蒲生氏郷
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著者名:幸田露伴 

 大きい者や強い者ばかりが必ずしも人の注意に値する訳では無い。小さい弱い平々凡々の者も中々の仕事をする。蚊の嘴(くちばし)といえば云うにも足らぬものだが、淀川両岸に多いアノフェレスという蚊の嘴は、其昔其川の傍の山崎村に棲(す)んで居た一夜庵(いちやあん)の宗鑑の膚(はだえ)を螫(さ)して、そして宗鑑に瘧(おこり)をわずらわせ、それより近衛(このえ)公をして、宗鑑が姿を見れば餓鬼つばた、の佳謔(かぎゃく)を発せしめ、随(しがた)って宗鑑に、飲まんとすれど夏の沢水、の妙句を附けさせ、俳諧(はいかい)連歌(れんが)の歴史の巻首を飾らせるに及んだ。蠅(はえ)といえば下らぬ者の上無しで、漢の班固をして、青蠅(せいよう)は肉汁を好んで溺(おぼ)れ死することを致す、と笑わしめた程の者であるが、其のうるさくて忌々(いまいま)しいことは宋(そう)の欧陽修をして憎蒼蠅賦の好文字を作(な)すに至らしめ、其の逐(お)えば逃げ、逃げては復(また)集るさまは、片倉小十郎をしてこれを天下の兵に擬(なぞら)えて、流石(さすが)の伊達政宗をして首(こうべ)を俛(ふ)して兎も角も豊臣秀吉の陣に参候するに至るだけの料簡(りょうけん)を定めしめた。微物凡物も亦是(かく)の如くである。本より微物凡物を軽(かろ)んずべきでは無い。そこで今の人が好んで微物凡物、云うに足らぬようなもの、下らぬものの上無しというものを談話の材料にしたり、研究の対象にするのも、まことにおもしろい。蚤(のみ)のような男、蝨(しらみ)のような女が、何様(どう)致した、彼様(こう)仕(つかまつ)った、というが如き筋道の詮議立やなんぞに日を暮したとて、尤(もっとも)千万なことで、其人に取ってはそれだけの価のあること、細菌学者が顕微鏡を覗いているのが立派な事業で有ると同様であろう。が、世の中はお半や長右衛門、おべそや甘郎(あまろう)ばかりで成立って居る訳でも無く、バチルスやヒドラのみの宇宙でも無い。獅子(しし)や虎のようなもの、鰐魚(わに)や鯱鉾(しゃちほこ)のようなものもあり、人間にも凡物で無い非凡な者、悪く云えばひどい奴、褒めて云えば偉い者もあり、矮人(わいじん)や普通人で無い巨人も有り、善なら善、悪なら悪、くせ者ならくせ者で勝(すぐ)れた者もある。それ等の者を語ったり観たりするのも、流行(はや)る流行らぬは別として、まんざら面白くないこともあるまい。また人の世というものは、其代々で各々異なって居る。自然そのままのような時もある、形式ずくめで定(き)まりきったような時もある、悪く小利口な代もある、情慾崇拝の代もある、信仰牢固(ろうこ)の代もある、だらけきったケチな時代もある、人々の心が鋭く強くなって沸(たぎ)りきった湯のような代もある、黴菌(ばいきん)のうよつくに最も適したナマヌルの湯のような時もある、冷くて活気の乏しい水のような代もある。其中で沸り立ったような代のさまを観たり語ったりするのも、又面白くないこともあるまい。細かいことを語る人は今少く無い。で、別に新らしい発見やなんぞが有る訳では無いが、たまの事であるから、沸った世の巨人が何様(どん)なものだったかと観たり語ったりしても、悪くはあるまい。蠅の事に就いて今挙げた片倉小十郎や伊達政宗に関聯(かんれん)して、天正十八年、陸奥(むつ)出羽(でわ)の鎮護の大任を負わされた蒲生氏郷(がもううじさと)を中心とする。
 歴史家は歴史家だ、歴史家くさい顔つきはしたくない。伝記家と囚(とら)われて終(しま)うのもうるさい。考証家、穿鑿(せんさく)家、古文書いじり、紙魚(しみ)の化物と続西遊記に罵(ののし)られているような然様(そう)いう者の真似もしたくない。さればとて古い人を新らしく捏直(こねなお)して、何の拠り処もなく自分勝手の糸を疝気(せんき)筋に引張りまわして変な牽糸傀儡(あやつりにんぎょう)を働かせ、芸術家らしく乙に澄ますのなぞは、地下の枯骨に気の毒で出来ない。おおよそは何かしらに拠って、手製の万八(まんぱち)を無遠慮に加えず、斯様(こう)も有ったろうというだけを評釈的に述べて、夜涼の縁側に団扇(うちわ)を揮(ふる)って放談するという格で語ろう。
 今があながち太平の世でも無い。世界大戦は済んだとは云え、何処か知らで大なり小なりの力瘤(ちからこぶ)を出したり青筋を立てたり、鉄砲を向けたり堡塁(ほるい)を造ったり、造艦所をがたつかせたりしている。それでも先々女房には化粧をさせたり、子供には可憐な衣服(なり)をさせたりして、親父殿も晩酌の一杯ぐらいは楽んでいられて、ドンドン、ジャンジャン、ソーレ敵軍が押寄せて来たぞ、酷(ひど)い目にあわぬ中に早く逃げろ、なぞということは無いが、永禄、元亀、天正の頃は、とても今の者が想像出来るような生優しい世では無かった。資本主義も社会主義も有りはしない、そんなことは昼寝の夢に彫刻をした刀痕(とうこん)を談ずるような埒(らち)も無いことで、何も彼も滅茶(めちゃ)滅茶だった。永禄の前は弘治、弘治の前は天文だが、天文よりもまだ前の前のことだ、京畿地方は権力者の争い騒ぐところで有ったから、早くより戦乱の巷(ちまた)となった。当時の武士、喧嘩(けんか)商買、人殺し業、城取り、国取り、小荷駄取り、即ち物取りを専門にしている武士というものも、然様然様チャンチャンバラばかり続いている訳では無いから、たまには休息して平穏に暮らしている日もある。行儀のよい者は酒でも飲む位の事だが、犬を牽(ひ)き鷹を肘(ひじ)にして遊ぶ程の身分でも無く、さればと云って何の洒落(しゃれ)た遊技を知っているほど怜悧(れいり)でも無い奴は、他に智慧が無いから博奕(ばくち)を打って閑(ひま)を潰(つぶ)す。戦(いくさ)ということが元来博奕的のものだから堪(たま)らないのだ、博奕で勝つことの快さを味わったが最期、何に遠慮をすることが有ろう、戦乱の世は何時でも博奕が流行(はや)る。そこで社や寺は博奕場になる。博奕道の言葉に堂を取るだの、寺を取るだの、開帳するだのというのは今に伝わった昔の名残だ。そこで博奕の事だから勝つ者があれば負けるものもある。負けた者は賭(か)ける料が無くなる。負ければ何の道の勝負でも口惜しいから、賭ける料が尽きても止(や)められない。仕方が無いから持物を賭ける。又負けて持物を取られて終うと、遂には何でも彼でも賭ける。愈々(いよいよ)負けて復(また)取られて終うと、終(つい)には賭けるものが無くなる。それでも剛情に今一ト勝負したいと、それでは乃公(おれ)は土蔵一ツ賭ける、土蔵一ツをなにがし両のつもりにしろ、負けたら今度戦の有る節には必ず乃公が土蔵一ツを引渡すからと云うと、其男が約を果せるらしい勇士だと、ウン好かろうというので、其の口約束に従ってコマを廻して呉れる。ひどい事だ。自分の土蔵でも無いものを、分捕(ぶんどり)して渡す口約束で博奕を打つ。相手のものでも無いのに博奕で勝ったら土蔵一ト戸前受取るつもりで勝負をする。斯様いうことが稀有(けう)では無かったから雑書にも記されて伝わっているのだ。これでは資本の威力もヘチマも有ったものでは無い。然様かと思うと一方の軍が敵地へ行向う時に、敵地でも無く吾(わ)が地でも無い、吾が同盟者の土地を通過する。其時其の土地の者が敵方へ同情を寄せていると、通過させなければ明白な敵対行為になるので武力を用いられるけれども、通過させることは通過させておいて、民家に宿舎することを同盟謝絶して其一軍に便宜を供給しない。詰り遊歴者諸芸人を勤倹同盟の村で待遇するように待遇する。すると其軍の大将が武力を用いれば何とでも随意に出来るけれど、好い大将である、仁義の人であると思われようとする場合には、寒風雨雪の夜でも押切って宿舎する訳には行かない。憎いとは思いながらも、非常の不便を忍び困苦を甘受せねばならぬ。斯様(こう)いう民衆の態度や料簡方(りょうけんかた)は、今では一寸想像されぬが、中々手強(てごわ)いものである。現に今語ろうとする蒲生氏郷は、豊臣秀吉即ち当時の主権執行者の命によりて奥羽鎮護の任を帯びて居たのである。然るに葛西(かさい)大崎の地に一揆(いっき)が起って、其地の領主木村父子を佐沼の城に囲んだ。そこで氏郷は之を援(たす)けて一揆を鎮圧する為に軍を率いて出張したが、途中の宿々(しゅくじゅく)の農民共は、宿も借さなければ薪炭など与うる便宜をも峻拒(しゅんきょ)した。これ等は伊達政宗の領地で、政宗は裏面は兎に角、表面は氏郷と共に一揆鎮圧の軍に従わねばならぬものであったのである。借さぬものを無理借りする訳には行かぬので、氏郷の軍は奥州の厳冬の時に当って風雪の露営を幾夜も敢てした困難は察するに余りある。斯様いう場合、戦乱の世の民衆というものは中々に極度まで自己等の権利を残忍に牢守(ろうしゅ)している。まして敗軍の将士が他領を通過しようという時などは、恩も仇(あだ)もある訳は無い無関係の将士に対して、民衆は剽盗(ひょうとう)的の行為に出ずることさえある。遠く源平時代より其証左は歴々と存していて、特(こと)に足利(あしかが)氏中世頃から敗軍の将士の末路は大抵土民の為に最後の血を瀝尽(れきじん)させられている。ひとり明智光秀が小栗栖(おぐるす)長兵衛に痛い目を見せられたばかりでは無い。斯様いうように民衆も中々手強くなっているのだから、不人望の資産家などの危険は勿論の事想察に余りある。其代り又手苛(てひど)い領主や敵将に出遇(であ)った日には、それこそ草を刈るが如くに人民は生命も取られれば財産も召上げられて終(しま)う。で、つまり今の言葉で云う搾取階級も被搾取階級も、何れも是れも「力の発動」に任せられていた世であった。理屈も糸瓜(へちま)も有ったものでは無かった。債権無視、貸借関係の棒引、即ち徳政はレーニンなどよりずっと早く施行された。高師直(こうのもろなお)に取っては臣下の妻妾(さいしょう)は皆自己の妻妾であったから、師直の家来達は、御主人も好いけれど女房の召上げは困ると云ったというが、武田信玄になると自分はそんな不法行為をしなかったけれども「命令雑婚」を行わせたらしく想われる。何処の領主でも兵卒を多く得たいものは然様(そう)いうことを敢てするを忌まなかったから、共婚主義などは随分古臭いことである。滅茶苦茶(めちゃくちゃ)なことの好きなものには実に好い世であった。
 斯様いう恐ろしい、そして馬鹿げた世が続いた後に、民衆も目覚めて来れば為政者権力者も目覚めて来かかった時、此世に現われて、自らも目覚め、他をも目覚めしめて、混乱と紛糾に陥っていたものを「整理」へと急がせることに骨折った者が信長であった、秀吉であった。醍醐(だいご)の醍の字を忘れて、まごまごして居た佑筆(ゆうひつ)に、大の字で宜いではないかと云った秀吉は、実に混乱から整理へと急いで、譬(たと)えば乱れ垢(あか)づいた髪を歯の疎(あら)い丈夫な櫛(くし)でゴシゴシと掻いて整え揃えて行くようなことをした人であった。多少の毛髪は引切っても引抜いても構わなかった。其為に少し位は痛くっても関(かま)うものかという調子で遣りつけた。ところが結ぼれた毛の一トかたまりグッと櫛の歯にこたえたものがあった。それは関八州横領の威に誇っていた北条氏であった。エエ面倒な奴、一トかたまり引ッコ抜いて終え、と天下整理の大旆(たいはい)の下に四十五箇国の兵を率いて攻下ったのが小田原陣であったのだ。
 北条氏のほかに、まだ一トかたまりの結ぼれがあって、工合好く整理の櫛の歯に順(したが)って解けなければ引ッコ抜かれるか□断(ひっちぎ)られるかの場合に立っているのがあった。伊達政宗がそれであった。伊達藤次郎政宗は十八歳で父輝宗から家を承(う)けた「えら者」だ。天正の四年に父の輝宗が板屋峠を踰(こ)えて大森に向い、相馬弾正大弼(だんじょうたいひつ)と畠山右京亮義継(うきょうのすけしつぐ)、大内備前定綱との同盟軍を敵に取って兵を出した時、年はわずかに十歳だったが、先鋒(せんぽう)になろうと父に請うた位に気嵩(きがさ)で猛(さか)しかった。十八歳といえば今の若い者ならば出来の悪くないところで、やっと高等学校の入学試験にパスしたのを誇るくらいのところ、大抵の者は低級雑誌を耽読(たんどく)したり、活動写真のファンだなぞと愚にもつかないことを大したことのように思っている程の年齢だ。それが何様(どう)であろう、十八で家督相続してから、輔佐の良臣が有ったとは云え、もう立派に一個の大将軍になって居て、其年の内に、反復常無しであった大内備前を取って押えて、今後異心無く来り仕える筈に口約束をさせて終っている。それから、十九、二十、二十一、二十二、二十三、二十四と、今年天正の十八年まで六年の間に、大小三十余戦、蘆名、佐竹、相馬、岩城、二階堂、白川、畠山、大内、此等を向うに廻して逐(お)いつ返しつして、次第次第に斬勝(きりか)って、既に西は越後境、東は三春、北は出羽に跨(またが)り、南は白川を越して、下野(しもつけ)の那須、上野(こうつけ)の館林までも威□(いえん)は達し、其城主等が心を寄せるほどに至って居る。特(こと)に去年蘆名義広との大合戦に、流石(さすが)の義広を斬靡(きりなび)けて常陸(ひたち)に逃げ出さしめ、多年の本懐を達して会津(あいづ)を乗取り、生れたところの米沢城から乗出して会津に腰を据え、これから愈々(いよいよ)南に向って馬を進め、先ず常陸の佐竹を血祭りにして、それから旗を天下に立てようという勢になっていた。仙道諸将を走らせ、蘆名を逐って会津を取ったところで、部下の諸将等が大(おおい)に城を築き塁を設けて、根を深くし蔕(へた)を固くしようという議を立てたところ、流石は後に太閤(たいこう)秀吉をして「くせ者」と評させたほどの政宗だ、ナニ、そんなケチなことを、と一笑に附してしまった。云わば少しばかり金が出来たからとて公債を買って置こうなどという、そんな蝨(しらみ)ッたかりの魂魄(たましい)とは魂魄が違う。秀吉、家康は勿論の事、政宗にせよ、氏郷にせよ、少し前の謙信にせよ、信玄にせよ、天下麻の如くに乱れて、馬烟(うまげむり)や鬨(とき)の声、金鼓(きんこ)の乱調子、焔硝(えんしょう)の香、鉄と火の世の中に生れて来た勝(すぐ)れた魂魄はナマヌルな魂魄では無い、皆いずれも火の玉だましいだ、炎々烈々として已(や)むに已まれぬ猛□(もうえん)を噴き出し白光を迸発(ほうはつ)させているのだ。言うまでも無く吾(わ)が光を以て天下を被(おお)おう、天下をして吾が光を仰がせよう、と熱(いき)り立って居るのだ。政宗の意中は、いつまで奥羽の辺鄙(へんぴ)に欝々(うつうつ)として蟠居(ばんきょ)しようや、時を得、機に乗じて、奥州駒(おうしゅうごま)の蹄(ひづめ)の下に天下を蹂躙(じゅうりん)してくれよう、というのである。これが数え年で二十四の男児である。来年卒業証書を握ったらべそ子嬢に結婚を申込もうなんと思い寐(ね)の夢魂七三(しちさん)にへばりつくのとは些(ちと)違って居た。
 諸老臣の深根固蔕(こたい)の議をウフンと笑ったところは政宗も実に好い器量だ、立派な火の玉だましいだ。ところが此の火の玉より今少しく大きい火の玉が西の方より滾転(こんてん)殺到して来た。命に従わず朝(ちょう)を軽(かろ)んずるというので、節刀を賜わって関白が愈々東下して北条氏を攻めるというのである。北条氏以外には政宗が有って、迂闊(うかつ)に取片付けられる者では無かった。其他は碌々(ろくろく)の輩、関白殿下の重量が十分に圧倒するに足りて居たが、北条氏は兎に角八州に手が延びて居たので、ムザとは圧倒され無かった。強盗をしたのだか何をしたのだか知らないが、黄金を沢山持って武者修行、悪く云えば漂浪して来た伊勢新九郎は、金貸をして利息を取りながら親分肌を見せては段々と自分の処へ出入する士(さむらい)どもを手なずけて終(つい)に伊豆相模に根を下し、それから次第に膨脹(ぼうちょう)したのである。此の早雲という老夫(おやじ)も中々食えない奴で、三略の第一章をチョピリ聴聞すると、もうよい、などと云ったという大きなところを見せて居るかと思うと、主人が不取締だと下女が檐端(のきば)の茅(かや)を引抽(ひきぬ)いて焚付(たきつ)けにする、などと下女がヤリテンボウな事をする小さな事にまで気の届いている、凄(すさま)じい聡明(そうめい)な先生だった。が、金貸をしたというのは蓋(けだ)し虚事ではなかろう。地生(じおい)の者でも無し、大勢で来たのでも無し、主人に取立てられたと云うのでも無し、そんな事でも仕無ければ機微にも通じ難く、仕事の人足も得難かったろう。明治の人でも某老は同国人の借金の尻拭いを仕て遣り遣りして、終におのずからなる勢力を得て顕栄の地に達したという話だ。嘘(うそ)八百万両も貸付けたら小人島(こびとじま)の政治界なんぞには今でも頭の出せそうに思われる理屈がある。で、早雲は好かったが、其後氏綱、氏康、これも先ず好し、氏康の子の氏政に至っては世襲財産で鼻の下の穴を埋めて居る先生で、麦の炊き方を知らないで信玄にお坊ッちゃんだと笑われた。下女が乱暴に焚付(たきつけ)を作ることまで知った長氏に起って、生の麦を直(すぐ)に炊けるものだと思っていた氏政に至って、もう脉(みゃく)はあがった。麦の炊きようも知らない分際で、台所奉行から出世した関白と太刀打(たちうち)が出来るものでは無い。関白が度々上洛(じょうらく)を勧めたのに、悲しいことだ、お坊さん殻威張(からいば)りで、弓矢でこいなぞと云ったから堪(たま)らない。待ってましたと計(ばか)りに関白の方では、此の大石を取れば碁は世話無しに勝になると、堂々たる大軍、徳川を海道より、真田(さなだ)を山道より先鋒(せんぽう)として、前田、上杉、いずれも戦にかけては恐ろしく強い者等に武蔵、上野、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、安房(あわ)の諸国の北条領の城々六十余りを一月の間に揉潰(もみつぶ)させて、小田原へ取り詰めた。
 最初北条方の考では源平の戦に東軍の勝となっている先蹤(せんしょう)などを夢みて居たかも知れぬが、秀吉は平家とは違う。おまけに源平の時は東軍が踏出して戦っているのに、北条氏は碌(ろく)に踏出しても居ず、まるで様子が違っている。勝形は少しも無く、敗兆は明らかに見えていた。然し北条も大々名だから、上方勢と関東勢との戦はどんなものだろうと、上国の形勢に達せぬ奥羽の隅に居た者の思ったのも無理は無い。又政宗も朝命を笠に被(き)て秀吉が命令ずくに、自分とは別に恨も何も無い北条攻めに参会せよというのには面白い感情を持とう筈は無かった。そこで北条が十二分に上方勢と対抗し得るようならば、上方勢の手並の程も知れたものだし、何も慌てて降伏的態度に出る必要は無いし、且(かつ)北条が敵し得ぬにしても長く堪え得るようならば、火事は然程(さほど)に早く吾(わ)が廂(ひさし)へ来るものでは無い、と考えて、狡黠(こうかつ)には相違無いが、他人交際(づきあい)の間柄ではあり、戦乱の世の常であるから、形勢観望、二タ心抱蔵と出かけて、秀吉の方の催促にも畏(かしこ)まり候とは云わずに、ニヤクヤにあしらっていた。一ツは関東は関東の国自慢、奥羽は奥羽の国自慢があって、北条氏が源平の先蹤を思えば、奥羽は奥羽で前九年後三年の先蹤を思い、武家の神のような八幡太郎を敵にしても生やさしくは平らげられなかった事実に心強くされて居た廉(かど)もあろうし、又一ツは何と云っても鼻ッ張りの強い盛りの二十三四であるから、噂に聞いた猿面冠者に一も二も無く降伏の形を取るのを忌々(いまいま)しくも思ったろう。
 然し政宗は氏康のような己を知らず彼を知らぬお坊ッちゃんでは無かった。少くも己を知り又彼を知ることに注意を有(も)って居た。秀吉との交渉は天正十二年頃から有ったらしい。秀吉と徳川氏との長湫(ながくて)一戦後の和が成立して、戦は勝ったが矢張り徳川氏は秀吉に致された形になって、秀吉の勢威隆々となったからであろうか、後藤基信をして政宗は秀吉に信書を通ぜしめている。如才無い家康は勿論それより前に使を政宗に遣わして修好して居る。家康は海道一の弓取として英名伝播して居り、且秀吉よりは其位置が政宗に近かったから、政宗もおよそ其様子合を合点して居たことだろう。天正十六年には秀吉の方から書信があり、又刀などを寄せて鷹を請うて居る。鷹は奥州の名物だが、もとより鷹は何でもない、是は秀吉の方から先手を打って、政宗を引付けようというにあったこと勿論である。秀吉の命に出たことであろう、前田利家からも通信は来ている。が、ここまでは何れにしても何でも無いことだったが、秀吉も次第に膨脹すれば政宗も次第に膨脹して、いよいよ接触すべき時が逼(せま)って来た。其年の九月には家康から使が来、又十二月には玄越というものを遣わして、関白の命を蒙(こうむ)って仙道の諸将との争を和睦(わぼく)させようと存じたが、承れば今度和議が成就した由、今後復(また)合戦沙汰になりませぬよう有り度い、と云って来た。これは秀吉の方に政宗の国内の事情が知悉(ちしつ)されているということを語って居るものである。まだ其時は政宗が会津を取って居たのでは無いが、徳川氏からの使の旨で秀吉の意を猜(すい)すれば、秀吉は政宗が勝手な戦をして四方を蚕食しつつ其大を成すを悦(よろこ)ばざること分明であることが、政宗の※中(きょうちゅう)[#「匈/月」、1015-上-9]に映らぬことは無い。それでも政宗は遠慮せずに三千塚という首塚を立てる程の激しい戦をして蘆名義広を凹(へこ)ませ、とうとう会津を取って終(しま)ったのが、其翌年の五月のことだ。秀吉の意を破り、家康の言を耳に入れなかった訳である。そこで此の敵の蘆名義広が、落延びたところは同盟者の佐竹義宣方であるから、佐竹が、政宗という奴はひどい奴でござる、と一切の事情を成るべく自分方に有利で政宗に不利のように秀吉や家康に通報したのは自然の勢である。これは政宗も万々合点していることだから、其年の暮には上方の富田左近将監(しょうげん)や施薬院玄以に書を与えて、何様(どん)なものだろうと探ると、案の定一白や玄以からは、会津の蘆名は予(か)ねてより通聘(つうへい)して居るのに、貴下が勝手に之を逐(お)い落して会津を取られたことは、殿下に於て甚しく機嫌を損じていらるるところだ、と云って遣(よこ)した。もう此時は秀吉は小田原の北条を屠(ほふ)って、所謂(いわゆる)「天下の見懲らし」にして、そして其勢で奥羽を刃(やいば)に血ぬらず整理して終おうという計画が立って居た時だから、勿論秀吉の命を受けての事だろう、前田利家や浅野長政からも、又秀吉の後たるべき三好秀次からも、明年小田原征伐の砌(みぎり)は兵を出して武臣の職責を尽すべきである、と云って来ている。家康から、早く帰順の意を表するようにするが御為だろう、と勧めて来ていることも勿論である。明けて天正十八年となった、正月、政宗は良覚院(りょうがくいん)という者を京都へ遣った。三月は斎藤九郎兵衛が京都から浅野長政等の書を持って来て、いよいよ関東奥羽平定の大軍が東下する、北条征伐に従わるべきである、会期に違ってはなりませぬぞ、というのであった。そこで九郎兵衛に返書を齎(もた)らさしめ、守屋守柏(しゅはく)、小関(おぜき)大学の二人を京へ遣ったが、政宗の此頃は去年大勝を得てから雄心勃々(ぼつぼつ)で、秀吉東下の事さえ無ければ、無論常陸に佐竹を屠って、上野下野と次第に斬靡(きりなび)けようというのだから、北条征伐に狩出されるなどは面白くなかったに相違無い。ところが秀吉の方は大軍堂々と愈々(いよいよ)北条征伐に遣って来たのだ。サア信書の往復や使者の馬の蹄(ひづめ)の音の取り遣りでは無くなった、今正に上方勢の旗印を読むべき時が来たのだ。金の千成瓢箪(せんなりびょうたん)に又一ツ大きな瓢箪が添わるものだろうか、それとも北条氏三鱗(みつうろこ)の旗が霊光を放つことであろうか、猿面冠者の軍略兵気が真実其実力で天下を取るべきものか。政宗は抜かぬ刀を左手(ゆんで)に取り絞って、ギロリと南の方を睥睨(へいげい)した。
 たぎり立った世の士(さむらい)に取って慚(は)ずべき事と定まっていたことは何ヶ条もあった。其中先ず第一は「聞怯(ききお)じ」というので、敵が何万来るとか何十万寄せるとか、或は猛勇で聞えた何某(なにがし)が向って来るとかいうことを聞いて、其風聞に辟易(へきえき)して闘う心が無くなり、降参とか逃走とかに料簡(りょうけん)が傾くのを「聞怯じ」という。聞怯じする奴ぐらいケチな者は無い、如何に日頃利口なことを云っていても聞怯じなんぞする者は武士では無い。次に「見崩れ」というのは敵と対陣はしても、敵の潮の如く雲の如き大軍、又は勇猛鷙悍(しかん)の威勢を望み見て、こいつは敵(かな)わないとヒョコスカして逃腰になり、度を失い騒ぎかえるのである。聞怯じよりはまだしもであるが、士分の真骨頭の無い事は同様である。「不覚」というのは又其次で、これは其働きの当を得ぬもので、不覚の好く無いことは勿論であるが、聞怯じ見崩れをする者よりは少しは恕(じょ)すべきものである。「不鍛煉(ふたんれん)」は「不覚」が、心掛の沸(たぎ)り足らないところから起るに比して又一段と罪の軽いもので、場数を踏まぬところから起る修行不足である。聞怯(ききお)じ[#ルビの「ききお」は底本では「ききおじ」]、見崩れする奴ほど人間の屑(くず)は無いが、扨(さて)大抵の者は聞怯じもする、見崩れもするもので、独逸(ドイツ)のホラアフク博士が地球と彗星(すいせい)が衝突すると云ったと聞いては、眼の色を変えて仰天し、某国のオドカシック号という軍艦の大砲を見ては、腰が抜けそうになり、新学説、新器械だ、ウヘー、ハハアッと叩頭する類(たぐい)は、皆是れ聞怯じ見崩れの手合で、斯様(こう)いう手合が多かったり、又大将になっていたりして呉れては、戦ならば大敗、国なら衰亡する。平治の戦の大将藤原信頼は重盛に馳向われて逃出して終(しま)った。あの様な見崩れ人種が大将では、義朝や悪源太が何程働いたとて勝味は無い。鞭声(べんせい)粛々夜河を渡った彼(か)の猛烈な謙信勢が暁の霧の晴間から雷火の落掛るように哄(どっ)と斬入った時には、先ず大抵な者なら見ると直に崩れ立つところだが、流石(さすが)は信玄勢のウムと堪(こら)えたところは豪快淋漓(りんり)で、斬立てられたには違無かろうが実に見上げたものだ。政宗の秀吉に於ける態度の明らかに爽(さわ)やかで無かったのは、潔癖の人には不快の感を催させるが、政宗だとて天下の兵を敵にすれば敵にすることの出来る力を有(も)って居たので、彼の南部の九戸(くのへ)政実ですら兎に角天下を敵にして戦った位であるから、まして政宗が然様(そう)手ッ取早く帰順と決しかねたのも何の無理があろう。梵天丸(ぼんてんまる)の幼立からして、聞怯じ、見崩れをするようなケチな男では無い。政宗の幼い時は人に対して物羞(ものはじ)をするような児で、野面(のづら)や大風(おおふう)な児では無かったために、これは柔弱で、好い大将になる人ではあるまいと思った者もあったというが、小児の時に内端(うちば)で人に臆したような風な者は柔弱臆病とは限らない、却(かえ)って早くから名誉心が潜み発達して居る為に然様いう風になるものが多いのである。片倉小十郎景綱というのは不幸にして奥州に生れたからこそ陪臣で終ったれ、京畿に生れたらば五十万石七十万石の大名には屹度(きっと)成って居たに疑無い立派な人物だが、其烱眼(けいがん)は早くも梵天丸の其様子を衆人の批難するのを排して、イヤイヤ、末頼もしい和子(わこ)様である、と云ったという。二本松義継の為に遽(にわか)に父の輝宗が攫(さら)い去られた時、鉄砲を打掛けて其為に父も殺されたが義継をも殺して了った位のイラヒドイところのある政宗だ。関白の威勢や、三好秀次や浅野長政や前田利家や徳川家康や、其他の有象無象(うぞうむぞう)等の信書や言語が何を云って来たからと云って、禽(とり)の羽音、虻(あぶ)の羽音だ。そんな事に動く根性骨では無い。聞怯じ人種、見崩れ人種ではないのである。自分が自分で合点するところが有ってから自分の碁の一石を下そうという政宗だ。確かに確かに関白と北条とを見積ってから何様(どう)とも決めようという料簡だ、向背の決着に遅々としたとて仕方は無いのだ。
 そこで政宗が北条氏の様子をも上方勢の様子をも知り得る限り知ろうとして、眼も有り才も有る者共を沢山に派出したことは猜知(すいち)せられることだ。北条の方でも秀吉の方でも政宗を味方にしたいのであるから、便宜は何程でも有ったろうというものだ。で、関白は愈々(いよいよ)小田原攻にかかり、事態は日に逼(せま)って来た。ところへ政宗が出した視察者の一人の大峯金七は帰って来た。
 金七の復命は政宗及び其老臣等によって注意を以て聴取られた。勿論小田原攻め視察の命を果して帰ったものは金七のみでは無かったであろうが、其他の者の姓名は伝わらない。金七が還(かえ)っての報告によると、猿面冠者の北条攻めの有様は尋常一様、武勇一点張りのものでは無い、其大軍といい、一般方針といい、それから又千軍万馬往来の諸雄将の勇威と云い、大剛の士、覚えの兵等の猛勇で功者な事と云い、北条方にも勇士猛卒十八万余を蓄わえて居るとは云え、到底関白を敵として勝味は無い。特(こと)に秀吉の軍略に先手先手と斬捲(きりまく)られて、小田原の孤城に退嬰(たいえい)するを余儀なくされて終(しま)って居る上は、籠中(ろうちゅう)の禽、釜中(ふちゅう)の魚となって居るので、遅かれ速かれどころでは無い、瞬く間に踏潰(ふみつぶ)されて終うか、然(さ)無(な)くとも城中疑懼(ぎく)の心の堪え無くなった頃を潮合として、扱いを入れられて北条は開城をさせられるに至るであろう、ということであった。金七の言うところは明白で精確と認められた。ここに至って政宗も今更ながら、流石に秀吉というものの大きな人物であるということを感じない訳には行かなかった。沈黙は少時(しばし)一座を掩(おお)うたことであろう。金七を退かせてから政宗は老臣等を見渡した。小田原が遣付けらるれば其次は自分である。北条も此方に対しては北条陸奥守(むつのかみ)氏輝が後藤基信に好(よし)みを通じて以来仲を好くしている、猿面冠者を敵にして立上るなら北条の亡ぼされぬ前に一日も早く上州野州武州と切って出て北条に勢援すべきだが、仙道諸将とは予(かね)てよりの深仇(しんきゅう)宿敵であり、北条の手足を□(も)ぐ為に出て居る秀吉方諸将の手並の程も詳しく承知しては居ぬ。さればと云って今更帰伏して小田原攻参会も時おくれとなっている、忌々(いまいま)しくもある。切り合って闘いたいが自分の方の石の足らぬ碁だ、巧く保ちたいが少し手数後(てかずおく)れになって居る碁で、幾許(いくばく)かの損は犠牲にせねばならなくなっている。そして決着は孰(いず)れにしても急がねばならないところだ。胸算の顔は眼玉がパッチパチ、という柳風の句があるが、流石の政宗だから見苦しい眼パチパチも仕無かったろうけれど、左思右考したには違い無い。しかし何様しても天下を敵に廻し、朝命に楯(たて)をついて、安倍の頼時や、平泉の泰衡(やすひら)の二の舞を仕て見たところが、骰子(さい)の目が三度も四度も我が思う通りに出ぬものである以上は勝てようの無いことは分明だ。そこで、残念だが仕方が無い、小田原が潰(つぶ)されて終ってからでは後手(ごて)の上の後手になる、もう何を擱(お)いても秀吉の陣屋の前に馬を繋(つな)がねばならぬ、と考えた。そこで、何様である、徳川殿の勧めに就こうかと思うが、といいながら老臣等を見渡すと、ムックリと頭(こうべ)を擡(もた)げたのが伊達藤五郎成実(しげざね)だ。
 藤五郎成実は立派な奥州侍の典型だ。天正の十三年、即ち政宗の父輝宗が殺された其年の十一月、佐竹、岩城以下七将の三万余騎と伊達勢との観音堂の戦に、成実の軍は味方と切離されて、敵を前後に受けて恐ろしい苦戦に陥った。其時成実の隊の下郡山内記(したこおりやまないき)というものが、此処で打死しても仕方が無い、一旦は引退かれるが宜くはないか、と云った折に、ギリギリと歯を切(くいしば)って、ナンノ、藤五郎成実、魂魄(たましい)ばかりに成り申したら帰りも致そう、生身で一ト歩(あし)でも後へさがろうか、と罵(ののし)って悪戦苦闘の有る限りを尽した。それで其戦も結局勝利になったため、今度(このたび)の合戦、全く其方一手の為に全軍の勝となった、という感状を政宗から受けた程の勇者である。戦場には老功、謀略も無きにあらぬ中々の人物で、これも早くから信長秀吉の眼の近くに居たら一ヶ国や二ヶ国の大名にはなったろう。政宗元服の式の時には此の藤五郎成実が太刀(たち)を奉じ、片倉小十郎景綱が小刀(しょうとう)を奉じたのである。二人は真に政宗が頼み切った老臣で、小十郎も剛勇だが智略分別が勝り、藤五郎も智略分別に逞(たくま)しいが勇武がそれよりも勝って居たらしい。
 其藤五郎成実が主人の上を思う熱心から、今や頭を擡げ眼を□(みは)って、藤五郎存ずる旨を申上げとうござる、秀吉関東征伐は今始まったことではござらぬ、既に去年冬よりして其事定まり、朝命に従い北条攻めの軍に従えとは昨年よりの催促、今に至って小田原へ参向するとも時は晩(おく)れ居り、遅々緩怠の罪は免るるところはござらぬ、たとえ厳しく咎(とが)められずとも所領を召上げられ、多年弓箭(ゆみや)にかけて攻取ったる国郡をムザムザ手離さねばならぬは必定の事、我が君今年正月七日の連歌(れんが)の発句に、ななくさを一ト手によせて摘む菜哉(かな)と遊ばされしは、仙道七郡を去年の合戦に得たまいしよりのこと、それを今更秀吉の指図に就かりょうとは口惜しい限り、とてもの事に城を掻き寨(とりで)を構え、天下を向うに廻して争おうには、勝敗は戦の常、小勢が勝たぬには定まらず、あわよくば此方が切勝って、旗を天下に樹(た)つるに及ぼうも知れず、思召(おぼしめ)しかえさせられて然るべしと存ずる、と勇気凜々(りんりん)四辺(あたり)を払って扇を膝に戦場叱咤(しった)の猛者声(もさごえ)で述べ立てた。其言の当否は兎に角、斯様(こう)いう場合斯様いう人の斯様いう言葉は少くも味方の勇気を振興する功はあるもので、たとえ無用にせよ所謂(いわゆる)無用の用である。ヘタヘタと誰も彼も降参気分になって終(しま)ったのでは其後がいけない、其家の士気というものが萎靡(いび)して終う。藤五郎も其処を慮(おもんぱか)って斯様いうことを言ったものかも知れぬ、又或は真に秀吉の意に従うのが忌々(いまいま)しくて斯様云ったのかも知れぬ。政宗も藤五郎の勇気ある言を嬉しく聞いたろう。然し何等の答は発せぬ。片倉小十郎は黙然として居る。すると原田左馬介宗時という一老臣、これも伊達家の宗徒(むねと)の士だが成実の言に反対した。伊達騒動の講釈や芝居で、むやみに甚(ひど)い悪者にされて居る原田甲斐は、其の実兇悪(きょうあく)な者では無い、どちらかと云えばカッとするような直情の男だったろうと思われるが、其の甲斐は即ち此の宗時の末だ。宗時も十分に勇武の士で、思慮もあれば身分もあった者だが、藤五郎の言を聞くと、イヤイヤ、其御言葉は一応御尤(ごもっとも)には存ずるが、関白も中々世の常ならぬ人、匹夫(ひっぷ)下郎(げろう)より起って天下の旗頭となり、徳川殿の弓箭(ゆみや)に長(た)けたるだに、これに従い居らるるというものは、畢竟(ひっきょう)朝威を負うて事を執らるるが故でござる、今若(も)しこれに従わずば、勝敗利害は姑(しば)らく擱(お)き、上(かみ)は朝庭に背くことになりて朝敵の汚命を蒙(こうむ)り、従って北条の如くに、あらゆる諸大名の箭の的となり鉄砲の的となるべく、行末の安泰覚束無(おぼつかな)きことにござる、と説いた。片倉小十郎も此時宗時の言に同じて、朝命に従わぬという名を負わされることの容易ならぬことを説いた、という説も有るが、また小十郎は其場に於ては一言も発せずに居たという説もある。其説に拠ると小十郎は何等の言をも発せずに終ったので、政宗は其夜窃(ひそ)かに小十郎の家を訪(と)うた。小十郎は主人の成りを悦(よろこ)び迎えた。政宗は小十郎の意見を質(ただ)すと、小十郎は、天下の兵はたとえば蠅(はえ)のようなもので、これを撲(う)って逐(お)うても、散じては復(また)聚(あつ)まってまいりまする、と丁度手にして居た団扇(うちわ)を揮(ふる)って蠅を撲つ状(まね)をした。そこで政宗も大(おおい)に感悟して天下を敵に取らぬことにしたというのである。いずれにしても原田宗時や片倉小十郎の言を用いたのである。
 そこで政宗は小田原へ趨(おもむ)くべく出発した。時が既に機を失したから兵を率いてでは無く、云わば帰服を表示して不参の罪を謝するためという形である。藤五郎成実は留守の役、片倉小十郎、高野壱岐(いき)、白石駿河(するが)以下百騎余り、兵卒若干を従えて出た。上野を通ろうとしたが上野が北条領で新関が処々に設けられていたから、会津から米沢の方へ出て、越後路から信州甲州を大廻りして小田原へ着いた。北条攻は今其最中であるが、関白は悠然たるもので、急に攻めて兵を損ずるようなことはせず、ゆるゆると心長閑(のどか)に大兵で取巻いて、城中の兵気の弛緩(しかん)して其変の起るのを待っている。何の事は無い勝利に定まっている碁だから煙草をふかして笑っているという有様だ。茶の湯の先生の千利休(せんのりきゅう)などを相手にして悠々と秀吉は遊んでいるのであった。政宗参候の事が通ぜられると、あの卒直な秀吉も流石(さすが)に直(すぐ)には対面をゆるさなかった。箱根の底倉に居て、追って何分の沙汰を待て、という命令だ。今更政宗は仕方が無い、底倉の温泉の烟(けむり)のもやもやした中に欝陶(うっとう)しい身を埋めて居るよりほか無かった。日は少し立った。直に引見されぬのは勿論上首尾で無い証拠だ。従って来た者の中で譜代で無い者は主人に見限りを付け出した。情無いものだ、蚤(のみ)や蝨(しらみ)は自分がたかって居た其人の寿命が怪しくなると逃げ出すのを常とする。蚤は逃げた、蝨は逃げた。貧乏すれば新らしい女は逃腰になると聞いたが、政宗に従っていた新らしい武士は逃げて退いた。其中でも矢田野伊豆(やだのいず)などいう奴は逃出して故郷の大里城に拠(よ)って伊達家に対して反旗を翻えした位だ。そこで政宗の従士は百騎あったものが三十人ばかりになって終った。
 ところへ潮加減を量って法印玄以、施薬院全宗、宮部善祥坊、福原直高、浅野長政諸人が関白の命を含んで糾問(きゅうもん)に遣って来た。浅野弥兵衛が頭分で、いずれも口利であり、外交駈引接衝応対の小手(こて)の利いた者共である。然し弥兵衛等も政宗に会って見て驚いたろう、先ず第一に年は僅に二十四五だ、短い髪を水引即ち水捻(みずより)にした紙線(こより)で巻き立て、むずかしい眼を一ト筋縄でも二タ筋縄でも縛りきれぬ面魂(つらだましい)に光らせて居たのだから、異相という言葉で昔から形容しているが、全く異相に見えたに相違無い。弥兵衛等もただ者で無いとは見て取ったろうが、関白の威光を背中に背負って居るのであるから、先ず第一に朝命を軽(かろ)んじて早く北条攻に出陣しなかったこと、それから蘆名義広を逐払(おいはら)って私に会津を奪ったこと、二本松を攻略し、須賀川を屠(ほふ)り、勝手に四隣を蚕食した廉々(かどかど)を詰問した。勿論これは裏面に於て政宗の敵たる佐竹義宣が石田三成に此等の事情を宜いように告げて、そして大有力者の手を仮りて政宗を取押えようと謀った為であると云われている。政宗が陳弁は此等諸方面との取合いの起った事情を明白に述べて、武門の意気地、弓箭の手前、已(や)むに已まれず干戈(かんか)を執ったことを云立てて屈しなかった。又朝命を軽んじたという点は、四隣皆敵で遠方の様子を存じ得申さなかったからというので言開きをした。翌日復(また)弥兵衛等は来って種々の点を責めたが、結局は要するに、会津や仙道諸城、即ち政宗が攻略蚕食した地を納め奉るが宜かろう、と好意的に諭したのである。そこで政宗は仕方が無い、もとより我慾によって国郡を奪ったのではござらぬ、という潔い言葉に吾(わ)が身をよろおって、会津も仙道諸郡も命のままに差上げることにした。
 埒(らち)は明いた。秀吉は政宗を笠懸山(かさがけやま)の芝の上に於て引見した。秀吉は政宗に侵掠(しんりゃく)の地を上納することを命じ、米沢三十万石を旧(もと)の如く与うることにし、それで不服なら国へ帰って何とでもせよ、と優しくもあしらい、強くもあしらった。歯のあらい、通りのよい、手丈夫な立派な好い大きな櫛(くし)だ。天下の整理は是(かく)の如くにして捗取(はかど)るのだ。惺々(せいせい)は惺々を愛し、好漢は好漢を知るというのは小説の常套(じょうとう)文句だが、秀吉も一瞥(いちべつ)の中の政宗を、くせ者ではあるが好い男だ、と思ったに疑無い。政宗も秀吉を、いやなところも無いでは無いが素晴らしい男だ、と思ったに疑無い。人を識(し)るは一面に在り、酒を品するは只三杯だ。打たずんば交りをなさずと云って、瞋拳(しんけん)毒手の殴り合までやってから真の朋友(ほうゆう)になるのもあるが、一見して交(まじわり)を結んで肝胆相照らすのもある。政宗と秀吉とは何様(どう)だったろう。双方共に立派な男だ、ケチビンタな神経衰弱野郎、蜆貝(しじみがい)のような小さな腹で、少し大きい者に出会うと些(ちっと)も容れることの出来ないソンナ手合では無い。嬶(かかあ)や餓鬼を愛することが出来るに至って人間並の男で、好漢を愛し得るに至ってはじめて是れ好漢、仇敵(きゅうてき)を愛し得るに至ってホントの出来た男なのだ。猿面冠者も独眼竜も立派な好漢だ、ケチビンタな蜆ッ貝野郎ではない。貴様が予(か)ねて聞いた伊達藤次郎か、おぬしが予ねて聞いた木下藤吉か、と互に面を見合せて重瞳(ちょうどう)と隻眼と相射った時、ウム、面白そうな奴、話せそうな奴、と相愛したことは疑無い。だが、お互に愛しきったか何様だか、イヤお互に底の底までは愛しきれなかったに違無い。政宗は秀吉の男ぶりに感じて之を愛したには相違ないが、帰ってから人に語って、其の底の底までは愛しきらぬところを洩(もら)したことは、尭雄僧都話(ぎょうゆうそうずばなし)に見えて居るとされている。秀吉も政宗の押えに彼(か)の手強(てごわ)な蒲生氏郷を置いたところは、愛してばかりは居なかった証拠だ。藤さんと藤さんとお互に六分は愛し、四分は余白を留(とど)めて居たのである。戦乱の世の事だ、孰(いず)れにも無理は無いと為すべきだ。
 関白が政宗に佩刀(はいとう)を預けて山へ上って小田原攻の手配りを見せた談(はなし)などは今姑(しばら)く措(お)く。さて政宗は米沢三十万石に削られて帰国した。七十万石であったという説もあるが、然様(そう)いうことは考証家の方へ預ける。秀吉が政宗の帰国を許したに就ては、秀吉の左右に、折角山を出て来た虎を復(ふたた)び深山に放つようなものである、と云った者があるということだ。そんなことを云った者は多分石田左吉の輩ででもあろう。其時秀吉は笑って、おれは弓箭沙汰(きゅうせんざた)を用いないで奥羽を平定して終(しま)うのだ、汝等の知るところでは無い、と云ったというが、実に其辺は秀吉の好いところだ。政宗だとて何で一旦関白面前に出た上で、復(また)今更に牙(きば)をむき出し毛を逆立てて咆哮(ほうこう)しようやである。
 小田原は果して手強い手向いもせず、埒(らち)も無く軍気が沮喪(そそう)して自ら保てなくなり、終(つい)に開城するの已むを得ざるに至った。秀吉は何をするのも軽々と手早い大将だ、小田原が済むと直(すぐ)に諸将を従えて奥州へと出掛けた。威を示して出羽奥州一ト撫でに治めて終おうというのである。政宗が服したのであるから刃向おうという者は無い。秀吉が宇都宮に宿営した時に政宗は片倉小十郎を従えて迎接した。小十郎は大谷吉隆に就いて主家を悪く秀吉に思取られぬよう行届いた処置をした。吉隆も人物だ。小十郎が会津蘆名の旧領地の図牒(ずちょう)の入って居る筐(はこ)を開いて示した時には黙って開かせながら、米沢の伊達旧領の図牒の入っている筐を小十郎が開いて示そうとした時には、イヤそれには及び申さぬ、と挨拶したという。大谷吉隆に片倉景綱、これも好い取組だ。互に抜目の無い挙動応対だったろう。秀吉の前に景綱も引見された時、吉隆が、会津の城御引渡しに相成るには幾日を以てせらるる御積りか、と問うたら、小十郎は、ただ留守居の居るばかりでござる、何時にても差支はござらぬ、と云ったというが、好い挨拶だ。平生行届いていて、事に当って埒の明く人であることが伺われる。これで其上に剛勇で正実なのだから、秀吉が政宗の手から取って仕舞いたい位に思ったろう、大名に取立てようとした。が、小十郎は恩を謝するだけで固辞して、飽迄伊達家の臣として身を置くを甘んじた。これも亦感ずべきことで、何という立派な其人柄だろう。浅野六右衛門正勝、木村弥一右衛門清久は会津城を受取った。七月に小田原を潰(つぶ)して、八月には秀吉はもう政宗の居城だった会津に居た。土地の歴史上から云えば会津は蘆名に戻さるべきだが、蘆名は一度もう落去したのである、自己の地位を自己で保つ能力の欠乏して居ることを現わして居るものである。此の枢要(すうよう)の地を材略武勇の足らぬものに托(たく)して置くことは出来ぬ。まして伊達政宗が連年血を流し汗を瀝(したた)らして切取った上に拠ったところの地で、いやいやながら差出したところであり、人情として涎(よだれ)を垂らし頤(あご)を朶(た)れて居るところである、又然(さ)なくとも崛強(くっきょう)なる奥州の地武士が何を仕出さぬとも限らぬところである、また然様いう心配が無くとも広闊(こうかつ)な出羽奥州に信任すべき一雄将をも置かずして、新付(しんぷ)の奥羽の大名等の誰にもせよに任かせて置くことは出来ぬところである。是(ここ)に於て誰か知ら然る可き人物を会津の主将に据えて、奥州出羽の押えの大任、わけては伊達政宗をのさばり出さぬように、表はじっとりと扱って事端を発させぬように、内々はごっつりと手強くアテテ屏息(へいそく)させるような、シッカリした者を必要とするのである。
 此のむずかしい場処の、むずかしい場合の、むずかしい役目を引受けさせられたのが鎮守府将軍田原藤太秀郷(とうだひでさと)の末孫(ばっそん)と云われ、江州(ごうしゅう)日野の城主から起って、今は勢州松坂に一方の将軍星として光を放って居た蒲生忠三郎氏郷であった。
 氏郷が会津の守護、奥州出羽の押えに任ぜられたに就ては面白い話が伝えられている。その話の一ツは最初に秀吉が細川越中守忠興(ただおき)を会津守護にしようとしたところが、越中守忠興が固く辞退した、そこで飯鉢(おはち)は氏郷へ廻った、ということである。細川忠興も立派な一将であるが、歌人を以て聞えた幽斎の後で、人物の誠実温厚は余り有るけれど、不知案内の土地へ移って、気心の知り兼ねる政宗を向うへ廻して取組もうというには如何であった。若(も)し其説が真実であるとすれば、忠興が固辞したということは、忠興の智慮が中々深くて、能(よ)く己を知り彼を知って居たということを大(おおい)に揚げるべきで、忠興の人物を一段と立派にはするが、秀吉に取っては第一には其の眼力が心細く思われるのであり、第二に辞退されて、ああ然様(そう)か、と済ませたことが下らなく思われるのである。で、この話は事実で有ったか知らぬが面白く無く思われる。
 又今一つの話は、秀吉が会津を誰に托(たく)そうかというので、徳川家康と差向いで、互に二人ずつ候補者を紙札に書いて置いてから、そして出して見た。ところが秀吉の札では一番には堀久太郎秀治(ひではる)、二番には蒲生忠三郎、家康の札では一番に蒲生忠三郎、二番に堀久太郎であった。そこで秀吉は、奥州は国侍の風が中々手強(てごわ)い、久太郎で無くては、と云うと、家康は、堀久太郎と奥州者とでは茶碗と茶碗でござる、忠三郎で無くては、と云ったというのである。茶碗と茶碗とは、固いものと固いものとが衝突すれば双方砕けるばかりという意味であろう。で、秀吉が悟って家康の言を用いたのであるというのだ。此談(はなし)は余程おもしろいが、此談が真実ならば、蟹(かに)では無いが家康は眼が高くて、秀吉は猿のように鼻が低くなる訳だ。堀久太郎は強いことは強いが、後に至って慶長の三年、越後の上杉景勝の国替のあとへ四十五万石(或は七十万石)の大封(たいほう)を受けて入ったが、上杉に陰で糸を牽(ひ)かれて起った一揆(いっき)の為に大に手古摺(てこず)らされて困った不成績を示した男である。又氏郷は相縁(あいえん)奇縁というものであろう、秀吉に取っては主人筋である信長の婿でありながら秀吉には甚だ忠誠であり、縁者として前田又左衛門利家との大の仲好しであったが、家康とは余り交情の親しいことも無かったのであり、政宗は却(かえっ)て家康と馬が合ったようであるから、此談も些(ちと)受取りかねるのである。
 今一ツの伝説は、秀吉が会津守護の人を選ぶに就いて諸将に入札をさせた。ところが札を開けて見ると、細川越中守というのが最も多かった。すると秀吉は笑って、おれが天下を取る筈だわ、ここは蒲生忠三郎で無くてはならぬところだ、と云って氏郷を任命したというのだ。おれが天下を取る筈だわ、という意は人々の識力眼力より遥に自分が優(まさ)って居るという例の自慢である。此話に拠ると、会津に蒲生氏郷を置こうというのは最初から秀吉の肚裏(とり)に定まって居たことで、入札はただ諸将の眼力を秀吉が試みたということになるので、そこが些(ちと)訝(いぶ)かしい。往復ハガキで下らない質問の回答を種々の形の瓢箪(ひょうたん)先生がたに求める雑誌屋の先祖のようなものに、千成瓢箪殿下が成下るところが聊(いささ)か憫然(びんぜん)だ。いろいろの談の孰れが真実だか知らないが、要するに会津守護は当時の諸将の間の一問題で好談柄で有ったろうから、随(したが)って種々の臆測談や私製任命や議論やの話が転伝して残ったのかも知れないと思わざるを得ぬ。
 何はあれ氏郷は会津守護を命ぜられた。ところが氏郷も一応は辞した。それでも是非頼むという訳だったろう、そこで氏郷は条件を付けることにした。今の人なら何か自分に有利な条件を提出して要求するところだが、此時分の人だから自己利益を本として釣鉤(つりばり)の□(かかり)のようなイヤなものを出しはしなかった。ただ与えられた任務を立派に遂行し得るために其便宜を与えられることを許されるように、ということであった。それは奥州鎮護の大任を全うするに付けては剛勇の武士を手下に備えなければならぬ、就ては秀吉に対して嘗(かつ)て敵対行為を取って其忌諱(きい)に触れたために今に何(ど)の大名にも召抱えられること無くて居る浪人共をも宥免(ゆうめん)あって、自分の旗の下に置くことを許容されたい、というのであった。まことに此の時代の事であるから、一能あるものでも嘗(かつ)て秀吉に鎗先(やりさき)を向けた者の浪人したのは、たとい召抱えたく思う者があっても関白への遠慮で召抱えかねたのであった。氏郷の申出は立派なものであった。秀吉たる者之を容れぬことの有ろう筈は無い。敵対又は勘当の者なりとも召抱扶持(ふち)等随意たるべきことという許しは与えられた。小田原の城中に居た佐久間久右衛門尉(きゅうえもんのじょう)は柴田勝家の甥であった。同じく其弟の源六は佐々(さっさ)成政の養子で、二人何(いづ)れも秀吉を撃取(うちとり)にかかった猛将佐久間玄蕃(げんば)の弟であったから、重々秀吉の悪(にく)しみは掛っていたのだ。此等の士は秀吉の敵たる者に扶持されぬ以上は、秀吉が威権を有して居る間は仮令(たとい)器量が有っても世の埋木(うもれぎ)にならねばならぬ運命を負うて居たのだ。まだ其他にも斯様(こう)いう者は沢山有ったのである。徳川家康に悪まれた水野三右衛門の如きも其一例だ。当時自己の臣下で自分に背いた不埒(ふらち)な奴に対して、何々という奴は当家に於て差赦(さしゆる)し難き者でござると言明すると、何(ど)の家でも其者を召抱えない。若(も)し召抱える大名が有れば其大名と前の主人とは弓箭沙汰(きゅうせんざた)になるのである。これは不義背徳の者に対する一種の制裁の律法であったのである。そこで斯様いう埋木に終るべき者を取入れて召抱える権利を此機に乗じて秀吉から得たのは実に賢いことで、氏郷に取っては其大を成す所以(ゆえん)である。前に挙げた水野三右衛門の如きも徳川家から赦されて氏郷に属するに至り、佐久間久右衛門尉兄弟も氏郷に召抱えられ、其他同様の境界(きょうがい)に沈淪(ちんりん)して居た者共は、自然関東へ流れ来て、秀吉に敵対行為を取った小田原方に居たから、小田原没落を機として氏郷の招いだのに応じて、所謂(いわゆる)戦場往来のおぼえの武士(つわもの)が吸寄せられたのであった。
 氏郷が会津に封ぜられると同時に木村伊勢守の子の弥一右衛門は奥州の葛西大崎に封ぜられた。葛西大崎は今の仙台よりも猶(なお)奥の方であるが、政宗の手は既に其辺にまで伸びて居て、前年十一月に大崎の臣の湯山隆信という者を引込んで、内々大崎氏を図らしめて居たのである。秀吉が出て来さえしなければ、無論大崎氏葛西氏は政宗の麾下(きか)に立つを余儀なくされるに至ったのであろう。此の木村父子は小身でもあり、武勇も然程(さほど)では無い者であったから、秀吉は氏郷に対して、木村をば子とも家来とも思って加護(かば)って遣れ、木村は氏郷を親とも主(しゅ)とも思って仰ぎ頼め、と命令し訓諭した。これは氏郷に取っては旅行に足弱を托(かず)けられたようなもので、何事も無ければまだしも、何事か有った時には随分厄介な事で迷惑千万である。が、致方は無い、領承するよりほかは無かったが、果して此の木村父子から事起って氏郷は大変な目に会うに至って居るのである。
 氏郷は何様(どん)な男であったろう。田原藤太十世の孫の俊賢(としかた)が初めて江州蒲生郡を領したので蒲生と呼ばれた家の賢秀(かたひで)というものの子である。此の蒲生郡を慶長六年即ち関ヶ原の戦の済んだ其翌年三月に至って家康は政宗に賜わって居る。仲の悪かった氏郷の家の地を貰ったから、大きな地で無くても政宗には一寸好い心地であったろうが、既に早く病死して居た氏郷に取っては泉下に厭(いや)な心持のしたことで有ろう。家康も亦一寸変なことをする人である。氏郷の父の賢秀というのは、当時の日野節の小歌に、陣とだに云えば下風(げふ)おこる、具足を脱ぎやれ法衣(ころも)召せ、と歌われたと云われもしている。下風という言葉は余り聞かぬ言葉で、医語かとも思うが、医家で風というのは其義が甚だ多くて、頭風といえば頭痛、驚風といえば神経疾患、中風といえば脳溢血(のういっけつ)其他からの不仁の病、痛風はリウマチス、猶馬痺風(ばひふう)だの何だのと云うのもあって、病とか邪気とかいうのと同じ位の広い意味を有して居て、又一般にただ風といえば気狂(きちがい)という意で、風僧といえば即ち気狂坊主である。中風の中は上中下の中では無いと思われるから下風とは関せぬ。これは仏経中の翻訳語で、甚だ拙な言葉である。風は矢張りただの風で、下風は身体(からだ)から風を泄(も)らすことである。鄙(いや)しい語にセツナ何とかいうのが有る、即ちそれである。其人が心弱くて、戦争とさえ云えば下風おこる、とても武士にはなりきらぬ故に甲冑(かっちゅう)を脱ぎ捨てて法衣を被(き)よ、というのが一首の歌の意である。これが果して賢秀の上を嘲(あざけ)ったとならば、賢秀は仕方の無い人だが、又其子に忠三郎氏郷が出たものとすれば、氏郷は愈々(いよいよ)偉いものだ。然し蒲生家の者は、其歌は賢秀の上を云ったのでは無く、賢秀の小舅(こじゅうと)の後藤末子に宗禅院という山法師があって、山法師の事だから兵仗(へいじょう)にもたずさわった、其人の事だ、というのである。成程然様(そう)でなければ、法衣めせの一句が唐突過ぎるし、又領主の事を然様酷(ひど)く嘲りもすまいし、且又賢秀は信長に「義の侍」と云われたということから考えても、賢秀の上を歌ったものではないらしい。但し賢秀が怯(よわ)くても剛(つよ)くても、親父の善悪は忰(せがれ)の善悪には響くことでは無い、親父は忰の手細工では無い。賢秀は佐々木の徒党であったが、佐々木義賢が凡物で信長に逐落(おいおと)されたので、一旦は信長に対し死を決して敵となったが、縁者の神戸蔵人(かんべくらんど)の言に従って信長に附いた。神戸蔵人は信長の子の三七信孝の養父である。そこで子の鶴千代丸即ち後年の氏郷は十三歳で信長のところへ遣られた。云わば賢秀に異心無き証拠の人質にされたのである。
 信長は鶴千代丸を見ると中々の者だった。十三歳といえば尋常中学へ入るか入らぬかの齢(とし)だが、沸(たぎ)り立っている世の中の児童だ、三太郎甚六等の御機嫌取りの少年雑誌や、アメリカの牛飼馬飼めらの下らない喧嘩(けんか)の活動写真を看ながら、アメチョコを嘗(な)めて育つお坊ちゃんとは訳が違う。其の物ごし物言いにも、段々と自分を鍛い上げて行こうという立派な心の閃(ひらめ)きが見えたことであろう、信長は賢秀に対(むか)って、鶴千代丸が目つき凡ならず、ただ者では有るべからず、信長が婿にせん、と云ったのである。これは賢秀の心を攬(と)る為に云ったのでは無く、其翌年鶴千代丸に元服をさせて、信長の弾正(だんじょう)ノ忠(ちゅう)の忠の字に因(ちな)み、忠三郎秀賦(ひでます)と名乗らせて、真に其言葉通り婿にしたのである。目つきは成程其人を語るが、信長が人相の術を知って居た訳では無い、十三歳の子供の目つきだけでは婿に取るとまでは惚(ほ)れないだろうが、別に斯様(こう)いうことが伝えられている。それは鶴千代丸は人質の事ゆえ町野左近という者が附人として信長居城の岐阜へ置かれた。或時稲葉一鉄が来て信長と軍議に及んだ。一鉄は美濃三人衆の第一で、信長が浅井朝倉を取って押えるに付けては大功を立てて居る、大剛にして武略も有った一将だ。然し信長に取っては外様(とざま)なので、後に至って信長が其将材を憚(はばか)って殺そうとした位だ。ところが茶室に懸って居た韓退之の詩の句を需(もと)められるままに読み且つ講じたので、物陰でそれを聞いた信長が感じて殺さずに終(しま)ったのである。詩の句は劇的伝説を以て名高い雲横雪擁の一聯(れん)で有ったと伝えられて居るが、坊主かえりの士とは云え、戦乱の世に於て之を説くことが出来たと云えば修養の程も思う可き立派な文武の達人だ。此の一鉄と信長とが、四方の経略、天下の仕置を談論していた。夜は次第に更けたが、談論は尽きぬ。もとより機密の談(はなし)だから雑輩は席に居らぬ。
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