運命
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著者名:幸田露伴 

 世おのずから数(すう)というもの有りや。有りといえば有るが如(ごと)く、無しと為(な)せば無きにも似たり。洪水(こうずい)天に滔(はびこ)るも、禹(う)の功これを治め、大旱(たいかん)地を焦(こが)せども、湯(とう)の徳これを済(すく)えば、数有るが如くにして、而(しか)も数無きが如し。秦(しん)の始皇帝、天下を一にして尊号(そんごう)を称す。威□(いえん)まことに当る可(べ)からず。然(しか)れども水神ありて華陰(かいん)の夜に現われ、璧(たま)を使者に托して、今年祖龍(そりゅう)死せんと曰(い)えば、果(はた)して始皇やがて沙丘(しゃきゅう)に崩ぜり。唐(とう)の玄宗(げんそう)、開元は三十年の太平を享(う)け、天宝(てんぽう)は十四年の華奢(かしゃ)をほしいまゝにせり。然れども開元の盛時に当りて、一行阿闍梨(いちぎょうあじゃり)、陛下万里に行幸して、聖祚(せいそ)疆(かぎり)無(な)からんと奏したりしかば、心得がたきことを白(もう)すよとおぼされしが、安禄山(あんろくざん)の乱起りて、天宝十五年蜀(しょく)に入りたもうに及び、万里橋(ばんりきょう)にさしかゝりて瞿然(くぜん)として悟り玉(たま)えりとなり。此等(これら)を思えば、数無きに似たれども、而も数有るに似たり。定命録(ていめいろく)、続定命録(ぞくていめいろく)、前定録(ぜんていろく)、感定録(かんていろく)等、小説野乗(やじょう)の記するところを見れば、吉凶禍福は、皆定数ありて飲啄笑哭(いんたくしょうこく)も、悉(ことごと)く天意に因(よ)るかと疑わる。されど紛々たる雑書、何ぞ信ずるに足らん。仮令(たとえ)数ありとするも、測り難きは数なり。測り難きの数を畏(おそ)れて、巫覡卜相(ふげきぼくそう)の徒の前に首(こうべ)を俯(ふ)せんよりは、知る可きの道に従いて、古聖前賢の教(おしえ)の下(もと)に心を安くせんには如(し)かじ。かつや人の常情、敗れたる者は天の命(めい)を称して歎(たん)じ、成れる者は己の力を説きて誇る。二者共に陋(ろう)とすべし。事敗れて之(これ)を吾(わ)が徳の足らざるに帰し、功成って之を数の定まる有るに委(ゆだ)ねなば、其(その)人(ひと)偽らずして真(しん)、其器(き)小ならずして偉なりというべし。先哲曰(いわ)く、知る者は言わず、言う者は知らずと。数を言う者は数を知らずして、数を言わざる者或(あるい)は能(よ)く数を知らん。
 古(いにしえ)より今に至るまで、成敗(せいばい)の跡、禍福の運、人をして思(おもい)を潜(ひそ)めしめ歎(たん)を発せしむるに足(た)るもの固(もと)より多し。されども人の奇を好むや、猶(なお)以(もっ)て足れりとせず。是(ここ)に於(おい)て才子は才を馳(は)せ、妄人(もうじん)は妄(もう)を恣(ほしいいまま)にして、空中に楼閣を築き、夢裏(むり)に悲喜を画(えが)き、意設筆綴(いせつひってつ)して、烏有(うゆう)の談を為(つく)る。或は微(すこ)しく本(もと)づくところあり、或は全く拠(よ)るところ無し。小説といい、稗史(はいし)といい、戯曲といい、寓言(ぐうげん)というもの即(すなわ)ち是(これ)なり。作者の心おもえらく、奇を極め妙を極むと。豈(あに)図(はか)らんや造物の脚色は、綺語(きご)の奇より奇にして、狂言の妙より妙に、才子の才も敵する能(あた)わざるの巧緻(こうち)あり、妄人の妄も及ぶ可からざるの警抜あらんとは。吾が言をば信ぜざる者は、試(こころみ)に看(み)よ建文(けんぶん)永楽(えいらく)の事を。


 我が古(こ)小説家の雄(ゆう)を曲亭主人馬琴(きょくていしゅじんばきん)と為(な)す。馬琴の作るところ、長篇四五種、八犬伝(はっけんでん)の雄大、弓張月(ゆみはりづき)の壮快、皆江湖(こうこ)の嘖々(さくさく)として称するところなるが、八犬伝弓張月に比して優(まさ)るあるも劣らざるものを侠客伝(きょうかくでん)と為(な)す。憾(うら)むらくは其の叙するところ、蓋(けだ)し未(いま)だ十の三四を卒(おわ)るに及ばずして、筆硯(ひっけん)空しく曲亭の浄几(じょうき)に遺(のこ)りて、主人既に逝(ゆ)きて白玉楼(はくぎょくろう)の史(し)となり、鹿鳴草舎(はぎのや)の翁(おきな)これを続(つ)げるも、亦(また)功を遂げずして死せるを以(もっ)て、世其(そ)の結構の偉(い)、輪奐(りんかん)の美を観(み)るに至らずして已(や)みたり。然(しか)れども其の意を立て材を排する所以(ゆえん)を考うるに、楠氏(なんし)の孤女(こじょ)を仮(か)りて、南朝の為(ため)に気を吐かんとする、おのずから是(こ)れ一大文章たらずんば已(や)まざるものあるをば推知するに足るあり。惜(おし)い哉(かな)其の成らざるや。
 侠客伝は女仙外史(じょせんがいし)より換骨脱胎(かんこつだったい)し来(きた)る。其の一部は好逑伝(こうきゅうでん)に藉(よ)るありと雖(いえど)も、全体の女仙外史を化(か)し来(きた)れるは掩(おお)う可(べ)からず。此(これ)の姑摩媛(こまひめ)は即(すなわ)ち是(こ)れ彼(かれ)の月君(げっくん)なり。月君が建文帝(けんぶんてい)の為に兵を挙ぐるの事は、姑摩媛が南朝の為に力を致さんとするの藍本(らんぽん)たらずんばあらず。此(こ)は是(こ)れ馬琴が腔子裏(こうしり)の事なりと雖(いえど)も、仮(かり)に馬琴をして在らしむるも、吾(わ)が言を聴かば、含笑(がんしょう)して点頭(てんとう)せん。


 女仙外史一百回は、清(しん)の逸田叟(いつでんそう)、呂熊(りょゆう)、字(あざな)は文兆(ぶんちょう)の著(あらわ)すところ、康熙(こうき)四十年に意を起して、四十三年秋に至りて業を卒(おわ)る。其(そ)の書の体(たい)たるや、水滸伝(すいこでん)平妖伝(へいようでん)等に同じと雖(いえど)も、立言(りつげん)の旨(し)は、綱常(こうじょう)を扶植(ふしょく)し、忠烈を顕揚するに在りというを以(もっ)て、南安(なんあん)の郡守陳香泉(ちんこうせん)の序、江西(こうせい)の廉使(れんし)劉在園(りゅうざいえん)の評、江西の学使楊念亭(ようねんてい)の論、広州(こうしゅう)の太守葉南田(しょうなんでん)の跋(ばつ)を得て世に行わる。幻詭猥雑(げんきわいざつ)の談に、干戈(かんか)弓馬の事を挿(はさ)み、慷慨(こうがい)節義の譚(だん)に、神仙縹緲(しんせんひょうびょう)の趣(しゅ)を交(まじ)ゆ。西遊記(さいゆうき)に似て、而(しか)も其の誇誕(こたん)は少しく遜(ゆず)り、水滸伝に近くして、而も其(そ)の豪快は及ばず、三国志の如(ごと)くして、而も其の殺伐はやゝ少(すくな)し。たゞ其の三者の佳致(かち)を併有して、一編の奇話を構成するところは、女仙外史の西遊水滸三国諸書に勝(まさ)る所以(ゆえん)にして、其の大体の風度(ふうど)は平妖伝に似たりというべし。憾(うら)むらくは、通篇(つうへん)儒生(じゅせい)の口吻(こうふん)多くして、説話は硬固勃率(こうこぼっそつ)、談笑に流暢尖新(りゅうちょうせんしん)のところ少(すくな)きのみ。
 女仙外史の名は其の実(じつ)を語る。主人公月君(げっくん)、これを輔(たす)くるの鮑師(ほうし)、曼尼(まんに)、公孫大娘(こうそんたいじょう)、聶隠娘(しょういんじょう)等皆女仙なり。鮑聶(ほうしょう)等の女仙は、もと古伝雑説より取り来(きた)って彩色となすに過ぎず、而(しこう)して月君は即(すなわ)ち山東蒲台(さんとうほだい)の妖婦(ようふ)唐賽児(とうさいじ)なり。賽児の乱をなせるは明(みん)の永楽(えいらく)十八年二月にして、燕(えん)王の簒奪(さんだつ)、建文(けんぶん)の遜位(そんい)と相関するあるにあらず、建文猶(なお)死せずと雖(いえども)、簒奪の事成って既に十八春秋を経(へ)たり。賽児何ぞ実に建文の為(ため)に兵を挙げんや。たゞ一婦人の身を以て兵を起し城を屠(ほふ)り、安遠侯(あんえんこう)柳升(りゅうしょう)をして征戦に労し、都指揮(としき)衛青(えいせい)をして撃攘(げきじょう)に力(つと)めしめ、都指揮劉忠(りゅうちゅう)をして戦歿(せんぼつ)せしめ、山東の地をして一時騒擾(そうじょう)せしむるに至りたるもの、真に是(こ)れ稗史(はいし)の好題目たり。之(これ)に加うるに賽児が洞見(どうけん)預察の明(めい)を有し、幻怪詭秘(きひ)の術を能(よ)くし、天書宝剣を得て、恵民(けいみん)布教の事を為(な)せるも、亦(また)真に是れ稗史の絶好資料たらずんばあらず。賽児の実蹟(じっせき)既に是(かく)の如(ごと)し。此(これ)を仮(か)り来(きた)りて以(もっ)て建文の位を遜(ゆず)れるに涙を堕(おと)し、燕棣(えんてい)の国を奪えるに歯を切(くいしば)り、慷慨(こうがい)悲憤して以て回天の業を為(な)さんとするの女英雄(じょえいゆう)となす。女仙外史の人の愛読耽翫(たんがん)を惹(ひ)く所以(ゆえん)のもの、決して尠少(せんしょう)にあらずして、而して又実に一篇(ぺん)の淋漓(りんり)たる筆墨(ひつぼく)、巍峨(ぎが)たる結構を得る所以のもの、決して偶然にあらざるを見る。
 賽児(さいじ)は蒲台府(ほだいふ)の民(たみ)林三(りんさん)の妻、少(わか)きより仏を好み経を誦(しょう)せるのみ、別に異ありしにあらず。林三死して之(これ)を郊外に葬(ほうむ)る。賽児墓に祭りて、回(かえ)るさの路(みち)、一山の麓(ふもと)を経たりしに、たま/\豪雨の後にして土崩れ石露(あら)われたり。これを視(み)るに石匣(せきこう)なりければ、就(つ)いて窺(うかが)いて遂(つい)に異書と宝剣とを得たり。賽児これより妖術に通じ、紙を剪(き)って人馬となし、剣(けん)を揮(ふる)って咒祝(じゅしゅく)を為(な)し、髪を削って尼となり、教(おしえ)を里閭(りりょ)に布(し)く。祷(いのり)には効あり、言(ことば)には験(げん)ありければ、民翕然(きゅうぜん)として之に従いけるに、賽児また饑者(きしゃ)には食(し)を与え、凍者には衣を給し、賑済(しんさい)すること多かりしより、終(つい)に追随する者数万に及び、尊(とうと)びて仏母と称し、其(その)勢(いきおい)甚(はなは)だ洪大(こうだい)となれり。官之(これ)を悪(にく)みて賽児を捕えんとするに及び、賽児を奉ずる者董彦杲(とうげんこう)、劉俊(りゅうしゅん)、賓鴻(ひんこう)等、敢然として起(た)って戦い、益都(えきと)、安州(あんしゅう)、□州(きょしゅう)、即墨(そくぼく)、寿光(じゅこう)等、山東諸州鼎沸(ていふつ)し、官と賊と交々(こもごも)勝敗あり。官兵漸(ようや)く多く、賊勢日に蹙(しじ)まるに至って賽児を捕え得、将(まさ)に刑に処せんとす。賽児怡然(いぜん)として懼(おそ)れず。衣を剥(は)いで之を縛(ばく)し、刀(とう)を挙げて之を□(き)るに、刀刃(とうじん)入る能(あた)わざりければ、已(や)むを得ずして復(また)獄に下し、械枷(かいか)を体(たい)に被(こうむ)らせ、鉄鈕(てっちゅう)もて足を繋(つな)ぎ置きけるに、俄(にわか)にして皆おのずから解脱(げだつ)し、竟(つい)に遯(のが)れ去って終るところを知らず。三司郡県将校(さんしぐんけんしょうこう)等(ら)、皆寇(あだ)を失うを以て誅(ちゅう)せられぬ。賽児は如何(いかが)しけん其後踪跡(そうせき)杳(よう)として知るべからず。永楽帝怒って、およそ北京(ほくけい)山東(さんとう)の尼姑(にこ)は尽(ことごと)く逮捕して京に上せ、厳重に勘問(かんもん)し、終(つい)に天下の尼姑という尼姑を逮(とら)うるに至りしが、得る能(あた)わずして止(や)み、遂に後の史家をして、妖耶(ようか)人耶(ひとか)、吾(われ)之(これ)を知らず、と云(い)わしむるに至れり。
 世の伝うるところの賽児の事既に甚(はなは)だ奇、修飾を仮(か)らずして、一部稗史(はいし)たり。女仙外史の作者の藉(か)りて以(もっ)て筆墨を鼓(こ)するも亦(また)宜(むべ)なり。然(しか)れども賽児の徒、初(はじめ)より大志ありしにはあらず、官吏の苛虐(かぎゃく)するところとなって而(しこう)して後爆裂迸発(へいはつ)して□(ほのお)を揚げしのみ。其の永楽帝の賽児を索(もと)むる甚だ急なりしに考うれば、賽児の徒窘窮(きんきゅう)して戈(ほこ)を執(と)って立つに及び、或(あるい)は建文を称して永楽に抗するありしも亦知るべからず。永楽の時、史に曲筆多し、今いずくにか其(その)実(じつ)を知るを得ん。永楽簒奪(さんだつ)して功を成す、而(しか)も聡明(そうめい)剛毅(ごうき)、政(まつりごと)を為(な)す甚だ精、補佐(ほさ)また賢良多し。こゝを以て賽児の徒忽(たちまち)にして跡を潜むと雖(いえど)も、若(も)し秦末(しんまつ)漢季(かんき)の如(ごと)きの世に出(い)でしめば、陳渉(ちんしょう)張角(ちょうかく)、終(つい)に天下を動かすの事を為(な)すに至りたるやも知る可(べ)からず。嗚呼(ああ)賽児も亦奇女子(きじょし)なるかな。而して此(この)奇女子を藉(か)りて建文に与(くみ)し永楽と争わしむ。女仙外史の奇、其(そ)の奇を求めずして而しておのずから然(しか)るあらんのみ。然りと雖も予(よ)猶(なお)謂(おも)えらく、逸田叟(いつでんそう)の脚色は仮(か)にして後纔(わずか)に奇なり、造物爺々(やや)の施為(しい)は真にして且(かつ)更に奇なり。


 明(みん)の建文(けんぶん)皇帝は実に太祖(たいそ)高(こう)皇帝に継(つ)いで位に即(つ)きたまえり。時に洪武(こうぶ)三十一年閏(うるう)五月なり。すなわち詔(みことのり)して明年を建文元年としたまいぬ。御代(みよ)しろしめすことは正(まさ)しく五歳にわたりたもう。然(しか)るに廟諡(びょうし)を得たもうこと無く、正徳(しょうとく)、万暦(ばんれき)、崇禎(すうてい)の間、事しば/\議せられて、而(しか)も遂(つい)に行われず、明(みん)亡び、清(しん)起りて、乾隆(けんりゅう)元年に至って、はじめて恭憫恵(きょうびんけい)皇帝という諡(おくりな)を得たまえり。其(その)国の徳衰え沢(たく)竭(つ)きて、内憂外患こも/″\逼(せま)り、滅亡に垂(なりなん)とする世には、崩じて諡(おく)られざる帝(みかど)のおわす例(ためし)もあれど、明の祚(そ)は其(そ)の後猶(なお)二百五十年も続きて、此(この)時太祖の盛徳偉業、炎々(えんえん)の威を揚げ、赫々(かくかく)の光を放ちて、天下万民を悦服せしめしばかりの後(のち)なれば、かゝる不祥の事は起るべくもあらぬ時代なり。さるを其(そ)[#ルビの「そ」は底本では「その」]の是(かく)の如(ごと)くなるに至りし所以(ゆえん)は、天意か人為かはいざ知らず、一波(ぱ)動いて万波動き、不可思議の事の重畳(ちょうじょう)連続して、其の狂濤(きょうとう)は四年の間の天地を震撼(しんかん)し、其の余瀾(よらん)は万里の外の邦国に漸浸(ぜんしん)するに及べるありしが為(ため)ならずばあらず。
 建文皇帝諱(いみな)は允□(いんぶん)、太祖高皇帝の嫡孫なり。御父(おんちち)懿文(いぶん)太子、太祖に紹(つ)ぎたもうべかりしが、不幸にして世を早うしたまいぬ。太祖時に御齢(おんとし)六十五にわたらせ給(たま)いければ、流石(さすが)に淮西(わいせい)の一布衣(いっぷい)より起(おこ)って、腰間(ようかん)の剣(けん)、馬上の鞭(むち)、四百余州を十五年に斬(き)り靡(なび)けて、遂に帝業を成せる大豪傑も、薄暮に燭(しょく)を失って荒野の旅に疲れたる心地やしけん、堪えかねて泣き萎(しお)れたもう。翰林学士(かんりんがくし)の劉三吾(りゅうさんご)、御歎(おんなげき)はさることながら、既に皇孫のましませば何事か候うべき、儲君(ちょくん)と仰せ出されんには、四海心を繋(か)け奉らんに、然(さ)のみは御過憂あるべからず、と白(もう)したりければ、実(げ)にもと点頭(うなず)かせられて、其(その)歳(とし)の九月、立てゝ皇太孫と定められたるが、即(すなわ)ち後に建文の帝(みかど)と申す。谷氏(こくし)の史に、建文帝、生れて十年にして懿文(いぶん)卒(しゅっ)すとあるは、蓋(けだ)し脱字(だつじ)にして、父君に別れ、儲位(ちょい)に立ちたまえる時は、正(まさ)しく十六歳におわしける。資性穎慧(えいけい)温和、孝心深くましまして、父君の病みたまえる間、三歳に亘(わた)りて昼夜膝下(しっか)を離れたまわず、薨(かく)れさせたもうに及びては、思慕の情、悲哀の涙、絶ゆる間もなくて、身も細々と瘠(や)せ細りたまいぬ。太祖これを見たまいて、爾(なんじ)まことに純孝なり、たゞ子を亡(うしな)いて孫を頼む老いたる我をも念(おも)わぬことあらじ、と宣(のたま)いて、過哀に身を毀(やぶ)らぬよう愛撫(あいぶ)せられたりという。其の性質の美、推して知るべし。
 はじめ太祖、太子に命じたまいて、章奏(しょうそう)を決せしめられけるに、太子仁慈厚くおわしければ、刑獄に於(おい)て宥(なだ)め軽めらるゝこと多かりき。太子亡(う)せたまいければ、太孫をして事に当らしめたまいけるが、太孫もまた寛厚の性、おのずから徳を植えたもうこと多く、又太祖に請いて、遍(あまね)く礼経(れいけい)を考え、歴代の刑法を参酌(さんしゃく)し、刑律は教(おしえ)を弼(たす)くる所以(ゆえん)なれば、凡(およ)そ五倫(ごりん)と相(あい)渉(わた)る者は、宜(よろ)しく皆法を屈して以(もっ)て情(じょう)を伸ぶべしとの意により、太祖の准許(じゅんきょ)を得て、律の重きもの七十三条を改定しければ、天下大(おおい)に喜びて徳を頌(しょう)せざる無し。太祖の言(ことば)に、吾(われ)は乱世を治めたれば、刑重からざるを得ざりき、汝(なんじ)は平世を治むるなれば、刑おのずから当(まさ)に軽(かろ)うすべし、とありしも当時の事なり。明の律は太祖の武昌(ぶしょう)を平らげたる呉(ご)の元年に、李善長(りぜんちょう)等(ら)の考え設けたるを初(はじめ)とし、洪武六年より七年に亙(わた)りて劉惟謙(りゅういけん)等(ら)の議定するに及びて、所謂(いわゆる)大明律(たいみんりつ)成り、同じ九年胡惟庸(こいよう)等(ら)命を受けて釐正(りせい)するところあり、又同じ十六年、二十二年の編撰(へんせん)を経て、終(つい)に洪武の末に至り、更定大明律(こうていたいみんりつ)三十巻大成し、天下に頒(わか)ち示されたるなり。呉の元年より茲(ここ)に至るまで、日を積むこと久しく、慮を致すこと精(くわ)しくして、一代の法始めて定まり、朱氏(しゅし)の世を終るまで、獄を決し刑を擬するの準拠となりしかば、後人をして唐に視(くら)ぶれば簡覈(かんかく)、而(しか)して寛厚は宗(そう)に如(し)かざるも、其の惻隠(そくいん)の意に至っては、各条に散見せりと評せしめ、余威は遠く我邦(わがくに)に及び、徳川期の識者をして此(これ)を研究せしめ、明治初期の新律綱領をして此(これ)に採るところあらしむるに至れり。太祖の英明にして意を民人に致せしことの深遠なるは言うまでも無し、太子の仁、太孫の慈、亦(また)人君の度ありて、明律因(よ)りて以(もっ)て成るというべし。既にして太祖崩じて太孫の位に即(つ)きたもうや、刑官に諭(さと)したまわく、大明律は皇祖の親しく定めさせたまえるところにして、朕(ちん)に命じて細閲せしめたまえり。前代に較(くら)ぶるに往々重きを加う。蓋(けだ)し乱国を刑するの典にして、百世通行の道にあらざる也。朕が前(さき)に改定せるところは、皇祖已(すで)に命じて施行せしめたまえり。然(しか)れども罪の矜疑(きょうぎ)すべき者は、尚(なお)此(これ)に止(とど)まらず。それ律は大法を設け、礼は人情に順(したが)う。民を斉(ととの)うるに刑を以てするは礼を以てするに若(し)かず。それ天下有司に諭し、務めて礼教を崇(たっと)び、疑獄を赦(ゆる)し、朕が万方(ばんぽう)と与(とも)にするを嘉(よろこ)ぶの意に称(かな)わしめよと。嗚呼(ああ)、既に父に孝にして、又民に慈なり。帝の性の善良なる、誰(たれ)がこれを然らずとせんや。
 是(かく)の如きの人にして、帝(みかど)となりて位を保つを得ず、天に帰して諡(おくりな)を得(う)る能(あた)わず、廟(びょう)無く陵無く、西山(せいざん)の一抔土(いっぽうど)、封(ほう)せず樹(じゅ)せずして終るに至る。嗚呼(ああ)又奇なるかな。しかも其の因縁(いんえん)の糾纏錯雑(きゅうてんさくざつ)して、果報の惨苦悲酸なる、而して其の影響の、或(あるい)は刻毒(こくどく)なる、或は杳渺(ようびょう)たる、奇も亦(また)太甚(はなはだ)しというべし。


 建文帝の国を遜(ゆず)らざるを得ざるに至れる最初の因は、太祖の諸子を封ずること過当にして、地を与うること広く、権を附すること多きに基づく。太祖の天下を定むるや、前代の宋(そう)元(げん)傾覆の所以(ゆえん)を考えて、宗室の孤立は、無力不競の弊源たるを思い、諸子を衆(おお)く四方に封じて、兵馬の権を有せしめ、以(もっ)て帝室に藩屏(はんべい)たらしめ、京師(けいし)を拱衛(きょうえい)せしめんと欲せり。是(こ)れ亦(また)故無きにあらず。兵馬の権、他人の手に落ち、金穀の利、一家の有たらずして、将帥(しょうすい)外に傲(おご)り、奸邪(かんじゃ)間(あいだ)に私すれば、一朝事有るに際しては、都城守る能(あた)わず、宗廟(そうびょう)祀(まつ)られざるに至るべし。若(も)し夫(そ)れ衆(おお)く諸侯を建て、分ちて子弟を王とすれば、皇族天下に満ちて栄え、人臣勢(いきおい)を得るの隙(すき)無し。こゝに於(おい)て、第二子※(そう)[#「木+爽」、UCS-6A09、252-3]を秦(しん)王に封(ほう)じ、藩に西安(せいあん)に就(つ)かしめ、第三子棡(こう)を晋(しん)王に封じ、太原府(たいげんふ)に居(お)らしめ、第四子棣(てい)を封じて燕(えん)王となし、北平府(ほくへいふ)即(すなわ)ち今の北京(ぺきん)に居らしめ、第五子※(しゅく)[#「木+肅」、UCS-6A5A、252-5]を封じて周(しゅう)王となし、開封府(かいほうふ)に居らしめ、第六子□(てい)を楚(そ)王とし、武昌(ぶしょう)に居らしめ、第七子榑(ふ)を斉(せい)王とし、青州府(せいしゅうふ)に居らしめ、第八子梓(し)を封じて潭(たん)王とし、長沙(ちょうさ)に居(お)き、第九子※(き)[#「木+巳」、252-7]を趙(ちょう)王とせしが、此(こ)は三歳にして殤(しょう)し、藩に就くに及ばず、第十子檀(たん)を生れて二月にして魯(ろ)王とし、十六歳にして藩に□州府(えんしゅうふ)に就かしめ、第十一子椿(ちん)を封じて蜀(しょく)王とし、成都(せいと)に居(お)き、第十二子柏(はく)を湘(しょう)王とし、荊州府(けいしゅうふ)に居き、第十三子桂(けい)を代(だい)王とし、大同府(だいどうふ)に居き、第十四子※(えい)[#「木+英」、UCS-6967、252-11]を粛(しゅく)王とし、藩に甘州府(かんしゅうふ)に就かしめ、第十五子植(しょく)を封じて遼(りょう)王とし、広寧府(こうねいふ)に居き、第十六子※(せん)[#「木+「旃」の「丹」に代えて「冉」、252-12]を慶(けい)王として寧夏(ねいか)に居き、第十七子権(けん)を寧(ねい)王に封じ、大寧(たいねい)に居らしめ、第十八子□(べん)を封じて岷(びん)王となし、第十九子※(けい)[#「木+惠」、UCS-6A5E、253-2]を封じて谷(こく)王となす、谷王というは其(そ)の居(お)るところ宣府(せんふ)の上谷(じょうこく)の地たるを以てなり、第二十子松(しょう)を封じて韓(かん)王となし、開源(かいげん)に居らしむ。第二十一子模(ぼ)を瀋(しん)王とし、第二十二子楹(えい)を安(あん)王とし、第二十三子※(けい)[#「木+經のつくり」、UCS-6871、253-4]を唐(とう)王とし、第二十四子棟(とう)を郢(えい)王とし、第二十五子※(い)[#「木+(ヨ/粉/廾)」、253-5]を伊(い)王としたり。藩(しん)王以下は、永楽(えいらく)に及んで藩に就きたるなれば、姑(しば)らく措(お)きて論ぜざるも、太祖の諸子を封(ほう)じて王となせるも亦(また)多しというべく、而(しこう)して枝柯(しか)甚(はなは)だ盛んにして本幹(ほんかん)却(かえ)って弱きの勢(いきおい)を致せるに近しというべし。明の制、親王は金冊金宝(きんさつきんほう)を授けられ、歳禄(さいろく)は万石(まんせき)、府には官属を置き、護衛の甲士(こうし)、少(すくな)き者は三千人、多き者は一万九千人に至り、冕服(べんぷく)車旗(しゃき)邸第(ていだい)は、天子に下(くだ)ること一等、公侯大臣も伏して而して拝謁す。皇族を尊くし臣下を抑うるも、亦(また)至れりというべし。且つ元(げん)の裔(えい)の猶(なお)存して、時に塞下(さいか)に出没するを以て、辺に接せる諸王をして、国中(こくちゅう)に専制し、三護衛の重兵(ちょうへい)を擁するを得せしめ、将を遣(や)りて諸路の兵を徴(め)すにも、必ず親王に関白して乃(すなわ)ち発することゝせり。諸王をして権を得せしむるも、亦(また)大なりというべし。太祖の意に謂(おも)えらく、是(かく)の如(ごと)くなれば、本支(ほんし)相(あい)幇(たす)けて、朱氏(しゅし)永く昌(さか)え、威権下(しも)に移る無く、傾覆の患(うれい)も生ずるに地無からんと。太祖の深智(しんち)達識(たっしき)は、まことに能(よ)く前代の覆轍(ふくてつ)に鑑(かんが)みて、後世に長計を貽(のこ)さんとせり。されども人智は限(かぎり)有り、天意は測り難し、豈(あに)図(はか)らんや、太祖が熟慮遠謀して施為(しい)せるところの者は、即(すなわ)ち是れ孝陵(こうりょう)の土未(いま)だ乾かずして、北平(ほくへい)の塵(ちり)既に起り、矢石(しせき)京城(けいじょう)に雨注(うちゅう)して、皇帝遐陬(かすう)に雲遊するの因とならんとは。
 太祖が諸子を封ずることの過ぎたるは、夙(つと)に之(これ)を論じて、然(しか)る可(べ)からずとなせる者あり。洪武九年といえば建文帝未だ生れざるほどの時なりき。其(その)歳(とし)閏(うるう)九月、たま/\天文(てんもん)の変ありて、詔(みことのり)を下し直言(ちょくげん)を求められにければ、山西(さんせい)の葉居升(しょうきょしょう)というもの、上書して第一には分封の太(はなは)だ侈(おご)れること、第二には刑を用いる太(はなは)だ繁(しげ)きこと、第三には治(ち)を求むる太(はなは)だ速やかなることの三条を言えり。其の分封太侈(たいし)を論ずるに曰(いわ)く、都城百雉(ひゃくち)を過ぐるは国の害なりとは、伝(でん)の文にも見えたるを、国家今や秦(しん)晋(しん)燕(えん)斉(せい)梁(りょう)楚(そ)呉(ご)□(びん)の諸国、各其(その)地(ち)を尽して之(これ)を封じたまい、諸王の都城宮室の制、広狭大小、天子の都に亜(つ)ぎ、之に賜(たま)うに甲兵衛士の盛(さかん)なるを以てしたまえり。臣ひそかに恐る、数世(すうせい)の後は尾大(びだい)掉(ふる)わず、然(しか)して後に之が地を削りて之が権を奪わば、則(すなわ)ち其の怨(うらみ)を起すこと、漢の七国、晋の諸王の如くならん。然らざれば則(すなわ)ち険(けん)を恃(たの)みて衡(こう)を争い、然らざれば則ち衆を擁して入朝し、甚(はなはだ)しければ則ち間(かん)に縁(よ)りて而して起(た)たんに、之を防ぐも及ぶ無からん。孝景(こうけい)皇帝は漢の高帝の孫也、七国の王は皆景帝の同宗(どうそう)父兄弟(ふけいてい)子孫(しそん)なり。然るに当時一たび其地を削れば則ち兵を構えて西に向えり。晋の諸王は、皆武帝の親子孫(しんしそん)なり。然るに世を易(か)うるの後は迭(たがい)に兵を擁して、以て皇帝を危(あやう)くせり。昔は賈誼(かぎ)漢の文帝に勧めて、禍を未萌(みぼう)に防ぐの道を白(もう)せり。願わくば今先(ま)ず諸王の都邑(とゆう)の制を節し、其の衛兵を減じ、其の彊里(きょうり)を限りたまえと。居升(きょしょう)の言はおのずから理あり、しかも太祖は太祖の慮あり。其の説くところ、正(まさ)に太祖の思えるところに反すれば、太祖甚だ喜びずして、居升を獄中(ごくちゅう)に終るに至らしめ給いぬ。居升の上書の後二十余年、太祖崩じて建文帝立ちたもうに及び、居升の言、不幸にして験(しるし)ありて、漢の七国の喩(たとえ)、眼(ま)のあたりの事となれるぞ是非無き。
 七国の事、七国の事、嗚呼(ああ)是れ何ぞ明室(みんしつ)と因縁の深きや。葉居升(しょうきょしょう)の上書の出(い)ずるに先だつこと九年、洪武元年十一月の事なりき、太祖宮中に大本堂(たいほんどう)というを建てたまい、古今(ここん)の図書を充(み)て、儒臣をして太子および諸王に教授せしめらる。起居注(ききょちゅう)の魏観(ぎかん)字(あざな)は※山(きざん)[#「木+巳」、256-9]というもの、太子に侍して書を説きけるが、一日太祖太子に問いて、近ごろ儒臣経史の何事を講ぜるかとありけるに、太子、昨日は漢書(かんじょ)の七図漢に叛(そむ)ける事を講じ聞(きか)せたりと答え白(もう)す。それより談は其事の上にわたりて、太祖、その曲直は孰(いずれ)に在りやと問う。太子、曲は七国に在りと承りぬと対(こた)う。時に太祖肯(がえん)ぜずして、否(あらず)、其(そ)は講官の偏説なり。景帝(けいてい)太子たりし時、博局(はくきょく)を投じて呉王(ごおう)の世子(せいし)を殺したることあり、帝となるに及びて、晁錯(ちょうさく)の説を聴きて、諸侯の封(ほう)を削りたり、七国の変は実に此(これ)に由る。諸子の為(ため)に此(この)事を講ぜんには、藩王たるものは、上は天子を尊み、下は百姓(ひゃくせい)を撫(ぶ)し、国家の藩輔(はんぽ)となりて、天下の公法を撓(みだ)す無かれと言うべきなり、此(かく)の如くなれば則ち太子たるものは、九族を敦睦(とんぼく)し、親しきを親しむの恩を隆(さか)んにすることを知り、諸子たるものは、王室を夾翼(きょうよく)し、君臣の義を尽すことを知らん、と評論したりとなり。此(こ)の太祖の言は、正(まさ)に是れ太祖が胸中の秘を発せるにて、夙(はや)くより此(この)意ありたればこそ、其(それ)より二年ほどにして、洪武三年に、※(そう)[#「木+爽」、UCS-6A09、257-9]、棡(こう)、棣(てい)、※(しゅく)[#「木+肅」、UCS-6A5A、257-9]、□(てい)、榑(ふ)、梓(しん)、檀(たん)、※(き)[#「木+巳」、257-10]の九子を封じて、秦(しん)晋(しん)燕(えん)周(しゅう)等に王とし、其(その)甚(はなはだ)しきは、生れて甫(はじ)めて二歳、或(あるい)は生れて僅(わずか)に二ヶ月のものをすら藩王とし、次(つ)いで洪武十一年、同二十四年の二回に、幼弱の諸子をも封じたるなれ、而(しこう)して又夙(はや)くより此意ありたればこそ、葉居升(しょうきょしょう)が上言に深怒して、これを獄死せしむるまでには至りたるなれ。しかも太祖が懿文(いぶん)太子に、七国反漢の事を喩(さと)したりし時は、建文帝未だ生れず。明の国号はじめて立ちしのみ。然るに何ぞ図らん此の俊徳成功の太祖が熟慮遠謀して、斯(か)ばかり思いしことの、其(その)身(み)死すると共に直(ただち)に禍端乱階(かたんらんかい)となりて、懿文(いぶん)の子の允□(いんぶん)、七国反漢の古(いにしえ)を今にして窘(くるし)まんとは。不世出の英雄朱元璋(しゅげんしょう)も、命(めい)といい数(すう)というものゝ前には、たゞ是(これ)一片の落葉秋風に舞うが如きのみ。
 七国の事、七国の事、嗚呼何ぞ明室と因縁の深きや。洪武二十五年九月、懿文太子の後を承(う)けて其(その)御子(おんこ)允□皇太孫の位に即(つ)かせたもう。継紹(けいしょう)の運まさに是(かく)の如くなるべきが上に、下(しも)は四海の心を繋(か)くるところなり。上(かみ)は一人(にん)の命(めい)を宣したもうところなり、天下皆喜びて、皇室万福と慶賀したり。太孫既に立ちて皇太孫となり、明らかに皇儲(こうちょ)となりたまえる上は、齢(よわい)猶(なお)弱くとも、やがて天下の君たるべく、諸王或(あるい)は功あり或は徳ありと雖(いえど)も、遠からず俯首(ふしゅ)して命(めい)を奉ずべきなれば、理に於(おい)ては当(まさ)に之(これ)を敬すべきなり。されども諸王は積年の威を挟(はさ)み、大封の勢(いきおい)に藉(よ)り、且(かつ)は叔父(しゅくふ)の尊きを以(もっ)て、不遜(ふそん)の事の多かりければ、皇太孫は如何(いか)ばかり心苦しく厭(いと)わしく思いしみたりけむ。一日(いちじつ)東角門(とうかくもん)に坐して、侍読(じどく)の太常卿(たいじょうけい)黄子澄(こうしちょう)というものに、諸王驕慢(きょうまん)の状を告げ、諸(しょ)叔父(しゅくふ)各大封重兵(ちょうへい)を擁し、叔父の尊きを負(たの)みて傲然(ごうぜん)として予に臨む、行末(ゆくすえ)の事も如何(いかが)あるべきや、これに処し、これを制するの道を問わんと曰(のたま)いたもう。子澄名は□(てい)、分宜(ぶんぎ)の人、洪武十八年の試に第一を以て及第したりしより累進してこゝに至れるにて、経史に通暁せるはこれ有りと雖(いえど)も、世故(せいこ)に練達することは未(いま)だ足らず、侍読の身として日夕奉侍すれば、一意たゞ太孫に忠ならんと欲して、かゝる例は其(その)昔にも見えたり、但し諸王の兵多しとは申せ、もと護衛の兵にして纔(わずか)に身ずから守るに足るのみなり、何程の事かあらん、漢の七国を削るや、七国叛(そむ)きたれども、間も無く平定したり、六師一たび臨まば、誰(たれ)か能(よ)く之を支えん、もとより大小の勢、順逆の理、おのずから然るもの有るなり、御心(みこころ)安く思召(おぼしめ)せ、と七国の古(いにしえ)を引きて対(こた)うれば、太孫は子澄が答を、げに道理(もっとも)なりと信じたまいぬ。太孫猶(なお)齢(とし)若く、子澄未だ世に老いず、片時(へんじ)の談、七国の論、何ぞ図(はか)らん他日山崩れ海湧(わ)くの大事を生ぜんとは。
 太祖の病は洪武三十一年五月に起りて、同(どう)閏(うるう)五月西宮(せいきゅう)に崩ず。其(その)遺詔こそは感ずべく考うべきこと多けれ。山戦野戦又は水戦、幾度(いくたび)と無く畏(おそ)るべき危険の境を冒して、無産無官又無家(むか)、何等(なんら)の恃(たの)むべきをも有(も)たぬ孤独の身を振い、終(つい)に天下を一統し、四海に君臨し、心を尽して世を治め、慮(おも)[#ルビの「おも」は底本では「おもい」]い竭(つく)して民を済(すく)い、而(しこう)して礼を尚(たっと)び学を重んじ、百忙(ぼう)の中(うち)、手に書を輟(や)めず、孔子の教(おしえ)を篤信し、子(し)は誠に万世の師なりと称して、衷心より之を尊び仰ぎ、施政の大綱、必ず此(これ)に依拠し、又蚤歳(そうさい)にして仏理に通じ、内典を知るも、梁(りょう)の武帝の如く淫溺(いんでき)せず、又老子(ろうし)を愛し、恬静(てんせい)を喜び、自(みず)から道徳経註(どうとくけいちゅう)二巻を撰(せん)し、解縉(かいしん)をして、上疏(じょうそ)の中に、学の純ならざるを譏(そし)らしむるに至りたるも、漢の武帝の如く神仙を好尚(こうしょう)せず、嘗(かつ)て宗濂(そうれん)に謂(い)って、人君能(よ)く心を清くし欲を寡(すくな)くし、民をして田里に安んじ、衣食に足り、熈々□々(ききこうこう)として自(みずか)ら知らざらしめば、是れ即ち神仙なりと曰(い)い、詩文を善(よ)くして、文集五十巻、詩集五巻を著(あらわ)せるも、□同(せんどう)と文章を論じては、文はたゞ誠意溢出(いっしゅつ)するを尚(たっと)ぶと為し、又洪武六年九月には、詔(みことのり)して公文に対偶文辞(たいぐうぶんじ)を用いるを禁じ、無益の彫刻藻絵(そうかい)を事とするを遏(とど)めたるが如き、まことに通ずること博(ひろ)くして拘(とら)えらるゝこと少(すくな)く、文武を兼(か)ねて有し、智有を併(あわ)せて備え、体験心証皆富みて深き一大偉人たる此の明の太祖、開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高(かいてんこうどうちょうきりつきょくたいせいししんじんぶんぎぶしゅんとくせいこうこう)皇帝の諡号(しごう)に負(そむ)かざる朱元璋(しゅげんしょう)、字(あざな)は国瑞(こくずい)の世(よ)を辞(じ)して、其(その)身は地に入り、其神(しん)は空(くう)に帰せんとするに臨みて、言うところ如何(いかん)。一鳥の微(び)なるだに、死せんとするや其声人を動かすと云わずや。太祖の遺詔感ず可(べ)く考う可(べ)きもの無からんや。遺詔に曰く、朕(ちん)皇天の命を受けて、大任に世に膺(あた)ること、三十有一年なり、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき。奈何(いかん)せん寒微(かんび)より起りて、古人の博智無く、善を好(よみ)し悪を悪(にく)むこと及ばざること多し。今年七十有一、筋力衰微し、朝夕危懼(きく)す、慮(はか)るに終らざることを恐るのみ。今万物自然の理を得(う)、其(そ)れ奚(いずく)んぞ哀念かこれ有らん。皇太孫允□(いんぶん)、仁明孝友にして、天下心を帰す、宜(よろ)しく大位に登るべし。中外文武臣僚、心を同じゅうして輔祐(ほゆう)し、以(もっ)て吾(わ)が民を福(さいわい)せよ。葬祭の儀は、一に漢の文帝の如くにして異(こと)にする勿(なか)れ。天下に布告して、朕が意を知らしめよ。孝陵の山川(さんせん)は、其の故(ふるき)に因りて改むる勿(なか)れ、天下の臣民は、哭臨(こくりん)する三日にして、皆服を釈(と)き、嫁娶(かしゅ)を妨ぐるなかれ。諸王は国中に臨(なげ)きて、京師に至る母(なか)れ。諸(もろもろ)の令の中(うち)に在らざる者は、此令を推して事に従えと。
 嗚呼(ああ)、何ぞ其言の人を感ぜしむること多きや。大任に膺(あた)ること、三十一年、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき、と云えるは、真に是(こ)れ帝王の言にして、堂々正大の気象、靄々仁恕(あいあいじんじょ)の情景、百歳の下(しも)、人をして欽仰(きんごう)せしむるに足るものあり。奈何(いかん)せん寒微より起りて、智浅く徳寡(すくな)し、といえるは、謙遜(けんそん)の態度を取り、反求(はんきゅう)の工夫に切に、諱(い)まず飾らざる、誠に美とすべし。今年七十有一、死旦夕(たんせき)に在り、といえるは、英雄も亦(また)大限(たいげん)の漸(ようや)く逼(せま)るを如何(いかん)ともする無き者。而して、今万物自然の理を得、其れ奚(いずく)にぞ哀念かこれ有らん、と云(い)える、流石(さすが)に孔孟仏老(こうもうぶつろう)の教(おしえ)に於(おい)て得るところあるの言なり。酒後に英雄多く、死前に豪傑少(すくな)きは、世間の常態なるが、太祖は是れ真(しん)豪傑、生きて長春不老の癡想(ちそう)を懐(いだ)かず、死して万物自然の数理に安んぜんとす。従容(しょうよう)として逼(せま)らず、晏如(あんじょ)として□(おそ)れず、偉なる哉(かな)、偉なる哉。皇太孫允□(いんぶん)、宜しく大位に登るべし、と云えるは、一言(げん)や鉄の鋳られたるが如(ごと)し。衆論の糸の紛(もつ)るゝを防ぐ。これより前(さき)、太孫の儲位(ちょい)に即(つ)くや、太祖太孫を愛せざるにあらずと雖(いえど)も、太孫の人となり仁孝聡頴(そうえい)にして、学を好み書を読むことはこれ有り、然も勇壮果決の意気は甚(はなは)だ欠く。此(これ)を以て太祖の詩を賦せしむるごとに、其(その)詩婉美柔弱(えんびじゅうじゃく)、豪壮瑰偉(かいい)の処(ところ)無く、太祖多く喜ばず。一日太孫をして詞句(しく)の属対(ぞくたい)をなさしめしに、大(おおい)に旨(し)に称(かな)わず、復(ふたた)び以て燕王(えんおう)棣(てい)に命ぜられけるに、燕王の語は乃(すなわ)ち佳なりけり。燕王は太祖の第四子、容貌(ようぼう)偉(い)にして髭髯(しぜん)美(うる)わしく、智勇あり、大略あり、誠を推して人に任じ、太祖[#「太祖」は底本では「大祖」]に肖(に)たること多かりしかば、太祖も此(これ)を悦(よろこ)び、人も或(あるい)は意(こころ)を寄するものありたり。此(ここ)に於(おい)て太祖密(ひそか)に儲位(ちょい)を易(か)えんとするに意(い)有りしが、劉三吾(りゅうさんご)之(これ)を阻(はば)みたり。三吾は名は如孫(じょそん)、元(げん)の遺臣なりしが、博学にして、文を善(よ)くしたりければ、洪武十八年召されて出(い)でゝ仕えぬ。時に年七十三。当時汪叡(おうえい)、朱善(しゅぜん)と与(とも)に、世(よ)称して三老(ろう)と為(な)す。人となり慷慨(こうがい)にして城府を設けず、自ら号して坦坦翁(たんたんおう)といえるにも、其の風格は推知すべし。坦坦翁、生平(せいへい)実に坦坦、文章学術を以て太祖に仕え、礼儀の制、選挙の法を定むるの議に与(あずか)りて定むる所多く、帝の洪範(こうはん)の注成るや、命を承(う)けて序を為(つく)り、勅修(ちょくしゅう)の書、省躬録(せいきゅうろく)、書伝会要(しょでんかいよう)、礼制集要(れいせいしゅうよう)等の編撰(へんせん)総裁となり、居然(きょぜん)たる一宿儒を以て、朝野の重んずるところたり。而して大節(たいせつ)に臨むに至りては、屹(きつ)として奪う可(べ)からず。懿文(いぶん)太子の薨(こう)ずるや、身を挺(ぬき)んでゝ、皇孫は世嫡(せいちゃく)なり、大統を承(う)けたまわんこと、礼也(なり)、と云いて、内外の疑懼(ぎく)を定め、太孫を立てゝ儲君(ちょくん)となせし者は、実に此の劉三吾たりしなり。三吾太祖の意を知るや、何ぞ言(げん)無からん、乃(すなわ)ち曰(いわ)く、若(も)し燕王を立て給(たま)わば秦王(しんおう)晋王(しんおう)を何の地に置き給わんと。秦王※(そう)[#「木+爽」、UCS-6A09、265-7]、晋王棡(こう)は、皆燕王の兄たり。孫(そん)を廃して子(し)を立つるだに、定まりたるを覆(かえ)すなり、まして兄を越して弟を君とするは序を乱るなり、世(よ)豈(あに)事無くして已(や)まんや、との意は言外に明らかなりければ、太祖も英明絶倫の主なり、言下に非を悟りて、其(その)事止(や)みけるなり。是(かく)の如き事もありしなれば、太祖みずから崩後の動揺を防ぎ、暗中の飛躍を遏(とど)めて、特(こと)に厳しく皇太孫允□宜(よろ)しく大位に登るべしとは詔を遺(のこ)されたるなるべし。太祖の治(ち)を思うの慮(りょ)も遠く、皇孫を愛するの情も篤(あつ)しという可し。葬祭の儀は、漢の文帝の如(ごと)くせよ、と云える、天下の臣民は哭臨(こくりん)三日にして服を釈(と)き、嫁娶(かしゅ)を妨ぐる勿(なか)れ、と云える、何ぞ倹素(けんそ)にして仁恕(じんじょ)なる。文帝の如くせよとは、金玉(きんぎょく)を用いる勿れとなり。孝陵の山川は其の故(もと)に因れとは、土木を起す勿れとなり。嫁娶を妨ぐる勿れとは、民をして福(さいわい)あらしめんとなり。諸王は国中に臨(なげ)きて、京に至るを得る無かれ、と云えるは、蓋(けだ)し其(その)意(い)諸王其の封を去りて京に至らば、前代の遺□(いげつ)、辺土の黠豪(かつごう)等、或(あるい)は虚に乗じて事を挙ぐるあらば、星火も延焼して、燎原(りょうげん)の勢を成すに至らんことを虞(おそ)るるに似たり。此(こ)も亦(また)愛民憂世の念、おのずから此(ここ)に至るというべし。太祖の遺詔、嗚呼(ああ)、何ぞ人を感ぜしむるの多きや。


 然(しか)りと雖(いえど)も、太祖の遺詔、考う可(べ)きも亦(また)多し。皇太孫允□(いんぶん)、天下心を帰す、宜(よろ)しく大位に登るべし、と云(い)えるは、何ぞや。既に立って皇太孫となる。遺詔無しと雖も、当(まさ)に大位に登るべきのみ。特に大位に登るべしというは、朝野の間、或(あるい)は皇太孫の大位に登らざらんことを欲する者あり、太孫の年少(わか)く勇(ゆう)乏しき、自ら謙譲して諸王の中(うち)の材雄に略大なる者に位を遜(ゆず)らんことを欲する者ありしが如(ごと)きをも猜(すい)せしむ。仁明孝友、天下心を帰す、と云えるは、何ぞや。明(みん)の世を治むる、纔(わずか)に三十一年、元(げん)の裔(えい)猶(なお)未(いま)だ滅びず、中国に在るもの無しと雖(いえど)も、漠北(ばくほく)に、塞西(さいせい)に、辺南(へんなん)に、元の同種の広大の地域を有して□踞(ばんきょ)するもの存し、太祖崩じて後二十余年にして猶大に興和(こうわ)に寇(あだ)するあり。国外の情(じょう)是(かく)の如し。而(しこう)して域内の事、また英主の世を御せんことを幸(さいわい)とせずんばあらず。仁明孝友は固(もと)より尚(たっと)ぶべしと雖も、時勢の要するところ、実は雄材大略なり。仁明孝友、天下心を帰するというと雖も、或(あるい)は恐る、天下を十にして其の心を帰する者七八に過ぎざらんことを。中外文武臣僚、心を同じゅうして輔祐(ほゆう)し、以(もっ)て吾(わ)が民を福(さいわい)せよ、といえるは、文武臣僚の中、心を同じゅうせざる者あるを懼(おそ)るゝに似たり。太祖の心、それ安んぜざる有る耶(か)、非(ひ)耶(か)。諸王は国中に臨(なげ)きて京(けい)に至るを得る無かれ、と云えるは、何ぞや。諸王の其(その)封国(ほうこく)を空(むな)しゅうして奸※(かんごう)[#「敖/馬」、UCS-9A41、268-4]の乗ずるところとならんことを虞(おそ)るというも、諸王の臣、豈(あに)一時を托(たく)するに足る者無からんや。子の父の葬(そう)に趨(はし)るは、おのずから是(こ)れ情なり、是れ理なり、礼にあらず道にあらずと為(な)さんや。諸王をして葬に会せざらしむる詔(みことのり)は、果して是れ太祖の言に出(い)づるか。太祖にして此(この)詔を遺(のこ)すとせば、太祖ひそかに其(そ)の斥(しりぞ)けて聴かざりし葉居升(しょうきょしょう)の言の、諸王衆を擁して入朝し、甚(はなはだ)しければ則(すなわ)ち間(かん)に縁(よ)りて起(た)たんに、之(これ)を防ぐも及ぶ無き也(なり)、と云えるを思えるにあらざる無きを得んや。嗚呼(ああ)子にして父の葬に会するを得ず、父の意(い)なりと謂(い)うと雖も、子よりして論ずれば、父の子を待つも亦(また)疎(そ)にして薄きの憾(うらみ)無くんばあらざらんとす。詔或は時勢に中(あた)らん、而(しか)も実に人情に遠いかな。凡(およ)そ施為(しい)命令謀図言義を論ぜず、其の人情に遠きこと甚(はなはだ)しきものは、意は善なるも、理は正しきも、計(けい)は中(あた)るも、見(けん)は徹するも、必らず弊に坐(ざ)し凶を招くものなり。太祖の詔、可なることは則(すなわ)ち可なり、人情には遠し、これより先に洪武十五年高(こう)皇后の崩ずるや、奏(しん)王晋(しん)王燕(えん)王等皆国に在り、然(しか)れども諸王喪(も)に奔(はし)りて京(けい)に至り、礼を卒(お)えて還れり。太祖の崩ぜると、其后(きさき)の崩ぜると、天下の情勢に関すること異なりと雖も、母の喪には奔りて従うを得て、父の葬には入りて会するを得ざらしむ。此(これ)も亦人を強いて人情に遠きを為(な)さしむるものなり。太祖の詔、まことに人情に遠し。豈(あに)弊を生じ凶を致す無からんや。果して事端(じたん)は先(ま)ずこゝに発したり。崩を聞いて諸王は京に入らんとし、燕王は将(まさ)に淮安(わいあん)に至らんとせるに当りて、斉泰(せいたい)は帝に言(もう)し、人をして□(ちょく)を賚(もた)らして国に還(かえ)らしめぬ。燕王を首(はじめ)として諸王は皆悦(よろこ)ばず。これ尚書(しょうしょ)斉泰(せいたい)の疎間(そかん)するなりと謂(い)いぬ。建文帝は位に即(つ)きて劈頭(へきとう)第一に諸王をして悦ばざらしめぬ。諸王は帝の叔父(しゅくふ)なり、尊族なり、封土(ほうど)を有し、兵馬民財を有せる也。諸王にして悦ばざるときは、宗家の枝柯(しか)、皇室の藩屏(はんぺい)たるも何かあらん。嗚呼(ああ)、これ罪斉泰にあるか、建文帝にあるか、抑(そも)又遺詔にあるか、諸王にあるか、之(これ)を知らざる也。又飜(ひるがえ)って思うに、太祖の遺詔に、果して諸王の入臨を止(とど)むるの語ありしや否や。或(あるい)は疑う、太祖の人情に通じ、世故(せいこ)に熟せる、まさに是(かく)の如きの詔を遺(のこ)さゞるべし。若(も)し太祖に果して登遐(とうか)の日に際して諸王の葬に会するを欲せざらば、平生無事従容の日、又は諸王の京を退きて封に就(つ)くの時に於(おい)て、親しく諸王に意を諭すべきなり。然らば諸王も亦(また)発駕奔喪(はつがほんそう)の際に於て、半途にして擁遏(ようかつ)せらるゝの不快事に会う無く、各□(おのおの)其(その)封に於て哭臨(こくりん)して、他を責むるが如きこと無かるべきのみ。太祖の智にして事此(ここ)に出(い)でず、詔を遺して諸王の情を屈するは解す可(べ)からず。人の情屈すれば則(すなわ)ち悦ばず、悦ばざれば則ち怨(うらみ)を懐(いだ)き他を責むるに至る。怨を懐き他を責むるに至れば、事無きを欲するも得べからず。太祖の人情に通ぜる何ぞ之(これ)を知るの明(めい)無からん。故に曰(いわ)く、太祖の遺詔に、諸王の入臨を止(とど)むる者は、太祖の為すところにあらず、疑うらくは斉泰黄子澄(こうしちょう)の輩の仮託するところならんと。斉泰の輩、もとより諸王の帝に利あらざらんことを恐る、詔を矯(た)むるの事も、世其例に乏しからず、是(かく)の如きの事、未だ必ずしも無きを保(ほ)せず。然れども是(こ)れ推測の言のみ。真(しん)耶(か)、偽(ぎ)耶(か)、太祖の失か、失にあらざるか、斉泰の為(い)か、為にあらざる耶(か)、将又(はたまた)斉泰、遺詔に托して諸王の入京会葬を遏(とど)めざる能(あた)わざるの勢の存せしか、非耶(か)。建文永楽の間(かん)、史に曲筆多し、今新(あらた)に史徴を得るあるにあらざれば、疑(うたがい)を存せんのみ、確(たしか)に知る能(あた)わざる也。


 太祖の崩ぜるは閏(うるう)五月なり、諸王の入京(にゅうけい)を遏(とど)められて悦(よろこ)ばずして帰れるの後、六月に至って戸部侍郎(こぶじろう)卓敬(たくけい)というもの、密疏(みっそ)を上(たてまつ)る。卓敬字(あざな)は惟恭(いきょう)、書を読んで十行倶(とも)に下ると云(い)われし頴悟聡敏(えいごそうびん)の士、天文地理より律暦兵刑に至るまで究(きわ)めざること無く、後に成祖(せいそ)をして、国家士(し)を養うこと三十年、唯(ただ)一卓敬を得たりと歎(たん)ぜしめしほどの英才なり。□直慷慨(こうちょくこうがい)にして、避くるところ無し。嘗(かつ)て制度未(いま)だ備わらずして諸王の服乗(ふくじょう)も太子に擬せるを見、太祖に直言して、嫡庶(ちゃくしょ)相(あい)乱(みだ)り、尊卑序無くんば、何を以(もっ)て天下に令せんや、と説き、太祖をして、爾(なんじ)の言(げん)是(ぜ)なり、と曰(い)わしめたり。其(そ)の人となり知る可(べ)きなり。敬の密疏は、宗藩(そうはん)を裁抑(さいよく)して、禍根を除かんとなり。されども、帝は敬の疏を受けたまいしのみにて、報じたまわず、事竟(つい)に寝(や)みぬ。敬の言、蓋(けだ)し故無くして発せず、必らず窃(ひそか)に聞くところありしなり。二十余年前の葉居升(しょうきょしょう)が言は、是(ここ)に於(おい)て其(その)中(あた)れるを示さんとし、七国の難は今将(まさ)に発せんとす。燕(えん)王、周(しゅう)王、斉(せい)王、湘(しょう)王、代(だい)王、岷(みん)王等、秘信相通じ、密使互(たがい)に動き、穏やかならぬ流言ありて、朝(ちょう)に聞えたり。諸王と帝との間、帝は其(そ)の未(いま)だ位に即(つ)かざりしより諸王を忌憚(きたん)し、諸王は其の未だ位に即かざるに当って儲君(ちょくん)を侮り、叔父(しゅくふ)の尊を挟(さしば)んで不遜(ふそん)の事多かりしなり。入京会葬を止(とど)むるの事、遺詔に出(い)づと云うと雖(いえど)も、諸王、責(せめ)を讒臣(ざんしん)に托(たく)して、而(しこう)して其の奸悪(かんあく)を除(のぞ)かんと云い、香(こう)を孝陵(こうりょう)に進めて、而して吾が誠実を致さんと云うに至っては、蓋(けだ)し辞柄(じへい)無きにあらず。諸王は合同の勢あり、帝は孤立の状あり。嗚呼(ああ)、諸王も疑い、帝も疑う、相疑うや何ぞ□離(かいり)せざらん。帝も戒め、諸王も戒む、相戒むるや何ぞ疎隔(そかく)せざらん。疎隔し、□離す、而して帝の為(ため)に密(ひそか)に図るものあり、諸王の為に私(ひそか)に謀るものあり、況(いわ)んや藩王を以(もっ)て天子たらんとするものあり、王を以て皇となさんとするものあるに於(おい)てをや。事遂(つい)に決裂せずんば止(や)まざるものある也。
 帝の為(ため)に密(ひそか)に図る者をば誰(たれ)となす。曰(いわ)く、黄子澄(こうしちょう)となし、斉泰(せいたい)となす。子澄は既に記しぬ。斉泰は□水(りっすい)の人、洪武十七年より漸(ようや)く世に出(い)づ。建文帝位(くらい)に即きたもうに及び、子澄と与(とも)に帝の信頼するところとなりて、国政に参す。諸王の入京会葬を遏(とど)めたる時の如き、諸王は皆謂(おも)えらく、泰皇考(たいこうこう)の詔を矯(た)めて骨肉を間(へだ)つと。泰の諸王の憎むところとなれる、知るべし。
 諸王の為に私(ひそか)に謀る者を誰となす。曰く、諸王の雄(ゆう)を燕王となす。燕王の傅(ふ)に、僧道衍(どうえん)あり。道衍は僧たりと雖(いえど)[#ルビの「いえど」は底本では「いえども」]も、灰心滅智(かいしんめっち)の羅漢(らかん)にあらずして、却(かえ)って是(こ)れ好謀善算の人なり。洪武二十八年、初めて諸王の封国に就(つ)く時、道衍躬(み)ずから薦(すす)めて燕王の傅(ふ)とならんとし、謂(い)って曰く、大王(だいおう)臣をして侍するを得せしめたまわば、一白帽(いちはくぼう)を奉りて大王がために戴(いただ)かしめんと。王上(おうじょう)に白(はく)を冠すれば、其(その)文(ぶん)は皇なり、儲位(ちょい)明らかに定まりて、太祖未だ崩ぜざるの時だに、是(かく)の如(ごと)きの怪僧ありて、燕王が為に白帽を奉らんとし、而(しこう)して燕王是(かく)の如きの怪僧を延(ひ)いて帷※(いばく)[#「巾+莫」、UCS-5E59、274-11]の中に居(お)く。燕王の心胸もとより清からず、道衍の瓜甲(そうこう)も毒ありというべし。道衍燕邸(えんてい)に至るに及んで袁□(えんこう)を王に薦む。袁□は字(あざな)は廷玉(ていぎょく)、□(きん)の人にして、此(これ)亦(また)一種の異人なり。嘗(かつ)て海外に遊んで、人を相(そう)するの術を別古崖(べつこがい)というものに受く。仰いで皎日(こうじつ)を視(み)て、目尽(ことごと)く眩(げん)して後、赤豆(せきとう)黒豆(こくとう)を暗室中に布(し)いて之を弁(べん)じ、又五色の縷(いと)を窓外に懸け、月に映じて其(その)色を別って訛(あやま)つこと無く、然(しか)して後に人を相す。其法は夜中を以て両炬(りょうきょ)を燃(もや)し、人の形状気色(きしょく)を視(み)て、参するに生年月日(げつじつ)を以てするに、百に一謬(びょう)無く、元末より既に名を天下に馳(は)せたり。其の道衍(どうえん)と識(し)るに及びたるは、道衍が嵩山寺(すうざんじ)に在りし時にあり。袁□(えんこう)道衍が相をつく/″\と観(み)て、是(こ)れ何ぞ異僧なるや、目は三角あり、形は病虎(びょうこ)の如し。性必(かな)らず殺を嗜(たしな)まん。劉秉忠(りゅうへいちゅう)の流(りゅう)なりと。劉秉忠は学(がく)内外を兼ね、識(しき)三才を綜(す)ぶ、釈氏(しゃくし)より起(おこ)って元主を助け、九州を混一(こんいつ)し、四海を併合す。元の天下を得る、もとより其の兵力に頼(よ)ると雖も、成功の速疾なるもの、劉の揮※(きかく)[#「てへん+霍」、UCS-6509、275-10]の宜(よろ)しきを得るに因(よ)るもの亦(また)鮮(すくな)からず。秉忠は実に奇偉卓犖(きいたくらく)の僧なり。道衍秉忠の流なりとなさる、まさに是れ癢処(ようしょ)に爬着(はちゃく)するもの。是れより二人、友とし善(よ)し。道衍の□(こう)を燕王に薦むるに当りてや、燕王先(ま)ず使者をして□(こう)と与(とも)に酒肆(しゅし)に飲ましめ、王みずから衛士の儀表堂々たるもの九人に雑(まじ)わり、おのれ亦(また)衛士の服を服し、弓矢(きゅうし)を執(と)りて肆中(しちゅう)に飲む。□一見して即(すなわ)ち趨(はし)って燕王の前に拝して曰(いわ)く、殿下何ぞ身を軽んじて此(ここ)に至りたまえると。燕王等笑って曰く、吾輩(わがはい)皆護衛の士なりと。□頭(こうべ)を掉(ふ)って是(ぜ)とせず。こゝに於て王起(た)って入り、□を宮中に延(ひ)きて詳(つばら)に相(そう)せしむ。□諦視(ていし)すること良(やや)久しゅうして曰(いわ)く、殿下は龍行虎歩(りゅうこうこほ)したまい、日角(にっかく)天を挿(さしはさ)む、まことに異日太平の天子にておわします。御年(おんとし)四十にして、御鬚(おんひげ)臍(へそ)を過(す)ぎさせたもうに及ばせたまわば、大宝位(たいほうい)に登らせたまわんこと疑(うたがい)あるべからず、と白(もう)す。又燕府(えんふ)の将校官属を相せしめたもうに、□一々指点して曰く、某(ぼう)は公(こう)たるべし、某は侯(こう)たるべし、某は将軍たるべし、某は貴官たるべしと。燕王語(ことば)の洩(も)れんことを慮(はか)り、陽(うわべ)に斥(しりぞ)けて通州(つうしゅう)に至らしめ、舟路(しゅうろ)密(ひそか)に召して邸(てい)に入る。道衍は北平(ほくへい)の慶寿寺(けいじゅじ)に在り、□は燕府(えんふ)に在り、燕王と三人、時々人を屏(しりぞ)けて語る。知らず其の語るところのもの何ぞや。□は柳荘居士(りゅうそうこじ)と号す。時に年蓋(けだ)し七十に近し。抑(そも)亦(また)何の欲するところあって燕王に勧めて反せしめしや。其子忠徹(ちゅうてつ)の伝うるところの柳荘相法、今に至って猶(なお)存し、風鑑(ふうかん)の津梁(しんりょう)たり。□と永楽帝と答問するところの永楽百問の中(うち)、帝鬚(ていしゅ)の事を記す。
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