森の紫陽花
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著者名:泉鏡花 

 千駄木(せんだぎ)の森(もり)の夏(なつ)ぞ晝(ひる)も暗(くら)き。此處(こゝ)の森(もり)敢(あへ)て深(ふか)しといふにはあらねど、おしまはし、周圍(しうゐ)を樹林(きばやし)にて取卷(とりま)きたれば、不動坂(ふどうざか)、團子坂(だんござか)、巣鴨(すがも)などに縱横(たてよこ)に通(つう)ずる蜘蛛手(くもで)の路(みち)は、恰(あたか)も黄昏(たそがれ)に樹深(こぶか)き山路(やまぢ)を辿(たど)るが如(ごと)し。尤(もつと)も小石川(こいしかは)白山(はくさん)の上(うへ)、追分(おひわけ)のあたりより、一圓(いちゑん)の高臺(たかだい)なれども、射(い)る日(ひ)の光(ひかり)薄(うす)ければ小雨(こさめ)のあとも路(みち)は乾(かわ)かず。此(こ)の奧(おく)に住(す)める人(ひと)の使(つか)へる婢(をんな)、やつちや場(ば)に青物(あをもの)買(か)ひに出(い)づるに、いつも高足駄(たかあしだ)穿(は)きて、なほ爪先(つまさき)を汚(よご)すぬかるみの、特(こと)に水溜(みづたまり)には、蛭(ひる)も泳(およ)ぐらんと氣味惡(きみわる)きに、唯(たゞ)一重(ひとへ)森(もり)を出(い)づれば、吹通(ふきとほ)しの風(かぜ)砂(すな)を捲(ま)きて、雪駄(せつた)ちやら/\と人(ひと)の通(とほ)る、此方(こなた)は裾端折(すそはしをり)の然(しか)も穿物(はきもの)の泥(どろ)、二(に)の字(じ)ならぬ奧山住(おくやまずみ)の足痕(あしあと)を、白晝(はくちう)に印(いん)するが極(きまり)惡(わる)しなど歎(かこ)つ。
 嘗(かつ)て雨(あめ)のふる夜(よ)、其(そ)の人(ひと)の家(いへ)より辭(じ)して我家(わがや)に歸(かへ)ることありしに、固(もと)より親(おや)いまさず、いろと提灯(ちやうちん)は持(も)たぬ身(み)の、藪(やぶ)の前(まへ)、祠(ほこら)のうしろ、左右(さいう)畑(はたけ)の中(なか)を拾(ひろ)ひて、蛇(じや)の目(め)の傘(からかさ)脊筋(せすぢ)さがりに引(ひつ)かつぎたるほどこそよけれ、たかひくの路(みち)の、ともすれば、ぬかるみの撥(はね)ひやりとして、然(さ)らぬだに我(わ)が心(こゝろ)覺束(おぼつか)なきを、やがて追分(おひわけ)の方(かた)に出(いで)んとして、森(もり)の下(した)に入(い)るよとすれば呀(や)、眞暗(まつくら)三寶(さんばう)黒白(あやめ)も分(わ)かず。今(いま)までは、春雨(はるさめ)に、春雨(はるさめ)にしよぼと濡(ぬ)れたもよいものを、夏(なつ)はなほと、はら/\はらと降(ふ)りかゝるを、我(われ)ながらサテ情知(なさけし)り顏(がほ)の袖(そで)にうけて、綽々(しやく/\)として餘裕(よゆう)ありし傘(からかさ)とともに肩(かた)をすぼめ、泳(およ)ぐやうなる姿(すがた)して、右手(めて)を探(さぐ)れば、竹垣(たけがき)の濡(ぬ)れたるが、する/\と手(て)に觸(さは)る。左手(ゆんで)を傘(かさ)の柄(え)にて探(さぐ)りながら、顏(かほ)ばかり前(まへ)に出(だ)せば、此(こ)の折(をり)ぞ、風(かぜ)も遮(さへぎ)られて激(はげ)しくは當(あた)らぬ空(そら)に、蜘蛛(くも)の巣(す)の頬(ほゝ)にかゝるも侘(わび)しかりしが、然(さ)ばかり降(ふ)るとも覺(おぼ)えざりしに、兎(と)かうして樹立(こだち)に出(い)づれば、町(まち)の方(かた)は車軸(しやぢく)を流(なが)す雨(あめ)なりき。
 蚊遣(かやり)の煙(けむり)古井戸(ふるゐど)のあたりを籠(こ)むる、友(とも)の家(いへ)の縁端(えんばた)に罷來(まかりき)て、地切(ぢぎり)の強煙草(つよたばこ)を吹(ふ)かす植木屋(うゑきや)は、年(とし)久(ひさ)しく此(こ)の森(もり)に住(す)めりとて、初冬(はつふゆ)にもなれば、汽車(きしや)の音(おと)の轟(とゞろ)く絶間(たえま)、凩(こがらし)の吹(ふ)きやむトタン、時雨(しぐれ)來(く)るをり/\ごとに、狐(きつね)狸(たぬき)の今(いま)も鳴(な)くとぞいふなる。然(さ)もあるべし、但(たゞ)狸(たぬき)の聲(こゑ)は、老夫(をぢ)が耳(みゝ)に蚯蚓(みゝず)に似(に)たりや。
 件(くだん)の古井戸(ふるゐど)は、先住(せんぢう)の家(いへ)の妻(つま)ものに狂(くる)ふことありて其處(そこ)に空(むな)しくなりぬとぞ。朽(く)ちたる蓋(ふた)犇々(ひし/\)として大(おほ)いなる石(いし)のおもしを置(お)いたり。友(とも)は心(こゝろ)強(がう)にして、小夜(さよ)の螢(ほたる)の光(ひかり)明(あか)るく、梅(うめ)の切株(きりかぶ)に滑(なめら)かなる青苔(せいたい)の露(つゆ)を照(てら)して、衝(つ)と消(き)えて、背戸(せど)の藪(やぶ)にさら/\とものの歩行(ある)く氣勢(けはひ)するをも恐(おそ)れねど、我(われ)は彼(か)の雨(あめ)の夜(よ)を惱(なや)みし時(とき)、朽木(くちき)の燃(も)ゆる、はた板戸(いたど)洩(も)る遠灯(とほともし)、畦(あぜ)行(ゆ)く小提灯(こぢやうちん)の影(かげ)一(ひと)つ認(みと)めざりしこそ幸(さいはひ)なりけれ。思(おも)へば臆病(おくびやう)の、目(め)を塞(ふさ)いでや歩行(ある)きけん、降(ふり)しきる音(おと)は徑(こみち)を挾(さしはさ)む梢(こずゑ)にざツとかぶさる中(なか)に、取(と)つて食(く)はうと梟(ふくろふ)が鳴(な)きぬ。
 恁(か)くは森(もり)のおどろ/\しき姿(すがた)のみ、大方(おほかた)の風情(ふぜい)はこれに越(こ)えて、朝夕(あさゆふ)の趣(おもむき)言(い)ひ知(し)らずめでたき由(よし)。
 曙(あけぼの)は知(し)らず、黄昏(たそがれ)に此(こ)の森(もり)の中(なか)辿(たど)ることありしが、幹(みき)に葉(は)に茜(あかね)さす夕日(ゆふひ)三筋(みすぢ)四筋(よすぢ)、梢(こずゑ)には羅(うすもの)の靄(もや)を籠(こ)めて、茄子畑(なすばたけ)の根(ね)は暗(くら)く、其(そ)の花(はな)も小(ちひ)さき實(み)となりつ。
 棚(たな)して架(かく)るとにもあらず、夕顏(ゆふがほ)のつる西家(せいか)の廂(ひさし)を這(は)ひ、烏瓜(からすうり)の花(はな)ほの/″\と東家(とうか)の垣(かき)に霧(きり)を吐(は)きぬ。強(し)ひて我(われ)句(く)を求(もと)むるにはあらず、藪(やぶ)には鶯(うぐひす)の音(ね)を入(い)るゝ時(とき)ぞ。
 日(ひ)は茂(しげ)れる中(なか)より暮(く)れ初(そ)めて、小暗(をぐら)きわたり蚊柱(かばしら)は家(いへ)なき處(ところ)に立(た)てり。袂(たもと)すゞしき深(ふか)みどりの樹蔭(こかげ)を行(ゆ)く身(み)には、あはれ小(ちひ)さきものども打(うち)群(む)れてもの言(い)ひかはすわと、それも風情(ふぜい)かな。分(わ)けて見詰(みつ)むるばかり、現(うつゝ)に見(み)ゆるまで美(うつく)しきは紫陽花(あぢさゐ)なり。其(そ)の淺葱(あさぎ)なる、淺(あさ)みどりなる、薄(うす)き濃(こ)き紫(むらさき)なる、中(なか)には紅(くれなゐ)淡(あは)き紅(べに)つけたる、額(がく)といふとぞ。夏(なつ)は然(さ)ることながら此(こ)の邊(あたり)分(わ)けて多(おほ)し。明(あかる)きより暗(くら)きに入(い)る處(ところ)、暗(くら)きより明(あかる)きに出(い)づる處(ところ)、石(いし)に添(そ)ひ、竹(たけ)に添(そ)ひ、籬(まがき)に立(た)ち、戸(と)に彳(たゝず)み、馬蘭(ばらん)の中(なか)の、古井(ふるゐ)の傍(わき)に、紫(むらさき)の俤(おもかげ)なきはあらず。寂(じやく)たる森(もり)の中(なか)深(ふか)く、もう/\と牛(うし)の聲(こゑ)して、沼(ぬま)とも覺(おぼ)しき泥(どろ)の中(なか)に、埒(らち)もこはれ/″\牛(うし)養(やしな)へる庭(には)にさへ紫陽花(あぢさゐ)の花(はな)盛(さかり)なり。
 此時(このとき)、白襟(しろえり)の衣紋(えもん)正(たゞ)しく、濃(こ)いお納戸(なんど)の單衣(ひとへ)着(き)て、紺地(こんぢ)の帶(おび)胸(むな)高(たか)う、高島田(たかしまだ)の品(ひん)よきに、銀(ぎん)の平打(ひらうち)の笄(かうがい)のみ、唯(たゞ)黒髮(くろかみ)の中(なか)に淡(あは)くかざしたるが、手車(てぐるま)と見(み)えたり、小豆色(あづきいろ)の膝(ひざ)かけして、屈竟(くつきやう)なる壯佼(わかもの)具(ぐ)したるが、車(くるま)の輪(わ)も緩(ゆる)やかに、彼(か)の蜘蛛手(くもで)の森(もり)の下道(したみち)を、訪(と)ふ人(ひと)の家(いへ)を尋(たづ)ね惱(なや)みつと覺(おぼ)しく、此處(こゝ)彼處(かしこ)、紫陽花(あぢさゐ)咲(さ)けりと見(み)る處(ところ)、必(かなら)ず、一時(ひととき)ばかりの間(あひだ)に六度(むたび)七度(なゝたび)出(い)であひぬ。實(げ)に我(われ)も其日(そのひ)はじめて訪(と)ひ到(いた)れる友(とも)の家(いへ)を尋(たづ)ねあぐみしなりけり。
 玉簾(たますだれ)の中(なか)もれ出(い)でたらんばかりの女(をんな)の俤(おもかげ)、顏(かほ)の色(いろ)白(しろ)きも衣(きぬ)の好(この)みも、紫陽花(あぢさゐ)の色(いろ)に照(てり)榮(は)えつ。蹴込(けこみ)の敷毛(しきげ)燃立(もえた)つばかり、ひら/\と夕風(ゆふかぜ)に□□(さまよ)へる状(さま)よ、何處(いづこ)、いづこ、夕顏(ゆふがほ)の宿(やど)やおとなふらん。
 笛(ふえ)の音(ね)も聞(きこ)えずや、あはれ此(こ)のあたりに若(わか)き詩人(しじん)や住(す)める、うつくしき學士(がくし)やあると、折(をり)からの森(もり)の星(ほし)のゆかしかりしを、今(いま)も忘(わす)れず。さればゆかしさに、敢(あへ)て岡燒(をかやき)をせずして記(き)をつくる。
明治三十四年八月



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