源氏物語
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著者名:紫式部 

あひがたきいつきのみことおもひてきさらに遥(はる)かになりゆくものを(晶子)
 前斎宮(ぜんさいぐう)の入内(じゅだい)を女院は熱心に促しておいでになった。こまごまとした入用の品々もあろうがすべてを引き受けてする人物がついていないことは気の毒であると、源氏は思いながらも院への御遠慮があって、今度は二条の院へお移しすることも中止して、傍観者らしく見せてはいたが、大体のことは皆源氏が親らしくしてする指図(さしず)で運んでいった。院は残念がっておいでになったが、負けた人は沈黙すべきであると思召(おぼしめ)して、手紙をお送りになることも絶えた形であった。しかも当日になって院からのたいしたお贈り物が来た。御衣服、櫛(くし)の箱、乱れ箱、香壺(こうご)の箱には幾種類かの薫香(くんこう)がそろえられてあった。源氏が拝見することを予想して用意あそばされた物らしい。源氏の来ていた時であったから、女別当(にょべっとう)はその報告をして品々を見せた。源氏はただ櫛の箱だけを丁寧に拝見した。繊細な技巧でできた結構な品である。挿(さ)し櫛のはいった小箱につけられた飾りの造花に御歌が書かれてあった。

別れ路(ぢ)に添へし小櫛をかごとにてはるけき中と神やいさめし

 この御歌に源氏は心の痛くなるのを覚えた。もったいないことを計らったものであると、源氏は自身のかつてした苦しい思いに引き比べて院の今のお心持ちも想像することができてお気の毒でならない。斎王として伊勢へおいでになる時に始まった恋が、幾年かの後に神聖な職務を終えて女王(にょおう)が帰京され御希望の実現されてよい時になって、弟君の陛下の後宮(こうきゅう)へその人がはいられるということでどんな気があそばすだろう。閑暇(かんか)な地位へお退(の)きになった現今の院は、何事もなしうる主権に離れた寂しさというようなものをお感じにならないであろうか、自分であれば世の中が恨めしくなるに違いないなどと思うと心が苦しくて、何故女王を宮中へ入れるようなよけいなことを自分は考えついて御心(みこころ)を悩ます結果を作ったのであろう、お恨めしく思われた時代もあったが、もともと優しい人情深い方であるのにと、源氏は歎息(たんそく)をしながらしばらく考え込んでいた。
「この御返歌はどうなさるだろう、またお手紙もあったでしょうがお答えにならないではいけないでしょう」
 などと源氏は言ってもいたが、女房たちはお手紙だけは源氏に見せることをしなかった。宮は気分がおすぐれにならないで、御返歌をしようとされないのを、
「それではあまりに失礼で、もったいないことでございます」
 こんなことを言って、女房たちが返事をお書かせしようと苦心している様子を知ると、源氏は、
「むろんお返事をなさらないではいけません。ちょっとだけでよいのですからお書きなさい」
 と言った。源氏にそう言われることが斎宮にはまたお恥ずかしくてならないのであった。昔を思い出して御覧になると、艶(えん)に美しい帝(みかど)が別れを惜しんでお泣きになるのを、少女心(おとめごころ)においたわしくお思いになったことも目の前に浮かんできた。同時に、母君のことも思われてお悲しいのであった。

別るとてはるかに言ひしひと言(こと)もかへりて物は今ぞ悲しき

 とだけお書きになったようである。お使いの幾人かはそれぞれ差のあるいただき物をして帰った。源氏は斎宮の御返歌を知りたかったのであるが、それも見たいとは言えなかった。院は美男でいらせられるし、女王もそれにふさわしい配偶のように思われる、少年でいらせられる帝の女御(にょご)におさせすることは、女王の心に不満足なことであるかもしれないなどと思いやりのありすぎることまでも考えてみると、源氏は胸が騒いでならなかったが、今日になって中止のできることでもなかったから儀式その他についての注意を言い置いて、親しい修理大夫参議(しゅりだゆうさんぎ)である人にすべてを委託して源氏は六条邸を出て御所へ参った。養父として一切を源氏が世話していることにしては院へ済まないという遠慮から、単に好意のある態度を取っているというふうを示していた。もとからよい女房の多い宮であったから、実家に引いていがちだった人たちも皆出て来て、すでにはなやかな女御の形態が調ったように見えた。御息所(みやすどころ)が生きていたならば、どんなにこうしたことをよろこぶことであろう、聡明(そうめい)な後見役として女御の母であるのに最も適した性格であったと源氏は故人が思い出されて、恋人としてばかりでなく、あの人を失ったことはこの世の損失であるとも源氏は思った。洗練された高い趣味の人といっても、あれほどにすぐれた人は見いだせないのであると、源氏は物のおりごとに御息所を思った。
 このごろは女院も御所に来ておいでになった。帝は新しい女御の参ることをお聞きになって、少年らしく興奮しておいでになった。御年齢よりはずっと大人びた方なのである。女院も、
「りっぱな方が女御に上がって来られるのですから、お気をおつけになってお逢いなさい」
 と御注意をあそばした。帝は人知れず大人の女御は恥ずかしいであろうと思召されたが、深更になってから上の御局(みつぼね)へ上がって来た女御は、おとなしいおおような、そして小柄な若々しい人であったから自然に愛をお感じになった。弘徽殿(こきでん)の女御は早くからおそばに上がっていたからその人を睦(むつ)まじい者に思召され、この新女御(しんにょご)は品よく柔らかい魅力があるとともに、源氏が大きな背景を作って、きわめて大事に取り扱う点で侮りがたい人に思召されて宿直(とのい)に召される数は正しく半々になっていたが、少年らしくお遊びになる相手には弘徽殿がよくて、昼などおいでになることは弘徽殿のほうが多かった。権中納言は后(きさき)にも立てたい心で後宮に入れた娘に、競争者のできたことで不安を感じていた。
 院は櫛(くし)の箱の返歌を御覧になってからいっそう恋しく思召された。ちょうどそのころに源氏は院へ伺候した。親しくお話を申し上げているうちに、斎宮が下向されたことから、院の御代(みよ)の斎宮の出発の儀式にお話が行った。院も回想していろいろとお語りになったが、ぜひその人を得たく思っていたとはお言いにならないのである。源氏はその問題を全然知らぬ顔もしながら、どう思召していられるかが知りたくて、話をその方向へ向けた時、院の御表情に失恋の深い御苦痛が現われてきたのをお気の毒に思った。美しい人としてそれほど院が忘れがたく思召す前斎宮は、どんな美貌(びぼう)をお持ちになるのであろうと源氏は思って、おりがあればお顔を見たいと思っているが、その機会の与えられないことを口惜(くちお)しがっていた。貴女らしい奥深さをあくまで持っていて、うかとして人に見られる隙(すき)のあるような人でない斎宮の女御を源氏は一面では敬意の払われる養女であると思って満足しているのであった。
 こんなふうに隙間(すきま)もないふうに二人の女御が侍しているのであったから、兵部卿(ひょうぶきょう)の宮は女王の後宮入りを実現させにくくて煩悶(はんもん)をしておいでになったが、帝が青年におなりになったなら、外戚の自分の娘を疎外あそばすことはなかろうとなお希望をつないでおいでになった。宮廷の二人の女御ははなやかに挑(いど)み合った。帝は何よりも絵に興味を持っておいでになった。特別にお好きなせいかお描(か)きになることもお上手(じょうず)であった。斎宮の女御は絵をよく描くのでそれがお気に入って、女御の御殿へおいでになってはごいっしょに絵をお描きになることを楽しみにあそばした。殿上の若い役人の中でも絵の描ける者を特にお愛しになる帝であったから、まして美しい人が、雅味(がみ)のある絵を上手に墨で描いて、からだを横たえながら、次の筆の下(お)ろしようを考えたりしている可憐(かれん)さが御心(みこころ)に沁(し)んで、しばしばこちらへおいでになるようになり、御寵愛(ちょうあい)が見る見る盛んになった。権中納言がそれを聞くと、どこまでも負けぎらいな性質から有名な画家の幾人を家にかかえて、よい絵をよい紙に、描かせることをひそかにさせていた。
「小説を題にして描いた絵が最もおもしろい」
 と言って、権中納言は選んだよい小説の内容を絵にさせているのである。一年十二季の絵も平凡でない文学的価値のある詞(ことば)書きをつけて帝のお目にかけた。おもしろい物であるがそれは非常に大事な物らしくして、帝のおいでになっている間にも、長くは御前へ出して置かずにしまわせてしまうのである。帝が斎宮の女御に見せたく思召して、お持ちになろうとするのを弘徽殿の人々は常にはばむのであった。源氏がそれを聞いて、
「中納言の競争心はいつまでも若々しく燃えているらしい」
 などと笑った。
「隠そう隠そうとしてあまり御前へ出さずに陛下をお悩ましするなどということはけしからんことだ」
 と源氏は言って、帝へは
「私の所にも古い絵はたくさんございますから差し上げることにいたしましょう」
 と奏して、源氏は二条の院の古画新画のはいった棚(たな)をあけて夫人といっしょに絵を見分けた。古い絵に属する物と現代的な物とを分類したのである。長恨歌、王昭君などを題目にしたのはおもしろいが縁起はよろしくない。そんなのを今度は省くことに源氏は決めたのである。旅中に日記代わりに描いた絵巻のはいった箱を出して来て源氏ははじめて夫人にも見せた。何の予備知識を備えずに見る者があっても、少し感情の豊かな者であれば泣かずにはいられないだけの力を持った絵であった。まして忘れようもなくその悲しかった時代を思っている源氏にとって、夫人にとって今また旧作がどれほどの感動を与えるものであるかは想像するにかたくはない。夫人は今まで源氏の見せなかったことを恨んで言った。

「一人居(ゐ)て眺(なが)めしよりは海人(あま)の住むかたを書きてぞ見るべかりける

 あなたにはこんな慰めがおありになったのですわね」
 源氏は夫人の心持ちを哀れに思って言った。

「うきめ見しそのをりよりは今日はまた過ぎにし方に帰る涙か

 中宮(ちゅうぐう)にだけはお目にかけねばならない物ですよ」
 源氏はその中のことにできのよいものでしかも須磨(すま)と明石(あかし)の特色のよく出ている物を一帖(じょう)ずつ選んでいながらも、明石の家の描(か)かれてある絵にも、どうしているであろうと、恋しさが誘われた。源氏が絵を集めていると聞いて、権中納言はいっそう自家で傑作をこしらえることに努力した。巻物の軸、紐(ひも)の装幀(そうてい)にも意匠を凝らしているのである。それは三月の十日ごろのことであったから、最もうららかな好季節で、人の心ものびのびとしておもしろくばかり物が見られる時であったし、宮廷でも定まった行事の何もない時で、絵画や文学の傑作をいかにして集めようかと苦心をするばかりが仕事になっていた。これを皆陛下へ差し上げることにして公然の席で勝負を決めるほうが興味のあってよいことであると源氏がまず言い出した。双方から出すのであるから宮中へ集まった絵巻の数は多かった。小説を絵にした物は、見る人がすでに心に作っている幻想をそれに加えてみることによって絵の効果が倍加されるものであるからその種類の物が多い。梅壺(うめつぼ)の王女御(おうにょご)のほうのは古典的な価値の定まった物を絵にしたのが多く、弘徽殿のは新作として近ごろの世間に評判のよい物を描かせたのが多かったから、見た目のにぎやかで派手(はで)なのはこちらにあった。典侍(ないしのすけ)や内侍(ないし)や命婦(みょうぶ)も絵の価値を論じることに一所懸命になっていた。女院も宮中においでになるころであったから、女官たちの論議する者を二つにして説をたたかわせて御覧になった。左右に分けられたのである。梅壺方は左で、平典侍(へいてんじ)、侍従の内侍、少将の命婦などで、右方は大弐(だいに)の典侍、中将の命婦、兵衛(ひょうえ)の命婦などであった。皆世間から有識者として認められている女性である。思い思いのことを主張する弁論を女院は興味深く思召(おぼしめ)して、まず日本最初の小説である竹取の翁(おきな)と空穂(うつぼ)の俊蔭(としかげ)の巻を左右にして論評をお聞きになった。
「竹取の老人と同じように古くなった小説ではあっても、思い上がった主人公の赫耶(かぐや)姫の性格に人間の理想の最高のものが暗示されていてよいのです。卑近なことばかりがおもしろい人にはわからないでしょうが」
 と左は言う。右は、
「赫耶姫の上った天上の世界というものは空想の所産にすぎません。この世の生活の写してある所はあまりに非貴族的で美しいものではありません。宮廷の描写などは少しもないではありませんか。赫耶姫は竹取の翁の一つの家を照らすだけの光しかなかったようですね。安部(あべ)の多(おおし)が大金で買った毛皮がめらめらと焼けたと書いてあったり、あれだけ蓬莱(ほうらい)の島を想像して言える倉持(くらもち)の皇子(みこ)が贋物(にせもの)を持って来てごまかそうとしたりするところがとてもいやです」
 この竹取の絵は巨勢(こせ)の相覧(おうみ)の筆で、詞(ことば)書きは貫之(つらゆき)がしている。紙屋紙(かんやがみ)に唐錦(からにしき)の縁が付けられてあって、赤紫の表紙、紫檀(したん)の軸で穏健な体裁である。
「俊蔭は暴風と波に弄(もてあそ)ばれて異境を漂泊しても芸術を求める心が強くて、しまいには外国にも日本にもない音楽者になったという筋が竹取物語よりずっとすぐれております。それに絵も日本と外国との対照がおもしろく扱われている点ですぐれております」
 と右方は主張するのであった。これは式紙地(しきしじ)の紙に書かれ、青い表紙と黄玉(おうぎょく)の軸が付けられてあった。絵は常則(つねのり)、字は道風であったから派手(はで)な気分に満ちている。左はその点が不足であった。次は伊勢(いせ)物語と正三位(しょうさんみ)が合わされた。この論争も一通りでは済まない。今度も右は見た目がおもしろくて刺戟(しげき)的で宮中の模様も描かれてあるし、現代に縁の多い場所や人が写されてある点でよさそうには見えた。平典侍が言った。

「伊勢の海の深き心をたどらずて古(ふ)りにし跡と波や消つべき

 ただの恋愛談を技巧だけで綴(つづ)ってあるような小説に業平朝臣(なりひらあそん)を負けさせてなるものですか」
 右の典侍が言う。

雲の上に思ひのぼれる心には千尋(ちひろ)の底もはるかにぞ見る

 女院が左の肩をお持ちになるお言葉を下された。
「兵衛王(ひょうえおう)の精神はりっぱだけれど在五中将以上のものではない。

見るめこそうらぶれぬらめ年経にし伊勢をの海人(あま)の名をや沈めん」

 婦人たちの言論は長くかかって、一回分の勝負が容易につかないで時間がたち、若い女房たちが興味をそれに集めている陛下と梅壺(うめつぼ)の女御の御絵はいつ席上に現われるか予想ができないのであった。源氏も参内して、双方から述べられる支持と批難の言葉をおもしろく聞いた。
「これは御前で最後の勝負を決めましょう」
 と源氏が言って、絵合わせはいっそう広く判者を求めることになった。こんなこともかねて思われたことであったから、須磨、明石の二巻を左の絵の中へ源氏は混ぜておいたのである。中納言も劣らず絵合わせの日に傑作を出そうとすることに没頭していた。世の中はもうよい絵を製作することと、捜し出すことのほかに仕事がないように見えた。
「今になって新しく作ることは意味のないことだ。持っている絵の中で優劣を決めなければ」
 と源氏は言っているが、中納言は人にも知らせず自邸の中で新画を多く作らせていた。院もこの勝負のことをお聞きになって、梅壺へ多くの絵を御寄贈あそばされた。宮中で一年じゅうにある儀式の中のおもしろいのを昔の名家が描いて、延喜(えんぎ)の帝が御自身で説明をお添えになった古い巻き物のほかに、御自身の御代(みよ)の宮廷にあったはなやかな儀式などをお描かせになった絵巻には、斎宮(さいぐう)発足の日の大極殿(だいごくでん)の別れの御櫛(みぐし)の式は、御心(みこころ)に沁(し)んで思召されたことなのであったから、特に構図なども公茂画伯(きんもちがはく)に詳しくお指図(さしず)をあそばして製作された非常にりっぱな絵もあった。沈(じん)の木の透かし彫りの箱に入れて、同じ木で作った上飾りを付けた新味のある御贈り物であった。御挨拶(あいさつ)はただお言葉だけで院の御所への勤務もする左近の中将がお使いをしたのである。大極殿の御輿(みこし)の寄せてある神々しい所に御歌があった。

身こそかくしめの外(ほか)なれそのかみの心のうちを忘れしもせず

 と言うのである。返事を差し上げないこともおそれおおいことであると思われて、斎宮の女御は苦しく思いながら、昔のその日の儀式に用いられた簪(かんざし)の端を少し折って、それに書いた。

しめのうちは昔にあらぬここちして神代のことも今ぞ恋しき

 藍(あい)色の唐紙に包んでお上げしたのであった。院はこれを限りもなく身に沁(し)んで御覧になった。このことで御位(みくらい)も取り返したく思召した。源氏をも恨めしく思召されたに違いない。かつて源氏に不合理な厳罰をお加えになった報いをお受けになったのかもしれない。院のお絵は太后の手を経て弘徽殿(こきでん)の女御(にょご)のほうへも多く来ているはずである。尚侍(ないしのかみ)も絵の趣味を多く持っている人であったから、姪(めい)の女御のためにいろいろと名画を集めていた。
 定められた絵合わせの日になると、それはいくぶんにわかなことではあったが、おもしろく意匠をした風流な包みになって、左右の絵が会場へ持ち出された。女官たちの控え座敷に臨時の玉座が作られて、北側、南側と分かれて判者が座についた。それは清涼殿(せいりょうでん)のことで、西の後涼殿の縁には殿上役人が左右に思い思いの味方をしてすわっていた。左の紫檀(したん)の箱に蘇枋(すおう)の木の飾り台、敷き物は紫地の唐錦(からにしき)、帛紗(ふくさ)は赤紫の唐錦である。六人の侍童の姿は朱色の服の上に桜襲(さくらがさね)の汗袗(かざみ)、袙(あこめ)は紅の裏に藤襲(ふじがさね)の厚織物で、からだのとりなしがきわめて優美である。右は沈の木の箱に浅香(せんこう)の下机(したづくえ)、帛紗は青地の高麗錦(こうらいにしき)、机の脚(あし)の組み紐(ひも)の飾りがはなやかであった。侍童らは青色に柳の色の汗袗(かざみ)、山吹襲(やまぶきかさね)の袙(あこめ)を着ていた。双方の侍童がこの絵の箱を御前に据(す)えたのである。源氏の内大臣と権中納言とが御前へ出た。太宰帥(だざいのそつ)の宮も召されて出ておいでになった。この方は芸術に趣味をお持ちになる方であるが、ことに絵画がお好きであったから、初めに源氏からこのお話もしてあった。公式のお召しではなくて、殿上の間に来ておいでになったのに仰せが下ったのである。この方に今日の審判役を下命された。評判どおりに入念に描(か)かれた絵巻が多かった。優劣をにわかにお決めになるのは困難なようである。例の四季を描いた絵も、大家がよい題材を選んで筆力も雄健に描き流した物は価値が高いように見えるが、今度は皆紙絵であるから、山水画の豊かに描かれた大作などとは違って、凡庸な者に思われている今の若い絵師も昔の名画に近い物を作ることができ、それにはまた現代人の心を惹(ひ)くものも多量に含まれていて、左右はそうした絵の優劣を論じ合っているが、今日の論争は双方ともまじめであったからおもしろかった。襖子(からかみ)をあけて朝餉(あさがれい)の間(ま)に女院は出ておいでになった。絵の鑑識に必ず自信がおありになるのであろうと思って、源氏はそれさえありがたく思われた。判者が断定のしきれないような時に、お伺いを女院へするのに対して、短いお言葉の下されるのも感じのよいことであった。左右の勝ちがまだ決まらずに夜が来た。最後の番に左から須磨の巻が出てきたことによって中納言の胸は騒ぎ出した。右もことに最後によい絵巻が用意されていたのであるが、源氏のような天才が清澄な心境に達した時に写生した風景画は何者の追随をも許さない。判者の親王をはじめとしてだれも皆涙を流して見た。その時代に同情しながら想像した須磨よりも、絵によって教えられる浦住まいはもっと悲しいものであった。作者の感情が豊かに現われていて、現在をもその時代に引きもどす力があった。須磨からする海のながめ、寂しい住居(すまい)、崎々浦々が皆あざやかに描かれてあった。草書で仮名混じりの文体の日記がその所々には混ぜられてある。身にしむ歌もあった。だれも他の絵のことは忘れて恍惚(こうこつ)となってしまった。圧巻はこれであると決まって左が勝ちになった。
 明け方近くなって古い回想から湿った心持ちになった源氏は杯を取りながら帥(そつ)の宮に語った。
「私は子供の時代から学問を熱心にしていましたが、詩文の方面に進む傾向があると御覧になったのですか、院がこうおっしゃいました、文学というものは世間から重んぜられるせいか、そのほうのことを専門的にまでやる人の長寿と幸福を二つともそろって得ている人は少ない。不足のない身分は持っているのであるから、あながちに文学で名誉を得る必要はない。その心得でやらねばならないって。以来私に本格的な学問をいろいろとおさせになりましたが、できが悪い課目もなく、またすぐれた深い研究のできたこともありませんでした。絵を描くことだけは、それは大きいことではありませんが、満足のできるほど精神を集中させて描いて見たいという希望がおりおり起こったものですが、思いがけなく放浪者になりました時に、はじめて大自然の美しさにも接する機会を得まして、描くべき物は十分に与えられたのですが、技巧がまずくて、思いどおりの物を紙上に表現することはできませんでした。そんなものですからこれだけをお目にかけることは恥ずかしくていたされませんから、今度のような機会に持ち出しただけなのですが、私の行為が突飛(とっぴ)なように評されないかと心配しております」
「何の芸でも頭がなくては習えませんが、それでもどの芸にも皆師匠があって、導く道ができているものですから、深さ浅さは別問題として、師匠の真似(まね)をして一通りにやるだけのことはだれにもまずできるでしょう。ただ字を書くことと囲碁だけは芸を熱心に習ったとも思われない者からもひょっくりりっぱな書を書く者、碁の名人が出ているものの、やはり貴族の子の中からどんな芸も出抜けてできる人が出るように思われます。院が御自身の親王、内親王たちに皆何かの芸はお仕込みになったわけですが、その中でもあなたへは特別に御熱心に御教授あそばしましたし、熱心にもお習いになったのですから、詩文のほうはむろんごりっぱだし、そのほかでは琴(きん)をお弾(ひ)きになることが第一の芸で、次は横笛、琵琶(びわ)、十三絃(げん)という順によくおできになる芸があると院も仰せになりました。世間もそう信じているのですが、絵などはほんのお道楽だと私も今までは思っていましたのに、あまりにお上手(じょうず)過ぎて墨絵描きの画家が恥じて死んでしまう恐れがある傑作をお見せになるのは、けしからんことかもしれません」
 宮はしまいには戯談(じょうだん)をお言いになったが酔い泣きなのか、故院のお話をされてしおれておしまいになった。二十幾日の月が出てまだここへはさしてこないのであるが、空には清い明るさが満ちていた。書司に保管されてある楽器が召し寄せられて、中納言が和琴(わごん)の弾(ひ)き手になったが、さすがに名手であると人を驚かす芸であった。帥の宮は十三絃、源氏は琴、琵琶の役は少将の命婦に仰せつけられた。殿上役人の中の音楽の素養のある者が召されて拍子を取った。稀(まれ)なよい合奏になった。夜が明けて桜の花も人の顔もほのかに浮き出し、小鳥のさえずりが聞こえ始めた。美しい朝ぼらけである。下賜品は女院からお出しになったが、なお親王は帝(みかど)からも御衣(ぎょい)を賜わった。この当座はだれもだれも絵合わせの日の絵の噂(うわさ)をし合った。
「須磨、明石の二巻は女院の御座右に差し上げていただきたい」
 こう源氏は申し出た。女院はこの二巻の前後の物も皆見たく思召すとのことであったが、
「またおりを見まして」
 と源氏は御挨拶(あいさつ)を申した。帝が絵合わせに満足あそばした御様子であったのを源氏はうれしく思った。二人の女御の挑(いど)みから始まったちょっとした絵の上のことでも源氏は大形(おおぎょう)に力を入れて梅壺(うめつぼ)を勝たせずには置かなかったことから中納言は娘の気(け)押されて行く運命も予感して口惜(くちお)しがった。帝は初めに参った女御であって、御愛情に特別なもののあることを、女御の父の中納言だけは想像のできる点もあって、頼もしくは思っていて、すべては自分の取り越し苦労であるとしいて思おうとも中納言はしていた。
 宮中の儀式などもこの御代(みよ)から始まったというものを起こそうと源氏は思うのであった。絵合わせなどという催しでも単なる遊戯でなく、美術の鑑賞の会にまで引き上げて行なわれるような盛りの御代が現出したわけである。しかも源氏は人生の無常を深く思って、帝がいま少し大人におなりになるのを待って、出家がしたいと心の底では思っているようである。昔の例を見ても、年が若くて官位の進んだ、そして世の中に卓越した人は長く幸福でいられないものである、自分は過分な地位を得ている、以前不幸な日のあったことで、ようやくまだ今日まで運が続いているのである、今後もなお順境に身を置いていては長命のほうが危(あぶな)い、静かに引きこもって後世(ごせ)のための仏勤めをして長寿を得たいと、源氏はこう思って、郊外の土地を求めて御堂(みどう)を建てさせているのであった。仏像、経巻などもそれとともに用意させつつあった。しかし子供たちをよく教育してりっぱな人物、すぐれた女性にしてみようと思う精神と出家のことは両立しないのであるから、どっちがほんとうの源氏の心であるかわからない。




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