菎蒻本
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著者名:泉鏡花 

       一

 如月(きさらぎ)のはじめから三月の末へかけて、まだしっとりと春雨にならぬ間を、毎日のように風が続いた。北も南も吹荒(ふきすさ)んで、戸障子を煽(あお)つ、柱を揺(ゆす)ぶる、屋根を鳴らす、物干棹(ものほしざお)を刎飛(はねと)ばす――荒磯(あらいそ)や、奥山家、都会離れた国々では、もっとも熊を射た、鯨を突いた、祟(たた)りの吹雪に戸を鎖(さ)して、冬籠(ごも)る頃ながら――東京もまた砂埃(ほこり)の戦(たたかい)を避けて、家ごとに穴籠りする思い。
 意気な小家(こいえ)に流連(いつづけ)の朝の手水(ちょうず)にも、砂利を含んで、じりりとする。
 羽目も天井も乾いて燥(はしゃ)いで、煤(すす)の引火奴(ほくち)に礫(つぶて)が飛ぶと、そのままチリチリと火の粉になって燃出しそうな物騒さ。下町、山の手、昼夜の火沙汰(ひざた)で、時の鐘ほどジャンジャンと打(ぶ)つける、そこもかしこも、放火(つけび)だ放火だ、と取り騒いで、夜廻りの拍子木が、枕に響く町々に、寝心のさて安からざりし年とかや。
 三月の中の七日、珍しく朝凪(あさな)ぎして、そのまま穏(おだや)かに一日暮れて……空はどんよりと曇ったが、底に雨気(あまげ)を持ったのさえ、頃日(このごろ)の埃には、もの和(やわら)かに視(なが)められる……じとじととした雲一面、星はなけれど宵月の、朧々(おぼろおぼろ)の大路小路。辻には長唄の流しも聞えた。
 この七の日は、番町の大銀杏(おおいちょう)とともに名高い、二七の不動尊の縁日で、月六斎。かしらの二日は大粒の雨が、ちょうど夜店の出盛る頃に、ぱらぱら生暖(なまあったか)い風に吹きつけたために――その癖すぐに晴れたけれども――丸潰(まるつぶ)れとなった。……以来、打続いた風ッ吹きで、銀杏の梢(こずえ)も大童(おおわらわ)に乱れて蓬々(おどろおどろ)しかった、その今夜は、霞に夕化粧で薄あかりにすらりと立つ。
 堂とは一町ばかり間(あわい)をおいた、この樹の許(もと)から、桜草、菫(すみれ)、山吹、植木屋の路(みち)を開き初(そ)めて、長閑(のどか)に春めく蝶々簪(かんざし)、娘たちの宵出(よいで)の姿。酸漿屋(ほおずきや)の店から灯が点(とも)れて、絵草紙屋、小間物店(みせ)の、夜の錦(にしき)に、紅(くれない)を織り込む賑(にぎわい)となった。
 が、引続いた火沙汰のために、何となく、心々のあわただしさ、見附の火の見櫓(やぐら)が遠霞(とおがすみ)で露店の灯の映るのも、花の使(つかい)と視(なが)めあえず、遠火で焙(あぶ)らるる思いがしよう、九時というのに屋敷町の塀に人が消えて、御堂(みどう)の前も寂寞(ひっそり)としたのである。
 提灯(ちょうちん)もやがて消えた。
 ひたひたと木の葉から滴る音して、汲(くみ)かえし、掬(むす)びかえた、柄杓(ひしゃく)の柄を漏る雫(しずく)が聞える。その暗くなった手水鉢の背後(うしろ)に、古井戸が一つある。……番町で古井戸と言うと、びしょ濡れで血だらけの婦(おんな)が、皿を持って出そうだけれども、別に仔細(しさい)はない。……参詣(さんけい)の散った夜更(よふけ)には、人目を避けて、素膚(すはだ)に水垢離(みずごり)を取るのが時々あるから、と思うとあるいはそれかも知れぬ。
 今境内は人気勢(ひとけはい)もせぬ時、その井戸の片隅、分けても暗い中に、あたかも水から引上げられた体(てい)に、しょんぼり立った影法師が、本堂の正面に二三本燃え残った蝋燭(ろうそく)の、横曇りした、七星の数の切れたように、たよりない明(あかり)に幽(かすか)に映った。
 びしゃびしゃ……水だらけの湿っぽい井戸端を、草履か、跣足(はだし)か、沈んで踏んで、陰気に手水鉢の柱に縋(すが)って、そこで息を吐(つ)く、肩を一つ揺(ゆす)ったが、敷石の上へ、蹌踉々々(よろよろ)。
 口を開(あ)いて、唇赤く、パッと蝋(ろう)の火を吸った形の、正面の鰐口(わにぐち)の下へ、髯(ひげ)のもじゃもじゃと生えた蒼(あお)い顔を出したのは、頬のこけた男であった。
 内へ引く、勢の無い咳(せき)をすると、眉を顰(ひそ)めたが、窪(くぼ)んだ目で、御堂の裡(うち)を俯向(うつむ)いて、覗(のぞ)いて、
「お蝋を。」

       二

 そう云って、綻(ほころ)びて、袂(たもと)の尖(さき)でやっと繋(つな)がる、ぐたりと下へ襲(かさ)ねた、どくどく重そうな白絣(しろがすり)の浴衣の溢出(はみだ)す、汚れて萎(な)えた綿入のだらけた袖口へ、右の手を、手首を曲げて、肩を落して突込(つっこ)んだのは、賽銭(さいせん)を探ったらしい。
 が、チヤリリともせぬ。
 時に、本堂へむくりと立った、大きな頭の真黒(まっくろ)なのが、海坊主のように映って、上から三宝へ伸懸(のしかか)ると、手が燈明(とうみょう)に映って、新しい蝋燭を取ろうとする。
 一ツ狭い間を措(お)いた、障子の裡(うち)には、燈(ひ)があかあかとして、二三人居残った講中らしい影が映(さ)したが、御本尊の前にはこの雇和尚(やといおしょう)ただ一人。もう腰衣(こしごろも)ばかり袈裟(けさ)もはずして、早やお扉を閉める処。この、しょびたれた参詣人が、びしょびしょと賽銭箱の前へ立った時は、ばたり、ばたりと、団扇(うちわ)にしては物寂しい、大(おおき)な蛾(ひとりむし)の音を立てて、沖の暗夜(やみ)の不知火(しらぬい)が、ひらひらと縦に燃える残んの灯を、広い掌(てのひら)で煽(あお)ぎ煽(あお)ぎ、二三挺(ちょう)順に消していたのである。
「ええ、」
 とその男が圧(おさ)えて、低い声で縋(すが)るように言った。
「済みませんがね、もし、私(てまえ)持合せがございません。ええ、新しいお蝋燭は御遠慮を申上げます。ええ。」
「はあ。」と云う、和尚が声の幅を押被(おっかぶ)せるばかり。鼻も大きければ、口も大きい、額の黒子(ほくろ)も大入道、眉をもじゃもじゃと動かして聞返す。
 これがために、窶(やつ)れた男は言渋って、
「で、ございますから、どうぞ蝋燭はお点(とも)し下さいませんように。」
「さようか。」
 と、も一つ押被せたが、そのまま、遣放(やりはな)しにも出来ないのは、彼がまだ何か言いたそうに、もじもじとしたからで。
 和尚はまじりと見ていたが、果(はて)しがないから、大(おおき)な耳を引傾(ひっかた)げざまに、ト掌(てのひら)を当てて、燈明の前へ、その黒子(ほくろ)を明らさまに出した体(てい)は、耳が遠いからという仕方に似たが、この際、判然(はっきり)分るように物を言え、と催促をしたのである。
「ええ。」
 とまた云う、男は口を利くのも呼吸(いき)だわしそうに肩を揺(ゆす)る、……
「就きましては、真(まこと)に申兼ねましたが、その蝋燭でございます。」
「蝋燭は分ったであす。」
 小鼻に皺(しわ)を寄せて、黒子に網の目の筋を刻み、
「御都合じゃからお蝋は上げぬようにと言うのじゃ。御随意であす。何か、代物を所持なさらんで、一挺、お蝋が借りたいとでも言わるる事か、それも御随意であす。じゃが、もう時分も遅いでな。」
「いいえ、」
「はい、」と、もどかしそうな鼻息を吹く。
「何でございます、その、さような次第ではございません。それでございますから、申しにくいのでございますが、思召(おぼしめし)を持ちまして、お蝋を一挺、お貸し下さる事にはなりますまいでございましょうか。」
「じゃから、じゃから御随意であす。じゃが時刻も遅いでな、……見なさる通り、燈明をしめしておるが、それともに点(つ)けるであすか。」
「それがでございます。」
 と疲れた状(さま)にぐたりと賽銭箱の縁(へり)に両手を支(つ)いて、両の耳に、すくすくと毛のかぶさった、小さな頭をがっくりと下げながら、
「一挺お貸し下さいまし、……と申しますのが、御神前に備えるではございません。私(てまえ)、頂いて帰りたいのでございます。」
「お蝋を持って行くであすか。ふうむ、」と大(おおき)く鼻を鳴(なら)す。
「それも、一度お供えになりました、燃えさしが願いたいのでございまして。」
 いや、時節がら物騒千万。

       三

「待て、待て、ちょっと……」
 往来留(どめ)の提灯(ちょうちん)はもう消したが、一筋、両側の家の戸を鎖(さ)した、寂(さみ)しい町の真中(まんなか)に、六道の辻の通(みち)しるべに、鬼が植えた鉄棒(かなぼう)のごとく標(しるし)の残った、縁日果てた番町通(どおり)。なだれに帯板へ下りようとする角の処で、頬被(ほおかぶり)した半纏着(はんてんぎ)が一人、右側の廂(ひさし)が下った小家の軒下暗い中から、ひたひたと草履で出た。
 声も立てず往来留のその杙(くい)に並んで、ひしと足を留めたのは、あの、古井戸の陰から、よろりと出て、和尚に蝋燭の燃えさしをねだった、なぜ、その手水鉢の柄杓を盗まなかったろうと思う、船幽霊(ふなゆうれい)のような、蒼(あお)しょびれた男である。
 半纏着は、肩を斜(はす)っかいに、つかつかと寄って、
「待てったら、待て。」とドス声を渋くかすめて、一つしゃくって、頬被りから突出す頤(あご)に凄味(すごみ)を見せた。が、一向に張合なし……対手(あいて)は待てと云われたまま、破れた暖簾(のれん)に、ソヨとの風も無いように、ぶら下った体(てい)に立停(たちどま)って待つのであるから。
「どこへ行く、」
 黙って、じろりと顔を見る。
「どこへ行くかい。」
「ええ、宅へ帰りますでございます。」
「家(うち)はどこだ。」
「市ヶ谷田町でございます。」
「名は何てんだ、……」
 と調子を低めて、ずっと摺寄(すりよ)り、
「こう言うとな、大概生意気な奴(やつ)は、名を聞くんなら、自分から名告(なの)れと、手数を掛けるのがお極(きま)りだ。……俺はな、お前(めえ)の名を聞いても、自分で名告るには及ばない身分のもんだ、可(い)いか。その筋の刑事だ。分ったか。」
「ええ、旦那でいらっしゃいますか。」
 と、破れ布子(ぬのこ)の上から見ても骨の触って痛そうな、痩(や)せた胸に、ぎしと組んだ手を解いて叩頭(おじぎ)をして、
「御苦労様でございます。」
「むむ、御苦労様か。……だがな、余計な事を言わんでも可い。名を言わんかい。何てんだ、と聞いてるんじゃないか。」
「進藤延一(のぶかず)と申します。」
「何だ、進藤延一、へい、変に学問をしたような、ハイカラな名じゃねえか。」
 と言葉じりもしどろになって、頤(あご)を引込(ひっこ)めたと思うと、おかしく悄気(しょげ)たも道理こそ。刑事と威(おど)した半纏着は、その実町内の若いもの、下塗(したぬり)の欣八(きんぱち)と云う。これはまた学問をしなそうな兄哥(あにい)が、二七講の景気づけに、縁日の夜(よ)は縁起を祝って、御堂一室処(ひとまどころ)で、三宝を据えて、頼母子(たのもし)を営む、……世話方で居残ると……お燈明の消々(きえぎえ)時、フト魔が魅(さ)したような、髪蓬(おどろ)に、骨豁(あらわ)なりとあるのが、鰐口(わにぐち)の下に立顕(たちあらわ)れ、ものにも事を欠いた、断(ことわ)るにもちょっと口実の見当らない、蝋燭の燃えさしを授けてもらって、消えるがごとく門を出たのを、ト伸上って見ていた奴。
「棄ててはおかれませんよ、串戯(じょうだん)じゃねえ。あの、魔ものめ。ご本尊にあやかって、めらめらと背中に火を背負(しょ)って帰ったのが見えませんかい。以来、下町は火事だ。僥倖(しあわせ)と、山の手は静かだっけ。中やすみの風が変って、火先が井戸端から舐(な)めはじめた、てっきり放火(つけび)の正体だ。見逃してやったが最後、直ぐに番町は黒焦(くろこげ)さね。私が一番生捕(いけど)って、御覧じろ、火事の卵を硝子(ビイドロ)の中へ泳がせて、追付(おッつ)け金魚の看板をお目に懸ける。……」
「まったく、懸念無量じゃよ。」と、当御堂の住職も、枠眼鏡(わくめがね)を揺(ゆす)ぶらるる。
 講親(こうおや)が、
「欣八、抜かるな。」
「合点だ。」

       四

「ああ、旨(うま)いな。」
 煙草(たばこ)の煙を、すぱすぱと吹く。溝石の上に腰を落して、打坐(ぶっすわ)りそうに蹲(しゃが)みながら、銜(くわ)えた煙管(きせる)の吸口が、カチカチと歯に当って、歪(ゆが)みなりの帽子がふらふらとなる。……
 夜は更けたが、寒さに震えるのではない、骨まで、ぐなぐなに酔っているので、ともすると倒(のめ)りそうになるのを、路傍(みちばた)の電信柱の根に縋(すが)って、片手喫(ふか)しに立続ける。
「旦那、大分いけますねえ。」
 膝掛(ひざかけ)を引抱(ひんだ)いて、せめてそれにでも暖(あたたま)りたそうな車夫は、値が極(きま)ってこれから乗ろうとする酔客(よっぱらい)が、ちょっと一服で、提灯(ちょうちん)の灯で吸うのを待つ間(ま)、氷のごとく堅くなって、催促がましく脚と脚を、霜柱に摺合(すりあわ)せた。
「何?大分いけますね……とおいでなさると、お酌が附いて飲んでるようだが、酒はもう沢山だ。この上は女さね。ええ、どうだい、生酔(なまよい)本性違(たが)わずで、間違の無い事を言うだろう。」
「何ならお供をいたしましょう、ええ、旦那。」
「お供だ? どこへ。」
「お馴染(なじみ)様でございまさあね。」
「馬鹿にするない、見附で外濠(そとぼり)へ乗替えようというのを、ぐっすり寐込(ねこ)んでいて、真直(まっす)ぐに運ばれてよ、閻魔(えんま)だ、と怒鳴られて驚いて飛出したんだ。お供もないもんだ。ここをどこだと思ってる。
 電車が無いから、御意の通り、高い車賃を、恐入って乗ろうというんだ。家数四五軒も転がして、はい、さようならは阿漕(あこぎ)だろう。」
 口を曲げて、看板の灯で苦笑して、
「まず、……極(き)めつけたものよ。当人こう見えて、その実方角が分りません。一体、右側か左側か。」と、とろりとして星を仰ぐ。
「大木戸から向って左側でございます、へい。」
「さては電車路を突切(つっき)ったな。そのまま引返せば可(い)いものを、何の気で渡った知らん。」
 と真(しん)になって打傾く。
「車夫(くるまや)、車夫ッて、私をお呼びなさりながら、横なぐれにおいでなさいました。」
「……夢中だ。よっぽどまいったらしい。素敵に長い、ぐらぐらする橋を渡るんだと思ったっけ。ああ、酔った。しかし可い心持だ。」とぐったり俯向(うつむ)く。
「旦那、旦那、さあ、もう召して下さい、……串戯(じょうだん)じゃない。」
 と半分呟(つぶや)いて、石に置いた看板を、ト乗掛(のっかか)って、ひょいと取る。
 鼻の前(さき)を、その燈(ひ)が、暗がりにスーッと上(あが)ると、ハッ嚔(くさめ)、酔漢(よっぱらい)は、細い箍(たが)の嵌(はま)った、どんより黄色な魂を、口から抜出されたように、ぽかんと仰向(あおむ)けに目を明けた。
「ああ、待ったり。」
「燃えます、旦那、提灯を乱暴しちゃ不可(いけ)ません。」
「貸しなよ、もう一服吸附けるんだ。」
「燐寸(マッチ)を上げまさあね。」
「味が違います……酔覚めの煙草は蝋燭の火で喫(の)むと極(きま)ったもんだ。……だが……心意気があるなら、鼻紙を引裂(ひっさ)いて、行燈(あんどん)の火を燃して取って、長羅宇(ながらう)でつけてくれるか。」
 と中腰に立って、煙管を突込(つっこ)む、雁首(がんくび)が、ぼっと大きく映ったが、吸取るように、ばったりと紙になる。
「消した、お前さん。」
 内証(ないしょ)で舌打。
 霜夜に芬(ぷん)と香が立って、薄い煙が濛(もう)と立つ。
「車夫(くるまや)。」
「何ですえ。」
「……宿(しゅく)に、桔梗屋(ききょうや)[#ルビの「ききょうや」は底本では「ききやうや」]と云うのがあるかい、――どこだね。」
「ですから、お供を願いたいんで、へい、直(じ)きそこだって旦那、御冥加(ごみようが)だ。御祝儀と思召して一つ暖まらしておくんなさいまし、寒くって遣切(やりき)れませんや。」とわざとらしく、がちがち。
「雲助め。」
 と笑いながら、
「市ヶ谷まで雇ったんだ、賃銭は遣るよ、……車は要らない。そのかわり、蝋燭の燃えさしを貰って行(ゆ)く。……」

       五

 さて酔漢(よっぱらい)は、山鳥の巣に騒見(ぞめ)く、梟(ふくろう)という形で、も一度線路を渡越(わたりこ)した、宿(しゅく)の中ほどを格子摺(こうしず)れに伸(の)しながら、染色(そめいろ)も同じ、桔梗屋、と描(か)いて、風情は過ぎた、月明りの裏打をしたように、横店の電燈(でんき)が映る、暖簾(のれん)をさらりと、肩で分けた。よしこことても武蔵野の草に花咲く名所とて、廂(ひさし)の霜も薄化粧、夜半(よわ)の凄(すご)さも狐火(きつねび)に溶けて、情(なさけ)の露となりやせん。
「若い衆(しゅ)、」
「らっしゃい!」
「遊ぶぜ。」
「難有(ありがと)う様で、へい、」と前掛(まえかけ)の腰を屈(かが)める、揉手(もみで)の肱(ひじ)に、ピンと刎(は)ねた、博多帯(はかたおび)の結目(むすびめ)は、赤坂奴(やっこ)の髯(ひげ)と見た。
「振らないのを頼みます。雨具を持たないお客だよ。」
「ちゃんとな、」
 と唐桟(とうざん)の胸を劃(しき)って、
「胸三寸。……へへへ、お古い処、お馴染効(なじみがい)でございます、へへへ、お上んなはるよ。」
 帳場から、
「お客様ア。」
 まんざらでない跫音(あしおと)で、トントンと踏む梯子段(はしごだん)。
「いらっしゃい。」と……水へ投げて海津(かいず)を掬(しゃく)う、溌剌(はつらつ)とした声なら可(い)いが、海綿に染む泡波(あぶく)のごとく、投げた歯に舌のねばり、どろんとした調子を上げた、遣手部屋(やりてべや)のお媼(ば)さんというのが、茶渋に蕎麦切(そばきり)を搦(から)ませた、遣放(やりッぱな)しな立膝で、お下りを這曳(しょび)いたらしい、さめた饂飩(うどん)を、くじゃくじゃと啜(すす)る処――
 横手の衝立(ついたて)が稲塚(いなづか)で、火鉢の茶釜(ちゃがま)は竹の子笠、と見ると暖麺(ぬくめん)蚯蚓(みみず)のごとし。惟(おもんみ)れば嘴(くちばし)の尖(とが)った白面の狐(コンコン)が、古蓑(ふるみの)を裲襠(うちかけ)で、尻尾の褄(つま)を取って顕(あらわ)れそう。
 時しも颯(さっ)と夜嵐して、家中穴だらけの障子の紙が、はらはらと鳴る、霰(あられ)の音。
 勢(いきおい)辟易(へきえき)せざるを得ずで、客人ぎょっとした体(てい)で、足が窘(すく)んで、そのまま欄干に凭懸(よりかか)ると、一小間抜けたのが、おもしに打たれて、ぐらぐらと震動に及ぶ。
「わあ、助けてくれ。」
「お前さん、可(い)い御機嫌で。」
 とニヤリと口を開けた、お媼(ば)さんの歯の黄色さ。横に小楊枝(こようじ)を使うのが、つぶつぶと入る。
 若い衆飛んで来て、腰を極(き)めて、爪先(つまさき)で、ついつい、
「ちょっと、こちらへ。」
 と古畳八畳敷、狸を想う真中(まんなか)へ、性(しょう)の抜けた、べろべろの赤毛氈(あかもうせん)。四角でもなし、円(まる)でもなし、真鍮(しんちゅう)の獅噛(しがみ)火鉢は、古寺の書院めいて、何と、灰に刺したは杉の割箸(わりばし)。
 こいつを杖(つえ)という体(てい)で、客は、箸を割って、肱(ひじ)を張り、擬勢を示して大胡坐(おおあぐら)に□(どう)となる。
「ええ。」
 と早口の尻上りで、若いものは敷居際に、梯子段見通しの中腰。
「お馴染様は、何方(どなた)様で……へへへ、つい、お見外(みそ)れ申しましてございまして、へい。」
「馴染はないよ。」
「御串戯(ごじょうだん)を。」
「まったくだ。」
「では、その、へへへ、」
「何が可笑(おか)しい。」
「いえ、その、お古い処を……お馴染効(がい)でございまして、ちょっとお見立てなさいまし。」
 彼は胸を張って顔を上げた。
「そいつは嫌いだ。」
「もし、野暮なようだが、またお慰み。日比谷で見合と申すのではございません。」
「飛んだ見違えだぜ、気取るものか。一ツ大野暮に我輩、此家(ここ)のおいらんに望みがある。」
「お名ざしで?」
「悪いか。」
「結構ですとも、お古い処を、お馴染効でございまして。……」

       六

 対方(あいかた)は白露(しらつゆ)と極(きま)った……桔梗屋の白露、お職だと言う。……遣手部屋の蚯蚓(みみず)を思えば、什□(そもさん)か、狐塚の女郎花(おみなえし)。
 で、この名ざしをするのに、客は妙な事を言った。
「若い衆、註文というのは、お照(てら)しだよ。」
「へい、」
「内に、居るだろう。」
「お照しが居(お)りますえ?」
 と解(げ)せない顔色(かおつき)。
「そりゃ、無いことはございませんが、」
「秘(かく)すな、尋常に顕(あらわ)せろ。」と真赤(まっか)な目で睨(にら)んで言った。
「何も秘します事はございません、ですが御覧の通り、当場所も疾(とう)の以前から、かように電燈になりました。……ひきつけの遊君(おいらん)にお見違えはございません。別して、貴客様(あなッさま)なぞ、お目が高くっていらっしゃいます、へい、えッへへへへ。もっとも、その、ちとあちらへ、となりまして、お望みとありますれば、」
「だから、望みだから、お照しを出せよ。」
「それは、お照しなり、行燈(あんどん)なり、いかようともいたしますんで、とにかく、……夜も更けております事、遊君(おいらん)の処を、お早く、どうぞ。」
 と、ちらりと遣手部屋へ目を遣って、此奴(こいつ)、お荷物だ、と仕方で見せた。
「分らないな。」
 と煙管(きせる)を突込(つっこ)んで、ばったり置くと、赤毛氈(あかもうせん)に、ぶくぶくして、擬(まがい)印伝の煙草入は古池を泳ぐ体(てい)なり。
「女は蝋燭だと云ってるんだ。」
 お媼(ば)さんが突掛(つっか)け草履で、片手を懐に、小楊枝を襟先へ揉挿(もみさ)しながら、いけぞんざいに炭取を跨(また)いで出て、敷居越に立ったなり、汚点(しみ)のある額越しに、じろりと視(み)て、
「遊君(おいらん)が綺麗で柔順(おとな)しくって持てさいすりゃ言種(いいぐさ)はないんじゃないか。遅いや、ね、お前さん。」
 と一ツ叱って、客が這奴(しゃ)言おうで擡(もた)げた頭(ず)を、しゃくった頤(あご)で、無言(だんまり)で圧着(おしつ)けて、
「お勝どん、」と空(くう)を呼ぶ。
「へーい。」
 途端に、がらがらと鼠が騒いだ。……天井裏で声がして、十五六の当の婢(ちび)は、どこから顕(あらわ)れたか、煤(すす)を繋(つな)いで、その天井から振下(ぶらさ)げたように、二階の廊下を、およそ眠いといった仏頂面で、ちょろりと来た。
「白露さん、……お初会(しょかい)だよ。」
「へーい。」
 夢が裏返ったごとく、くるりと向うむきになって、またちょろり。
「旦那こちらへ、……ちょうどお座敷がございます。」
「待て、」
 と云ったが、遣手の剣幕に七分の恐怖(おそれ)で、煙草入を取って、やッと立つと……まだ酔っている片膝がぐたりとのめる。
「蝋燭はどうしたんだ。」
「何も御会計と御相談さ。」と、ずっきり言う。
 ……彼は、苦い顔で立上って、勿論広くはない廊下、左右の障子へ突懸(つっかけ)るように、若い衆の背中を睨(にら)んで、不服らしくずんずん通った。
 が、部屋へ入ると、廊下を背後(うしろ)にして、長火鉢を前に、客を待つ気構えの、優しく白い手を、しなやかに鉄瓶の蔓(つる)に掛けて、見るとも見ないともなく、ト絵本の読みさしを膝に置いて、膚(はだ)薄そうな縞縮緬(しまちりめん)。撫肩(なでがた)の懐手、すらりと襟を辷(すべ)らした、紅(くれない)の襦袢(じゅばん)の袖に片手を包んだ頤(おとがい)深く、清らか耳許(みみもと)すっきりと、湯上りの紅絹(もみ)の糠袋(ぬかぶくろ)を皚歯(しらは)に噛(か)んだ趣して、頬も白々と差俯向(さしうつむ)いた、黒繻子(くろじゅす)冷たき雪なす頸(うなじ)、これが白露かと、一目見ると、後姿でゾッとする。――
「河、原、と書くんだ、河原千平(かわらせんべい)。」
 やがて、帳面を持って出直した時、若いものは、軸で、ちょっと耳を掻(か)いて、へへへ、と笑った。
「貴客(あなた)、ほんとの名を聞かして下さいましな。」
 犬を料理そうな卓子台(ちゃぶだい)の陰ながら、膝に置かれた手は白し、凝(じっ)と視(み)られた瞳は濃し……
 思わず情(なさけ)が五体に響いて、その時言った。
「進藤延一……造兵……技師だ。」

       七

「こういう事をお話し申した処で、ほんとにはなさりますまい。第一そんな安店に、容色(きりょう)と云い気質(きだて)と云い、名も白露で果敢(はか)ないが、色の白い、美しい婦(おんな)が居ると云っては、それからが嘘らしく聞えるでございましょう。
 その上、癡言(たわこと)を吐(つ)け、とお叱りを受けようと思いますのは、娼妓(じょろう)でいて、まるで、その婦(おんな)が素地(きじ)の処女(むすめ)らしいのでございます。ええ、他の仁にはまずとにかく、私(てまえ)だけにはまったくでございました。
 なお怪しいでございましょう……分けて、旦那方は御職掌で、人一倍、疑り深くいらっしゃいますから。」――
 一言ずつ、呼気(いき)を吐(つ)くと、骨だらけな胸がびくびく動く、そこへ節くれだった、爪の黒い掌(てのひら)をがばと当てて、上下(うえした)に、調子を取って、声を揉出(もみだ)す。
 佐内坂の崖下、大溝(おおどぶ)通りを折込(おれこ)んだ細路地の裏長屋、棟割(むねわり)で四軒だちの尖端(とっぱずれ)で……崖うらの畝々坂(うねうねざか)が引窓から雪頽(なだ)れ込みそうな掘立一室(ほったてひとま)。何にも無い、畳の摺剥(すりむ)けたのがじめじめと、蒸れ湿ったその斑(まだら)が、陰と明るみに、黄色に鼠に、雑多の虫螻(むしけら)の湧(わ)いて出た形に見える。葉鉄(ブリキ)落しの灰の濡れた箱火鉢の縁(へり)に、じりじりと燃える陰気な蝋燭を、舌のようになめらかして、しょんぼりと蒼(あお)ざめた、髪の毛の蓬(おどろ)なのが、この小屋の……ぬしと言いたい、墓から出た状(さま)の進藤延一。
 がっしとまた胸を絞って、
「でありますが、余りお疑い深いのも罪なものでございます。」
 と、もの言う都度、肩から暗くなって、蝋燭の灯に目ばかりが希代に光る。
「疑うのが職業だって、そんな、お前(めえ)、狐の性(しょう)じゃあるまいし、第一、僕はそのね、何も本職というわけじゃないんだよ。」
 となぜか弱い音(ね)を吹いた……差向いをずり下(さが)って、割膝で畏(かしこま)った半纏着の欣八刑事、風受(かざう)けの可(よ)い勢(いきおい)に乗じて、土蜘蛛(つちぐも)の穴へ深入(ふかいり)に及んだ列卒(せこ)の形で、肩ばかり聳(そび)やかして弱身を見せじと、擬勢は示すが、川柳に曰く、鏝塗(こてぬ)りの形に動く雲の峰で、蝋燭の影に蟠(わだかま)る魔物の目から、身体(からだ)を遮りたそうに、下塗の本体、しきりに手を振る。……
「可(い)いかね、ちょいと岡引(おかっぴき)ッて、身軽な、小意気な処を勤めるんだ。このお前(めえ)、しっきりなし火沙汰の中さ。お前、焼跡で引火奴(ほくち)を捜すような、変な事をするから、一つ素引(しょぴ)いてみたまでのもんさね。直ぐにも打縛(ふんじば)りでもするように、お前、真剣(しんけん)になって、明白(あかり)を立てる立てるッて言わあ。勿論、何だ、御用だなんて威(おど)かしたには威しましたさ、そりゃ発奮(はずみ)というもんだ。
 明白(あかし)を立てます立てますッて、ここまで連れて来るから、途中で小用も出来ずさね、早い話が。
 隣家(となり)は空屋だと云うし、……」
 と、頬被(ほおかぶり)のままで、後を見た、肩を引いて、
「一軒隣は按摩(あんま)だと云うじゃねえか。取附(とッつ)きの相角がおでん屋だッて、かッと飲んだように一景気附いたと思や、夫婦で夜なしに出て、留守は小児(こども)の番をする下性(げしょう)の悪い爺(じい)さんだと言わあ。早い話がじゃ、この一棟四軒長屋の真暗(まっくら)な図体の中に、……」
 と鏝(こて)を塗って、
「まあ、可(い)やね、お前(めえ)、別にお前、怪しいたッて、何も、ねえ、まあ、お互に人間に変りはねえんだから、すぐにさようならにしようと思った。だけれど、話の口明(くちあけ)が、宿(しゅく)の女郎だ。おまけに別嬪(べっぴん)と来たから、早い話が。
 でまあ、その何だ、私(わっし)も素人じゃねえもんだから、」
 と目潰(めつぶ)しの灰の気さ。
「一ツ詮索(せんさく)をして帰ろう、と居坐ったがね、……気にしなさんな。別にお前の身体(からだ)を裏返しにして、綺麗に洗いだてをしようと云うんじゃねえ。可いから、」
 と云う中(うち)にも、じろりと視(み)る、そりゃ光るわ、で鏝を塗って、
「大目に見てやら。ね、早い話が。僕は帰るよ、気にしなさんな。」
「ええ、いや、私(てまえ)の方で、気にしない次第(わけ)には参りません。」
 欣八、ぎょっとして、
「そうかね、……はてね。……トオカミ、エミタメはどんなものだ。」と字(あざな)は孔明、琴を弾く。

       八

「で、その初会の晩なぞは、見得に技師だって言いました。が、私(てまえ)はその頃、小石川へ勤めました鉄砲組でございますが、」
「ああ、造兵かね、私(わっし)の友達にも四五人居るよ。中の一人は、今夜もお不動様で一所だっけ。そうかい、そいつは頼母(たのも)しいや。」と欣八いささか色を直す。
「見なさいます通りで、我ながら早やかように頼母しくなさ過ぎます。もっとも、車夫の看板を引抜いて、肩で暖簾を分けながら、遊ぶぜ、なぞと酔った晩は、そりゃ威勢が可(よ)うがした。」
 と投首しつつ、また吐息(といき)。じっと灯(ともしび)を瞻(みまも)ったが、
「ところで、肝心のその燃えさしの蝋燭の事でございます。
 嘘か、真(まこと)かは分りません。かねて、牛鍋のじわじわ酒に、夥間(なかま)の友だちが話しました事を、――その大木戸向うで、蝋燭の香(におい)を、芬(ぷん)と酔爛(よいただ)れた、ここへ、その脳へ差込まれましたために、ふと好事(ものずき)な心が、火取虫といった形で、熱く羽ばたきをしたのでございます。
 内には柔(やさ)しい女房もございました。別に不足というでもなし、……宿(しゅく)へ入ったというものは、ただ蝋燭の事ばかり。でございますから、圧附(おしつ)けに、勝手な婦(おんな)を取持たれました時は、馬鹿々々しいと思いましたが、因果とその婦(おんな)の美しさ。
 成程、桔梗屋の白露か、玉の露でも可い位。
 けれども、楼(うち)なり、場所柄なり、……余り綺麗なので、初手は物凄(ものすご)かったのでございます。がいかにも、その病気があるために、――この容色(きりょう)、三絃(いと)もちょっと響く腕で――蹴(け)ころ同然な掃溜(はきだめ)へ落ちていると分りますと、一夜妻のこの美しいのが……と思う嬉しさに、……今の身で、恥も外聞もございません。筋も骨もとろとろと蕩(とろ)けそうになりました。……
 枕頭(まくらもと)の行燈(あんどん)の影で、ええ、その婦(おんな)が、二階廻しの手にも投遣(なげや)らないで、寝巻に着換えました私(てまえ)の結城木綿(ゆうきもめん)か何か、ごつごつしたのを、絹物(やわらかもの)のように優しく扱って、袖畳(そでだたみ)にしていたのでございます。
 部屋着の腰の巻帯には、破れた行燈の穴の影も、蝶々のように見えて、ぞくりとする肩を小夜具で包んで、恍惚(うっとり)と視(なが)めていますと、畳んだ袖を、一つ、スーと扱(しご)いた時、袂(たもと)の端で、指尖(ゆびさき)を留めましたがな。
 横顔がほんのりと、濡れたような目に、柔かな眉(まみえ)が見えて、
 貴方(あなた)は御存じね――」
 延一は続けさまに三つばかり、しゃがれた咳(せき)して、
「私(てまえ)に、残らず自分の事を知っていて来たのだろうと申しまして、――頂かして下さいましな、手を入れますよ、大事ござんせんか――
 と念を押して、その袂から、抜いて取ったのが、右の蝋燭でございます。」
「へい、」と欣八は這身(はいみ)に乗出す。
「が、その美人。で、玉で刻んだ独鈷(とっこ)か何ぞ、尊いものを持ったように見えました。
 遣手も心得た、成りたけは隠す事、それと言わずに逢わせた、とこう私(てまえ)は思う。……
 ――どちらの御蝋でござんすの――
 また、そう訊くのがお極(きま)りだと申します。……三度のもの、湯水より、蝋燭でさえあれば、と云う中(うち)にも、その婦(おんな)は、新(あら)のより、燃えさしの、その燃えさしの香(におい)が、何とも言えず快い。
 その燃えさしもございます。
 一度、神仏の前に供えたのだ、と持つ手もわななく、体(み)を震わして喜ぶんだ、とかねて聞いておりましたものでございますから、その晩は、友達と銀座の松喜で牛肉をしたたか遣りました、その口で、
 ――水天宮様のだ、人形町の――
 と申したでございます。電車の方角で、フト思い付きました。銀座には地蔵様もございますが、一言で、誰も分るのをと思いましてな。ええ。……」
 とじろじろと四辺(あたり)を□(みまわ)す。
 欣八は同じように、きょろきょろと頭を振る。

       九

「お聞き下さい。」
 と痩(や)せた膝を痛そうに、延一は居直って、
「かねて噂を聞いたから、おいらんの土産にしようと思って、水天宮様の御蝋の燃えさしを頂いて来たんだよ、と申しますと、端然(きちん)と居坐(いずまい)を直して、そのふっくりした乳房へ響くまで、身に染みて、鳩尾(みずおち)へはっと呼吸(いき)を引いて、
 ――まあ、嬉しい――
 とちゃんと取って、蝋燭を頂くと、さもその尊さに、生際(はえぎわ)の曇った白い額から、品物は輝いて後光が射(さ)すように思われる、と申すものは、婦(おんな)の気の入れ方でございまして。
 どうでございましょう。これが直(じ)き近所の車夫の看板から、今しがた煙草を吸って、酒粘(さけねば)りの唾(つばき)を吐いた火の着いていたやつじゃございますまいか。
 なんぼでも、そうまで真(しん)になって嬉しがられては、灰吹を叩いて、舌を出すわけには参りません。
 実は、とその趣を陳(の)べて、堪忍しな、出来心だ。そのかわり、今度は成田までもわざわざ出向くから、と申しますと、婦(おんな)が莞爾(にっこり)して言うんでございます。
 これほどまでに、生命(いのち)がけで好きなんですもの、どこの、どうした蝋燭だか、大概は分ります。一度燃えたのですから、その香(におい)で、消えてからどのくらい経(た)ったかが知れますと、伺った路順で、下谷(したや)だが浅草だが推量が付くんです。唯今(ただいま)下すったのは、手に取ると、すぐに直き近い処だとは思いました、……では、大宗寺(だいそうじ)様のかと存じましたが、召上った煙草の粉が附着(くッつ)いていますし、御縁日ではなし、かたがた悪戯(いたずら)に、お欺(かつ)ぎだとは知ったんですが、お初会の方に、お怨みを言うのも、我儘(わがまま)と存じて遠慮しました。今度ッからは、たとい私をお誑(だま)しでも、蝋燭の嘘を仰有(おっしゃ)るとほんとうに怨みますよ、と優しい含声(ふくみごえ)で、ひそひそと申すんで。
 もう、実際嘘は吐(つ)くまい、と思ったくらいでございます。
 部屋着を脱ぐと、緋(ひ)の襦袢(じゅばん)で、素足がちらりとすると、ふッ、と行燈を消しました。……底に温味(あたたかみ)を持ったヒヤリとするのが、酒の湧(わ)く胸へ、今にもいい薫(かおり)で颯(さっ)と絡(まつ)わるかと思うと、そうでないので。――
 カタカタと暗がりで箪笥(たんす)の抽斗(ひきだし)を開けましたがな。
 ――水天宮様のをお目に掛けましょう――
 そう云って、柔らかい膝の衣摺(きぬず)れの音がしますと、燐寸(マッチ)を※(ぱっ)[#「火+發」、248-3]と摺(す)った。」
「はあ、」
 と欣八は、その※[#「火+發」、248-5]とした……瞬きする。
「で、朱塗の行燈の台へ、蝋燭を一挺(ちょう)、燃えさしのに火を点(とも)して立てたのでございます。」
 と熟(じっ)と瞻(みまも)る、とここの蝋燭が真直(まっすぐ)に、細(ほっそ)りと灯が据(すわ)った。
「寂然(しん)としておりますので、尋常(ただ)のじゃない、と何となくその暗い灯に、白い影があるらしく見えました。
 これは、下谷の、これは虎の門の、飛んで雑司(ぞうし)ヶ谷のだ、いや、つい大木戸のだと申して、油皿の中まで、十四五挺、一ツずつ消しちゃ頂いて、それで一ツずつ、生々(なまなま)とした香(におい)の、煙……と申して不思議にな、一つ色ではございません。稲荷様(いなりさま)のは狐色と申すではないけれども、大黒天のは黒く立ちます……気がいたすのでございます。少し茶色のだの、薄黄色だの、曇った浅黄がございましたり。
 その燃えさしの香(におい)の立つ処を、睫毛(まつげ)を濃く、眉を開いて、目を恍惚(うっとり)と、何と、香(におい)を散らすまい、煙を乱すまいとするように、掌(てのひら)で蔽(おお)って余さず嗅(か)ぐ。
 これが薬なら、身体(からだ)中、一筋ずつ黒髪の尖(さき)まで、血と一所に遍(あまね)く膚(はだ)を繞(めぐ)った、と思うと、くすぶりもせずになお冴(さ)える、その白い二の腕を、緋の袖で包みもせずに、……」
 聞く欣八は変な顔色(がんしょく)。
「時に……」
 と延一は、ギクリと胸を折って、抱えた腕なりに我が膝に突伏(つっぷ)して、かッかッと咳をした。

       十

 その瞼に朱を灌(そそ)ぐ……汗の流るる額を拭(ぬぐ)って、
「……時に、その枕頭(まくらもと)の行燈(あんどん)に、一挺消さない蝋燭があって、寂然(しん)と間(ま)を照(てら)しておりますんでな。
 ――あれは――
 ――水天宮様のお蝋です――
 と二つ並んだその顔が申すんでございます。灯の影には何が映るとお思いなさる、……気になること夥(おびただ)しい。
 ――消さないかい――
 ――堪忍して――
 是非と言えば、さめざめと、名の白露が姿を散らして消えるばかりに泣きますが。推量して下さいまし、愛想尽(あいそづか)しと思うがままよ、鬼だか蛇(じゃ)だか知らない男と一つ処……せめて、神仏(かみほとけ)の前で輝いた、あの、光一ツ暗(やみ)に無うては恐怖(こわ)くて死んでしまうのですもの。もし、気になったら、貴方(あなた)ばかり目をお瞑(つむ)りなさいまし。――と自分は水晶のような黒目がちのを、すっきり□(みは)って、――昼さえ遊ぶ人がござんすよ、と云う。
 可(よ)し、神仏もあれば、夫婦もある。蝋燭が何の、と思う。その蝋燭が滑々(すべすべ)と手に触る、……扱帯(しごき)の下に五六本、襟の裏にも、乳(ち)の下にも、幾本となく忍ばしてあるので、ぎょっとしました。残らず、一度は神仏の目の前で燃え輝いたのでございましょう、……中には、口にするのも憚(はばか)る、荒神(あらがみ)も少くはありません。
 ばかりでない。果ては、その中から、別に、綺麗な絵の蝋燭を一挺抜くと、それへ火を移して、銀簪(ぎんかんざし)の耳に透(とお)す。まずどうするとお思いなさる、……後で聞くとこの蝋燭の絵は、その婦(おんな)が、隙(ひま)さえあれば、自分で剳青(ほりもの)のように縫針で彫って、彩色(いろどり)をするんだそうで。それは見事でございます。
 また髪は、何十度逢っても、姿こそ服装(なり)こそ変りますが、いつも人柄に似合わない、あの、仰向(あおむ)けに結んで、緋(ひ)や、浅黄や、絞(しぼり)の鹿(か)の子の手絡(てがら)を組んで、黒髪で巻いた芍薬(しゃくやく)の莟(つぼみ)のように、真中(まんなか)へ簪(かんざし)をぐいと挿す、何転進(てんじん)とか申すのにばかり結う。
 何と絵蝋燭を燃したのを、簪で、その髷(まげ)の真中へすくりと立てて、烏羽玉(うばたま)の黒髪に、ひらひらと篝火(かがりび)のひらめくなりで、右にもなれば左にもなる、寝返りもするのでございます。
 ――こうして可愛がって下さいますなら、私ゃ死んでも本望です――
 とこれで見るくらいまた、白露のその美しさと云ってはない。が、いかな事にも、心を鬼に、爪を鷲(わし)に、狼の牙(きば)を噛鳴(かみな)らしても、森で丑(うし)の時参詣(まいり)なればまだしも、あらたかな拝殿で、巫女(みこ)の美女を虐殺(なぶりごろ)しにするようで、笑靨(えくぼ)に指も触れないで、冷汗を流しました。……
 それから悩乱。
 因果と思切れません……が、
 ――まあ嬉しい――
 と云う、あの、容子(ようす)ばかりも、見て生命(いのち)が続けたさに、実際、成田へも中山へも、池上、堀の内は申すに及ばず。――根も精も続く限り、蝋燭の燃えさしを持っては通い、持っては通い、身も裂き、骨も削りました。
 昏(くら)んだ目は、昼遊びにさえ、その燈(ともしび)に眩(まぶ)しいので。
 手足の指を我と折って、頭髪(ずはつ)を掴(つか)んで身悶(みもだ)えしても、婦(おんな)は寝るのに蝋燭を消しません。度かさなるに従って、数を増し、燈(ひ)を殖(ふや)して、部屋中、三十九本まで、一度に、神々の名を輝かして、そして、黒髪に絵蝋燭の、五色の簪を燃して寝る。
 その媚(なまめ)かしさと申すものは、暖かに流れる蝋燭より前(さき)に、見るものの身が泥になって、熔(と)けるのでございます。忘れません。
 困果と業(ごう)と、早やこの体(てい)になりましたれば、揚代(あげだい)どころか、宿までは、杖に縋(すが)っても呼吸(いき)が切れるのでございましょう。所詮の事に、今も、婦(おんな)に遣わします気で、近い処の縁日だけ、蝋燭の燃えさしを御合力(おごうりょく)に預ります。すなわちこれでございます。」
 と袂(たもと)を探ったのは、ここに灯(ひとも)したのは別に、先刻(さっき)の二七のそれであった。
 犬のしきりに吠(ほ)ゆる時――
「で、さてこれを何にいたすとお思いなさいます。懺悔(ざんげ)だ、お目に掛けるものがある。」
「大変だ、大変だ。何だって和尚さん、奴もそれまでになったんだ。気の毒だと思ってその女がくれたんだろうね、緋(ひ)の長襦袢(ながじゅばん)をどうだろう、押入の中へ人形のように坐らせた。胴へは何を入れたかね、手も足もないんでさ。顔がと云うと、やがて人ぐらいの大きさに、何十挺だか蝋燭を固めて、つるりとやっぱり蝋を塗って、細工をしたんで。そら、燃えさしの処が上になってるから、ぽちぽち黒く、女鳴神(おんななるかみ)ッて頭でさ。色は白いよ、凄(すご)いよ、お前さん、蝋だもの。
 私(わっし)あ反(そ)ったねえ、押入の中で、ぼうとして見えた時は、――それをね、しなしなと引出して、膝へ横抱きにする……とどうです。
 欠火鉢(かけひばち)からもぎ取って、その散髪(ざんぎり)みたいな、蝋燭の心へ、火を移す、ちろちろと燃えるじゃねえかね。
 ト舌は赤いよ、口に締りをなくして、奴め、ニヤニヤとしながら、また一挺、もう一本、だんだんと火を移すと、幾筋も、幾筋も、ひょろひょろと燃えるのが、搦(から)み合って、空へ立つ、と火尖(ひさき)が伸びる……こうなると可恐(おそろ)しい、長い髪の毛の真赤(まっか)なのを見るようですぜ。
 見る見る、お前さん、人前も構う事か、長襦袢の肩を両肱(りょうひじ)へ巻込んで、汝(てめえ)が着るように、胸にも脛(すね)にも搦(から)みつけたわ、裾(すそ)がずるずると畳へ曳(ひ)く。
 自然とほてりがうつるんだってね、火の燃える蝋燭は、女のぬくみだッさ、奴が言う、……可(よ)うがすかい。
 頬辺(ほっぺた)を窪ますばかり、歯を吸込んで附着(くッつ)けるんだ、串戯(じょうだん)じゃねえ。
 ややしばらく、魂が遠くなったように、静(じっ)としていると思うと、襦袢の緋が颯(さっ)と冴えて、揺れて、靡(なび)いて、蝋に紅(あか)い影が透(とお)って、口惜(くやし)いか、悲(かなし)いか、可哀(あわれ)なんだか、ちらちらと白露を散らして泣く、そら、とろとろと煮えるんだね。嗅(か)ぐさ、お前さん、べろべろと舐(な)める。目から蝋燭の涙を垂らして、鼻へ伝わらせて、口へ垂らすと、せいせい肩で呼吸(いき)をする内に、ぶるぶると五体を震わす、と思うとね、横倒れになったんだ。さあ、七顛八倒(しちてんばっとう)、で沼みたいな六畳どろどろの部屋を転摺(のめず)り廻る……炎が搦(から)んで、青蜥蜴(あおとかげ)の□打(のたう)つようだ。
 私(わっし)あ夢中で逃出した。――突然(いきなり)見附へ駈着(かけつ)けて、火の見へ駈上(かけあが)ろうと思ったがね、まだ田町から火事も出ずさ。
 何しろ馬鹿だね、馬鹿も通越しているんだね。」
 お不動様の御堂(みどう)を敲(たた)いて、夜中にこの話をした、下塗(したぬり)の欣八が、
「だが、いい女らしいね。」
 と、後へ附加えた了簡(りょうけん)が悪かった。
「欣八、気を附けねえ。」
「顔色が変だぜ。」
 友達が注意するのを、アハハと笑消して、
「女(あま)がボーッと来た、下町ア火事だい。」と威勢よく云っていた。が、ものの三月と経(た)たぬ中(うち)にこのべらぼう、たった一人の女房の、寝顔の白い、緋手絡(ひてがら)の円髷(まるまげ)に、蝋燭を突刺(つッさ)して、じりじりと燃して火傷(やけど)をさした、それから発狂した。
 但し進藤とは違う。陰気でない。縁日とさえあればどこへでも押掛けて、鏝塗(こてぬり)の変な手つきで、来た来たと踊りながら、
「蝋燭をくんねえか。」
 怪(あやし)むべし、その友達が、続いて――また一人。…………
大正二(一九一三)年六月



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