連環記
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著者名:幸田露伴 

 慶滋保胤(かものやすたね)は賀茂忠行(かものただゆき)の第二子として生れた。兄の保憲(やすのり)は累代の家の業を嗣(つ)いで、陰陽博士(おんようはかせ)、天文(てんもん)博士となり、賀茂氏(うじ)の宗(そう)として、其系図に輝いている。保胤はこれに譲ったというのでもあるまいが、自分は当時の儒家であり詞雄(しゆう)であった菅原文時の弟子となって文章生(もんじょうせい)となり、姓の文字を改めて、慶滋とした。慶滋という姓があったのでも無く、古い書に伝えてあるように他家の養子となって慶滋となったのでも無く、兄に遜(ゆず)るような意から、賀茂の賀の字に換えるに慶の字を以てし、茂の字に換えるに滋の字を以てしたのみで、異字同義、慶滋はもとより賀茂なのである。よししげの保胤などと読む者の生じたのも自然の勢ではあるが、後に保胤の弟の文章(もんじょう)博士保章の子の為政が善滋(かも)と姓の字を改めたのも同じことであって、為政は文章博士で、続本朝文粋(しょくほんちょうもんずい)の作者の一人である。保胤の兄保憲は十歳許(ばかり)の童児の時、法眼(ほうげん)既に明らかにして鬼神を見て父に注意したと語り伝えられた其道の天才であり、又保胤の父の忠行は後の人の嘖々(さくさく)として称する陰陽道の大(だい)の験者(げんざ)の安倍晴明(あべのせいめい)の師であったのである。此の父兄や弟や姪(おい)を有した保胤ももとより尋常一様のものでは無かったろう。
 保胤の師の菅原文時は、これも亦一通りの人では無かった。当時の文人の源英明(ひであき)にせよ、源為憲にせよ、今猶(なお)其文は本朝文粋にのこり、其才は後人に艶称さるる人々も、皆文時に請(こ)いて其文章詞賦の斧正(ふせい)を受けたということである。ある時御内宴が催されて、詞臣等をして、宮鶯囀二暁光一(きゅうおうぎょうこうにさえずる)いう題を以て詩を賦せしめられた。天皇も文雅の道にいたく御心を寄せられたこととて、
露は濃(こま)やかにして 緩く語る 園花の底、月は落ちて 高く歌ふ 御柳(ぎよりう)の陰。という句を得たまいて、ひそかに御懐(ぎょかい)に協(かな)いたるよう思(おぼ)したまいたる時、文時もまた句を得て、
西の楼 月 落ちたり 花の間(あいだ)の曲、
中殿 灯(ともしび) 残(き)えんとす 竹の裏(うち)の声。
と、つらねた。天皇聞しめして、我こそ此題は作りぬきたりと思いしに、文時が作れるも又すぐれたりと思召(おぼしめ)して、文時を近々と召して、いずれか宜しきや、と仰せられた。文時は、御製(ぎょせい)いみじく、下七字は文時が詩にも優れて候、と申した。これは憚(はばか)りて申すならんと、ふたたび押返し御尋ねになった。文時是非なく、実(まこと)には御製と臣が詩と同じほどにも候か、と申した。猶も憚りて申すことと思召して、まこと然らば誓言(せいごん)を立つべしと、深く詩を好ませたもう余りに逼(せま)って御尋ねあると、文時ここに至って誓言は申上げず、まことには文時が詩は一段と上に居り候、と申して逃げ出してしまったので、御笑いになって、うなずかせたもうたということであった。こういう文時の詩文は菅三品(かんさんぽん)の作として今に称揚せられて伝わっているが、保胤は実に当時の巨匠たる此人の弟子の上席であった。疫病の流行した年、或人の夢に、疫病神が文時の家には押入らず、其の前を礼拝(らいはい)して過ぐるのを見た、と云われたほど時人(じじん)に尊崇(そんそう)された菅三品の門に遊んで、才識日に長じて、声名世に布(し)いた保胤は、試(し)に応じて及第し、官も進んで大内記(だいないき)にまでなった。
 具平(ともひら)親王は文を好ませたまいて、時の文人学士どもを雅友として引見せらるることも多く、紀(き)ノ斉名(まさな)、大江ノ以言(もちとき)などは、いずれも常に伺候したが、中にも保胤は師として遇したもうたのであった。しかし保胤は夙(はや)くより人間の紛紜(ふんうん)にのみ心は傾かないで、当時の風とは言え、出世間の清寂の思に※(むね)[#「匈/月」、922-上-15]が染(そ)みていたので、親王の御為に講ずべきことは講じ、訓(おし)えまいらすべきことは訓えまいらせても、其事一トわたり済むと、おのれはおのれで、眼を少し瞑(ねむ)ったようにし、口の中でかすかに何か念ずるようにしていたという。想(おもい)を仏土に致し、仏経の要文なんどを潜かに念誦(ねんじゅ)したことと見える。随分奇異な先生ぶりではあったろうが、何も当面を錯過するのでは無く、寸暇の遊心を聖道(しょうどう)に運んでいるのみであるから、咎(とが)めるべきにはならぬことだったろう。もともと狂言綺語(きぎょ)即ち詩歌を讃仏乗の縁として認めるとした白楽天のような思想は保胤の是(ぜ)としたところであったには疑無い。
 この保胤に対しては親王も他の藻絵(そうかい)をのみ事とする詞客(しかく)に対するとはおのずから別様の待遇をなされたであろうが、それでも詩文の道にかけては御尋ねの出るのは自然の事で、或時当世の文人の品評を御求めになった。そこで保胤は是非無く御答え申上げた。斉名が文は、月の冴えたる良き夜に、やや古りたる檜皮葺(ひわだぶき)の家の御簾(みす)ところどころはずれたる中(うち)に女の箏(そう)の琴弾きすましたるように聞ゆ、と申した。以言はと仰せらるれば、白沙の庭前、翠松(すいしょう)の陰の下に、陵王の舞楽を奏したるに似たり、と申す。大江ノ匡衡(まさひら)は、と御尋ねあれば、鋭士数騎、介冑(かいちゅう)を被(こうむ)り、駿馬(しゅんめ)に鞭(むち)打(う)って、粟津の浜を過ぐるにも似て、其鉾(ほこさき)森然(しんぜん)として当るものも無く見ゆ、と申す。親王興に入りたまいて、さらば足下(そなた)のは、と問わせたまうに、旧上達部(ふるかんだちべ)の檳榔毛(びろうげ)の車に駕(の)りたるが、時に其声を聞くにも似たらん、と申した。長短高下をとかく申さで、おのずから其詩品を有りのままに申したる、まことに唐の司空図(しくうと)が詩品にも優りて、いみじくも美わしく御答え申したと、親王も御感(ぎょかん)あり、当時の人々も嘆賞したのであった。斉名、以言、匡衡、保胤等の文、皆今に存しているから、此評の当っているか、いぬかは、誰にでも検討さるることであるが、評の当否よりも、評の仕方の如何にも韵致(いんち)があって、仙禽(せんきん)おのずから幽鳴を為せる趣があるのは、保胤其人を見るようで面白いと云いたい。
 慾を捨て道に志すに至る人というものは、多くは人生の磋躓(さち)にあったり、失敗窮困に陥ったりして、そして一旦開悟して頭(こうべ)を回(めぐ)らして今まで歩を進めた路とは反対の路へ歩むものであるが、保胤には然様(そう)した機縁があって、それから転向したとは見えない。自然に和易の性、慈仁の心が普通人より長(た)けた人で、そして儒教の仁、仏道の慈ということを、素直に受入れて、人は然様あるべきだと信じ、然様ありたいと念じ、学問修証の漸(ようや)く進むに連れて、愈々(いよいよ)日に月に其傾向を募らせ、又其傾向の愈々募らんことを祈求(きぐ)して已(や)まぬのをば、是(これ)真実道、是無上道、是清浄道(しょうじょうどう)、是安楽道と信じていたに疑無い。それで保胤は性来慈悲心の強い上に、自ら強いてさえも慈悲心に住していたいと策励していたことであろうか、こういうことが語り伝えられている。如何なる折であったか、保胤は或時往来繁き都の大路の辻に立った。大路の事であるから、貴(たか)き人も行き、賤(ひく)き者も行き、職人も行き、物売りも行き、老人も行けば婦人も行き、小児も行けば壮夫も行く、亢々然(こうこうぜん)と行くものもあれば、踉蹌(ろうそう)として行くものもある。何も大路であるから不思議なことは無い。たまたま又非常に重げな嵩高(かさだか)の荷を負うて喘(あえ)ぎ喘ぎ大車の軛(くびき)につながれて涎(よだれ)を垂れ脚を踏張(ふんば)って行く牛もあった。これもまた牛馬が用いられた世の事で何の不思議もないことであった。牛は力の限りを尽して歩いている。しかも牛使いは力(つと)むること猶(なお)足らずとして、これを笞(むち)うっている。笞の音は起って消え、消えて復(また)起る。これも世の常、何の不思議も無いことである。しかし保胤は仏教の所謂(いわゆる)六道の辻にも似た此辻の景色を見て居る間に、揚々たる人、□々(くく)たる人、営々汲々(きゅうきゅう)、戚々(せきせき)たる人、鳴呼(ああ)鳴呼、世法は亦復是(かく)の如きのみと思ったでもあったろう後に、老牛が死力を尽して猶笞(しもと)を受くるのを見ては、ああ、疲れたる牛、厳しき笞、荷は重く途(みち)は遠くして、日は熾(さか)りに土は焦がる、飲まんとすれど滴水(しずく)も得ぬ其苦しさや抑(そも)如何ばかりぞや、牛目づかいと云いて人の疎(うと)む目づかいのみに得知らぬ意(こころ)を動かして何をか訴うるや、鳴呼、牛、汝何ぞ拙(つたな)くも牛とは生れしぞ、汝今抑々(そもそも)何の罪ありて其苦を受くるや、と観ずる途端に発矢(はっし)と復笞の音すれば、保胤はハラハラと涙を流して、南無(なむ)、救わせたまえ、諸仏菩薩(ぼさつ)、南無仏、南無仏、と念じたというのである。こういうことが一度や二度では無く、又或は直接方便の有った場合には牛馬其他の当面の苦を救ってやったことも度々あったので、其噂は遂に今日にまで遺り伝わったのであろう。服牛乗馬は太古(たいこ)からの事で、世法から云えば保胤の所為の如きはおろかなことであるが、是の如くに感ずるのが、いつわりでも何でもなく、又是の如くに感じ是の如くに念ずるのを以て正である善であると信じている人に対しては、世法からの智愚の判断の如きは本より何ともすることの出来ぬ、力無いものである。又仏法から云っても是の如く慈悲の念のみの亢張するのが必ずしも可なるのでは無く、場合によっては是の如きは魔境に墜(お)ちたものとして弾呵(だんか)してある経文もあるが、保胤のは慈念や悲念が亢(たか)ぶって、それによって非違に趨(はし)るに至ったのでも何でもないから、本より非難すべくも無いのである。
 ただし世法は慈仁のみでは成立たぬ、仁の向側と云っては少しおかしいが、義というものが立てられていて、義は利の和(か)なりとある。仁のみ過ぎて、利の和を失っては、不埒(ふらち)不都合になって、やや無茶苦茶になって終(しま)う。で、保胤の慈仁一遍の調子では、保胤自身を累することの起るのも自然のことである。しかしそれも純情で押切る保胤の如き人に取っては、世法の如きは、灯芯(とうすみ)の縄張同様だと云って終われればそれまでである。或時保胤は大内記の官のおもて、催されて御所へ参入しかけた。衛門府(えもんふ)というのが御門警衛の府であって、左右ある。其の左衛門の陣あたりに、女が実に苦しげに泣いて立っていた。牛にさえ馬にさえ悲憐(ひれん)の涙を惜まぬ保胤である、若い女の苦しみ泣いているのを見て、よそめに過そうようは無い。つと立寄って、何事があって其様には泣き苦むぞ、と問慰めてやった。女は答えわずらったが親切に問うてくれるので、まことは主人(あるじ)の使にて石の帯を人に借りて帰り候が、路にておろかにも其(そ)を取りおとして失い、さがし求むれど似たるものもなく、いかにともすべきようなくて、土に穴あらば入りても消えんと思い候、主人の用を欠き、人さまの物を失い、生きても死にても身の立つべき瀬の有りとしも思えず、と泣きさくりつつ、たどたどしく言った。石の帯というは、黒漆の革(なめしがわ)の帯の背部の飾りを、石で造ったものをいうので、衣冠束帯の当時の朝服の帯であり、位階によりて定制があり、紀伊石帯、出雲石帯等があれば、石の形にも方(けた)なのもあれば丸なのもある。石帯を借らせたとあれば、女の主人は無論参朝に逼(せま)って居て、朋友の融通を仰いだのであろうし、それを遺失(おと)したというのでは、おろかさは云うまでも無いし、其の困惑さも亦言うまでも無いが、主人もこれには何共(なんとも)困るだろう、何とかして遣りたいが、差当って今何とすることもならぬ、是非が無い、自分が今帯びている石帯を貸してやるより道は無いと、自分が今催促されて参入する気忙(きぜわ)しさに、思慮分別の暇(いとま)も無く、よしよし、さらば此の石帯を貸さんほどに疾(と)く疾く主人(あるじ)が方(かた)にもて行け、と保胤は我が着けた石帯を解きてするすると引出して女に与えた。女は仏菩薩(ぼさつ)に会った心地して、掌(て)をすり合せて礼拝し、悦(よろこ)び勇んで、いそいそと忽(たちま)ち走り去ってしまった。保胤は人の急を救い得たのでホッと一ト安心したが、ア、今度は自分が石帯無し、石帯無しでは出るところへ出られぬ。
 いかに仏心仙骨の保胤でも、我ながら、我がおぞましいことをして退けたのには今さら困(こう)じたことであろう。さて片隅に帯もなくて隠れ居たりけるほどに、と今鏡には書かれているが、其片隅とは何処の片隅か、衛門府の片隅でも有ろうか不明である。何にしろまごまごして弱りかえって度を失っていたことは思いやられる。其の風態は想像するだにおかしくて堪えられぬ。公事(くじ)まさにはじまらんとして、保胤が未だ出て来ないでは仕方が無いから、属僚は遅い遅いと待ち兼ねて迎え求めに出て来た。此体を見出しては、互に呆れて変な顔を仕合ったろう。でも公事に急(せ)かれては其(その)儘(まま)には済まされぬので、保胤の面目(めんぼく)無(な)さ、人々の厄介千万さも、御用の進行の大切(だいじ)に押流されて了って人々に世話を焼かれて、御くらの小舎人(こどねり)とかに帯を借りて、辛くも内に入り、公事は勤め果(おお)したということである。
 此の物語は疑わしいかどもあるが、まるで無根のことでも無かろうか。何にせよ随分突飛な談(はなし)ではある。しかし大に歪められた談にせよ、此談によって保胤という人の、俗智の乏しく世法に疎かったことは遺憾無く現わされている。これでは如何に才学が有って、善良な人であっても、世間を危気無しには渡って行かれなかったろうと思われるから、まして官界の立身出世などは、東西相(あい)距(さ)る三十里だったであろう。
 斯様(かよう)な人だったとすれば、余程俗才のある細君でも持っていない限りは家の経済などは埒(らち)も無いことだったに相違無い。そこで志山林に在り、居宅を営まず、などと云われれば、大層好いようだが、実は為(しょ)うこと無しの借家住いで、長い間の朝夕(ちょうせき)を上東門の人の家に暮していた。それでも段々年をとっては、せめて起臥(きが)をわが家でしたいのが人の通情であるから、保胤も六条の荒地の廉(やす)いのを購(あがな)って、吾(わ)が住居(すまい)をこしらえた。勿論立派な邸宅というのでは無かったに疑い無いが、流石(さすが)に自分が造り得たのだから、其居宅の記を作って居る、それが今存している池亭記である。記には先ず京都東西の盛衰を叙して、四条以北、乾艮(けんこん)二方の繁栄は到底自分等の居を営むを許さざるを述べ、六条以北、窮僻(きゅうへき)の地に、十有余畝(ほ)を得たのを幸とし、隆きに就きては小山を為(つく)り、窪きに就きては小池(しょうち)を穿(うが)ち、池の西には小堂を置きて弥陀(みだ)を安んじ、池の東には小閣を開いて書籍(しょじゃく)を納め、池北には低屋を起して妻子を著(つ)けり、と記している。阿弥陀堂を置いたところは、如何にも保胤らしい好みで、いずれささやかな堂ではあろうが、そこへ朝夕の身を運んで、焼香供華(くげ)、礼拝(らいはい)誦経(じゅきょう)、心しずかに称名(しょうみょう)したろう真面目さ、おとなしさは、何という人柄の善いことだろう。凡(およ)そ屋舎十の四、池水九の三、菜園八の二、芹田(きんでん)七の一、とあるので全般の様子は想いやられるが、芹田七の一がおもしろい。池の中の小島の松、汀(みぎわ)の柳、小さな柴橋、北戸の竹、植木屋に褒められるほどのものは何一ツ無く、又先生の眉を皺(しわ)めさせるような牛に搬(はこ)ばせた大石なども更に見えなくても、蕭散(しょうさん)な庭のさまは流石に佳趣無きにあらずと思われる。予行年漸(ようや)く五旬になりなんとして適々(たまたま)少宅有り、蝸(か)其舎に安んじ、虱(しらみ)其の縫を楽む、と言っているのも、けちなようだが、其実を失わないで宜い。家主、職は柱下に在りと雖(いえど)も、心は山中に住むが如し。官爵は運命に任す、天の工均(あまね)し矣。寿夭(じゅよう)は乾坤(けんこん)に付す、丘(きゅう)の祷(いの)ることや久し焉。と内力少し気□(きえん)を揚げて居るのも、ウソでは無いから憎まれぬ。朝に在りて身暫く王事に随(したが)い、家にありては心永く仏那(ぶつな)に帰す、とあるのは、儒家としては感服出来ぬが、此人としては率直の言である。夫(か)の漢の文皇帝を異代の主と為す、と云っているのは、腑に落ちぬ言だが、其後に直(ただち)に、倹約を好みて人民を安んずるを以てなり、とある。一体異代の主というのは変なことであるが、心裏に慕い奉(まつ)る人というほどのことであろう。倹約を好んで人民を安んずる君主は、真に学ぶべき君主であると思っていたからであろうか、何も当時の君主を奢侈(しゃし)で人民を苦める御方(おんかた)と見做(みな)す如き不臣の心を持って居たでは万々(ばんばん)あるまい、ただし倹約を好み人民を安んずるの六字を点出して、此故を以て漢文を崇慕するとしたに就ては、聊(いささ)か意なきにあらずである。それは此記の冒頭に、二十余年以来、東西二京を歴見するに、云々(うんぬん)と書き出して、繁栄の地は、高家比門連堂、其価値二三畝千万銭なるに至れることを述べて居るが、保胤の師の菅原文時が天暦十一年十二月に封事三条を上(たてまつ)ったのは、丁度二十余年前に当って居り、当時文化日に進みて、奢侈の風、月に長じたことは分明(ぶんみょう)であり、文時が奢侈を禁ぜんことを請うの条には、方今高堂連閣、貴賎共に其居を壮(さかん)にし、麗服美衣、貧富同じく其製を寛(ゆたか)にすると云い、富める者は産業を傾け、貧者は家資を失う、と既に其弊の見(あら)わるるを云って居る。物価は騰貴をつづけて、国用漸く足らず、官を売って財に換うるのことまで生ずるに至ったことは、同封事第二条に見え、若(も)し国用を憂うならば則(すなわ)ち毎事必ず倹約を行え、と文時をして切言せしめている。爾後(じご)二十余年、世態愈々(いよいよ)変じて、華奢増長していたろうから、保胤のようなおとなしい者の眼からは、倹約安民の上を慕わしく思ったのであろう。次に、唐の白楽天を異代の師と為す、詩句に長じて仏法に帰するを以てなり、と記している。白氏を詩宗(しそう)としたのは保胤ばかりでなく、当時の人皆然りであった。ただ保胤の白氏を尊ぶ所以(ゆえん)は、詩句に長じたからのみではなく、白氏の仏法に帰せるに取るあるのである。ところが白氏は台所婆なぞを定規にして詩を裁(た)った人なので、気の毒に其の益をも得たろうが其弊をも受け、又白氏は唐人の習い、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の徒であったろうに、保胤は弥陀如来(みだにょらい)の徒であったのはおかしい。次に、晋朝の七賢を異代の友と為す、身は朝に在って志は隠に在るを以てなり、と記している。竹林の七賢は、いずれ洒落(しゃれ)た者どもには相違無いが、懐中に算籌(さんちゅう)を入れていたような食えない男も居て、案外保胤の方が善いお父さんだったか知れない。是(かく)の如く叙し来ったとて、文海の蜃楼(しんろう)、もとより虚実を問うべきではないが、保胤は日々斯様(こう)いう人々と遇っているというのである。そして、近代人世の事、一(いつ)も恋(した)うべき無し、人の師たるものは貴を先にし富を先にして、文を以て次(じ)せず、師無きに如(し)かず、人の友たる者は勢を以てし利を以てし、淡を以て交らず、友無きに如かず、予門をふさぎ戸を閉じ、独り吟じ独り詠ず、と自ら足りて居る。応和以来世人好んで豊屋峻宇(ほうおくしゅんう)を起し、殆ど山節藻□(そうせつ)に至る、其費且つ巨千万、其住纔(わずか)に二三年、古人の造る者居らずと云える、誠なるかな斯言(このげん)、と嘲(あざけ)り、自分の暮歯に及んで小宅を起せるを、老蚕の繭(まゆ)を成すが如しと笑い、其の住むこと幾時ぞや、と自ら笑って居る。老蚕の繭を成せる如し、とは流石に好かった。此記を為せるは、天元五年の冬、保胤四十八九歳ともおもわれる。
 保胤が日本往生極楽記を著わしたのは、此の六条の池亭に在った時であろうと思われる。今存している同書は朝散大夫著作郎慶保胤撰(ちょうさんたいふちょさくろうきょうほういんせん)と署名してある、それに拠れば保胤が未だ官を辞せぬ時の撰にかかると考えられるからである。其書に叙して、保胤みずから、予少(わか)きより日に弥陀仏を念じ、行年四十以後、其志弥々(いよいよ)劇(はげ)しく、口に名号を唱え、心に相好(そうごう)を観じ、行住坐臥(ざが)、暫くも忘れず、造次顛沛(てんぱい)も必ず是に於てす、夫(か)の堂舎塔廟(とうびょう)、弥陀の像有り浄土の図ある者は、礼敬(らいきょう)せざるなく、道俗男女、極楽に志す有り、往生を願う有る者は、結縁(けちえん)せざる莫(な)し、と云って居るから、四十以後、道心日に募りて已(や)み難く、しかも未だ官を辞さぬ頃、自他の信念勧進のために、往生事実の良験(りょうげん)を録して、本朝四十余人の伝をものしたのである。清閑の池亭の中(うち)、仏前唱名(しょうみょう)の間々(あいあい)に、筆を執って仏菩薩(ぼさつ)の引接(いんじょう)を承(う)けた善男善女の往迹(おうじゃく)を物しずかに記した保胤の旦暮(あけくれ)は、如何に塵界(じんかい)を超脱した清浄三昧(しょうじょうさんまい)のものであったろうか。此往生極楽記は其序に見える通り、唐の弘法寺(ぐほうじ)の僧の釈迦才(しゃくかさい)の浄土論中に、安楽往生者二十人を記したのに傚(なら)ったものであるが、保胤往生の後、大江匡房(おおえのまさふさ)は又保胤の往生伝の先蹤(せんしょう)を追うて、続本朝往生伝を撰(せん)している。そして其続伝の中には保胤も採録されているから、法縁微妙(みみょう)、玉環の相連なるが如しである。匡房の続往生伝の叙に、寛和年中、著作郎慶保胤、往生伝を作りて世に伝う、とあるに拠れば、保胤が往生伝を撰したのは、正しく保胤が脱白被緇(ひし)の前年、五十一二歳頃、彼の六条の池亭に在った時ででもあったろう。
 保胤が池亭を造った時は、自ら記して、老蚕の繭(まゆ)を成せるがごとしと云ったが、老蚕は永く繭中(けんちゅう)に在り得無かった。天元五年の冬、其家は成り、其記は作られたが、其翌年の永観元年には倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)の撰者の源順(したがう)は死んだ。順も博学能文の人であったが、後に大江匡房が近世の才人を論じて、橘(たちばな)ノ在列(ありつら)は源ノ順に及ばず、順は以言と慶滋保胤とに及ばず、と断じた。保胤と順とは別に関渉は無かったが、兎死して狐悲む道理で、前輩知友の段々と凋落(ちょうらく)して行くのは、さらぬだに心やさしい保胤には向仏の念を添えもしたろう。世の中は漸(ようや)く押詰って、人民安からず、去年は諸国に盗賊が起り、今年は洛中(らくちゅう)にて猥(みだ)りに兵器を携うるものを捕うるの令が出さるるに至った。これと云って保胤の身近に何事が有ったわけでは無いが、かねてからの道心愈々(いよいよ)熟したからであろう。保胤は遂に寛和二年を以て、自分が折角こしらえた繭を咬(かみ)破(やぶ)って出て、落髪出家の身となって終(しま)った。戒師は誰であったか、何(ど)の書にも見えぬが、保胤ほどの善信の人に取っては、道の傍(かたえ)の杉の樹でも、田の畦(あぜ)の立杭(たちぐい)でも、戒師たるに足るであろうから、誰でも宜かったのである。多武峰(とうのみね)の増賀上人、横川(よかわ)の源信(げんしん)僧都(そうず)、皆いずれも当時の高僧で、しかも保胤には有縁(うえん)の人であったし、其他にも然るべき人で得度させて呉れる者は沢山有ったろうが、まさか野菜売りの老翁が小娘を失った悲みに自剃(じぞ)りで坊主になったというような次第でもあるまいに、更に其噂の伝わらぬのは不思議である。匡房が続往生伝には、子息の冠笄(かんけい)纔(わずか)に畢(おわ)るに及んで、遂に以て入道す、とあるばかりだ。それによれば、何等の機縁が有ったのでも無く、我児が一人で世に立って行かれるようになったので、予(かね)ての心願に任せて至極安穏に、時至って瓜が蔕(へた)から離れるが如く俗世界からコロリと滑り出して後生願い一方の人となったのであろう。保胤の妻及び子は何様(どん)な人であったか、更に分らぬ。子は有ったに相違ないが、傍系の故だか、加茂氏系図にも見当らぬ。思うに妻も子も尋常無異の人で、善人ではあったろうが、所謂(いわゆる)草芥(そうかい)とともに朽ちたものと見える。
 保胤は入道して寂心となった。世間では内記の聖(ひじり)と呼んだ。在俗の間すら礼仏誦経(らいぶつじゅきょう)に身心を打込んだのであるから、寂心となってからは、愈々精神を抖□(とそう)して、問法作善(さぜん)に油断も無かった。伝には、諸国を経歴して広く仏事を作(な)した、とあるが、別に行脚の苦修談(くじゅだん)などは伝えられていない。ただ出家して後わずかに三年目には、自分に身を投げかけて来た者を済度して寂照という名を与えた。此の寂照は後に源信の為に宋に使(つかい)したもので、寂心と源信とはもとより菩提(ぼだい)の友であった。源信の方が寂心よりは少し年が劣って居たかも知らぬが、何にせよ幼きより叡山(えいざん)の慈慧に就いて励精刻苦して学び、顕密双修(そうじゅ)、行解(ぎょうげ)並列の恐ろしい傑物であった。此の源信と寂心との間の一寸面白い談(はなし)は、今其の出処を確記せぬが、閑居之友であったか何だったか、何でも可なり古いもので見たと思うのである。記憶の間違だったら抹殺して貰わねばならぬが。
 或時寂心は横川の慧心院(えしんいん)を訪(と)うた。院は寂然(じゃくねん)として人も無いようであった。他行であるか、禅定であるか、観法であるか、何かは知らぬが、互に日頃から、見ては宜からぬ、見られては宜からぬ如き行儀を互に有(も)たぬ同士であるから、遠慮無く寂心は安詳(あんじょう)にあちこちを見廻った。源信は何処にも居なかった。やがて、ここぞと思う室(へや)の戸を寂心は引開けた。すると是(こ)は如何に、眼の前は茫々漠々(ぼうぼうばくばく)として何一ツ見えず、イヤ何一ツ見えないのでは無い、唯是れ漫々洋々として、大河(だいが)の如く大湖の如く大海(だいかい)の如く、□々(いい)たり瀲々(れんれん)たり、汪々(おうおう)たり滔々(とうとう)たり、洶(きょう)たり沸(ふつ)たり、煙波糢糊(もこ)、水光天に接するばかり、何も無くして水ばかりであった。寂心は後(あと)へ一ト足引いたが、恰(あたか)もそこに在った木枕を取って中へ打込み、さらりと戸をしめて院外へ出て帰ってしまった。源信はそれから身痛を覚えた。寂心が来て卒爾(そつじ)の戯れをしたことが分って、源信はふたたび水を現じて、寂心に其中へ投げ入れたものを除去させた。源信はもとの如くになった。
 此の談は今の人には、ただ是れ無茶苦茶の譚(だん)と聞えるまでであろう。又これを理解のゆくように語りわけることも、敢てするに当るまい。が、これは源信寂心にはじまったことではなく、経に在っては月光童子の物語がこれと同じ事で、童子は水観を初めて成し得た時に、無心の小児に瓦礫(がれき)を水中に投げ入れられて心痛を覚え、それを取出して貰って安穏を回復したというのである。伝に在っては、唐の法進が竹林中で水観を修めた時に、これは家人が縄床上に清水(せいすい)があるのを見て、二ツの小白石を其中に置いたので、それから背痛を覚え、後また其を除いて貰って事無きを得たという談がある。日本でも大安寺の勝業(しょうごう)上人が水観を成(じょう)じた時同じく石を投げ入れられて、これは※(むね)[#「匈/月」、927-中-15]が痛んだという談があって、何も希有(けう)な談でも何でもない。清水だろうが、洪水だろうが、瓦礫だろうが、小白石だろが、何だって構うことは無い、慧心寂心の間に斯様(かよう)な話の事実が有ったろうが、無かったろうがそんなことは実は何様(どう)でもよい、ただ斯様(こう)いう談が伝わっているというだけである。いや実はそれさえ覚束(おぼつか)ないのである。ただ寂心の弟子の寂照が後に源信の弟子同様の態度を取って支那に渡るに及んでいるほどであるから、寂心源信の間には、日ごろ経律(きょうりつ)の論、証解(しょうげ)の談が互に交されていたろうことは想いやられる。勿論文辞に於ては寂心に一日の長があり、法悟に於ては源信に数歩の先んずるものが有ったろうが、源信もまた一乗要訣、往生要集等の著述少からず、寂心と同じように筆硯(ひっけん)の業には心を寄せた人であった。
 寂心は弥陀(みだ)の慈願によって往生浄土を心にかけたのみの、まことに素直な仏徒ではあったが、此時はまだ後の源空以後の念仏宗のような教義が世に行われていたのでなく、したがって捨閉擱抛(しゃへいかくほう)と、他の事は何も彼も擲(なげう)ち捨てて南無阿弥陀仏一点張り、唱名三昧に二六時中を過したというのではなく、後世からは余業雑業(よごうざつごう)と斥(しりぞ)けて終(しま)うようなことにも、正道正業(しょうどうしょうごう)と思惟(しゆい)さるる事には恭敬心(くぎょうしん)を以て如何にも素直にこれを学び之を行(ぎょう)じたのであった。で、横川に増賀の聖が摩訶止観(まかしかん)を説くに当って、寂心は就いて之を承(う)けんとした。
 増賀は参議橘恒平(たちばなのつねひら)の子で、四歳の時につきものがしたように、叡山に上(のぼ)って学問をしよう、と云ったとか伝えられ、十歳から山へ上せられて、慈慧に就いて仏道を学んだ。聡明(そうめい)驚くべく、学は顕密を綜(す)べ、尤(もっと)も止観に邃(ふか)かったと云われている。真の学僧気質(かたぎ)で、俗気が微塵(みじん)ほども無く、深く名利(みょうり)を悪(にく)んで、断岸絶壁の如くに身の取り置きをした。元亨釈書(げんこうしゃしょ)に、安和の上皇、勅して供奉(ぐぶ)と為す、佯狂垢汗(ようきょうこうかん)して逃れ去る、と記しているが、憚(はばか)りも無く馬鹿げた事をして、他に厭(いと)い忌まれても、自分の心に済むように自分は生活するのを可なりとした人であった。自分の師の慈慧が僧正に任ぜられたので、宮中に参って御礼を申上げるに際し、一山の僧侶(そうりょ)、翼従甚だ盛んに、それこそ威儀を厳荘にし、飾り立てて錬り行った。一体本来を云えば樹下石上にあるべき僧侶が、御尊崇下さる故とは云え、世俗の者共月卿雲客(げっけいうんかく)の任官謝恩の如くに、喜びくつがえりて、綺羅(きら)をかざりて宮廷に拝趨(はいすう)するなどということのあるべきでは無いから、増賀には俗僧どもの所為が尽(ことごと)く気に入らなかったのであろう。衛府の大官が立派な長剣を帯びたように、乾鮭(からさけ)の大きな奴を太刀(たち)の如くに腰に佩(お)び、裸同様のあさましい姿で、痩(や)せた牝牛(めうし)の上に乗(のり)跨(また)がり、えらそうな顔をして先駆の列に立って、都大路の諸人環視の中を堂々と打たせたから、群衆は呆れ、衆徒は驚いて、こは何事と増賀を引(ひき)退(さが)らせようとしたが、増賀は声を□(はげ)しくして、僧正の御車の前駈(さきがけ)、我をさしおいて誰が勤むべき、と怒鳴った。盛儀も何様(どう)も散々な打壊(ぶちこわ)しであった。こういう人だったから、或立派な家の法会があって、請われて其処へ趣く途中、是は名聞(みょうもん)のための法会である、名聞のためにすることは魔縁である、と思いついたので、遂に願主と□(むし)りあい的諍議(そうぎ)を仕出して終(しま)って、折角の法会を滅茶滅茶にして帰った。随分厄介といえば厄介な僧である。
 かかる狂気(きちがい)じみたところのある僧であったから、三条の大きさいの宮の尼にならせ給わんとして、増賀を戒師とせんとて召させたまいたる時、途轍(とてつ)も無き□言(そげん)を吐き、悪行をはたらき、殊勝の筵(えん)に列(つらな)れる月卿雲客、貴嬪采女(きひんさいじょ)、僧徒等をして、身戦(おのの)き色失い、慙汗憤涙(ざんかんふんるい)、身をおくところ無からしめたのも、うそでは無かったろうと思われる。それを記している宇治拾遺(うじしゅうい)の巻十二の文は、ここに抄出するさえ忌(いま)わしいから省くが、虎関禅師は、出麁語(しゅっそご)の三字きりで済ませているから上品ではあるが事情は分らぬ。大江匡房は詞藻の豊な人であって、時代も近い人だったから、記せぬわけにもゆかぬと思って書いたのであろうが、流石(さすが)に筆鋒(ひっぽう)も窘蹙(きんしゅく)している。放臭風の三字を以て瀉下(しゃか)したことを写しているが、写し得ていない。誰人以二増賀一為二※[#「謬」の「言」に代えて「女」、928-中-18]※[#「士/毋」、928-中-18]之輩一(たれびとかぞうがをもつてきうあいのはいとなり)、啓二達后□一乎(こうゐにけいたつするものとなすか)、と麁語を訳しているが、これも髣髴(ほうふつ)たるに至らず、訳して真を失っている。仕方が無い。匡房の才の拙なるにあらず、増賀の狂の甚しきのみと言って置こう。釈迦(しゃか)の弟子の中で迦留陀夷(かるだい)というのが、教壇の上で穢語(えご)を放って今に遺り伝わっているが、迦留陀夷のはただ阿房(あほ)げているので、増賀のは其時既に衰老の年であったが、ふたたび宮□などに召出されぬよう斬釘截鉄的(ざんていせってつてき)に狂叫したのだとも云えば云えよう。実に断岸絶壁、近より難い、天台禅ではありながら、祖師禅のような気味のある人であった。
 此の断岸絶壁のような智識に、清浅の流れ静かにして水は玉の如き寂心が魔訶止観(まかしかん)を学び承(う)けようとしたのであった。止観は隋(ずい)の天台智者大師の所説にして門人灌頂(かんじょう)の記したものである。たとい唐の□陵(びりょう)の堪然(たんねん)の輔行弘決(ぶぎょうぐけつ)を未だ寂心が手にし得無かったにせよ、寂心も既に半生を文字の中に暮して、経論の香気も身に浸々(しみじみ)と味わっているのであるから、止観の文の読取れぬわけは無い。然し甚源微妙(じんげんみみょう)の秘奥のところをというので、乞うて増賀の壇下に就いたのである。勿論同会の僧も幾人か有ったのである。増賀はおもむろに説きはじめた。止観明静(めいじょう)、前代未だ聞かず、という最初のところから演(の)べる。其の何様(どう)いうところが寂心の※(むね)[#「匈/月」、928-下-18]に響いたのか、其の意味がか、其の音声(おんじょう)が乎(か)、其の何の章、何の句がか、其の講明が乎演説が乎は、今伝えられて居らぬが、蓋(けだ)し或箇処、或言句からというのでは無く、全体の其時の気味合からでも有ったろうか、寂心は大(おおい)に感激した随喜した。そして堪(たま)り兼ねて流涕(りゅてい)し、すすり泣いた。すると増賀は忽(たちま)ち座を下りて、つかつかと寂心の前へ立つなり、しや、何泣くぞ、と拳(こぶし)を固めて、したたかに寂心が面を張りゆがめた。余の話の声など立てて妨ぐればこそ、感涙を流して謹み聞けるものを打擲(ちょうちゃく)するは、と人々も苦りきって、座もしらけて其儘(そのまま)になって終(しま)った。さてあるべきではないから、寂心も涙を収め、人々も増賀をなだめすかして、ふたたび講説せしめた。と、又寂心は感動して泣いた。増賀は又拳をもって寂心を打った。是(かく)の如くにして寂心の泣くこと三たびに及び、増賀は遂に寂心の誠意誠心に感じ、流石(さすが)の増賀も増賀の方が負けて、それから遂に自分の淵底を尽して止観の奥秘を寂心に伝えたということである。何故(なにゆえ)に泣いたか、何故に打ったか、それは二人のみが知ったことで、同会の衆僧も知らず、後の我等も知らぬとして宜いことだろう。
 寂心が出家した後を続往生伝には、諸国を経歴して、広く仏事を作(な)した、とのみ記してあるばかりで、何様いうことがあったということは載せていないが、既に柔□(にゅうなん)の仏子となった以上は別に何の事も有ろう訳も無い。しかし諸国を経歴したとある其の諸国とは何処何処であったろうかというに、西は播磨(はりま)、東は三河にまで行ったことは、証(しょう)があって分明するから、猶(なお)遠く西へも東へも行ったかと想われる。其の播磨へ行った時の事である。これは堂塔伽藍(がらん)を建つることは、法(のり)の為、仏の為の最善根であるから、寂心も例を追うて、其のため播磨の国に行(ゆ)いて材木勧進をした折と見える。何処(いずこ)の町とも分らぬが、或処で寂心が偶然(ふと)見やると、一人の僧形の者が紙の冠を被(き)て陰陽師(おんようじ)の風体を学び、物々しげに祓(はらえ)するのが眼に入った。もとより陰陽道を以て立っている賀茂の家に生れた寂心であるから、自分は其道に依らないで儒道文辞の人となり、又其の儒を棄て仏(ぶつ)に入って今の身になってはいるものの、陰陽道の如何なるものかの大凡(おおよそ)は知っているのである。陰陽道は歴緯に法(のっと)り神鬼を駆ると称して、世俗の為に吉を致し凶を禳(はら)うものである。儒より云えば巫覡(ふげき)の道、仏より云えば旃陀羅(せんだら)の術である。それが今、かりにも法体(ほったい)して菩提(ぼだい)の大道(たいどう)に入り、人天の導師ともならんと心掛けたと見ゆる者が、紙の冠などして、えせわざするを見ては、堪え得らるればこそ、其時は寂心馬に打乗り威儀かいつくろいて路を打たせていたが、忽(たちま)ち滾(こぼ)るように馬から下(くだ)り、あわてて走り寄って、なにわざし給う御房ぞ、と詰(なじ)り咎(とが)めた。御房とは僧に対する称呼である。御房ぞと咎めたのは流石に寂心で、実に宜かった。しかし紙の冠して其様(そん)な事をするほどの者であったから、却(かえ)ってけげんな顔をしたことであろう。祓(はらえ)を仕候也、と答えた。何しに紙の冠をばしたるぞ、と問えば、祓戸の神たちは法師をば忌みたまえば、祓をするほど少時(しばし)は仕て侍(はべ)るという。寂心今は堪えかねて、声をあげて大に泣きて、陰陽師につかみかかれば、陰陽師は心得かねて只呆れに呆れ、祓をしさして、これは如何に、と云えば、頼みて祓をさせたる主人(あるじ)も驚き呆れた。寂心は猶も独り感じ泣きて、彼(か)の紙の冠を攫(つか)み取りて、引破りて地に抛(なげう)ち、漣々(れんれん)たる涙を止(とど)めもあえず、何たる御房ぞや、尊くも仏弟子となりたまいながら、祓戸の神の忌みたまうとて如来の忌みたまうことを忘れて、世俗に反り、冠などして、無間地獄(むげんじごく)に陥る業を造りたまうぞ、誠に悲しき違乱のことなり、強いて然(さ)ることせんとならば、ただここにある寂心を殺したまえ、と云いて泣くことおびただしいので、陰陽師は何としようも無く当惑したが、飽(あく)まで俗物だから、俗にくだけて打明け話に出た。仰せは一々御もっともでござる、しかし浮世の過しがたさに、是(かく)の如くに仕る、然らずば何わざをしてかは妻子をばやしない、吾(わ)が生命(いのち)をも続(つな)ぐことのなりましょうや、道業(どうごう)猶(なお)つたなければ上人とも仰がれず、法師の形には候えど俗人の如くなれば、後世(ごせ)のことはいかがと哀しくはあれど、差当りての世のならいに、かくは仕る、と語った。何時の世にも斯様(こう)いう俗物は多いもので、そして又然様(そう)いう俗物の言うところは、俗世界には如何にも正しい情理であると首肯されるものである。しかし折角殊勝の世界に眼を着け、一旦それに対(むか)って突進しようと心ざした者共が、此の一関(いっかん)に塞止(せきと)められて已(や)むを得ずに、躊躇(ちゅうちょ)し、俳徊(はいかい)し、遂に後退するに至るものが、何程(どれほど)多いことであろうか。額を破り※(むね)[#「匈/月」、930-上-5]を傷つけるのを憚(はば)からずに敢て突進するの勇気を欠くものは、皆此の関所前で歩を横にしてぶらぶらして終(しま)うのである。芸術の世界でも、宗教の世界でも、学問の世界でも、人生戦闘の世界でも、百人が九十九人、千人が九百九十九人、皆此処で後(あと)へ退(さが)って終うのであるから、多数の人の取るところの道が正しい当然の道であるとするならば、疑も無く此の紙の冠を被(かぶ)った世渡り人(びと)の所為は正しいのである、情理至当のことなのである。寂心は飾り気の無い此の御房の打明話には、ハタと行詰らされて、優しい自分の性質から、将又(はたまた)智略を以て事に処することを卑しみ、覇気を消尽するのを以て可なりとしているような日頃の修行の心掛から、却(かえ)ってタジタジとなって押返されたことだったろう。ヤ、それは、と一句あとへ退った言葉を出さぬ訳にはゆかなかった。が、しかし信仰は信仰であった。さもあればあれ、と一ト休め息を休めて、いかで三世如来の御姿を学ぶ御首(みぐし)の上に、勿体無くも俗の冠を被(き)玉(たま)うや、不幸に堪えずして斯様(かよう)の事を仕給うとならば、寂心が堂塔造らん料にとて勧進し集めたる物どもを御房にまいらすべし、一人を菩薩(ぼさつ)に勧むれば、堂寺造るに勝りたる功徳である、と云って、弟子共をつかわして、材木とらんとて勧進し集めたる物共を皆運び寄せて、此の陰陽師の真似をした僧に与えやり、さて自分は為すべしと思えることも得為さず、身の影ひとつ、京へ上り帰ったということである。紙の冠被った僧は其後何様(どう)なったか知らぬが、これでは寂心という人は事業などは出来ぬ人である。道理で寂心が建立したという堂寺などの有ることは聞かぬ。後の高尾の文覚(もんがく)だの、黄蘗(おうばく)の鉄眼(てつげん)だのは、仕事師であるが、寂心は寂心であった。これでも別に悪いことは無い。
 寂心が三河国を経行したというのは、晩秋過参州薬王寺有感(ばんしうさんしうやくわうじをよぎりてかんあり)という短文が残っているので此を証するのである。勿論入道してから三河へ行ったのか、猶(なお)在俗の時行ったのかは、其文に年月の記が無いから不詳であるが、近江掾(おうみのじょう)になったことは有ったけれど、大江匡房の慶保胤伝にも、緋袍之後(ひほうののち)、不改其官(そのかんをあらためず)と有り、京官(きょうがん)であったから、三河へ下ったのは、僧になってからの事だったろうと思われる。文に、余は是れ羈旅(きりょ)の卒、牛馬の走(そう)、初尋寺次逢僧(はじめてらをたづねついでそうにあひ)、庭前俳徊(ていぜんにはいくわいし)、灯下談話(とうかにだんわす)、とあるので、羈旅牛馬の二句は在俗の時のことのようにも想われるが、庭前灯下の二句は何様(どう)も行脚修業中のこととも想われる。薬王寺は碧海郡(あおみぐん)の古刹(こさつ)で、行基(ぎょうぎ)菩薩の建立するところである。何で寂心が三河に行ったか、堂寺建立の勧化(かんげ)の為だったか何様か、それは一切考え得るところが無いが、抖□(とそう)行脚の因(ちな)みに次第次第三河の方へまで行ったとしても差支はあるまい。特(こと)に寂心が僧となっての二三年は恰(あたか)も大江定基(さだもと)が三河守になっていた時である。定基は大江斉光(なりみつ)の子で、斉光は参議左大弁正三位(さたいべんしょうさんみ)までに至った人で、贈従二位大江維時(これとき)の子であった。大江の家は大江音人(おとんど)以来、儒道文学の大宗(たいそう)として、音人の子玉淵、千里、春潭(はるふち)、千古(ちふる)、皆詩歌を善くし、千里は和歌をも善くし、小倉百人一首で人の知っているものである。玉淵の子朝綱、千古、千古の子の維時は皆文章博士であり、維時の子の重光の子の匡衡(まさひら)も文章博士、維時の子の斉光は東宮学士、斉光の子の為基も文章博士であり、大江家の系図を覧(み)れば、文章博士や大学頭(だいがくのかみ)の鈴なりで、定基は為基の弟、匡衡とは従兄弟同士である。で、定基は父祖の功により、早く蔵人(くろうど)に擢(ぬきん)でられ、尋(つい)で二十何歳かで三河守に任ぜられたが、然様(そう)いう家柄の中に出来た人なので、もとより文学に通じ詞章を善くし、又是れ一箇の英霊底の丈夫であった。大江の家に対して、菅原古人以来、特(こと)に古人の曾孫(そうそん)に道真公を出したので大(おおい)に家声を挙げた菅原家もまた当時に輝いていたが、寂心の師事した文時は実に古人六世の孫であり、匡衡の如きも亦文時に文章詩賦の点鼠(てんざん)を乞うたというから、定基も勿論同じ文雅の道の流れのものとして、自然保胤即ち寂心とは知合で、無論年輩の関係から保胤を先輩として交っていたろうことは明らかである。
 三河守定基は、まだ三十歳にもならないのに、三河守に任ぜられたことは、其父祖の功労によったことは勿論であるが、長男でもあらばこそ、次男の身を以て其処まで出世していたことは、一は其人物が英発して居って、そして学問詞才にも長(た)け、向上心の強い、勇気のある、しかも二王の筆致を得ていたと後年になって支那の人にさえ称讃されたほどであるから、内に自から収め養うところの工夫にも切なる立派な人物、所謂(いわゆる)捨てて置いても挺然(ていぜん)として群を抜くの器量が有ったからであったろう。
 此の定基が三十歳、人生はこれからという三十歳になるやならずに、浮世を思いきって、簪纓(しんえい)を抛(なげう)ち棄て、耀(かがや)ける家柄をも離れ、木の端、竹の片(きれ)のような青道心(あおどうしん)になって、寂心の許(もと)に走り、其弟子となったのは、これも因縁成熟(じょうじゅく)して其処に至ったのだと云えば、それまでであるが、保胤が長年の間、世路に彷徨(ほうこう)して、道心の帰趨(きすう)を抑えた後に、漸(ようや)く暮年になって世を遁(のが)れ、仏に入ったとは異なって、別に一段の運命機縁にあやつられたものであった。定基は家柄なり、性分なりで、もとより学問文章に親んで、其の鋭い資質のまにまに日に日に進歩して居たが、豪快な気象もあった人のこととて合間合間には田猟馳聘(でんりょうちへい)をも事として鬱懐(うつかい)を開いて喜びとしていた。斯様(こう)いう人だったので、若(も)し其儘(そのまま)に歳月を経て世に在ったなら、其の世に老い事に練れるに従って国家有用の材となって、おのずから出世栄達もした事だったろうが、好い松の樹檜(ひ)の樹も兎角に何かの縁で心(しん)が折られたり止められたりして、そして十二分の発達をせずに異様なものになって終うのが世の常である。定基は図らずも三河の赤坂の長(おさ)の許の力寿という美しい女に出会った。長というのは駅(うまや)の長で、駅館を主(つかさ)どるものが即ち長である。其の土地の長者が駅館を主どり、駅館は官人や身分あるものを宿泊休憩せしめて旅の便宜(びんぎ)を半公的に与える制度から出来たものである。何時からとも無く、自然の成りゆきで駅の長は女となり、其長の下には美女が其家の娘分のようになっていて、泊る貴人(きにん)等の世話をやくような習慣になったものである。それでずっと後になっては、何処(どこ)其処(そこ)の長が家といえば、娼家(しょうか)というほどの意味にさえなった位であるが、初めは然程(さほど)に堕落したものでは無かったから、長の家の女の腹に生れて立派な者になった人々も歴史に数々見えている。力寿という名は宇治拾遺などには見えず、後の源平時代くさくてやや疑わしいが、まるで想像から生み出されたとも思えぬから、まず力寿として置くが、何にせよこれが定基には前世因縁とも云うものであったか素晴らしく美しい可愛(かわゆ)いものに見えて、それこそ心魂を蕩尽(とうじん)されて終ったのである。蓋(けだ)し又実際に佳(よ)い女でもあったのであろう。そこで三河の守であるもの、定基は力寿を手に入れた。力寿も身の果報である、赤坂の長の女(むすめ)が三河守に思いかしずかれるのであるから、誠実を以て定基に仕えたことだったろう。
 これだけの事だったらば、それで何事も無い、当時の一艶話で済んだのであろうが、其時既に定基には定まった妻があったのであって、其妻が徳川時代の分限者(ぶげんしゃ)の洒落(しゃれ)れた女房(にょうぼ)のように、わたしゃ此の家の床柱、瓶花(はな)は勝手にささしゃんせ、と澄ましかえって居てくれたなら論は無かったのだが、然様(そう)はいかなかった。一体女というものほど太平の恩沢に狎(なら)されて増長するものは無く、又嶮(けわ)しい世になれば、忽(たちま)ち縮まって小さくなる憐れなもので、少し面倒な時になると、江戸褄(えどづま)も糸瓜(へちま)も有りはしない、モンペイはいて。バケツ提げて、ヒョタコラ姿の気息(いき)ゼイゼイ、御いたわしの御風情やと云いたい様になるのであるが、天日とこしえに麗わしくして四海波穏やかなる時には、鬚眉(しゅび)の男子皆御前に平伏して御機嫌を取結ぶので、朽木形の几帳(きちょう)の前には十二一重の御めし、何やら知らぬびらしゃらした御なりで端然(たんねん)としていたまうから、野郎共皆ウヘーとなって恐入り奉る。平安朝は丁度太平の満潮、まして此頃は賢女(けんじょ)才媛(さいえん)輩出時代で、紫式部やら海老茶式部、清少納言やら金時大納言など、すばらしい女が赫奕(かくえき)として、やらん、からん、なん、かん、はべる、すべるで、女性(にょしょう)尊重仕るべく、一切異議申間敷(もおすまじく)候と抑えられていた代(よ)であったから、定基の妻は中々納まっては居なかった、瞋恚(しんい)の火(ほ)むらで焼いたことであったろう。いや、むずかしくも亦おそろしく焼き立てたことであったろう。ところが、火の傍へ寄れば少くとも髭(ひげ)は焼かれるから、誰しも御免蒙(こうむ)って疎み遠ざかる。此の方を疎みて遠ざかれば、余分に彼方を親み睦(むつ)ぶようになる。彼方に親しみ、此方に遠ざかれば、此方は愈々(いよいよ)火の手をあげる。愈々逃げる、愈々燃えさかる。不動尊の背負(しょ)って居らるる伽婁羅炎(かるらえん)という火は魔が逃げれば逃げるだけ其火□(ほのお)が伸びて何処までも追駈けて降伏(ごうぶく)させるというが、嫉妬(しっと)の火もまた追駈ける性質があるから、鬚髭(ひげ)ぐらい焼かれる間はましもだが、背中へ追いかかって来て、身柱大椎(ちりけだいつい)へ火を吹付けるようにやられては、灸(きゅう)を据えられる訳では無いし、向直って闘うに至るのが、世間有勝(ありがち)の事である。即ち出すの引くのという騒動になるのである。ここになると小説を書く者などは、浅はかな然し罪深いもので、そりゃこそ、時至れりとばかり筆を揮(ふる)って、有ること無いこと、見て来たように出たらめを描くのである。と云って置いて、此以下少しばかり出たらめを描くが、それは全く出たらめであると思っていただきたい。但し出たらめを描くようにさせた、即ち定基夫婦の別れ話は定基夫婦の実演した事である。
 定基の妻の名は何と云ったか、何氏(なにうじ)の女(むすめ)であったか、それは皆分らない。此頃の女は本名が無かった訳ではあるまいが、紫式部だって、本名はおむらだったかお里だったか、誰も知らない、清少納言だって、本名はおきよだったかおせいだったか、誰も知らない、知ってる方は手をあげなさいと云われたって、大抵の人は懐手で御免を蒙るでしょう。まさか赤ン坊の時から、紫式部や、おっぱい御上り、清少納言や、おしっこをなさい、ワンワン来い来い、などと云われたので無かろうことは分っているが、仙人の女王、西王母の、姓は侯(こう)、名は婉※(えんせん)[#「女+今」、932-中-26]、などと見えすいた好い加減なことを答えるよりは面倒だから、其儘(そのまま)にして置こう。美人だったか、醜婦だったかも不明だが、先ず十人並の人だったとして置いて差支えは無かろうが、其の気質だけは温和で無くて、強(きつ)い方だったろうことは、連添うた者と若い身そらで争い別れをしたことでも想いやられる。此女が定基に対して求めたことは無論恋敵(こいがたき)の力寿を遠ざけることであったろうが、定基は力寿に首ったけだったから、それを承知すべくは無いし、又直截(ちょくせつ)な性質の人だったから、吾(わ)が妻に対することでは有り、にやくやに云(いい)紛(まぎ)らして、□泥(たでい)滞水の挨拶を以て其場を済ませて置くというようなことも仕無かったろうから、次第次第に夫婦の間は険悪になっていったであろう。ところが、飢えたる者は人の美饌(びせん)を享(う)くるを見ては愈々飢の苦(くるしみ)を感ずる道理がある。飽(あ)ける者は人の饑餓(きが)に臨めるを見ては、余計に之を哀れむの情を催す道理がある。ここに定基に取っては従兄弟同士である大江匡衡があった。匡衡は大江維時の嫡孫であって、家も其格が好い。定基は匡衡の父重光の弟の斉光の子で、しかも二男坊である。匡衡定基はおよそ同じほどの年頃であるが、才学は優劣無いにしても匡衡は既に文名を馳(は)せて大(おおい)に称せられている。それやこれやの関係で、自然定基は匡衡に雁行する位置に立って居る。そこへ持って来て匡衡は、定基が妻を迎えたと彼是(かれこれ)同じ頃に矢張り妻を迎えたのである。いずれもまだ何年もたたぬ前のことである。匡衡は七歳にして書を読み、九歳にして詩を賦したと云われた英才で、祖父の維時の学を受け、長じて博学、渉(わた)らざるところ無しと世に称せられていた。其文章の英気があって、当時に水際だっていたことは、保胤の評語に、鋭卒数百、堅甲を□(ぬ)き駿馬(しゅんめ)に鞭(むち)うって、粟津の浜を過ぐるが如し、とあったほどで、前にも既に其事は述べた。しかも和歌までも堪能(かんのう)で、男ぶりは何様(どう)だったか、ひょろりとして丈高く、さし肩であったと云われるから、ポッチャリとした御公卿(おくげ)さん達(だち)の好い男子(おとこ)では無かったろうと思われる。さし肩というのは、菩薩肩(ぼさつがた)というのとは反対で、菩薩肩は菩薩像のような優しい肩つき、今でいう撫肩であり、さし肩というのは今いう怒り肩で漢語の所謂(いわゆる)鳶肩(えんけん)である。鳶肩豺目(さいもく)結喉(けっこう)露唇(ろしん)なんというのは、物の出来る人や気嵩(きがさ)の人に、得てある相だが、余り人好きのする方では無い。だから男振りは好い方であったとも思われないが、此の匡衡の迎えた妻は、女歌人(じょかじん)の中(うち)でも指折りの赤染(あかぞめ)右衛門(えもん)で、其頃丁度匡衡もまだ三十前、赤染右衛門も二十幾歳、子の挙周(たかちか)は生れていたか、未だ生れていなかったか知らないが、若盛りの夫婦で、女貌郎才、相当って居り、琴瑟(きんしつ)こまやかに相和して人も羨(うらや)む中であったろうことは思いやられるのである。さて定基夫婦の間の燻(ふすぶ)りかえり、ひぞり合い、煙(けむ)を出し火を出し合うようになっている傍に、従兄弟同士の匡衡夫婦の間は、詩思歌情、ハハハ、オホホで朝夕(ちょうせき)を睦(むつ)び合っているとすれば、定基の方の側からは、自然と匡衡の方は羨ましいものに見え、従って自分の方の現在が余計忌々(いまいま)しいものに見えたに違い無く、匡衡の方からは、定基の方を、気の毒な、従って下らないものに見ていたと思われる。まして定基の妻からは、それこそ饑(う)えたる者が人の美饌を享くるを見る感(おもい)がしたろうことは自然であって、余計にもしゃくしゃが募ったろうことは測り知られる。
 赤染右衛門は生れだちから苦労を背負(しょ)って来た女で、まだ当人が物の色さえ知らぬころから、なさけ無い争の間に立たせられたのであった。というのは右衛門の母が、何様いう訳合があったか、何様いう身分の女であったのか、今は更に知れぬことであるが、右衛門が赤染を名乗ったのは、赤染大隅守(おおすみのかみ)時用(ときもち)の子として育ったからである。然るに歌人として名高い平兼盛が、其当時、生れた子を吾(わ)が女(むすめ)と称して引取ろうとしたのである。検非違使沙汰(けびいしざた)となった。検非違使庁は非違を検(あらた)むるところであるから、今の警視庁兼裁判所のようなものである。母は其子を兼盛の胤(たね)では無いと云張り、兼盛は吾子(わがこ)だと争ったが、畢竟(ひっきょう)これは母が其子を手離したくない母性愛の本然(ほんねん)から然様(そう)云ったのだと解せられもするが、又吾が手を離れた女の其子を強いても引取ろうとするのはよくよく正しい父性愛の強さからだとも解せられるのである。であるから男女の情理から判断すれば、兼盛の方に分があって、女には分が乏しい。まして生長し上った赤染右衛門は歌人であった兼盛の血を享けたと見えて、才学凡(つね)ならぬ優秀なものとなり、赤染時用という検非違使から大隅守になっただけで別に才学の噂も無い平凡官吏の胤とも思われない。であるから、当時を去ること遠からぬ清輔朝臣抄などにも、実(まこと)には兼盛の女(むすめ)云々(うんぬん)と出ているのである。よくよく事情を察するに、当時は恋愛至上主義の行われていた世で、女は愛情の命ずるがままに行動して、それで自から欺かぬ、よい事と許されていた惰弱(だじゃく)時代であったから、右衛門の母は兼盛と、手を繋(つな)いで居た間に懐胎したが、何様いう因縁かで兼盛と別れて時用の許(もと)へ帰したのである。兼盛は卅六歌仙の一人であり、是忠親王の曾孫(そうそん)であり、父の篤行(あつゆき)から平姓を賜わり、和漢の才もあった人ではあるが、従五位上駿河守(するがのかみ)になっただけで終った余り世栄を享けなかった人であるから、年齢其他の関係から、女には疎まれたのかも知れない。兼盛の集を見ると、「いひそめていと久しうなりにける人に」「返事もさらにせねば」「物などいへどいとつれなき人に」「女のもとにまかりて、ものなどいふにつれなきを思ひなげくほどに鳥さへなけば」「女よにこひしとも思はじといひたりければ」「女返しもせざりければ」「なをいとつらかりける女に」「いといたう恨みて」「思ひかけて久しくなりぬる人のことさまになりぬときゝて」などという前書の恋の歌が多い。後撰集雑二に「難波(なには)がた汀のあしのおいのよにうらみてぞふる人のこゝろを」というのが読人不知(よみびとしらず)になって出て居るが、兼盛の歌である。新勅撰集恋二に「しら山の雪のした草われなれやしたにもえつゝ年の経(へ)ぬらん」とあるのも兼盛の歌である。
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