星あかり
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著者名:泉鏡花 

 もとより何故(なにゆゑ)といふ理(わけ)はないので、墓石(はかいし)の倒(たふ)れたのを引摺(ひきずり)寄(よ)せて、二(ふた)ツばかり重(かさ)ねて臺(だい)にした。
 其(そ)の上(うへ)に乘(の)つて、雨戸(あまど)の引合(ひきあは)せの上(うへ)の方(はう)を、ガタ/\動(うご)かして見(み)たが、開(あ)きさうにもない。雨戸(あまど)の中(うち)は、相州(さうしう)西鎌倉(にしかまくら)亂橋(みだればし)の妙長寺(めうちやうじ)といふ、法華宗(ほつけしう)の寺(てら)の、本堂(ほんだう)に隣(とな)つた八疊(でふ)の、横(よこ)に長(なが)い置床(おきどこ)の附(つ)いた座敷(ざしき)で、向(むか)つて左手(ゆんで)に、葛籠(つゞら)、革鞄(かばん)などを置(お)いた際(きは)に、山科(やましな)といふ醫學生(いがくせい)が、四六(しろく)の借蚊帳(かりかや)を釣(つ)つて寢(ね)て居(ゐ)るのである。
 聲(こゑ)を懸(か)けて、戸(と)を敲(たゝ)いて、開(あ)けておくれと言(い)へば、何(なん)の造作(ざうさ)はないのだけれども、止(よ)せ、と留(と)めるのを肯(き)かないで、墓原(はかはら)を夜中(よなか)に徘徊(はいくわい)するのは好心持(いゝこゝろもち)のものだと、二(ふた)ツ三(み)ツ言爭(いひあらそ)つて出(で)た、いまのさき、内(うち)で心張棒(しんばりぼう)を構(かま)へたのは、自分(じぶん)を閉出(しめだ)したのだと思(おも)ふから、我慢(がまん)にも恃(たの)むまい。……
 冷(つめた)い石塔(せきたふ)に手(て)を載(の)せたり、濕臭(しめりくさ)い塔婆(たふば)を掴(つか)んだり、花筒(はなづつ)の腐水(くされみづ)に星(ほし)の映(うつ)るのを覗(のぞ)いたり、漫歩(そゞろあるき)をして居(ゐ)たが、藪(やぶ)が近(ちか)く、蚊(か)が酷(ひど)いから、座敷(ざしき)の蚊帳(かや)が懷(なつか)しくなつて、内(うち)へ入(はひ)らうと思(おも)つたので、戸(と)を開(あ)けようとすると閉出(しめだ)されたことに氣(き)がついた。
 それから墓石(はかいし)に乘(の)つて推(お)して見(み)たが、原(もと)より然(さ)うすれば開(あ)くであらうといふ望(のぞみ)があつたのではなく、唯(たゞ)居(ゐ)るよりもと、徒(いたづ)らに試(こゝろ)みたばかりなのであつた。
 何(なん)にもならないで、ばたりと力(ちから)なく墓石(はかいし)から下(お)りて、腕(うで)を拱(こまぬ)き、差俯向(さしうつむ)いて、ぢつとして立(た)つて居(ゐ)ると、しつきりなしに蚊(か)が集(たか)る。毒蟲(どくむし)が苦(くる)しいから、もつと樹立(こだち)の少(すくな)い、廣々(ひろ/″\)とした、うるさくない處(ところ)をと、寺(てら)の境内(けいだい)に氣(き)がついたから、歩(ある)き出(だ)して、卵塔場(らんたふば)の開戸(ひらきど)から出(で)て、本堂(ほんだう)の前(まへ)に行(い)つた。
 然(さ)まで大(おほ)きくもない寺(てら)で、和尚(をしやう)と婆(ばあ)さんと二人(ふたり)で住(す)む。門(もん)まで僅(わづ)か三四間(けん)、左手(ゆんで)は祠(ほこら)の前(まへ)を一坪(ひとつぼ)ばかり花壇(くわだん)にして、松葉牡丹(まつばぼたん)、鬼百合(おにゆり)、夏菊(なつぎく)など雜植(まぜうゑ)の繁(しげ)つた中(なか)に、向日葵(ひまはり)の花(はな)は高(たか)く蓮(はす)の葉(は)の如(ごと)く押被(おつかぶ)さつて、何時(いつ)の間(ま)にか星(ほし)は隱(かく)れた。鼠色(ねずみいろ)の空(そら)はどんよりとして、流(なが)るゝ雲(くも)も何(なん)にもない。なか/\氣(き)が晴々(せい/\)しないから、一層(いつそ)海端(うみばた)へ行(い)つて見(み)ようと思(おも)つて、さて、ぶら/\。
 門(もん)の左側(ひだりがは)に、井戸(ゐど)が一個(ひとつ)。飮水(のみみづ)ではないので、極(きは)めて鹽(しほ)ツ辛(から)いが、底(そこ)は淺(あさ)い、屈(かゞ)んでざぶ/″\、さるぼうで汲(く)み得(え)らるゝ。石疊(いしだたみ)で穿下(ほりおろ)した合目(あはせめ)には、此(こ)のあたりに産(さん)する何(なん)とかいふ蟹(かに)、甲良(かふら)が黄色(きいろ)で、足(あし)の赤(あか)い、小(ちひ)さなのが數限(かずかぎり)なく群(むらが)つて動(うご)いて居(ゐ)る。毎朝(まいあさ)此(こ)の水(みづ)で顏(かほ)を洗(あら)ふ、一杯(ぱい)頭(あたま)から浴(あ)びようとしたけれども、あんな蟹(かに)は、夜中(よなか)に何(なに)をするか分(わか)らぬと思(おも)つてやめた。
 門(もん)を出(で)ると、右左(みぎひだり)、二畝(ふたうね)ばかり慰(なぐさ)みに植(う)ゑた青田(あをた)があつて、向(むか)う正面(しやうめん)の畦中(あぜなか)に、琴彈松(ことひきまつ)といふのがある。一昨日(をとつひ)の晩(ばん)宵(よひ)の口(くち)に、其(そ)の松(まつ)のうらおもてに、ちら/\灯(ともしび)が見(み)えたのを、海濱(かいひん)の別莊(べつさう)で花火(はなび)を焚(た)くのだといひ、否(いや)、狐火(きつねび)だともいつた。其(そ)の時(とき)は濡(ぬ)れたやうな眞黒(まつくろ)な暗夜(やみよ)だつたから、其(そ)の灯(ひ)で松(まつ)の葉(は)もすら/\と透通(すきとほ)るやうに青(あを)く見(み)えたが、今(いま)は、恰(あたか)も曇(くも)つた一面(いちめん)の銀泥(ぎんでい)に描(ゑが)いた墨繪(すみゑ)のやうだと、熟(ぢつ)と見(み)ながら、敷石(しきいし)を蹈(ふ)んだが、カラリ/\と日和下駄(ひよりげた)の音(おと)の冴(さ)えるのが耳(みゝ)に入(はひ)つて、フと立留(たちとま)つた。
 門外(おもて)の道(みち)は、弓形(ゆみなり)に一條(ひとすぢ)、ほの/″\と白(しろ)く、比企(ひき)ヶ谷(やつ)の山(やま)から由井(ゆゐ)ヶ濱(はま)の磯際(いそぎは)まで、斜(なゝめ)に鵲(かさゝぎ)の橋(はし)を渡(わた)したやう也(なり)。
 ハヤ浪(なみ)の音(おと)が聞(きこ)えて來(き)た。
 濱(はま)の方(はう)へ五六間(けん)進(すゝ)むと、土橋(どばし)が一架(ひとつ)、並(なみ)の小(ちひ)さなのだけれども、滑川(なめりがは)に架(かゝ)つたのだの、長谷(はせ)の行合橋(ゆきあひばし)だのと、おなじ名(な)に聞(きこ)えた亂橋(みだればし)といふのである。
 此(こ)の上(うへ)で又(ま)た立停(たちとま)つて前途(ゆくて)を見(み)ながら、由井(ゆゐ)ヶ濱(はま)までは、未(ま)だ三町(ちやう)ばかりあると、つく/″\然(さ)う考(かんが)へた。三町(ちやう)は蓋(けだ)し遠(とほ)い道(みち)ではないが、身體(からだ)も精神(せいしん)も共(とも)に太(いた)く疲(つか)れて居(ゐ)たからで。
 しかし其(その)まゝ素直(まつすぐ)に立(た)つてるのが、餘(あま)り辛(つら)かつたから又(ま)た歩(ある)いた。
 路(みち)の兩側(りやうがは)しばらくのあひだ、人家(じんか)が斷(た)えては續(つゞ)いたが、いづれも寢靜(ねしづ)まつて、白(しら)けた藁屋(わらや)の中(なか)に、何家(どこ)も何家(どこ)も人(ひと)の氣勢(けはひ)がせぬ。
 其(そ)の寂寞(せきばく)を破(やぶ)る、跫音(あしおと)が高(たか)いので、夜更(よふけ)に里人(さとびと)の懷疑(うたがひ)を受(う)けはしないかといふ懸念(けねん)から、誰(たれ)も咎(とが)めはせぬのに、拔足(ぬきあし)、差足(さしあし)、音(おと)は立(た)てまいと思(おも)ふほど、なほ下駄(げた)の響(ひゞき)が胸(むね)を打(う)つて、耳(みゝ)を貫(つらぬ)く。
 何(なに)か、自分(じぶん)は世(よ)の中(なか)の一切(すべて)のものに、現在(いま)、恁(か)く、悄然(しよんぼり)、夜露(よつゆ)で重(おも)ツくるしい、白地(しろぢ)の浴衣(ゆかた)の、しほたれた、細(ほそ)い姿(すがた)で、首(かうべ)を垂(た)れて、唯一人(たゞひとり)、由井(ゆゐ)ヶ濱(はま)へ通(つう)ずる砂道(すなみち)を辿(たど)ることを、見(み)られてはならぬ、知(し)られてはならぬ、氣取(けど)られてはならぬといふやうな思(おもひ)であるのに、まあ!廂(ひさし)も、屋根(やね)も、居酒屋(ゐざかや)の軒(のき)にかゝつた杉(すぎ)の葉(は)も、百姓屋(ひやくしやうや)の土間(どま)に据(す)ゑてある粉挽臼(こなひきうす)も、皆(みな)目(め)を以(もつ)て、じろじろ睨(ね)めるやうで、身(み)の置處(おきどころ)ないまでに、右(みぎ)から、左(ひだり)から、路(みち)をせばめられて、しめつけられて、小(ちひ)さく、堅(かた)くなつて、おど/\して、其癖(そのくせ)、驅(か)け出(だ)さうとする勇氣(ゆうき)はなく、凡(およ)そ人間(にんげん)の歩行(ほかう)に、ありツたけの遲(おそ)さで、汗(あせ)になりながら、人家(じんか)のある處(ところ)をすり拔(ぬ)けて、やう/\石地藏(いしぢざう)の立(た)つ處(ところ)。
 ほツと息(いき)をすると、びよう/\と、頻(しきり)に犬(いぬ)の吠(ほ)えるのが聞(きこ)えた。
 一(ひと)つでない、二(ふた)つでもない。三頭(みつ)も四頭(よつ)も一齊(いつせい)に吠(ほ)え立(た)てるのは、丁(ちやう)ど前途(ゆくて)の濱際(はまぎは)に、また人家(じんか)が七八軒(けん)、浴場(よくぢやう)、荒物屋(あらものや)など一廓(ひとくるわ)になつて居(ゐ)る其(その)あたり。彼處(あすこ)を通拔(とほりぬ)けねばならないと思(おも)ふと、今度(こんど)は寒氣(さむけ)がした。我(われ)ながら、自分(じぶん)を怪(あやし)むほどであるから、恐(おそ)ろしく犬(いぬ)を憚(はゞか)つたものである。進(すゝ)まれもせず、引返(ひきかへ)せば再(ふたゝ)び石臼(いしうす)だの、松(まつ)の葉(は)だの、屋根(やね)にも廂(ひさし)にも睨(にら)まれる、あの、此上(このうへ)もない厭(いや)な思(おもひ)をしなければならぬの歟(か)と、それもならず。靜(ぢつ)と立(た)つてると、天窓(あたま)がふら/\、おしつけられるやうな、しめつけられるやうな、犇々(ひし/\)と重(おも)いものでおされるやうな、切(せつ)ない、堪(たま)らない氣(き)がして、もはや!横(よこ)に倒(たふ)れようかと思(おも)つた。
 處(ところ)へ、荷車(にぐるま)が一臺(だい)、前方(むかう)から押寄(おしよ)せるが如(ごと)くに動(うご)いて、來(き)たのは頬被(ほゝかぶり)をした百姓(ひやくしやう)である。
 これに夢(ゆめ)が覺(さ)めたやうになつて、少(すこ)し元氣(げんき)がつく。
 曳(ひ)いて來(き)たは空車(からぐるま)で、青菜(あをな)も、藁(わら)も乘(の)つて居(ゐ)はしなかつたが、何故(なぜ)か、雪(ゆき)の下(した)の朝市(あさいち)に行(ゆ)くのであらうと見(み)て取(と)つたので、なるほど、星(ほし)の消(き)えたのも、空(そら)が淀(よど)んで居(ゐ)るのも、夜明(よあけ)に間(ま)のない所爲(せゐ)であらう。墓原(はかはら)へ出(で)たのは十二時過(じすぎ)、それから、あゝして、あゝして、と此處(こゝ)まで來(き)た間(あひだ)のことを心(こゝろ)に繰返(くりかへ)して、大分(だいぶん)の時間(じかん)が經(た)つたから。
 と思(おも)ふ内(うち)に、車(くるま)は自分(じぶん)の前(まへ)、ものの二三間(げん)隔(へだ)たる處(ところ)から、左(ひだり)の山道(やまみち)の方(はう)へ曲(まが)つた。雪(ゆき)の下(した)へ行(ゆ)くには、來(き)て、自分(じぶん)と摺(す)れ違(ちが)つて後方(うしろ)へ通(とほ)り拔(ぬ)けねばならないのに、と怪(あやし)みながら見ると、ぼやけた色(いろ)で、夜(よる)の色(いろ)よりも少(すこ)し白(しろ)く見(み)えた、車(くるま)も、人(ひと)も、山道(やまみち)の半(なかば)あたりでツイ目(め)のさきにあるやうな、大(おほ)きな、鮮(あざやか)な形(かたち)で、ありのまゝ衝(つ)と消(き)えた。
 今(いま)は最(も)う、さつきから荷車(にぐるま)が唯(たゞ)辷(すべ)つてあるいて、少(すこ)しも轣轆(れきろく)の音(おと)の聞(きこ)えなかつたことも念頭(ねんとう)に置(お)かないで、早(はや)く此(こ)の懊惱(あうなう)を洗(あら)ひ流(なが)さうと、一直線(いつちよくせん)に、夜明(よあけ)に間(ま)もないと考(かんが)へたから、人憚(ひとはゞか)らず足早(あしばや)に進(すゝ)んだ。荒物屋(あらものや)の軒下(のきした)の薄暗(うすくら)い處(ところ)に、斑犬(ぶちいぬ)が一頭(とう)、うしろ向(むき)に、長(なが)く伸(の)びて寢(ね)て居(ゐ)たばかり、事(こと)なく着(つ)いたのは由井(ゆゐ)ヶ濱(はま)である。
 碧水金砂(へきすゐきんさ)、晝(ひる)の趣(おもむき)とは違(ちが)つて、靈山(りやうぜん)ヶ崎(さき)の突端(とつぱな)と小坪(こつぼ)の濱(はま)でおしまはした遠淺(とほあさ)は、暗黒(あんこく)の色(いろ)を帶(お)び、伊豆(いづ)の七島(しちたう)も見(み)ゆるといふ蒼海原(あをうなばら)は、さゝ濁(にごり)に濁(にご)つて、果(はて)なくおつかぶさつたやうに堆(うづだか)い水面(すゐめん)は、おなじ色(いろ)に空(そら)に連(つらな)つて居(ゐ)る。浪打際(なみうちぎは)は綿(わた)をば束(つか)ねたやうな白(しろ)い波(なみ)、波頭(なみがしら)に泡(あわ)を立(た)てて、どうと寄(よ)せては、ざつと、おうやうに、重々(おも/\)しう、飜(ひるがへ)ると、ひた/\と押寄(おしよ)せるが如(ごと)くに來(く)る。これは、一秒(べう)に砂(すな)一粒(りふ)、幾億萬年(いくおくまんねん)の後(のち)には、此(こ)の大陸(たいりく)を浸(ひた)し盡(つく)さうとする處(ところ)の水(みづ)で、いまも、瞬間(しゆんかん)の後(のち)も、咄嗟(とつさ)のさきも、正(まさ)に然(しか)なすべく働(はたら)いて居(ゐ)るのであるが、自分(じぶん)は餘(あま)り大陸(たいりく)の一端(いつたん)が浪(なみ)のために喰缺(くひか)かれることの疾(はや)いのを、心細(こゝろぼそ)く感(かん)ずるばかりであつた。
 妙長寺(めうちやうじ)に寄宿(きしゆく)してから三十日(にち)ばかりになるが、先(さき)に來(き)た時分(じぶん)とは濱(はま)が著(いちじる)しく縮(ちゞ)まつて居(ゐ)る。町(まち)を離(はな)れてから浪打際(なみうちぎは)まで、凡(およ)そ二百歩(ほ)もあつた筈(はず)なのが、白砂(しらすな)に足(あし)を踏掛(ふみか)けたと思(おも)ふと、早(は)や爪先(つまさき)が冷(つめた)く浪(なみ)のさきに觸(ふ)れたので、晝間(ひるま)は鐵(てつ)の鍋(なべ)で煮上(にあ)げたやうな砂(すな)が、皆(みな)ずぶ/″\に濡(ぬ)れて、冷(ひやつ)こく、宛然(さながら)網(あみ)の下(した)を、水(みづ)が潛(くゞ)つて寄(よ)せ來(く)るやう、砂地(すなぢ)に立(た)つてても身體(からだ)が搖(ゆら)ぎさうに思(おも)はれて、不安心(ふあんしん)でならぬから、浪(なみ)が襲(おそ)ふとすた/\と後(あと)へ退(の)き、浪(なみ)が返(かへ)るとすた/\と前(まへ)へ進(すゝ)んで、砂(すな)の上(うへ)に唯一人(たゞひとり)やがて星(ほし)一(ひと)つない下(した)に、果(はて)のない蒼海(あをうみ)の浪(なみ)に、あはれ果敢(はかな)い、弱(よわ)い、力(ちから)のない、身體(からだ)單個(ひとつ)弄(もてあそ)ばれて、刎返(はねかへ)されて居(ゐ)るのだ、と心着(こゝろづ)いて悚然(ぞつ)とした。
 時(とき)に大浪(おほなみ)が、一(ひと)あて推寄(おしよ)せたのに足(あし)を打(う)たれて、氣(き)も上(うは)ずつて蹌踉(よろ)けかゝつた。手(て)が、砂地(すなぢ)に引上(ひきあ)げてある難破船(なんぱせん)の、纔(わづ)かに其形(そのかたち)を留(とゞ)めて居(ゐ)る、三十石(こく)積(づみ)と見覺(みおぼ)えのある、其(そ)の舷(ふなばた)にかゝつて、五寸釘(ごすんくぎ)をヒヤ/\と掴(つか)んで、また身震(みぶるひ)をした。下駄(げた)はさつきから砂地(すなぢ)を驅(か)ける内(うち)に、いつの間(ま)にか脱(ぬ)いでしまつて、跣足(はだし)である。
 何故(なぜ)かは知(し)らぬが、此船(このふね)にでも乘(の)つて助(たす)からうと、片手(かたて)を舷(ふなばた)に添(そ)へて、あわたゞしく擦上(ずりあが)らうとする、足(あし)が砂(すな)を離(はな)れて空(くう)にかゝり、胸(むね)が前屈(まへかゞ)みになつて、がつくり俯向(うつむ)いた目(め)に、船底(ふなぞこ)に銀(ぎん)のやうな水(みづ)が溜(たま)つて居(ゐ)るのを見(み)た。
 思(おも)はずあツといつて失望(しつばう)した時(とき)、轟々(がう/\)轟(がう)といふ波(なみ)の音(おと)。山(やま)を覆(くつがへ)したやうに大畝(おほうねり)が來(き)たとばかりで、――跣足(はだし)で一文字(いちもんじ)に引返(ひきかへ)したが、吐息(といき)もならず――寺(てら)の門(もん)を入(はひ)ると、其處(そこ)まで隙間(すきま)もなく追縋(おひすが)つた、灰汁(あく)を覆(かへ)したやうな海(うみ)は、自分(じぶん)の背(せなか)から放(はな)れて去(い)つた。
 引(ひ)き息(いき)で飛着(とびつ)いた、本堂(ほんだう)の戸(と)を、力(ちから)まかせにがたひしと開(あ)ける、屋根(やね)の上(うへ)で、ガラ/\といふ響(ひゞき)、瓦(かはら)が殘(のこ)らず飛上(とびあが)つて、舞立(まひた)つて、亂合(みだれあ)つて、打破(うちやぶ)れた音(おと)がしたので、はツと思(おも)ふと、目(め)が眩(くら)んで、耳(みゝ)が聞(きこ)えなくなつた。が、うツかりした、疲(つか)れ果(は)てた、倒(たふ)れさうな自分(じぶん)の體(からだ)は、……夢中(むちう)で、色(いろ)の褪(あ)せた、天井(てんじやう)の低(ひく)い、皺(しわ)だらけな蚊帳(かや)の片隅(かたすみ)を掴(つか)んで、暗(くら)くなつた灯(ひ)の影(かげ)に、透(す)かして蚊帳(かや)の裡(うち)を覗(のぞ)いた。
 醫學生(いがくせい)は肌脱(はだぬぎ)で、うつむけに寢(ね)て、踏返(ふみかへ)した夜具(やぐ)の上(うへ)へ、兩足(りやうあし)を投懸(なげか)けて眠(ねむ)つて居(ゐ)る。
 ト枕(まくら)を並(なら)べ、仰向(あをむけ)になり、胸(むね)の上(うへ)に片手(かたて)を力(ちから)なく、片手(かたて)を投出(なげだ)し、足(あし)をのばして、口(くち)を結(むす)んだ顏(かほ)は、灯(ひ)の片影(かたかげ)になつて、一人(ひとり)すや/\と寢(ね)て居(ゐ)るのを、……一目(ひとめ)見(み)ると、其(それ)は自分(じぶん)であつたので、天窓(あたま)から氷(こほり)を浴(あ)びたやうに筋(すぢ)がしまつた。
 ひたと冷(つめた)い汗(あせ)になつて、眼(め)を□(みひら)き、殺(ころ)されるのであらうと思(おも)ひながら、すかして蚊帳(かや)の外(そと)を見(み)たが、墓原(はかはら)をさまよつて、亂橋(みだればし)から由井(ゆゐ)ヶ濱(はま)をうろついて死(し)にさうになつて歸(かへ)つて來(き)た自分(じぶん)の姿(すがた)は、立(た)つて、蚊帳(かや)に縋(すが)つては居(ゐ)なかつた。
 もののけはひを、夜毎(よごと)の心持(こゝろもち)で考(かんが)へると、まだ三時(じ)には間(ま)があつたので、最(も)う最(も)うあたまがおもいから、其(その)まゝ默(だま)つて、母上(はゝうへ)の御名(おんな)を念(ねん)じた。――人(ひと)は恁(か)ういふことから氣(き)が違(ちが)ふのであらう。




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