神鷺之巻
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著者名:泉鏡花 

       一

 白鷺明神(しらさぎみょうじん)の祠(ほこら)へ――一緑の森をその峰に仰いで、小県銑吉(おがたせんきち)がいざ詣でようとすると、案内に立ちそうな村の爺さんが少なからず難色を顕(あら)わした。
 この爺さんは、
「――おらが口で、更(あらた)めていうではねえがなす、内の媼(ばばあ)は、へい一通りならねえ巫女(いちこ)でがすで。」……
 若い時は、渡り仲間の、のらもので、猟夫(かりゅうど)を片手間に、小賭博(こばくち)なども遣(や)るらしいが、そんな事より、古女房が巫女というので、聞くものに一種の威力があったのはいうまでもない。
 またその媼巫女(うばいちこ)の、巫術(ふじゅつ)の修煉(しゅうれん)の一通りのものでない事は、読者にも、間もなく知れよう。
 一体、孫八が名だそうだ、この爺さんは、つい今しがた、この奥州、関屋の在、旧――街道わきの古寺、西明寺(さいみょうじ)の、見る影もなく荒涼(あれすさ)んだ乱塔場で偶然知己(ちかづき)になったので。それから――無住ではない、住職の和尚は、斎稼(ときかせ)ぎに出て留守だった――その寺へ伴われ、庫裡(くり)から、ここに准胝観世音(じゅんでいかんぜおん)の御堂(みどう)に詣でた。
 いま、その御廚子(みずし)の前に、わずかに二三畳の破畳(やれだたみ)の上に居るのである。
 さながら野晒(のざらし)の肋骨(あばらぼね)を組合わせたように、曝(さ)れ古びた、正面の閉した格子を透いて、向う峰の明神の森は小さな堂の屋根を包んで、街道を中に、石段は高いが、あたかも、ついそこに掛けた、一面墨絵の額、いや、ざっと彩った絵馬のごとく望まるる。
 明神は女体におわす――爺さんがいうのであるが――それへ、詣ずるのは、石段の上の拝殿までだが、そこへ行(ゆ)くだけでさえ、清浄(しょうじょう)と斎戒(さいかい)がなければならぬ。奥の大巌(おおいわ)の中腹に、祠が立って、恭(うやうや)しく斎(いつ)き祭った神像は、大深秘で、軽々しく拝まれない――だから、参った処で、その効(かい)はあるまい……と行(ゆ)くのを留めたそうな口吻(くちぶり)であった。
「ごく内々の事でがすがなす、明神様のお姿というのはなす。」
 時に、勿体ないが、大破落壁した、この御堂の壇に、観音の緑髪、朱唇(しゅしん)、白衣(びゃくえ)、白木彫(しらきぼり)の、み姿の、片扉金具の抜けて、自(おのず)から開いた廚子から拝されて、誰(た)が捧げたか、花瓶の雪の卯の花が、そのまま、御袖(みそで)、裳(もすそ)に紛(まが)いつつ、銑吉が参らせた蝋燭(ろうそく)の灯に、格天井(ごうてんじょう)を漏る昼の月影のごとく、ちらちらと薄青く、また金色(こんじき)の影がさす。
「なす、この観音様に、よう似てござらっしゃる、との事でなす。」……
 ただこの観世音の麗相を、やや細面にして、玉の皓(しろ)きがごとく、そして御髪(みぐし)が黒く、やっぱり唇は一点の紅である。
 その明神は、白鷺の月冠をめしている。白衣で、袴(はかま)は、白とも、緋(ひ)ともいうが、夜の花の朧(おぼろ)と思え。……
 どの道、巌(いわお)の奥殿の扉を開くわけには行かないのだから、偏(ひとえ)に観世音を念じて、彼処(かしこ)の面影を偲(しの)べばよかろう。
 爺さんは、とかく、手に取れそうな、峰の堂――絵馬の裡(なか)へ、銑吉を上らせまいとするのである。
 第一可恐(おそろし)いのは、明神の拝殿の蔀(しとみ)うち、すぐの承塵(なげし)に、いつの昔に奉納したのか薙刀(なぎなた)が一振(ひとふり)かかっている。勿論誰も手を触れず、いつ研いだ事もないのに、切味(きれあじ)の鋭さは、月の影に翔込(かけこ)む梟(ふくろう)、小春日になく山鳩は構いない。いたずらものの野鼠は真二つになって落ち、ぬたくる蛇は寸断(ずたずた)になって蠢(うごめ)くほどで、虫、獣(けだもの)も、今は恐れて、床、天井を損わない。
 人間なりとて、心柄によっては無事では済まない。かねて禁断であるものを、色に盲(めし)いて血気な徒が、分別を取はずし、夜中、御堂へ、村の娘を連込んだものがあった。隔ての帳(とばり)も、簾(すだれ)もないのに――
 ――それが、何と、明(あかる)い月夜よ。明神様もけなりがッつろと、二十三夜の月待の夜話(よばなし)に、森へ下弦の月がかかるのを見て饒舌(しゃべ)った。不埒(ふらち)を働いてから十五年。四十を越えて、それまでは内々恐れて、黙っていたのだが、――祟(たた)るものか、この通り、と鼻をさして、何の罰が当るかい。――舌も引かぬに、天井から、青い光がさし、その百姓屋の壁を抜いて、散りかかる柳の刃がキラリと座のものの目に輝いた時、色男の顔から血しぶきが立って、そぎ落された低い鼻が、守宮(やもり)のように、畳でピチピチと刎(は)ねた事さえある。
 いま現に、町や村で、ふなあ、ふなあ、と鼻くたで、因果と、鮒(ふな)鰌(どじょう)を売っている、老ぼれがそれである。
 村若衆(わかいしゅ)の堂の出合は、ありそうな事だけれど、こんな話はどこかに類がないでもなかろう。
 しかし、なお押重ねて、爺さんが言った、……次の事実は、少からず銑吉を驚かして、胸さきをヒヤリとさせた。
 余り里近なせいであろう。近頃では場所が移った。が、以前は、あの明神の森が、すぐ、いつも雪の降ったような白鷺の巣であった。近く大正の末である。一夜に二件、人間二人、もの凄(すご)い異状が起った。
 その一人は、近国の門閥家(もんばつか)で、地方的に名望権威があって、我が儘(まま)の出来る旦那(だんな)方。人に、鳥博士と称(とな)えられる、聞こえた鳥類の研究家で。家には、鳥屋というより、小さな博物館ぐらいの標本を備えもし、飼ってもいる。近県近郷の学校の教師、無論学生たち、志あるものは、都会、遠国からも見学に来(きた)り訪(と)うこと、須賀川の牡丹(ぼたん)の観賞に相斉(あいひと)しい。で、いずれの方面からも許されて、その旦那の紳士ばかりは、猟期、禁制の、時と、場所を問わず、学問のためとして、任意に、得意の猟銃の打金をカチンと打ち、生きた的に向って、ピタリと照準する事が出来る。
 時に、その年は、獲ものでなしに、巣の白鷺の産卵と、生育状態の実験を思立たれたという。……雛(ひよ)ッ子はどんなだろう。鶏や、雀と違って、ただ聞いても、鴛鴦(おしどり)だの、白鷺のあかんぼには、博物にほとんど無関心な銑吉も、聞きつつ、早くまず耳を傾けた。
 在所には、旦那方の泊るような旅館がない。片原の町へ宿を取って、鳥博士は、夏から秋へかけて、その時々。足繁くなると、ほとんど毎日のように、明神の森へ通ったが、思う壺の巣が見出せない。
 ――村に猟夫(かりゅうど)が居る。猟夫(りょうし)といっても、南部の猪(いのしし)や、信州の熊に対するような、本職の、またぎ、おやじの雄(おす)ではない。のらくらものの隙稼(ひまかせ)ぎに鑑札だけは受けているのが、いよいよ獲ものに困(こう)ずると、極めて内証に、森の白鷺を盗み撃(うち)する。人目を憚(はばか)るのだから、忍びに忍んで潜入するのだが、いや、どうも、我折(がお)れた根気のいい事は、朝早くでも、晩方でも、日が暮れたりといえどもで、夏の末のある夜(よ)などは、ままよ宿鳥(ねどり)なりと、占めようと、右の猟夫(りょうし)が夜中真暗(まっくら)な森を□□(さまよ)ううちに、青白い光りものが、目一つの山の神のように動いて来るのに出撞(でっくわ)した。けだし光は旦那方の持つ懐中電燈であった。が、その時の鳥旦那の装(よそおい)は、杉の葉を、頭や、腰のまわりに結びつけた、面(つら)まで青い、森の悪魔のように見えて、猟夫を息を引いて驚倒せしめた。旦那の智恵によると、鳥に近づくには、季節によって、樹木と同化するのと、また鳥とほぼ服装の彩(いろどり)を同じゅうするのが妙術だという。
 それだから一夜に事の起った時は、冬で雪が降っていたために、鳥博士は、帽子も、服も、靴まで真白(まっしろ)にしていた、と話すのであった。
      (……?……)
 ところで、鳥博士も、猟夫(りょうし)も、相互の仕事が、両方とも邪魔にはなるが、幾度(いくたび)も顔を合わせるから、逢えば自然と口を利く。「ここのおつかい姫は、何だな、馬鹿に恥かしがり屋で居るんだな。なかなか産む処を見せないが。」「旦那、とんでもねえ罰が当る。」「撃つやつとどうかな。」段々秋が深くなると、「これまでのは渡りものの、やす女だ、侍女(こしもと)も上等のになると、段々勿体(もったい)をつけて奥の方へ引込むな。」従って森の奥になる。「今度見つけた巣は一番上等だ。鷺の中でも貴婦人となると、産は雪の中らしい。人目を忍ぶんだな。産屋(うぶや)も奥御殿という処だ。」「やれ、罰が当るてば。旦那。」「撃つやつとどうかな。」――雪の中に産育する、そんな鷺があるかどうかは知らない。爺さんの話のまま――猟夫(りょうし)がこの爺さんである事は言うまでもなかろうと思う。さて猟夫が、雪の降頻(ふりしき)る中を、朝の間(ま)に森へ行(ゆ)くと、幹と根と一面の白い上に、既に縦横に靴で踏込んだあとがあった。――畜生、こんなに疾(はや)くから旦那が来ている。博士の、静粛な白銀(しろがね)の林の中なる白鷺の貴婦人の臨月の観察に、ズトン! は大禁物であるから、睨(にら)まれては事こわしだ。一旦(いったん)破寺(やれでら)――西明寺はその一頃は無住であった――その庫裡(くり)に引取って、炉に焚火(たきび)をして、弁当を使ったあとで、出直して、降積った雪の森に襲い入ると、段々に奥深く、やがて向うに青い水が顕(あら)われた、土地で、大沼というのである。
 今はよく晴れて、沼を囲んだ、樹の袖、樹の裾(すそ)が、大(おおい)なる紺青(こんじょう)の姿見を抱(いだ)いて、化粧するようにも見え、立囲った幾千の白い上□(じょうろう)が、瑠璃(るり)の皎殿(こうでん)を繞(めぐ)り、碧橋(へききょう)を渡って、風に舞うようにも視(なが)められた。
 この時、煩悩(ぼんのう)も、菩提(ぼだい)もない。ちょうど汀(なぎさ)の銀の蘆(あし)を、一むら肩でさらりと分けて、雪に紛(まが)う鷺が一羽、人を払う言伝(ことづて)がありそうに、すらりと立って歩む出端(でばな)を、ああ、ああ、ああ、こんな日に限って、ふと仰がるる、那須嶽連山の嶺(みね)に、たちまち一朶(いちだ)の黒雲の湧(わ)いたのも気にしないで、折敷(おりしき)にカンと打った。キャッ! と若い女の声。魂(たま)ぎる声。
 這(は)ったか、飛んだか、辷(すべ)ったか。猟夫(りょうし)が目くるめいて駆付けると、凍(い)てざまの白雪に、ぽた、ぽた、ぽたと紅(あけ)が染まって、どこを撃ったか、黒髪の乱れた、うつくしい女が、仰向(あおむ)けに倒れ、もがいた手足をそのままに乱れ敷いていたのである。
 いやが上の恐怖と驚駭(きょうがい)は、わずかに四五間離れた処に、鳥の旦那が真白(まっしろ)なヘルメット帽、警官の白い夏服で、腹這(はらばい)になっている。「お助けだ――旦那、薬はねえか。」と自分が救われたそうに手を合せた。が、鳥旦那は――鷺が若い女になる――そんな魔法は、俺が使ったぞ、というように知らん顔して、遠めがねを、それも白布で巻いたので、熟(じっ)とどこかの樹を枝を凝視(みつ)めていて、ものも言わない。
 猟夫は最期(いまわ)と覚悟をした。……
 そこで、急いで我が屋へ帰って、不断、常住、無益な殺生を、するな、なせそと戒める、古女房の老巫女(いちこ)に、しおしおと、青くなって次第を話して、……その筋へなのって出るのに、すぐに梁(はり)へ掛けたそうに褌(ふんどし)をしめなおすと、梓(あずさ)の弓を看板に掛けて家業にはしないで、茅屋(あばらや)に隠れてはいるが、うらないも祈祷(きとう)も、その道の博士だ――と言う。どういうものか、正式に学校から授けない、ものの巧者は、学士を飛越えて博士になる。博士神巫(いちこ)が、亭主が人殺しをして、唇の色まで変って震えているものを、そんな事ぐらいで留(や)めはしない……冬の日の暗い納戸で、糸車をじい……じい……村も浮世も寒さに喘息(ぜんそく)を病んだように響かせながら、猟夫に真裸(まっぱだか)になれ、と歯茎を緊(し)めて厳(おごそか)に言った。経帷子(きょうかたびら)にでも着換えるのか、そんな用意はねえすべい。……井戸川で凍死(こごえじに)でもさせる気だろう。しかしその言(ことば)の通りにすると、蓑(みの)を着よ、そのようなその羅紗(らしゃ)の、毛くさい破(やぶれ)帽子などは脱いで、菅笠(すげがさ)を被(かぶ)れという。そんで、へい、苧殻(おがら)か、青竹の杖(つえ)でもつくか、と聞くと、それは、ついてもつかいでも、のう、もう一度、明神様の森へ走って、旦那が傍(そば)に居ようと、居まいと、その若い婦女(おんな)の死骸(しがい)を、蓑の下へ、膚(はだ)づけに負いまして、また早や急いで帰れ、と少し早めに糸車を廻わしている。
 いや、もう、肝魂(きもたま)を消して、さきに死骸の傍を離れる時から、那須颪(なすおろし)が真黒(まっくろ)になって、再び、日の暮方の雪が降出したのが、今度行向う時は、向風の吹雪になった。が、寒さも冷たさも猟夫は覚えぬ。ただ面(つら)を打って巴卍(ともえまんじ)に打ち乱れる紛泪(ふんぱく)の中に、かの薙刀(なぎなた)の刃がギラリと光って、鼻耳をそがれはしまいか。幾度立ちすくみになったやら。……
 我が手で、鉄砲でうった女の死骸を、雪を掻(か)いて膚におぶった、そ、その心持というものは、紅蓮(ぐれん)大紅蓮の土壇(どたん)とも、八寒地獄の磔柱(はりつけばしら)とも、譬(たと)えように口も利けぬ。ただ吹雪に怪飛(けしと)んで、亡者のごとく、ふらふらと内へ戻ると、媼巫女(うばみこ)は、台所の筵敷(むしろじき)に居敷(いしか)り、出刃庖丁をドギドギと研いでいて、納戸の炉に火が燃えて、破鍋(われなべ)のかかったのが、阿鼻とも焦熱とも凄(すさま)じい。……「さ、さ、帯を解け、しての、死骸を俎(まないた)の上へ、」というが、石でも銅(あかがね)でもない。台所の俎で。……媼(うば)の形相は、絵に描いた安達(あだち)ヶ原と思うのに、頸(くび)には、狼の牙(きば)やら、狐の目やら、鼬(いたち)の足やら、つなぎ合せた長数珠(ながじゅず)に三重(みえ)に捲(ま)きながらの指図でござった。
 ……不思議というは、青い腰も血の胸も、死骸はすっくり俎の上へ納って、首だけが土間へがっくりと垂れる。めったに使ったことのない、大俵の炭をぶちまけたように髻(もとどり)が砕けて、黒髪が散りかかる雪に敷いた。媼が伸上り、じろりと視(み)て、「天人のような婦(おんな)やな、羽衣を剥(む)け、剥け。」と言う。襟も袖も引き□(むし)る、と白い優しい肩から脇の下まで仰向(あおむ)けに露(あら)われ、乳へ膝を折上げて、くくられたように、踵(かかと)を空へ屈(かが)めた姿で、柔(やわらか)にすくんでいる。「さ、その白(しら)ッこい、膏(あぶら)ののった双ももを放さっしゃれ。獣(けだもの)は背中に、鳥は腹に肉があるという事いの。腹から割(さ)かっしゃるか、それとも背から解(ひら)くかの、」と何と、ひたわななきに戦(わなな)く、猟夫の手に庖丁を渡して、「えい、それ。」媼が、女の両脚を餅のように下へ引くとな、腹が、ふわりと動いて胴がしんなりと伸び申したなす。
「観音様の前だ、旦那、許さっせえ。」
 御廚子の菩薩(ぼさつ)は、ちらちらと蝋燭の灯に瞬きたまう。
 ――茫然(ぼうぜん)として、銑吉は聞いていた――
 血は、とろとろと流れた、が、氷ったように、大腸小腸(おおわたこわた)、赤肝(あかぎも)、碧胆(あおぎも)、五臓は見る見る解き発(あば)かれ、続いて、首を切れと云う。その、しなりと俎の下へ伸びた皓々(しろじろ)とした咽喉首(のどくび)に、触ると震えそうな細い筋よ、蕨(わらび)、ぜんまいが、山賤(やましず)には口相応、といって、猟夫だとて、若い時、宿場女郎の、※(まいらせそろ)[#「参らせ候」のくずし字、65-2]もかしくも見たれど、そんなものがたとえになろうか。……若菜の二葉の青いような脈筋が透いて見えて、庖丁の当てようがござらない。容顔が美麗なで、気後(きおく)れをするげな、この痴気(たわけ)おやじと、媼はニヤリ、「鼻をそげそげ、思切って。ええ、それでのうては、こな爺(じじ)い、人殺しの解死人(げしにん)は免(のが)れぬぞ、」と告(の)り威(おど)す。――命ばかりは欲(ほし)いと思い、ここで我が鼻も薙刀(なぎなた)で引(ひき)そがりょう、恐ろしさ。古手拭(ふるてぬぐい)で、我が鼻を、頸窪(ぼんのくぼ)へ結(ゆわ)えたが、美しい女の冷い鼻をつるりと撮(つま)み、じょきりと庖丁で刎(は)ねると、ああ、あ痛(つつ)、焼火箸(やけひばし)で掌(てのひら)を貫かれたような、その疼痛(いたさ)に、くらんだ目が、はあ、でんぐり返って気がつけば、鼻のかわりに、細長い鳥の嘴(くちばし)を握っていて、俎の上には、ただ腹を解いた白鷺が一羽。蓑毛も、胸毛も、散りぢりに、血は俎の上と、鷺の首と、おのが掌にたらたらと塗(まみ)れていた。
 媼が世帯ぶって、口軽に、「大ごなしが済んだあとは、わしが手でぶつぶつと切っておましょ。鷺の料理は知らぬなれど、清汁(すまし)か、味噌か、焼こうかの。」と榾(ほだ)をほだて、鍋を揺(ゆす)ぶって見せつけて、「人間の娘も、鷺の婦(おんな)も、いのち惜しさにかわりはないぞの。」といわれた時は、俎につくばい、鳥に屈(かが)み、媼に這(は)って、手をついた。断つ、断つ、ふッつりと猟を断つ、慰みの無益の殺生は、断つわいやい。
 畠(はたけ)二三枚、つい近い、前畷(まえなわて)の夜の雪路(ゆきみち)を、狸が葬式を真似(まね)るように、陰々と火がともれて、人影のざわざわと通り過ぎたのは――真中(まんなか)に戸板を舁(か)いていた。――鳥旦那の、凍えて人事不省(ひとごこちなく)なったのを助け出した、行列であった。
 町の病院で、二月以上煩ったが、凍傷のために、足の指二本、鼻の尖(さき)が少々、とれた、そげた、欠けた、はて何といおう、もげたと言おう、もげた。
 どうも解(げ)せぬ。さて、合点のゆかない。現におつかい姫を、鉄砲で撃った猟夫は、肝を潰(つぶ)しただけで、無事に助かった。旦那はまず不具(かたわ)だ。巣を見るばかりで、その祟(たた)りは、と内証(ないしょ)で声をひそめて、老巫女(おいみこ)に伺(うかがい)を立てた。されば、明神様の思召(おぼしめ)しは、鉄砲は避(よ)けもされる。また眷属(けんぞく)が怪我(けが)に打たれまいものではない。――御殿の閨(ねや)を覗(のぞ)かれ、あまつさえ、帳(とばり)の奥のその奥の産屋を――おみずからではあるまいが――お煩(うるさ)い……との事である。
 要するに、御堂の女神は、鉄砲より、研究がおきらいなのである。――
「――万事、その気でござらっしゃれよ。」
「勿論です――」
 が、まだその上にも、銑吉を一人で御堂へ行(ゆ)かせるのは、気づかいらしくもあり、好もしくない様子が見えた。すなわち明神の祠(ほこら)へは、孫八爺さんが一所に行こうという。銑吉とても、ただ怯(おど)かしばかりでもなさそうな、秘密と、奇異と、第一、人気のまるでないその祠に、入口に懸(かか)った薙刀(なぎなた)を思うと、掛釘が錆朽(さびく)ちていまいものでもなし、控えの綱など断切れていないと限らない。同行はむしろ便宜であったが。
 さて、旧街道を――庫裡(くり)を一廻り、寺の前から――路を埋(うず)めた浅茅(あさじ)を踏んで、横切って、石段下のたらたら坂(ざか)を昇りかかった時であった。明神の森とは、山波をつづけて、なだらかに前(もと)来た片原の町はずれへ続く、それを斜(ななめ)に見上げる、山の端(は)高き青芒(あおすすき)、蕨(わらび)の広葉の茂った中へ、ちらりと出た……さあ、いくつぐらいだろう、女の子の紅(あか)い帯が、ふと紅(もみ)の袴(はかま)のように見えたのも稀有(けう)であった、が、その下ななめに、草堤(くさどて)を、田螺(たにし)が二つ並んで、日中(ひなか)の畝(あぜ)うつりをしているような人影を見おろすと、
「おん爺(じ)いええ。」
 と野へ響く、広く透(とお)った声で呼んだ。
 貝の尖(さき)の白髪(しらが)の田螺が、
「おお。」
「爺(じ)ン爺(じ)いよう。」
「……爺ン爺い、とこくわ――おおよ。」
「媼(ば)ン媼(ば)が、なあえ、すぐに帰って、ござれとよう。」
「酒でも餅でもあんめえが、……やあ。」
「知らねえよう。」
「客人と、やい、明神様詣るだと、言うだあよう。」
「何(あん)でも帰れ、とよう。媼ン媼が言うだがええ。」
 なぜか、その女の子、その声に、いや、その言托(ことづけ)をするものに、銑吉さえ一種の威のあるのを感じた。
「そんでは、旦那。」
 白髪の田螺は、麦稈帽(むぎわらぼう)の田螺に、ぼつりと分れる。

       二

「――何だ、薙刀(なぎなた)というのは、――絵馬の画(え)――これか。」
 あの、爺い。口さきで人を薙刀に掛けたな。銑吉は御堂の格子を入って、床の右横の破欄間(やれらんま)にかかった、絵馬を視(み)て、吻(ほっ)と息を吐(つ)きつつ微笑(ほほえ)んだ。
 しかし、一口に絵馬とはいうが、入念(じゅねん)の彩色(さいしき)、塗柄の蒔絵(まきえ)に唐草さえある。もっとも年数のほども分らず、納(おさめ)ぬしの文字などは見分けがつかない。けれども、塗柄を受けた服紗(ふくさ)のようなものは、紗綾(さや)か、緞子(どんす)か、濃い紫をその細工ものに縫込んだ。
 武器は武器でも、念流、一刀流などの猛者(もさ)の手を経たものではない。流儀の名の、静(しずか)も優しい、婦人の奉納に違いない。
 眉も胸も和(なごやか)になった。が、ここへ来て彳(たたず)むまで、銑吉は実は瞳を据え、唇を緊(し)めて、驚破(すわ)といわばの気構(きがまえ)をしたのである。何より聞怯(ききお)じをした事は、いささかたりとも神慮に背くと、静流(しずかりゅう)がひらめくとともに、鼻を殺(そ)がるる、というのである。
 これは、生命(いのち)より可恐(おそろし)い。むかし、悪性(あくしょう)の唐瘡(とうがさ)を煩ったものが、厠(かわや)から出て、嚔(くしゃみ)をした拍子に、鼻が飛んで、鉢前をちょろちょろと這った、二十三夜講の、前(さき)の話を思出す。――その鼻の飛んだ時、キャッと叫ぶと、顔の真中(まんなか)へ舌が出て、もげた鼻を追掛(おっか)けたというのである。鳥博士のは凍傷と聞いたが、結果はおなじい。
 鼻をそがれて、顔の真中へ舌が出たのでは、二度と東京が見られない。第一汽車に乗せなかろう。
 草生(くさおい)の坂を上る時は、日中(ひなか)三時さがり、やや暑さを覚えながら、幾度も単衣(ひとえ)の襟を正した。

 銑吉は、寺を出る時、羽織を、観世音の御堂に脱いで、着流しで扇を持った。この形は、さんげ、さんげ、金剛杖(こうごうづえ)で、お山に昇る力もなく、登山靴で、嶽(たけ)を征服するとかいう偉さもない。明神の青葉の砦(とりで)へ、見すぼらしく降参をするに似た。が、謹んでその方が無事でいい。
 石段もところどころ崩れ損じた、控綱の欲(ほし)いほど急ではないが、段の数は、累々と畳まって、半身を、夏の雲に抽(ぬ)いた、と思うほど、聳(そび)えていた。
 ここに、思掛けなかったのは――不断ほとんど詣ずるもののない、無人(むにん)の境だと聞いただけに、蛇類のおそれ、雑草が伸茂って、道を蔽(おお)うていそうだったのが、敷石が一筋、すっと正面の階段まで、常磐樹(ときわぎ)の落葉さえ、五枚六枚数うるばかり、草を靡(なび)かして滑かに通った事であった。
 やがて近づく、御手洗(みたらし)の水は乾いたが、雪の白山(はくさん)の、故郷(ふるさと)の、氏神を念じて、御堂の姫の影を幻に描いた。
 すぐその御手洗の傍(そば)に、三抱(みかかえ)ほどなる大榎(おおえのき)の枝が茂って、檜皮葺(ひわだぶき)の屋根を、森々(しんしん)と暗いまで緑に包んだ、棟の鰹木(かつおぎ)を見れば、紛(まが)うべくもない女神(じょしん)である。根上りの根の、譬(たと)えば黒い珊瑚碓(さんごしょう)のごとく、堆(うずたか)く築いて、青く白く、立浪(たつなみ)を砕くように床の縁下へ蟠(わだかま)ったのが、三間四面の御堂を、組桟敷のごとく、さながら枝の上に支えていて、下蔭はたちまち、ぞくりと寒い、根の空洞(うつろ)に、清水があって、翠珠(すいしゅ)を湛(たた)えて湧(わ)くのが見える。
 銑吉はそこで手を浄(きよ)めた。
 階段を静(しずか)に――むしろ密(そっ)と上りつつ、ハタと胸を衝(つ)いたのは、途中までは爺さんが一所に来る筈(はず)だった。鍵を、もし、錠(じょう)がささっていれば、扉は開(あ)かない、と思ったのに、格子は押附けてはあるが、合せ目が浮いていた。裡(なか)の薄暗いのは、上の大樹の茂りであろう。及腰(およびごし)ながら差覗(さしのぞ)くと、廻縁(まわりえん)の板戸は、三方とも一二枚ずつ鎖(とざ)してない。
 手を扉にかけた。
 裡(うち)の、その真上に、薙刀(なぎなた)がかかっている筈である。
 そこで、銑吉がどんな可笑(おかし)な態(ふう)をしたかは、およそ読者の想像さるる通りである。
「お通しを願います、失礼。」
 と云った。
 片扉、とって引くと、床も青く澄んで朗(ほがら)か。

 絵馬を見て、彳(たたず)んで、いま、その心易さに莞爾(にっこり)としたのである。
 思いも掛けず、袖を射て、稲妻が飛んだ。桔梗(ききょう)、萩、女郎花(おみなえし)、一幅(いっぷく)の花野が水とともに床に流れ、露を縫った銀糸の照る、彩(いろ)ある女帯が目を打つと同時に、銑吉は宙を飛んで、階段を下へ刎(は)ね落ちた。再び裾(すそ)へ飜(ひるが)えるのは、柄長き薙刀の刃尖(はさき)である。その稲妻が、雨のごとき冷汗を透(とお)して、再び光った。
 次の瞬間、銑吉の身は、ほとんど本能的に大榎(おおえのき)の幹を小盾(こだて)に取っていた。
 どうも人間より蝉に似ている。堂の屋根うらを飛んで、樹へ遁(に)げたその形が。――そうして、少時(しばらく)して、青い顔の目ばかり樹の幹から出した処は、いよいよ似ている。
 柳の影を素膚(すはだ)に絡(まと)うたのでは、よもあるまい。よく似た模様をすらすらと肩裳(もすそ)へ、腰には、淡紅(とき)の伊達巻ばかり。いまの花野の帯は、黒格子を仄(ほのか)に、端が靡(なび)いて、婦人(おんな)は、頬のかかり頸脚(えりあし)の白く透通る、黒髪のうしろ向きに、ずり落ちた褄(つま)を薄く引き、ほとんど白脛(しらはぎ)に消ゆるに近い薄紅の蹴出(けだ)しを、ただなよなよと捌(さば)きながら、堂の縁の三方を、そのうしろ向きのまま、するすると行(ゆ)き、よろよろと還(かえ)って、往(ゆ)きつ戻りつしている。その取乱した態(ふり)の、あわただしい中(うち)にも、媚(なまめか)しさは、姿の見えかくれる榎の根の荘厳に感じらるるのさえ、かえって露草の根の糸の、細く、やさしく戦(そよ)ぎ縺(もつ)れるように思わせつつ、堂の縁を往来(ゆきき)した。が、後姿のままで、やがて、片扉開いた格子に、ひたと額をつけて、じっと留まると、華奢(きゃしゃ)な肩で激しく息をした。髪が髢(かもじ)のごとくさらさらと揺れた。その立って、踏みぐくめつつも乱れた裾(すそ)に、細く白々と鳥の羽のような軽い白足袋の爪尖(つまさき)が震えたが、半身を扉に持たせ、半ばを取縋(とりすが)って、柄を高くついた、その薙刀が倒(さかさま)で……刃尖(はさき)が爪先を切ろうとしている。
 戦(いくさ)は、銑吉が勝らしい。由来いかなる戦史、軍記にも、薙刀を倒(さかさま)についた方は負である。同時に、その刃尖が肉を削り、鮮血(なまち)が踵(かかと)を染めて伝わりそうで、見る目も危い。
 青い蝉が、かなかなのような調子はずれの声を、
「貴女(あなた)、貴女、誰方(どなた)にしましても、何事にしましても、危い、それは危い。怪我をします。怪我をします。気をおつけなさらないと。」
 髪を分けた頬を白く、手首とともに、一層扉に押当てて、
「あああ」
 とやさしい、うら若い、あどけないほどの、うけこたえとまでもない溜息を深くすると、
「小県さん――」
 冴(さ)えて、澄み、すこし掠(かす)れた細い声。が、これには銑吉が幹の支えを失って、手をはずして落ちようとした。堂の縁の女でなく、大榎の梢(こずえ)から化鳥(けちょう)が呼んだように聞えたのである。
「……小県さん、ほんとうの小県さんですか。」
 この場合、声はまた心持涸(か)れたようだが、やっぱり澄んで、はっきりした。
 夏は簾(すだれ)、冬は襖(ふすま)、間(ま)を隔てた、もの越(ごし)は、人を思うには一段、床(ゆか)しく懐しい。……聞覚えた以上であるが、それだけに、思掛けなさも、余りに激しい。――
 まだ人間に返り切れぬ。薙刀怯(おび)えの蝉は、少々震声(ふるえごえ)して、
「小県ですよ、ほんとう以上の小県銑吉です、私です。――ここに居ますがね。……築地の、東京の築地の、お誓さん、きみこそ、いや、あなたこそ、ほんとうのお誓さんですか。」
「ええ、誓ですの、誓ですの、誓の身の果(はて)なんですの。」
「あ、危い。」
 長刀(なぎなた)は朽縁(くちえん)に倒れた。その刃の平(ひら)に、雪の掌(たなそこ)を置くばかり、たよたよと崩折(くずお)れて、顔に片袖を蔽(おお)うて泣いた。身の果と言う……身の果か。かくては、一城の姫か、うつくしい腰元の――敗軍には違いない――落人(おちゅうど)となって、辻堂に□□(さまよ)った伝説を目(ま)のあたり、見るものの目に、幽窈(ゆうよう)、玄麗(げんれい)の趣があって、娑婆(しゃば)近い事のようには思われぬ。
 話は別にある。今それを言うべき場合でない。築地の料理店梅水の娘分で、店はこの美人のために賑(にぎわ)った。早くから銑吉の恋人である。勿論、その恋を得たのでもなければ、意を通ずるほどの事さえも果さないうちに、昨年の夏、梅水が富士の裾野へ暑中の出店をして、避暑かたがた、お誓がその店を預ったのを知っただけで、この時まで、その消息を知らなかった次第なのである。……
 その暑中の出店が、日光、軽井沢などだったら、雲のゆききのゆかりもあろう。ここは、関屋を五里六里、山路(やまみち)、野道を分入った僻村(へきそん)であるものを。――
 ――実は、銑吉は、これより先き、麓(ふもと)の西明寺の庫裡(くり)の棚では、大木魚の下に敷かれた、女持の提紙入(ハンドバック)を見たし、続いて、准胝観音(じゅんでいかんのん)の御廚子(みずし)の前に、菩薩が求児擁護(ぐうじようご)の結縁(けちえん)に、紅白の腹帯を据えた三方に、置忘れた紫の女扇子(おうぎ)の銀砂子(ぎんすなご)の端(はし)に、「せい」としたのを見て、ぞっとした時さえ、ただ遥(はるか)にその人の面影をしのんだばかりであったのに。
 かえって、木魚に圧(お)された提紙入には、美女の古寺の凌辱(りょうじょく)を危(あやぶ)み、三方の女扇子には、姙娠の婦人(おんな)の生死(しょうし)を懸念して、別に爺さんに、うら問いもしたのであったが、爺さんは、耳をそらし、口を避けて、色ある二品(ふたしな)のいわれに触れるのさえ厭(いと)うらしいので、そのまま黙した事実があった。
 ただ、あだには見過し難(がた)い、その二品に対する心ゆかしと、帰路(かえり)には必ず立寄るべき心のしるしに、羽織を脱いで、寺にさし置いた事だけを――言い添えよう。
 いずれにしても、ここで、そのお誓に逢おうなどとは……譬(たとえ)にこまった……間に合わせに、されば、箱根で田沢湖を見たようなものである。

       三

「――余り不思議です。お誓さん、ほんとのお誓さんなら、顔を見せて下さい、顔を……こっちを向いて、」
 ほとんど樹の枝に乗った位置から、おのずと出る声の調子に、小県は自分ながら不気味を感じた。
 きれぎれに、
「お恥かしくって、そちらが向けないほどなんですもの。」
 泣声だし、唇を含んでかすれたが、まさか恥かしいという顔に異状はあるまい。およそ薙刀を閃(ひら)めかして薙(な)ぎ伏せようとした当の敵に対して、その身構えが、背後(うしろ)むきになって、堂の縁を、もの狂わしく駆廻ったはおろか、いまだに、振向いても見ないで、胸を、腹部を袖で秘(かく)すらしい、というだけでも、この話の運びを辿(たど)って、読者も、あらかじめ頷(うなず)かるるであろう、この婦(おんな)は姙娠している。
「私が、そこへ行(ゆ)きますが、構いませんか。今度は、こっちで武芸を用いる。高いこの樹の根からだと、すれすれだから欄干が飛べそうだから。」
 婦(おんな)は、格子に縋(すが)って、また立った。なおその背後向きのままで居る。
「しかし、その薙刀を何とかして下さらないか。どうも、まことに、危いのですよ。」
「いま、そちらへ参りますよ。」
 落ついて静(しずか)にいうのが、遠く、築地の梅水で、お酌ねだりをたしなめるように聞えて、銑吉はひとりで苦笑した。すぐに榎の根を、草へ下りて、おとなしく控え待った。
 枝がくれに、ひらひらと伸び縮みする……というと蛇体にきこえる、と悪い。細(ほっそ)りした姿で、薄い色の褄(つま)を引上げ、腰紐を直し、伊達巻をしめながら、襟を掻合(かきあ)わせ掻合わせするのが、茂りの彼方(かなた)に枝透いて、簾(すだれ)越に薬玉(くすだま)が消えんとする。
 やがて、向直って階(きざはし)を下りて来た。引合わせている袖の下が、脇明(わきあけ)を洩(も)れるまで、ふっくりと、やや円い。
 牡丹(ぼたん)を抱(いだ)いた白鷺の風情である。
 見まい。
「水をのみます。小県さん、私……息が切れる。」
 と、すぐその榎の根の湧水(わきみず)に、きように褄を膝に挟んで、うつむけにもならず尋常に二の腕をあらわに挿入(さしい)れた。榎の葉蔭に、手の青い脈を流れて、すぐ咽喉(のど)へ通りそうに見えたが、掬(く)もうとすると、掌(たなそこ)が薄く、玉の数珠(じゅず)のように、雫(しずく)が切れて皆溢(こぼ)れる。
「両掌(りょうて)でなさい、両掌で……明神様の水でしょう。野郎に見得も何(な)にもいりゃしません。」
「はい、いいえ。」
 膝の上へ、胸をかくして折りかけた袖を圧(おさ)え、やっぱり腹部を蔽(おお)うた、その片手を離さない。
「だって、両掌を突込(つっこ)まないじゃ、いけないじゃありませんか。」
「ええ、あの柄杓(ひしゃく)があるんですけど。」
「柄杓、」
 手水鉢(ちょうずばち)に。
「ああ、手近です。あげましょう。青い苔(こけ)だけれどもね、乾いているから安心です、さあ。」
「済みません、小県さん、私知っていましたんですけど、つい、とっちてしまいましたの。」
「ところで……ちょっとお待ちなさい。この水は飲んで差支えないんですかね。」
「ええ、冷い、おいしい、私は毎日のように飲んでいます。」
 それだと毎日この祠(ほこら)へ。
「あ、あ。」
 と、消えるように、息を引いて、
「おいしいこと、ああ、おいしい。」
 唇も青澄んだように見える。
「うらやましいなあ。飲んだらこっちへ貸して下さい。」
「私が。」
 とて、柄を手巾(ハンケチ)で拭(ふ)いたあとを、見入っていた。
「どうしました。」
「髪がこんなですから、毛が落ちているといけませんわ。」
「満々(なみなみ)と下さい。ありがたい、これは冷い。一気には舌が縮みますね。」
 とぐっと飲み、
「甘露が五臓へ沁(し)みます。」
 と清(すず)しく云った。
 小県の顔を、すっと通った鼻筋の、横顔で斜(ななめ)に視(み)ながら、
「まあ、おきれいですこと。」
「水?……勿論!」
「いいえ、あなたが。」
「あなたが。」
「さっき、絵馬を見ていらっしゃいました時もおきれいだと思ったんですが、清水を一息にめしあがる処が、あの……」
「いや、どうも、そりゃちと違いましょう。牛肉のバタ焼の黒煙を立てて、腐った樽柿の息を吹くのと、明神の清水を汲(く)んで、松風を吸ったのでは、それは、いくらか違わなくっては。」
 と、はじめて声を出して軽く笑った。
「透通るほどなのは、あなたさ。」
「ええ。」
 と無邪気にうけながら、ちょっと眉を顰(ひそ)めた。乳(ち)の下を且つ蔽(おお)う袖。
「一度、二十許(はたちばか)りの親類の娘を連れて、鬼子母神(きしもじん)へ参詣(さんけい)をした事がありますがね、桐の花が窓へ散る、しんとした御堂(おどう)の燈明で視(み)た、襟脚のよさというものは、拝んで閉じた目も凜(りん)として……白さは白粉(おしろい)以上なんです。――前刻(さっき)も山下のお寺の観世音の前で……お誓さん――女持の薄紫の扇を視ました。ああ、ここへお参りして拝んだ姿は、どんなに美しかろうと思いましたが。」
 誓はうつむく。
 その襟脚はいうまでもなかろう。
「その人もわかりました。いまおなじ人が、この明神様に籠(こも)ったのもわかったのです。が、お待ちなさいよ。絵馬を、私が視ていた時、お誓さんは、どこに居て……」
「ええ、そして、あの、何をしたんだとおっしゃいましょう。」
 つと寄ると、手巾(ハンケチ)を払った手で、柄杓の柄の半ばを取りしめた。その半ばを持ったまま、居処(いどころ)をかえて、小県は、樹の高根に腰を掛けた。
「言いますわ、私……ですが、あなたは、あなたは、どうして、ここへ……」
「おたずね、ごもっともです。――少し気取るようだけれど、ちょっと柄にない松島見物という不了簡(ふりょうけん)を起して……その帰り道なんです。――先祖の墓参りというと殊勝ですが、それなら、行きみちにすべき筈です。関屋まで来ると、ふと、この片原の在所の寺、西明寺ですね。あすこに先祖の墓のある事を、子供のうち、爺さん、祖母(ばあ)さんに聞いていたのを思出しました。勿体ないが、ろくに名も知らない人たちです。
 墓は、草に埋(うず)まって皆分りません、一家遠国へ流転のうちに、無縁同然なんですから、寺もまた荒れていますしね。住職も留守で、過去帳も見られないし、その寺へ帰るのを待つ間(ま)に――しかし、そればかりではありません。
 ――片原の町から寺へ来る途中、田畝畷(たんぼなわて)の道端に、お中食処(ちゅうじきどころ)の看板が、屋根、廂(ひさし)ぐるみ、朽倒れに潰(つぶ)れていて、清い小流(こながれ)の前に、思いがけない緋牡丹(ひぼたん)が、」
 お誓は、おくれ毛を靡(なび)かし、顔を上げる。
「その花の影、水岸に、白鷺が一羽居て、それが、斑□(はんみょう)――人を殺す大毒虫――みちおしえ、というんですがね、引啣(ひきくわ)えて、この森の空へ飛んだんです。
 まだその以前、その前ですよ。片原まで来る途中、林の中の道で、途中から、不意に、無理やりに、私の雇った自動車へ乗込んだ、いやな、不気味な人相、赤い服装、赤いヘルメット帽、赤い法衣(ころも)の男が、男の子四人、同じ赤いシャツを着たのを連れて、猟銃を持ったのがありましてね。勝手な処で、山の下へ、藪(やぶ)へ入って見えなくなったのが――この山続(つづき)のようですから、白鷺の飛んだ方角といい、社(やしろ)のこのあたりか。ずッと奥になると言いますね、大沼か。どっちかで、夢のような話だけれど、神と、魔と、いくさでもはじまりそうな気がしたものですから。」
 銑吉は話すうちに、あわれに伏せたお誓の目が、憤(いきどおり)を含んで、屹(きっ)として、それが無念を引きしめて、一層青味を帯びたのに驚いた――思いしことよ。……悪魔は、お誓の身にかかわりがないのでない。
「……わけを言います、小県さん、……言いますが、恥かしいのと、口惜(くやし)いのとで、息が詰って、声も出なくなりましたら、こんな、私のような、こんな身体(からだ)に、手をお掛けになるまでもありません。この柄杓の柄を、ただお離しなすって下さい。そのままのめって、人間の青い苔(こけ)……」
「いや、こうして、あなたと半分持った、柄杓の柄は離しません。」
「あの、そのお優しいお心でしたら、きつけの水を下さいまし……私は、貴方(あなた)を……おきれいだ、と申しましたわね、ねえ。」
「忘れました、そういう串戯(じょうだん)をきいていたくはないのです。」
「いえ、串戯ではないのですが。いま、あの、私は、あの薙刀で、このお腹(なか)を引破って、肝(きも)も臓腑も……」
 その水色に花野の帯が、蔀下(しとみした)の敷居に乱れて、お誓の背とともに、むこうに震えているのが見える。榎の梢がざわざわと鳴り、風が颯(さっ)と通った。
「――そこへ、貴方のお姿が、すっと雲からおさがりなすったように……」
「何、私なら落ちたんでしょう。」
「そして、石段の上口(あがりくち)に見えました。まるで誰も来ないのを知って、こちらへ参っているのですし、土地の巧者な、お爺さんに頼みまして、この二三日、来る人も留めてもらうように用意をしていましたんですもの! 思いもよらない、参詣の、それが貴方。格子から熟(じっ)と覗(のぞ)いていますと、この水へ、影もうつりそうな、小県さんなんですもの、貴方なんですもの。」
 その爺さんにも逢っている。銑吉は幾度(いくたび)も独りうなずいた。
「こんな、こんな処、奥州の山の上で。」
「御同様です。」
「その拝殿を、一旦(いったん)むこうの隅へ急いで遁(に)げました。正面に奥の院へ通います階段と石段と。……間は、樹も草も蓬々(ぼうぼう)と茂っています。その階段の下へかくれて、またよく見ました。寸分お違いなさらない、東京の小県さん――おきれいなのがなおあやしい、怪しいどころか可恐(こわ)いんです。――ばけものが来た、ばけて来た、畜生、また、来た。ばけものだ!……と思ったんです。」
「…………」
「その怪(ばけ)ものに、口惜(くやし)い、口惜い、口惜い目に逢わされているんですから。……
 ――畜生――
 と声も出ないで。」
「ははあ、たちまち一打(ひとうち)……薙刀ですな。」
「明神様のお持料(もちりょう)です。それでも持ったのが私です、討てる、切れるとは思いませんが――畜生――叩倒(たたきたお)してやろうと思って、」
「切られる分には、まだ、不具(かたわ)です。薙倒されては真二(まっぷた)つです、危い、危い。」
 と、いまは笑った。
「堪忍して下さいな、貴方をばけものだと思った私は、浅間(あさま)しい獣(けだもの)です、畜生です、犬です、犬に噛(か)まれたとお思いになって。」
「馬鹿なことを……飛んでもない、犬に咬(か)まれるくらいなら、私はお誓さんの薙刀に掛けられますよ。かすり疵(きず)も負わないから、太腹(ふとっぱら)らしく太平楽をいうのではないんだが、怒りも怨みもしやしません。気やすく、落着いてお話しなさい。あなたは少しどうかしている、気を沈めて。……これは、ばけものの手触りかも知れませんよ。」
 そこで、背(せな)に手を置くのに、みだれ髪が、氷のように冷たく触った。
「どうぞ、あの薙刀の飛ばないように。」
 その黒髪は、漆の刃(やいば)のようにヒヤリとする。
 水へ辷(すべ)った柄杓が、カンと響いた。

       四

「……小県さん、女が、女の不束(ふつつか)で、絶家を起す、家を立てたい――」
「絶家を起す、家を起(た)てたい……」
「ええ、その考えは、間違っていますでしょうか。」
「何が、間違いです。誰が間違いだと云いました。とんでもない、天晴(あっぱ)れじゃありませんか。」
「私の父は、この土地のものなんです。」
「ああ、成程。」
「――この藩のちょっとした藩士だったそうなんですが、道楽ものだったと思います。御維新の騒ぎに刀さしをやめたのは可(い)いんですけれど、そういう人ですから、堅気(かたぎ)の商売が出来ないで、まだ――街道が賑(にぎや)かだったそうですから、片原の町はずれへ、茶屋旅籠(はたご)の店を出したと申しますの。
 ……貴方、こちらへいらっしゃりがけに――その、あの、牡丹(ぼたん)、牡丹ですが。」
 なぜか、引くいきに、声がかすれて、
「あの咲いております処は、今は田畝(たんぼ)のようになりましたけれど、もと、はなれの庭だったそうですの……そして――
 牡丹は、父の手しおにかけましたものですって。……あとでは、料理ばかりにして、牡丹亭といったそうです。父がなくなりますと……それが人手から人手へ渡って、あとでは立ちぐされも同様。でも、それも、不景気で、こぼし屋の引取手もなしに、暴風雨(あらし)で潰(つぶ)れたのが、家の骸骨(がいこつ)のように路端(みちばた)に倒れていますわ。
 母はその牡丹亭ごろの、おかみさん。……そんな事は申しませんでもいいんですけど、父とは、大層若くて年が違いました。
 ――町あたりの芸者だそうです。ですが、武家の娘だったせいですか――まだ、私がお腹に。……」
 ふと耳許(みみもと)をほんのりと薄く染めた。
「お腹のうち、本所に居る東京の遠縁のものにたよって出まして、のちに、浅草で、また芸者をしたんですけれど、なくなります時、いまわの際まで、血統(ちすじ)が絶える、田沢の家を、田沢の家をと、せめて後を絶(たや)さないように遺言をしたんです。
 私はその時分、新橋でお酌に出ておりました。十四や十五の考えで、この上一本になって、人の世話になるにした処で、一人で商売をした処で、家を立てるのぞみがありそうに思われません。だもんですから、都合をつけて道をかえまして、梅水へ奉公をしましたのです。自分の口からお恥かしい、余りあからさまのようですが、つむりのものより、なりかたちより、少しでもお金を貯めて、小さな店でも出せますように、その上で、堅気の養子になる人を、縁があったらと、思詰め、念じ切っておりました。
 こんなものでも、一つ家(うち)に、十年の余も辛抱をしますうちには、お一人やお二方、相談をして下さる方のないこともなかったんですけど、田沢の家の養子とでは、まるでかけ離れました縁ですもの。冷たい顔して、きっぱりと、お断り申しました。それが、心得違いだったんです、間違っていたんです。ねえ。」
「間違いではありません。お誓さん、しかし、ただ、道も一条(ひとすじ)の上だとしたら、家を起す――血統を絶やさない、真に立派な覚悟だけれど、……本当は女一人だとすると、どうしていいか、それは、学者でも、教育家でも、たとえばお寺の坊さんでも、実地に当ると、八衢(やちまた)に前途(ゆくて)が岐(わか)れて、道しるべをする事はむずかしい……世の中になったんですね。」
「まったくですわ。でも、それも、まだ月日は長し……昨日(きのう)や今日の事とは思わなかったんですのに――昨年、店の都合で裾野の方へ一夏まいりまして、朝夕、あの、富士山の景色を見ますにつけ……ついのんびりと、一人で旅がしてみたくなったんです。一体出不精な処へ、お蔭様、店も忙しゅうございますし、本所の伯父伯母と云った処で、ほんの母がたよりました寄親(よりおや)同様。これといって行(ゆ)きたい場所も知りませんものですから、旅をするなら、名ばかりでも、聞いただけ懐しい、片原を、と存じまして、十月小春のいい時候に、もみじもさかり、と聞きました。……
 はじめて、泊りました、その土地の町の旅宿(やど)が、まわり合せですか、因縁だか、その宿の隠居夫婦が、よく昔の事を知っていました。もの珍らしいからでしょう、宿帳の田沢だけで、もう、ちっとでも片原に縁があるだろう、といいましてね。
 そんなですから、隠居二人で、西明寺の父の墓も案内をしてくれますし。……まことに不思議な、久しく下草の中に消えていた、街道端(ばた)の牡丹が、去年から芽を出して、どうしてでしょう、今年の夏は、花を持った。町でも人が沢山見に行(ゆ)き、下の流れを飲んで酔うといえば、汲(く)んで取って、香水だと賞(ほ)めるのもある。……お嬢さん……私の事です。」
 と頬も冷たそうに、うら寂しく、
「故郷へ帰って来て、田沢家を起す、瑞祥(ずいしょう)はこれで分った、と下へも置かないで、それはほんとうに深切に世話をして、牡丹さん、牡丹さん、私の部屋が牡丹の間。餡子(あんこ)ではあんまりだ、黄色い白粉(おしろい)でもつけましょう、牡丹亭きな子です。お一ついかが……そういってどうかすると、お客にお酌をした事もあるんです。長逗留(ながとうりゅう)の退屈ばらし、それには馴(な)れた軽はずみ……」
 歎息(ためいき)も弱々と、
「もっとも煩(うるさ)いことでも言えば、その場から、つい立って、牡丹の間へ帰っていたんです。それというのが、ああも、こうもと、それから、それへ、商売のこと、家のこと。隠居夫婦と、主人夫婦、家(うち)のものばかりも四人でしょう。番頭ですの、女中ですの、入(いり)かわり相談をしてくれます。聞くだけでも楽(たのし)みで、つんだり、崩したり、切組みましたり、庭背戸まで見積って、子供の積木細工で居るうちに、日が経(た)ちます。……鳥居数をくぐり、門松を視(み)ないと、故郷とはいえない、といわれる通りの気になって、おまいりをしましたり。……逗留のうち、幾度、あの牡丹の前へ立ったでしょう。
 柱一本、根太板も、親たちの手の触ったのが残っていましょう。あの骨を拾おう。どうしよう。焚(た)こうか、埋めようか。ちょっと九尺二間を建てるにしても、場所がいまの田畝(たんぼ)ではどうにもならず。(地蔵様の祠(ほこら)を建てなさい、)隠居たちがいうんです。ああ、いいわねえ、そうしましょうか。
 思出しても身体(からだ)がふるえる、……
 今年二月の始(はじめ)でした。……東京も、そうだったって聞いたんですが、この辺でも珍らしく、雪の少い、暖かな冬でしたの。……今夜の豆撒(まめまき)が済むと、片原で年を取って、あかんぼも二つになると、隠居たちも笑っていました。その晩――暮方……
 湯上りのいい心持の処へ、ちらちら降出しました雪が嬉しくって、生意気に、……それだし、銀座辺、あの築地辺の夜ふけの辻で、つまらない悪戯(いたずら)をされました覚えもなし、またいたずらに逢ったところで、ところ久しいだけ、門(かど)なみ知っているんです。……梅水のものですよ。それで大概、挨拶(あいさつ)をして離れちまいますんですもの、道の可恐(こわ)さはちっとも知らずにいたんです。――それに牡丹亭のあとまでは、つれがありましたり、一人でも幾度も行ったり来たり、屋根のない長い廊下もおんなじに思っていましたものですから、コオトも着ないで、小県さん、浴衣に襟つき一枚何かで。――裙(すそ)へ流れる水、あの小川も、梅水に居て、座敷の奥で、水調子を聞く音がします。……牡丹はもう、枝ばかり、それも枯れていたんですが、降る雪がすっきりと、白い莟(つぼみ)に積りました。……大輪(おおりん)なのも面影に見えるようです。
 向うへ、小さなお地蔵様のお堂を建てたら、お提灯(ちょうちん)に蔦(つた)の紋、養子が出来て、その人のと、二つなら嬉しいだろう。まあ極(きま)りの悪い。……わざとお賽銭箱(さいせんばこ)を置いて、宝珠の玉……違った、それはお稲荷様(いなりさま)、と思っているうちに、こんな風に傘をさして、ちらちらと、藤の花だか、鷺だかの娘になって、踊ったこともあったっけ。――傘は、ここで、畳んだか、開いてさしたかと、うっかりしました。――傘(からかさ)を、ひどい力で、上へぐいと引いたんです。天にも地にも、小県さん、観音様と、明神様のほかには、女の身体(からだ)で、口へ出して……」
 キリキリと歯を噛(か)んで、つと瞼(まぶた)の色が褪(あ)せた。
「癪(しゃく)か。しっかりなさい、お誓さん。」
 さそくに掬(すく)った柄杓(ひしゃく)の水を、削るがごとく口に含んで、
「人間がましい、癪なんぞは、通越しているんです。ああ、この水が、そのまんま、青い煙になって焼いちまってくれればいいのに。」
 しばらく、声も途絶えたのである。
「口惜(くや)しいわ、私、小県さん、足が上へ浮く処を、うしろから、もこん、と抱込んだものを、見ました時。」
 わなわなと震えたから、小県も肩にかけていた手を離した。倒れそうに腰をつくと、褄(つま)を投げて、片手を苔(こけ)に辷(すべ)らした。
「灰汁(あく)のような毛が一面にかぶさった。枯木のような脊の高い、蒼い顔した※々(ひひ)[#「けものへん+非」、88-17]、あの、絵の※[#「けものへん+非」、88-18]々、それの鼻、がまた高くて巨(おおき)いのが、黒雲のようにかぶさると思いましたばかり……何にも分らなくなりました。
 あとで――息の返りましたのは、一軒家で飴(あめ)を売ります、お媼(ばあ)さんと、お爺さんの炉端でした。裏背戸口へ、どさりと音がしたきりだった、という事です。
 どんな形で、投(ほう)り出されていたんでしょう。」
 褄を引合わせ、身をしめて、
「……のちに、大沼で、とれたといって、旅宿(やど)の台所に、白い雁(がん)が仰向(あおむ)けに、俎(まないた)の上に乗ったのを、ふと見まして、もう一度ゾッとすると、ひきつけて倒れました事さえあるんです。
 ――その晩は、お爺さんの内から、ほんの四五町の処を、俥(くるま)にのって帰ったのです。急に、ひどい悪寒がするといって、引被(ひっかぶ)って寝ましたきり、枕も顔もあげられますもんですか。悪寒どころですか、身体(からだ)はやけますようですのに、冷い汗を絞るんです。その汗が脇の下も、乳の処も、……ずくずく……悪臭い、鱶(ふか)だか、鮫(さめ)だかの、六月いきれに、すえたような臭(にお)いでしょう。むしりたい、切って取りたい、削りたい、身体中がむかむかして、しっきりなしに吐くんです。
 無理やりに服(の)まされました、何の薬のせいですか、有る命は死にません。――活きているかいはなし……ただ西明寺の観音様へお縋(すが)りにまいります。それだって、途中、牡丹のあるところを視(み)ます時の心もちは、ただお察しにまかせます。……何の罪咎(つみとが)があるんでしょう、と思うのは、身勝手な、我身ばかりで、神様や仏様の目で、ごらんになったら。」
「お誓さん、……」
 声を沈めて遮った。
「神、仏の目には、何の咎、何の罪もない。あなたのような人間を、かえって悪魔は狙うのですよ。幾年目かに朽ちた牡丹の花が咲いた……それは嘘ではありますまい。人は見て奇瑞(きずい)とするが、魔が咲かせたかも知れないんです。反対に、お誓さんが故郷へ帰った、その瑞兆(ずいちょう)が顕(あら)われたとして、しかも家の骨に地蔵尊を祭る奇特がある。功徳、恭養、善行、美事、その只中(ただなか)を狙うのが、悪魔の役です。どっちにしろ可恐(おそろ)しい、早くそこを通抜けよう。さ、あなたも目をつむって、観音様の前へおいでなさい。」
「――ある時、和尚さんが、お寺へ紅白の切(きれ)を、何ほどか寄進をして欲しいものじゃ、とおっしゃるんです。寺の用でない、諸人(しょにん)の施行(せぎょう)のためじゃけれど、この通りの貧乏寺。……ええ、私の方から、おやくに立ちますならお願い申したいほどですわ。三反持って参りますと、六尺ずつに切りたいが、鋏(はさみ)というものもなし……庖丁ではどうであろう。まあ、手で裂いても間に合いますわ。和尚さんに手伝って三方の上へ重ねました時、つい、それまでは不信心な、何にも知らずにおりました。子育ての慈愛をなさいます、五月帯(いわたおび)のわけを聞きまして、時も時、折も折ですし、……観音様。」
 お誓が、髪を長く、すっと立って、麓(ふもと)に白い手を合わせた。
「つい女気で、紅(あか)い切を上へ積んだものですから、真上のを、内証(ないしょ)で、そっと、頂いたんです。」
「それは、めでたい。――結構ではないか、お誓さん。」
 お誓は榎の根に、今度は吻(ほっ)として憩った、それと差(さし)むかいに、小県は、より低い処に腰を置いて、片足を前に、くつろぐ状(さま)して、
「節分の夜の事だ。対手(あいて)を鬼と思いたまえ。が、それも出放題過ぎるなら、怪我……病気だと思ったらどうです。怪我や病気は誰もする。……その怪我にも、病気にも障りがなくって、赤ちゃんが、御免なさいよ、ま、出来たとする。昔から偉人には奇蹟が携わる、日を見て、月を見て、星を見て、いや、ちと大道うらないに似て来たかね。」
 袖を開いて扇を使った。柳の影が映りそうで、道得(いいえ)て、いささか可(よし)と思ったらしい。
「鶴を視(み)て懐姙した験(げん)はいくらもある。いわゆる、もうし子だとお思いなさい。その上、面倒な口を利く父親なしに、お誓さん一人で育てたら、それが生一本の田沢家の血統じゃありませんか。そうだ、悪魔などと言ったのは、私のあやまり、豊年の何とかいう雪が降って、節分には、よく降るんです。正に春立(りっしゅん)ならんとする時、牡丹に雪の瑞(ずい)といい、地蔵菩薩の祥(しょう)といい、あなたは授(さずか)りものをしたんじゃないか、確(たしか)にそうだ、――お誓さん。」
 お誓は淡(うす)くまた瞼(まぶた)を染めた。
「そんな、あの、大それた、高望みはしませんけれど、女の子かも知れないと思いました。五日、七日(なぬか)、二夜(ふたよ)、三夜、観音様の前に静(じっ)としていますうちに、そういえば、今時、天狗(てんぐ)も※々(ひひ)[#「けものへん+非」、91-16]も居まいし、第一獣(けもの)の臭気(におい)がしません。
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