唄立山心中一曲
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著者名:泉鏡花 

       一

「ちらちらちらちら雪の降る中へ、松明(たいまつ)がぱっと燃えながら二本――誰も言うことでございますが、他(ほか)にいたし方もありませんや。真白(まっしろ)な手が二つ、悚然(ぞっ)とするほどな婦(おんな)が二人……もうやがてそこら一面に薄(うっす)り白くなった上を、静(しずか)に通って行(ゆ)くのでございます。正体は知れていても、何しろそれに、所が山奥でございましょう。どうもね、余り美しくって物凄(ものすご)うございました。」
 と鋳掛屋(いかけや)が私たちに話した。
 いきなり鋳掛屋が話したでは、ちと唐突(だしぬけ)に過ぎる。知己(ちかづき)になってこの話を聞いた場所と、そのいきさつをちょっと申陳(もうしの)べる。けれども、肝心な雪女郎と山姫が長襦袢(ながじゅばん)で顕(あらわ)れたようなお話で、少くとも御覧の方はさきをお急ぎ下さるであろうと思う、で、簡単にその次第を申上げる。
 所は信州姨捨(おばすて)の薄暗い饂飩屋(うどんや)の二階であった。――饂飩屋さえ、のっけに薄暗いと申出るほどであるから、夜の山の暗い事思うべしで。……その癖、可笑(おかし)いのは、私たちは月を見ると言って出掛けたのである。
 別に迷惑を掛けるような筋ではないから、本名で言っても差支えはなかろう。その時の連(つれ)は小村雪岱(こむらせったい)さんで、双方あちらこちらの都合上、日取が思う壺(つぼ)にはならないで、十一月の上旬、潤年(うるうどし)の順におくれた十三夜の、それも四日ばかり過ぎた日の事であった。
 ――居待月である。
 一杯飲んでいる内には、木賊(とくさ)刈るという歌のまま、研(みが)かれ出(い)づる秋の夜(よ)の月となるであろうと、その気で篠(しの)ノ井で汽車を乗替えた。が、日の短い頃であるから、五時そこそこというのにもうとっぷりと日が暮れて、間は稲荷山(いなりやま)ただ一丁場(ひとちょうば)だけれども、線路が上りで、進行が緩い処へ、乗客が急に少く、二人三人と数えるばかり、大(おおき)な木の葉がぱらりと落ちたようであるから、掻合(かきあ)わす外套(がいとう)の袖(そで)も、妙にばさばさと音がする。外は霜であろう。山の深さも身に沁(し)みる。夜(よ)さえそぞろに更け行くように思われた。
「来ましたよ。」
「二人きりですね。」
 と私は言った。
 名にし負う月の名所である。ここの停車場(ステエション)を、月の劇場の木戸口ぐらいな心得違いをしていた私たちは、幟(のぼり)や万燈(まんどう)には及ばずとも、屋号をかいた弓張提灯(ゆみはりぢょうちん)で、へい、茗荷屋(みょうがや)でございます、旅店の案内者ぐらいは出ていようと思ったの大きな見当違(ちがい)。絵に描(か)いた木曾の桟橋(かけはし)を想わせる、断崖(がけ)の丸木橋のようなプラットフォームへ、しかも下りたのはただ二人で、改札口へ渡るべき橋もない。
 一人がバスケットと、一人が一升壜(びん)を下げて、月はなけれど敷板の霜に寒い影を映しながら、あちらへ行(ゆ)き、こちらへ戻り、で、小村さんが唇をちょっと曲げて、
「汽車が出ないと向うへは渡られませんよ。」
「成程。線路を突切(つっき)って行く仕掛けなんです。」
 やがてむらむらと立昇る白い煙が、妙に透通って、颯(さっ)と屋根へ掛(かか)る中を、汽車は音もしないように静(しずか)に動き出す、と漆(うるし)のごとき真暗(まっくら)な谷底へ、轟(ごう)と谺(こだま)する……
「行っていらっしゃいまし……お静(しずか)に――」
 と私はつい、目の前(さき)をすれすれに行く、冷たそうに曇った汽車の窓の灯(あかり)に挨拶(あいさつ)した。ここへ二人きり置いて行かれるのが、山へ棄(す)てられるような気がして心細かったからである。
 壇はあるが、深いから、首ばかり並んで霧の裡(なか)なる線路を渡った。
「ちょっと、伺いますが。」
「はあ?」
 手ランプを提げた、真黒(まっくろ)な扮装(いでたち)の、年の少(わか)い改札掛(がかり)わずかに一人(いちにん)。
 待合所の腰掛の隅には、頭から毛布(けっと)を被(かぶ)ったのが、それもただ一人居る。……これが伊勢だと、あすこを狙(ねら)って吹矢を一本――と何も不平を言うのではない、旅の秋を覚えたので。――小村さんは一旦外へ出たが、出ると、すぐ、横の崖か巌(いわ)を滴る、ひたひたと清水の音に、用心のため引返して、駅員に訊いたのであった。
「その辺に旅籠屋(はたごや)はありましょうか。」
「はあ、別に旅籠屋と言って、何ですな、これから下へ十四五町、……約半道(はんみち)ばかり行(ゆ)きますと、湯の立つ家があるですよ。外(ほか)は大概一週間に一度ぐらいなものですでなあ。」
「あの風呂を沸かしますのが。」
「さよう。」
「難有(ありがと)う――少しどうも驚きました。とにかく、そこいらまで歩いてみましょう。」
 と小村さんが暗がりの中を探りながら先へ立って、
「いきなり、風呂を沸かす宿屋が半道と来たんでは、一口飲ませる処とも聞きにくうございますよ。しかし何かしらありましょう……何(なん)しろ暗い。」
 と構内の柵について……灯(ともしび)の百合(ゆり)が咲く、大(おおき)な峰、広い谷に、はらはらとある灯(ひ)をたよりに、ものの十間(けん)とは進まないで、口を開けて足を噛(か)む狼(おおかみ)のような巌(いわ)の径(こみち)に行悩んだ。
「どうです、いっそここへ蹲(しゃが)んで、壜詰(びんづめ)の口を開けようじゃありませんか。」
「まさか。」
 と小村さんは苦笑して、
「姨捨山、田毎(たごと)の月ともあろうものが、こんな路(みち)で澄ましているって法はありません。きっと方角を取違えたんでしょう。お待ちなさいまし、逆に停車場(ステエション)の裏の方へ戻ってみましょう。いくらか燈(あかり)が見えるようです。」
 双方黒い外套が、こんがらかって引返すと、停車場(ステエション)には早や駅員の影も見えぬ。毛布(けっと)かぶりの痩(や)せた達磨(だるま)の目ばかりが晃々(きらきら)と光って、今度はどうやら羅漢に見える。
 と停車場(ステエション)の後(うしろ)は、突然(いきなり)荒寺の裏へ入った形で、芬(ぷん)と身に沁(し)みる木(こ)の葉の匂(におい)、鳥の羽で撫(な)でられるように、さらさらと――袖が鳴った。
 落葉を透かして、山懐(やまふところ)の小高い処に、まだ戸を鎖(さ)さない灯(あかり)が見えた。
 小村さんが、まばらな竹の木戸を、手を拡げつつ探り当てて、
「きっと飲ませますよ、この戸の工合(ぐあい)が気に入りました」
と勢(いきおい)よく、一足先に上ったが、程もあらせず、ざわざわざわと、落葉を鳴らして落来るばかりに引返して、
「退却……」
「え、安達(あだち)ヶ原ですか。」
と聞く方が慌てている。
「いいえ爺さんですがね、一人土間で草鞋(わらじ)を造っていましてね。何だ、誰じゃいッて喚(わめ)くんです。」
「いや、それは恐縮々々。」
「まことに済みません。発起人がこの様子で。」
「飛んでもない。こういう時は花道を歌で引込(ひっこ)むんです、柄にはありませんがね。何でしたっけ、……
わが心なぐさめかねつ更科(さらしな)や
     姨捨山に照る月をみて
 照る月をみて慰めかねつですもの、暗いから慰められて可(い)いわけです。いよいよ路が分らなければ、停車場(ステエション)で、次の汽車を待って、松本まで参りましょう。時間がありますからそこは気丈夫です。」
 しかるところ、暗がりに目が馴(な)れたのか、空は星の上に星が重(かさな)って、底(そこひ)なく晴れている――どこの峰にも銀の覆輪(ふくりん)はかからぬが、自(おのず)から月の出の光が山の膚(はだ)を透(とお)すかして、巌(いわ)の欠(かけ)めも、路の石も、褐色(かばいろ)に薄く蒼味(あおみ)を潮(さ)して、はじめ志した方へ幽(かすか)ながら見えて来た。灯前(あかりさき)の木の葉は白く、陰なる朱葉(もみじ)の色も浸(にじ)む。
 かくして辿(たど)りついた薄暗い饂飩屋であった。
 何(なん)しろ薄暗い。……赤黒くどんより煤(すす)けた腰障子の、それも宵ながら朦朧(もうろう)と閉っていて、よろず荒もの、うどんあり、と記した大(おおき)な字が、鼾(いびき)をかいていそうに見えた。
 この店の女房が、東京ものは清潔(きれい)ずきだからと、気を利かして、正札のついた真新しい湯沸(ゆわかし)を達引(たてひ)いてくれた心意気に対しても、言われた義理ではないのだけれど。
「これは少々酷過(ひどす)ぎますね。」
「ここまで来れば、あと一辛抱で、もうちとどうにかしたのがありましょう。」
 実は、この段、囁(ささや)き合って、ちょうどそこが三岐(みつまた)の、一方は裏山へ上る山岨(やまそば)の落葉の径(こみち)。一方は崖を下る石ころ坂の急なやつ。で、その下りる方へ半町ばかりまた足探り試みたのであるが、がけの陰になって、暗さは暗し、路は悪し、灯(ひ)は遠し、思切って逆戻りにその饂飩屋を音訪(おとず)れたのであった。
「御免なさい。」
 と小村さんが優しい穏(おだやか)な声を掛けて、がたがたがたと入ったが、向うの対手(あいて)より土間の足許(あしもと)を俯向(うつむ)いて視(み)つつ、横にとぼとぼと歩行(ある)いた。
 灯が一つ、ぼうと赤く、宙に浮いたきりで何も分らぬ。釣(つり)ランプだが、火屋(ほや)も笠も、煤(すす)と一所に油煙で黒くなって正体が分らないのであった。
 が凝視(みつ)める瞳で、やっと少しずつ、四辺(あたり)の黒白(あいろ)が分った時、私はフト思いがけない珍らしいものを視(み)た。

       二

 框(かまち)の柱、天秤棒(てんびんぼう)を立掛けて、鍋釜(なべかま)の鋳掛(いかけ)の荷が置いてある――亭主が担ぐか、場合に依ってはこうした徒(てあい)の小宿(こやど)でもするか、鋳掛屋の居るに不思議はない。が、珍らしいと思ったのは、薄汚れた鬱金木綿(うこんもめん)の袋に包んで、その荷に一挺(ちょう)、紛(まが)うべくもない、三味線を結(ゆわ)え添えた事である。
 話に聞いた――谷を深く、麓(ふもと)を狭く、山の奥へ入った村里を廻る遍路のような渠等(かれら)には、小唄浄瑠璃(じょうるり)に心得のあるのが少くない。行(ゆ)く先々の庄屋のもの置(おき)、村はずれの辻堂などを仮の住居(すまい)として、昼は村の註文を集めて仕事をする、傍ら夜は村里の人々に時々の流行唄(はやりうた)、浪花節(なにわぶし)などをも唄って聞かせる。聞く方では、祝儀のかわりに、なくても我慢の出来る、片手とれた鍋の鋳掛も誂(あつら)えるといった寸法。小児(こども)に飴菓子(あめがし)を売って一手(ひとて)踊ったり、唄ったり、と同じ格で、ものは違っても家業の愛想――盛場(さかりば)の吉原にさえ、茶屋小屋のおかっぱお莨盆(たばこぼん)に飴を売って、爺(じじ)やあっち、婆(ばば)やこっち、おんじゃらこっちりこ、ぱあぱあと、鳴物入で鮹(たこ)とおかめの小人形を踊らせた、おん爺(じい)があったとか。同じ格だが、中には凄(すご)いような巧(うま)いのがあるという。
 唄いながら、草や木の種子(たね)を諸国に撒(ま)く。……怪しい鳥のようなものだと、その三味線が、ひとりで鳴くように熟(じっ)と視(み)た。
「相談は整いました。」
「それは難有(ありがた)い。」
「きあ、二階へどうぞ……何(なん)しろ汚いんでございますよ。」
 と、雨もりのような形が動くと、紺の上被(うわっぱり)を着た婦(おんな)になって、ガチリと釣ランプを捻(ひね)って離して、框(かまち)から直ぐの階子段(はしごだん)。
 小村さんが小さな声で、
「何(なん)しろこの体(てい)なんですから。」
「結構ですとも、行暮れました旅の修行者になりましょうね。」
「では、そのおつもりで――さあ、上(あが)りましょう。」
 と勢(いきおい)よく、下駄を踏違えるトタンに、
「あっ、」と言った。
 きゃんきゃんきゃん、クイ、キュウと息を引いて、きゃんきゃんきゃん、クイ、クウン、きゅうと鳴く。
 見事に小狗(こいぬ)を踏(ふみ)つけた。小村さんは狼狽(うろた)えながら、穴を覗(のぞ)くように土間を透かして、
「御免よ……御免よ……仕方がない、御免なさいよ。」
 で、遁(に)げないばかりに階子(はしご)を上(あが)ると、続いた私も、一所にぐらぐらと揺れるのに、両手を壇の端(はじ)にしっかり縋(すが)った。二階から女房が、
「お気をつけなさいましよ……お頭(つむ)をどうぞ……お危うございますよ、お頭を。」
「何(なあ)に。」
 吻(ほっ)としながら、小村さんは気競(きお)ったように、
「踏着けられた狗から見りゃ、頭を打(ぶ)つけるなんぞ何でもない。」
 日頃、沈着な、謹み深いのがこれだから、余程周章(あわ)てたに違いない。
 きゃんきゃんきゃん、クイッ、キュウ、きゃんきゃんきゃん、と断々(きれぎれ)に、声が細って泣止(なきや)まない。
「身に沁(し)みますね、何ですか、狐が鳴いてるように聞えます。」
 木地の古びたのが黒檀(こくたん)に見える、卓子台(ちゃぶだい)にさしむかって、小村さんは襟を合せた。
 件(くだん)の油煙で真黒(まっくろ)で、ぽっと灯の赤いランプの下に畏(かしこま)って、動くたびに、ぶるぶると畳の震う処は天変に対し、謹んで、日蝕を拝むがごとく、少なからず肝を冷しながら、
「旅はこれだから可(い)いんです。何も話の種です。……話の種と言えばね、小村さん。」
 と、探らないと顔が分らぬ。
「はあ。」
「何ですか、この辺には、あわれな、寂しい、物語がありそうな処ですね。あの、月宵鄙物語(つきのよいひなものがたり)というのがあります、御存じでしょうけれど。」
「いいえ。」
「それはね、月見の人に、木曾の麻衣(あさぎぬ)まくり手したる坊さん、というのが、話をする趣向になっているんですがね。(更科山(さらしなやま)の月見んとて、かしこに罷(まかり)登りけるに、大(おおい)なる巌(いわ)にかたかけて、肘(ひじ)折(お)れ造りたる堂あり。観音を据え奉(たてまつ)れり。鏡台とか云う外山(とやま)に向いて、)……と云うんですから、今の月見堂の事でしょう。……きっとこの崖の半腹にありましょうよ。……そこの高欄におしかかりながら、月を待つ間(ま)のお伽(とぎ)にとて、その坊さんが話すのですが、薗原山(そのはらやま)の木賊刈(とくさがり)、伏屋里(ふせやのさと)の箒木(ははきぎ)、更科山の老桂(ふるかつら)、千曲川(ちくまがわ)の細石(さざれいし)、姨捨山の姥石(うばのいし)なぞッて、標題(みだし)ばかりでも、妙にあわれに、もの寂しくなるのです。皆この辺の、山々谷々の事なんでしょう。何(なん)にしろ、
信濃なる千曲の川のさゞれ石も
    君しふみなば玉とひろはん
 と言う場所なんですもの。――やあ、明るくなった。」
 と思わず言った。
 釣ランプが、真新しい、明(あかる)いのに取換ったのである。
「お待遠様、……済みません。」
「どういたしまして、飛んだ御無理をお願い申して。」
 女房は崩れた鬢(びん)の黒い中から、思いのほか白い顔で莞爾(にっこり)して、
「私どもでは難有(ありがた)いんでございますけれども、まあ、何しろ、お月様がいらっしって下さると可いんですけれども。」
 その時、一列に蒲鉾形(かまぼこがた)に反(そ)った障子を左右に開けると、ランプの――小村さんが用心に蔓(つる)を圧(おさ)えた――灯が一煽(ひとあおり)、山気が颯(さっ)と座に沁みた。
「一昨晩の今頃は、二かさも三かさも大(おおき)い、真円(まんまる)いお月様が、あの正面へお出(いで)なさいましてございますよ。あれがね旦那、鏡台山(きょうだいざん)でございますがね、どうも暗うございまして。」
「音に聞いた。どれ、」
 と立つと、ぐらぐらとなる……
「おっと。」
 欄干につかまって、蝸牛(かたつむり)という身で、背を縮めながら首を伸ばし、
「漆で塗ったようだ、ぼっと霧のかかった処は研出(とぎだ)しだね。」
 宵の明星が晃然(きらり)と蒼(あお)い。
「あの山裾(やますそ)が、左の方へ入江のように拡がって、ほんのり奥に灯(あかり)が見えるでございましょう。善光寺平(ぜんこうじだいら)でございましてね。灯のありますのは、善光寺の町なんでございますよ。」
「何里あります。」
「八里ございます。」
「ははあ。」
「真下の谷底に、ちらちらと灯(ひ)が見えましょう、あそこが、八幡(やはた)の町でございましてね、お月見の方は、あそこから、皆さんが支度をなすって、私どもの裏の山へお上りになりますんでございますがね。鏡台山と、ちょうどさし向いになっております――おお、冷えますこと、……唯今(ただいま)お火鉢を。」
「小村さん、寸法は分りました、どうなすったんです、景色も見ないで。」
 と座に戻ると、小村さんは真顔で膝(ひざ)に手を置いて、
「いえ、その縁側に三人揃って立ったんでは、桟敷(さじき)が落ちそうで危険(けんのん)ですから。」
「まったく、これで猿楽があると、……天狗が揺り倒しそうな処です。可恐(おそろ)しいね。」
 と二人は顔を見合せた。
 が、註文通り、火鉢に湯沸(ゆわかし)が天上して来た、火も赫(かッ)と――この火鉢と湯沸が、前に言った正札つきなる真新しいのである。酒も銚子(ちょうし)だけを借りて、持参の一升壜(びん)の燗(かん)をするのに、女房は気障(きざ)だという顔もせず、お客冥利(みょうり)に、義理にうどんを誂(あつら)えれば、乱れてもすなおに銀杏返(いちょうがえし)の鬢(びん)を振って、
「およしなさいまし、むだな事でございます。おしたじが悪くって、めしあがられやしませんから。……何ぞお香(こう)のものを差上げましょう。」
 その心意気。
「難有(ありがた)い。」
 と熱燗(あつかん)三杯、手酌でたてつけた顔を撫でて、
「おかみさん。」
 杯をずいとさして、
「一つ申上げましょう、お知己(ちかづき)に……」
「私は一向に不調法ものでございまして。」
「まあ一盞(ひとつ)。」
「もう、全く。」
「でも、一盞(ひとつ)ぐらい、お酌をしましょう。」
 と小村さんが銚子を持ったのに、左右に手を振って、辷(すべ)るように、しかも軋(きし)んで遁(に)げ下りる。
「何だい。」
「毒だとでも思いましたかね。してみると、お互の人相が思われます。おかみさん一人きりなんでしょうかしら。」
「泊りましょうか。」
「御串戯(ごじょうだん)を。」
 クイッ、キュウ、クック――と……うら悲(かなし)げに、また聞える。
「弱りました。あの狗(いぬ)には。」
 と小村さんはまた滅入(めい)った。
 のしのしみしり、大皿を片手に、そこへ天井を抜きそうに、ぬいと顕(あらわ)れたのは、色の黒い、いが栗(ぐり)で、しるし半纏(ばんてん)の上へ汚れくさった棒縞(ぼうじま)の大広袖(おおどてら)を被(はお)った、から脛(すね)の毛だらけ、図体は大(おおき)いが、身の緊(しま)った、腰のしゃんとした、鼻の隆い、目の光る……年配は四十余(あまり)で、稼盛(かせぎざか)りの屈竟(くっきょう)な山賊面(さんぞくづら)……腰にぼッ込んだ山刀の無いばかり、あの皿は何(な)んだ、へッへッ、生首二個(ふたつ)受取ろうか、と言いそうな、が、そぐわないのは、頤(あご)に短い山羊髯(やぎひげ)であった。
「御免なせえ……お香のものと、媽々衆(かかしゅ)が気前を見せましたが、取っておきのこの奈良漬、こいつあ水ぽくてちと中(ちゅう)でがす。菜ッ葉が食えますよ。長蕪(ながかぶ)てッて、ここら一体の名物で、異(おつ)に食えまさ、めしあがれ。――ところで、媽々衆のことづてですがな。せつかく御酒を一つと申されたものを、やけな御辞退で、何だかね、南蛮(なんばん)秘法の痲痺薬(しびれぐすり)……あの、それ、何とか伝三熊の膏薬(こうやく)とか言う三題噺(ばなし)を逆に行ったような工合で、旦那方のお酒に毒でもありそうな様子合(あい)が、申訳がございません。で、居候の私(わっし)に、代理として一杯、いんえただ一つだけ。おしるしに頂戴してくれるようにと申すんで、や、も、御覧の通(とおり)、不躾(ぶしつけ)ながら罷(まかり)出ました。実はね、媽々衆、ああ見えて、浮気もんでね、亭主は旅稼ぎで留守なり、こちらのお若い方のような、おッこちが欲しさに、酒どころか、杯を禁(た)っておりますんでね。はッはッはッ。」
 階子(はしご)の下から、伸上った声がして、
「馬鹿な事を言わねえもんだ。」
 と、むきになると、まるだしの田舎なまり。
「真鍮台(しんちゅうだい)め。」と言った。
「……真鍮台?……」
 聞くと……真鍮台、またの名を銀流しの藤助(とうすけ)と言う、金箔(きんぱく)つきの鋳掛屋で、これが三味線の持ぬしであった。面構(つらがまえ)でも知れる……このしたたかものが、やがて涙ぐんで……話したのである。

       三

「私(わッし)はね、旦那。まだその時分、宿を取っちゃあいなかったんでございます、居酒屋、といった処で、豆腐も駄菓子も突(つッ)くるみに売っている、天井に釣(つる)した蕃椒(とうがらし)の方が、燈(ひ)よりは真赤(まっか)に目に立つてッた、皺(しな)びた店で、榾(ほだ)同然の鰊(にしん)に、山家片鄙(へんぴ)はお極(きま)りの石斑魚(いわな)の煮浸(にびたし)、衣川(ころもがわ)で噛(くい)しばった武蔵坊弁慶の奥歯のようなやつをせせりながら、店前(みせさき)で、やた一きめていた処でございましてね。
 ちょっと私(わっし)の懐中合(ふところあい)と、鋳掛屋風情のこの容体では、宿が取悪(とりにく)かったんでございますよ。というのが、焼山(やけやま)の下で、パッと一くべ、おへッつい様を燃(も)したも同じで、山を越しちゃあ、別に騒動も聞えなかったんでございますが、五日ばかり前に、その温泉に火事がありました。ために、木賃らしい、この方に柄相当のなんぞ焼けていて、二三軒残ったのは、いずれも玄関附だからちとたじろいだ次第なんでございますが。
 ええ……温泉でございますか、名は体をあらわすとか言います、とんだ山中(やまなか)で、……狼温泉――」
 「ああ、どこか、三峰山(みつみねさん)の近所ですか。」
 と、かつて美術学校の学生時代に、そのお山へ抜参(ぬけまい)りをして、狼よりも旅費の不足で、したたか可恐(こわ)い思いをした小村さんは、聞怯(ききおじ)をして口を入れた……噛(か)むがごとく杯を銜(ふく)みながら、
「あすこじゃあ、お狗様(いぬさま)と言わないと山番に叱られますよ。」
 藤助は真顔で、微酔(ほろよい)の頭(かぶり)を掉(ふ)った。
「途方もねえ、見当違い、山また山を遥(はるか)に離れた、峰々、谷々……と言えばね、山の中に島々と言う処がありまさ、おかしいね。いやもっと、深い、松本から七里も深(おく)へ入った、飛騨(ひだ)の山中――心細い処で……それでも小学校もありゃ、郵便局もありましたっけが、それなんぞも焼けていたんでございましてね。
 山坂を踏越えて、少々平(たいら)な盆地になった、その温泉場へ入りますと、火沙汰(ひざた)はまた格別、……酷(ひど)いもので、村はずれには、落葉、枯葉、焼灰に交って、□子鳥(あとり)、頬白(ほおじろ)、山雀(やまがら)、鶸(ひわ)、小雀(こがら)などと言う、紅(あか)だ、青だ、黄色だわ、紫の毛も交って、あの綺麗な小鳥どもが、路傍(みちばた)にはらはらと落ちている。こいつあ、それ、時節が今頃になりますと、よく、この信州路、木曾街道の山家には、暗い軒に、糸で編んで、ぶら下げて、美しい手鞠(てまり)が縺(もつ)れたように売ってるやつだて。それが、お前さん、火事騒ぎに散らかったんで――驚いたのは、中に交って、鴛鴦(おしどり)が二羽……番(つがい)かね。……
 や、頂きます、ト、ト、ごぜえやさ。」
 と小村さんの酌を、蓋(ふた)するような大(おおき)な掌(てのひら)で請けながら、
「どうもね、捨って抱きたいようでがしたぜ。まさか、池に泳いだり、樹に眠ったのが、火の粉を浴びはしますめえ。売ものが散らばりましたか、真赤(まっか)に染(そま)った木の葉を枕で、目を眠っていましたよ。
 天秤棒一本で、天井へ宙乗(ちゅうのり)でもするように、ふらふらふらふら、山から山を経歴(へめぐ)って……ええちょうど昨年の今月、日は、もっと末へ寄っておりましたが――この緋葉(もみじ)の真最中(まっさいちゅう)、草も雲も虹(にじ)のような彩色の中を、飽くほど視(み)て通った私(わっし)もね、これには足が停(とま)りました。
 なんと……綺麗な、その翼の上も、一重(ひとえ)敷いて、薄(うっす)り、白くなりました。この景色に舞台が換(かわ)って、雪の下から鴛鴦(おしどり)の精霊が、鬼火をちらちらと燃しながら、すっと糶上(せりあが)ったようにね、お前さん……唯今の、その二人の婦(おんな)が、私(わっし)の目に映りました。凄(すご)いように美しゅうがした。」
 と鋳掛屋は、肩を軟(やわらか)に、胸を低うして、更(あらた)めて私たち二人を視(み)たが、
「で、山路へ掛(かか)る、狼温泉の出口を通るんでございますが、場所はソレ件(くだん)の盆地だ。私(わっし)が飲んでいました有合(ありあい)御肴(おんさかな)というお極(きま)りの一膳めしの前なんざ、小さな原場(はらっぱ)ぐらい小広うございますのに――それでも左右へ並ばないで、前後(あとさき)になって、すっと連立って通ります。
 前へ立ったのは、蓑(みの)を着て、竹の子笠を冠(かぶ)っていました。……端折った片褄(かたづま)の友染(ゆうぜん)が、藁(わら)の裙(すそ)に優しくこぼれる、稲束(いなたば)の根に嫁菜が咲いたといった形。ふっさりとした銀杏返(いちょうがえし)が耳許(みみもと)へばらりと乱れて、道具は少し大きゅうがすが、背がすらりとしているから、その眉毛の濃いのも、よく釣合って、抜けるほど色が白い、ちと大柄ではありますが、いかにも体つきの嫋娜(しなやか)な婦(おんな)で、
(今晩は。)
 と、通掛(とおりかか)りに、めし屋へ声を掛けて行(ゆ)きました。が、※(ぱっ)[#「火+發」、174-5]と燃えてる松明(たいまつ)の火で、おくれ毛へ、こう、雪の散るのが、白い、その頬を殺(そ)ぐようで、鮮麗(あざやか)に見えて、いたいたしい。
 いたいたしいと言えば、それがね、素足に上草履(うわぞうり)。あの、旅店(やどや)で廊下を穿(は)かせる赤い端緒(はなお)の立ったやつで――しっとりとちと沈んだくらい落着いた婦(おんな)なんだが、実際その、心も空になるほど気の揉(も)めるわけがあって――思い掛けず降出した雪に、足駄でなし、草鞋(わらじ)でなし、中ぶらりに右のつッかけ穿(ばき)で、ストンと落ちるように、旅館から、上草履で出たと見えます。……その癖、一生の晴着というので、母(おっか)さん譲りの裙模様、紋着(もんつき)なんか着ていました。
 お話をしますうちに、仔細(しさい)は追々おわかりになりますが――これが何でさ、双葉屋と言って、土地での、まず一等旅館の女中で、お道さんと言う別嬪(べっぴん)、以前で申せば湯女(ゆな)なんだ。
 いや、湯女(ゆな)に見惚(みと)れていて、肝心の御婦人が後(おく)れました。もう一人の方は、山茶花(さざんか)と小菊の花の飛模様のコオトを着て、白地の手拭(てぬぐい)を吹流しの……妙な拵(こしらえ)だと思えば……道理こそ、降りかゝる雪を厭(いと)ったも。お前さん、いま結立(ゆいた)てと見える高島田の水の滴(た)りそうなのに、対に照った鼈甲(べっこう)の花笄(はなこうがい)、花櫛(はなぐし)――この拵(こしらえ)じゃあ、白襟に相違ねえ。お化粧も濃く、紅もさしたが、なぜか顔の色が透き通りそうに血が澄んで、品のいいのが寂しく見えます。華奢(きゃしゃ)な事は、吹つけるほどではなくても、雪を持った向風(むかいかぜ)にゃ、傘も洋傘(こうもり)も持切れますめえ、被(かぶ)りもしないで、湯女(ゆな)と同じ竹の子笠を胸へ取って、襟を伏せて、俯向(うつむ)いて行(ゆ)きます。……袖の下には、お位牌(いはい)を抱いて葬礼(ともらい)の施主(せしゅ)に立ったようで、こう[#「こう」は底本では「かう」]正しく端然(しゃん)とした処は、視(み)る目に、神々しゅうございます。何となく容子(ようす)が四辺(あたり)を沈めて、陰気だけれど、気高いんでございますよ。
 同じ人間もな……鑄掛屋を一人土間で飲(あお)らして、納戸の炬燵(こたつ)に潜込んだ、一ぜん飯の婆々(ばば)媽々(かか)などと言う徒(てあい)は、お道さんの(今晩は。)にただ、(ふわ、)と言ったきりだ。顔も出さねえ。その(ふわ、)がね、何の事アねえ、鼠の穴から古綿が千断(ちぎ)れて出たようだ。」
「ちと耳が疼(いた)いだな。」
 と饂飩屋の女房が口を入れた、――女房は鋳掛屋の話に引かれて、二階の座に加わっていたのである。
「そのかわり大まかなものだよ。店の客人が、飲さしの二合壜(びん)と、もう一本、棚より引攫(ひっさら)って、こいつを、丼へ突込(つッこ)んで、しばらくして、婦人(おんな)たちのあとを追ってぶらりと出て行くのに、何とも言わねえ。山は深い、旦那方のおっしゃる、それ、何とかって、山中暦日なしじゃあねえ、狼温泉なんざ、いつもお正月で、人間がめでてえね。」
「ははあ。」
「成程。」
 私たちは、そんな事は徒(あだ)に聞いて、さきを急いだ。
「荷はどうしたよ。」
 と女房が笑って言った。
「ほい忘れた。いや、忘れたんじゃあねえ、一ぜん飯に置放(おきッぱな)しよ。」
「それ見たか、あんな三味線だって、壜詰(びんづめ)二升ぐらいな値はあるでござんさあ、なあ、旦那方。」
「うむ、まったくな。」
 と藤助は額を圧(おさ)えて、
「おめでてえのはこっちだっけ、はッはッはッ。」

       四

「さて旦那方、洒落(しゃれ)や串戯(じょうだん)じゃあねえんでございます。……御覧の通り人間の中の変な蕈(きのこ)のような、こんな野郎にも、不思議なまわり合せで、その婦(おんな)たちのあとを尾(つ)けて行(ゆ)かなけりゃならねえ一役ついていたのでございましてね。……乗掛(のりかか)った船だ。鬱陶(うっとう)しくもお聞きなせえ。」
 すっとこ被(かぶ)りで、
 襟を敲(たた)いて、
「どんつくで出ましたわ……見えがくれに行(ゆ)く段取だから、急ぐにゃ当らねえ。別して先方(さき)は足弱だ。はてな、ここらに色鳥の小鳥の空蝉(うつせみ)、鴛鴦(おしどり)の亡骸(なきがら)と言うのが有ったっけと、酒の勢(いきおい)、雪なんざ苦にならねえが、赤い鼻尖(はなさき)を、頬被(ほおかぶり)から突出して、へっぴり腰で嗅(か)ぐ工合は、夜興引(よこひき)の爺(じじい)が穴一のばら銭(ぜに)を探すようだ。余計な事でございますがね――性(しょう)が知れちゃいましても、何だか、婦(おんな)の二人の姿が、鴛鴦の魂がスッと抜出したようでなりませんや。この辺だっけと、今度は、雪まじりに鳥の羽より焼屑(やけくず)が堆(うずたか)い処を見着けて、お手向(たむけ)にね、壜(びん)の口からお酒を一雫(ひとしずく)と思いましたが、待てよと私(わっし)あ考えた、正覚坊じゃアあるめえし、鴛鴦が酒を飲むやら、飲ねえやら。いっその事だと、手前の口へね、喇叭(らつぱ)と遣(や)った……こうすりゃ鳥の精がめしあがると同じ事だと……何しろ腹ン中は鴛鷲で一杯でございました。」
 女房が肥(ふと)った膝で、畳に当って、
「藤助さんよ。」
「ああ。」
「酒の話じゃあないじゃあないかね、ねえ、旦那方。」
「何しろ、そこで。」
 と、促せば、
「と二人はもう雑木林の崖に添って、上りを山路(やまみち)に懸(かか)っています。白い中を、ふつふつと、真紅(まっか)な鳥のたつように、向うへ行(ゆ)く。……一軒、家だか、穴だか知れねえ、えた、非人の住んでいそうな、引傾(ひっかし)いだ小屋に、筵(むしろ)を二枚ぶら下げて、こいつが戸になる……横の羽目に、半分ちぎれた浪花節(なにわぶし)の比羅(びら)がめらめらと動いているのがありました、それが宿(しゅく)はずれで、もう山になります。峠を越すまで、当分のうち家らしいものはございませんや。
 水の音が聞えます。ちょろちょろ水が、青いように冷く走る。山清水の小流(こながれ)のへりについてあとを慕いながら、いい程合で、透かして見ると、坂も大分急になった石□道(いしころみち)で、誰がどっちのを解いたか、扱帯(しごき)をな、一条(ひとすじ)、湯女(ゆな)の手から後(うしろ)に取って、それをその少(わか)い貴婦人てった高島田のが、片手に控えて縋(すが)っています……もう笠は外して脊へ掛けて……絞(しぼり)の紅(あか)いのがね、松明(たいまつ)が揺れる度に、雪に薄紫に颯(さっ)と冴(さ)えながら、螺旋(らせん)の道条(みちすじ)にこう畝(うね)ると、そのたびに、崖の緋葉(もみじ)がちらちらと映りました、夢のようだ。
 視(み)る奴(やつ)の方が夢のようだから、御当人たちは現(うつつ)かも知れねえ。
 でその二人は、そうやって、雪の夜道を山坂かけて、どこへ行くんだと思召(おぼしめ)す。
 ここだて――旦那。」
 藤助は息継(いきつぎ)に呷(ぐい)と煽(あお)って、
「この二階から、鏡台山を――(少し薄明りが映(さ)しますぜ、月が出ましょう。まあ、御緩(ごゆる)りなさいまし、)――それ、こうやって視(み)るように、狼温泉の宿はずれの坂から横正面といった、肩でこう捻向(ねじむ)いて高く上を視る処に、耳はねえが、あのトランプのハアト形に頭(かしら)を押立(おった)った梟(ふくろ)ヶ嶽(たけ)、梟、梟と一口に称(とな)えて、何嶽と言うほどじゃねえ、丘が一座(ひとくら)、その頂辺(てっぺん)に、天狗の撞木杖(しゅもくづえ)といった形に見える、柱が一本。……風の吹まわしで、松明の尖(さき)がぼっと伸びると、白くなって顕(あらわ)れる時は、耶蘇(ヤソ)の看板の十字架てったやつにも似ている……こりゃ、もし、電信柱で。
 蔭に隠れて見えねえけれど、そこに一張(ひとはり)天幕(テント)があります。何だと言うと、火事で焼けたがために、仮ごしらえの電信局で、温泉場から、そこへ出張(でば)っているのでございます。
 そこへ行くんだね、婦(おんな)二人は。
 で、その郵便局の天幕の裡(うち)に、この湯女(ゆな)の別嬪(べっぴん)が、生命(いのち)がけ二年越(ごし)に思い詰めている技手の先生……ともう一人は、上州高崎の大資産家(おおかねもち)の若旦那で、この高島田のお嬢さんの婿さんと、その二人が、いわれあって、二人を待って、対の手戟(てぼこ)の石突(いしづき)をつかないばかり、洋服を着た、毘沙門天(びしゃもんてん)、増長天(ぞうちょうてん)という形で、五体を緊(し)めて、殺気を含んで、呼吸(いき)を詰めて、待構えているんでがしてな。
 お嬢さんの方は、名を縫子さんと言うんで、申さずとも娘ッ子じゃありません、こりゃ御新姐(ごしんぞ)……じゃあねえね――若奥様。」

       五

峰の白雪、麓(ふもと)の氷、
今は互に隔てていれど、
やがて嬉しく、溶けて流れて、
合うのじゃわいな。……
「私(わっし)は日暮前に、その天幕張(テントばり)の郵便局の前を通って来たんでございますよ。……ちょうど狼の温泉へ入込(いりこ)みます途中でな。……晩に雪が来ようなどとは思いも着かねえ、小春日和(こはるびより)といった、ぽかぽかした好(い)い天気。……
 もっとも、甲州から木曾街道、信州路を掛けちゃあ、麓(ふもと)の岐路(えだみち)を、天秤(てんびん)で、てくてくで、路傍(みちばた)の木の葉がね、あれ性(しょう)の、いい女の、ぽうとなって少し唇の乾いたという容子(ようす)で、へりを白くして、日向(ひなた)にほかほかしていて、草も乾燥(はしゃ)いで、足のうらが擽(くすぐ)ってえ、といった陽気でいながら、槍(やり)、穂高、大天井、やけに焼(やけ)ヶ嶽などという、大薩摩(おおざつま)でもの凄(すご)いのが、雲の上に重(かさな)って、天に、大波を立てている、……裏の峰が、たちまち颯(さっ)と暗くなって、雲が被(かぶ)ったと思うと、箕(み)で煽(あお)るように前の峰へ畝(うね)りを立ててあびせ掛けると、浴びせておいて晴れると思えば、その裏の峰がもう晴れた処から、ひだを取って白くなります。見る見るうちに雪が掛(かか)るんでございましてね。左右の山は、紅くなったり、黄色かったり、酔ったり、醒(さ)めたりして、移って来るそのむら雲を待っている。
 といった次第(わけ)で、雪の神様が、黒雲の中を、大(おおき)な袖を開いて、虚空を飛行(ひぎょう)なさる姿が、遠くのその日向の路に、螽斯(ばった)ほどの小さな旅のものに、ありありと拝まれます。
 だから、日向で汗ばむくらいだと言った処で、雑樹一株隔てた中には、草の枯れたのに、日が映(さ)すかと見れば、何、瑠璃色(るりいろ)に小さく凝(こ)った竜胆(りんどう)が、日中(ひなか)も冷い白い霜を噛(か)んでいます。
 が、陽の赤い、その時梟ヶ嶽は、猫が日向ぼっこをしたような形で、例の、草鞋(わらじ)も脚絆(きゃはん)も擽(くすぐ)ってえ。……満山のもみじの中(うち)に、もくりと一つ、道も白く乾いて、枯草がぽかぽかする。……芳(かんば)しい落葉の香のする日の影を、まともに吸って、くしゃみが出そうなのを獅噛面(しかみづら)で、
(鋳掛……錠前の直し。)
 すくッと立った電信柱に添って、片枝折れた松が一株、崖へのしかかって立っています、天幕張だろうが、掘立小屋だろうが、人さえ住んでいれば家業冥利(みょうり)……
(鋳掛……錠前直し。)……
 と、天幕とその松のあります、ちょっと小高くなった築山(つきやま)てった下を……温泉場の屋根を黒く小さく下に見て、通りがかりに、じろり……」
 藤助は、ぎょろりとしながら、頬辺(ほっぺた)を平手で敲(たた)いて、
「この人相だ、お前さん、じろりとよりか言いようはねえてね、ト行(や)った時、はじめて見たのが湯女のその別嬪だ。お道さんは、半襟の掛った縞の着ものに、前垂掛(まえだれがけ)、昼夜帯、若い世話女房といった形で、その髪のいい、垢抜(あかぬけ)のした白い顔を、神妙に俯向(うつむ)いて、麁末(そまつ)な椅子に掛けて、卓子(テエブル)に凭掛(よりかか)って、足袋を繕っていましたよ、紺足袋を……
(鋳掛……錠前の直し。)……
 ちょっと顔を上げて見ましたっけ。直(すぐ)に、じっと足袋を刺すだて。
 動いただけになお活(い)きて、光沢(つや)を持った、きめの細(こまか)な襟脚の好(よ)さなんと言っちゃねえ。……通り切れるもんじゃあねえてね、お前さん、雲だか、風だか、ふらふらと野道山道宿なしの身のほまちだ。
 一言(ひとこと)ぐらい口を利いて、渋茶の一杯も、あのお手からと思いましたがね、ぎょっとしたのは半分焦げたなりで天幕の端に真直(まっすぐ)に立った看板だ。電信局としてある……
 茶屋小屋、出茶屋の姉(ねえ)さんじゃあねえ。風俗(なりふり)はこの目で確(たしか)に睨(にら)んだが……おやおや、お役人の奥様かい。……郵便局員の御夫人かな。
 これが旦那方だと仔細(しさい)ねえ。湯茶の無心も雑作はねえ。西行法師なら歌をよみかける処だが、山家めぐりの鋳掛屋じゃあ道を聞くのも跋(ばつ)が変だ。
 ところで、椅子はまだ二三脚、何だか、こちとらにゃ分らねえが、ぴかぴか機械を据附けた卓子(テエブル)がもう一台。向ってきちんと椅子が置いてあるが、役人らしいのは影も見えねえ。
 ははあ、来る道で、向(むこう)の小山の土手腹(どてっぱら)に伝わった、電信の鋼線(はりがね)の下あたりを、木の葉の中に現れて、茶色の洋服で棒のようなものを持って、毛虫が動くように小さく歩行(ある)いている形を視(み)た。……鉄砲打の鳥おどしかと思ったが、大きにそんなのが局員の先生で、この姉さんの旦那かも知れねえよ。
 が何しろ留守だ。
(鋳掛……錠前直し。)……
 と崖ぶちの日向(ひなた)に立ったが、紺足袋の繕い。……雪の襟脚、白い手だ。悚然(ぞっ)とするほど身に沁みてなりませんや。
 遥(はるか)に見える高山の、かげって桔梗色(ききょういろ)したのが、すっと雪を被(かつ)いでいるにつけても。で、そこへまず荷をおろしました。
(や、えいとこさ。)と、草鞋(わらじ)の裏が空へ飜(かえ)るまで、山端(やまばた)へどっしりと、暖かい木の葉に腰を落した。
 間拍子もきっかけも渡らねえから、ソレ向うの嶽(たけ)の雪を視(み)ながら、
(ああ、降ったる雪かな。)
 とか何とか、うろ覚えの独言(ひとりごと)を言ってね、お前さん、
(それ、雪は鵝毛(がもう)に似て飛んで散乱し、人は鶴□(かくしょう)を着て立って徘徊(はいかい)すと言えり……か。)
 なんのッて、ひらひらと来る紅色(べにいろ)の葉から、すぐに吸いつけるように煙草(たばこ)を吹かした。が、何分にも鋳掛屋じゃあ納(おさま)りませんな。
 ところでさて、首に巻いた手拭(てぬぐい)を取って、払(はた)いて、馬士(まご)にも衣裳(いしょう)だ、芳原かぶりと気取りましたさ。古三味線を、チンとかツンとか引掻鳴(ひっかきな)らして、ここで、内証で唄ったやつでさ。
峰の白雪、麓の氷――
 旦那、顔を見っこなし……極(きまり)が悪い……何と、もし、これで別嬪の姉さんを引寄せようという腹だ、おかしな腹だ、狸(たぬき)の腹だね。
 だが、こいつあこちとら徒(であい)の、すなわち狸の腹鼓という甘術(あまて)でね。不気味でも、気障(きざ)でも、何でも、聞く耳を立てるうちに、うかうかと釣出されずにゃいねえんだね。どうですえ、……それ、来ました。」
 と不意に振向く、階子段(はしごだん)の暗い穴。
 小村さんも私も慄然(ぞっと)した。
 女房はなおの事……
「あれ、吃驚(びっくり)した。」
 と膝で摺寄(すりよ)る。
 藤助は一笑して、
「まずは、この寸法でございましてね、お道さんを引寄せた工合というのが、あはッはッ。」

       六

「見ない振(ふり)、知らない振、雪の遠山(とおやま)に向いて、……溶けて流れてと、唄っていながら、後方(うしろ)へ来るのが自然と分るね、鹿の寄るのとは違います。……別嬪の香(かおり)がほんのりで、縹緻(きりょう)に打たれて身に沁む工合が、温泉の女神様(おんながみさま)が世話に砕けて顕(あらわ)れたようでございましたぜ。……(逢いたさに見たさに)何とか唄(や)って、チャンと句切ると、
(あの、鋳掛屋さん。)
 と、初音(はつね)だね。……
 視(み)ると、朱塗の盆に、吸子(きびしょ)、茶碗を添えて持っている。黒繻子(くろじゅす)の引掛帯(ひっかけおび)で、浅葱(あさぎ)の襟のその様子が何とも言えねえ。
 いえ、もう一つ、盆の上に、紙に包んだ蝶々というのが載(の)っていました。……それがために讃(ほ)めるんじゃあねえけれど、拵(こしら)えねえで、なまめいたもんでしたぜ。人を喰ったこっちの芳原かぶりなんざ、もの欲しそうで極(きま)りが悪くなったくらいで。
(へい、へい、へい、こりゃ奥様、恐入りました。)
 とわざとらしくも、茶碗をな、両手で頂かずにゃいられなかった。
 姉(ねえ)さんが、初々しい、しおらしい事を、お聞きなせえ、ぽうッとなって、
(まあ、あんな事、私は奉公人なんですよ。)
 さ、その奉公人風情が、生意気のようだけれど、唄をもう一つ唄って聞かしてもらえまいか、と言うんじゃありませんかい。お眺(あつらえ)が註文にはまった。こんな処でよろしければ、山で樹の数、幾つだって構やあしませんと、……今度は(浮世はなれて奥山ずまい、恋もりん気も忘れていたが、)……で御機嫌を取結ぶと、それよりか、やっぱり、先(せん)の(やがて嬉しく溶けて流れて合うのじゃわいな)の方を聞かして欲しいと、山姫様、御意遊ばす。」
 藤助は杯でちょっと句切って、眉も口も引緊(ひきしま)った。
「旦那方の前でございますがね、こう中腰に、〆加減(しめかげん)の好(い)い帯腰で、下に居て、白い細い指の先を、染めた草につくようにして熟(じっ)と聞く。……聞手が、聞手だ。唄う方も身につまされて、これでもお前さん、人間交際(づきええ)もすりゃ、女出入(でいり)も知らねえじゃあねえ。少(わか)い時を思い出して、何となく、我身ながら引入れられて、……覚えて、ついぞねえ、一生に一度だ。較(くら)べものにゃあなりませんが、むかし琵琶法師(びわほうし)の名誉なのが、こんな処で草枕、山の神様に一曲奏でた心持。
 と姉さんがとけて流れて合うのじゃわいなと、きき入りながら、睫毛(まつげ)を長くうつむいて、ほろりとした時、こっらも思わず、つい、ほろり……いえさ、この面(つら)だからポタリと出ました。」
 と口では言いつつ声が湿った。
「(つかん事を聞きますけれど、鋳掛屋さん、錠の合鍵(あいかぎ)を頼まれて下さいますか。)……と姉さんがね。
 私(わっし)あこれを聞いて、ポンと両手を拍(う)った。
 このくらいつく事は、私の唄が三味線につくようなもんじゃあねえ。
(鍵が狂ったんでございますかい。)
(いいえ、無いんですけれど。)
(雑作はがあせん、煙草三服飲む間(うち)だ。)
 そこで錠前を見て、という事になると、ちと内証事らしい。……しとやかな姉さんが、急に何だか、そわついて、あっちこっち□(みまわ)しましたが、高い処にこう立つと、風が攫(さら)って、すっと、雲の上へ持って行(ゆ)きそうで危(あぶな)ッかしいように見えます。
 勿論人影は、ぽッつりともない。
 が、それでも、天幕(テント)の正面からじゃあ、気咎(きとが)めがしたと見えて、
(済みませんが、こっちから。)
 裏へ廻わると、綻(ほころ)びた処があるので。……姉さんは科(しな)よく消えたが、こっちは自雷也(じらいや)の妖術にアリャアリャだね。列子(せこ)という身で這込(はいこ)みました。が、それどころじゃあねえ。この錠前だと言うのを一見に及ぶと、片隅に立掛けた奴だが、大蝦蟆(おおがま)の干物とも、河馬(かば)の木乃伊(みいら)とも譬(たと)えようのねえ、皺(しな)びて突張(つっぱ)って、兀斑(はげまだら)の、大古物の大(でっ)かい革鞄(かばん)で。
 こいつを、古新聞で包んで、薄汚れた兵児帯(へこおび)でぐるぐると巻いてあるんだが、結びめは、はずれて緩んで、新聞もばさりと裂けた。そこからそれ、煤(すす)を噴きそうな面(つら)を出して、蘆(あし)の茎(ずい)から谷覗(のぞ)くと、鍵の穴を真黒(まっくろ)に窪ましているじゃアありませんか。
(何が入っておりますえ。)
 失礼な……人様の革鞄を……だが、私(わっし)あつい、うっかり言った。
(あの、旦那さんのお大事なものばかり。)
(へい、貴女(あなた)の旦那様の?)
(いいえ、技師の先生の方ですが、その方のお大事なものが残らず、お国でおかくれになりました奥様のお骨(こつ)も、たったお一人ッ子の、かけがえのない坊ちゃまのお骨も、この中に入っていらっしゃるんですって。)
 と、こう言うんですね。」
 小村さんと私は、黙って気を引いて瞳を合した。
 藤助は一息ついて、
「それを聞いて、安心をしたくらいだ。技師の旦那の奥様と坊ちゃまのお骨と聞いて、安心したも、おかしなものでございますがね、一軒家の化葛籠(ばけつづら)だ、天幕の中の大革鞄じゃあ、中(うち)に何が入ってるか薄気味が悪かったんで。
(へい、その鍵をおなくしなすった……そいつはお困りで、)
 と錠前の寸法を当りながら、こう見ますとね、新聞のまだ残った処に、青錆(あおさび)にさびた金具の口でくいしめた革鞄の中から、紫の袖が一枚。……
 袂(たもと)が中に、袖口をすんなり、白羽二重の裏が生々(いきいき)と、女の膚(はだ)を包んだようで、被(き)た人がらも思われる、裏が通って、揚羽(あげは)の蝶の紋がちらちらと羽を動かすように見えました。」
 小村さんと私とは、じっと見合っていたままの互の唇がぶるぶると震えたのである。

       七

 ――実はこの時から数えて前々年の秋、おなじ小村さんと、(連(つれ)がもう一人あった。)三人連で、軽井沢、碓氷(うすい)のもみじを見た汽車の中(うち)に、まさしく間違うまい、これに就いた事実があって、私は、不束(ふつつか)ながら、はじめ、淑女画報に、「革鞄(かばん)の怪。」後に「片袖。」と改題して、小集の中(うち)に編んだ一篇を草した事がある。
 確(たしか)に紫の袖の紋も、揚羽の蝶と覚えている。高島田に花笄(はなこうがい)の、盛装した嫁入姿の窈窕(ようちょう)たる淑女が、その嫁御寮に似もつかぬ、卑しげな慳(けん)のある女親まじりに、七八人の附添とともに、深谷(ふかや)駅から同じ室に乗組んで、御寮はちょうど私たちの真向うの席に就いた。まさに嫁がんとする娘の、嬉しさと、恥らいと、心遣(こころやり)と、恐怖(おそれ)と、笑(えみ)と、涙とは、そのまま膝に手を重ねて、つむりを重たげに、ただ肩を細く、さしうつむいた黒髪に包んで、顔も上げない。まことにしとやかな佳人であった。
 この片袖が、隣席にさし置かれた、他の大革鞄の口に挟まったのである。……失礼ながらその革鞄は、ここに藤助が饒舌(しゃべ)るのと、ほぼ大差のないものであった。
 が、持ぬしは、意気沈んで、髯(ひげ)、髪もぶしょうにのび、面(おもて)は憔悴(しょうすい)はしていたが、素純にして、しかも謹厳なる人物であった。
 汽車の進行中に、この出来事が発見された時、附添の騒ぎ方は……無理もないが、思わぬ麁□(そそう)であろう、失策した人物に対して、傍(はた)の見る目は寧(むし)ろ気の毒なほどであった。
 一も二もない、したたかに詫びて、その革鞄の口を開くので、事は決着するに相違あるまい。
 我も人も、しかあるべく信じた。
 しかるにもかかわらず、その人物は、人々が騒いで掛けた革鞄の手の中から、すかりと握拳(にぎりこぶし)の手を抜くと斉(ひと)しく、列車の内へすっくと立って、日に焼けた面(つら)は瓦(かわら)の黄昏(たそが)るるごとく色を変えながら、決然たる態度で、同室の御婦人、紳士の方々、と室内に向って、掠声(かすれごえ)して言った。……これなる窈窕たる淑女(――私もここにその人物の言った言(ことば)を、そのまま引用したのであるが)窈窕たる淑女のはれ着の袖を侵(おか)したのは偶然の麁□である。はじめは旅行案内を掴出(つかみだ)して、それを投込んで錠を下した時に、うっかり挟んだものと思われる。が、それを心着いた時は――と云って垂々(たらたら)と額に流るる汗を拭(ぬぐ)って――ただ一瞬間に千万無量、万劫(ばんごう)の煩悩を起した。いかに思い、いかに想っても、この窈窕たる淑女は、正(まさ)しく他(ひと)に嫁せらるるのである……ばかりでない、次か、あるいはその次の停車場(ステエション)にて下車なさるるとともにたちまち令夫人とならるる、その片袖である。自分は生命を掛けて恋した、生命を掛くるのみか、罪はまさに死である、死すともこの革鞄の片袖はあえて離すまいと思う。思い切って鍵を棄てました。私(わたくし)はこの窓から、遥(はるか)に北の天に、雪を銀襴のごとく刺繍(ししゅう)した、あの遠山(えんざん)の頂を望んで、ほとんど無辺際に投げたのです、と言った。
 ――汽車は赤城山(あかぎさん)をその巽(たつみ)の窓に望んで、広漠たる原野の末を貫いていたのであった。――
 渠(かれ)は電信技師である。立野竜三郎(たつのりゅうざぶろう)と自ら名告(なの)った。渠(かれ)はもとより両親も何もない、最愛の児(こ)を失い、最愛の妻を失って、世を果敢(はかな)むの余り、その妻と子の白骨と、ともに、失うべからざるものの一式、余さずこの古革鞄に納めた、むしろ我が孤(みひとつ)の煢然(けいぜん)たる影をも納めて、野に山に棄つるがごとく、絶所、僻境(へききょう)を望んで飛騨山中の電信局へ唯今赴任する途中である。すでに我身ながら葬り去った身は、ここに片袖とともに蘇生(よみがえ)った。蘇生ると同時に、罪は死である。否(いや)、死はなお容易(たやす)い、天の咎(とが)、地の責(せめ)、人の制規(おきて)、いかなる制裁といえども、甘んじて覚悟して相受ける。各位が、我(わが)ために刑を撰んで、その最も酷なのは、磔(はりつけ)でない、獄門でない、牛裂(うしざき)の極刑でもない。この片袖を挟んだ古革鞄を自分にぶら下げさせて、嫁御寮のあとに犬のごとく従わせて、そのまま今日(こんにち)の婿君の脚下に拝し跪(ひざまず)かせらるる事である。諾(よし)、その厳罰を蒙(こうむ)りましょう、断じて自分はこの革鞄を開いて片袖は返さぬのである。ただ、天地神明に誓うのは、貴女(きじょ)の淑徳と貞潔である。自分は生れてより今に及んで、その姿を視(み)たのはわずかに今より前(ぜん)、約三十分に過ぎない、……包ましくさしうつむかれた淑女は、申すまでもなく、自分に向って瞳をも動かされなかった事を保証する、――謹んで断罪を待ちます……各位。
 吶々(とつとつ)として、しかも沈着に、純真に、縷々(るる)この意味の数千言を語ったのが、轟々(ごうごう)たる汽車の中(うち)に、あたかも雷鳴を凌(しの)ぐ、深刻なる独白のごとく私たちの耳に響いた。
 附添の数多(あまた)の男女は、あるいは怒り、あるい罵(ののし)り、あるいは呆れ、あるいは呪詛(のろ)った。が、狼狽(ろうばい)したのは一様である。車外には御寮を迎(むかえ)の人数(にんず)が満ちて、汽車は高崎に留まろうとしたのであるから……
 既に死灰のごとく席に復して瞑目(めいもく)した技師がその時再び立った。ここに手段があります、天が命ずるにあらず、地が教うるにあらず、人の知れるにあらず、ただ何ものの考慮とも分らない手段である……すなわち小刀(ナイフ)をもって革鞄を切開く事なのです。……私(わたくし)は拒みません。刀ものは持合せました、と云って、鞘(さや)をパチンと抜いて渡したのを、あせって震える手に取って、慳相(けんそう)な女親が革鞄の口を切裂こうとして、屹(きっ)と猜疑(さいぎ)の瞳を技師に向くると同時に、大革鞄を、革鞄のまま提げて、そのまま下車しようとした時であった。
「いいえ!」
 と一言(ひとこと)、その窈窕たる淑女は、袖つけをひしと取って、びりびりと引切(ひっき)った。緋(ひ)の長襦袢(ながじゅばん)が※(ぱっ)[#「火+發」、192-6]と燃える、片身を火に焼いたように衝(つッ)と汽車を出たその姿は、かえって露の滴るごとく、おめき集(つど)う群集は黒煙(くろけむり)に似たのである。
 技師は真俯向(まうつむ)けに、革鞄の紫の袖に伏した。
 乗合は喝采(かっさい)して、万歳の声が哄(どっ)と起った。
 汽車の進むがままに、私たちは窓から視(み)た。人数に抱上げらるるようになって、やや乱れた黒髪に、雪なす小手を翳(かざ)して此方(こなた)を見送った半身の紅(くれない)は、美しき血をもって描いたる煉獄(れんごく)の女精であった。
 碓氷の秋は寒かった。

       八

 藤助は語り継いだ。
「姉(ねえ)さんが、そうすると……驚いたように、
(あれ、それを見ちゃ不可(いけ)ません。)
(やあ、つい麁□(そそう)を。)
 と、何事も御意のまま、頭をすくめて恐縮をしますとね、低声(こごえ)になって気の毒そうに、
(でも、あの、そういう私が、密(そっ)と出して、見たいんでございます。)
(そこで鍵が御入用。)
(ええ、ですけど、人様のものを、お許しも受けないで、内証で見ては悪うございましょうねえ。)
(何、開けたらまた閉めておきゃあ、何でもありゃしませんや。)
 とその容子(ようす)だもの、お前さん、何だって構やしません。――お手軽様に言って退(の)けると、口に袖をあてながら、うっかり釣込まれたような様子でね、また前後(あとさき)を視(み)ましたっけ。
(では、ちょっと今のうち鋳掛屋さん、あなたお職柄で鍵を拵(こしら)えるより前(さき)に、手で開けるわけには参りませんの。)
 ぶるぶるぶる……私(わっし)あ、頭と嘴(くちばし)を一所に振った。旦那の前(めえ)だが、……指を曲げて、口を押えて、瞼(まぶた)へ指の環を当がって、もう一度頭を掉(ふ)った。それ、鍵の手は、内証で遣(や)っても、たちまちお目玉。……不可(いけね)えてんだ、お前さん。
(御法度(ごはっと)だ。)
 と重く持たせて、
(ではござれども、姉さんの事だ、遣らかしやしょう、大達引(おおたてひき)。奥様のお記念(かたみ)だか、何だか知らねえ。成程こいつあ、そのな、へッへッ、誰方(どなた)かに向っての姉さんの心意気では……お邪魔になるでございましょうよ。奥歯にものが挟まったって譬(たとえ)はこれだ。すっぱり、打開(ぶちま)けてお出しなせえまし。)
(いえ、あの、開けて出すよりか、私が中へ入りたい。)
 と仇気(あどけ)なく莞爾(にっこり)すら、チェーしたもんだ。

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