と御甥(おい)をほめておいでになった。可憐(かれん)な姫宮の美しく無邪気な御様子を御覧になっては、
「十分愛してくれて、足りない所は蔭(かげ)で教育してくれるような、そして安心して託せるような人を婿に選びたい気がする」
 などと仰せられた。
 乳母(めのと)の中でも上級な人たちをお呼び出しになって、裳着(もぎ)の式の用意についていろいろお命じになることのあったついでに、院は、
「六条院が式部卿(しきぶきょう)の宮の女王(にょおう)を育て上げられたようにして、この宮の世話をする男はないのだろうか。普通人の中に私が選び出すような人格者はまずないらしい。宮中には中宮(ちゅうぐう)がおいでになる。その下の女御(にょご)たちもよい後援者のついている人ばかりだからね。たいした後ろだてがなくて後宮の生活をするのは苦労の多いことに違いない。今日の権中納言が独身でいたころに話をしてみるのだった。若いがりっぱな秀才で将来の頼もしい人らしいのに」
 こんなこともお言いになった。
「中納言は初めからまじめ一方な方でございますから、今までも初恋のあの奥様のことばかりを思いつめて、失恋時代にもほかの話に耳をかさなかった人でございました。そのお姫様とごいっしょにおなりになったただ今では、第二の結婚のお話があの方を動かしうるものでもございますまい。私どもはかえって六条院様にその可能性がおありになるように存じ上げます。恋愛好きで女性に好奇心をお持ちになることは今も昔のままのようだと申すことでございます。その中でも最高の貴女に趣味をお持ちあそばして、前斎院様などを今になっても思っておいでになるそうでございます」
 と女宮の乳母の一人が申し上げた。
「その今でも恋愛好きである点はありがたくないことだね」
 院はこう仰せられたが、乳母が言うように六条院には多くの夫人や愛人があって、唯一の妻と認めさせることはできないでも、やはりその人を親代わりの良人(おっと)に選ぶのが最善のことであるかもしれぬというお考えを院はあそばしたようである。
「おまえの言うことはおもしろいよ。よい生き方をさせたいと思う女の子があって、配偶を求めるなら、あの院に愛されることを願うのがほんとうのようだ。人生は短いのだから、生きがいのあることをだれも願うべきだよ。私が女であれば兄弟であっても兄弟以上の接近もすることだろう。真実若い時に私はそう思ったのだ。そうなのだから女が誘惑にかかるのは道理で、また自然なことなのだよ」
 院は御心(みこころ)の中に尚侍(ないしのかみ)の事件を思い出しておいでになった。
 この中の最も重立った一人の乳母(めのと)の兄で、左中弁の某(なにがし)は六条院の恩顧を受けて、親しくお出入りしていたが、一方ではこの姫宮を尊敬する伺候者の一人であった。この人の来た時に妹である乳母が朱雀(すざく)院の御希望を語った。
「この話をあなたから六条院様に機会(おり)がありましたら申し上げてみてください。内親王様は一生御独身が原則のようですが、婿君としてどんな場合にもお力の借りられる方をお持ちになるのは、御独身の宮様よりも頼もしく思われます。院のほかに誠意のあるお世話をお受けになる方をお持ちあそばさない宮様ですからね。私がどんなにお愛し申し上げていましても、それは限りのあることしかできないのですもの。それに私一人がお付きしているのでなくておおぜいの人がいるのですから、だれがいつどんな不心得をして失礼な媒介役を勤めるかもしれません。そしてどんな御不幸なことになるかわかりません。院がおいでになりますうちにこの問題が決まりますれば私は安心ができてどんなに楽だろうと思います。尊貴な方でも女の運命は予想することができませんから不安で不安でなりません。幾人(いくたり)もおいでになる姫宮の中で特別に御秘蔵にあそばすことで、また嫉妬(しっと)をお受けになることにもなりますから、私は気が気でもありません」
「お話はしますがよい結果が得られることかどうか。院は御恋愛の上で飽きやすいとか、気がよく変わるとかいうことはない方で、珍しい篤実性を持っておられます。仮にも愛人になすった人は、お気に入った入らぬにかかわらず皆それ相応に居場所を作っておあげになって、幾人(いくたり)もの御夫人、愛姫というものを持っておいでになるというものの、煎(せん)じつめれば愛しておいでになる夫人はお一人だけということになる方がおいでになるのだから、そのために同じ院内においでになるというだけで寂しい思いをして暮らしておられる方も多いようですからね。もし御縁があって姫宮があちらへお移りになった場合には、紫の女王様がどんなにすぐれた奥様でも、これにお勝ちになることは不可能でしょうとは思いますが、あるいは必ずしもそういかない場合も想像されます。しかしまた院が、自分はすべての幸福に恵まれているが、熱愛では人の批難を受けもしているし、私自身にも不満足を感じる点もあると何かの場合にお洩(も)らしになるが、私らとしてもそう思われる節(ふし)がないでもない。夫人がたといっても今までの方はただの女性で、内親王がたが一人も混じっておいでになりませんからね。私らとしては院の御身分として姫宮様級の御夫人があってしかるべきだと思われますからね。今度のことが実現されたらどんなにすばらしい御夫妻だろう」
 と左中弁は言うのであった。乳母(めのと)は何かのことを朱雀(すざく)院へ申し上げたついでに、自分が試みに前日兄の左中弁へした話を申し上げて、
「兄が申しますのには院は必ず御承諾あそばされることと思う。六条院は年来の御希望がかなうことと思召(おぼしめ)すに違いない御縁談であるから、こちらのお許しさえあればお伝えいたしましょうと申しました。どういたしたらよろしゅうございましょう。御愛人にはそれぞれの御身分に応じた御待遇をあそばしまして、思いやりの深いお方様と承りますけれど、普通の女の方でもほかに愛妻のある方と結婚をすることを幸福とはいたさないのでございますから、御不快な思いをあそばすことがないとも思われません。姫宮様をいただきたいと望む人はほかにもたくさんあるのでございますから、よくお考えあそばしましてお決めなさいますのがよろしゅうございましょう。宮様は最も尊貴な御身分でいらっしゃいますが、ただ今の世の中ではりりしく独身生活をりっぱにしていく婦人がたもありますのに、三の宮様はどうもその点で御安心申し上げられない強さが欠けておいであそばすのですから、私たち侍女どもは一所懸命の御奉仕をいたしましても、それはたいした宮様のお力になることでもございませんから、世間の女の例によって、変則な独身でお立ちになろうとあそばさないで、御結婚をあそばすほうが御安心のおできになることと存じます。特別な御後見をなさいます方のないのはお心細いことでないかと存じ上げます」
 と、自身の意見も述べた。
「私も宮のことをいろいろと考えて、内親王は神聖なものとしておきたくも思うし、また高い身分の者も結婚したがために、内輪のことも世評に上るようになるし、しないでよいはずの煩悶(はんもん)で自身を苦しめることにもなるのだからと否定に傾きもするのだが、また親兄弟にも別れたあとで、女が独身でいては、昔の時代の人は神聖なものは神聖なものとしておいたが、近代の男はそれを無視して強要的な結婚を行なうのに躊躇(ちゅうちょ)しない悪徳を平気でするようになったために、いろんな噂(うわさ)の種もまくのだがね。昨日(きのう)までは尊貴な親の娘として尊敬されていた人が、つまらぬ男にだまされて浮き名を立て、ある者は死んだ親の名誉をそこなうという類(たぐい)の話は幾つもあるから、姫宮であっても女であれば同じことで、宿命などということはことにわからぬものだから、私が配偶者を選ばずに捨てておくことは不安だとも一方では考えられる。良くなっても悪くなっても、それは自発的に決めたことでなくて親や兄が選んだ結婚をしておれば、悪いことがあとにあってもその人の責任にはならないで済むし、恋愛結婚のあとが良くなれば、ああしたことの結果も良くなるものであるとは見えても、その初めに噂の広まったころには、親の同意も得ず、家族も許さないのに恋愛をして良人(おっと)を持ったということは女の第一の恥と聞こえるからね。それは普通の家の娘の場合でも軽佻(けいちょう)に思われることに違いない。また自分は自分の身体(からだ)の持ち主であるのに、それを暴力で蹂躪(じゅうりん)された結果、意外な男の妻になるようなことも軽率で、その女を侮蔑(ぶべつ)したくなるが、姫宮も元来弱い、隙(すき)の見える性質ではないかと私は心配しているのだから、侍女どもが勝手なことを宮に押しつけるようなことをさせてはならないよ。そんな噂が世間へ聞こえては恥ずかしいからね」
 などとお別れになったあとのことまでもお案じになって仰せられることで、乳母たち、女房たちは責任の重さを苦労に思った。
「もう少し大人になられるまで私がついていたいと、今まで念じ続けてきたものだが、このごろの健康状態でそうしていては、信仰生活にはいることもできずに死んでしまうのではないかという気がされるので、やむをえず出家を断行することにした。六条院に託しておくのが、なんといってもいちばん安心のできることだと思う。幾人(いくたり)も侍している夫人はあってもそれをいちいち念頭に置いてゆかねばならぬことでもなし、ただ主観的にこちらさえ寛大な心を持って臨めばよいことなのだ。はなやかな時代も過ぎて平淡な心境におられるあの院に三の宮の良人(おっと)となっていただくことは最も安心なことだと私は認めている。そのほかに適当な候補者はないよ。兵部卿(ひょうぶきょう)の宮は風采(ふうさい)も人物もひととおりはりっぱな人だがね、それに私としては兄弟のことだから他人のようにひどい批評はできないものの、とにかくあの人はあまりに柔弱で、芸術家に傾き過ぎて、世間の信望が少し薄いようだ。そんなふうな人は良人として頼もしくは思われない。また大納言が臣礼をもって奉仕しようというのは親切な男というべきだが、さてそれに許してやる気にはちょっとなれない。やはり普通の男の妻には与えにくい気がする。昔の時代にも帝王の婿にはある一事の傑出した人物が選ばれたようだ。ただ都合のよいというようなことで人選をするのは恥ずかしいことだ。右衛門督(うえもんのかみ)がやはりその希望を持っているということを尚侍(ないしのかみ)が言っていたが、あれだけはすぐれた人物だから、官位がもう少し進んでいたら私も大いに考慮するが、まだ今のところでは地位が不十分だ。理想が高くてだれとも結婚をせずにまだ独身でいて思い上がった精神が実によい。学問も相当なものだし、廟堂(びょうどう)に立って仕事のできる点で将来も有望だが、私には愛女の婿はそれでもないという心がある。相当に濃厚にある」
 こんなふうに仰せられて院はお心を悩ませておいでになった。多い候補者の中の婿選びを困難に思召(おぼしめ)す女三(にょさん)の宮(みや)以外の姉宮がたに求婚をする人はさてないのである。院がどんなにその一方(ひとかた)をお愛しになって、よい配偶をお決めになることに専心しておいでになるかということが、院内から自然に外へ聞こえ、自身を候補に擬しているものが多いのである。太政大臣も長男の右衛門督がまだ独身でいて、妻は内親王でなければ結婚はせぬと思うふうであるから、御降嫁が決定してだれもがお許しを願って出た時に、院の御婿に長男が選ばれたなら、どんなに自身のためにも光栄であるかしれないと考え、院の御寵姫(ちょうき)の尚侍の所へは、その人の姉である夫人から言わせて運動もし、一方では直接お話も申し上げて懇請もしていた。兵部卿の宮は左大将の夫人に失恋をあそばされたのであるから、その夫婦に対してもりっぱでない結婚はできないようにお思いになって、夫人を選んでおいでになる場合であったから、お心の動かないわけはない。非常に熱心な求婚者で宮はおありになった。藤(とう)大納言は長い間院の別当をしていて、親しく奉仕して来た人であったから、院が御寺(みてら)へおはいりになれば有力な保護者を失いたてまつることになるのを、内親王と結婚をして今後も地位の保証を得たいという功利的な考えからしきりにお許しを乞(こ)うているのであった。源(げん)中納言も院の御婿の候補者が続出するのを見ては、この人には間接でなく、あれほどにも明瞭(めいりょう)に御意のあるところをお見せになったのであるから、中間によい人を得て姫宮をお望み申し上げた場合には冷淡な態度を院はおとりになるまいという自信もあって、心がときめきもするのであるが、自身を信頼している妻を見ては、過ぎ去ったあの苦しい境地に置かれて、もう絶縁をしてもよかった時代にさえなお自分はこの人以外の女を対象として考えようともせず通して来て、二度目の結婚を今さらすればにわかに妻は物思いをすることになろうし、一方が尊貴な人であれば自分の行動は束縛されて、思っていてもこちらを同じに扱うことができずに、左にも右にも不平があれば自分は苦しいことであろうという気になって、元来が多情な人ではないのであるから、動く心をしいておさえて何とも表面へは出さないのであるが、さすがに姫宮の婚約が他人と成り立つことは願われないで、この人のためには一つの心を離れぬ問題にはなった。東宮もこの婿選びのことをお聞きになって、
「目前のことよりも、そうしたことは後世への手本にもなることですから、よくお考えになった上で人を選定あそばされるがよろしく思われます。どんなにりっぱな人物でも普通人は普通人なのですから、結局は六条院へお託しになるのが最善のことと考えます」
 とこれは表だった使いで進言されたのではないが、ある人をもって申された。
「もっともな意見だ。非常によい忠告だ」
 院はこうお言いになって、いよいよその心におなりになり、まず三の宮のお乳母(めのと)の兄である左中弁から六条院へあらましの話をおさせになった。女三の宮の結婚問題で院が御心痛をしておいでになることは以前から聞いておいでになったから、
「御同情する。お気の毒に存じ上げている。しかし院が御生命の不安をお感じになったとすれば、私だって同じことなのだからね。どれだけあとへお残りする自信をもって御後事がお引き受けできると思うかね。御兄が先で、弟があとというそれも決まっていもせぬことを仮にそうとして私が何年かでも生き残っている間は、どの宮だって血縁のある方なのだから私はできるだけの御保護はするつもりなのに、しかも特別お心がかりに思召(おぼしめ)す方にはまた特別のお世話もするが、しかしそれだって無常の人生なのだから、自分の生命(いのち)が受け合われない」
 とお言いになって、また、
「まして私の妻にしておくことはどんなによくないことかしれない。私が院に続いて亡(な)くなる時に、どんなにまたそれが私の気がかりになることか。私だけのことを考えても執着の残ることで、なすべきことでないと思われる。私の子の中納言などは年も若くて軽い身分であっても、将来のある人物だからね。国家の柱石となる可能性を持っているのだから、中納言などへ御降嫁になってもそれが調和のとれないこととは思われない。しかしあまりにまじめ過ぎる男で、一人の妻と円満に家庭を持っているということで院は御遠慮になるだろうか」
 こうもお言いになって、御自身の結婚問題としてお取り上げにならないのを弁は見て、朱雀(すざく)院のほうでは堅い御決意で申し入れをさせておいでになるのであるがと残念にも思い、朱雀院をお気の毒にも思って、あちらの院がこのことの成り立つのを熱望しておいでになる事情をくわしく申し上げると、さすがに院は微笑をされて、
「非常な御愛子なのだろうから、いろいろと将来を御心配になってのお考えだろう。宮中へお上げになればいいではないか。りっぱな後宮のかたがたがすでにおられるからといって、望みのないもののように思われるのは誤りだよ。故院の時に皇太后が東宮時代からの最初の女御(にょご)で、たいした勢力を持っておいでになったが、それがずっとのちにお上がりになった入道の宮様にその当時はけおとされておしまいになった例もあるのだからね。その宮の母君の女御は入道の宮のお妹さんだった。御容貌なども入道の宮に続いてお美しいという評判のあった方だから、御両親のどちらに似てもこの宮は平凡な美人ではおありになるまい」
 などと言っておいでになった。好奇心は持っておいでになるらしいのである。
 歳暮に近くなった。朱雀院では院の御病気がそのまま続いてお悪いために、姫宮の裳着(もぎ)の式をお急ぎになり、準備をいろいろとさせておいでになったが、過去にも未来にもないような華美なお儀式になる模様で、だれもだれも騒ぎ立っていた。式場は院の栢殿(かえどの)の西向きのお座敷で御帳(おんとばり)、几帳(きちょう)その他に用いられた物も日本の織物はいっさいお使いにならず唐の后(きさき)の居室の飾りを模(うつ)して、派手(はで)で、りっぱで、輝くようにでき上がっていた。御腰結(ゆ)いの役を太政大臣へ前から依頼しておありになったが、もったいぶったこの人は気は進まないままで、院のお言葉には昔からそむくことのなかったほど好意をお示しする用意は常に持って、御辞退ができずに参列したのであった。そのほかの左右二大臣、高官らも万障を排し病気もしいて忍ぶまでにして座に加わったものである。親王様はお八方来ておいでになった。いうまでもなく殿上人の数は多かった。宮中の奉仕をする者も東宮の御殿へお勤めする者も残らず集まったのであって、盛大なお儀式と見えた。やがて出家をあそばされようとする院の最後のお催し事と見ておいでになって、帝も東宮も御同情になり宮中の納殿(おさめどの)の支那(しな)渡来の物を多く御寄贈になったのであった。六条院からも多くの御贈り物があった。それは来会者へ纏頭(てんとう)に出される衣服類、主賓の大臣への贈り物の品々等である。中宮からも姫宮のお装束、櫛(くし)の箱などを特に華麗に調製おさせになって贈られた。院が昔このお后の入内(じゅだい)の時お贈りになった髪上(くしあ)げの用具に新しく加工され、しかももとの形を失わせずに見せたものが添えてあった。中宮権亮(ごんのすけ)は院の殿上へも出仕する人であったから、それを使いにあそばして、姫宮のほうへ持参するように命ぜられたのであるが、次のようなお歌が中にあった。

さしながら昔を今につたふれば玉の小櫛(をぐし)ぞ神さびにける

 これを御覧になった院は身にしむ思いをあそばされたはずである。縁起が悪くもないであろうと姫宮へお譲りになった髪の具は珍重すべきものであると思召されて、青春の日の御思い出にはお触れにならず、お悦(よろこ)びの意味だけをお返事にあそばされて、

さしつぎに見るものにもが万代(よろづよ)をつげの小櫛も神さぶるまで

 とお書きになった。
 御病気は決して御軽快になっていなかったのを、無理あそばして御挙行になった姫宮のお裳着の式から三日目に院は御髪(みぐし)をお下(お)ろしになったのであった。普通の家でも主人がいよいよ出家をするという時の家族の悲しみは大きなものであるのに、院の御ためには悲しみ歎(なげ)く多くの後宮の人があった。尚侍はじっとおそばを離れずに歎(なげ)きに沈んでいるのを、院はなだめかねておいでになった。
「子に対する愛は限度のあるものだが、あなたのこんなに悲しむのを見ては私はもう堪えられなく苦しい心になる」
 と仰せになって、御心(みこころ)は冷静でありえなくおなりになるのであろうが、じっと堪えて脇息(きょうそく)によりかかっておいでになった。延暦寺(えんりゃくじ)の座主(ざす)のほかに戒師を勤める僧が三人参っていて、法服に召し替えられる時、この世と絶縁をあそばされる儀式の時、それは皆悲しいきわみのことであった。すでに恩愛の感情から超越している僧たちでさえとどめがたい涙が流れたのであるから、まして姫宮たち、女御(にょご)、更衣(こうい)、その他院内のあらゆる男女は上から下まで嗚咽(おえつ)の声をたてないでいられるものはない、こうした人間の声は聞いていずに、出家をすればすぐに寺へお移りになるはずの、以前の御計画をお変えになったことを院は残念に思召(おぼしめ)して、皆女三の宮へ引かれる心がこうさせたのであるとかたわらの者へ仰せられた。宮中をはじめとしてお見舞いの使いの多く参ったことは言うまでもない。
 六条院は朱雀(すざく)院の御病気が少しおよろしい報(しら)せをお得になって御自身で訪問あそばされた。宮廷から封地(ほうち)をはじめとして太上(だいじょう)天皇と少しも変わりのない御待遇は受けておいでになるのであるが、正式の太上天皇として六条院は少しもおふるまいにならないのである。世人のささげている尊敬の意も信頼の心も並み並みではないのであるが、外出の儀式なども簡単にあそばして、たいそうでない車に召され、お供の高官などは車で従って参った。朱雀院法皇はこの御訪問を非常にお喜びになって、御病苦も忍ぶようにあそばされて御面会になった。形式にはかかわらずに御病室へ六条院の今一つの座をお設けになって招ぜられたのである。御髪(みぐし)をお剃(そ)り捨てになった御兄の院を御覧になった時、すべての世界が暗くなったように思召されて、悲歎(ひたん)のとめようもない。ためらうことなくすぐにお言葉が出た。
「故院がお崩(かく)れになりましたころから、人生の無常が深く私にも思われまして、出家の願いを起こしながらも心弱く何かのことに次々引きとめられておりまして、ついにあなた様が先にこの姿をあそばすまでになってしまいました。自分はなんというふがいなさであろうと恥ずかしくてなりません。一身だけでは何でもなく出離(しゅつり)の決心はつくのでございますが、周囲を顧慮いたします点で実行はなかなかできないことでございます」
 と、お言いになって、慰めえないお悲しみを覚えておいでになるふうであった。朱雀(すざく)院も御病気であって心細いお気持ちもあそばされる時であったから、冷静なふうなどはお作りになることができずにしおしおとした御様子をお見せになり、昔の話、今の話を弱々しい声であそばすのであったが、
「今日か、明日かと思われるような重態でいて、しかも生き続けていることに油断をして、希望の出家も遂げないで亡(な)くなるようなことがあってはと奮発をして実行したのですよ。こうなっても生命(いのち)がなければしたい仏勤めもできないでしょうが、まず仮にも一つの線を出ておいて、はげしいお勤めはできないでも念仏だけでもしておきたいと思います。私のような者が今日生きているということはこの志だけは遂げたいという望みに燃えていたのを仏が憐(あわれ)んでくだすったのだと自分でもわかっているのに、まだお勤めらしいこともしていないのを仏に相済まなく思います」
 御出家についての感想をこうお述べあそばしたのに続いて、
「女の子を幾人も残して行くことが気がかりです。その中で母も添っていない子で、だれに託しておけばよいかわからぬような子のために最も私は苦悶(くもん)しています」
 と、仰せになった。正面からその問題をお出しにもならない御様子をお気の毒に六条院は思召(おぼしめ)された。お心の中でもその宮についていささかの好奇心も動いているのであるから、冷ややかにこのお話を聞き流しておしまいになることができないのであった。
「ごもっともです。普通の家の娘以上に内親王のお後ろだてのないのは心細いものでございます。ごりっぱな儲君(ちょくん)として天下の輿望(よぼう)を負うておいでになる東宮もおいでになるのでございますから、あなた様から特にお心がかりに思召す方のことをお話にさえあそばされておけば、一事でもおろそかにあそばさないはずで、何も将来のことをそう御心配になることはなかろうと申しますものの、即位をなさいました場合にも天子は公の君ですから政(まつりごと)はお心のままになりましても、個人として女の御兄弟に親身のお世話をなされ、内親王が特別な御庇護をお受けになることはむずかしいでしょう。女の方のためにはやはり御結婚をなすって、離れることのできない関係による男の助力をお得になるのが安全な道と思われますが、御信仰にもさわるほどの御心配が残るのでございましたら、ひそかに婿君を御選定しておかれましてはと存じます」
「私もそうは思うのですが、それもまたなかなか困難なことですよ。昔の例を思ってもその時の天子の内親王がたにも配偶者をお選びになって結婚をおさせになることも多かったのですから、まして私のように出家までもする凋落(ちょうらく)に傾いた者の子の配偶者はむずかしい。資格をしいて言いませんが、またどうでもよいとすべてを言ってしまうこともできなくて煩悶(はんもん)ばかりを多くして、病気はいよいよ重るばかりだし、取り返せぬ月日もどんどんたっていくのですから気が気でもない。お気の毒な頼みですが、幼い内親王を一人、特別な御好意で預かってくだすって、だれでもあなたの鑑識にかなった人と縁組みをさせていただきたいと私はそのことをお話ししたかったのです。権中納言などの独身時代にその話を持ち出せばよかったなどと思うのです。太政大臣に先(せん)を越されてうらやましく思われます」
 と朱雀(すざく)院は仰せられた。
「中納言はまじめで忠良な良人(おっと)になりうるでしょうが、まだ位なども足りない若さですから、広く思いやりのある姫宮の御補佐としては役だちませんでしょう。失礼でございますが、私が深く愛してお世話を申し上げますれば、あなた様のお手もとにおられますのとたいした変化もなく平和なお気持ちでお暮らしになることができるであろうと存じますが、ただそれはこの年齢の私でございますから、中途でお別れすることになろうという懸念が大きいのでございます」
 こうお言いになって、六条院は女三(にょさん)の宮(みや)との御結婚をお引き受けになったのであった。
 夜になったので御主人の院付きの高官も六条院に供奉(ぐぶ)して参った高官たちにも御饗応(きょうおう)の膳(ぜん)が出た。正式なものでなくお料理は精進物の風流な趣のあるもので、席にはお居間が用いられた。朱雀院のは塗り物でない浅香の懸盤(かけばん)の上で、鉢(はち)へ御飯を盛る仏家の式のものであった。こうした昔に変わる光景に列席者は涙をこぼした。身にしむ気分の出た歌も人々によって詠(よ)まれたのであったが省略しておく。夜がふけてから六条院はお帰りになったのである。それぞれ等差のある纏頭(てんとう)を供奉の人々はいただいた。別当大納言はお送りをして六条院へまで来た。
 朱雀院は雪の降っていたこの日に起きておいでになったために、また風邪(かぜ)をお引き添えになったのであるが、女三の宮の婚約が成り立ったことで御安心をあそばされた。
 六条院も新しい御婚約についての責任感と、紫夫人との夫婦生活の形式が改められねばならぬことをお思いになる苦痛とがお心でいっしょになって煩悶(はんもん)をしておいでになった。朱雀院がそうした考えを持っておいでになるということは女王(にょおう)の耳にもはいっていたのであるが、そんなことにもなるまい、前斎院にあれほど恋はしておられたがしいて結婚も院はなさらなかったのであるからなどと思って、そうした問題のありなしも問わずにいて、疑っていないのを御覧になると、院は心苦しくて、何と思うであろう、自分のこの人に対する愛は少しも変わらないばかりでなく、そういうことになればいよいよ深くなるであろうが、その見きわめがつくまでに、この人は疑って自分自身を苦しめることであろうとお思いになると、お心が静かでありえない。今日になってはもう二人の間に隔てというものは何一つ残さないことに馴(な)れた御夫妻であったから、この話をすぐに話さずにおいでになるのも院は苦痛にされながらその夜はお寝(やす)みになった。
 翌日はなお雪が降って空も身にしむ色をしていた。六条院は紫の女王と来し方のこと、未来のことをしみじみと話しておいでになった。
「院の御病気がお悪くて衰弱しておいでになるのをお見舞いに上がって、いろいろと身にしむことが多かった。女三の宮のことでいまだに御心配をしておられて、私へこんなことを仰せられた」
 院はその方を託したいと朱雀院の仰せられた話をくわしくあそばされた。
「あまりにお気の毒なので御辞退ができなかったのだが、これをまた世間は大仰(おおぎょう)に吹聴(ふいちょう)をするだろうね。私はもう今はそうした若い人と新しく結婚するような興味はなくなっているのだから、最初人を介してのお話の時は口実を設けてお断わり申していたのだが、直接お目にかかった際に、御親心というものがあまりに濃厚に見えて、冷淡に辞退をしてしまうことができなかったのですよ。郊外の寺へいよいよ院がおはいりになる時になってここへ迎えようと思う。味気ないこととあなたは思うでしょう。そのためにどんな苦しいことが一方に起こっても、私があなたを思うことは現在と少しも変わらないだろうから不快に思ってはいけませんよ。宮のためにはかえって不幸なことだと私は知っているが、それも体面は作ってあげることを上手(じょうず)にしますよ。そして双方平和な心でいてもらえれば私はうれしいだろう」
 などと言われるのであった。ちょっとした恋愛問題を起こしても自身が侮辱されたように思う女王であったから、どんな気がするだろうとあやぶみながら話されたのであったが、夫人は非常に冷静なふうでいて、
「親としての御愛情から出ましたお頼みでございましょうね。私が不快になど思うわけはございません。あちらで私を失礼な女だとも、なぜ遠慮をしてどこへでも行ってしまわないかともおとがめにならなければ、私は安心しております。お母様の女御(にょご)は私の叔母(おば)様でいらっしゃるわけですから、その続き合いで私を大目に見てくださるでしょうか」
 と卑下した。
「あなたのそれほど寛大過ぎるのもなぜだろうとかえって私に不安の念が起こる。それはまあ冗談(じょうだん)だが。まあそんなふうにも見てあなたが許していてくれて、一方にもその心得でいてもらって、平和が得られれば私はいよいよあなたを尊敬するだろう。中傷する者があって何を言おうともほんとうと思ってはいけませんよ。すべて噂(うわさ)というものは、だれがためにするところがあって言い出すというのでもなく、良いことは言わずに、悪いことを言うのがおもしろくて言いふらさせるものだが、そんなことから意外な悲劇がかもされもするのだから、人の言葉に動揺を受けないで、ただなるがままになっているのがいいのです。まだ実現されもせぬうちから物思いをして私をむやみに恨むようなことをしないでくださいね」
 こう院はおさとしになった。女王は言葉だけでなく心の中でも、こんなふうに天から降ってきたような話で、院としては御辞退のなされようもない問題に対して嫉妬(しっと)はすまい、言えばとてそのとおりになるものでもなく、成り立った話をお破りになることはないであろう、院のお心から発した恋でもないから、やめようもないのに、無益な物思いをしているような噂は立てられたくないと思った。継母(ままはは)である式部卿(しきぶきょう)の宮の夫人が始終自分を詛(のろ)うようなことを言っておいでになって、左大将の結婚についても自分のせいでもあるように、曲がった恨みをかけておいでになるのであるから、この話を聞いた時に、詛いが成就したように思うことであろうなどと、穏やかな性質の夫人もこれくらいのことは心の蔭(かげ)では思われたのであった。今になってはもう幸福であることを疑わなかった自分であった。思い上がって暮らした自分が今後はどんな屈辱に甘んじる女にならねばならぬかしれぬと紫の女王は愁(うれ)いながらもおおようにしていた。
 春になった。朱雀(すざく)院では姫宮の六条院へおはいりになる準備がととのった。今までの求婚者たちの失望したことは言うまでもない。帝(みかど)も後宮にお入れになりたい思召(おぼしめ)しを伝えようとしておいでになったが、いよいよ今度のお話の決定したことを聞こし召されておやめになった。六条院はこの春で四十歳におなりになるのであったから、内廷からの賀宴を挙行させるべきであると、帝も春の初めから御心(みこころ)にかけさせられ、世間でも御賀を盛んにしたいと望む人の多いのを、院はお聞きになって、昔から御自身のことでたいそうな式などをすることのおきらいな方だったから話を片端から断わっておいでになった。
 正月の二十三日は子(ね)の日であったが、左大将の夫人から若菜(わかな)の賀をささげたいという申し出があった。少し前まではまったく秘密にして用意されていたことで、六条院が御辞退をあそばされる間がなかったのであった。目だたせないようにはしていたが、左大将家をもってすることであったから、玉鬘(たまかずら)夫人の六条院へ出て来る際の従者の列などはたいしたものであった。南の御殿の西の離れ座敷に賀をお受けになる院のお席が作られたのである。屏風(びょうぶ)も壁代(かべしろ)の幕も皆新しい物で装(しつ)らわれた。形式をたいそうにせず院の御座に椅子(いす)は立てなかった。地敷きの織物が四十枚敷かれ、褥(しとね)、脇息(きょうそく)など今日の式場の装飾は皆左大将家からもたらした物であって、趣味のよさできれいに整えられてあった。螺鈿(らでん)の置き棚(だな)二つへ院のお召し料の衣服箱四つを置いて、夏冬の装束、香壺(こうご)、薬の箱、お硯(すずり)、洗髪器(ゆするつき)、櫛(くし)の具の箱なども皆美術的な作品ばかりが選んであった。御挿頭(かざし)の台は沈(じん)や紫檀(したん)の最上品が用いられ、飾りの金属も持ち色をいろいろに使い分けてある上品な、そして派手(はで)なものであった。玉鬘夫人は芸術的な才能のある人で、工芸品を院のために新しく作りそろえたすぐれたものである。そのほかのことはきわだたせず質素に見せて実質のある賀宴をしたのであった。参列者を引見されるために客座敷へお出しになる時に玉鬘夫人と面会された。いろいろの過去の光景がお心に浮かんだことと思われる。院のお顔は若々しくおきれいで、四十の賀などは数え違いでないかと思われるほど艶(えん)で、賀を奉る夫人の養父でおありになるとも思われないのを見て、何年かを中に置いてお目にかかる玉鬘(たまかずら)の尚侍(ないしのかみ)は恥ずかしく思いながらも以前どおりに親しいお話をした。尚侍の幼児がかわいい顔をしていた。玉鬘夫人は続いて生まれた子供などをお目にかけるのをはばかっていたが、良人(おっと)の左大将はこんな機会にでもお見せ申し上げておかねばお逢(あ)わせすることもできないからと言って、兄弟はほとんど同じほどの大きさで振り分け髪に直衣(のうし)を着せられて来ていたのである。
「過ぎた年月のことというものは、自身の心には長い気などはしないもので、やはり昔のままの若々しい心が改められないのですが、こうした孫たちを見せてもらうことでにわかに恥ずかしいまでに年齢(とし)を考えさせられます。中納言にも子供ができているはずなのだが、うとい者に私をしているのかまだ見せませんよ。あなたがだれよりも先に数えてくだすって年齢(とし)の祝いをしてくださる子(ね)の日も、少し恨めしくないことはない。もう少し老いは忘れていたいのですがね」
 と、院は仰せられた。玉鬘もますますきれいになって、重味というようなものも添ってきてりっぱな貴婦人と見えた。

若葉さす野辺(のべ)の小松をひきつれてもとの岩根を祈る今日かな

 こう大人(おとな)びた御挨拶(あいさつ)をした。沈(じん)の木の四つの折敷(おしき)に若菜を形式的にだけ少し盛って出した。院は杯をお取りになって、

小松原末のよはひに引かれてや野辺の若菜も年をつむべき

 などとお歌いになった。高官たちは南の外座敷の席に着いた。式部卿の宮は参りにくく思召(おぼしめ)したのであるが、院から御招待をお受けになって、御舅(しゅうと)でいらせられながら賀宴に出ないことは含むことでもあるようであるからとお思いになり、ずっと時間をおくらせておいでになった。以前の婿の左大将が御養女の婿として得意な色を見せて、賀宴の主催者になっているのを御覧になる宮は、御不快なことであろうとも思われたが、御孫である左大将家の長男次男は紫夫人の甥(おい)としても、主催者の子としても席上の用にいろいろと立ち働いていた。籠(かご)詰めの料理の付けられた枝が四十、折櫃(おりびつ)に入れられた物が四十、それらを中納言をはじめとして御親戚(しんせき)の若い役人たちが取り次いで御前へ持って出た。院の御前には沈(じん)の懸盤(かけばん)が四つ、優美な杯の台などがささげられた。朱雀(すざく)院がまだ御全快あそばさないので、この御宴席で専門の音楽者は呼ばれなかった。楽器類のことは玉鬘夫人の実父の太政大臣が引き受けて名高いものばかりが集められてあった。
「この世で六条院の賀宴のほかに、高尚(こうしょう)なものの集まってよい席というものはない筈なのだ」
 と言って、大臣は当日の楽器を苦心して選んだ。それらで静かな音楽の合奏があった。和琴(わごん)はこの大臣の秘蔵して来た物で、かつてこの名手が熱心に弾(ひ)いた楽器は諸人がかき立てにくく思うようであったから、かたく辞退していた右衛門督(うえもんのかみ)にぜひにと弾(ひ)くことを院がお求めになったが、予想以上に巧みに名手の長男は弾いた。どう遺伝があるものとしても、こうまで父の芸を継ぐことは困難なものであるがとだれも感動を隠せずにいた。支那(しな)から伝わった弾き方をする楽器はかえって学びやすいが、和琴はただ清掻(すがが)きだけで他の楽器を統制していくものであるからむずかしい芸で、そしてまたおもしろいものなのである。右衛門督の爪音(つまおと)はよく響いた。一つのほうの和琴は父の大臣が絃(いと)もゆるく、柱(じ)も低くおろして、余韻を重くして、弾いていた。子息のははなやかに音(ね)がたって、甘美な愛嬌(あいきょう)があると聞こえた。これほど上手(じょうず)であるという評判はなかったのであるがと親王がたも驚いておいでになった。琴は兵部卿(ひょうぶきょう)の宮があそばされた。この琴は宮中の宜陽殿(ぎようでん)に納めておかれた御物(ぎょぶつ)であって、どの時代にも第一の名のあった楽器であったが、故院の御代(みよ)の末ごろに御長皇女(おんちょうこうじょ)の一品(いっぽん)の宮が琴を好んでお弾きになったので御下賜あそばされたのを、今日の賀宴のために太政大臣が拝借してきたのである。この楽器によって御父帝の御時のこと、また御姉宮に賜わった時のことが思召されて六条院はことさら身に沁(し)んで音色(ねいろ)に聞き入っておいでになった。兵部卿の宮も酔い泣きがとめられない御様子であった。そして院の御意をお伺いになった上琴を御前へ移された。今夜の御気分からお辞(いな)みになることはできずに院は珍しい曲を一つだけお弾きになった。そんなこともあって大がかりな演奏ではないがおもしろい音楽の夜になったのである。階段(きざはし)の所に声のよい若い殿上人たちの集められたのが、器楽のあとを歌曲に受け、「青柳」の歌われたころはもう塒(ねぐら)に帰っていた鶯(うぐいす)も驚くほど派手(はで)なものになった。主催する人は別にあった宴会ではあるが、院のほうでも纏頭の御用意があって出された。
 夜明けに尚侍は自邸へ帰るのであった。院からのお贈り物があった。
「私はもう世の中から離れた気にもなって、勝手な生活をしていますから、たって行く月日もわからないのだが、こんなに年を数えてきてくだすったことで、老いが急に来たような心細さが感ぜられます。おりおりはどんな老人になったかとその時その時を見比べに来てください。老人でいながら自由に行動のできない窮屈な身の上ということにともかくもなっているのですから、自分の思うとおりに御訪問などができず、お目にかかる機会の少ないのを残念に思います」
 などと院はお言いになって、身にしむことも、恋しい日のこともお思いにならないのではないのに、玉鬘(たまかずら)がたまたま来ても早く去って行こうとするのを物足らず思召すようであった。玉鬘の尚侍も実父には肉親としての愛は持っているが、院のこまやかだった御愛情に対しては、年月に添って感謝の心が深くなるばかりであった。今日の境遇の得られたのも院の恩恵であると思っていた。
 二月の十幾日に朱雀(すざく)院の女三(にょさん)の宮(みや)は六条院へおはいりになるのであった。六条院でもその準備がされて、若菜の賀に使用された寝殿の西の離れに帳台を立て、そこに属した一二の対の屋、渡殿(わたどの)へかけて女房の部屋(へや)も割り当てた華麗な設けができていた。宮中へはいる人の形式が取られて、朱雀院からもお道具類は運び込まれた。その夜の儀装の列ははなやかなものであった。供奉(ぐぶ)者には高官も多数に混じっていた。姫宮を主公として結婚をしたいと望んだ大納言も失敗した恨みの涙を飲みながらお付きして来た。お車の寄せられた所へ六条院が出てお行きになって、宮をお抱きおろしになったことなどは新例であった。天子でおいでになるのではないから入内(じゅだい)の式とも違い、親王夫人の入輿(にゅうよ)とも違ったものである。
 三日の間は御舅(しゅうと)の院のほうからも、また主人の院からも派手(はで)な伺候者へのおもてなしがあった。紫の女王(にょおう)もこうした雰囲気(ふんいき)の中にいては寂しい気のすることであろうと思われた。夫人は静かにながめていながらも、院との間柄が不安なものになろうとは思わないのであるが、だれよりも愛される妻として動きのない地位をこれまで持った人も、若くて将来の長い内親王が競争者におなりになったのであるから、次第に自分が自分をはずかしめていく気がしないでもない心を、おさえて、おおように姫宮の移っておいでになる前の仕度(したく)なども院とごいっしょになってしたような可憐(かれん)な態度に院は感激しておいでになった。女三の宮はかねて話のあったようにまだきわめて小さくて、幼い人といってもあまりにまでお子供らしいのである。紫の女王を二条の院へお迎えになった時と院は思い比べて御覧になっても、その時の女王は才気が見えて、相手にしていておもしろい少女(おとめ)であったのに、これは単に子供らしいというのに尽きる方であったから、これもいいであろう、自尊心の多過ぎず出過ぎたことのできない点だけが安心であると、院はつとめて善意で見ようとされながらも、あまりに言いがいのない新婦であるとお歎(なげ)かれになった。
 三日の間は続いてそちらへおいでになるのを、今日までそうしたことに馴(な)れぬ女王であったから、忍ぼうとしても底から底から寂しさばかりが湧(わ)いてきた。新婚時代の新郎の衣服として宮のほうへおいでになる院のお召し物へ女房に命じて薫香(たきもの)をたきしめさせながら、自身は物思いにとらわれている様子が非常に美しく感ぜられた。何事があっても自分はもう一人の妻を持つべきではなかったのである。この問題だけを謝絶しきれずに締まりがなく受け入れた自分の弱さからこんな悲しい思いをすることにもなったと、院は御自身の心が恨めしくばかりおなりになって、涙ぐんで、
「もう一晩だけは世間並みの義理を私に立てさせてやると思って、行くのを許してください。今日からあとに続けてあちらへばかり行くようなことをする私であったなら、私自身がまず自身を軽蔑(けいべつ)するでしょうね。しかしまた院がどうお思いになることだか」
 と、お言いになりながら煩悶(はんもん)をされる様子がお気の毒であった。夫人は少し微笑をして、
「それ御覧なさいませ。御自身のお心だってお決まりにならないのでしょう。ですもの、道理のあるのが強味ともいっておられませんわ」
 絶望的にこう女王に言われては、恥ずかしくさえ院はお思われになって、頬杖(ほおづえ)を突きながらうっとりと横になっておいでになった。紫の女王は硯(すずり)を引き寄せて無駄(むだ)書きを始めていた。

目に近くうつれば変はる世の中を行く末遠く頼みけるかな

 と書き、またそうした意味の古歌なども書かれていく紙を、院は手に取ってお読みになり夫人の気持ちをお憐(あわれ)みになった。

命こそ絶ゆとも絶えめ定めなき世の常ならぬ中の契りを

 こんな歌を書いて、急に立って行こうともされないのを見て、夫人が、
「おそくなっては済みませんことですよ」
 と催促したのを機会に、柔らかな直衣(のうし)の、艶(えん)に薫香(たきもの)の香をしませたものに着かえて院が出てお行きになるのを見ている女王の心は平静でありえまいと思われた。これまでにさらに新婦を得ようとされるらしい気(け)ぶりはあっても、いよいよことが進行しそうな時に反省しておしまいになる院でおありになったから、ただもう何でもなく順調に幸福が続いていくとばかり信じていた末に、世間のものにも自分の位置をあやぶませるようなことが湧(わ)いてきた。永久に不変なものなどはないこうしたこの世ではまたどんな運命に自分は遭遇するかもしれないと女王は思うようになった。表面にこの動揺した気持ちは見せないのであるが、女房たちも、
「意外なことになるものですね。ほかの奥様がたはおいでになってもこちらの奥様の競争者などという自信を持つ方もなくて、御遠慮をしていらっしゃるから無事だったのですが、こんなふうにこの奥様をすら眼中にお置きあそばさないような方が出ていらっしってはどうなることでしょう。だれよりも優越性のある方に劣等者の役はお勤まりにはならないでしょう。そしてまたあちらから申せば、何でもないことに神経をおたかぶらせになるようなこともないとは言われませんから、そこで苦しい争闘が起こって奥様は御苦労をなさるでしょうね」
 などと語って歎(なげ)いているのであったが、少しも気にせぬふうで、機嫌(きげん)よく夫人は皆と話をして夜がふけるまで座敷に出ていたが、女房たちの中にあるそうした空気が外へ知れては醜いように思って言った。
「院には何人もの女性が侍しておられるのだけれど、理想的な御配偶とお認めになるはなやかな身分の人はないとお思いになって、物足らず思召していらっしゃったのだから、宮様がおいでになってこれで完全になったのよ。私はまだ子供の気持ちがなくなっていないと見えて、いっしょに遊んで楽しく暮らしたくばかり思っているのに、皆が私の気持ちを忖度(そんたく)して面倒な関係にしてしまわないかと心配よ。自分と同じほどの人とか、もっと下の人とかには、あの人が自分より多く愛されることは不愉快だというような気持ちは自然起こるものだけれど、あちらは高貴な方で、お気の毒な事情でこうしておいでになったのだから、その方に悪くお思われしたくないと私は努めているのよ」
 中将とか中務(なかつかさ)とかいう女房は目を見合わせて、
「あまりに思いやりがおありになり過ぎるようね」
 ともひそかに言っていた。この人たちは若いころに院の御愛人であったが、須磨(すま)へおいでになった留守中から夫人付きになっていて、皆女王を愛していた。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:125 KB

担当:undef