源氏物語
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著者名:紫式部 

五十鈴(いすず)川神のさかひへのがれきぬおもひあがりしひとの身のはて (晶子)
 斎宮(さいぐう)の伊勢へ下向(げこう)される日が近づけば近づくほど御息所(みやすどころ)は心細くなるのであった。左大臣家の源氏の夫人がなくなったあとでは、世間も今度は源氏と御息所が公然と夫婦になるものと噂(うわさ)していたことであるし、六条の邸(やしき)の人々もそうした喜びを予期して興奮していたものであるが、現われてきたことは全然反対で、以前にまさって源氏は冷淡な態度を取り出したのである。これだけの反感を源氏に持たれるようなことが夫人の病中にあったことも、もはや疑う余地もないことであると御息所の心のうちでは思っていた。苦痛を忍んで御息所は伊勢行きを断行することにした。斎宮に母君がついて行くような例はあまりないことでもあったが、年少でおありになるということに託して、御息所はきれいに恋から離れてしまおうとしているのであるが、源氏はさすがに冷静ではいられなかった。いよいよ御息所に行ってしまわれることは残念で、手紙だけは愛をこめてたびたび送っていた。情人として逢(あ)うようなことは思いもよらないようにもう今の御息所は思っていた。自分に逢っても恨めしく思った記憶のまだ消えない源氏は冷静にも別れうるであろうが、その人をより多く愛している弱味のある自分は心を乱さないではいられないであろう、逢うことはこの上にいっそう苦痛を加えるだけであると思って、御息所はしいて冷ややかになっているのである。野の宮から六条の邸(やしき)へそっと帰って行っていることもあるのであるが、源氏はそれを知らなかった。野の宮といえば情人として男の通ってよい場所でもないから、二人のためには相見る時のない月日がたった。院が御大病というのでなしに、時々発作的に悪くおなりになるようなことがあったりして、源氏はいよいよ心の余裕の少ない身になっていたが、恨んでいるままに終わることは女のためにかわいそうであったし、人が聞いて肯定しないことでもあろうからと思って、源氏は御息所を野の宮へ訪問することにした。
 九月七日であったから、もう斎宮の出発の日は迫っているのである。女のほうも今はあわただしくてそうしていられないと言って来ていたが、たびたび手紙が行くので、最後の会見をすることなどはどうだろうと躊躇(ちゅうちょ)しながらも、物越しで逢うだけにとめておけばいいであろうと決めて、心のうちでは昔の恋人の来訪を待っていた。
 町を離れて広い野に出た時から、源氏は身にしむものを覚えた。もう秋草の花は皆衰えてしまって、かれがれに鳴く虫の声と松風の音が混じり合い、その中をよく耳を澄まさないでは聞かれないほどの楽音が野の宮のほうから流れて来るのであった。艶(えん)な趣である。前駆をさせるのに睦(むつま)じい者を選んだ十幾人と随身とをあまり目だたせないようにして伴った微行(しのび)の姿ではあるが、ことさらにきれいに装うて来た源氏がこの野を行くことを風流好きな供の青年はおもしろがっていた。源氏の心にも、なぜ今までに幾度もこの感じのよい野中の路(みち)を訪問に出なかったのであろうとくやしかった。
 野の宮は簡単な小柴垣(こしばがき)を大垣にして連ねた質素な構えである。丸木の鳥居などはさすがに神々(こうごう)しくて、なんとなく神の奉仕者以外の者を恥ずかしく思わせた。神官らしい男たちがあちらこちらに何人かずついて、咳(せき)をしたり、立ち話をしたりしている様子なども、ほかの場所に見られぬ光景であった。篝(かがり)火を焚(た)いた番所がかすかに浮いて見えて、全体に人少なな湿っぽい空気の感ぜられる、こんな所に物思いのある人が幾月も暮らし続けていたのかと思うと、源氏は恋人がいたましくてならなかった。北の対の下の目だたない所に立って案内を申し入れると音楽の声はやんでしまって、若い何人もの女の衣摺(きぬず)れらしい音が聞こえた。取り次ぎの女があとではまた変わって出て来たりしても、自身で逢おうとしないらしいのを源氏は飽き足らず思った。
「恋しい方を訪(たず)ねて参るようなことも感情にまかせてできた私の時代はもう過ぎてしまいまして、どんなに世間をはばかって来ているかしれませんような私に、同情してくださいますなら、こんなよそよそしいお扱いはなさらないで、逢ってくだすってお話ししたくてならないことも聞いてくださいませんか」
 とまじめに源氏が頼むと女房たちも、
「おっしゃることのほうがごもっともでございます。お気の毒なふうにいつまでもお立たせしておきましては済みません」
 ととりなす。どうすればよいかと御息所は迷った。潔斎所(けっさいじょ)についている神官たちにどんな想像をされるかしれないことであるし、心弱く面会を承諾することによって、またも源氏の軽蔑(けいべつ)を買うのではないかと躊躇(ちゅうちょ)はされても、どこまでも冷淡にはできない感情に負けて、歎息(たんそく)を洩(も)らしながら座敷の端のほうへ膝行(いざっ)てくる御息所の様子には艶(えん)な品のよさがあった。源氏は、
「お縁側だけは許していただけるでしょうか」
 と言って、上に上がっていた。長い時日を中にした会合に、無情でなかった言いわけを散文的に言うのもきまりが悪くて、榊(さかき)の枝を少し折って手に持っていたのを、源氏は御簾(みす)の下から入れて、
「私の心の常磐(ときわ)な色に自信を持って、恐れのある場所へもお訪(たず)ねして来たのですが、あなたは冷たくお扱いになる」
 と言った。

神垣(かみがき)はしるしの杉(すぎ)もなきものをいかにまがへて折れる榊ぞ

 御息所はこう答えたのである。

少女子(おとめご)があたりと思へば榊葉の香(か)をなつかしみとめてこそ折れ

 と源氏は言ったのであった。潔斎所の空気に威圧されながらも御簾の中へ上半身だけは入れて長押(なげし)に源氏はよりかかっているのである。御息所が完全に源氏のものであって、しかも情熱の度は源氏よりも高かった時代に、源氏は慢心していた形でこの人の真価を認めようとはしなかった。またいやな事件も起こって来た時からは、自身の心ながらも恋を成るにまかせてあった。それが昔のようにして語ってみると、にわかに大きな力が源氏をとらえて御息所のほうへ引き寄せるのを源氏は感ぜずにいられなかった。自分はこの人が好きであったのだという認識の上に立ってみると、二人の昔も恋しくなり、別れたのちの寂しさも痛切に考えられて、源氏は泣き出してしまったのである。女は感情をあくまでもおさえていようとしながらも、堪えられないように涙を流しているのを見るといよいよ源氏は心苦しくなって、伊勢行きを思いとどまらせようとするのに身を入れて話していた。もう月が落ちたのか、寂しい色に変わっている空をながめながら、自身の真実の認められないことで歎(なげ)く源氏を見ては、御息所の積もり積もった恨めしさも消えていくことであろうと見えた。ようやくあきらめができた今になって、また動揺することになってはならない危険な会見を避けていたのであるが、予感したとおりに御息所の心はかき乱されてしまった。
 若い殿上役人が始終二、三人連れで来てはここの文学的な空気に浸っていくのを喜びにしているという、この構えの中のながめは源氏の目にも確かに艶(えん)なものに見えた。あるだけの恋の物思いを双方で味わったこの二人のかわした会話は写しにくい。ようやく白んできた空がそこにあるということもわざとこしらえた背景のようである。

暁の別れはいつも露けきをこは世にしらぬ秋の空かな

 と歌った源氏は、帰ろうとしてまた女の手をとらえてしばらく去りえないふうであった。冷ややかに九月の風が吹いて、鳴きからした松虫の声の聞こえるのもこの恋人たちの寂しい別れの伴奏のようである。何でもない人にも身にしむ思いを与えるこうした晩秋の夜明けにいて、あまりに悲しみ過ぎたこの人たちはかえって実感をよい歌にすることができなかったと見える。

大方(おほかた)の秋の別れも悲しきに鳴く音(ね)な添へそ野辺(のべ)の松虫

 御息所(みやすどころ)の作である。この人を永久につなぐことのできた糸は、自分の過失で切れてしまったと悔やみながらも、明るくなっていくのを恐れて源氏は去った。そして二条の院へ着くまで絶えず涙がこぼれた。女も冷静でありえなかった。別れたのちの物思いを抱いて弱々しく秋の朝に対していた。ほのかに月の光に見た源氏の姿をなお幻に御息所は見ているのである。源氏の衣服から散ったにおい、そんなものは若い女房たちを忌垣(いがき)の中で狂気にまでするのではないかと思われるほど今朝(けさ)もほめそやしていた。
「どんないい所へだって、あの大将さんをお見上げすることのできない国へは行く気がしませんわね」
 こんなことを言う女房は皆涙ぐんでいた。この日源氏から来た手紙は情がことにこまやかに出ていて、御息所に旅を断念させるに足る力もあったが、官庁への通知も済んだ今になって変更のできることでもなかった。男はそれほど思っていないことでも恋の手紙には感情を誇張して書くものであるが、今の源氏の場合は、ただの恋人とは決して思っていなかった御息所が、愛の清算をしてしまったふうに遠国へ行こうとするのであるから、残念にも思われ、気の毒であるとも反省しての煩悶(はんもん)のかなりひどい実感で書いた手紙であるから、女へそれが響いていったものに違いない。御息所の旅中の衣服から、女房たちのまで、そのほかの旅の用具もりっぱな物をそろえた餞別(せんべつ)が源氏から贈られて来ても、御息所はうれしいなどと思うだけの余裕も心になかった。噂(うわさ)に歌われるような恋をして、最後には捨てられたということを、今度始まったことのように口惜(くちお)しく悲しくばかり思われるのであった。お若い斎宮は、いつのことともしれなかった出発の日の決まったことを喜んでおいでになった。世間では、母君がついて行くことが異例であると批難したり、ある者はまた御息所の強い母性愛に同情したりしていた。御息所が平凡な人であったら、決してこうではなかったことと思われる。傑出した人の行動は目に立ちやすくて気の毒である。
 十六日に桂川で斎宮の御禊(みそぎ)の式があった。常例以上はなやかにそれらの式も行なわれたのである。長奉送使(ちょうぶそうし)、その他官庁から参列させる高官も勢名のある人たちばかりを選んであった。院が御後援者でいらせられるからである。出立の日に源氏から別離の情に堪えがたい心を書いた手紙が来た。ほかにまた斎(いつき)の宮のお前へといって、斎布(ゆふ)につけたものもあった。
いかずちの神でさえ恋人の中を裂くものではないと言います。

八洲(やしま)もる国つ御神(みかみ)もこころあらば飽かぬ別れの中をことわれ

どう考えましても神慮がわかりませんから、私は満足できません。
 と書かれてあった。取り込んでいたが返事をした。宮のお歌を女別当(にょべっとう)が代筆したものであった。

国つ神空にことわる中ならばなほざりごとを先(ま)づやたださん

 源氏は最後に宮中である式を見たくも思ったが、捨てて行かれる男が見送りに出るというきまり悪さを思って家にいた。源氏は斎宮の大人(おとな)びた返歌を微笑しながらながめていた。年齢以上によい貴女(きじょ)になっておられる気がすると思うと胸が鳴った。恋をすべきでない人に好奇心の動くのが源氏の習癖で、顔を見ようとすれば、よくそれもできた斎宮の幼少時代をそのままで終わったことが残念である。けれども運命はどうなっていくものか予知されないのが人生であるから、またよりよくその人を見ることのできる日を自分は待っているかもしれないのであるとも源氏は思った。見識の高い、美しい貴婦人であると名高い存在になっている御息所の添った斎宮の出発の列をながめようとして物見車(ものみぐるま)が多く出ている日であった。斎宮は午後四時に宮中へおはいりになった。宮の輿(こし)に同乗しながら御息所は、父の大臣が未来の后(きさき)に擬して東宮の後宮に備えた自分を、どんなにはなやかに取り扱ったことであったか、不幸な運命のはてに、后の輿でない輿へわずかに陪乗して自分は宮廷を見るのであると思うと感慨が無量であった。十六で皇太子の妃(ひ)になって、二十で寡婦になり、三十で今日また内裏(だいり)へはいったのである。

そのかみを今日(けふ)はかけじと思へども心のうちに物ぞ悲しき

 御息所の歌である。斎宮は十四でおありになった。きれいな方である上に、錦繍(きんしゅう)に包まれておいでになったから、この世界の女人(にょにん)とも見えないほどお美しかった。斎王の美に御心(みこころ)を打たれながら、別れの御櫛(みぐし)を髪に挿(さ)してお与えになる時、帝(みかど)は悲しみに堪えがたくおなりになったふうで悄然(しょうぜん)としておしまいになった。式の終わるのを八省院(はっしょういん)の前に待っている斎宮の女房たちの乗った車から見える袖(そで)の色の美しさも今度は特に目を引いた。若い殿上役人が寄って行って、個人個人の別れを惜しんでいた。暗くなってから行列は動いて、二条から洞院(とういん)の大路(おおじ)を折れる所に二条の院はあるのであったから、源氏は身にしむ思いをしながら、榊(さかき)に歌を挿(さ)して送った。

ふりすてて今日は行くとも鈴鹿(すずか)川八十瀬(やそせ)の波に袖は濡れじや

 その時はもう暗くもあったし、あわただしくもあったので、翌日逢坂山(おうさかやま)の向こうから御息所の返事は来たのである。

鈴鹿川八十瀬の波に濡れ濡れず伊勢までたれか思ひおこせん

 簡単に書かれてあるが、貴人らしさのある巧妙な字であった。優しさを少し加えたら最上の字になるであろうと源氏は思った。霧が濃くかかっていて、身にしむ秋の夜明けの空をながめて、源氏は、

行くかたをながめもやらんこの秋は逢坂山を霧な隔てそ

 こんな歌を口ずさんでいた。西の対へも行かずに終日物思いをして源氏は暮らした。旅人になった御息所はまして堪えがたい悲しみを味わっていたことであろう。
 院の御病気は十月にはいってから御重体になった。この君をお惜しみしていないものはない。帝(みかど)も御心配のあまりに行幸あそばされた。御衰弱あそばされた院は東宮のことを返す返す帝へお頼みになった。次いで源氏に及んだ。
「私が生きていた時と同じように、大事も小事も彼を御相談相手になさい。年は若くても国家の政治をとるのに十分資格が備わっていると私は認める。一国を支配する骨相を持っている人です。だから私は彼がその点で逆に誤解を受けることがあってはならないとも思って、親王にしないで人臣の列に入れておいた。将来大臣として国務を任せようとしたのです。亡(な)くなったあとでも私のこの言葉を尊重してください」
 前(さき)の帝(みかど)、今の君主の御父として御希望を述べられた御遺言も多かったが、女である筆者は気がひけて書き写すことができない。帝もこれが最後の御会見に院のお言いになることを悲しいふうで聞いておいでになったが、御遺言を違(たが)えぬということを繰り返してお誓いになった。風采(ふうさい)もごりっぱで、以前よりもいっそうお美しくお見えになる帝に院は御満足をお感じになり、頼もしさもお覚えになるのであった。高貴な御身でいらせられるのであるから、感情のままに父帝のもとにとどまっておいでになることはできない。その日のうちに還幸されたのであるから、お二方のお心は、お逢いになったあとに長く悲しみが残った。東宮も同時に行啓(ぎょうけい)になるはずであったがたいそうになることを思召(おぼしめ)して別の日に院のお見舞いをあそばされた。御年齢以上に大人らしくなっておいでになる愛らしい御様子で、しばらくぶりでお逢いになる喜びが勝って、今の場合も深くおわかりにならず、無邪気にうれしそうにして院の前へおいでになったのも哀れであった。その横で中宮(ちゅうぐう)が泣いておいでになるのであるから、院のお心はさまざまにお悲しいのである。種々と御教訓をお残しになるのであるが、幼齢の東宮にこれがわかるかどうかと疑っておいでになる御心(みこころ)からそこに寂しさと悲しさがかもされていった。源氏にも朝家(ちょうけ)の政治に携わる上に心得ていねばならぬことをお教えになり、東宮をお援(たす)けせよということを繰り返し繰り返し仰せられた。夜がふけてから東宮はお帰りになった。還啓に供奉(ぐぶ)する公卿(こうけい)の多さは行幸にも劣らぬものだった。御秘蔵子の東宮のお帰りになったのちの院の御心は最もお悲しかった。皇太后もおいでになるはずであったが、中宮がずっと院に添っておいでになる点が御不満で、躊躇(ちゅうちょ)あそばされたうちに院は崩御(ほうぎょ)になった。御仁慈の深い君にお別れしてどんなに多数の人が悲しんだかしれない。院の御位(みくらい)にお変わりあそばしただけで、政治はすべて思召しどおりに行なわれていたのであるから、今の帝はまだお若くて外戚の大臣が人格者でもなかったから、その人に政権を握られる日になれば、どんな世の中が現出するであろうと官吏たちは悲観しているのである。院が最もお愛しになった中宮や源氏の君はまして悲しみの中におぼれておいでになった。崩御後の御仏事なども多くの御遺子たちの中で源氏は目だって誠意のある弔い方をした。それが道理ではあるが源氏の孝心に同情する人が多かった。喪服姿の源氏がまた限りもなく清く見えた。去年今年と続いて不幸にあっていることについても源氏の心は厭世(えんせい)的に傾いて、この機会に僧になろうかとも思うのであったが、いろいろな絆(ほだし)を持っている源氏にそれは実現のできる事ではなかった。
 四十九日までは女御(にょご)や更衣(こうい)たちが皆院の御所にこもっていたが、その日が過ぎると散り散りに別な実家へ帰って行かねばならなかった。これは十月二十日のことである。この時節の寂しい空の色を見てはだれも世がこれで終わっていくのではないかと心細くなるころである。中宮は最も悲しんでおいでになる。皇太后の性格をよく知っておいでになって、その方の意志で動く当代において、今後はどんなつらい取り扱いを受けねばならぬかというお心細さよりも、またない院の御愛情に包まれてお過ごしになった過去をお忍びになる悲しみのほうが大きかった。しかも永久に院の御所で人々とお暮らしになることはできずに、皆帰って行かねばならぬことも宮のお心を寂しくしていた。中宮は三条の宮へお帰りになるのである。お迎えに兄君の兵部卿(ひょうぶきょう)の宮がおいでになった。はげしい風の中に雪も混じって散る日である。すでに古御所(ふるごしょ)になろうとする人少なさが感ぜられて静かな時に、源氏の大将が中宮の御殿へ来て院の御在世中の話を宮としていた。前の庭の五葉が雪にしおれて下葉の枯れたのを見て、

蔭(かげ)ひろみ頼みし松や枯れにけん下葉散り行く年の暮(くれ)かな

 宮がこうお歌いになった時、それが傑作でもないが、迫った実感は源氏を泣かせてしまった。すっかり凍ってしまった池をながめながら源氏は、

さえわたる池の鏡のさやけさに見なれし影を見ぬぞ悲しき

 と言った。これも思ったままを三十一字にしたもので、源氏の作としては幼稚である。王命婦(おうみょうぶ)、

年暮れて岩井の水も氷とぢ見し人影のあせも行くかな

 そのほかの女房の作は省略する。中宮の供奉(ぐぶ)を多数の高官がしたことなどは院の御在世時代と少しも変わっていなかったが、宮のお心持ちは寂しくて、お帰りになった御実家がかえって他家であるように思召されることによっても、近年はお許しがなくて御実家住まいがほとんどなかったことがおしのばれになった。
 年が変わっても諒闇(りょうあん)の春は寂しかった。源氏はことさら寂しくて家に引きこもって暮らした。一月の官吏の更任期などには、院の御代(みよ)はいうまでもないがその後もなお同じように二条の院の門は訪客の馬と車でうずまったのだったのに、今年は目に見えてそうした来訪者の数が少なくなった。宿直(とのい)をしに来る人たちの夜具類を入れた袋もあまり見かけなくなった。親しい家司(けいし)たちだけが暢気(のんき)に事務を取っているのを見ても、主人である源氏は、自家の勢力の消長と人々の信頼が比例するものであることが思われておもしろくなかった。右大臣家の六の君は二月に尚侍(ないしのかみ)になった。院の崩御によって前(さきの)尚侍が尼になったからである。大臣家が全力をあげて後援していることであったし、自身に備わった美貌(びぼう)も美質もあって、後宮の中に抜け出た存在を示していた。皇太后は実家においでになることが多くて、稀(まれ)に参内になる時は梅壺(うめつぼ)の御殿を宿所に決めておいでになった。それで弘徽殿(こきでん)が尚侍の曹司(ぞうし)になっていた。隣の登花殿などは長く捨てられたままの形であったが、二つが続けて使用されて今ははなやかな場所になった。女房なども無数に侍していて、派手(はで)な後宮(こうきゅう)生活をしながらも、尚侍の人知れぬ心は源氏をばかり思っていた。源氏が忍んで手紙を送って来ることも以前どおり絶えなかった。人目につくことがあったらと恐れながら、例の癖で、六の君が後宮へはいった時から源氏の情炎がさらに盛んになった。院がおいでになったころは御遠慮があったであろうが、積年の怨みを源氏に酬(むく)いるのはこれからであると烈(はげ)しい気質の太后は思っておいでになった。源氏に対して何かの場合に意を得ないことを政府がする、それが次第に多くなっていくのを見て、源氏は予期していたことではあっても、過去に経験しなかった不快さを始終味わうのに堪えがたくなって、人との交際もあまりしないのであった。左大臣も不愉快であまり御所へも出なかった。亡(な)くなった令嬢へ東宮のお話があったにもかかわらず源氏の妻にさせたことで太后は含んでおいでになった。右大臣との仲は初めからよくなかった上に、左大臣は前代にいくぶん専横的にも政治を切り盛りしたのであったから、当帝の外戚として右大臣が得意になっているのに対しては喜ばないのは道理である。源氏は昔の日に変わらずよく左大臣家を訪(たず)ねて行き故夫人の女房たちを愛護してやることを忘れなかった。非常に若君を源氏の愛することにも大臣家の人たちは感激していて、そのためにまたいっそう小公子は大切がられた。過去の源氏の君は社会的に見てあまりに幸福過ぎた、見ていて目まぐるしい気がするほどであったが、このごろは通っていた恋人たちとも双方の事情から関係が絶えてしまったのも多かったし、それ以下の軽い関係の恋人たちの家を訪ねて行くようなことにも、もうきまりの悪さを感じる源氏であったから、余裕ができてはじめてのどかな家庭の主人(あるじ)になっていた。兵部卿(ひょうぶきょう)の宮の王女の幸福であることを言ってだれも祝った。少納言なども心のうちでは、この結果を得たのは祖母の尼君が姫君のことを祈った熱誠が仏に通じたのであろうと思っていた。父の親王も朗らかに二条の院に出入りしておいでになった。夫人から生まれて大事がっておいでになる王女方にたいした幸運もなくて、ただ一人がすぐれた運命を負った女と見える点で、継母にあたる夫人は嫉妬(しっと)を感じていた。紫夫人は小説にある継娘(ままこ)の幸運のようなものを実際に得ていたのである。
 加茂の斎院は父帝の喪のために引退されたのであって、そのかわりに式部卿(しきぶきょう)の宮の朝顔の姫君が職をお継ぎになることになった。伊勢へ女王が斎宮になって行かれたことはあっても、加茂の斎院はたいてい内親王の方がお勤めになるものであったが、相当した女御腹(にょごばら)の宮様がおいでにならなかったか、この卜定(ぼくじょう)があったのである。源氏は今もこの女王に恋を持っているのであるが、結婚も不可能な神聖な職にお決まりになった事を残念に思った。女房の中将は今もよく源氏の用を勤めたから、手紙などは始終やっているのである。当代における自身の不遇などは何とも思わずに、源氏は恋を歎(なげ)いていた、斎院と尚侍(ないしのかみ)のために。帝は院の御遺言のとおりに源氏を愛しておいでになったが、お若い上に、きわめてお気の弱い方でいらせられて、母后や祖父の大臣の意志によって行なわれることをどうあそばすこともおできにならなくて、朝政に御不満足が多かったのである。昔よりもいっそう恋の自由のない境遇にいても尚侍は文(ふみ)によって絶えず恋をささやく源氏を持っていて幸福感がないでもなかった。
 宮中で行なわせられた五壇の御修法(みずほう)のために帝が御謹慎をしておいでになるころ、源氏は夢のように尚侍へ近づいた。昔の弘徽殿の細殿(ほそどの)の小室へ中納言の君が導いたのである。御修法のために御所へ出入りする人の多い時に、こうした会合が、自分の手で行なわれることを中納言の君は恐ろしく思った。朝夕に見て見飽かぬ源氏と稀(まれ)に見るのを得た尚侍の喜びが想像される。女も今が青春の盛りの姿と見えた。貴女(きじょ)らしい端厳さなどは欠けていたかもしれぬが、美しくて、艶(えん)で、若々しくて男の心を十分に惹(ひ)く力があった。もうつい夜が明けていくのではないかと思われる頃、すぐ下の庭で、
「宿直(とのい)をいたしております」
 と高い声で近衛(このえ)の下士が言った。中少将のだれかがこの辺の女房の局(つぼね)へ来て寝ているのを知って、意地悪な男が教えてわざわざ挨拶(あいさつ)をさせによこしたに違いないと源氏は聞いていた。御所の庭の所々をこう言ってまわるのは感じのいいものであるがうるさくもあった。また庭のあなたこなたで「寅(とら)一つ」(午前四時)と報じて歩いている。

心からかたがた袖(そで)を濡(ぬ)らすかな明くと教ふる声につけても

 尚侍のこう言う様子はいかにもはかなそうであった。

歎(なげ)きつつ我が世はかくて過ぐせとや胸のあくべき時ぞともなく

 落ち着いておられなくて源氏は別れて出た。まだ朝に遠い暁月夜で、霧が一面に降っている中を簡単な狩衣(かりぎぬ)姿で歩いて行く源氏は美しかった。この時に承香殿(じょうきょうでん)の女御(にょご)の兄である頭中将(とうのちゅうじょう)が、藤壺(ふじつぼ)の御殿から出て、月光の蔭(かげ)になっている立蔀(たてじとみ)の前に立っていたのを、不幸にも源氏は知らずに来た。批難の声はその人たちの口から起こってくるであろうから。
 源氏は尚侍とまた新しく作ることのできた関係によっても、隙(すき)をまったくお見せにならない中宮(ちゅうぐう)をごりっぱであると認めながらも、恋する心に恨めしくも悲しくも思うことが多かった。御所へ参内することも気の進まない源氏であったが、そのために東宮にお目にかからないことを寂しく思っていた。東宮のためにはほかの後援者がなく、ただ源氏だけを中宮も力にしておいでになったが、今になっても源氏は宮を御当惑させるようなことを時々した。院が最後まで秘密の片はしすらご存じなしにお崩(かく)れになったことでも、宮は恐ろしい罪であると感じておいでになったのに、今さらまた悪名(あくみょう)の立つことになっては、自分はともかくも東宮のために必ず大きな不幸が起こるであろうと、宮は御心配になって、源氏の恋を仏力(ぶつりき)で止めようと、ひそかに祈祷(きとう)までもさせてできる限りのことを尽くして源氏の情炎から身をかわしておいでになるが、ある時思いがけなく源氏が御寝所に近づいた。慎重に計画されたことであったから宮様には夢のようであった。源氏が御心(みこころ)を動かそうとしたのは偽らぬ誠を盛った美しい言葉であったが、宮はあくまでも冷静をお失いにならなかった。ついにはお胸の痛みが起こってきてお苦しみになった。命婦(みょうぶ)とか弁(べん)とか秘密に与(あずか)っている女房が驚いていろいろな世話をする。源氏は宮が恨めしくてならない上に、この世が真暗(まっくら)になった気になって呆然(ぼうぜん)として朝になってもそのまま御寝室にとどまっていた。御病気を聞き伝えて御帳台のまわりを女房が頻繁(ひんぱん)に往来することにもなって、源氏は無意識に塗籠(ぬりごめ)(屋内の蔵)の中へ押し入れられてしまった。源氏の上着などをそっと持って来た女房も怖(おそろ)しがっていた。宮は未来と現在を御悲観あそばしたあまりに逆上(のぼせ)をお覚えになって、翌朝になってもおからだは平常のようでなかった。
 兄君の兵部卿の宮とか中宮大夫などが参殿し、祈りの僧を迎えようなどと言われているのを源氏は苦しく聞いていたのである。日が暮れるころにやっと御病悩はおさまったふうであった。源氏が塗籠で一日を暮らしたとも中宮様はご存じでなかった。命婦や弁なども御心配をさせまいために申さなかったのである。宮は昼の御座へ出てすわっておいでになった。御恢復(かいふく)になったものらしいと言って、兵部卿の宮もお帰りになり、お居間の人数が少なくなった。平生からごく親しくお使いになる人は多くなかったので、そうした人たちだけが、そこここの几帳(きちょう)の後ろや襖子(からかみ)の蔭(かげ)などに侍していた。命婦などは、
「どう工夫(くふう)して大将さんをそっと出してお帰ししましょう。またそばへおいでになると今夜も御病気におなりあそばすでしょうから、宮様がお気の毒ですよ」
 などとささやいていた。源氏は塗籠の戸を初めから細目にあけてあった所へ手をかけて、そっとあけてから、屏風(びょうぶ)と壁の間を伝って宮のお近くへ出て来た。ご存じのない宮のお横顔を蔭からよく見ることのできる喜びに源氏は胸をおどらせ涙も流しているのである。
「まだ私は苦しい。死ぬのではないかしら」
 とも言って外のほうをながめておいでになる横顔が非常に艶(えん)である。これだけでも召し上がるようにと思って、女房たちが持って来たお菓子の台がある、そのほかにも箱の蓋(ふた)などに感じよく調理された物が積まれてあるが、宮はそれらにお気がないようなふうで、物思いの多い様子をして静かに一所をながめておいでになるのがお美しかった。髪の質、頭の形、髪のかかりぎわなどの美しさは西の対の姫君とそっくりであった。よく似たことなどを近ごろは初めほど感ぜずにいた源氏は、今さらのように驚くべく酷似した二女性であると思って、苦しい片恋のやり場所を自分は持っているのだという気が少しした。高雅な所も別人とは思えないのであるが、初恋の宮は思いなしか一段すぐれたものに見えた。華麗な気の放たれることは昔にましたお姿であると思った源氏は前後も忘却して、そっと静かに帳台へ伝って行き、宮のお召し物の褄(つま)先を手で引いた。源氏の服の薫香(くんこう)の香(か)がさっと立って、宮は様子をお悟りになった。驚きと恐れに宮は前へひれ伏しておしまいになったのである。せめて見返ってもいただけないのかと、源氏は飽き足らずも思い、恨めしくも思って、お裾(すそ)を手に持って引き寄せようとした。宮は上着を源氏の手にとめて、御自身は外のほうへお退(の)きになろうとしたが、宮のお髪(ぐし)はお召し物とともに男の手がおさえていた。宮は悲しくてお自身の薄倖(はっこう)であることをお思いになるのであったが、非常にいたわしい御様子に見えた。源氏も今日の高い地位などは皆忘れて、魂も顛倒(てんとう)させたふうに泣き泣き恨みを言うのであるが、宮は心の底からおくやしそうでお返辞もあそばさない。ただ、
「私はからだが今非常によくないのですから、こんな時でない機会がありましたら詳しくお話をしようと思います」
 とお言いになっただけであるのに、源氏のほうでは苦しい思いを告げるのに千言万語を費やしていた。さすがに身に沁(し)んでお思われになることも混じっていたに違いない。以前になかったことではないが、またも罪を重ねることは堪えがたいことであると思召(おぼしめ)す宮は、柔らかい、なつかしいふうは失わずに、しかも迫る源氏を強く避けておいでになる。ただこんなふうで今夜も明けていく。この上で力で勝つことはなすに忍びない清い気高(けだか)さの備わった方であったから、源氏は、
「私はこれだけで満足します。せめて今夜ほどに接近するのをお許しくだすって、今後も時々は私の心を聞いてくださいますなら、私はそれ以上の無礼をしようとは思いません」
 こんなふうに言って油断をおさせしようとした。今後の場合のために。
 こうした深刻な関係でなくても、これに類したあぶない逢瀬(おうせ)を作る恋人たちは別れが苦しいものであるから、まして源氏にここは離れがたい。夜が明けてしまったので王命婦と弁とが源氏の退去をいろいろに言って頼んだ。宮様は半ば死んだようになっておいでになるのである。
「恥知らずの男がまだ生きているかとお思われしたくありませんから、私はもうそのうち死ぬでしょう。そしたらまた死んだ魂がこの世に執着を持つことで罰せられるのでしょう」
 恐ろしい気がするほど源氏は真剣になっていた。

「逢ふことの難(かた)きを今日に限らずばなほ幾世をか歎(なげ)きつつ経ん

 どうなってもこうなっても私はあなたにつきまとっているのですよ」
 宮は吐息(といき)をおつきになって、

長き世の恨みを人に残してもかつは心をあだとしらなん

 とお言いになった。源氏の言葉をわざと軽く受けたようにしておいでになる御様子の優美さに源氏は心を惹(ひ)かれながらも宮の御軽蔑(けいべつ)を受けるのも苦しく、わがためにも自重しなければならないことを思って帰った。
 あれほど冷酷に扱われた自分はもうその方に顔もお見せしたくない。同情をお感じになるまでは沈黙をしているばかりであると源氏は思って、それ以来宮へお手紙を書かないでいた。ずっともう御所へも東宮へも出ずに引きこもっていて、夜も昼も冷たいお心だとばかり恨みながらも、自分の今の態度を裏切るように恋しさがつのった。魂もどこかへ行っているようで、病気にさえかかったらしく感ぜられた。心細くて人間的な生活を捨てないからますます悲しみが多いのである、自分などは僧房の人になるべきであると、こんな決心をしようとする時にいつも思われるのは若い夫人のことであった。優しく自分だけを頼みにして生きている妻を捨てえようとは思われないのであった。
 宮のお心も非常に動揺したのである。源氏はその時きり引きこもって手紙も送って来ないことで命婦などは気の毒がった。宮も東宮のためには源氏に好意を持たせておかねばならないのに、自分の態度から人生を悲観して僧になってしまわれることになってはならぬとさすがに思召すのであった。そうといってああしたことが始終あっては瑕(きず)を捜し出すことの好きな世間はどんな噂(うわさ)を作るかが想像される。自分が尼になって、皇太后に不快がられている后の位から退いてしまおうと、こうこのごろになって宮はお思いになるようになった。院が自分のためにどれだけ重い御遺言をあそばされたかを考えると何ごとも当代にそれが実行されていないことが思われる。漢の初期の戚(せき)夫人が呂后(りょこう)に苛(さいな)まれたようなことまではなくても、必ず世間の嘲笑(ちょうしょう)を負わねばならぬ人に自分はなるに違いないと中宮はお思いになるのである。これを転機にして尼の生活にはいるのがいちばんよいことであるとお考えになったが、東宮にお逢いしないままで姿を変えてしまうことはおかわいそうなことであるとお思いになって、目だたぬ形式で御所へおはいりになった。源氏はそんな時でなくても十二分に好意を表する慣(なら)わしであったが、病気に托(たく)して供奉(ぐぶ)もしなかった。贈り物その他は常に変わらないが、来ようとしないことはよくよく悲観しておいでになるに違いないと、事情を知っている人たちは同情した。
 東宮はしばらくの間に美しく御成長しておいでになった。ひさびさ母宮とお逢いになった喜びに夢中になって、甘えて御覧になったりもするのが非常におかわいいのである。この方から離れて信仰の生活にはいれるかどうかと御自身で疑問が起こる。しかも御所の中の空気は、時の推移に伴う人心の変化をいちじるしく見せて人生は無常であるとお教えしないではおかなかった。太后の復讐心(ふくしゅうしん)に燃えておいでになることも面倒(めんどう)であったし、宮中への出入りにも不快な感を与える官辺のことも堪えられぬほど苦しくて、自分が現在の位置にいることは、かえって東宮を危うくするものでないかなどとも煩悶(はんもん)をあそばすのであった。
「長くお目にかからないでいる間(ま)に、私の顔がすっかり変わってしまったら、どうお思いになりますか」
 と中宮がお言いになると、じっと東宮はお顔を見つめてから、
「式部のようにですか。そんなことはありませんよ」
 とお笑いになった。たよりない御幼稚さがおかわいそうで、
「いいえ。式部は年寄りですから醜いのですよ。そうではなくて、髪なんか式部よりも短くなって、黒い着物などを着て、夜居(よい)のお坊様のように私はなろうと思うのですから、今度などよりもっと長くお目にかかれませんよ」
 宮がお泣きになると、東宮はまじめな顔におなりになって、
「長く御所へいらっしゃらないと、私はお逢いしたくてならなくなるのに」
 とお言いになったあとで、涙がこぼれるのを、恥ずかしくお思いになって顔をおそむけになった。お肩にゆらゆらとするお髪(ぐし)がきれいで、お目つきの美しいことなど、御成長あそばすにしたがってただただ源氏の顔が一つまたここにできたとより思われないのである。お歯が少し朽ちて黒ばんで見えるお口に笑(え)みをお見せになる美しさは、女の顔にしてみたいほどである。こうまで源氏に似ておいでになることだけが玉の瑕(きず)であると、中宮がお思いになるのも、取り返しがたい罪で世間を恐れておいでになるからである。
 源氏は中宮を恋しく思いながらも、どんなに御自身が冷酷であったかを反省おさせする気で引きこもっていたが、こうしていればいるほど見苦しいほど恋しかった。この気持ちを紛らそうとして、ついでに秋の花野もながめがてらに雲林院へ行った。源氏の母君の桐壺(きりつぼ)の御息所(みやすどころ)の兄君の律師(りっし)がいる寺へ行って、経を読んだり、仏勤めもしようとして、二、三日こもっているうちに身にしむことが多かった。木立ちは紅葉(もみじ)をし始めて、そして移ろうていく秋草の花の哀れな野をながめていては家も忘れるばかりであった。学僧だけを選んで討論をさせて聞いたりした。場所が場所であるだけ人生の無常さばかりが思われたが、その中でなお源氏は恨めしい人に最も心を惹(ひ)かれている自分を発見した。朝に近い月光のもとで、僧たちが閼伽(あか)を仏に供える仕度(したく)をするのに、からからと音をさせながら、菊とか紅葉とかをその辺いっぱいに折り散らしている。こんなことは、ちょっとしたことではあるが、僧にはこんな仕事があって退屈を感じる間もなかろうし、未来の世界に希望が持てるのだと思うとうらやましい、自分は自分一人を持てあましているではないかなどと源氏は思っていた。律師が尊い声で「念仏衆生(ねんぶつしゆじやう)摂取不捨(せつしゆふしや)」と唱えて勤行(ごんぎょう)をしているのがうらやましくて、この世が自分に捨てえられない理由はなかろうと思うのといっしょに紫の女王(にょおう)が気がかりになったというのは、たいした道心でもないわけである。幾日かを外で暮らすというようなことをこれまで経験しなかった源氏は恋妻に手紙を何度も書いて送った。
出家ができるかどうかと試みているのですが、寺の生活は寂しくて、心細さがつのるばかりです。もう少しいて法師たちから教えてもらうことがあるので滞留しますが、あなたはどうしていますか。
 などと檀紙に飾り気もなく書いてあるのが美しかった。

あさぢふの露の宿りに君を置きて四方(よも)の嵐(あらし)ぞしづ心なき

 という歌もある情のこもったものであったから紫夫人も読んで泣いた。返事は白い式紙(しきし)に、

風吹けば先(ま)づぞ乱るる色かはる浅茅(あさぢ)が露にかかるささがに

 とだけ書かれてあった。
「字はますますよくなるようだ」
 と独言(ひとりごと)を言って、微笑しながらながめていた。始終手紙や歌を書き合っている二人は、夫人の字がまったく源氏のに似たものになっていて、それよりも少し艶(えん)な女らしいところが添っていた。どの点からいっても自分は教育に成功したと源氏は思っているのである。斎院のいられる加茂はここに近い所であったから手紙を送った。女房の中将あてのには、
物思いがつのって、とうとう家を離れ、こんな所に宿泊していますことも、だれのためであるかとはだれもご存じのないことでしょう。
 などと恨みが述べてあった。当の斎院には、

かけまくも畏(かしこ)けれどもそのかみの秋思ほゆる木綿襷(ゆふだすき)かな

昔を今にしたいと思いましてもしかたのないことですね。自分の意志で取り返しうるもののように。
 となれなれしく書いた浅緑色の手紙を、榊(さかき)に木綿(ゆう)をかけ神々(こうごう)しくした枝につけて送ったのである。中将の返事は、
同じような日ばかりの続きます退屈さからよく昔のことを思い出してみるのでございますが、それによってあなた様を聯想(れんそう)することもたくさんございます。しかしここでは何も現在へは続いて来ていないのでございます、別世界なのですから。
 まだいろいろと書かれてあった。女王のは木綿(ゆう)の片(はし)に、

そのかみやいかがはありし木綿襷(ゆふだすき)心にかけて忍ぶらんゆゑ

 とだけ書いてあった。斎院のお字には細かな味わいはないが、高雅で漢字のくずし方など以前よりももっと巧みになられたようである。ましてその人自身の美はどんなに成長していることであろうと、そんな想像をして胸をとどろかせていた。神罰を思わないように。
 源氏はまた去年の野の宮の別れがこのころであったと思い出して、自分の恋を妨げるものは、神たちであるとも思った。むずかしい事情が間にあればあるほど情熱のたかまる癖をみずから知らないのである。それを望んだのであったら加茂の女王との結婚は困難なことでもなかったのであるが、当時は暢気(のんき)にしていて、今さら後悔の涙を無限に流しているのである。斎院も普通の多情で書かれる手紙でないものを、これまでどれだけ受けておいでになるかしれないのであって、源氏をよく理解したお心から手紙の返事もたまにはお書きになるのである。厳正にいえば、神聖な職を持っておいでになって、少し謹慎が足りないともいうべきことであるが。
 天台の経典六十巻を読んで、意味の難解な所を僧たちに聞いたりなどして源氏が寺にとどまっているのを、僧たちの善行によって仏力(ぶつりき)でこの人が寺へつかわされたもののように思って、法師の名誉であると、下級の輩までも喜んでいた。静かな寺の朝夕に人生を観じては帰ることがどんなにいやなことに思われたかしれないのであるが、紫の女王一人が捨てがたい絆(ほだし)になって、長く滞留せずに帰ろうとする源氏は、その前に盛んな誦経(ずきょう)を行なった。あるだけの法師はむろん、その辺の下層民にも物を多く施した。帰って行く時には、寺の前の広場のそこここにそうした人たちが集まって、涙を流しながら見送っていた。諒闇(りょうあん)中の黒い車に乗った喪服姿の源氏は平生よりもすぐれて見えるわけもないが、美貌(びぼう)に心の惹(ひ)かれない人もなかった。
 夫人は幾日かのうちに一段ときれいになったように思われた。高雅に落ち着いている中に、源氏の愛を不安がる様子の見えるのが可憐(かれん)であった。幾人かの人を思う幾つかの煩悶(はんもん)は外へ出て、この人の目につくほどのことがあったのであろう、「色変はる」というような歌を詠(よ)んできたのではないかと哀れに思って、源氏は常よりも強い愛を夫人に感じた。山から折って帰った紅葉(もみじ)は庭のに比べるとすぐれて紅(あか)くきれいであったから、それを、長く何とも手紙を書かないでいることによって、また堪えがたい寂しさも感じている源氏は、ただ何でもない贈り物として、御所においでになる中宮(ちゅうぐう)の所へ持たせてやった。手紙は命婦(みょうぶ)へ書いたのであった。
珍しく御所へおはいりになりましたことを伺いまして、両宮様いずれへも御無沙汰(ごぶさた)しておりますので、その際にも上がってみたかったのですが、しばらく宗教的な勉強をしようとその前から思い立っていまして、日どりなどを決めていたものですから失礼いたしました。紅葉(もみじ)は私一人で見ていましては、錦を暗い所へ置いておく気がしてなりませんから持たせてあげます。よろしい機会に宮様のお目にかけてください。
 と言うのである。実際珍しいほどにきれいな紅葉であったから、中宮も喜んで見ておいでになったが、その枝に小さく結んだ手紙が一つついていた。女房たちがそれを見つけ出した時、宮はお顔の色も変わって、まだあの心を捨てていない、同情心の深いりっぱな人格を持ちながら、こうしたことを突発的にする矛盾があの人にある、女房たちも不審を起こすに違いないと反感をお覚えになって、瓶(かめ)に挿(さ)させて、庇(ひさし)の間(ま)の柱の所へ出しておしまいになった。
 ただのこと、東宮の御上についてのことなどには信頼あそばされることを、丁寧に感情を隠して告げておよこしになる中宮を、どこまでも理智(りち)だけをお見せになると源氏は恨んでいた。東宮のお世話はことごとく源氏がしていて、それを今度に限って冷淡なふうにしてみせては人が怪しがるであろうと思って、源氏は中宮が御所をお出になる日に行った。まず帝(みかど)のほうへ伺ったのである。帝はちょうどお閑暇(ひま)で、源氏を相手に昔の話、今の話をいろいろとあそばされた。帝の御容貌は院によく似ておいでになって、それへ艶(えん)な分子がいくぶん加わった、なつかしみと柔らかさに満ちた方でましますのである。帝も源氏と同じように、源氏によって院のことをお思い出しになった。尚侍(ないしのかみ)との関係がまだ絶えていないことも帝のお耳にはいっていたし、御自身でお気づきになることもないのではなかったが、それもしかたがない、今はじめて成り立った間柄ではなく、自分の知るよりも早く源氏のほうがその人の情人であったのであるからと思召(おぼしめ)して、恋愛をするのに最もふさわしい二人であるから、やむをえないともお心の中で許しておいでになって、源氏をとがめようなどとは、少しも思召さないのである。詩文のことで源氏に質問をあそばしたり、また風流な歌の話をかわしたりするうちに、斎宮の下向の式の日のこと、美しい人だったことなども帝は話題にあそばした。源氏も打ち解けた心持ちになって、野の宮の曙(あけぼの)の別れの身にしんだことなども皆お話しした。二十日(はつか)の月がようやく照り出して、夜の趣がおもしろくなってきたころ、帝は、
「音楽が聞いてみたいような晩だ」
 と仰せられた。
「私は今晩中宮が退出されるそうですから御訪問に行ってまいります。院の御遺言を承っていまして、だれもほかにお世話をする人もない方でございますから、親切にしてさしあげております。東宮と私どもとの関係からもお捨てしておけませんのです」
 と源氏は奏上した。
「院は東宮を自分の子と思って愛するようにと仰せなすったからね、自分はどの兄弟よりも大事に思っているが、目に立つようにしてもと思って、自分で控え目にしている。東宮はもう字などもりっぱなふうにお書きになる。すべてのことが平凡な自分の不名誉をあの方が回復してくれるだろうと頼みにしている」
「それはいろんなことを大人のようになさいますが、まだ何と申しても御幼齢ですから」
 源氏は東宮の御勉学などのことについて奏上をしたのちに退出して行く時皇太后の兄である藤大納言の息子(むすこ)の頭(とう)の弁(べん)という、得意の絶頂にいる若い男は、妹の女御(にょご)のいる麗景殿(れいげいでん)に行く途中で源氏を見かけて、「白虹(はくこう)日を貫けり、太子懼(お)ぢたり」と漢書の太子丹が刺客を秦王(しんのう)に放った時、その天象(てんしょう)を見て不成功を恐れたという章句をあてつけにゆるやかに口ずさんだ。源氏はきまり悪く思ったがとがめる必要もなくそのまま素知らぬふうで行ってしまったのであった。
「ただ今まで御前におりまして、こちらへ上がりますことが深更になりました」
 と源氏は中宮に挨拶(あいさつ)をした。明るい月夜になった御所の庭を中宮はながめておいでになって、院が御位(みくらい)においでになったころ、こうした夜分などには音楽の遊びをおさせになって自分をお喜ばせになったことなどと昔の思い出がお心に浮かんで、ここが同じ御所の中であるようにも思召しがたかった。

九重(ここのへ)に霧や隔つる雲の上の月をはるかに思ひやるかな

 これを命婦(みょうぶ)から源氏へお伝えさせになった。宮のお召し物の動く音などもほのかではあるが聞こえてくると、源氏は恨めしさも忘れてまず涙が落ちた。

「月影は見し世の秋に変はらねど隔つる霧のつらくもあるかな

 霞(かすみ)が花を隔てる作用にも人の心が現われるとか昔の歌にもあったようでございます」
 などと源氏は言った。中宮は悲しいお別れの時に、将来のことをいろいろ東宮へ教えて行こうとあそばすのであるが、深くもお心にはいっていないらしいのを哀れにお思いになった。平生は早くお寝(やす)みになるのであるが、宮のお帰りあそばすまで起きていようと思召すらしい。御自身を残して母宮の行っておしまいになることがお恨めしいようであるが、さすがに無理に引き止めようともあそばさないのが御親心には哀れであるに違いなかった。
 源氏は頭の弁の言葉を思うと人知れぬ昔の秘密も恐ろしくて、尚侍にも久しく手紙を書かないでいた。時雨(しぐれ)が降りはじめたころ、どう思ったか尚侍のほうから、

木枯(こがら)しの吹くにつけつつ待ちし間(ま)におぼつかなさの頃(ころ)も経にけり

 こんな歌を送ってきた。ちょうど物の身にしむおりからであったし、どんなに人目を避けてこの手紙が書かれたかを想像しても恋人の情がうれしく思われたし、返事をするために使いを待たせて、唐紙(からかみ)のはいった置き棚(だな)の戸をあけて紙を選び出したり、筆を気にしたりして源氏が書いている返事はただ事であるとは女房たちの目にも見えなかった。相手はだれくらいだろうと肱(ひじ)や目で語っていた。
どんなに苦しい心を申し上げてもお返事がないので、そのかいのないのに私の心はすっかりめいり込んでいたのです。

あひ見ずて忍ぶる頃の涙をもなべての秋のしぐれとや見る

心が通うものでしたなら、通っても来るものでしたなら、空も寂しい色とばかりは見えないでしょう。
 などと情熱のある文字が列(つら)ねられた。こんなふうに女のほうから源氏を誘い出そうとする手紙はほかからも来るが、情のある返事を書くにとどまって、深くは源氏の心にしまないものらしかった。
 中宮は院の御一周忌をお営みになったのに続いてまたあとに法華経(ほけきょう)の八講を催されるはずでいろいろと準備をしておいでになった。十一月の初めの御命日に雪がひどく降った。源氏から中宮へ歌が送られた。

別れにし今日(けふ)は来れども見し人に行き逢(あ)ふほどをいつと頼まん

 中宮のためにもお悲しい日で、すぐにお返事があった。

ながらふるほどは憂(う)けれど行きめぐり今日はその世に逢ふ心地(ここち)して

 巧みに書こうともしてない字が雅趣に富んだ気高(けだか)いものに見えるのも源氏の思いなしであろう。特色のある派手(はで)な字というのではないが決して平凡ではないのである。今日だけは恋も忘れて終日御父の院のために雪の中で仏勤めをして源氏は暮らしたのである。
 十二月の十幾日に中宮の御八講があった。非常に崇厳(すうごん)な仏事であった。五日の間どの日にも仏前へ新たにささげられる経は、宝玉の軸に羅(うすもの)の絹の表紙の物ばかりで、外包みの装飾などもきわめて精巧なものであった。日常の品にも美しい好みをお忘れにならない方であるから、まして御仏(みほとけ)のためにあそばされたことが人目を驚かすほどの物であったことはもっともなことである。仏像の装飾、花机(はなづくえ)の被(おお)いなどの華美さに極楽世界もたやすく想像することができた。初めの日は中宮の父帝の御菩提(ぼだい)のため、次の日は母后のため、三日目は院の御菩提のためであって、これは法華経の第五巻の講義のある日であったから、高官たちも現在の宮廷派の人々に斟酌(しんしゃく)をしていず数多く列席した。今日の講師にはことに尊い僧が選ばれていて「法華経はいかにして得し薪(たきぎ)こり菜摘み水汲(く)み仕へてぞ得し」という歌の唱えられるころからは特に感動させられることが多かった。仏前に親王方もさまざまの捧(ささ)げ物を持っておいでになったが、源氏の姿が最も優美に見えた。筆者はいつも同じ言葉を繰り返しているようであるが、見るたびに美しさが新しく感ぜられる人なのであるからしかたがないのである。最終の日は中宮御自身が御仏に結合を誓わせられるための供養になっていて、御自身の御出家のことがこの儀式の場で仏前へ報告されて、だれもだれも意外の感に打たれた。兵部卿(ひょうぶきょう)の宮のお心も、源氏の大将の心もあわてた。驚きの度をどの言葉が言い現わしえようとも思えない。宮は式の半ばで席をお立ちになって簾中(れんちゅう)へおはいりになった。中宮は堅い御決心を兄宮へお告げになって、叡山(えいざん)の座主(ざす)をお招きになって、授戒のことを仰せられた。伯父(おじ)君にあたる横川(よかわ)の僧都(そうず)が帳中に参ってお髪(ぐし)をお切りする時に人々の啼泣(ていきゅう)の声が宮をうずめた。平凡な老人でさえいよいよ出家するのを見ては悲しいものである。まして何の予告もあそばさずにたちまちに脱履の実行をなされたのであるから、兵部卿の宮も非常にお悲しみになった。参列していた人々も同情の禁ぜられない中宮のお立場と、この寂しい結末の場を拝して泣く者が多かった。院の皇子方は、父帝がどれほど御愛寵(あいちょう)なされたお后(きさき)であったかを、現状のお気の毒さに比べて考えては皆暗然としておいでになった。方々(かたがた)は慰問の御挨拶(あいさつ)をなされたのであるが、源氏は最後に残って、驚きと悲しみに言葉も心も失った気もしたが、人目が考えられ、やっと気を引き立てるようにしてお居間へ行った。落ち着かれずに人々がうろうろしたことや、すすり泣きの声もひとまずやんで、女房は涙をふきながらあなたこなたにかたまっていた。明るい月が空にあって、雪の光と照り合っている庭をながめても、院の御在世中のことが目に浮かんできて堪えがたい気のするのを源氏はおさえて、
「何が御動機になりまして、こんなに突然な御出家をあそばしたのですか」
 と挨拶を取り次いでもらった。
「これはただ今考えついたことではなかったのですが、昨年の悲しみがありました時、すぐにそういたしましては人騒がせにもなりますし、それでまた私自身も取り乱しなどしてはと思いまして」
 例の命婦(みょうぶ)がお言葉を伝えたのである。源氏は御簾(みす)の中のあらゆる様子を想像して悲しんだ。おおぜいの女の衣摺(きぬず)れなどから、身もだえしながら悲しみをおさえているのがわかるのであった。風がはげしく吹いて、御簾の中の薫香(くんこう)の落ち着いた黒方香(くろぼうこう)の煙も仏前の名香のにおいもほのかに洩(も)れてくるのである。源氏の衣服の香もそれに混じって極楽が思われる夜であった。東宮のお使いも来た。お別れの前に東宮のお言いになった言葉などが宮のお心にまた新しくよみがえってくることによって、冷静であろうとあそばすお気持ちも乱れて、お返事の御挨拶を完全にお与えにならないので、源氏がお言葉を補った。だれもだれも常識を失っているといってもよいほど悲しみに心を乱しているおりからであるから、不用意に秘密のうかがわれる恐れのある言葉などは発せられないと源氏は思った。

「月のすむ雲井をかけてしたふともこのよの闇(やみ)になほや惑はん

 私にはそう思えますが、御出家のおできになったお心持ちには敬服いたされます」
 とだけ言って、お居間に女房たちも多い様子であったから源氏は捨てられた男の悲痛な心持ちを簡単な言葉にして告げることもできなかった。

「大方(おほかた)の憂(う)きにつけては厭(いと)へどもいつかこの世を背(そむ)きはつべき

 りっぱな信仰を持つようにはいつなれますやら」
 宮の御挨拶は東宮へのお返事を兼ねたお心らしかった。悲しみに堪えないで源氏は退出した。
 二条の院へ帰っても西の対へは行かずに、自身の居間のほうに一人臥(ぶ)しをしたが眠りうるわけもない。ますます人生が悲しく思われて自身も僧になろうという心の起こってくるのを、そうしては東宮がおかわいそうであると思い返しもした。せめて母宮だけを最高の地位に置いておけばと院は思召したのであったが、その地位も好意を持たぬ者の苦しい圧迫のためにお捨てになることになった。尼におなりになっては后(きさき)としての御待遇をお受けになることもおできにならないであろうし、その上自分までが東宮のお力になれぬことになってはならないと源氏は思うのである。夜通しこのことを考え抜いて最後に源氏は中宮のために尼僧用のお調度、お衣服を作ってさしあげる善行をしなければならぬと思って、年内にすべての物を調えたいと急いだ。王命婦(おうみょうぶ)もお供をして尼になったのである。この人へも源氏は尼用の品々を贈った。こんな場合にりっぱな詩歌(しいか)ができてよいわけであるから、宮の女房の歌などが当時の詳しい記事とともに見いだせないのを筆者は残念に思う。
 源氏が三条の宮邸を御訪問することも気楽にできるようになり、宮のほうでも御自身でお話をあそばすこともあるようになった。
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