平将門
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著者名:幸田露伴 

 千鍾(せんしよう)の酒も少く、一句の言も多いといふことがある。受授が情を異にし□啄(そつたく)が機に違(たが)へば、何も彼(か)もおもしろく無くつて、其れも是もまづいことになる。だから大抵の事は黙つてゐるに越したことは無い、大抵の文は書かぬが優(まさ)つてゐる。また大抵の事は聴かぬがよい、大抵の書は読まぬがよい。何も申(さる)の歳だからとて、視ざる聴かざる言はざるを尚(たつと)ぶわけでは無いが、嚢(なう)を括(くゝ)れば咎(とが)無しといふのは古(いにしへ)からの通り文句である。酒を飲んで酒に飲まれるといふことを何処かの小父さんに教へられたことがあるが、書を読んで書に読まれるなどは、酒に飲まれたよりも詰らない話だ。人を飲むほどの酒はイヤにアルコホルの強い奴で、人を読むほどの書も性(たち)がよろしくないのだらう。そんなものを書いて貰はなくてもよいから、そんなものを読んでやらなくてもよい理屈で、「一枚ぬげば肩がはら無い」世をあつさりと春風の中で遊んで暮らせるものを、下らない文字といふものに交渉をもつて、書いたり読んだり読ませたり、挙句(あげく)の果には読まれたりして、それが人文進歩の道程の、何のとは、はてあり難いことではあるが、どうも大抵の書は読まぬがよい、大抵の文は書かぬがよい。酒をつくらず酒飲まずなら、「下戸やすらかに睡る春の夜」で、天下太平、愚痴無智の尼入道となつて、あかつきのむく起きに南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)でも吐出した方が洒落(しやれ)てゐるらしい。何かの因果で、宿債(しゆくさい)未(いま)だ了(れう)せずとやらでもある、か毛武(まうぶ)総常(そうじやう)の水の上に度□遊んだ篷底(はうてい)の夢の余りによしなしごとを書きつけはしたが、もとより人を酔はさう意(こゝろ)も無い、書かずともと思つてゐるほどだから、読まずともとも思つてゐる。たゞ宿酔(しゆくすゐ)猶(なほ)残つて眼の中がむづゝく人もあらば、羅山が詩にした大河の水ほど淡いものだから、却(かへ)つて胃熱を洗ふぐらゐのことはあらうか。飲むも飲まぬも読むも読まぬも、人□の勝手で、刀根(とね)の川波いつもさらつく同様、紙に鉛筆のあたり傍題(はうだい)。
 六人箱を枕の夢に、そも我こそは桓武(くわんむ)天皇の後胤(こういん)に鎮守府将軍良将(よしまさ)が子、相馬の小次郎将門(まさかど)なれ、承平天慶のむかしの恨(うら)み、利根の川水日夜に流れて滔□(たう/\)汨□(ゐつ/\)千古経(ふ)れども未だ一念の痕(あと)を洗はねば、□(なんぢ)に欝懐の委曲を語りて、修羅(しゆら)の苦因を晴るけんとぞ思ふ、と大(おほ)ドロ/\で現はれ出た訳でも何でも無いが、一体将門は気の毒な人である。大日本史には叛臣伝に出されて、日本はじまつて以来の不埒者(ふらちもの)に扱はれてゐるが、ほんとに悪(にく)むべき窺□(きゆ)の心をいだいたものであらうか。それとも勢(いきほひ)に駆られ情に激して、水は静かなれども風之を狂はせば巨浪怒つて騰(あが)つて天を拍(う)つに至つたのだらうか。先づそこから出立して考へて見ることを敢(あへ)てしないで、いきなり幸島(さじま)の偽闕(ぎけつ)、平親王呼はり、といふところから不届至極のしれ者とされゝば、一言も無いには定まつて居るが、事跡からのみ論じて心理を問は無いのは、乾燥派史家の安全な遣り方であるにせよ、情無いことであつて、今日の裁判には少し潤(うるほ)ひがあつて宜い訳だ。そこで自然と古来の史書雑籍を読んで、それに読まれてしまつた人で無い者の間には、不服を称(とな)ふる者も出て来て、現に明治年間には大審院、控訴院、宮内省等に対して申理を求めんとした人さへあつたほどである。然無(さな)くても古より今に至るまで、関東諸国の民、あすこにも此所にも将門の霊を祀(まつ)つて、隠然として其の所謂(いはゆる)天位の覬覦(きゆ)者(しや)たる不届者に同情し、之を愛敬してゐることを事実に示してゐる。此等は抑□(そも/\)何に胚胎(はいたい)してゐるのであらうか、又抑(そも)何を語つてゐるのだらうか。たゞ其の驍勇(げうゆう)慓悍(へうかん)をしのぶためのみならば、然程(さほど)にはなるまいでは無いか。考へどころは十二分にある。
 心理から事跡を曲解するのは不都合であるが、事跡から心理を即断するのも不都合である。まして事跡から心理を即断して、そして事実を捏造(ねつざう)し出すに至つては、愈□(いよ/\)以て不都合である。日本外史はおもしろい書であるが、それに拠(よ)ると、将門が在京の日に比叡(ひえい)の山頂に藤原純友(すみとも)と共に立つて皇居を俯瞰(ふかん)して、我は王族なり、当(まさ)に天子となるべし、卿は藤原氏なり、関白となるべし、と約束したとある。これは神皇正統記やなぞに拠(よ)つたのであるが、これでは将門は飛んでも無い純粋の謀反人(むほんにん)で、其罪逃るゝよしも無い者である。然しさういふ事が有り得るものであらうか。楚(そ)の項羽(かうう)や漢の高祖が未だ事を挙げざる前、秦(しん)の始皇帝の行列を観て、項羽は取つて以て代るべしと言ひ、高祖は大丈夫応(まさ)に是の如くなるべしと言つたといふ、其の史記の記事から化けて出たやうなことだ。二人の言ですら、性格描写として看(み)れば非常に巧妙であるが、事実としては、史記に酔はぬ限は受取れない。黄石公を実在の人として受取るほどに読まれてしまへば、二人の言を受取らうし、大鏡を信仰しきつて、正統記を有難がればそれまでだが、どうも史記の香がしてならない。丁度将門乱の時の朱雀帝頃は漢文学の研究の大に行はれた時で、天慶の二年十一月、天皇様が史記を左中弁藤原在衡(ありひら)を侍読(じどく)として始めて読まれ、前帝醍醐(だいご)天皇様は三善清行(みよしきよつら)を御相手に史記を読まれた事などがある。それは兎に角大日本史も山陽同様に此事を記してゐるが、大日本史の筆法は博(ひろ)く采(と)ることはこれ有り、精(くは)しく判ずることは未だしといふ遣り方である。で、織田鷹洲(ようしう)などは頭から叡山□上の談を受取らない。清宮秀堅(せいみやひでかた)も受取らない。秀堅は鷹洲(ようしう)のやうに将門に同情してゐる人では無くて、「平賊の事、言ふに足らざる也、彼や鴟梟(しけう)之性を以て、豕蛇(しい)の勢に乗じ、肆然(しぜん)として自から新皇と称し、偽都を建て、偽官を置き、狂妄(きやうまう)ほとんど桓玄司馬倫の為(ゐ)に類す、宜(うべ)なるかな踵(くびす)を回(かへ)さずして誅(ちゆう)に伏するや」と云つて居るほどである。然し下瞰京師のことに就ては、「将門はもと検非違使佐(けびゐしのすけ)たらんことを求めて得ず、憤を懐(いだ)いて郷に帰り、遂に禍を首(はじ)むるのみ、後に興世(おきよ)を得て始めて僣称(せんしよう)す。猶(なほ)源頼朝の蛭(ひる)が島(しま)に在りしや、僅(わづか)に伊豆一国の主たらんことを願ひしも、大江広元を得るに及びて始めて天下を攘(ぬす)みしが如き也、正統記大鏡等、蓋(けだ)し其跡に就いて而して之を拡張せる也、故に採(と)らず」と云つてゐる。此言は心裏(しんり)を想ひやつて意を立てゝゐるのだから、此も亦中(あた)ると中らざるとは別であるが、而も正統記等が其跡に就いて拡張したのであらうといふことは、一箭双□鵬(いつせんさうてう)を貫いてゐる。宮本仲笏(ちゆうこつ)は、扶桑略記に「純友遙(はるか)に将門謀反(むほん)之由をきゝて亦乱逆を企つ」とあるのに照らして見れば、是れ将門と相約せるにあらざること明らかなりと云つてゐる。純友の南海を乱したのが同時であつたので、如何(いか)にも将門純友が合謀したことは、たとへば後の石田三成と上杉景勝とが合謀した如くに見え、そこで天子関白の分ちどりといふ談も起つたのであらう。純友は伊予掾(いよのじよう)で、承平年中に南海道に群盗の起つた時、紀淑人(きのよしひと)が伊予守で之を追捕した其の事を助けてゐたが、其中に賊の余党を誘つて自分も賊をはじめたのである。将門の事とはおのづから別途に属するので、将門の方は私闘――即ち常陸大掾(ひたちだいじよう)国香や前(さきの)常陸大掾源護(みなもとのまもる)一族と闘つたことから引つゞいて、終(つひ)に天慶二年に至つて始めて私闘から乱賊に変じたのである。其間に将門は一旦上京して上申し、私闘の罪を赦(ゆる)されたことがある位である、それは承平七年の四月七日である。さすれば純友と将門と合謀の事は無い。随(したが)つて叡山瞰京(かんきやう)の事も、演劇的には有つた方が精彩があるかも知れないが、事実的には受取りかねるのである。そこで夙(つと)に覬覦(きゆ)の心を懐(いだ)いてゐたといふことは、面白さうではあるが、正統記に返還して宜(よ)いのである。正統記の作者は皇室尊崇の忠篤の念によつて彼の著述をしたのであるから、将門如きは出来るだけ筆墨の力によつて対治して置きたい余りに、深く事実を考ふるに及ばずして書いたのであらう。山陽外史に至つては多く意を経ないで筆にしたに過ぎない。
 将門が検非違使(けびゐし)の佐(すけ)たらんことを求めたといふことも、神皇正統記の記事からで、それは当時の武人としては有りさうな望である。然し検非違使でゞもあれば兎に角、検非違使の別当は参議以上であるから、無位無官の者が突然にそれを望むべくは無い。して見れば検非違使の佐か尉(じよう)かを望んだとして解すべきである。これならば釣合はぬことでは無い。其代りに将門の器量は大に小さくなることであつて、そんなケチな官を望む者が、純友と共に天子関白わけ取りを心がけるとなると、前後が余りに釣合はぬことになる。明末の李自成が落第に憤慨して流賊となつたやうなものであると、秀堅は論じてゐるが、それは少しをかしい。彼(かの)国の及第は大臣宰相にもなるの径路であるから、落第は非常の失望にもならうが、我邦で検非違使佐や尉になれたからとて、前途洋□として春の如しといふ訳にはならない。随つて摂政忠平が省みなかつたために検非違使佐や尉になれ無いとて、謀反(むほん)をしようとまで憤怨する訳もない。此事は、よしやかゝる望を抱いたことが将門にあつたとしても、謀反といふこととは余りに懸離(かけはな)れて居て、提燈(ちやうちん)と釣鐘、釣合が取れ無さ過ぎる。鷹洲は此事を頭から受取らないが、鷹洲で無くても、警部長になれなかつたから謀反(むほん)をするに至つたなどといふのは、如何に関東武士の覇気(はき)勃□(ぼつ/\)たるにせよ、信じ難いことである。で、正統記に読まれることは御免を蒙らう。随つて将門始末に読まれることも御免蒙らう。
 将門謀反の初発心(しよほつしん)の因由に関する記事は、皆受取れないが、一体当時の世態人情といふものは何様(どん)なであつたらう。大鏡で概略は覗へるが、世の中は先づ以て平和で、藤原氏繁盛の時、公卿は栄華に誇つて、武士は漸(やうや)く実力がありながら官位低く、屈して伸び得ず、藤原氏以外の者はたまたま菅公が暫時栄進された事はあつても遂に左遷を免れないで筑紫(つくし)に薨(こう)ぜられた。丁度公の薨ぜられた其年に将門は下総に勇ましい産声(うぶごえ)をあげたのである。抑(そも/\)醍醐帝頃は後世から云へばまことに平和の聖世であるが、また平安朝の形式成就の頂点のやうにも見えるが、然し実際は何に原因するかは知らず随分騒がしい事もあり、嶮(さが)しい人心の世でもあつたと覚えるのは、史上に盗の多いので気がつく。仏法は盛んであるが、迷信的で、僧侶は貴族側のもので平民側のものでは無かつた。上(かみ)に貴冑(きちう)の私曲が多かつたためでもあらうか、下には武士の私威を張ることも多かつた。公卿や嬪媛(ひんゑん)は詩歌管絃の文明にも酔つてゐたらうが、それらの犠牲となつて人民は可なり苦んでゐたらしい。要するに平安朝文明は貴族文明形式文明風流文明で、剛堅確実の立派なものと云はうよりは、繊細優麗のもので、漸□(ぜん/\)と次の時代、即ち武士の時代に政権を推移せしむる準備として、月卿雲客が美女才媛等と、美しい衣(きぬ)を纏(まと)ひ美しい詞を使ひ、面白く、貴く、長閑(のどか)に、優しく、迷信的空想的詩歌的音楽的美術的女性的夢幻的享楽的虚栄的に、イソップ物語の蟋蟀(きりぎりす)のやうに、いつまでも草は常緑で世は温暖であると信じて、恋物語や節会(せちゑ)の噂で日を送つてゐる其の一方には、粗(あら)い衣を纏(まと)ひ□(あら)い詞(ことば)を使ひ、面白くなく、鄙(いや)しく、行詰つた、凄(すさま)じい、これを絵画にして象徴的に現はせば餓鬼(がき)の草子の中の生物のやうな、或は小説雑話にして空想的に現はせば、酒呑童子(しゆてんどうじ)や鬼同丸(きどうまる)のやうなものもあつたのであらう。醍醐天皇の御代と云へば、古今集だの、延喜式だのの出来た時であるが、其御代の昌泰二年には、都で放火殺人が多くて、四衛府兵をして夜を警(いまし)めしめられ、其三年には上野(かうつけ)に群盗が起り、延喜元年には阪東諸国に盗起り、其三年には前安芸守(さきのあきのかみ)伴忠行は盗の為に殺され、其前後博奕(ばくち)大に行はれて、五年には逮捕をせねばならぬやうになり、其冬十月には盗賊が飛騨守(ひだのかみ)の藤原辰忠(ときたゞ)を殺し、六年には鈴鹿山に群盗あり、十五年には上野介(かうづけのすけ)藤原厚載も盗に殺され、十七年には朝に菊宴が開かれたが、世には群盗が充ち、十九年には前(さき)の武蔵の権介(ごんのすけ)源任(みなもとのたふ)が府舎を焼き官物を掠(かす)め、現任の武蔵守高向利春を襲つたりなんどするといふ有様であつた。幸に天皇様の御聖徳の深厚なのによつて、大なることには至らなかつたが、盗といふのは皆一揆(いつき)や騒擾(さうぜう)の気味合の徒で、たゞの物取りといふのとは少し違ふのである。此様な不祥のある度に威を張るのは僧侶巫覡(ふげき)で、扶桑略記(ふさうりやくき)だの、日本紀略だの、本朝世紀などを見れば、厭(いと)はしいほど現世利益を祈る祈祷が繰返されて、何程厭(いと)はしい宗教状態であるかと思はせられる。既に将門の乱が起つた時でも、浄蔵が大威徳法で将門を詛(のろ)ひ、明達が四天王法で将門を調伏し、其他神社仏寺で祈立て責立てゝ、とう/\祈り伏せたといふ事になつてゐる。かういふ時代であるから、下では石清水八幡(いはしみづはちまん)の本宮の徒と山科(やましな)の八幡新宮の徒と大喧嘩をしたり、東西両京で陰陽の具までを刻絵(きざみゑ)した男女の神像を供養礼拝して、岐神(さいの神、今の道陸神(だうろくじん)ならん)と云つて騒いだり、下らない事をしてゐる。先祖ぼめ、故郷ぼめの心理で、今までの多くの人は平安朝文明は大層立派なもののやうに言做(いひな)してゐる者も多いことであるが、少し料簡(れうけん)のある者から睨(にら)んだら、平安朝は少くも政権を朝廷より幕府へ、公卿より武士へ推移せしむるに適した準備を、気長に根深く叮嚀に順序的に執行して居たのである。かういふ時代に将門も純友も生長したのである。純友が賊衆追捕に従事して、そして盗魁(たうくわい)となつたのも、盗賊になつた方が京官になるよりも、有理であり、真面目な生活であると思つたところより、乱暴をはじめて、後に従五位下を以て招安されたにもかゝはらず、猶(な)ほ伊予、讃岐、周防、土佐、筑前と南海、山陽、西海を狂ひまはつたのかも知れない。純友は部下の藤原恒利といふ頼み切つた奴に裏斬りをされて大敗した後ですら、余勇を鼓(こ)して一挙して太宰府(だざいふ)を陥(おとしい)れた。苟(いやしく)も太宰府と云へば西海の重鎮であるが、それですら実力はそんなものであつたのである。当時崛強(くつきやう)の男で天下の実勢を洞察するの明のあつた者は、君臣の大義、順逆の至理を気にせぬ限り、何ぞ首を俯(ふ)して生白い公卿の下(もと)に付かうやと、勝手理屈で暴れさうな情態もあつたのである。
 将門は然しながら最初から乱賊叛臣の事を敢(あへ)てせんとしたのではない。身は帝系を出でゝ猶未(なほいま)だ遠からざるものであつた。おもふに皇を尊び公に殉(じゆん)ずる心の強い邦人の常情として、初めは尋常におとなしく日を送つて居たのだらう。将門の事を考ふるに当つて、先づ一寸其の家系と親族等を調べて見ると、ざつと是の如くなのである。桓武天皇様の御子に葛原(かづらはら)親王と申す一品(いつぽん)式部卿の宮がおはした。其の宮の御子に無位の高見王がおはす。高見王の御子高望王(たかもちわう)が平の姓を賜はつたので、従五位下、常陸大掾(ひたちだいじよう)、上総介(かづさのすけ)等に任ぜられたと平氏系図に見えてゐる。桓武平氏が阪東に根を張り枝を連ねて大勢力を植(た)つるに至つたことは、此の高望王が上総介や常陸大掾になられたことから起るのである。高望王の御子が、国香、良兼、良将、良□(よしより)、良広、良文、良持、良茂と数多くあつた。其中で国香は従五位上、常陸大掾、鎮守府将軍とある。此の国香本名良望(よしもち)は蓋(けだ)し長子であつた。これは即ち高望王亡き後の一族の長者として、勢威を有してゐたに相違無い。良兼は陸奥(むつ)大掾、下総介(しもふさのすけ)、従五位上、常陸平氏の祖である。次に良将は鎮守府将軍、従四位下或は従五位下とある。将門は此の良将の子である。次に良□(よしより)は上総介、従五位上とある。それから良広には官位が見えぬが、次に良文が従五位上で、村岡五郎と称した、此の良文の後に日本将軍と号した上総介忠常なども出たので、千葉だの、三浦だの、源平時代に光を放つた家□の祖である。次に良持は下総介、従五位下、長田(をさだ)の祖である。次に良茂は常陸少掾(ひたちせうじよう)である。
 扨(さて)将門は良将の子であるが、長子かといふに然様(さう)では無い。大日本史は系図に拠(よ)つたと見えて第三子としてゐるが、第二子としてゐる人もある。長子将持、次子将弘、第三子将門、第四子将平、第五子将文、第六子将武、第七子将為と系図には見えるが、将門の兄将弘は将軍太郎と称したとある。将持の事は何も分らない。将弘が将軍太郎といひ、将門が相馬小次郎といひ、系図には見えぬが、千葉系図には将門の弟に御廚(みくりや)三郎将頼といふがあつて、其次が大葦原四郎といつた事を考へると、将門は次男かとも思はれる。よし三男であつたにしろ、将持といふものは蚤(はや)く消えてしまつて、次男の如き実際状態に於て生長したに相違無い。イヤそれどころでは無い、太郎将弘が早世したから、将門は実際良将の相続人として生長したのである。将門の母は犬養春枝の女(むすめ)である。此の犬養春枝は蓋(けだ)し万葉集に名の見えてゐる犬養浄人(きよひと)の裔(すゑ)であらう。浄人は奈良朝に当つて、下総(しもふさ)少目(せうさくわん)を勤めた人であつて、浄人以来下総の相馬に居たのである。此相馬郡寺田村相馬総代八幡の地方一帯は多分犬養氏の蟠拠(ばんきよ)してゐたところで、将門が相馬小次郎と称したのは其の因縁(いんねん)に疑無い。寺田は取手駅と守谷との間で、守谷の飛地といふことであり、守谷が将門拠有の地であつたことは人の知るところである。将門は斯様(かう)いふ大家族の中に生れて来て、沢山の伯父や叔父を有ち、又伯父国香の子には貞盛、繁盛、兼任、伯父良兼の子には公雅(きんまさ)、公連(きんつら)、公元、叔父良広の子には経邦、叔父良文の子には忠輔、宗平、忠頼、叔父良持の子には致持(むねもち)、叔父良茂の子には良正、此等の沢山の従兄弟(いとこ)を有した訳である。
 此の中で生長した将門は不幸にして父の良将を亡(うしな)つた。将門が何歳の時であつたか不明だが、弟達の多いところを見ると、蓋(けだ)し十何歳であつたらしい。幼子のみ残つて、主人の亡くなつた家ほど難儀なものはない。母の里の犬養老人でも丈夫ならば、差詰め世話をやくところだが、それは存亡不明であるが、多分既に物故してゐたらしい年頃である。そこで一族の長として伯父の国香が世話をするか、次の伯父の良兼が将門等の家の事をきりもりしたことは自然の成行であつたらう。後に至つて将門が国香や良兼と仲好くないやうになつた原因は、蓋し此時の国香良兼等が伯父さん風を吹かせ過ぎたことや、将門等の幼少なのに乗じて私(わたくし)をしたことに本づくと想像しても余り間違ふまい。さて将門が漸(やうや)く加冠するやうになつてから京上りをして、太政大臣藤原忠平に仕へた。これは将門自分の意に出たか、それとも伯父等の指揮に出たか不明であるが、何にせよ遙□と下総から都へ出て、都の手振りを学び、文武の道を修め、出世の手蔓(てづる)を得ようとしたことは明らかである。勿論将門のみでは無い、此頃の地方の名族の若者等は因縁によつて都の貴族に身を寄せ、そして世間をも見、要路の人□に技倆骨柄(ぎりやうこつがら)を認めて貰ひ、自然と任官叙位の下地にした事は通例であつたと見える。現に国香の子の常平太貞盛もまた都上りをして、何人の奏薦によつたか、微官ではあるが左馬允(さまのすけ)となつてゐたのである。今日で云へば田舎の豪家の若者が従兄弟(いとこ)同士二人、共に大学に遊んで、卒業後東京の有力者間に交際を求め、出世の緒を得ようとしてゐるやうなものである。此処で考へらるゝことは、将門も鎮守府将軍の子であるから、まさかに後の世の曾我の兄弟のやうに貧窮して居たのではあるまいが、一方は親無しの、伯父の気息(いき)のかゝつてゐるために世に立つてゐる者であり、一方は一族の長者常陸大掾国香の総領として、常平太とさへ名乗つて、仕送りも豊かに受けてゐたものである貞盛の方が光つて居たらうといふことは、誰にも想像されることである。ところが異(をか)しいこともあればあるもので、将門の方で貞盛を悪く思ふとか悪く噂(うはさ)するとかならば、□嫉猜忌(ばうしつさいき)の念、俗にいふ「やつかみ」で自然に然様(さう)いふ事も有りさうに思へるが、別に将門が貞盛を何様(どう)の斯様(かう)のしたといふことは無くて、却(かへ)つて貞盛の方で将門を悪く言つたことの有るといふ事実である。
 勿論事実といつたところで古事談に出て居るに過ぎない。古事談は顕兼(あきかね)の撰で、余り確実のものとも為しかねるが、大日本史も貞盛伝に之を引いてゐる。それは斯様(かう)である。将門の在京中に、貞盛が嘗(かつ)て式部卿敦実(あつざね)親王のところに詣(いた)つた。丁度其時に将門もまた親王の御許(おんもと)へ伺候(しこう)して帰るところで、従兄弟同士はハタと御門で行逢ふた。彼方(かなた)がジロリと見れば、此方(こちら)もギロリと見て過ぎたのであらう。貞盛は親王様に御目にかゝつて、残念なることには今日郎等無くして将門を殺し得ざりし、郎等ありせば今日殺してまし、彼奴(きやつ)は天下に大事を引出すべき者なり、と申したといふ事である。これは甚だ不思議なことで、貞盛が呂公や許子の術を得て居たか何様かは知らないが、人相見でも無くて思ひ切つたことを貴人の前で言つたものである。此時は将門純友叡山で相談した後であるとでも云は無ければ理屈の立たぬことで、将門はまだ国へも帰らず刀も抜かず、謀反どころか喧嘩さへ始めぬ時である。それを突然に、郎等だにあらば打殺してましものをと言ふのは、余りに従兄弟同士として貴人の前に口外するには太甚(はなはだ)しいことである。親王様に貞盛がこれだけの事を申したとすれば、もう此時貞盛と将門とは心中に刃を研(と)ぎあつてゐたとしなければならぬ。未だ父の国香が殺された訳でも無し、将門が何を企てゝ居たにせよ、貞盛が牒者(てふじや)をして知つてゐるといふ訳も無いのに、たゞ悪い者でござる、御近づけなさらぬが宜しいとでも云ふのならば、後世の由井正雪熊沢蕃山出会の談のやうな事で、まだしも聞えてゐるが、打殺さぬが口惜しいとまで申したとは余り奇怪である。然すれば貞盛の家と将門とが、もう此時は火をすつた中であつて、貞盛が其事を知つてゐたために、行く/\は無事で済むまいとの予想から、そんな事を云つたものだと想像して始めて解釈のつく事である。こゝへ眼を着けて見ると、古事談の記事が事実であつたとすると、国香が将門に殺されぬ前に、国香の忰(せがれ)は将門を殺さうとしてゐたといふ事を認め、そして殺さぬを残念と思つたほどの葛藤(かつとう)が既に存在して居たと睨まねばならぬことになるのである。戯曲的の筋は夙(はや)く此の辺から始まつてゐるのである。
 将門は京に居て龍口の衛士になつたか知らぬが、系図に龍口の小次郎とも記してあるに拠(よ)れば、其のくらゐなものにはなつたのかも知れぬ。が、其の詮議は擱(お)いて、将門と貞盛の家とは、中睦(なかむつま)じく無くなつたには相違無い。それは今昔物語に見えてゐる如くに、将門の父の良将の遺産を将門が成長しても国香等が返さなかつたことで、此の様な事情は古も今もやゝもすれば起り易いことで、曾我の殺傷も此から起つてゐる。今昔物語が信じ難い書であることは無論だが、此の事実は有勝の事で、大日本史も将門始末も皆採つてゐる。将門在京中に既に此事があつて、貞盛と将門とは心中互におもしろく無く思つてゐたところから、貞盛の言も出たとすれば合点が出来るのである。
 今一つは将門と源護一族との間の事である。これは其原因が不明ではあるが、因縁(いんねん)のもつれであるだけは明白である。護は常陸の前(さき)の大掾(だいじよう)で、そのまゝ常陸の東石田に居たのである。東石田は筑波(つくば)の西に当るところで、国香もこれに居たのである。護は世系が明らかでないが、其の子の扶(たすく)、隆、繁と共に皆一字名であるところを見ると、嵯峨(さが)源氏でゞもあるらしく思はれる。何にせよ護も名家であつて、護の女を将門の伯父上総介良兼は妻にしてゐる。国香も亦其一人を嫁にして貞盛の妻にしてゐる。常陸六郎良正もまた其一人を妻にしてゐる。此の良正は系図では良茂の子になつてゐるが、おそらくは誤りで、国香の同胞で一番季(すゑ)なのであらう。
 将門と護とは別に相敵視するに至る訳は無い筈であるが、此の護の一族と将門と私闘を起したのが最初で、将門の伯叔父の多いにかゝはらず、護の家と縁組をしてゐる国香の家、良兼の家、良正の家が特(こと)に将門を悪(にく)んで之を攻撃してゐるところを見ると、何でも源護の家を中心とし、之に関聯して紛糾(ふんきう)した事情が有つての大火事と考へられる。将門始末では、将門が護の女(むすめ)を得て妻としようとしたが護が与へなかつたので、将門が怒つたのが原因だと云つて居る。して見れば将門は恋の叶(かな)はぬ焦燥(せうさう)から、車を横に推出したことになる。さすれば良正か貞盛か二人の中の一人が、将門の望んだ女を得て妻としてしまつた為に起つた事のやうに思はれるが、如何(いか)に将門が乱暴者でも、人の妻になつてしまつた者を何としようといふこともあるまい。又それが遺恨の本になるといふことも、成程野暮な人の間に有り得るにしても、皆が一致して手甚(てひど)く将門を包囲攻撃するに至るのは、何だか逆なやうである。思ふ女をば奪はれ、そして其女の縁に連(つらな)る一族総体から、此の失恋漢、死んでしまへと攻立てられたといふのは、何と無く奇異な事態に思へる。又たとへ将門の方から手出しをしたにせよ、恋の叶はぬ忌□しさから、其女の家をはじめ、其姉妹の夫たちの家まで、撫斬(なでぎ)りにしようといふのも何となく奇異に過ぎ酷毒に過ぎる。何にせよ決してたゞ一条(ひとすぢ)の事ではあるまい、可なり錯綜(さくそう)した事情が無ければならぬ。貞盛が将門を殺したがつた事も、恋の叶(かな)つた者の方が恋の叶はぬ者を生かして置いては寝覚が悪いために打殺すといふのでは、何様(どう)も情理が桂馬筋(けいますぢ)に働いて居るやうである。
 故蹟考ではかう考へてゐる。将門が迎へた妻は、源護の子の扶、隆、繁の中で、懸想(けさう)して之を得んとしたものであつた。然るに其の婦人は源家へ嫁すことをせずして相馬小次郎将門の妻となつた。そこで□嫉(ばうしつ)の念禁じ難く、兄弟姉妹の縁に連なる良兼貞盛良正等の力を併(あは)せて将門を殺さうとし、一面国香良正等は之を好機とし、将門を滅して相馬の夥(おびただ)しい田産を押収せんとしたのである。と云つて居る。成程源家の子のために大勢が骨折つて貰ひ得て呉れようとした美人を貰ひ得損じて、面目を失はせられ、しかも日比(ひごろ)から彼が居らなくばと願つて居た将門に其の婦人を得られたとしては、要撃して恨(うらみ)を散じ利を得んとするといふことも出て来さうなことである。然しこれも確拠があつてでは無い想像らしい。たゞ其中の将門を滅せば田産押収の利のあるといふことは、拠(よ)るところの無い想像では無い。
 要するに委曲(ゐきよく)の事は徴知することが出来ない。耳目の及ぶところ之を知るに足らないから、安倍晴明なら識神を使つて委細を悟るのであるが、今何とも明解することは我等には不能だ。天慶年間、即ち将門死してから何程の間も無い頃に出来たといふ将門記の完本が有つたら訳も分かるのであらうが、今存するものは残闕(ざんけつ)であつて、生憎発端のところが無いのだから如何(いかん)とも致方は無い。然し試みに考へて見ると、将門が源家の女(むすめ)を得んとしたことから事が起つたのでは無いらしい、即ち将門始末の説は受取り兼ねるのであつて、むしろ将門の得た妻の事から私闘は起つたのらしい。何故(なぜ)といへば将門記の中の、将門が勝を得て良兼を囲んだところの条(くだり)の文に、「斯(かく)の如く将門思惟す、凡(およ)そ当夜の敵にあらずといへども(良兼は)脈を尋(たづ)ぬるに疎(うと)からず、氏を建つる骨肉なり、云はゆる夫婦は親しけれども而も瓦に等しく、親戚は疎くしても而も葦に喩(たと)ふ、若し終に(伯父を)殺害を致さば、物の譏(そし)り遠近(をちこち)に在らんか」とあつて、取籠めた伯父良兼を助けて逃れしめてやるところがある。その文気を考へると、妻の故の事を以て伯父を殺すに至るは愚なことであるといふのであるから、将門が妻となし得なかつた者から事が起つたのでは無くて、将門が妻となし得たものがあつてそれから伯父と弓箭(きゆうせん)をとつて相見(あいまみ)ゆるやうにもなつたのであるらしい。それから又同記に拠ると、将門を告訴したものは源護である。記に「然る間前(さき)の大掾(だいじよう)源護の告状に依りて、件(くだん)の護並びに犯人平将門及び真樹(まき)等召進ずべきの由の官符、去る承平五年十二月二十九日符、同六年九月七日到来」とあるから、原告となつた者は護である。真樹は佗田(わびた)真樹で、国香の属僚中の錚□(さうさう)たるものである。これに依つて考へれば、良正良兼は記の本文記事の通り、源家が敗戦したによつて婦の縁に引かれて戦を開いたのだが、最初はたゞ源護一家と将門との間に事は起つたのである。して見れば将門が妻としたものに関聯して源護及び其子等と将門とは闘ひはじめたのである。
 戯曲はこゝに何程でも書き出される。かつて同じ千葉県下に起つた事実で斯(か)ういふのがあつた。将門ほど強い男でも何でも無いが、可なりの田邑(でんいふ)を有してゐる片孤(へんこ)があつた。其の児の未(いま)だ成長せぬ間、親戚の或る者は其の田邑を自由にして居たが、其の児の成人したに至つて当然之を返附しなければならなくなつた。ところで其の親戚は自分の娘を其の男に娶(めと)らせて、自己は親として其の家に臨む可く計画した。娘は醜くも無く愚でもなかつたが、男は自己が拘束されるやうになることを厭ふ余りに其の娘を強く嫌つて、其の婚儀を勧めた一族達と烈しく衝突してしまつた。悲劇はそこから生じて男は放蕩者(はうたうもの)となり、家は乱脈となり、紛争は転輾(てんてん)増大して、終に可なりの旧家が村にも落着いて居られぬやうになつた。これを知つてゐる自分の眼からは、一齣(いつしやく)の曲が観えてならない。真に夢の如き想像ではあるが、国香と護とは同国の大掾であつて、二重にも三重にもの縁合となつて居り、居処も同じ地で、極めて親しかつたに違ひ無い。若し将門が護の女(むすめ)を欲したならば、国香は出来かぬる縁をも纏(まと)めようとしたことであらう。其の方が将門を我が意の下に置くに便宜ではないか。して見れば将門始末の記するが如きことは先づ起りさうもない。もし反対に、護の女を国香が口をきいて将門に娶(めと)らせようとして、そして将門が強く之を拒否した場合には、国香は源家に対しても、自己の企に於ても償(つぐな)ひ難き失敗をした訳になつて、貞盛や良兼や良正と共に非常な嫌な思ひをしたことであらうし、護や其子等は不面目を得て憤恨したであらう。将門の妻は如何なる人の女であつたか知らぬが、千葉系図や相馬系図を見れば、将門の子は良兌(よしなほ)、将国、景遠、千世丸等があり、又十二人の実子があつたなどと云ふ事も見えるから、桔梗(ききやう)の前の物語こそは、薬品の桔梗の上品が相馬から出たに本づく戯曲家の作意ではあらうが、妻妾(さいせう)共に存したことは言ふまでも無い。で、将門が源家の女を蔑視(べつし)して顧みず、他より妻を迎へたとすると、面目を重んずる此時代の事として、国香も護の子等も、殊に源家の者は黙つて居られないことになる。そこで談判論争の末は双方後へ退らぬことになり、武士の意気地上、護の子の扶、隆、繁の三人は将門を敵に取つて闘ふに至つたらうと想像しても非常な無理はあるまい。
 闘(たたかひ)は何にせよ将門が京より帰つて後数年にして発したので、其の場所は下総の結城郡と常陸の真壁郡の接壌地方であり、時は承平五年の二月である。どちらから戦(いくさ)をしかけたのだか明記はないが、源の扶、隆等が住地で起つたのでも無く、将門の田園所在地から起つたのでも無い。将門の方から攻掛けたやうに、歴史が書いてゐるのは確実で無い。将門と源氏等と、どちらが其の本領まで戦場から近いかと云へば、将門の方が近いくらゐである。相馬から出たなら遠いが、本郷や鎌庭からなら近いところから考へると、将門が結城あたりへ行かうとして出た途中を要撃したものらしい。左も無くては釣合が取れない。若し将門が攻めて行つたのを禦(ふせ)いだものとしては、子飼川を渉(わた)つたり鬼怒(きぬ)川(がは)を渡つたりして居て、地理上合点が行かぬ。将門記に其の闘の時の記事中見ゆる地名は、野本、大串、取木等で、皆常陸の下妻附近であるが、野本は下総の野爪、大串は真壁の大越、取木は取不原(とりふばら)の誤か、或は本木村といふのである。攻防いづれがいづれか不明だが、記には「爰(こゝ)に将門罷(や)まんと欲すれども能はず、進まんと擬するに由無し、然して身を励まして勧拠し、刃を交へて合戦す」とあるに照らすと、何様も扶等が陣を張つて通路を截(き)つて戦を挑(いど)んだのである。此の闘は将門の勝利に帰し、扶等三人は打死した。将門は勝に乗じて猛烈に敵地を焼き立て、石田に及んだ。国香は既に老衰して居た事だらう、何故(なぜ)といへば、国香の弟の弟の第二子若くは第三子の将門が既に三十三歳なのであるから。国香は戦死したか、又焼立てられて自殺したか、後の書の記載は不詳である。双方の是非曲直は原因すら不明であるから今評論が出来ぬが、何にせよ源護の方でも鬱懐已(や)む能(あた)はずして是(こゝ)に至つたのであらうし、将門の方でも刀を抜いて見れば修羅心熾盛(しせい)になつて、遣りつけるだけは遣りつけたのだらう。然しこゝに注意しなければならぬのは、是はたゞ私闘であつて、謀反(むほん)をして国の治者たる大掾を殺したのではない事である。
 貞盛は国香の子として京に在つて此事を聞いて暇(いとま)を請(こ)うて帰郷した。記に此場合の貞盛の心を書いて、「貞盛倩□(つら/\)案内を検するに、およそ将門は本意の敵にあらず、これ源氏の縁坐也云□。孀母(さうぼ)は堂に在り、子にあらずば誰か養はん、田地は数あり、我にあらずば誰か領せん、将門に睦(むつ)びて云□、乃(すなは)ち対面せんと擬す」とある。国香死亡記事の本文は分らないが、此の文気を観ると、将門が国香を心底から殺さうとしたので無いことは、貞盛が自認してゐるので、源氏の縁坐で斯様(かやう)の事も出来たのであるから、無暗(むやみ)に将門を悪(にく)むべくも無い、一族の事であるから寧(むし)ろ和睦(わぼく)しよう、といふのである。前に云つた通り将門は自分を攻めに来た良兼を取囲んだ時もわざと逃がした人である、国香を強ひて殺さう訳は無い。貞盛の此の言を考へると、全く源氏と戦つたので、余波が国香に及んだのであらう。伯父殺しを心掛けて将門が攻寄せたものならば、貞盛に斯様(かう)いふ詞の出せる訳も無い。但し国香としては田邑(でんいふ)の事につきて将門に対して心弱いこともあつた歟(か)、さらずも居館を焼亡されて撃退することも得せぬ恥辱に堪へかねて死んだのであらうか。こゝにも戯曲的光景がいろ/\に描き出さるゝ余地がある。まして国香の郎党佗田真樹は弱い者では無い、後に至つて戦死して居る程の者であるから、将門の兵が競ひかゝつて国香を攻めたのならば、何等かの事蹟を生ずべき訳である。
 良正は高望王の庶子で、妻は護の女(むすめ)であつた。護は老いて三子を尽(こと/″\)く失つたのだから悲嘆に暮れたことは推測される。そこで父の歎(なげき)、弟の恨(うらみ)、良正の妻は夫に対して報復の一ト合戦をすゝめたのも無理は無い。云はれて見れば後へは退けぬので、良正は軍兵を動かして水守(みづもり)から出立した。水守は筑波山(つくばさん)の南の北条の西である。兵は進んで下総堺の小貝川の川曲に来た。川曲は「かはわた」と訓(よ)んだのであらう、今の川又村の地で当時は川の東岸であつたらしい。一水を渡れば豊田郡で将門領である。貞盛が此時加担して居なかつたのであるのは注意すべきだ。将門の方でも、其義ならば伯父とは云へ一ト塩つけてやれと云ふので出動した。時は其年の十月廿一日であつた。将門の軍は勝を得て、良正は散□に打(うち)なされて退いた。此も私闘である。将門はまだ謀反はして居らぬ、勝つて本郷へ帰つた。
「負け碁(ご)は兎角あとをひく也」で、良正は独力の及ぶ可からざるを以て下総介良兼(或はいふ上総介)に助勢を頼んで将門に憂き目を見せようとした。良兼は護の縁につながつて居る者の中の長者であつた。良兼の妻も内から牝鶏(めんどり)のすゝめを試みた。雄鶏は終(つひ)に閧(とき)の声をつくつた。同六年六月二十六日、十二分に準備したる良兼は上総下総の兵を発して、上総の地で下総へ斗入(とにふ)してゐる武射(むさ)郡の径路から下総の香取郡の神崎(かうざき)へ押出した。神崎は滑川より下、佐原より上の利根川沿岸の地だ。それより大河を渡つて常陸の信太郡の江前の津へかゝつた。江前はえのさきで、今の江戸崎である。それから翌日、良正がゐる筑波の南の水守へ到着したといふ事だ。私闘は段□と大きくなつた。関を打破つて通りこそせざれ、間道□□を通つて、苟(いやしく)も何の介(すけ)といふ者が、官司の禁遏(きんあつ)を省みず武力で争はうといふのである。良正は喜んで迎へた。貞盛も参会した。良兼は貞盛に対(むか)つて、常平太何事ぞ我等と与にせざるや、財物を掠(かす)められ、家倉を焼かれ、親類を害せられて、穏便を旨(むね)とするは何ぞや、早□合力して将門を討ち候へと、叔父様顔(さんがほ)の道理らしく説いた。言はれて見れば其の通りであるから、貞盛も吾が女房の兄弟の仇、言はず語らずの父の讐(かたき)であるから、心得た、と言切つた。姉妹三人の夫たる叔父甥三人は、良兼を大将にして下野(しもつけ)を指して出発した。下野から南に下つて小次郎めを圧迫しようといふのだ。将門はこれを聞いて、御座んなれ二本棒ども、とでも思つたらう。財布の大きいものが、博奕はきつと勝つと定まつては居ないのだ。何程の事かあらん、一ト当てあてゝやれと、此方(こちら)からも下野境まで兵を出したが、如何さま敵は大軍で、地も動き草も靡(なび)くばかりの勢堂□と攻めて来た。良兼の軍は馬も肥え人も勇み、鎧(よろひ)の毛もあざやかに、旗指物もいさぎよく、弓矢、刀薙刀(なぎなた)、いづれ美□しく、掻楯(かいだて)ひし/\と垣の如く築(つ)き立てゝ、勢ひ猛に壮(さか)んに見えた。将門の軍は二度の戦に甲冑(かつちう)も摺(す)れ、兵具(ひやうぐ)も十二分ならず、人数も薄く寒げに見えた。譬(たと)へば敵の毛羽艶やかに峨冠(がくわん)紅に聳(そび)えたる鶏の如く、此方(こなた)は見苦しき羽抜鳥の肩そぼろに胸露(あら)はに貧しげなるが如くであつたが、戦つて見ると羽ふくよかなる地鶏は生命知らずの軍鶏(しやも)の敵では無かつた。将門の手下の勇士等は忽(たちま)ちに風の木の葉と敵を打払つた。良兼の勢は先を争つて逃げる、将門は鞭を揚げ名を呼(よば)はつて勢に乗つて吶喊(とつかん)し駆け崩した。敵はきたなくも下野の府に閉塞されてしまつた。こゝで将門が刻毒に攻立てたら、或は良兼等を酷(ひど)いめにあはせ得たかも知らぬが、将門の性質の美の窺(うかゞひ)知らるゝところはここにあつて、妻の故を以て伯父を殺したと云はるゝを欲せぬために一方をゆるして其の逃ぐるに任(まか)せた。良兼等は危い生命を助かつて、辛(から)くも遁(のが)れ去つてしまつた。そこで将門は明かな勝利を得て、府の日記へ、下総介が無道に押寄せて合戦しかけた事と、これを追退けてしまつたことをば明白に記録して置いて、悠然と自領へ引取つた。火事は大分燃広がつた、私闘は余国までの騒ぎになつたが、しかもまだ私闘である、謀反(むほん)をしたのでは無かつた。これだけの大事になつたのであるから、四方隣国も皆手出しこそせざれ、目を側(そば)だてゝ注意したに相違ない。将門が国庁の記録に事実をとゞめ、四方に実際を知らしめたのは、為し得て男らしく立派に智慮もあり威勢もあることであつた。
 源護の方は事を起した最初より一度も好い目を見無かつた。痴者(ちしや)が衣服の焼け穴をいぢるやうに、猿が疵口(きずくち)を気にするやうに、段□と悪いところを大きくして、散□な事になつたが、いやに賢く狡滑(かうくわつ)なものは、自分の生命を抛出(なげだ)して闘ふといふことをせずに、いつも他の勢力や威力や道理らしいことやを味方にして敵を窘(くるし)めることに長(た)けたものだ。何様(どう)いふ告訴状を上(たてまつ)つたか知らぬが、多分自分が前の常陸大掾であつたことと、現常陸大掾であつた国香の死したことを利用して、将門が暴威に募り乱逆を敢(あへ)てしたことを申立てたに相違無く、そしてそれから後世の史をして将門常陸大掾国香を殺すと書かしめるに至らせたのであらう。去年十二月二十九日の符が、今年九月になつて、左近衛番長の正六位上英保純行(あぼのすみゆき)、英保氏立、宇自加支興(もちおき)等によつて齎(もた)らされ、下毛下総常陸等の諸国に朝命が示され、原告源護、被告将門、および国香の麾下(きか)の佗田真樹を召寄せらるゝ事になつた、そこで将門は其年十月十七日、急に上京して公庭に立つた。一部始終を申立てた。阪東訛(ばんどうなま)りの雑つた蛮音(ばんおん)で、三戦連勝の勢に乗じ、がん/\と遣付(やりつけ)たことであらう。もとより事実を陰蔽して白粉を傅(つ)けた談をするが如きことは敢(あへ)てし無かつたらう。箭(や)が来たから箭を酬(むく)いた、刀が加へられたから刀を加へた、弓箭(ゆみや)取る身の是非に及ばず合戦仕つて幸(さいはひ)に斬り勝ち申したでござる、と言つたに過ぎまい。勿論私(わたくし)に兵仗(へいぢやう)を動かした責罰譴誨(けんくわい)は受けたに相違あるまいが、事情が分明して見れば、重罪に問ふには足(た)ら無いことが認められたのに、かてゝ加へて皇室御慶事があつたので、何等罪せらるゝに至らず、承平七年四月七日一件落着して恩詔を拝した。検非違使(けびゐし)庁(ちやう)の推問に遇(あ)うて、そして将門の男らしいことや、勇威を振つたことは、却(かへ)つて都の評判となつて同情を得たことと見える。然し干戈(かんくわ)を動かしたことは、深く公より譴責(けんせき)されたに疑無い。で、同年五月十一日に京を辞して下総に帰つた。
 とは記に載つてゐるところだが、これは疑はしい。こゝに事実の前後錯誤と年月の間違があるらしい。将門は幾度も符を以て召喚されたが、最初一度は上洛し、後は上洛せずに、英保純行に委曲(ゐきよく)を告げたのである。将門はそれで宜(よ)いが、良兼等は其儘(そのまゝ)指を啣(くは)へて終ふ訳には、これも阪東武者の腹の虫が承知しない。甥(おひ)の小僧つ子に塩をつけられて、国香亡き後は一族の長者たる良兼ともある者が屈してしまふことは出来ない。護も貞盛も女達も瞋恚(しんい)の火を燃(もや)さない訳は無い。将門が都から帰つて来て流石(さすが)に謹慎して居る状(さま)を見るに及んで、怨を晴らし恥辱を雪(そゝ)ぐは此時と、良兼等は亦復(また/\)押寄せた。其年八月六日に下総境の例の小貝川の渡に良兼の軍は来た。今度は良兼もをかしな智慧(ちゑ)を出して、将門の父良将祖父高望王の像を陣頭に持出して、さあ箭(や)が放せるなら放して見よ、鉾先(ほこさき)が向けらるゝなら向けて見よと、取つて蒐(かゝ)つた。籠城でもした末に百計尽き力乏しくなつてならばいざ知らず、随分いやな事をしたものだが、如何(いか)に将門勇猛なりとも此には閉口した。「親の位牌(ゐはい)で頭こつつり」といふ演劇には、大概な暴れ者も恐れ入る格で、根が無茶苦茶な男では無い将門は神妙におとなしくして居た。おとなしくした方が何程腹の中は強いか知れないのだが、差当つて手が出せぬのを見ると、良兼の方は勝誇つた。豊田郡の栗栖院(くるすゐん)、常羽御厩(いくはのみうまや)や将門領地の民家などを焼払つて、其翌日さつと引揚げた。
 芝居で云へば性根場(しやうねば)といふところになつた。将門は一ト塩つけられて怒気胸に充(み)ち塞(ふさ)がつたが、如何とも為(せ)ん方(かた)は無かつた。で、其月十七日になつて兵を集めて、大方郷(おほかたがう)堀越の渡に陣を構へ、敵を禦(ふせ)がうとした。大方郷は豊田郡大房村の地で、堀越は今水路が変つて渡頭(ととう)では無いが堀籠村といふところである。併(しか)し将門は前度とは異つて、手痛くは働か無かつた。記には、脚気を病んで居て、毎事朦□(もうもう)としてゐたといふが、そればかりが原因か、或は都での訓諭に恐懼(きようく)して、仮りにも尊族に対して私(わたくし)に兵具を動かすことは悪いと思つた、しほらしい勇士の一面の優美の感情から、吽(うん)と忍耐したのかも知れない。弱くない者には却(かへ)つて此様(かう)いふ調子はあるものである。で、はか/″\しい抵抗も何等敢(あへ)てしなかつたから、良兼の軍は思ふが儘に乱暴した。前の恨を霽(は)らすは此時と、郡中を攻掠(こうりやく)し焚焼(ふんせう)して、随分甚(ひど)い損害を与へた。将門は□島郡(ぐん)の葦津江、今の蘆谷といふところに蟄伏(ちつぷく)したが、猶危険が身に逼(せま)るので、妻子を船に乗せて広河(ひろかは)の江に泛(うか)べ、おのれは要害のよい陸閉といふところに籠つた。広河の江といふのは飯沼(いひぬま)の事で、飯沼は今は甚(はなはだ)しく小さくなつてゐるが、それは徳川氏の時になつて、伊達弥(だてや)惣兵衛(そうべゑ)為永(ためなが)といふものが、享保年間に飯沼の水が利根川より高いこと一丈九尺、鬼怒川より高いこと横根口で六尺九寸、内守谷川辰口(たつぐち)で一丈といふことを知つて、大工事を起して、水を落し、数千町歩の新田を造つたからである。陸閉といふ地は不明だが、蓋(けだ)し降間(ふるま)の誤写で、後の岡田郡降間木(ふるまぎ)村の地だらうといふことである。降間木ももと降間木沼とかいふ沼があつたところである。さあ物語は一大関節にさしかゝつた。将門が斯様におとなしくして居て、むしろ敵を避け身を屈して居るやうになつたところで、良兼方の一分は立つたのだから、其儘に良兼方が凱歌を奏して退(ひ)いて終(しま)つたれば、或は和解の助言なども他から入つて、宜い程のところに双方折合(をりあ)ふといふことも成立つたか知れないのである。ところが転石の山より下(くだ)るや其の勢(いきほひ)必ず加はる道理で、終(つひ)に良兼将門は両立す可からざる運命に到着した。それは将門が安穏を得させようとして跡を埋め身を隠させた其の愛妻を敵が発見したことであつた。どうも良兼方の憎悪は此の妻にかゝつて居たらしい。それ占(し)めたといふのであつたらう、忽ちに手対(てむか)ふ者を討殺(うちころ)し、七八艘(さう)の船に積載した財貨三千余端を掠奪し、かよわい妻子を無漸(むざん)にも斬殺(きりころ)してしまつたのが、同月十九日の事であつた。元来火薬が無かつた訳では無いから、如何に一旦は神妙にしてゐても、此処(こゝ)に至つて爆発せずには居ない。後の世の頼朝が伊豆に潜(ひそ)んで居た時も、たゞおとなしく世を終つたかも知れないが、伊東入道に意中の女は引離され児は松川に投入れらるゝに及んで、ぶる/\と其の巨(おほ)きい頭を振つて牙(きば)を咬(か)んで怒り、せめては伊豆一国の主になつて此恨を晴らさうと奮ひ立つたとある。人間以上に心を置けば、恩愛に惹(ひ)かれて動転するのは弱くも浅くも甲斐(かひ)無くもあるが、人間としては恩愛の情の已(や)み難(がた)いのは無理も無いことである。如何(いか)に相馬小次郎が勇士でも心臓が筑波御影(つくばみかげ)で出来てゐる訳でもあるまいから、落さうと思つた妻子を殺されては、涙をこぼして口惜(くやし)がり、拳を握りつめて怒つたことであらう。これはまた暴れ出さずには居られない訳だ。しかしまだ私闘である、私闘の心が刻毒になつて来たのみである、謀反(むほん)をしようとは思つて居ないのである。
 記の此処(こゝ)の文が妙に拗(ねぢ)れて居るので、清宮秀堅は、将門の妻は殺されたのでは無くて上総(かづさ)に拘(とら)はれたので、九月十日になつて弟の謀(はかりごと)によつて逃帰つたといふ事に読んでゐる。然し文に「妻子同共討取」とあるから、何様(どう)も妻子は殺されたらしく、逃還(にげかへ)つたのは一緒に居(い)た妾であるらしい。が、「爰将門妻去夫留、忿怨不レ少」「件妻背二同気之中一、迯二帰於夫家一」とあるところを見ると、妻が拘はれたやうでもある。「妾恒存二真婦之心一」「妾之舎弟等成レ謀」とあるところを見ると、妾のやうでもある。妻妾二字、形相近いから何共紛(まぎ)らはしいが、妻子同共討取の六字があるので、妻子は殺されたものと読んで居る人もある。どちらにしても強くは言張り難いが、「然而将門尚与二伯父一為二宿世之讐一」といふ句によつて、何にせよ此事が深い怨恨(ゑんこん)になつた事と見て差支(さしつかへ)は無い。しばらく妻子は殺されて、拘(とら)はれた妾は逃帰つた事と見て置く。
 此事あつてより将門は遺恨(ゐこん)已(や)み難(がた)くなつたであらう、今までは何時(いつ)も敵に寄せられてから戦つたのであるが、今度は我から軍を率(ひき)ゐて、良兼が常陸(ひたち)の真壁郡の服織(はつとり)、即ち今の筑波山の羽鳥に居たのを攻め立つた。良兼は筑波山に拠(よ)つたから羽鳥を焼払ひ、戦書を贈(おく)つて是非の一戦を遂(と)げようとしたが、良兼は陣を堅くして戦は無かつたので、将門は復讐的に散□(さん/″\)敵地を荒して帰つた。斯様(かう)なれば互(たがひ)に怨恨(ゑんこん)は重(かさ)なるのみであるが、良兼の方は何様(どう)しても官職を帯びて居るので、官符は下(くだ)つて、将門を追捕すべき事になつた。良兼、護、今は父の後を襲ふた常陸大掾(ひたちのだいじよう)貞盛、良兼の子の公雅、公連、それから秦清文(はたきよぶみ)、此等が皆職を帯びて、武蔵、安房(あは)、上総、下総、常陸、下野諸国の武士を駆催(かりもよほ)して将門を取つて押へようとする。将門は将門で後へは引け無くなつたから勢威を張り味方を募(つの)つて対抗する。諸国の介(すけ)や守(かみ)や掾(じよう)やは、騒乱を鎮める為に戮力(りくりよく)せねばならぬのであるが、元来が私闘で、其の情実を考へれば、強(あなが)ち将門を片手落に対治すべき理があるやうにも思へぬから、官符があつても誰も好んで矢の飛び剣の舞ふ中へ出て来て危い目に逢はうとはしない。将門は一人で、官職といへば別に大したものを有してゐるのでも無い、たゞ伊勢太神宮の御屯倉(みやけ)を預かつて相馬御厨(みくりや)の司(つかさ)であるに過ぎぬのであるに、父の余威を仮(か)るとは言へ、多勢の敵に対抗して居られるといふものは、勇悍(ゆうかん)である故のみでは無い、蓋(けだ)し人の同情を得てゐたからであつたらう。然無(さな)くば四方から圧逼(あつぱく)せられずには済まぬ訳である。
 良兼は何様(どう)かして勝を得ようとしても、尋常(じんじやう)の勝負では勝を取ることが難かつた。そこで便宜(べんぎ)を伺(うかゞ)ひ巧計を以て事を済(な)さうと考へた。怠(おこた)り無く偵察(ていさつ)してゐると、丁度将門の雑人(ざふにん)に支部(はせつかべ)子春丸といふものがあつて、常陸の石田の民家に恋中(こひなか)の女をもつて居るので、時□其許へ通ふことを聞出した。そこで子春丸をつかまへて、絹を与へたり賞与を約束したりして、将門の営の勝手を案内させることにした。将門は此頃石井に居た。石井は「いはゐ」と読むので、今の岩井が即(すなは)ちそれだ。子春丸は恋と慾とに心を取られ、良兼の意に従つて、主人の営所の勝手を悉(こと/″\)く良兼の士に教へた。良兼はほくそ笑(ゑ)んで、手腕のある者八十余騎を択(えら)んで、ひそ/\と不意打をかける支度をさせた。十二月の十四日の夕に良兼の手の者は発して、首尾よく敵地に突入し、風の如くに進んで石井の営に斫入(きりい)つた。将門の士は十人にも足らなかつたが、敵が襲ふのを注進した者があつて、急に起つて防ぎ戦つた。将門も奮闘(ふんとう)した。良兼の上兵多治良利(たぢのよしとし)は一挙に敵を屠(ほふ)らんと努力したが、運拙(つたな)く射殺(いころ)されたので、寄手は却(かへ)つて散□になつて、命を落す者四十余人、可なり手痛き戦はしたが、敵地に踏込むほどの強い武者共が随分巧みに、うま/\近づいたにもかゝはらず、此の突騎襲撃も成功しなかつた。双方が精鋭驍勇(げうゆう)、死物狂ひを極(きは)め尽した活動写真的の此の華□しい騎馬戦も、将門方の一騎士が結城寺の前で敵が不意打に来たなと悟つて、良兼方の騎士の後から尾行(びかう)して居て、鴨橋(かもはし)(今の結城(ゆふき)郡新宿(しんじゆく)村のかま橋)から急に駈抜(かけぬ)けて注進したため、危くも将門は勝を得てしまつた。良兼は此の失敗に多く勇士を失ひ、気屈して、勢(いきほひ)衰へ、怏□(あう/\)として楽まず、其後は何も仕出(しいだ)し得ず、翌年天慶二年の六月上旬病死して終(しま)つた。子春丸は事あらはれて、不意討の日から幾程も無く捕へられて殺されてしまつた。
 突騎襲撃の不成功に終つた翌年の春、良兼は手を出すことも出来無くなつてゐるし、貞盛も為すこと無く居ねばならぬので、かくては果てじと、貞盛は京上(のぼ)りを企てた。都へ行つて将門の横暴を訴へ、天威を藉(か)りてこれを亡(ほろ)ぼさうといふのである。将門はこれを覚(さと)つて、貞盛に兎角(とかく)云ひこしらへさせては面倒であると、急に百余騎を率(ひき)ゐて追駈けた。二月の二十九日、山道を心がけた貞盛に、信濃(しなの)の小県(ちひさがた)の国分寺(こくぶじ)の辺で追ひついて戦つた。貞盛も思ひ設けぬでは無かつたから防ぎ箭(や)を射つた。貞盛方の佗田真樹は戦死し、将門方の文屋好立(ぶんやのよしたつ)は負傷したが助かつた。貞盛は辛(から)くも逃(のが)れて、遂(つひ)に京に到(いた)り、将門暴威を振ふの始終を申立てた。此歳五月改元、天慶元年となつて、其の六月、朝廷より将門を召すの符を得て常陸に帰り、常陸介藤原維幾(これちか)の手から将門に渡した。将門は符を得ても命を奉じ無かつた。維幾は貞盛の叔母婿(をばむこ)であつた。
 貞盛が京上りをした翌天慶二年の事である。武蔵の国にも紛擾(ふんぜう)が生じた。これも当時の地方に於て綱紀の漸(やうや)く弛(ゆる)んだことを証拠立てるものであるが、それは武蔵権守興世王と、武蔵介経基と、足立郡司判官武芝とが葛藤(かつとう)を結んで解けぬことであつた。武芝は武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)の後で、足立(あだち)埼玉(さいたま)二郡は国中で早く開けたところであり、それから漸く人烟(じんえん)多くなつて、奥羽への官道の多摩(たま)郡中の今の府中のあるところに庁が出来たのであるが、武芝は旧家であつて、累代の恩威を積んでゐたから、当時中□勢力のあつたものであらう、そこへ新(あらた)に権守(ごんのかみ)になつた興世王と新に介(すけ)になつた経基とが来た。経基は清和源氏の祖で六孫王其人である。興世王とは如何なる人であるか、古より誰も余り言はぬが、既に王といはれて居り、又経基との地位の関係から考へて見ても、帝系に出でゝ二代目位か三代目位の人であらう。高望王が上総介、六孫王が武蔵介、およそかゝる身分の人□がかゝる官に任ぜられたのは当時の習(ならひ)であるから、興世王も蓋(けだ)し然様(さう)いふ人と考へて失当(しつたう)でもあるまい。其頃桓武天皇様の御子万多(まんた)親王の御子の正躬(まさみ)王の御後には、住世(すみよ)、基世(もとよ)、助世、尚世(ひさよ)、などいふ方□があり、又正躬王御弟には保世(やすよ)、継世(つぐよ)、家世など皆世の字のついた方が沢山(たくさん)あり、又桓武天皇様の御子仲野親王の御子にも茂世、輔世(すけよ)、季世(すゑよ)など世のついた方□が沢山に御在(おいで)であるところから推(お)して考へると、興世王は或は前掲二親王の中のいづれかの後であつたかとも思へるが、系譜で見出さぬ以上は妄測(まうそく)は力が無い。たゞ時代が丁度相応するので或はと思ふのである。日本外史や日本史で見ると、いきなり「兇険にして乱を好む」とあつて、何となく熊坂長範(ちやうはん)か何ぞのやうに思へるが、何様(どう)いふものであらうか。扨(さて)此の興世王と経基とは、共に我(が)の強い勢(いきほひ)の猛(さか)しい人であつたと見え、前例では正任未だ到(いた)らざるの間は部に入る事を得ざるのであるのに、推(お)して部に入つて検視しようとした。武芝は年来公務に恪勤(かくきん)して上下(しやうか)の噂も好いものであつたが、前例を申して之を拒(こば)んだ。ところが、郡司の分際(ぶんざい)で無礼千万であると、兵力づくで強(し)ひて入部し、国内を凋弊(てうへい)し、人民を損耗(そんかう)せしめんとした。武芝は敵せないから逃げ匿(かく)れると、武芝の私物(しぶつ)まで検封してしまつた。
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