黒百合
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著者名:泉鏡花 

      序

 越中の国立山(たてやま)なる、石滝(いわたき)の奥深く、黒百合となんいうものありと、語るもおどろおどろしや。姫百合、白百合こそなつかしけれ、鬼と呼ぶさえ、分けてこの凄(すさま)じきを、雄々しきは打笑い、さらぬは袖几帳(そでぎちょう)したまうらむ。富山の町の花売は、山賤(やまがつ)の類(たぐい)にあらず、あわれに美しき女なり。その名の雪の白きに愛でて[#「愛でて」は底本では「愛でで」]、百合の名の黒きをも、濃い紫と見たまえかし。
    明治三十五年寅壬[#「寅壬」は縦中横]三月


[#改ページ]



       一

「島野か。」
 午(ひる)少し過ぐる頃、富山県知事なにがしの君が、四十物町(あえものちょう)の邸(やしき)の門で、活溌に若い声で呼んだ。
 呼ばれたのは、知事の君が遠縁の法学生、この邸に奇寓(きぐう)する食客(しょっかく)であるが、立寄れば大樹(おおき)の蔭で、涼しい服装(みなり)、身軽な夏服を着けて、帽を目深(まぶか)に、洋杖(ステッキ)も細いので、猟犬ジャム、のほうずに耳の大(おおき)いのを後(うしろ)に従え、得々として出懸ける処(ところ)、澄ましていたのが唐突(だしぬけ)に、しかも呼棄(よびず)てにされたので。
 およそ市中において、自分を呼棄てにするは、何等(なにら)の者であろうと、且つ怪(あやし)み、且つ憤って、目を尖(とが)らして顔を上げる。
「島野。」
「へい、」と思わず恐入って、紳士は止(や)むことを得ず頭(かしら)を下げた。
「勇美(ゆみ)さんは居るかい。」と言いさま摺(す)れ違い、門を入ろうとして振向いて言ったのは、十八九の美少年である。絹セルの単衣(ひとえ)、水色縮緬(ちりめん)の帯を背後(うしろ)に結んだ、中背の、見るから蒲柳(ほりゅう)の姿に似ないで、眉も眦(まなじり)もきりりとした、その癖口許(くちもと)の愛くるしいのが、パナマの帽子を無造作に頂いて、絹の手巾(ハンケチ)の雪のような白いのを、泥に染めて、何か包んだものを提げている。
 成程これならば、この食客的紳士が、因ってもって身の金箔(きんぱく)とする処の知事の君をも呼棄てにしかねはせぬ。一国の門閥(もんばつ)、先代があまねく徳を布(し)いた上に、経済の道宜(よろ)しきを得たので、今も内福の聞えの高い、子爵千破矢(ちはや)家の当主、すなわち若君滝太郎(たきたろう)である。
「お宅でございます、」と島野紳士は渋々ながら恭(うやうや)しい。
「学校は休(やすみ)かしら。」
「いえ、土曜日(はんどん)なんで、」
「そうか、」と謂(い)い棄てて少年はずッと入った。
「ちょッ。」
 その後を見送って、島野はつくづく舌打をした。この紳士の不平たるや、単に呼棄てにされて、その威厳の幾分を殺(そ)がれたばかりではない。誰(たれ)も誰も一見して直ちに館(やかた)の飼犬だということを知って、これを従えた者は、知事の君と別懇の者であるということを示す、活(い)きた手形のようなジャムの奴(やつ)が、連れて出た己(おのれ)を棄てて、滝太郎の後から尾を振りながら、ちょろちょろと入ったのであった。
「恐れるな。小天狗(こてんぐ)め、」とさも悔しげに口の内に呟(つぶや)いて、洋杖(ステッキ)をちょいとついて、小刻(こきざみ)に二ツ三ツ地(つち)の上をつついたが、懶(ものう)げに帽の前を俯向(うつむ)けて、射る日を遮(さえぎ)り、淋(さみ)しそうに、一人で歩き出した。
「ジャム、」
 真先(まっさき)に駈(か)けて入った猟犬をまず見着けたのは、当館(やかた)の姫様(ひいさま)で勇美(ゆみ)子という。襟は藤色で、白地にお納戸で薩摩縞(さつまじま)の単衣(ひとえ)、目のぱッちりと大きい、色のくッきりした、油気の無い、さらさらした癖の無い髪を背(せな)へ下げて、蝦茶(えびちゃ)のリボン飾(かざり)、簪(かざし)は挿さず、花畠(はなばたけ)の日向(ひなた)に出ている。

       二

 この花畠は――門を入ると一面の芝生、植込のない押開(おっぴら)いた突当(つきあたり)が玄関、その左の方が西洋造(づくり)で、右の方が廻(まわり)廊下で、そこが前栽になっている。一体昔の大名の別邸を取払った幾分の造作が残ったのに、件(くだん)の洋風の室数(まかず)を建て増したもので、桃色の窓懸(まどかけ)を半ば絞った玄関傍(わき)の応接所から、金々として綺羅(きら)びやかな飾附の、呼鈴(よびりん)、巻莨入(まきたばこいれ)、灰皿、額縁などが洩(も)れて見える――あたかもその前にわざと鄙(ひな)めいた誂(あつらえ)で。
 日車(ひぐるま)は莟(つぼみ)を持っていまだ咲かず、牡丹(ぼたん)は既に散果てたが、姫芥子(ひめげし)の真紅(まっか)の花は、ちらちらと咲いて、姫がものを言う唇のように、芝生から畠を劃(かぎ)って一面に咲いていた三色菫(さんしきすみれ)の、紫と、白と、紅(くれない)が、勇美子のその衣紋(えもん)と、その衣(きぬ)との姿に似て綺麗である。
「どうして、」
 体は大(おおき)いが、小児(こども)のように飛着いて纏(まつ)わる猟犬のあたまを抑(おさ)えた時、傍目(わきめ)も触(ふ)らないで玄関の方へ一文字に行(ゆ)こうとする滝太郎を見着けた。
「おや、」
 同時に少年も振返って、それと見ると、芝生を横截(よこぎ)って、つかつかと間近に寄って、
「ちょいとちょいと、今日はね、うんと礼を言わすんだ、拝んで可(い)いな。」と莞爾々々(にこにこ)しながら、勢(いきおい)よく、棒を突出したようなものいいで、係構(かけかまい)なしに、何か嬉しそう。
 言葉つきなら、仕打なら、人の息女とも思わぬを、これがまた気に懸けるような娘でないから、そのまま重たげに猟犬の頭(かしら)を後(うしろ)に押遣(おしや)り、顔を見て笑って、
「何?」
「何だって、大変だ、活(い)きてるんだからね。お姫様なんざあ学者の先生だけれども、こいつあ分らない。」と件(くだん)の手巾(ハンケチ)の包を目の前へ撮(つま)んでぶら下げた。その泥が染(にじ)んでいる純白(まっしろ)なのを見て、傾いて、
「何です。」
「見ると驚くぜ、吃驚(びっくり)すらあ、草だね、こりゃ草なんだけれど活きてるよ。」
「は、それは活きていましょうとも。草でも樹でも花でも、皆(みんな)活きてるではありませんか。」という時、姫芥子の花は心ありげに袂(たもと)に触れて閃(ひらめ)いた。が、滝太郎は拗(す)ねたような顔色(かおつき)で、
「また始めたい、理窟をいったってはじまらねえ。可いからまあ難有(ありがと)うと、そういってみねえな、よ、厭(いや)なら止(よ)せ。」
「乱暴ねえ、」
「そっちアまた強情だな、可いじゃあないか難有う……と。」
「じゃアまああっちへ参りましょう。」
 と言いかけて勇美子は身を返した。塀の外をちらほらと人の通るのが、小さな節穴を透(すか)して遙(はるか)に昼の影燈籠(かげどうろう)のように見えるのを、熟(じっ)と瞻(みまも)って、忘れたように跪居(ついい)る犬を、勇美子は掌(てのひら)ではたと打って、
「ほら、」
 ジャムは二三尺飛退(とびすさ)って、こちらを向いて、けろりとしたが、衝(つ)と駈出(かけだ)して見えなくなった。
「活きてるんだな。やっぱり。」といって滝太郎一笑す。
 振向いて見たばかり、さすがこれには答えないで、勇美子は先に立って鷹揚(おうよう)である。

       三

「いらっしゃいまし。」
 縁側に手を支(つか)えて、銀杏返(いちょうがえし)の小間使が優容(しとやか)に迎えている。後先(あとさき)になって勇美子の部屋に立向うと、たちまち一種身に染みるような快い薫(かおり)がした。縁の上も、床の前も、机の際も、と見ると芳(かんばし)い草と花とで満(みた)されているのである。ある物は乾燥紙の上に半ば乾き、ある物は圧板(おしいた)の下に露を吐き、あるいは台紙に、紫、紅(あか)、緑、樺(かば)、橙色(だいだいいろ)の名残(なごり)を留(とど)めて、日あたりに並んだり。壁に五段ばかり棚を釣って、重ね、重ね、重ねてあるのは、不残(のこらず)種類の違った植物の標本で、中には壜(びん)に密閉してあるのも見える。山、池、野原、川岸、土堤(どて)、寺、宮の境内、産地々々の幻をこの一室に籠(こ)めて物凄(ものすご)くも感じらるる。正面には、紫の房々とした葡萄(ぶどう)の房を描いて、光線を配(あし)らった、そこにばかり日の影が射(さ)して、明るいようで鮮かな、露垂るばかりの一面の額、ならべて壁に懸けた標本の中なる一輪の牡丹(ぼたん)の紅(くれない)は、色はまだ褪(あ)せ果てぬが、かえって絵のように見えて、薄暗い中へ衝(つ)と入った主(あるじ)の姫が、白と紫を襲(かさ)ねた姿は、一種言うべからざる色彩があった。
「道、」
「は、」と、答(いらえ)をし、大人しやかな小間使は、今座に直った勇美子と対向(さしむかい)に、紅革(べにかわ)の蒲団(ふとん)を直して、
「千破矢様の若様、さあ、どうぞ。」
 帽子も着たままで沓脱(くつぬぎ)に突立(つった)ってた滝太郎は、突然(いきなり)縁に懸けて後(うしろ)ざまに手を着いたが、不思議に鳥の鳴く音(ね)がしたので、驚いて目を□(みは)って、また掌(てのひら)でその縁の板の合せ目を圧(おさ)えてみた。
「何だい、鳴るじゃあないか、きゅうきゅういってやがら、おや、可訝(おかし)いな。」
「お縁側が昔のままでございますから、旧(もと)は好事(ものずき)でこんなに仕懸けました。鶯張(うぐいすばり)と申すのでございますよ。」
 小間使が老実立(まめだ)っていうのを聞いて、滝太郎は恐入った顔色(かおつき)で、
「じゃあ声を出すんだろう、木だの、草だの、へ、色々なものが生きていら。」
「何をいってるのよ。」と勇美子は机の前に、整然(ちゃん)と構えながら苦笑する。
「どう遊ばしましたの。」
取為顔(とりなしがお)の小間使に向って、
「聞きねえ、勇さんが、ね、おい。」
「あれ、また、乱暴なことを有仰(おっしゃ)います。」と微笑(ほほえ)みながら、道は馴々(なれなれ)しく窘(たしな)めるがごとくに言った。
「御容子(ごようす)にも御身分にもお似合い遊ばさない、ぞんざいな言(こと)ばっかし。不可(いけね)えだの、居やがるだのッて、そんな言(こと)は御邸の車夫だって、部屋へ下って下の者同士でなければ申しません。本当に不可(いけ)ませんお道楽でございますねえ。」
「生意気なことをいったって、不可(いけね)えや、畏(かしこま)ってるなあ冬のこッた。ござったのは食物でみねえ、夏向は恐れるぜ。」
「そのお口だものを、」といって驚いて顔を見た。
「黙って、見るこッた、折角お珍らしいのに言句(もんく)をいってると古くしてしまう。」といいながら、急いで手巾(ハンケチ)を解(ほど)いて、縁の上に拡げたのは、一掴(つかみ)、青い苔(こけ)の生えた濡土である。
 勇美子は手を着いて、覗(のぞ)くようにした。眉を開いて、艶麗(あてやか)に、
「何です。」
 滝太郎は背(せな)を向けてぐっと澄まし、
「食いつくよ、活きてるから。」

       四

「まあ、若様、あなた、こっちへお上り遊ばしましな。」と小間使は一塊の湿った土をあえて心にも留めないのであった。
「面倒臭いや、そこへ入り込むと、畏(かしこま)らなけりゃならないから、沢山だい。」といって、片足を沓脱(くつぬぎ)に踏伸ばして、片膝を立てて頤(おとがい)を支えた。
「また、そんなことを有仰(おっしゃ)らないでさ。」
「勝手でございますよ。」
「それではまあお帽子でもお取り遊ばしましな、ね、若様。」
 黙っている。心易立(こころやすだ)てに小間使はわざとらしく、
「若様、もし。」
「堪忍しねえ、□(まぶし)いやな。」
 滝太郎はさも面倒そうに言い棄てて、再び取合わないといった容子を見せたが、俯向(うつむ)いて、足に近い飛石の辺(ほとり)を屹(きっ)と見た。渠(かれ)は□いといって小間使に謝したけれども、今瞳を据えた、パナマの夏帽の陰なる一双の眼(まなこ)は、極めて冷静なものである。小間使は詮方(せんかた)なげに、向直って、
「お嬢様、お茶を入れて参りましょう。」
 勇美子は余念なく滝太郎の贈物を視(なが)めていた。
「珈琲(コオヒイ)にいたしましょうか。」
「ああ、」
「ラムネを取りに遣わしましょうか。」
「ああ、」とばかりで、これも一向に取合わないので、小間使は誠に張合がなく、
「それでは、」といって我ながら訳も解らず、あやふやに立とうとする。
「道、」
「はい。」
「冷水(おひや)が可いぜ、汲立(くみたて)のやつを持って来てくんねえ、後生だ。」
 といいも終らず、滝太郎はつかつかと庭に出て、飛石の上からいきなり地(つち)の上へ手を伸ばした、疾(はや)いこと! 掴(つかま)えたのは一疋の小さな蟻(あり)。
「おいらのせいじゃあないぞ、何だ、蟻のような奴が、譬(たとえ)にも謂(い)わあ、小さな体をして、動いてら。おう、堪忍しねえ、おいらのせいじゃあないぞ。」といいいい取って返して、縁側に俯向(うつむ)いて、勇美子が前髪を分けたのに、眉を隠して、瞳を件(くだん)の土産に寄せて、
「見ねえ。」
 勇美子は傍目(わきめ)も触(ふ)らないでいた。
 しばらくして滝太郎は大得意の色を表して、莞爾(にっこ)と微笑(ほほえ)み、
「ほら、ね、どうだい、だから難有(ありがと)うッて、そう言いねえな。」
「どこから。」といって勇美子は嬉しそうな、そして頭(つむり)を下げていたせいであろう、耳朶(みみもと)に少し汗が染(にじ)んで、□(まぶち)の染まった顔を上げた。
「どこからです、」
「え、」と滝太郎は言淀(いいよど)んで、面(かお)の色が動いたが、やがて事も無げに、
「何、そりゃ、ちゃんと心得てら。でも、あの余計にゃあ無いもんだ。こいつあね、蠅じゃあ大きくって、駄目なの、小さな奴なら蜘蛛(くも)の子位は殺(やッ)つけるだろう。こら、恐(こわ)いなあ、まあ。」
 心なく見たらば、群がった苔の中で気は着くまい。ほとんど土の色と紛(まが)う位、薄樺色(うすかばいろ)で、見ると、柔かそうに湿(しめり)を帯びた、小さな葉が累(かさな)り合って生えている。葉尖(はさき)にすくすくと針を持って、滑(なめら)かに開いていたのが、今蟻を取って上へ落すと、あたかも意識したように、静々と針を集めて、見る見る内に蟻を擒(とりこ)にしたのである。
 滝太郎は、見て、その験(げん)あるを今更に驚いた様子で、
「ね、特別に活きてるだろう。」

       五

「何でも崖(がけ)裏か、藪(やぶ)の陰といった日陰の、湿った処で見着けたのね?」
「そうだ、そうだ。」
 滝太郎は邪慳(じゃけん)に、無愛想にいって目も放さず見ていたが、
「ヤ、半分ばかり食べやがった。ほら、こいつあ溶けるんだ。」
「まあ、ここに葉のまわりの針の尖(さき)に、一ツずつ、小さな水玉のような露を持っててね。」
「うむ、水が懸(かか)って、溜(たま)っているんだあな、雨上りの後だから。」
「いいえ、」といいながら勇美子は立って、室(へや)を横ぎり、床柱に黒塗の手提の採集筒と一所にある白金巾(しろかなきん)の前懸(まえかけ)を取って、襟へあてて、ふわふわと胸膝を包んだ。その瀟洒(しょうしゃ)な風采(ふうさい)は、あたかも古武士が鎧(よろい)を取って投懸けたごとく、白拍子が舞衣(まいぎぬ)を絡(まと)うたごとく、自家の特色を発揮して余(あまり)あるものであった。
 勇美子は旧(もと)の座に直って、机の上から眼鏡(レンズ)を取って、件(くだん)の植物の上に翳(かざ)し、じっと見て、
「水じゃあないの、これはこの苔が持っている、そうね、まあ、あの蜘蛛が虫を捕える糸よ。蟻だの、蚋(ぶゆ)だの、留まると遁(の)がさない道具だわ。あなた名を知らないでしょう、これはね、モウセンゴケというんです、ちょいとこの上から御覧なさい。」と、眼鏡(レンズ)を差向けると、滝太郎は何をという仏頂面で、
「詰(つま)らねえ、そんなものより、おいらの目が確(たしか)だい。」といって傲然(ごうぜん)とした。
 しかり、名も形も性質も知らないで、湿地の苔の中に隠れ生えて、虫を捕獲するのを発見した。滝太郎がものを見る力は、また多とすべきものである。あらかじめ[#「あらかじめ」は底本では「あからじめ」]書籍(ほん)に就いて、その名を心得、その形を知って、且ついかなる処で得らるるかを学んでいるものにも、容易に求猟(あさ)られない奇品であることを思い出した勇美子は、滝太郎がこの苔に就いて、いまだかつて何等の知識もないことに考え到(いた)って、越中の国富山の一箇所で、しかも薄暗い処でなければ産しない、それだけ目に着きやすからぬ不思議な草を、不用意にして採集して来たことに思い及ぶと同時に、名は知るまいといって誇ったのを、にわかに恥じて、差翳(さしかざ)した高慢な虫眼鏡を引込めながら、行儀悪くほとんど匍匐(はらばい)になって、頬杖(ほおづえ)を突いている滝太郎の顔を瞻(みまも)って、心から、
「あなたの目は恐(こわ)いのね。」と極めて真面目(まじめ)にしみじみといった。
 勇美子は年紀(とし)も二ツばかり上である。去年父母に従うてこの地に来たが、富山より、むしろ東京に、東京よりむしろ外国に、多く年月を経た。父は前(さき)に仏蘭西(フランス)の公使館づきであったから、勇美子は母とともに巴里(パリイ)に住んで、九ツの時から八年有余、教育も先方(むこう)で受けた、その知識と経験とをもて、何等かこの貴公子に見所があったのであろう、滝太郎といえばかねてより。……

       六

「よく見着けて採って来てねえ、それでは私に下さるんですか、頂いておいても宜(よろ)しいの。」
「だから難有(ありがと)うッて言いねえてば、はじめから分ってら。」と滝太郎は有為顔(したりがお)で嬉しそう。
「いいえ、本当に結構でございます。」
 勇美子はこういって、猶予(ためら)って四辺(あたり)を見たが、手をその頬の辺(あたり)へ齎(もた)らして唇を指に触れて、嫣然(えんぜん)として微笑(ほほえ)むと斉(ひと)しく、指環(ゆびわ)を抜き取った。玉の透通って紅(あか)い、金色(こんじき)の燦(さん)たるのをつッと出して、
「千破矢さん、お礼をするわ。」
 頤杖(あごづえ)した縁側の目の前(さき)に、しかき贈物を置いて、別に意(こころ)にも留めない風で、滝太郎はモウセンゴケを載せた手巾(ハンケチ)の先を――ここに耳を引張(ひっぱ)るべき猟犬も居ないから――摘(つま)んでは引きながら、片足は沓脱(くつぬぎ)を踏まえたまま、左で足太鼓を打つ腕白さ。
「取っておいて下さいな。」
 まるで知らなかったのでもないかして、
「いりやしねえよ。さあ、とうとう蟻を食っちゃった、見ねえ、おい。」
 勇美子は引手繰(ひったぐ)られるように一膝出て、わずかに敷居に乗らないばかり。
「よう、おしまいなさいよ。」といったが、端(はした)なくも見えて、急(せ)き込む調子。
「欲(ほし)かアありませんぜ。」
「お厭(いや)。」
「それにゃ及ばないや。」
「それではお礼としないで、あの、こうしましょうか、御褒美。」と莞爾(にっこり)する。
「生意気を言っていら、」
 滝太郎は半ば身を起して腰をかけて言い棄てた。勇美子は返すべき言葉もなく、少年の顔を見るでもなく、モウセンゴケに並べてある贈物を見るでもなく、目の遣(や)り処に困った風情。年上の澄ました中(うち)にも、仇気(あどけ)なさが見えて愛々しい。顔を少し赤らめながら、
「ただ上げては失礼ね、千破矢さん、その指環。」
「え、」と思わず手を返した、滝太郎の指にも黄金(きん)の一条(ひとすじ)の環(わ)が嵌(はま)っている。
「取替ッこにしましょうか。」
「これをかい。」
「はあ、」
 勇美子は快活に思い切った物言いである。
 滝太郎は目を円(つぶら)にして、
「不可(いけね)え。こりゃ、」
「それでは、ただ下さいな。」
「うむ。」
「取替えるのがお厭なら。」
「止しねえ、お前(めえ)、お前さんの方がよッぽど可(い)いや、素晴しいんじゃないか。俺(おいら)のこの、」
 と斜(ななめ)に透かして、
「こりゃ、詰(つま)らない。取替えると損だから、悪いことは言わないぜ、はははは、」と笑ったが、努めて紛らそうとしたらしい。
 勇美子は燃ゆるがごとき唇を動かして、動かして、
「惜しいの、大事なんですか。」
「うむ、大事なんだ。」といい放って、縁を離れてそのまますッくと立った。
「帰(けえ)ったら何か持たして寄越(よこ)さあ、邸でも、庫(くら)でも欲しかあ上げよう、こいつあ、後生だから堪忍しねえ。」
 勇美子も慌(あわただ)しく立つ処へ、小間使は来て、廻縁の角へ優容(しとやか)に現れた。何にも知らないから、小腰を屈(かが)めて、
「お嬢様、例(いつぞ)の花売の娘が参っております。若様、もうお忘れ遊ばしたでしょう、冷水(おひや)は毒でございますよ。」

       七

 場末ではあるけれども、富山で賑(にぎや)かなのは総曲輪(そうがわ)という、大手先。城の外壕(そとぼり)が残った水溜(みずたまり)があって、片側町に小商賈(こあきゅうど)が軒を並べ、壕に沿っては昼夜交代に露店(ほしみせ)を出す。観世物(みせもの)小屋が、氷店(こおりみせ)に交(まじ)っていて、町外(まちはずれ)には芝居もある。
 ここに中空を凌(しの)いで榎(えのき)が一本、梢(こずえ)にははや三日月が白く斜(ななめ)に懸(かか)った。蝙蝠(こうもり)が黒く、見えては隠れる横町、総曲輪から裏の旅籠町(はたごまち)という大通(おおどおり)に通ずる小路を、ひとしきり急足(いそぎあし)の往来(ゆきき)があった後へ、もの淋(さみ)しそうな姿で歩行(ある)いて来たのは、大人しやかな学生風の、年配二十五六の男である。
 久留米の蚊飛白(かがすり)に兵児帯(へこおび)して、少し皺(しわ)になった紬(つむぎ)の黒の紋着(もんつき)を着て、紺足袋を穿(は)いた、鉄色の目立たぬ胸紐(むなひも)を律義に結んで、懐中物を入れているが、夕涼(ゆうすずみ)から出懸けたのであろう、帽は被(かぶ)らず、髪の短かいのが漆(うるし)のようで、色の美しく白い、細面の、背のすらりとしたのが、片手に帯を挟んで、俯向(うつむ)いた、紅絹(もみ)の切(きれ)で目を軽く押えながら、物思いをする風で、何か足許(あしもと)も覚束(おぼつか)ないよう。
 静かに歩を移して、もう少しで通(とおり)へ出ようとする、二間(けん)幅の町の両側で、思いも懸けず、喚(わッ)! といって、動揺(どよ)めいた、四五人の小児(こども)が鯨波(とき)を揚げる。途端に足を取られた男は、横様にはたと地(つち)の上。
「あれ、」という声、旅籠町の角から、白い脚絆(きゃはん)、素足に草鞋穿(わらじばき)の裾(すそ)を端折(はしょ)った、中形の浴衣に繻子(しゅす)の帯の幅狭(はばぜま)なのを、引懸(ひっか)けに結んで、結んだ上へ、桃色の帯揚(おびあげ)をして、胸高に乳の下へしっかと〆(し)めた、これへ女扇をぐいと差して、膝の下の隠れるばかり、甲斐々々しく、水色唐縮緬(とうちりめん)の腰巻で、手拭(てぬぐい)を肩に当て、縄からげにして巻いた茣蓙(ござ)を軽(かろ)げに荷(にな)った、商(あきない)帰り。町や辻では評判の花売が、曲角から遠くもあらず、横町の怪我(けが)を見ると、我を忘れたごとく一飛(ひととび)に走り着いて、転んだ地(つち)へ諸共に膝を折敷いて、扶(たす)け起そうとする時、さまでは顛動(てんどう)せず、力なげに身を起して立つ。
「どこも怪我はしませんか。」と人目も構わず、紅絹を持った男の手に縋(すが)らぬばかりに、ひたと寄って顔を覗(のぞ)く。
「やあい、やあい。」
「盲目(めくら)やあい、按摩針(あんまはり)。」と囃(はや)したので、娘は心着いて、屹(きっ)と見て、立直った。
「おいらのせいじゃあないぞ、」
「三年先の烏のせい。」
 甲走(かんばし)った早口に言い交わして、両側から二列に並んで遁(に)げ出した。その西の手から東の手へ、一条(ひとすじ)の糸を渡したので町幅を截(き)って引張(ひっぱり)合って、はらはらと走り、三ツ四ツ小さな顔が、交(かわ)る交(がわ)る見返り、見返り、
「雁(がん)が一羽懸(かか)った、」
「懸った、懸った。」
「晩のお菜(かず)に煮て食おう。」と囃しざま、糸に繋(つなが)ったなり一団(ひとかたまり)になったと見ると、大(おおき)な廂(ひさし)の、暗い中へ、ちょろりと入って隠れてしまった。
  新庄(しんじょ)通れば、茨(いばら)と、藤と、
藤が巻附く、茨が留める、
  茨放せや、帯ゃ切れる、
      さあい、さんさ、よんさの、よいやな。
 と女の子のあどけないのが幾人(たり)か声を揃えて唄うのが、町を隔てて彼方(あなた)に聞える。
 二人は聞いて立並んで、黙って、顔を見て吻(ほっ)と息。

       八

「小児(こども)衆ですよ、不可(いけ)ません。両方から縄を引張(ひっぱ)って、軒下に隠れていて、人が通ると、足へ引懸(ひッか)けるんですもの、悪いことをしますねえ。」
「お雪さん、」と言いかけて、男はその淋しげな顔を背けた。声は、足を搦(から)んで僵(たお)された五分を経ない後(のち)にも似ず、落着いて沈んでいる。
「はい、どこも何ともなさいませんか。」
 お雪と呼ばれた花売の娘は、優しく男の胸の辺りで百合の姿のしおらしい顔を、傾けて仰いで見た。
「いえ、何、擦剥(すりむき)もしないようだ。」と力なく手を垂れて、膝の辺りを静(しずか)に払(はた)く。
「まあ、砂がついて、あれ、こんなに、」と可怨(うらめ)しそうに、袖についた埃(ほこり)を払おうとしたが、ふと気を着けると、袂(たもと)は冷々(ひやひや)と湿りを持って、塗(まみ)れた砂も落尽くさず、またその漆黒な髪もしっとりと濡れている。男の眉は自(おのず)から顰(ひそ)んで、紅絹(もみ)の切(きれ)で、赤々と押えた目の縁(ふち)も潤んだ様子。娘は袂に縋(すが)ったまま、荷を結えた縄の端を、思わず落そうとしてしっかり取った。
「今帰るのかい。」
「は……い。」
「暑いのに随分だな。」
 思入って労(ねぎら)う言葉。お雪は身に染み、胸に応(こた)えて、
「あなた。」
「ああ、」
「お医者様は、」
 問われて目を圧(おさ)えた手が微(かすか)に震え、
「悪い方じゃあないッていうが、どうも捗々(はかばか)しくは行(ゆ)かぬそうだ。なりたけまあ大事にして、ものを見ないようにする方が可(い)いっていうもんだから、ここはちょうど人通の少い処、密(そっ)と目を塞(ふさ)いで探って来たので、ついとんだ羂(わな)に蹈込(ふみこ)んださ、意気地(いくじ)はないな、忌々(いまいま)しい。」
 とさりげなく打頬笑(うちほほえ)む。これに心を安んじたか、お雪もやや色を直して、
「どうぞまあ、お医者様を内へお呼び申すことにして、あなたはお寝(よ)って、何にもしないでいらっしゃるようにしたいものでございますね。」
「それは何、懇意な男だから、先方(さき)でもそう言ってくれるけれども、上手なだけ流行るので隙(ひま)といっちゃあない様子、それも気の毒じゃあるし、何、寝ているほどの事もないんだよ。」
「でも、随分お悪いようですよ。そしてあの、お帰途(かえり)に湯にでもお入りなすったの。」
 考えて、
「え、なぜね。」
「お頭(つむり)が濡れておりますもの。」
「む、何ね、そうか、濡れてるか、そうだろう[#「そうだろう」は底本では「そうだらう」]。医者が冷(ひや)してくれたから。」と、詰(なじ)られて言開(いいひらき)をする者のような弱い調子で、努めて平気を装って言った。
「冷しますと、お薬になるんですか。」と袂を持つ手に力が入ると、男は心着いて探ってみたが、苦笑して
「おお、湿った手拭を入れておいたな、だらしのない、袂が濡れた。成る程女房(おかみさん)には叱られそうなこッた。」
「あれ、あんなことをいっていらっしゃるよ。」と嬉しそうに莞爾(にっこり)したが、これで愁眉(しゅうび)が開けたと見える。
「御一所に帰りましょうか。」
「別々に行(ゆ)こうよ、ちっと穏(おだやか)でないから。いや、大丈夫だ。」
「気を着けて下さいましよ。」

       九

 男女(ふたり)が前後して総曲輪(そうがわ)へ出て、この町の角を横切って、往来(ゆきき)の早い人中に交(まじ)って見えなくなると、小児(こども)がまた四五人一団になって顕(あらわ)れたが、ばらばらと駈(か)けて来て、左右に分れて、旧(もと)のごとく軒下に蹲(しゃが)んで隠れた。
 月の色はやや青く、蜘蛛(くも)はその囲(い)を営むのに忙(せわ)しい。
 その時旅籠町(はたごまち)の通(とおり)の方から、同じこの小路を抜けようとして、薄暗い中に入って来たのは、一人(にん)の美少年。
 パナマの帽を前下り、目も隠れるほど深く俯向(うつむ)いたが、口笛を吹くでもなく、右の指の節を唇に当て、素肌に着た絹セルの単衣(ひとえ)の衣紋(えもん)を緩(くつろ)げ――弥蔵(やぞう)という奴――内懐に落した手に、何か持って一心に瞻(みつ)めながら、悠々と歩を移す。小間使が言った千破矢の若君という御容子(ごようす)はどこへやら、これならば、不可(いけね)えの、居やがるのと、いけぞんざいなことも言いそうな滝太郎。
「ふん。」
 片微笑(かたほえみ)をして、また懐の中を熟(じっ)と見て、
「おいらのせいじゃあないぞ。」と仇口(あだぐち)に呟(つぶや)いた。
「やあい、やい」
「盲目(めくら)やあい。」
 小児(こども)は一時(いちどき)に哄(どッ)と囃したが、滝太郎は俯向いたまま、突当ったようになって立停(たちどま)ったばかり、形も崩さず自若としていた。
 膝の辺りへ一条(ひとすじ)の糸が懸(かか)ったのを、一生懸命両方から引張(ひっぱ)って、
「雁が一羽懸った、」
「懸った、懸った、」と夢中になり、口々に騒ぎ立つのは、大方獲物が先刻(さっき)のごとく足を取られたと思ったろう。幼いものは、驚破(すわ)というと自分の目を先に塞(ふさ)ぐのであるから、敵の動静はよくも認めず、血迷ってただ燥(はしゃ)ぐ。
 左右を□(みまわ)して、叱りもしない、滝太郎の涼しやかな目は極めて優しく、口許(くちもと)にも愛嬌(あいきょう)があって、柔和な、大人しやかな、気高い、可懐(なつか)しいものであったから、南無三(なむさん)仕損じたか、逃後(にげおく)れて間拍子を失った悪戯者(いたずらもの)。此奴(こいつ)羽搏(はばたき)をしない雁だ、と高を括(くく)って図々しや。
「ええ、そっちを引張んねえ。」
「下へ、下へ、」
「弛(ゆる)めて、潜(くぐ)らせやい。」
「巻付けろ。」
 遊軍に控えたのまで手を添えて、搦(から)め倒そうとする糸が乱れて、網の目のように、裾、袂、帯へ来て、懸っては脱(はず)れ、また纏(まと)うのを、身動きもしないで、彳(たたず)んで、目も放さず、面白そうに見ていたが、やや有って、狙(ねらい)を着けたのか、ここぞと呼吸を合わせた気勢(けはい)、ぐいと引く、糸が張った。
 滝太郎は早速に押当てていた唇を指から放すと、薄月(うすづき)にきらりとしたのは、前(さき)に勇美子に望まれて、断乎として辞し去った指環である。と見ると糸はぷつりと切れて、足も、膝も遮るものなく、滝太郎の身は前へ出て、見返りもしないで衝(つ)と通った。
 そのまま総曲輪へ出ようとする時、背後(うしろ)ではわッといって、我がちに遁(に)げ出す跫音(あしおと)。
 蜘蛛の子は、糸を切られて、驚いて散々(ちりぢり)なり。
「貰ったよ。」
 滝太郎は左右を□(みまわ)し、今度は憚(はばか)らず、袂から出して、掌(たなそこ)に据えたのは、薔薇(ばら)の薫(かおり)の蝦茶(えびちゃ)のリボン、勇美子が下髪(さげがみ)を留めていたその飾である。

       十

 土地の口碑(こうひ)、伝うる処に因れば、総曲輪のかの榎(えのき)は、稗史(はいし)が語る、佐々成政(さっさなりまさ)がその愛妾(あいしょう)、早百合を枝に懸けて惨殺した、三百年の老樹(おいき)の由。
 髪を掴(つか)んで釣(つる)し下げた女の顔の形をした、ぶらり火というのが、今も小雨の降る夜が更けると、樹の股(また)に懸(かか)るというから、縁起を祝う夜商人(よあきんど)は忌み憚(はばか)って、ここへ露店を出しても、榎の下は四方を丸く明けて避ける習慣(ならわし)。
 片側の商店(あきないみせ)の、夥(おびただ)しい、瓦斯(がす)、洋燈(ランプ)の灯と、露店のかんてらが薄くちらちらと黄昏(たそがれ)の光を放って、水打った跡を、浴衣着、団扇(うちわ)を手にした、手拭を提げた漫歩(そぞろあるき)の人通、行交(ゆきちが)い、立換(たちかわ)って賑(にぎや)かな明(あかる)い中に、榎の梢(こずえ)は蓬々(ほうほう)としてもの寂しく、風が渡る根際に、何者かこれ店を拡げて、薄暗く控えた商人(あきんど)あり。
 ともすると、ここへ、痩枯(やせが)れた坊主の易者が出るが、その者は、何となく、幽霊を済度しそうな、怪しい、そして頼母(たのも)しい、呪文を唱える、堅固な行者のような風采(ふうさい)を持ってるから、衆(ひと)の忌む処、かえって、底の見えない、霊験ある趣を添えて、誰もその易者が榎の下に居るのを怪しまぬけれども、今夜のはそれではない。
 今灯を点(つ)けたばかり、油煙も揚らず、かんてらの火も新しい、店の茣蓙(ござ)の端に、汚れた風呂敷を敷いて坐り込んで、物馴(な)れた軽口で、
「召しませぬか、さあさあ、これは阿蘭陀(オランダ)トッピイ産の銀流し、何方(どなた)もお煙管(きせる)なり、お簪(かんざし)なり、真鍮(しんちゅう)、銅(あかがね)、お試しなさい。鍍金(めっき)、ガラハギをなさいましても、鍍金、ガラハギは、鍍金ガラハギ、やっぱり鍍金、ガラハギは、ガラハギ。」
 と尻ッ刎(ぱね)の上調子で言って、ほほと笑った。鉄漿(かね)を含んだ唇赤く、細面で鼻筋通った、引緊(ひきしま)った顔立の中年増(ちゅうどしま)。年紀(とし)は二十八九、三十でもあろう、白地の手拭(てぬぐい)を姉(あね)さん被(かぶり)にしたのに額は隠れて、あるのか、無いのか、これで眉が見えたらたちまち五ツばかりは若やぎそうな目につく器量。垢抜(あかぬけ)して色の浅黒いのが、絞(しぼり)の浴衣の、糊(のり)の落ちた、しっとりと露に湿ったのを懊悩(うるさ)げに纏(まと)って、衣紋(えもん)も緩(くつろ)げ、左の手を二の腕の見ゆるまで蓮葉(はすは)に捲(まく)ったのを膝に置いて、それもこの売物の広告か、手に持ったのは銀の斜子打(ななこうち)の女煙管である。
 氷店(こおりみせ)の白粉首(しろくび)にも、桜木町の赤襟にもこれほどの美なるはあらじ、ついぞ見懸けたことのない、大道店の掘出しもの。流れ渡りの旅商人(たびあきんど)が、因縁は知らずここへ茣蓙(ござ)を広げたらしい。もっとも総曲輪一円は、露店も各自(てんでん)に持場が極(きま)って、駈出(かけだ)しには割込めないから、この空地へ持って来たに違いない。それにしても大胆な、女の癖にと、珍しがるやら、怪(あやし)むやら。ここの国も物見高で、お先走りの若いのが、早や大勢。
 婦人(おんな)は流るるような瞳を廻(めぐ)らし、人だかりがしたのを見て、得意な顔色(かおつき)。
「へい、鍍金(めっき)は鍍金、ガラハギはガラハギ、品物に品が備わりませぬで、一目見てちゃんと知れる。どこへ出しても偽物(いかもの)でございますが、手前商いまする銀流しを少々、」と言いかけて、膝に着いた手を後(うしろ)へ引き、煙管を差置いて箱の中の粉を一捻(いちねん)し、指を仰向(あおむ)けて、前へ出して、つらりと見せた。
「ほんの纔(わずか)ばかり、一撮(つま)み、手巾(ハンケチ)、お手拭の端、切(きれ)ッ屑(くず)、お鼻紙、お手許お有合せの柔かなものにちょいとつけて、」
 婦人(おんな)は絹の襤褸切(ぼろきれ)[#「襤褸切」は底本では「襤褄切」]に件(くだん)の粉を包んで、俯向(うつむ)いて、真鍮の板金を取った。
 お掛けなさいまし、お休みなさいましと、間近な氷店で金切声。夜芝居(よしばい)の太鼓、どろどろどろ、遥(はるか)に聞える観世物(みせもの)の、評判、評判。

       十一

「訳のないこと、子供衆(しゅ)でも誰でも出来る。ちょいと水をつけておいて、柔かにぐいぐいとこう遣(や)りさえすりゃ、あい、鷹(たか)化して鳩(はと)となり、傘(からかさ)変わって助六となり、田鼠(でんそ)化して鶉(うずら)となり、真鍮変じて銀となるッ。」
「雀入海中為蛤(すずめかいちゅうにいってはまぐりとなる)か。」と、立合の中(うち)から声を懸けるものがあった。
 婦人(おんな)はその声の主(ぬし)を見透そうとするごとく、人顔をじろりと見廻わし、黙って莞爾(にっこり)して、また陳立(のべた)てる。
「さあさあ召して下さい、召して下さいよ。御当地は薬が名物、津々浦々までも効能が行渡るんでございますがね、こればかりは看板を掛けちゃ売らないのですよ。一家秘法の銀流(ぎんながし)、はい、やい、お立合のお方は御遠慮なく、お持合せ[#「お持合せ」は底本では「お待合せ」]のお煙管なり、お簪(かんざし)なり、これへ出してお験(ため)しなさいまし、目の前で銀にしてお慰(なぐさみ)に見せましょう、御遠慮には及びません。」
 といってちょいと句切り、煙管を手にして、莨(たばこ)を捻(ひね)りながら、動静を伺って、
「さあさあ、誰方(どなた)でもどうでござんす。」
 若い同士耳打をするのがあり、尻を突(つつ)いて促すのがあり、中には耳を引張(ひっぱ)るのがある。止せ、と退(しさ)る、遣着(やッつ)けろ、と出る、ざまあ見ろ、と笑うやら、痛え、といって身悶(みもだ)えするやら、一斉に皆うようよ。有触れた銀流し、汚い親仁(おやじ)なら何事もあるまい、いずれ器量が操る木偶(でく)であろう。
「姉(ねえ)や。」
 この時、人の背後(うしろ)から呼んだ、しかしこれは、前に黄な声を発して雀海中に入(い)ってを云々(うんぬん)したごとき厭味(いやみ)なものではない。清(すず)しい活溌なものであった。
 婦人(おんな)は屹(きっ)と其方(そなた)を見る、トまた悪怯(わるび)れず呼懸けて、
「姉や、姉や。」
「何でございますか、は、私(わたくし)、」
「指環でも出来るかい。」
「ええ、出来ますとも、何でもお出しなさいましよ。」
「そう、」と極めてその意を得たという調子で、いそいそずッと出て、店前(みせさき)の地(つち)へ伝法に屈(かが)んだのは、滝太郎である。遊好(あそびずき)の若様は時間に関らず、横町で糸を切って、勇美子の頭飾(かみかざり)をどうして取ったか、人知れず掌(たなそこ)に弄(もてあそ)んだ上に、またここへ来てその姿を顕(あらわ)した。
 滝太郎は、さすがに玉のような美しい手を握って、猶予(ためら)わず、売物の銀流の粉(こ)の包、お験しの真鍮板、水入、絹の切などを並べた女の膝の前に真直(まっすぐ)に出した。指環のきらりとするのを差向けて、
「こいつを一つ遣(や)ってくんねえな。」
 立合の手合はもとより、世擦れて、人馴れて、この榎の下を物ともせぬ、弁舌の爽(さわやか)な、見るから下っ腹に毛のない姉御(あねご)も驚いて目を□(みは)った。その容貌(ようぼう)、その風采(ふうさい)、指環は紛うべくもない純金であるのに、銀流しを懸けろと言うから。
「これですかい。」
「ちょいと遣っておくんな。」
「結構じゃありませんかね。」
「お銭(あし)がなくっちゃあ不可(いけ)ねえか、ここにゃ持っていねえんだが、可(よ)かったらつけてくんねえ。後で持たして寄越(よこ)すぜ。」
 と真顔でいう、言葉つき、顔形、目の中(うち)をじっと見ながら、
「そんな吝(けち)じゃアありませんや。お望(のぞみ)なら、どれ、附けて上げましょう。」と婦人(おんな)は切の端に銀流を塗(まぶ)して、滝太郎の手を密(そっ)と取った。
「ようよう、」とまた後(うしろ)の方で、雀海中に入った時のごとき、奇なる音声を発する者あり。

       十二

「可(い)いぜ、可いぜ、沢山だ、」と滝太郎はやや有って手を引こうとする、ト指の尖(さき)を握ったのを放さないで、銀流の切(きれ)を摺着(すりつ)けながら、
「よくして上げましょう、もう少しですから。」
「沢山だよ。」
「いいえ、これだけじゃあ綺麗にはなりません。」と婦人(おんな)は急に止(や)めそうにもない。
「さあ、大変。」
「お静(しずか)に、お静に。」
「構わず、ぐっと握るべしさ、」
「しっかり頼むぜ。」
 などと立合はわやわやいうのを、澄(すま)したもので、
「口切(くちきり)の商(あきない)でございます、本磨(ほんみがき)にして、成程これならばという処を見せましょう、これから艶布巾(つやぶきん)をかけて、仕上げますから。」
「止せ。」
 滝太郎の声はやや激して、振放そうとして力を入れる。押えて動かさず、
「ま、もうちっと辛抱をなさいましな、これから裏の方を磨きましょうね。」
 婦人(おんな)はこういいつつ、ちらちらと目をつけて、指環の形、顔、服装(みなり)、天窓(あたま)から爪先(つまさき)まで、屹(きっ)と見てはさりげなく装うのを、滝太郎は独り見て取って、何か憚(はばか)る処あるらしく、一度は一度、婦人(おんな)が黒い目で睨(にら)む数の重(かさな)るに従うて、次第に暗々裡(り)に己(おのれ)を襲うものが来(きた)り、近(ちかづ)いて迫るように覚えて、今はほとんど耐難(たえがた)くなったと見え、知らず知らず左の手が、片手その婦人(おんな)に持たれた腕に懸(かか)って、力を添えて放そうとする。肩は聳(そび)え、顔には薄く血を染めて、滝太郎は眉を顰(ひそ)めた。
「可いッてんだい。」
「お待ち!」とばかりで婦人(おんな)も商売を忘れて、別に心あって存するごとく、瞳を据えて面(おもて)を合せた。
 ちょうどその時、四五十歩を隔てた、夜店の賑かな中を、背後(うしろ)の方で、一声高く、馬の嘶(いなな)くのが、往来の跫音(あしおと)を圧して近々と響いた。
 と思うと、滝太郎は、うむ、といって、振向いたが、吃驚(びっくり)したように、
「義作だ、おう、ここに居るぜ。」
「ちょいと、」
「ええ、」
「あれ、」といって振返された手を押えた。指の間には紅(くれない)一滴、見る見る長くなって、手首へ掛けて糸を引いて血が流れた。
「姉(ねえ)さん、」
「どうなすった。」
 押魂消(おッたまげ)た立合は、もう他人ではなくなって、驚いて声を懸ける。滝太郎はもう影も見えない。
 婦人(おんな)は顔の色も変えないで、切(きれ)で、血を押えながら、姉(ねえ)さん被(かぶり)のまま真仰向(まあおの)けに榎を仰いだ。晴れた空も梢(こずえ)のあたりは尋常(ただ)ならず、木精(こだま)の気勢(けはい)暗々として中空を籠(こ)めて、星の色も物凄(ものすご)い。
「おや、おや、おかしいねえ、変だよ、奇体なことがあるものだよ。露か知らん、上の枝から雫(しずく)が落ちたそうで、指が冷(ひや)りとしたと思ったら、まあ。」
「へい、引掻(ひっか)いたんじゃありませんか。」
「今のが切ったんじゃないんですかい。」
「指環で切れるものかね、御常談を、引掻いたって、血が流れるものですか。」
「さればさ。」
「厭(いや)だ、私は、」と薄気味の悪そうな、悄(しょ)げた様子で、婦人(おんな)は人の目に立つばかり身顫(みぶるい)をして黙った。榎の下寂(せき)として声なし、いずれも顔を見合せたのである。

       十三

「何だね、これは。」
「叱(しっ)、」と押えながら、島野紳士のセル地の洋服の肱(ひじ)を取って、――奥を明け広げた夏座敷の灯が漏れて、軒端(のきば)には何の虫か一個(ひとつ)唸(うなり)を立ててはたと打着(ぶつ)かってはまた羽音を響かす、蚊が居ないという裏町、俗にお園小路と称(とな)える、遊廓桜木町の居まわりに在り、夜更けて門涼(かどすずみ)の団扇が招くと、黒板塀の陰から頬被(ほおかぶり)のぬっと出ようという凄(すご)い寸法の処柄、宵の口はかえって寂寞(ひっそり)している。――一軒の格子戸を背後(うしろ)へ退(すさ)った。
 これは雀部(ささべ)多磨太といって、警部長なにがし氏の令息で、島野とは心合(こころあい)の朋友である。
 箱を差したように両人気はしっくり合ってるけれども、その為人(ひととなり)は大いに違って、島野は、すべて、コスメチック、香水、巻莨(シガレット)、洋杖(ステッキ)、護謨靴(ゴムぐつ)という才子肌。多磨太は白薩摩(しろさつま)のやや汚れたるを裾短(すそみじか)に着て、紺染の兵児帯(へこおび)を前下りの堅結(かたむすび)、両方腕捲(うでまくり)をした上に、裳(もすそ)を撮上(つまみあ)げた豪傑造り。五分刈にして芋のようにころころと肥えた様子は、西郷の銅像に肖(に)て、そして形(なり)の低い、年紀(とし)は二十三。まだ尋常中学を卒業しないが、試験なんぞをあえて意とするような吝(けち)なのではない。
 島野を引張(ひっぱ)り着けて、自分もその意気な格子戸を後(うしろ)に五六歩。
「見たか。」
 島野は瘠(やせ)ぎすで体も細く、釣棹(つりざお)という姿で洋杖(ステッキ)を振った。
「見た、何さ、ありゃ。門札の傍(わき)へ、白で丸い輪を書いたのは。」
「井戸でない。」
「へえ。」
「飲用水の印ではない、何じゃ、あれじゃ。その、色事の看板目印というやつじゃ。まだ方々にあるわい。試みに四五軒見しょう、一所に来う、歩きながら話そうで。まずの、」
 才子と豪傑は、鼠のセル地と白薩摩で小路の黄昏(たそがれ)の色に交(まじ)り、くっ着いて、並んで歩く。
 ここに注意すべきは多磨太が穿物(はきもの)である。いかに辺幅を修せずといって、いやしくも警部長の令息で、知事の君の縁者、勇美子には再従兄(またいとこ)に当る、紳士島野氏の道伴(みちづれ)で、護謨靴と歩を揃えながら、何たる事! 藁草履(わらぞうり)の擦切れたので、埃(ほこり)をはたはた。
 歩きながら袂を探って、手帳と、袂草(たもとくそ)と一所くたに掴(つか)み出した。
「これ見い、」
 紳士は軽く目を注いで、
「白墨かい。」
「はははは、白墨じゃが、何と、」
「それで、」と言懸けて、衣兜(かくし)に堆(うずだか)く、挟んでおく、手巾(ハンケチ)の白いので口の辺(あたり)をちょいと拭(ふ)いた。
「うむ、おりゃ、近頃博愛主義になってな、同好の士には皆(みんな)見せてやる事にした。あえてこの慰(なぐさみ)を独擅(どくせん)にせんのじゃで、到(いた)る処俺が例の観察をして突留めた奴の家(うち)には、必ず、門札の下へ、これで、ちょいとな。」
「ふん、はてね。」
「貴様今見たか、あれじゃ、あの形じゃ。目立たぬように丸い輪を付けておくことにしたんじゃ。」
「御趣向だね。」
「どうだ、今の家(うち)には限らずな、どこでも可(よ)いぞ、あの印の付いた家を随時窺(うかが)って見い。殊に夜な、きっと男と女とで、何かしら、演劇(しばい)にするようなことを遣っとるわ。」

       十四

 多磨太は言懸けて北叟笑(ほくそえ)み、
「貴様も覚えておいてちと慰みに覗(のぞ)いて見い。犬川でぶらぶら散歩して歩いても何の興味もないで、私(わし)があの印を付けておく内は不残(のこらず)趣味があるわい。姦通かな、親々の目を盗んで密会するかな、さもなけりゃ生命(いのち)がけで惚(ほ)れたとか、惚れられたとかいう奴等、そして男の方は私等(わしら)構わんが、女どもはいずれも国色じゃで、先生難有(ありがた)いじゃろ。」
 ぎろりとした眼で島野を見ると、紳士は苦笑して、
「変ったお慰(なぐさみ)だね、よくそして見付けますなあ。」
「ははあ、なんぞ必ずしも多く労するを用いん。国民皆堕落(だらく)、優柔淫奔(いんぽん)になっとるから、夜分なあ、暗い中へ足を突込(つッこ)んで見い。あっちからも、こっちからも、ばさばさと遁出(にげだ)すわ、二疋ずつの、まるでもって□□(ばった)蟷螂(かまきり)が草の中から飛ぶようじゃ。其奴(そいつ)の、目星い処を選取(えりと)って、縦横に跡を跟(つ)けるわい。ここぞという極めが着いた処で、印を付けておくんじゃ。私(わし)も初手の内は二軒三軒と心覚えにしておいたが、蛇(じゃ)の道は蛇(へび)じゃ、段々その術に長ずるに従うて、蔓(つる)を手繰るように、そら、ぞろぞろ見付かるで。ああ遣って印をして、それを目的(めあて)にまた、同好の士な、手下どもを遣わす、巡査、探偵などという奴が、その喜ぶこと一通(ひととおり)でないぞ。中には夜行をするのに、あの印ばかり狙(ねら)いおる奴がある。ぐッすり寐込(ねこ)んででもいようもんなら、盗賊(どろぼう)が遁込(にげこ)んだようじゃから、なぞというて、叩き起して周章(あわ)てさせる。」
「酷(ひど)いことを!」
 島野は今更のように多磨太の豪傑面(づら)を瞻(みまも)った。
「何(な)に其等(そいら)はほんの前芸じゃわい。一体何じゃぞ、手下どもにも言って聞かせるが、野郎と女と両方夢中になっとる時は常識を欠いて社会の事を顧みぬじゃから、脱落(ぬかり)があってな、知らず知らず罪を犯しおるじゃ。私(わし)はな、ただ秘密ということばかりでも一種立派な罪悪と断ずるで、勿論市役所へ届けた夫婦には関係せぬ。人の目を忍ぶほどの中の奴なら、何か後暗いことをしおるに相違ないでの。仔細(しさい)に観察すると、こいつ禁錮(きんこ)するほどのことはのうても、説諭位はして差支えないことを遣っとるから、掴(つか)み出して警察で発(あば)かすわい。」
「大変だね。」
「発くとの、それ親に知れるか、亭主に知れるか、近所へ聞える。何でも花火を焚(た)くようなもので、その途端に光輝天に燦爛(さんらん)するじゃ。すでにこないだも東の紙屋の若い奴が、桜木町である女と出来合って、意気事を極(き)めるちゅうから、癪(しゃく)に障ってな、いろいろ験(しら)べたが何事もないで、為方(しかた)がない、内に居る母親(おふくろ)が寺参(まいり)をするのに木綿を着せて、汝(うぬ)が傾城買(じょろうかい)をするのに絹を纏(まと)うのは何たることじゃ、という廉(かど)をもって、説諭をくらわした。」
「それで何かね、警察へ呼出しかね。」
「ははあ、幾ら俺が手下を廻すとって、まさかそれほどの事では交番へも引張(ひっぱ)り出せないで、一名制服を着けて、洋刀(サアベル)を佩(お)びた奴を従えて店前(みせさき)へ喚(わめ)き込んだ。」
「おやおや、」
「何、喧嘩をするようにして言って聞かせても、母親(おふくろ)は昔気質(かたぎ)で、有るものを着んのじゃッて。そんなことを構うもんか、こっちはそのせいで藁草履(わらぞうり)を穿(は)いて歩いてる位じゃもの。」
 さなり、多磨太君の藁草履は、人の跡を跟(つ)けるのに跫音(あしおと)を立てぬ用意である。

       十五

「それからの、山田下の植木屋の娘がある、美人じゃ。貴様知ってるだろう、あれがな、次助というて、近所の鋳物師の忰(せがれ)と出来た。先月の末、闇(やみ)の晩でな、例のごとく密行したが、かねて目印の付いてる部じゃで、密(そっ)と裏口へ廻ると、木戸が開いていたから、庭へ入った。」
「構わず?」
「なに咎(とが)めりゃ私(わし)が名乗って聞かせる、雀部といえば一縮(ひとちぢみ)じゃ。貴様もジャムを連れて堂々濶歩(かっぽ)するではないか、親の光は七光じゃよ。こうやって二人並んで歩けばみんな途(みち)を除(よ)けるわい。」
 島野は微笑して黙って頷(うなず)いた。
「はははは、愉快じゃな。勿論、淫魔(いんま)を駆って風紀を振粛し、且つ国民の遊惰(ゆうだ)を喝破する事業じゃから、父爺(おやじ)も黙諾の形じゃで、手下は自在に動くよ。既にその時もあれじゃ、植木屋の庭へこの藁草履を入れて掻廻(かきま)わすと、果せるかな、□□(ばった)、蟷螂(かまきり)。」
「まさか、」
「うむ、植木屋の娘と其奴(そいつ)と、貴様、植込の暗い中に何か知らん歎いておるわい。地面の上で密会なんざ、立山と神通川とあって存する富山の体面を汚(けが)すじゃから、引摺出(ひきずりだ)した。」
「南無三宝(なむさんぽう)、はははは。」
「挙動が奇怪じゃ、胡乱(うろん)な奴等、来い! と言うてな、角の交番へ引張(ひっぱ)って行って、吐(ぬか)せと、二ツ三ツ横面(よこッつら)をくらわしてから、親どもを呼出して引渡した。ははは、元来東洋の形勢日に非なるの時に当って、植込の下で密会するなんざ、不埒(ふらち)至極じゃからな。」
「罪なこッたね、悪い悪戯(いたずら)だ、」と言懸けて島野は前後を見て、杖(ステッキ)を突いた、辻の角で歩を停(とど)めたので。
「どこへ行(ゆ)こうかね。」
 榎の梢(こずえ)は人の家の物干の上に、ここからも仰いで見らるる。
「総曲輪へ出て素見(ひやか)そうか。まあ来いあそこの小間物屋の女房にも、ちょいと印が付いておるじゃ。」
「行き届いたもんですな。」
「まだまだこれからじゃわい。」
「さよう、君のは夜が更けてからがおかしいだろうが、私は、その晩(おそ)くなると家(うち)が妙でないから失敬しよう。」
「ははあ、どこぞ行くんかい。」
「ちょいと。」
「そんなら行(ゆ)け。だが島野、」と言いながら紳士の顔を、皮の下まで見透かすごとくじろりと見遣って、多磨太はにやり。
 擽(くすぐ)られるのを耐(こら)えるごとく、極めて真面目(まじめ)で、
「何かね、」
「注意せい、貴様の体にも印が着いたぞ。」
「え!」と吃驚(びっくり)して慌てて見ると、上衣(うわぎ)の裾に白墨で丸いもの。
「どうじゃ。」
「失敬な、」とばかり苦い顔をして、また手巾(ハンケチ)を引出した。島野はそそくさと払い落して、
「止したまえ。」
「ははは、構わん、遣れ。あの花売は未曾有(みぞう)の尤物(ゆうぶつ)じゃ、また貴様が不可(いけ)なければ私(わし)が占めよう。」
「大分、御意見とは違いますように存じますが。」
「英雄色を好むさ。」と傲然(ごうぜん)として言った。二人が気の合うのはすなわちここで、藁草履と猟犬と用いる手段は異なるけれども、その目的は等(ひとし)いのである。
 島野は気遣わしそうに見えて、
「まさか、君、花売が処へは、用いまいね、何を、その白墨を。」
「可いわい、一ツぐらい貴様に譲ろう。油断をするな、那奴(あいつ)また白墨一抹(いちまつ)に価するんじゃから。」

       十六

「貴方(あなた)御存じでございますか。」
「ああ、今のその話の花か。知ってはいない、見たことはないけれどもあるそうだ。いや、有るに違いはないんだよ。」
 萱(かや)の軒端(のきば)に鳥の声、という侘(わび)しいのであるが、お雪が、朝、晩、花売に市へ行く、出際と、帰ってからと、二度ずつ襷懸(たすきが)けで拭込(ふきこ)むので、朽目(くちめ)に埃(ほこり)も溜(たま)らず、冷々(ひやひや)と濡色を見せて涼しげな縁に端居(はしい)して、柱に背(せな)を持たしたのは若山拓(ひらく)、煩(わずらい)のある双の目を塞(ふさ)いだまま。
 生(うまれ)は東京で、氏素性は明かでない。父も母も誰も知らず、諸国漫遊の途次、一昨年の秋、この富山に来て、旅籠町の青柳(あおやぎ)という旅店に一泊した。その夜(よ)賊のためにのこらず金子(きんす)を奪われて、明(あく)る日の宿料もない始末。七日十日逗留(とうりゅう)して故郷へ手紙を出した処で、仔細(しさい)あって送金の見込はないので、進退谷(きわ)まったのを、宜(よろ)しゅうがすというような気前の好(い)い商人(あきんど)はここにはない。ただし地方裁判所の検事に朝野なにがしというのが、その為人(ひととなり)に見る所があって、世話をして、足を留(とど)めさせたということを、かつて教(おしえ)を受けた学生は皆知っている。若山は、昔なら浪人の手習師匠、由緒ある士(さむらい)がしばし世を忍ぶ生計(たつき)によくある私塾を開いた。温厚篤実(とくじつ)、今の世には珍らしい人物で、且つ博学で、恐らく大学に業を修したのであろうと、中学校の生意気なのが渡りものと侮って冷かしに行って舌を巻いたことさえあるから、教子(おしえご)も多く、皆敬い、懐(なず)いていたが、日も経(た)たず目を煩って久しく癒(い)えないので、英書を閲(けみ)し、数字を書くことが出来なくなったので、弟子は皆断った。直ちに収入がなくなったのである。

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