妙齢
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著者名:泉鏡花 

 雨(あめ)の日(ひ)のつれ/″\に、佛(ほとけ)、教(をし)へてのたまはく、昔(むかし)某(それ)の國(くに)に一婦(いつぷ)ありて女(ぢよ)を生(う)めり。此(こ)の婦(をんな)恰(あたか)も弱竹(なよたけ)の如(ごと)くにして、生(うま)れし女(むすめ)玉(たま)の如(ごと)し。年(とし)はじめて三歳(さんさい)、國君(こくくん)其(そ)の色(いろ)を聞(きこ)し召(め)し、仍(すなは)ち御殿(ごてん)にお迎(むか)へ遊(あそ)ばし、掌(たなごころ)に据(す)ゑられしが、忽(たちま)ち恍惚(うつとり)となり給(たま)ふ。然(さ)るにても其(そ)の餘(あま)りの美(うつく)しさに、ひととなりて後(のち)國(くに)を傾(かたむ)くる憂(うれひ)もやとて、當時(たうじ)國中(こくちう)に聞(きこ)えたる、道人(だうじん)何某(なにがし)を召出(めしいだ)して、近(ちか)う、近(ちか)う、爾(なんぢ)よく此(こ)の可愛(かはゆ)きものを想(さう)せよ、と仰(おほ)せらる。名道人(めいだうじん)畏(かしこま)り、白(しろ)き長(なが)き鬚(ひげ)を撫(な)で、あどなき顏(かほ)を仰向(あふむ)けに、天眼鏡(てんがんきやう)をかざせし状(さま)、花(はな)の莟(つぼみ)に月(つき)さして、雪(ゆき)の散(ち)るにも似(に)たりけり。
 やがて退(しさ)りて、手(て)を支(つか)へ、は、は、申上(まをしあ)げ奉(たてまつ)る。應(おう)、何(なん)とぢや、とお待兼(まちか)ね。名道人(めいだうじん)謹(つゝし)んで、微妙(いみじ)うもおはしまし候(さふらふ)ものかな。妙齡(としごろ)に至(いた)らせ給(たま)ひなば、あはれ才徳(さいとく)かね備(そな)はり、希有(けう)の夫人(ふじん)とならせ給(たま)はん。即(すなは)ち、近(ちか)ごろの流行(りうかう)の良妻賢母(りやうさいけんぼ)にましますべし。然(さ)りながら、我(わ)が君主(との)、無禮(なめ)なる儀(ぎ)には候(さふら)へども、此(こ)の姫(ひめ)、殿(との)の夫人(ふじん)とならせたまふ前(まへ)に、餘所(よそ)の夫(をつと)の候(さふらふ)ぞや。何(なん)と、と殿樣(とのさま)、片膝(かたひざ)屹(きつ)と立(た)てたまへば、唯唯(はは)、唯(は)、恐(おそ)れながら、打槌(うつつち)はづれ候(さふらふ)ても、天眼鏡(てんがんきやう)は淨玻璃(じやうはり)なり、此(こ)の女(ぢよ)、夫(をつと)ありて、後(のち)ならでは、殿(との)の御手(おんて)に入(い)り難(がた)し、と憚(はゞか)らずこそ申(まを)しけれ。
 殿(との)よツく聞(きこ)し召(め)し、呵々(から/\)と笑(わら)はせ給(たま)ひ、余(よ)を誰(たれ)ぢやと心得(こゝろえ)る。コリヤ道人(だうじん)、爾(なんぢ)が天眼鏡(てんがんきやう)は違(たが)はずとも、草木(くさき)を靡(なび)かす我(われ)なるぞよ。金(かね)の力(ちから)と權威(けんゐ)を以(もつ)て、見事(みごと)に此(こ)の女(もの)祕藏(ひざう)し見(み)すべし、再(ふたゝ)び是(これ)を阿母(おふくろ)の胎内(たいない)に戻(もど)すことこそ叶(かな)はずとも、などか其(そ)の術(すべ)のなからんや、いで立處(たちどころ)に驗(しるし)を見(み)せう。鶴(つる)よ、來(こ)いよ、と呼(よ)びたまへば、折(をり)から天下太平(てんかたいへい)の、蒼空(あをぞら)高(たか)く伸(の)したりける、丹頂千歳(たんちやうせんざい)の鶴(つる)一羽(いちは)、ふは/\と舞(ま)ひ下(お)りて、雪(ゆき)に末黒(すゑぐろ)の大紋(だいもん)の袖(そで)を絞(しぼ)つて畏(かしこま)る。殿(との)、御覽(ごらう)じ、早速(さつそく)の伺候(しこう)過分々々(くわぶん/\)と御召(おめ)しの御用(ごよう)が御用(ごよう)だけ、一寸(ちよつと)お世辭(せじ)を下(くだ)し置(お)かれ、扨(さ)てしか/″\の仔細(しさい)なり。萬事(ばんじ)其(そ)の方(はう)に相(あひ)まかせる、此女(このもの)何處(いづこ)にても伴(ともな)ひ行(ゆ)き、妙齡(としごろ)を我(わ)が手(て)に入(い)れんまで、人目(ひとめ)にかけず藏(かく)し置(お)け。日月(ひつき)にはともあらん、夜分(やぶん)な星(ほし)にも覗(のぞ)かすな、心得(こゝろえ)たか、とのたまへば、赤(あか)い頭巾(づきん)を着(き)た親仁(おやぢ)、嘴(くちばし)を以(も)て床(ゆか)を叩(たゝ)き、項(うなじ)を垂(た)れて承(うけたまは)り、殿(との)の膝(ひざ)におはします、三歳(さんさい)の君(きみ)をふうはりと、白(しろ)き翼(つばさ)に掻(か)い抱(いだ)き、脚(あし)を縮(ちゞ)めて御庭(おんには)の松(まつ)の梢(こずゑ)を離(はな)れ行(ゆ)く。
 恁(かく)て可凄(すさまじ)くも又(また)可恐(おそろし)き、大薩摩(おほさつま)ヶ嶽(たけ)の半(なか)ばに雲(くも)を貫(つらぬ)く、大木(たいぼく)の樹(みき)の高(たか)き枝(えだ)に綾錦(あやにしき)の巣(す)を營(いとな)み、こゝに女(むすめ)を据(す)ゑ置(お)きしが、固(もと)より其(そ)の處(ところ)を選(えら)びたれば、梢(こずゑ)は猿(ましら)も傳(つた)ふべからず、下(した)は矢(や)を射(い)る谷川(たにがは)なり。富士河(ふじがは)の船(ふね)も寄(よ)せ難(がた)し。はぐくみ參(まゐ)らす三度(さんど)のものも、殿(との)の御扶持(ごふち)を賜(たま)はりて、鶴(つる)が虚空(こくう)を運(はこ)びしかば、今(いま)は憂慮(きづか)ふ事(こと)なし? とて、年月(としつき)を經(ふ)る夜毎々々(よごと/\)、殿(との)は美(うつく)しき夢(ゆめ)見(み)ておはしぬ。
 恁(か)くてぞありける。あゝ、日(ひ)は何時(いつ)ぞ、天(てん)より星(ほし)一(ひと)つ、はたと落(お)ちて、卵(たまご)の如(ごと)き石(いし)となり、其(そ)の水上(みなかみ)の方(かた)よりしてカラカラと流(なが)れ來(く)る。又(また)あとより枝一枝(えだひとえだ)、桂(かつら)の葉(は)の茂(しげ)りたるが、藍(あゐ)に緑(みどり)を飜(ひるがへ)し、渦(うづ)を捲(ま)いてぞ流(なが)れ來(く)る。續(つゞ)いて一人(ひとり)の美少年(びせうねん)、何處(いづこ)より落(お)ちたりけん、華嚴(けごん)の瀧(たき)の底(そこ)を拔(ぬ)けて、巖(いは)の缺(かけら)と藻屑(もくづ)とともに、雲(くも)より落(お)ちつと覺(おぼ)しきが、助(たす)けを呼(よ)ぶか諸手(もろて)を上(あ)げて、眞俯向(まうつむ)けに流(なが)れ來(き)しが、あはよく巖(いは)に住(とゞ)まりて、一瀬(ひとせ)造(つく)れる件(くだん)の石(いし)に、はた其(そ)の桂(かつら)の枝(えだ)まつはりたるに、衣(ころも)の裾(すそ)を卷(ま)き込(こ)まれ、辛(から)くも其(そ)の身(み)をせき留(と)めつ。恰(あたか)もよし横(よこ)ざまに崖(がけ)を生(お)ひ出(い)でて、名(な)を知(し)らぬ花(はな)咲(さ)きたる、樹(き)の枝(えだ)に縋(すが)りつも、づぶ濡(ぬ)れのまゝ這(は)ひ上(あが)りし、美(うつく)しき男(をとこ)なれば、これさへ水(みづ)の垂(た)るばかり。草(くさ)をつかみ、樹(き)を辿(たど)りて、次第(しだい)に上(そら)へ攀上(よぢのぼ)る。雫(しづく)の餘波(あまり)、蔓(つる)にかゝりて、玉(たま)の簾(すだれ)の靡(なび)くが如(ごと)く、頓(やが)てぞ大木(たいぼく)を樹上(きのぼ)つて、梢(こずゑ)の閨(ねや)を探(さぐ)り得(え)しが、鶴(つる)が齊眉(かしづ)く美女(たをやめ)と雲(くも)の中(なか)なる契(ちぎり)を結(むす)びぬ。
 里(さと)の言葉(ことば)を知(し)らぬ身(み)も、戀(こひ)には女(をんな)賢(さかし)うして、袖(そで)に袂(たもと)に蔽(おほ)ひしが、月日(つきひ)經(た)つまゝ、鶴(つる)はさすがに年(とし)の功(こう)、己(おの)が頭(かしら)の色(いろ)や添(そ)ふ、女(むすめ)の乳(ちゝ)の色(いろ)づきけるに、總毛(そうげ)を振(ふる)つて仰天(ぎやうてん)し、遍(あまね)く木(こ)の葉(は)を掻搜(かきさが)して、男(をとこ)の裾(すそ)を見出(みだ)ししかば、ものをも言(い)はず一嘴(ひとくちばし)、引咬(ひつくは)へて撥(は)ね飛(と)ばせば、美少年(びせうねん)はもんどり打(う)つて、天上(てんじやう)に舞上(まひあが)り、雲雀(ひばり)の姿(すがた)もなかりしとぞ。
外面女菩薩(げめんによぼさつ)――内心如夜叉(ないしんによやしや)
 心得(こゝろえ)たか、と語(かた)らせ給(たま)へば、羅漢(らかん)の末席(まつせき)に侍(さぶら)ひて、悟顏(さとりがほ)の周梨槃特(しゆりはんどく)、好(この)もしげなる目色(めつき)にて、わが佛(ほとけ)、わが佛殿(ほとけどの)と道人(だうじん)の問答(もんだふ)より、木(こ)の葉(は)を衾(ふすま)の男女(なんによ)の睦言(むつごと)、もそつとお説(と)きなされと言(い)ふ。佛(ほとけ)、苦笑(にがわらひ)したまひて、我(われ)は知(し)らずとのたまひぬ。
明治四十一年五月



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