茸の舞姫
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著者名:泉鏡花 

       一

「杢(もく)さん、これ、何(なあに)?……」
 と小児(こども)が訊(き)くと、真赤(まっか)な鼻の頭(さき)を撫(な)でて、
「綺麗な衣服(べべ)だよう。」
 これはまた余りに情(なさけ)ない。町内の杢若(もくわか)どのは、古筵(ふるむしろ)の両端へ、笹(ささ)の葉ぐるみ青竹を立てて、縄を渡したのに、幾つも蜘蛛(くも)の巣を引搦(ひっから)ませて、商売(あきない)をはじめた。まじまじと控えた、が、そうした鼻の頭(さき)の赤いのだからこそ可(よ)けれ、嘴(くちばし)の黒い烏だと、そのままの流灌頂(ながれかんちょう)。で、お宗旨違(ちがい)の神社の境内、額の古びた木の鳥居の傍(かたわら)に、裕福な仕舞家(しもたや)の土蔵の羽目板を背後(うしろ)にして、秋の祭礼(まつり)に、日南(ひなた)に店を出している。
 売るのであろう、商人(あきんど)と一所に、のほんと構えて、晴れた空の、薄い雲を見ているのだから。
 飴(あめ)は、今でも埋火(うずみび)に鍋(なべ)を掛けて暖めながら、飴ん棒と云う麻殻(あさがら)の軸に巻いて売る、賑(にぎや)かな祭礼でも、寂(さ)びたもので、お市、豆捻(まめねじ)、薄荷糖(はっかとう)なぞは、お婆さんが白髪(しらが)に手抜(てぬぐい)を巻いて商う。何でも買いなの小父さんは、紺の筒袖を突張(つっぱ)らかして懐手の黙然(もくねん)たるのみ。景気の好(い)いのは、蜜垂(みつたらし)じゃ蜜垂じゃと、菖蒲団子(あやめだんご)の附焼を、はたはたと煽(あお)いで呼ばるる。……毎年顔も店も馴染(なじみ)の連中、場末から出る際商人(きわあきんど)。丹波鬼灯(たんばほおずき)、海酸漿(うみほおずき)は手水鉢(ちょうずばち)の傍(わき)、大きな百日紅(さるすべり)の樹の下に風船屋などと、よき所に陣を敷いたが、鳥居外のは、気まぐれに山から出て来た、もの売で。――
 売るのは果もの類。桃は遅い。小さな梨、粒林檎(つぶりんご)、栗(くり)は生のまま……うでたのは、甘藷(さつまいも)とともに店が違う。……奥州辺とは事かわって、加越(かえつ)のあの辺に朱実(あけび)はほとんどない。ここに林のごとく売るものは、黒く紫な山葡萄(やまぶどう)、黄と青の山茱萸(やまぐみ)を、蔓(つる)のまま、枝のまま、その甘渋くて、且つ酸(すっぱ)き事、狸が咽(む)せて、兎が酔いそうな珍味である。
 このおなじ店が、筵(むしろ)三枚、三軒ぶり。笠(かさ)被(き)た女が二人並んで、片端に頬被(ほおかぶ)りした馬士(まご)のような親仁(おやじ)が一人。で、一方の端(はじ)の所に、件(くだん)の杢若が、縄に蜘蛛の巣を懸けて罷出(まかりいで)た。
「これ、何さあ。」
「美しい衣服(べべ)じゃが買わんかね。」と鼻をひこつかす。
 幾歳(いくつ)になる……杢の年紀(とし)が分らない。小児(こども)の時から大人のようで、大人になっても小児に斉(ひと)しい。彼は、元来、この町に、立派な玄関を磨いた医師(いしゃ)のうちの、書生兼小使、と云うが、それほどの用には立つまい、ただ大食いの食客(いそうろう)。
 世間体にも、容体にも、痩(や)せても袴(はかま)とある処(ところ)を、毎々薄汚れた縞(しま)の前垂(まえだれ)を〆(し)めていたのは食溢(くいこぼ)しが激しいからで――この頃は人も死に、邸(やしき)も他(よそ)のものになった。その医師(いしゃ)というのは、町内の小児(こども)の記憶に、もう可なりの年輩だったが、色の白い、指の細く美しい人で、ひどく権高な、その癖婦(おんな)のように、口を利くのが優しかった。……細君は、赭(あか)ら顔、横ぶとりの肩の広い大円髷(おおまるまげ)。眦(めじり)が下って、脂(あぶら)ぎった頬(ほお)へ、こう……いつでもばらばらとおくれ毛を下げていた。下婢(おさん)から成上ったとも言うし、妾(めかけ)を直したのだとも云う。実(まこと)の御新造(ごしんぞ)は、人づきあいはもとよりの事、門(かど)、背戸へ姿を見せず、座敷牢とまでもないが、奥まった処に籠切(こもりき)りの、長年の狂女であった。――で、赤鼻は、章魚(たこ)とも河童(かっぱ)ともつかぬ御難なのだから、待遇(あつかい)も態度(なりふり)も、河原の砂から拾って来たような体(てい)であったが、実は前妻のその狂女がもうけた、実子で、しかも長男で、この生れたて変なのが、やや育ってからも変なため、それを気にして気が狂った、御新造は、以前、国家老の娘とか、それは美しい人であったと言う……
 ある秋の半ば、夕(ゆうべ)より、大雷雨のあとが暴風雨(あらし)になった、夜の四つ時十時過ぎと思う頃、凄(すさま)じい電光の中を、蜩(ひぐらし)が鳴くような、うらさみしい、冴(さ)えた、透(とお)る、女の声で、キイキイと笑うのが、あたかも樹の上、雲の中を伝うように大空に高く響いて、この町を二三度、四五たび、風に吹廻されて往来(ゆきき)した事がある……通魔(とおりま)がすると恐れて、老若、呼吸(いき)をひそめたが、あとで聞くと、その晩、斎木(医師の姓)の御新造が家(うち)を抜出し、町内を彷徨(さまよ)って、疲れ果てた身体(からだ)を、社(やしろ)の鳥居の柱に、黒髪を颯(さっ)と乱した衣(きぬ)は鱗(うろこ)の、膚(はだえ)の雪の、電光(いなびかり)に真蒼(まっさお)なのが、滝をなす雨に打たれつつ、怪しき魚(うお)のように身震(みぶるい)して跳ねたのを、追手(おって)が見つけて、医師(いしゃ)のその家へかつぎ込んだ。間もなく枢(ひつぎ)という四方張(ばり)の俎(まないた)に載(の)せて焼かれてしまった。斎木の御新造は、人魚になった、あの暴風雨(あらし)は、北海の浜から、潮(うしお)が迎いに来たのだと言った――
 その翌月、急病で斎木国手が亡くなった。あとは散々(ちりぢり)である。代診を養子に取立ててあったのが、成上りのその肥満女(ふとっちょ)と、家蔵(いえくら)を売って行方知れず、……下男下女、薬局の輩(ともがら)まで。勝手に掴(つか)み取りの、梟(ふくろう)に枯葉で散り散りばらばら。……薬臭い寂しい邸は、冬の日売家の札が貼(は)られた。寂(しん)とした暮方、……空地の水溜(みずたまり)を町の用心水(ようじんみず)にしてある掃溜(はきだめ)の芥棄場(ごみすてば)に、枯れた柳の夕霜に、赤い鼻を、薄ぼんやりと、提灯(ちょうちん)のごとくぶら下げて立っていたのは、屋根から落ちたか、杢若(もくわか)どの。……親は子に、杢介とも杢蔵とも名づけはしない。待て、御典医であった、彼のお祖父(じい)さんが選んだので、本名は杢之丞(もくのじょう)だそうである。
 ――時に、木の鳥居へ引返そう。

       二

 ここに、杢若がその怪しげなる蜘蛛(くも)の巣を拡げている、この鳥居の向うの隅、以前医師(いしゃ)の邸の裏門のあった処に、むかし番太郎と言って、町内の走り使人(つかい)、斎(とき)、非時の振廻(ふれまわ)り、香奠(こうでん)がえしの配歩行(くばりある)き、秋の夜番、冬は雪掻(かき)の手伝いなどした親仁(おやじ)が住んだ……半ば立腐りの長屋建て、掘立小屋(ほったてごや)という体(てい)なのが一棟(ひとむね)ある。
 町中が、杢若をそこへ入れて、役に立つ立たないは話の外で、寄合持で、ざっと扶持(ふち)をしておくのであった。
「杢さん、どこから仕入れて来たよ。」
「縁の下か、廂合(ひあわい)かな。」
 その蜘蛛の巣を見て、通掛(とおりかか)りのものが、苦笑いしながら、声を懸けると、……
「違います。」
 と鼻ぐるみ頭を掉(ふ)って、
「さとからじゃ、ははん。」と、ぽんと鼻を鳴らすような咳払(せきばらい)をする。此奴(こいつ)が取澄ましていかにも高慢で、且つ翁寂(おきなさ)びる。争われぬのは、お祖父さんの御典医から、父典養に相伝して、脈を取って、ト小指を刎(は)ねた時の容体と少しも変らぬ。
 杢若が、さとと云うのは、山、村里のその里の意味でない。註をすれば里よりは山の義で、字に顕(あらわ)せば故郷(ふるさと)になる……実家(さと)になる。
 八九年前(ぜん)晩春の頃、同じこの境内で、小児(こども)が集(あつま)って凧(たこ)を揚げて遊んでいた――杢若は顱(はち)の大きい坊主頭で、誰よりも群を抜いて、のほんと脊が高いのに、その揚げる凧は糸を惜(おし)んで、一番低く、山の上、松の空、桐の梢(こずえ)とある中に、わずかに百日紅(さるすべり)の枝とすれすれな所を舞った。
大風来い、大風来い。
   小風は、可厭(いや)、可厭……
 幼い同士が威勢よく唄う中に、杢若はただ一人、寒そうな懐手、糸巻を懐中(ふところ)に差込んだまま、この唄にはむずむずと襟を摺(す)って、頭(かぶり)を掉(ふ)って、そして面(つら)打って舞う己(おの)が凧に、合点合点をして見せていた。
 ……にもかかわらず、烏が騒ぐ逢魔(おうま)が時、颯(さっ)と下した風も無いのに、杢若のその低い凧が、懐の糸巻をくるりと空に巻くと、キリキリと糸を張って、一ツ星に颯と外(そ)れた。
「魔が来たよう。」
「天狗(てんぐ)が取ったあ。」
 ワッと怯(おび)えて、小児(こども)たちの逃散る中を、団栗(どんぐり)の転がるように杢若は黒くなって、凧の影をどこまでも追掛(おっか)けた、その時から、行方知れず。
 五日目のおなじ晩方に、骨ばかりの凧を提げて、やっぱり鳥居際にぼんやりと立っていた。天狗に攫(さら)われたという事である。
 それから時々、三日、五日、多い時は半月ぐらい、月に一度、あるいは三月に二度ほどずつ、人間界に居なくなるのが例年で、いつか、そのあわれな母のそうした時も、杢若は町には居なかったのであった。
「どこへ行ってござったの。」
 町の老人が問うのに答えて、
「実家(さと)へだよう。」
 と、それ言うのである。この町からは、間に大川を一つ隔てた、山から山へ、峰続きを分入るに相違ない、魔の棲(す)むのはそこだと言うから。
「お実家(さと)はどこじゃ。どういう人が居さっしゃる。」
「実家の事かねえ、ははん。」
 スポンと栓を抜く、件(くだん)の咳(せきばらい)を一つすると、これと同時に、鼻が尖(とが)り、眉が引釣(ひッつ)り、額の皺(しわ)が縊(くび)れるかと凹(へこ)むや、眼(まなこ)が光る。……歯が鳴り、舌が滑(なめらか)に赤くなって、滔々(とうとう)として弁舌鋭く、不思議に魔界の消息を洩(もら)す――これを聞いたものは、親たちも、祖父祖母(おおじおおば)も、その児(こ)、孫などには、決して話さなかった。
 幼いものが、生意気に直接(じか)に打撞(ぶつか)る事がある。
「杢やい、実家(さと)はどこだ。」
「実家の事かい、ははん。」
 や、もうその咳(せきばらい)で、小父さんのお医師(いしゃ)さんの、膚触(はだざわ)りの柔かい、冷(ひや)りとした手で、脈所をぎゅうと握られたほど、悚然(ぞっ)とするのに、たちまち鼻が尖(とが)り、眉が逆立ち、額の皺(しわ)が、ぴりぴりと蠢(うごめ)いて眼が血走る。……
 聞くどころか、これに怯(おび)えて、ワッと遁(に)げる。
「実家はな。」
 と背後(うしろ)から、蔽(おお)われかかって、小児(こども)の目には小山のごとく追って来る。
「御免なさい。」
「きゃっ!」
 その時に限っては、杢若の耳が且つ動くと言う――嘘を吐(つ)け。

       三

 海、また湖へ、信心の投網(とあみ)を颯(さっ)と打って、水に光るもの、輝くものの、仏像、名剣を得たと言っても、売れない前(さき)には、その日一日の日当がどうなった、米は両につき三升、というのだから、かくのごとき杢若が番太郎小屋にただぼうとして活(い)きているだけでは、世の中が納まらぬ。
 入費は、町中持合いとした処で、半ば白痴(はくち)で――たといそれが、実家(さと)と言う時、魔の魂が入替るとは言え――半ば狂人(きちがい)であるものを、肝心火の元の用心は何とする。……炭団(たどん)、埋火(うずみび)、榾(ほだ)、柴(しば)を焚(た)いて煙は揚げずとも、大切な事である。
 方便な事には、杢若は切凧(きれだこ)の一件で、山に実家(さと)を持って以来、いまだかつて火食をしない。多くは果物を餌(えさ)とする。松葉を噛(か)めば、椎(しい)なんぞ葉までも頬張る。瓜(うり)の皮、西瓜(すいか)の種も差支えぬ。桃、栗、柿、大得意で、烏や鳶(とび)は、むしゃむしゃと裂いて鱠(なます)だし、蝸牛虫(まいまいつぶろ)やなめくじは刺身に扱う。春は若草、薺(なずな)、茅花(つばな)、つくつくしのお精進……蕪(かぶ)を噛(かじ)る。牛蒡(ごぼう)、人参は縦に啣(くわ)える。
 この、秋はまたいつも、食通大得意、というものは、木の実時なり、実り頃、実家の土産の雉(きじ)、山鳥、小雀(こがら)、山雀(やまがら)、四十雀(しじゅうから)、色どりの色羽を、ばらばらと辻に撒(ま)き、廂(ひさし)に散らす。ただ、魚類に至っては、金魚も目高も決して食わぬ。
 最も得意なのは、も一つ茸(きのこ)で、名も知らぬ、可恐(おそろ)しい、故郷(ふるさと)の峰谷の、蓬々(おどろおどろ)しい名の無い菌(くさびら)も、皮づつみの餡(あん)ころ餅ぼたぼたと覆(こぼ)すがごとく、袂(たもと)に襟に溢(あふ)れさして、山野の珍味に厭(あ)かせたまえる殿様が、これにばかりは、露のようなよだれを垂(たら)し、
「牛肉のひれや、人間の娘より、柔々(やわやわ)として膏(あぶら)が滴る……甘味(うまい)ぞのッ。」
 は凄(すさま)じい。
 が、かく菌(きのこ)を嗜(たしな)むせいだろうと人は言った、まだ杢若に不思議なのは、日南(ひなた)では、影形が薄ぼやけて、陰では、汚れたどろどろの衣(きもの)の縞目(しまめ)も判明(はっきり)する。……委(くわ)しく言えば、昼は影法師に肖(に)ていて、夜は明(あきら)かなのであった。
 さて、店を並べた、山茱萸(やまぐみ)、山葡萄(やまぶどう)のごときは、この老鋪(しにせ)には余り資本が掛(かか)らな過ぎて、恐らくお銭(あし)になるまいと考えたらしい。で、精一杯に売るものは。
「何だい、こりゃ!」
「美しい衣服(べべ)じゃがい。」
 氏子は呆(あき)れもしない顔して、これは買いもせず、貰いもしないで、隣の木の実に小遣(こづかい)を出して、枝を蔓(つる)を提げるのを、じろじろと流眄(ながしめ)して、世に伯楽なし矣(い)、とソレ青天井を向いて、えへらえへらと嘲笑(あざわら)う……
 その笑(わらい)が、日南(ひなた)に居て、蜘蛛の巣の影になるから、鳥が嘴(くちばし)を開けたか、猫が欠伸(あくび)をしたように、人間離れをして、笑の意味をなさないで、ぱくりとなる……
 というもので、筵(むしろ)を並べて、笠を被(かぶ)って坐った、山茱萸、山葡萄の婦(おんな)どもが、件(くだん)のぼやけさ加減に何となく誘われて、この姿も、またどうやら太陽(ひ)の色に朧々(おぼろおぼろ)として見える。
 蒼(あお)い空、薄雲よ。
 人の形が、そうした霧の裡(なか)に薄いと、可怪(あやし)や、掠(かす)れて、明(あから)さまには見えない筈(はず)の、扱(しご)いて搦(から)めた縺(もつ)れ糸の、蜘蛛の囲(い)の幻影(まぼろし)が、幻影が。
 真綿をスイと繰ったほどに判然と見えるのに、薄紅(うすべに)の蝶、浅葱(あさぎ)の蝶、青白い蝶、黄色な蝶、金糸銀糸や消え際の草葉螟蛉(くさばかげろう)、金亀虫(こがねむし)、蠅の、蒼蠅、赤蠅。
 羽ばかり秋の蝉、蜩(ひぐらし)の身の経帷子(きょうかたびら)、いろいろの虫の死骸(しがい)ながら巣を引□(ひんむし)って来たらしい。それ等が艶々(つやつや)と色に出る。
 あれ見よ、その蜘蛛の囲に、ちらちらと水銀の散った玉のような露がきらめく……
 この空の晴れたのに。――

       四

 これには仔細(しさい)がある。
 神の氏子のこの数々の町に、やがて、あやかしのあろうとてか――その年、秋のこの祭礼(まつり)に限って、見馴(みな)れない、商人(あきゅうど)が、妙な、異(かわ)ったものを売った。
 宮の入口に、新しい石の鳥居の前に立った、白い幟(のぼり)の下に店を出して、そこに鬻(ひさ)ぐは何等のものぞ。
 河豚(ふぐ)の皮の水鉄砲。
 蘆(あし)の軸に、黒斑(くろぶち)の皮を小袋に巻いたのを、握って離すと、スポイト仕掛けで、衝(つッ)と水が迸(ほとばし)る。
 鰒(ふぐ)は多し、また壮(さかん)に膳(ぜん)に上す国で、魚市は言うにも及ばず、市内到る処の魚屋の店に、春となると、この怪(あやし)い魚(うお)を鬻(ひさ)がない処はない。
 が、おかしな売方、一頭々々(ひとつひとつ)を、あの鰭(ひれ)の黄ばんだ、黒斑なのを、ずぼんと裏返しに、どろりと脂ぎって、ぬらぬらと白い腹を仰向(あおむ)けて並べて置く。
 もしただ二つ並ぼうものなら、切落して生々しい女の乳房だ。……しかも真中(まんなか)に、ズキリと庖丁目を入れた処が、パクリと赤黒い口を開(あ)いて、西施(せいし)の腹の裂目を曝(さら)す……
 中から、ずるずると引出した、長々とある百腸(ひゃくひろ)を、巻かして、束(つか)ねて、ぬるぬると重ねて、白腸(しろわた)、黄腸(きわた)と称(とな)えて売る。……あまつさえ、目の赤い親仁(おやじ)や、襤褸半纏(ぼろばんてん)の漢等(おのこら)、俗に――云う腸(わた)拾いが、出刃庖丁を斜に構えて、この腸(はらわた)を切売する。
 待て、我が食通のごときは、これに較ぶれば処女の膳であろう。
 要するに、市、町の人は、挙(こぞ)って、手足のない、女の白い胴中(どうなか)を筒切(つつぎり)にして食うらしい。
 その皮の水鉄砲。小児(こども)は争って買競(かいきそ)って、手の腥(なまぐさ)いのを厭(いと)いなく、参詣(さんけい)群集の隙(すき)を見ては、シュッ。
「打上げ!」
「流星!」
 と花火に擬(まね)て、縦横(たてよこ)や十文字。
 いや、隙どころか、件(くだん)の杢若をば侮(あなど)って、その蜘蛛の巣の店を打った。
 白玉の露はこれである。
 その露の鏤(ちりば)むばかり、蜘蛛の囲に色籠(こ)めて、いで膚寒(はださむ)き夕(ゆうべ)となんぬ。山から颪(おろ)す風一陣。
 はや篝火(かがりび)の夜にこそ。

       五

 笛も、太鼓も音(ね)を絶えて、ただ御手洗(みたらし)の水の音。寂(しん)としてその夜(よ)更け行く。この宮の境内に、階(きざはし)の方(かた)から、カタンカタン、三ツ四ツ七ツ足駄の歯の高響(たかひびき)。
 脊丈のほども惟(おも)わるる、あの百日紅(さるすべり)の樹の枝に、真黒(まっくろ)な立烏帽子(たてえぼし)、鈍色(にぶいろ)に黄を交えた練衣(ねりぎぬ)に、水色のさしぬきした神官の姿一体。社殿の雪洞(ぼんぼり)も早や影の届かぬ、暗夜(やみ)の中に顕(あらわ)れたのが、やや屈(かが)みなりに腰を捻(ひね)って、その百日紅の梢(こずえ)を覗(のぞ)いた、霧に朦朧(もうろう)と火が映って、ほんのりと薄紅(うすくれない)の射(さ)したのは、そこに焚落(たきおと)した篝火(かがりび)の残余(なごり)である。
 この明(あかり)で、白い襟、烏帽子の紐(ひも)の縹色(はないろ)なのがほのかに見える。渋紙した顔に黒痘痕(くろあばた)、塵(ちり)を飛ばしたようで、尖(とん)がった目の光、髪はげ、眉薄く、頬骨の張った、その顔容(かおかたち)を見ないでも、夜露ばかり雨のないのに、その高足駄の音で分る、本田摂理(せつり)と申す、この宮の社司で……草履か高足駄の他(ほか)は、下駄を穿(は)かないお神官(かんぬし)。
 小児(こども)が社殿に遊ぶ時、摺違(すれちが)って通っても、じろりと一睨(ひとにら)みをくれるばかり。威あって容易(たやす)く口を利かぬ。それを可恐(こわ)くは思わぬが、この社司の一子に、時丸と云うのがあって、おなじ悪戯盛(いたずらざかり)であるから、ある時、大勢が軍(いくさ)ごっこの、番に当って、一子時丸が馬になった、叱(しっ)! 騎(の)った奴(やつ)がある。……で、廻廊を這(は)った。
 大喝一声、太鼓の皮の裂けた音して、
「無礼もの!」
 社務所を虎のごとく猛然として顕(あらわ)れたのは摂理の大人(うし)で。
「動!」と喚(わめ)くと、一子時丸の襟首を、長袖のまま引掴(ひッつか)み、壇を倒(さかしま)に引落し、ずるずると広前を、石の大鉢の許(もと)に掴(つか)み去って、いきなり衣帯を剥(は)いで裸にすると、天窓(あたま)から柄杓(ひしゃく)で浴びせた。
「塩を持て、塩を持て。」
 塩どころじゃない、百日紅の樹を前にした、社務所と別な住居(すまい)から、よちよち、臀(いしき)を横に振って、肥(ふと)った色白な大円髷(おおまるまげ)が、夢中で駈(か)けて来て、一子の水垢離(みずごり)を留めようとして、身を楯(たて)に逸(はや)るのを、仰向(あおむ)けに、ドンと蹴倒(けたお)いて、
「汚(けが)れものが、退(しさ)りおれ。――塩を持て、塩を持てい。」
 いや、小児(こども)等は一すくみ。
 あの顔一目で縮み上る……
 が、大人(うし)に道徳というはそぐわぬ。博学深識の従(じゅ)七位、花咲く霧に烏帽子は、大宮人の風情がある。
「火を、ようしめせよ、燠(おき)が散るぞよ。」
 と烏帽子を下向けに、その住居(すまい)へ声を懸けて、樹の下を出しなの時、
「雨はどうじゃ……ちと曇ったぞ。」と、密(そ)と、袖を捲(ま)きながら、紅白の旗のひらひらする、小松大松のあたりを見た。
「あの、大旗が濡れてはならぬが、降りもせまいかな。」
 と半ば呟(つぶや)き呟き、颯(さっ)と巻袖の笏(しゃく)を上げつつ、とこう、石の鳥居の彼方(かなた)なる、高き帆柱のごとき旗棹(はたざお)の空を仰ぎながら、カタリカタリと足駄を踏んで、斜めに木の鳥居に近づくと、や! 鼻の提灯(ちょうちん)、真赤(まっか)な猿の面(つら)、飴屋(あめや)一軒、犬も居(お)らぬに、杢若が明(あきら)かに店を張って、暗がりに、のほんとしている。
 馬鹿が拍手(かしわで)を拍(う)った。
「御前様(ごぜんさま)。」
「杢か。」
「ひひひひひ。」
「何をしておる。」
「少しも売れませんわい。」
「馬鹿が。」
 と夜陰に、一つ洞穴(ほら)を抜けるような乾(から)びた声の大音で、
「何を売るや。」
「美しい衣服(べべ)だがのう。」
「何?」
 暗(やみ)を見透かすようにすると、ものの静かさ、松の香が芬(ぷん)とする。

       六

 鼠色の石持(こくもち)、黒い袴(はかま)を穿(は)いた宮奴(みやっこ)が、百日紅(さるすべり)の下に影のごとく踞(うずく)まって、びしゃッびしゃッと、手桶(ておけ)を片手に、箒(ほうき)で水を打つのが見える、と……そこへ――
 あれあれ何じゃ、ばばばばばば、と赤く、かなで書いた字が宙に出て、白い四角な燈(あかり)が通る、三箇の人影、六本の草鞋(わらじ)の脚。
 燈(ともしび)一つに附着合(くッつきあ)って、スッと鳥居を潜(くぐ)って来たのは、三人斉(ひと)しく山伏なり。白衣(びゃくえ)に白布の顱巻(はちまき)したが、面(おもて)こそは異形(いぎょう)なれ。丹塗(にぬり)の天狗に、緑青色(ろくしょういろ)の般若(はんにゃ)と、面(つら)白く鼻の黄なる狐である。魔とも、妖怪変化とも、もしこれが通魔(とおりま)なら、あの火をしめす宮奴が気絶をしないで堪(こら)えるものか。で、般若は一挺(ちょう)の斧(おの)を提げ、天狗は注連(しめ)結いたる半弓に矢を取添え、狐は腰に一口(ひとふり)の太刀を佩(は)く。
 中に荒縄の太いので、笈摺(おいずり)めかいて、灯(とも)した角行燈(かくあんどん)を荷(にな)ったのは天狗である。が、これは、勇しき男の獅子舞、媚(なまめ)かしき女の祇園囃子(ぎおんばやし)などに斉しく、特に夜(よ)に入(い)って練歩行(ねりある)く、祭の催物の一つで、意味は分らぬ、(やしこばば)と称(とな)うる若連中のすさみである。それ、腰にさげ、帯にさした、法螺(ほら)の貝と横笛に拍子を合せて、
やしこばば、うばば、
うば、うば、うばば。
火を一つ貸せや。
火はまだ打たぬ。
あれ、あの山に、火が一つ見えるぞ。
やしこばば、うばば。
うば、うば、うばば。
 ……と唄う、ただそれだけを繰返しながら、矢をはぎ、斧を舞わし、太刀をかざして、頤(あご)から頭なりに、首を一つぐるりと振って、交(かわ)る交(がわ)るに緩く舞う。舞果てると鼻の尖(さき)に指を立てて臨兵闘者云々(りんぺいとうしゃうんぬん)と九字を切る。一体、悪魔を払う趣意だと云うが、どうやら夜陰のこの業体(ぎょうてい)は、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の類を、呼出し招き寄せるに髣髴(ほうふつ)として、実は、希有(けぶ)に、怪しく不気味なものである。
 しかもちと来ようが遅い。渠等(かれら)は社(やしろ)の抜裏の、くらがり坂とて、穴のような中を抜けてふとここへ顕(あらわ)れたが、坂下に大川一つ、橋を向うへ越すと、山を屏風(びょうぶ)に繞(めぐ)らした、翠帳紅閨(すいちょうこうけい)の衢(ちまた)がある。おなじ時に祭だから、宵から、その軒、格子先を練廻(ねりまわ)って、ここに時おくれたのであろう。が、あれ、どこともなく瀬の音して、雨雲の一際黒く、大(おおい)なる蜘蛛の浸(にじ)んだような、峰の天狗松の常燈明の一つ灯(び)が、地獄の一つ星のごとく見ゆるにつけても、どうやら三体の通魔めく。
 渠等は、すっと来て通り際(しな)に、従七位の神官の姿を見て、黙って、言い合せたように、音の無い草鞋を留(と)めた。
 この行燈で、巣に搦(から)んだいろいろの虫は、空蝉(うつせみ)のその羅(うすもの)の柳条目(しまめ)に見えた。灯に蛾(ひとりむし)よりも鮮明(あざやか)である。
 但し異形な山伏の、天狗、般若、狐も見えた。が、一際(ひときわ)色は、杢若の鼻の頭(さき)で、
「えら美しい衣服(べべ)じゃろがな。」
 と蠢(うごめ)かいて言った処は、青竹二本に渡したにつけても、魔道における七夕(たなばた)の貸小袖という趣である。
 従七位の摂理の太夫は、黒痘痕(くろあばた)の皺(しわ)を歪(ゆが)めて、苦笑(にがわらい)して、
「白痴(たわけ)が。今にはじめぬ事じゃが、まずこれが衣類ともせい……どこの棒杭(ぼうぐい)がこれを着るよ。余りの事ゆえ尋ねるが、おのれとても、氏子の一人じゃ、こう訊くのも、氏神様の、」
 と厳(おごそか)に袖に笏(しゃく)を立てて、
「恐多いが、思召(おぼしめし)じゃとそう思え。誰が、着るよ、この白痴(たわけ)、蜘蛛の巣を。」
「綺麗なのう、若い婦人(おなご)じゃい。」
「何。」
「綺麗な若い婦人(おなご)は、お姫様じゃろがい、そのお姫様が着さっしゃるよ。」
「天井か、縁の下か、そんなものがどこに居る?」
 と従七位はまた苦い顔。

       七

 杢若は筵(むしろ)の上から、古綿を啣(くわ)えたような唇を仰向(あおむ)けに反らして、
「あんな事を言って、従七位様、天井や縁の下にお姫様が居るものかよ。」
 馬鹿にしないもんだ、と抵抗面(はむかいづら)は可(よ)かったが、
「解った事を、草の中に居るでないかね……」
 はたして、言う事がこれである。
「そうじゃろう、草の中でのうて、そんなものが居るものか。ああ、何(な)んと云う、どんな虫じゃい。」
「あれ、虫だとよう、従七位様、えらい博識(ものしり)な神主様がよ。お姫様は茸(きのこ)だものをや。……虫だとよう、あはは、あはは。」と、火食せぬ奴(やつ)の歯の白さ、べろんと舌の赤い事。
「茸だと……これ、白痴(たわけ)。聞くものはないが、あまり不便(ふびん)じゃ。氏神様のお尋ねだと思え。茸が婦人(おんな)か、おのれの目には。」
「紅茸(べにたけ)と言うだあね、薄紅(うすあこ)うて、白うて、美(うつくし)い綺麗な婦人(おんな)よ。あれ、知らっしゃんねえがな、この位な事をや。」
 従七位は、白痴(ばか)の毒気を避けるがごとく、笏(しゃく)を廻して、二つ三つ這奴(しゃつ)の鼻の尖(ささ)を払いながら、
「ふん、で、そのおのれが婦(おなご)は、蜘蛛の巣を被(かぶ)って草原に寝ておるじゃな。」
「寝る時は裸体(はだか)だよ。」
「む、茸はな。」
「起きとっても裸体だにのう。――
 粧飾(めか)す時に、薄(うっす)らと裸体に巻く宝ものの美(うつくし)い衣服(きもの)だよ。これは……」
「うむ、天の恵(めぐみ)は洪大じゃ。茸にもさて、被(き)るものをお授けなさるじゃな。」
「違うよ。――お姫様の、めしものを持て――侍女(こしもと)がそう言うだよ。」
「何じゃ、待女(こしもと)とは。」
「やっぱり、はあ、真白(まっしろ)な膚(はだ)に薄紅(うすべに)のさした紅茸だあね。おなじものでも位が違うだ。人間に、神主様も飴屋もあると同一(おなじ)でな。……従七位様は何も知らっしゃらねえ。あはは、松蕈(まつたけ)なんぞは正七位の御前様(ごぜんさま)だ。錦(にしき)の褥(しとね)で、のほんとして、お姫様を視(なが)めておるだ。」
「黙れ! 白痴(たわけ)!……と、こんなものじゃ。」
 と従七位は、山伏どもを、じろじろと横目に掛けつつ、過言を叱する威を示して、
「で、で、その衣服(きもの)はどうじゃい。」
「ははん――姫様(ひいさま)のおめしもの持て――侍女(こしもと)がそう言うと、黒い所へ、黄色と紅条(あかすじ)の縞(しま)を持った女郎蜘蛛の肥えた奴が、両手で、へい、この金銀珠玉だや、それを、その織込んだ、透通る錦(にしき)を捧げて、赤棟蛇(やまかがし)と言うだね、燃える炎のような蛇の鱗(うろこ)へ、馬乗りに乗って、谷底から駈(か)けて来ると、蜘蛛も光れば蛇も光る。」
 と物語る。君がいわゆる実家(さと)の話柄(こと)とて、喋舌(しゃべ)る杢若の目が光る。と、黒痘痕(くろあばた)の眼(まなこ)も輝き、天狗、般若、白狐の、六箇(むつ)の眼玉も赫(かッ)となる。
「まだ足りないで、燈(あかり)を――燈を、と細い声して言うと、土からも湧(わ)けば、大木の幹にも伝わる、土蜘蛛だ、朽木だ、山蛭(やまひる)だ、俺(おれ)が実家(さと)は祭礼(おまつり)の蒼い万燈、紫色の揃いの提灯、さいかち茨(いばら)の赤い山車(だし)だ。」
 と言う……葉ながら散った、山葡萄(やまぶどう)と山茱萸(やまぐみ)の夜露が化けた風情にも、深山(みやま)の状(さま)が思わるる。
「いつでも俺は、気の向いた時、勝手にふらりと実家(さと)へ行(ゆ)くだが、今度は山から迎いが来たよ。祭礼(まつり)に就いてだ。この間、宵に大雨のどッとと降った夜さり、あの用心池の水溜(みずたまり)の所を通ると、掃溜(はきだめ)の前に、円い笠を着た黒いものが蹲踞(しゃが)んでいたがね、俺を見ると、ぬうと立って、すぽんすぽんと歩行(ある)き出して、雲の底に月のある、どしゃ降(ぶり)の中でな、時々、のほん、と立停(たちどま)っては俺が方をふり向いて見い見いするだ。頭からずぼりと黒い奴で、顔は分んねえだが、こっちを呼びそうにするから、その後へついて行(ゆ)くと、石の鳥居から曲って入って、こっちへ来ると見えなくなった――
 俺(おら)あ家へ入ろうと思うと、向うの百日紅(さるすべり)の樹の下に立っている……」
 指した方(かた)を、従七位が見返った時、もうそこに、宮奴(みやっこ)の影はなかった。
 御手洗(みたらし)の音も途絶えて、時雨(しぐれ)のような川瀬が響く。……

       八

「そのまんま消えたがのう。お社(やしろ)の柵の横手を、坂の方へ行ったらしいで、後へ、すたすた。坂の下口(おりくち)で気が附くと、驚(おど)かしやがらい、畜生めが。俺の袖の中から、皺(しわ)びた、いぼいぼのある蒼(あお)い顔を出して笑った。――山は御祭礼(おまつり)で、お迎いだ――とよう。……此奴(こやつ)はよ、大(でか)い蕈(きのこ)で、釣鐘蕈(つりがねだけ)と言うて、叩くとガーンと音のする、劫羅(こうら)経た親仁(おやじ)よ。……巫山戯(ふざけ)た爺(じじい)が、驚かしやがって、頭をコンとお見舞申そうと思ったりゃ、もう、すっこ抜けて、坂の中途の樫(かし)の木の下に雨宿りと澄ましてけつかる。
 川端へ着くと、薄(うっす)らと月が出たよ。大川はいつもより幅が広い、霧で茫(ぼう)として海見たようだ。流(ながれ)の上の真中(まんなか)へな、小船が一艘(そう)。――先刻(さっき)ここで木の実を売っておった婦(おんな)のような、丸い笠きた、白い女が二人乗って、川下から流を逆に泳いで通る、漕(こ)ぐじゃねえ。底蛇と言うて、川に居(お)る蛇が船に乗ッけて底を渡るだもの。船頭なんか、要るものかい、ははん。」
 と高慢な笑い方で、
「船からよ、白い手で招くだね。黒親仁は俺を負(おぶ)って、ざぶざぶと流(ながれ)を渡って、船に乗った。二人の婦人(おんな)は、柴に附着(くッつ)けて売られたっけ、毒だ言うて川下へ流されたのが遁(に)げて来ただね。
 ずっと川上へ行(ゆ)くと、そこらは濁らぬ。山奥の方は明(あかる)い月だ。真蒼(まっさお)な激(はげし)い流が、白く颯(さっ)と分れると、大(おおき)な蛇が迎いに来た、でないと船が、もうその上は小蛇の力で動かんでな。底を背負(しょ)って、一廻りまわって、船首(みよし)へ、鎌首を擡(もた)げて泳ぐ、竜頭の船と言うだとよ。俺は殿様だ。……
 大巌(おおいわ)の岸へ着くと、その鎌首で、親仁の頭をドンと敲(たた)いて、(お先へ。)だってよ、べろりと赤い舌を出して笑って谷へ隠れた。山路はぞろぞろと皆、お祭礼(まつり)の茸だね。坊主様(ぼんさま)も尼様も交ってよ、尼は大勢、びしょびしょびしょびしょと湿った所を、坊主様は、すたすたすたすた乾いた土を行(ゆ)く。湿地茸(しめじたけ)、木茸(きくらげ)、針茸(はりたけ)、革茸(こうたけ)、羊肚茸(いぐち)、白茸(しろたけ)、やあ、一杯だ一杯だ。」
 と筵(むしろ)の上を膝で刻んで、嬉しそうに、ニヤニヤして、
「初茸(はつたけ)なんか、親孝行で、夜遊びはいたしません、指を啣(くわ)えているだよ。……さあ、お姫様の踊がはじまる。」
 と、首を横に掉(ふ)って手を敲いて、
「お姫様も一人ではない。侍女(こしもと)は千人だ。女郎蜘蛛が蛇に乗っちゃ、ぞろぞろぞろぞろみんな衣裳を持って来ると、すっと巻いて、袖を開く。裾(すそ)を浮かすと、紅玉(ルビイ)に乳が透き、緑玉(エメラルド)に股(もも)が映る、金剛石(ダイヤモンド)に肩が輝く。薄紅(うすあか)い影、青い隈取(くまど)り、水晶のような可愛い目、珊瑚(さんご)の玉は唇よ。揃って、すっ、はらりと、すっ、袖をば、裳(すそ)をば、碧(あい)に靡(なび)かし、紫に颯と捌(さば)く、薄紅(うすべに)を飜(ひるがえ)す。
 笛が聞える、鼓が鳴る。ひゅうら、ひゅうら、ツテン、テン、おひゃら、ひゅうい、チテン、テン、ひゃあらひゃあら、トテン、テン。」
 廓(くるわ)のしらべか、松風か、ひゅうら、ひゅうら、ツテン、テン。あらず、天狗の囃子(はやし)であろう。杢若の声を遥(はるか)に呼交す。
「唄は、やしこばばの唄なんだよ、ひゅうらひゅうら、ツテン、テン、
やしこばば、うばば、
うば、うば、うばば、
火を一つくれや……」
 と、唄うに連れて、囃子に連れて、少しずつ手足の科(しな)した、三個(みつ)のこの山伏が、腰を入れ、肩を撓(た)め、首を振って、踊出す。太刀、斧、弓矢に似もつかず、手足のこなしは、しなやかなものである。
 従七位が、首を廻(まわ)いて、笏(しゃく)を振って、臀(いしき)を廻いた。
 二本の幟(のぼり)はたはたと飜り、虚空を落す天狗風。
 蜘蛛の囲の虫晃々(きらきら)と輝いて、鏘然(しょうぜん)、珠玉(たま)の響(ひびき)あり。
「幾干金(いくら)ですか。」
 般若の山伏がこう聞いた。その声の艶(えん)に媚(なまめ)かしいのを、神官は怪(あやし)んだが、やがて三人とも仮装を脱いで、裸にして縷無(るな)き雪の膚(はだ)を顕(あらわ)すのを見ると、いずれも、……血色うつくしき、肌理(きめ)細かなる婦人(おんな)である。
「銭(ぜに)ではないよ、みんな裸になれば一反ずつ遣(や)る。」
 価(あたい)を問われた時、杢若が蜘蛛の巣を指して、そう言ったからであった。
 裸体に、被(かず)いて、大旗の下を行く三人の姿は、神官の目に、実(げ)に、紅玉(ルビイ)、碧玉(サファイヤ)、金剛石(ダイヤモンド)、真珠、珊瑚を星のごとく鏤(ちりば)めた羅綾(らりょう)のごとく見えたのである。
 神官は高足駄で、よろよろとなって、鳥居を入ると、住居(すまい)へ行(ゆ)かず、階(きざはし)を上(あが)って拝殿に入った。が、額の下の高麗(こうらい)べりの畳の隅に、人形のようになって坐睡(いねむ)りをしていた、十四になる緋(ひ)の袴(はかま)の巫女(みこ)を、いきなり、引立てて、袴を脱がせ、衣(きぬ)を剥(は)いだ。……この巫女は、当年初に仕えたので、こうされるのが掟(おきて)だと思って自由になったそうである。
 宮奴(みやっこ)が仰天した、馬顔の、痩(や)せた、貧相な中年もので、かねて吶(どもり)であった。
「従、従、従、従、従七位、七位様、何(な)、何、何、何事!」
 笏(しゃく)で、ぴしゃりと胸を打って、
「退(すさ)りおろうぞ。」
 で、虫の死んだ蜘蛛の巣を、巫女の頭(かしら)に翳(かざ)したのである。
 かつて、山神の社(やしろ)に奉行(ぶぎょう)した時、丑(うし)の時(とき)参詣(まいり)を谷へ蹴込(けこ)んだり、と告(の)った、大権威の摂理太夫は、これから発狂した。
 ――既に、廓(くるわ)の芸妓(げいこ)三人が、あるまじき、その夜(よ)、その怪しき仮装をして内証で練った、というのが、尋常(ただ)ごとではない。
 十日を措(お)かず、町内の娘が一人、白昼、素裸になって格子から抜けて出た。門(かど)から手招きする杢若の、あの、宝玉の錦が欲しいのであった。余りの事に、これは親さえ組留められず、あれあれと追う間(ま)に、番太郎へ飛込んだ。
 市の町々から、やがて、木蓮(もくれん)が散るように、幾人(いくたり)となく女が舞込む。
 ――夜、その小屋を見ると、おなじような姿が、白い陽炎(かげろう)のごとく、杢若の鼻を取巻いているのであった。
大正七(一九一八)年四月



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