陽炎座
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著者名:泉鏡花 

       一

「ここだ、この音なんだよ。」
 帽子(あたま)も靴も艶々(てらてら)と光る、三十ばかりの、しかるべき会社か銀行で当時若手の利(き)けものといった風采(ふう)。一ツ、容子(ようす)は似つかわしく外国語で行こう、ヤングゼントルマンというのが、その同伴(つれ)の、――すらりとして派手に鮮麗(あざやか)な中に、扱帯(しごき)の結んだ端、羽織の裏、褄(つま)はずれ、目立たないで、ちらちらと春風にちらめく処々(ところどころ)に薄(うっす)りと蔭がさす、何か、もの思(おもい)か、悩(なやみ)が身にありそうな、ぱっと咲いて浅く重(かさな)る花片(はなびら)に、曇(くもり)のある趣に似たが、風情は勝る、花の香はその隈(くま)から、幽(かすか)に、行違(ゆきちが)う人を誘うて時めく。薫(かおり)を籠(こ)めて、藤、菖蒲(あやめ)、色の調う一枚小袖(こそで)、長襦袢(ながじゅばん)。そのいずれも彩糸(いろいと)は使わないで、ひとえに浅みどりの柳の葉を、針で運んで縫ったように、姿を通して涼しさの靡(なび)くと同時に、袖にも褄にもすらすらと寂しの添った、痩(や)せぎすな美しい女(ひと)に、――今のを、ト言掛けると、婦人(おんな)は黙って頷(うなず)いた。
 が、もう打頷く咽喉(のど)の影が、半襟の縫の薄紅梅(うすこうばい)に白く映る。……
 あれ見よ。この美しい女(ひと)は、その膚(はだえ)、その簪(かんざし)、その指環(ゆびわ)の玉も、とする端々透通(すきとお)って色に出る、心の影がほのめくらしい。
「ここだ、この音なんだよ。」
 婦人(おんな)は同伴(つれ)の男にそう言われて、時に頷いたが、傍(かたわら)でこれを見た松崎と云う、絣(かすり)の羽織で、鳥打を被(かぶ)った男も、共に心に頷いたのである。
「成程これだろう。」
 但し、松崎は、男女(なんにょ)、その二人の道ずれでも何でもない。当日ただ一人で、亀井戸(かめいど)へ詣(もう)でた帰途(かえり)であった。
 住居(すまい)は本郷。
 江東橋(こうとうばし)から電車に乗ろうと、水のぬるんだ、草萌(くさもえ)の川通りを陽炎(かげろう)に縺(もつ)れて来て、長崎橋を入江町に掛(かか)る頃から、どこともなく、遠くで鳴物の音が聞えはじめた。
 松崎は、橋の上に、欄干に凭(もた)れて、しばらく彳(たたず)んで聞入ったほどである。
 ちゃんちきちき面白そうに囃(はや)すかと思うと、急に修羅太鼓(しゅらだいこ)を摺鉦(すりがね)交(まじ)り、どどんじゃじゃんと鳴らす。亀井戸寄りの町中(まちなか)で、屋台に山形の段々染(だんだらぞめ)、錣頭巾(しころずきん)で、いろはを揃えた、義士が打入りの石版絵を張廻わして、よぼよぼの飴屋(あめや)の爺様(じさま)が、皺(しわ)くたのまくり手で、人寄せにその鉦(かね)太鼓を敲(たた)いていたのを、ちっと前(さき)に見た身にも、珍らしく響いて、気をそそられ、胸が騒ぐ、ばったりまた激しいのが静まると、ツンツンテンレン、ツンツンテンレン、悠々とした糸が聞えて、……本所駅へ、がたくた引込(ひっこ)む、石炭を積んだ大八車の通るのさえ、馬士(まご)は銜煙管(くわえぎせる)で、しゃんしゃんと轡(くつわ)が揺れそうな合方となる。
 絶えず続いて、音色(ねいろ)は替っても、囃子(はやし)は留まらず、行交(ゆきか)う船脚は水に流れ、蜘蛛手(くもで)に、角(つの)ぐむ蘆(あし)の根を潜(くぐ)って、消えるかとすれば、ふわふわと浮く。浮けば蝶の羽(は)の上になり下になり、陽炎(かげろう)に乗って揺れながら近づいて、日当(ひあたり)の橋の暖い袂(たもと)にまつわって、ちゃんちき、などと浮かれながら、人の背中を、トンと一つ軽く叩いて、すいと退(の)いて、
 ――おいで、おいで――
 と招いていそうで。
 手に取れそうな近い音。
 はっ、とその手を出すほどの心になると、橋むこうの、屋根を、ひょいひょいと手踊り雀、電信柱に下向きの傾(かたが)り燕、一羽気まぐれに浮いた鴎(かもめ)が、どこかの手飼いの鶯(うぐいす)交りに、音を捕うる人心(ひとごころ)を、はッと同音に笑いでもする気勢(けはい)。
 春たけて、日遅く、本所は塵(ちり)の上に、水に浮(うか)んだ島かとばかり、都を離れて静(しずか)であった。
 屋根の埃(ほこり)も紫雲英(げんげ)の紅(くれない)、朧(おぼろ)のような汽車が過(よ)ぎる。
 その響きにも消えなかった。

       二

 松崎は、――汽車の轟(とどろ)きの下にも埋れず、何等か妨げ遮るものがあれば、音となく響きとなく、飜然(ひらり)と軽く体を躱(か)わす、形のない、思いのままに勝手な音(ね)の湧出(わきい)ずる、空を舞繞(まいめぐ)る鼓に翼あるものらしい、その打囃(うちはや)す鳴物が、――向って、斜違(すじかい)の角を広々と黒塀で取廻わした片隅に、低い樹立(こだち)の松を洩(も)れて、朱塗(しゅぬり)の堂の屋根が見える、稲荷様(いなりさま)と聞いた、境内に、何か催しがある……その音であろうと思った。
 けれども、欄干に乗出して、も一つ橋越しに透かして見ると、門は寝静(ねしずま)ったように鎖(とざ)してあった。
 いつの間にか、トチトチトン、のんきらしい響(ひびき)に乗って、駅と書いた本所停車場(ステイション)の建札も、駅(うまや)と読んで、白日、菜の花を視(なが)むる心地。真赤(まっか)な達磨(だるま)が逆斛斗(さかとんぼ)を打った、忙がしい世の麺麭屋(パンや)の看板さえ、遠い鎮守の鳥居めく、田圃道(たんぼみち)でも通る思いで、江東橋の停留所に着く。
 空(あ)いた電車が五台ばかり、燕が行抜けそうにがらんとしていた。
 乗るわ、降りるわ、混合(こみあ)う人数(にんず)の崩るるごとき火水の戦場往来の兵(つわもの)には、余り透いて、相撲最中の回向院(えこういん)が野原にでもなったような電車の体(てい)に、いささか拍子抜けの形で、お望み次第のどれにしようと、大分歩行(ある)き廻った草臥(くたびれ)も交って、松崎はトボンと立つ。
 例の音は地(じ)の底から、草の蒸さるるごとく、色に出(い)で萌(も)えて留まらぬ。
「狸囃子(たぬきばやし)と云うんだよ、昔から本所の名物さ。」
「あら、嘘ばっかり。」
 ちょうどそこに、美しい女(ひと)と、その若紳士が居合わせて、こう言(ことば)を交わしたのを松崎は聞取った。
 さては空音(そらね)ではないらしい。
 若紳士が言ったのは、例の、おいてけ堀、片葉の蘆(あし)、足洗い屋敷、埋蔵(うめぐら)の溝(どぶ)、小豆婆(あずきばば)、送り提燈(ぢょうちん)とともに、土地の七不思議に数えられた、幻の音曲である。
 言った方も戯(たわむれ)に、聞く女(ひと)も串戯(じょうだん)らしく打消したが、松崎は、かえって、うっかりしていた伝説(いいつたえ)を、夢のように思出した。
 興ある事かな。
 日は永し。
 今宮辺の堂宮の絵馬を見て暮したという、隙(ひま)な医師(いしゃ)と一般、仕事に悩んで持余(もてあま)した身体(からだ)なり、電車はいつでも乗れる。
 となると、家へ帰るにはまだ早い。……どうやら、橋の上で聞いたよりは、ここへ来ると、同じ的の無い中(うち)にも、囃子の音が、間近に、判然(はっきり)したらしく思われる。一つは、その声の響くのは、自分ばかりでない事を確めたせいであろう。
 その上、世を避けた仙人が碁(ご)を打つ響きでもなく、薄隠(すすきがく)れの女郎花(おみなえし)に露の音信(おとず)るる声でもない……音色(ねいろ)こそ違うが、見世(みせ)ものの囃子と同じく、気をそそって人を寄せる、鳴ものらしく思うから、傾く耳の誘わるる、寂しい横町へ電車を離れた。
 向って日南(ひなた)の、背後(うしろ)は水で、思いがけず一本の菖蒲(あやめ)が町に咲いた、と見た。……その美しい女(ひと)の影は、分れた背中にひやひやと染(し)む。……
 と、チャンチキ、チャンチキ、嘲(あざ)けるがごとくに囃す。……
 がらがらと鳴って、電車が出る。突如として、どどん、じゃん、じゃん。――ぶらぶら歩行(ある)き出すと、ツンツンテンレン、ツンツンテンレン。

       三

 片側はどす黒い、水の淀(よど)んだ川に添い、がたがたと物置が並んで、米俵やら、筵(むしろ)やら、炭やら、薪(まき)やら、その中を蛇が這(は)うように、ちょろちょろと鼠が縫い行く。
 あの鼠が太鼓をたたいて、鼬(いたち)が笛を吹くのかと思った。……人通り全然(まるで)なし。
 片側は、右のその物置に、ただ戸障子を繋合(つなぎあ)わせた小家(こいえ)続き。で、一二軒、八百屋、駄菓子屋の店は見えたが、鴉(からす)も居(お)らなければ犬も居らぬ。縄暖簾(なわのれん)も居酒屋めく米屋の店に、コトンと音をさせて鶏が一羽歩行(ある)いていたが、通りかかった松崎を見ると、高らかに一声鳴いた。
 太陽(ひ)はたけなわに白い。
 颯(さっ)と、のんびりした雲から落(おち)かかって、目に真蒼(まっさお)に映った、物置の中の竹屋の竹さえ、茂った山吹の葉に見えた。
 町はそこから曲る。
 と追分で路(みち)が替って、木曾街道へ差掛(さしかか)る……左右戸毎(まていえなみ)の軒行燈(のきあんどん)。
 ここにも、そこにも、ふらふらと、春の日を中(うち)へ取って、白く点(ひとも)したらしく、真昼浮出て朦(もう)と明るい。いずれも御泊り木賃宿(きちんやど)。
 で、どの家も、軒より、屋根より、これが身上(しんしょう)、その昼行燈ばかりが目に着く。中(うち)には、廂先(ひさしさき)へ高々と燈籠(とうろう)のごとくに釣った、白看板の首を擡(もた)げて、屋台骨は地(つち)の上に獣(けもの)のごとく這ったのさえある。
 吉野、高橋、清川、槙葉(まきは)。寝物語や、美濃(みの)、近江(おうみ)。ここにあわれを留(とど)めたのは屋号にされた遊女(おいらん)達。……ちょっと柳が一本(ひともと)あれば滅びた白昼の廓(くるわ)に斉(ひと)しい。が、夜寒(よさむ)の代(しろ)に焼尽して、塚のしるしの小松もあらず……荒寥(こうりょう)として砂に人なき光景(ありさま)は、祭礼(まつり)の夜(よ)に地震して、土の下に埋れた町の、壁の肉も、柱の血も、そのまま一落の白髑髏(しゃれこうべ)と化し果てたる趣あり。
 絶壁の躑躅(つつじ)と見たは、崩れた壁に、ずたずたの襁褓(おむつ)のみ、猿曵(さるひき)が猿に着せるのであろう。
 生命(いのち)の搦(から)む桟橋(かけはし)から、危(あやう)く傾いた二階の廊下に、日も見ず、背後(うしろ)むきに鼠の布子(ぬのこ)の背(せな)を曲げた首の色の蒼(あお)い男を、フト一人見附けたが、軒に掛けた蜘蛛(くも)の囲(い)の、ブトリと膨れた蜘蛛の腹より、人間は痩(や)せていた。
 ここに照る月、輝く日は、兀(は)げた金銀の雲に乗った、土御門家(つちみかどけ)一流易道、と真赤(まっか)に目立った看板の路地から糶出(せりだ)した、そればかり。
 空を見るさえ覗(のぞ)くよう、軒行燈の白いにつけ、両側の屋根は薄暗い。
 この春の日向(ひなた)の道さえ、寂(さ)びれた町の形さえ、行燈に似て、しかもその白けた明(あかり)に映る……
 表に、御泊りとかいた字の、その影法師のように、町幅の真(まっ)ただ中とも思う処に、曳棄(ひきす)てたらしい荷車が一台、屋台を乗せてガタリとある。
 近(ちかづ)いて見ると、いや、荷の蔭に人が居た。
 男か、女か。
 と、見た体(てい)は、褪(あ)せた尻切(しりきり)の茶の筒袖(つつッぽ)を着て、袖を合わせて、手を拱(こまぬ)き、紺の脚絆穿(きゃはんばき)、草鞋掛(わらじがけ)の細い脚を、車の裏へ、蹈揃(ふみそろ)えて、衝(つ)と伸ばした、抜衣紋(ぬきえもん)に手拭(てぬぐい)を巻いたので、襟も隠れて見分けは附かぬ。編笠、ひたりと折合わせて、紐(ひも)を深く被(かぶ)ったなりで、がっくりと俯向(うつむ)いたは、どうやら坐眠(いねむ)りをしていそう。
 城の縄張りをした体(てい)に、車の轅(え)の中へ、きちんと入って、腰は床几(しょうぎ)に落したのである。
 飴屋(あめや)か、豆屋か、団子を売るか、いずれにも荷が勝った……おでんを売るには乾いている、その看板がおもしろい。……

       四

 屋台の正面を横に見せた、両方の柱を白木綿で巻立てたは寂しいが、左右へ渡して紅金巾(べにがなきん)をひらりと釣った、下に横長な掛行燈(かけあんどん)。
一………………………………坂東よせ鍋(なべ)
一………………………………尾上天麩羅(おのえてんぷら)
一………………………………大谷おそば
一………………………………市川玉子焼
一………………………………片岡 椀盛(わんもり)
一………………………………嵐  お萩
一………………………………坂東あべ川
一………………………………市村しる粉
一………………………………沢村さしみ
一………………………………中村 洋食
 初日出揃い役者役人車輪に相勤め申候
 名の上へ、藤の花を末濃(すそご)の紫。口上あと余白の処に、赤い福面女(おかめ)に、黄色な瓢箪男(ひょっとこ)、蒼(あお)い般若(はんにゃ)の可恐(こわ)い面。黒の松葺(まつたけ)、浅黄の蛤(はまぐり)、ちょっと蝶々もあしらって、霞を薄くぼかしてある。
 引寄せられて慕って来た、囃子の音には、これだけ気の合ったものは無い。が、松崎は読返してみて苦笑いした。
 坂東あべ川、市村しるこ、渠(かれ)はあまい名を春狐(しゅんこ)と号して、福面女に、瓢箪男、般若の面、……二十五座の座附きで駈出(かけだ)しの狂言方であったから。――
「串戯(じょうだん)じゃないぜ。」
 思わず、声を出して独言(ひとりごと)。
「親仁(おとっ)さん、おう、親仁さん。」
 なぞのものぞ、ここに木賃の国、行燈の町に、壁を抜出た楽がきのごとく、陽炎に顕(あらわ)れて、我を諷(ふう)するがごとき浅黄の頭巾(ずきん)は?……
 屋台の様子が、小児(こども)を対手(あいて)で、新粉細工を売るらしい。片岡牛鍋、尾上天麩羅、そこへ並べさせてみよう了簡(りょうけん)。
「おい、お爺(じ)い。」
と閑(ひま)なあまりの言葉がたき。わざと中(ちゅう)ッ腹に呼んでみたが、寂寞(じゃくまく)たる事、くろんぼ同然。
 で、操(あやつり)の糸の切れたがごとく、手足を突張(つっぱ)りながら、ぐたりと眠る……俗には船を漕(こ)ぐとこそ言え、これは筏(いかだ)を流す体(てい)。
 それに対して、そのまま松崎の分(わか)った袂(たもと)は、我ながら蝶が羽繕いをする心地であった。
 まだ十歩と離れぬ。
 その物売の、布子の円い背中なぞへ、同じ木賃宿のそこが歪(ゆが)みなりの角から、町幅を、一息、苗代形に幅の広くなった処があって、思いがけず甍(いらか)の堆(うずたか)い屋形が一軒。斜(ななめ)に中空をさして鯉(こい)の鱗(うろこ)の背を見るよう、電信柱に棟の霞んで聳(そび)えたのがある。
 空屋か、知らず、窓も、門(かど)も、皮をめくった、面に斉(ひと)しく、大(おおき)な節穴が、二ツずつ、がッくり窪(くぼ)んだ眼(まなこ)を揃えて、骸骨(がいこつ)を重ねたような。
 が、月には尾花か、日向(ひなた)の若草、廂(ひさし)に伸びたも春めいて、町から中へ引込んだだけ、生ぬるいほどほかほかする。
 四辺(あたり)に似ない大構えの空屋に、――二間ばかりの船板塀(ふないたべい)が水のぬるんだ堰(いせき)に見えて、その前に、お玉杓子(たまじゃくし)の推競(おしくら)で群る状(さま)に、大勢小児(こども)が集(たか)っていた。
 おけらの虫は、もじゃもじゃもじゃと皆動揺(どよ)めく。
 その癖静まって声を立てぬ。
 直(じ)きその物売の前に立ちながら、この小さな群集の混合ったのに気が附かなかったも道理こそ、松崎は身に染みた狂言最中見ぶつのひっそりした桟敷(さじき)うらを来たも同じだと思った。
 役者は舞台で飛んだり、刎(は)ねたり、子供芝居が、ばたばたばた。

       五

 大当り、尺的(しゃくまと)に矢の刺(ささ)っただけは新粉屋の看板より念入なり。一面藤の花に、蝶々まで同じ絵を彩った一張の紙幕を、船板塀の木戸口に渡して掛けた。正面前の処へ、破筵(やれむしろ)を三枚ばかり、じとじとしたのを敷込んだが、日に乾くか、怪(あやし)い陽炎となって、むらむらと立つ、それが舞台。
 取巻いた小児(こども)の上を、鮒(ふな)、鯰(なまず)、黒い頭、緋鯉(ひごい)と見たのは赤い切(きれ)の結綿仮髪(ゆいわたかつら)で、幕の藤の花の末を煽(あお)って、泳ぐように視(なが)められた。が、近附いて見ると、坂東、沢村、市川、中村、尾上、片岡、役者の連名も、如件(くだんのごとし)、おそば、お汁粉、牛鍋なんど、紫の房の下に筆ぶとに記してあった……
 松崎が、立寄った時、カイカイカイと、ちょうど塀の内で木が入って、紺の衣服(きもの)に、黒い帯した、円い臀(しり)が、蹠(かかと)をひょい、と上げて、頭からその幕へ潜ったのを見た。――筵舞台は行儀わるく、両方へ歪(ゆが)んだが。
 半月形に、ほかほかとのぼせた顔して、取廻わした、小さな見物、わやわやとまた一動揺(ひとどよめき)。
 中に、目の鋭い屑屋(くずや)が一人、箸(はし)と籠(かご)を両方に下げて、挟んで食えそうな首は無しか、とじろじろと睨廻(ねめま)わす。
 もう一人、袷(あわせ)の引解(ひっと)きらしい、汚れた縞(しま)の単衣(ひとえ)ものに、綟(よ)綟れの三尺で、頬被(ほおかぶ)りした、ずんぐり肥(ふと)った赤ら顔の兄哥(あにい)が一人、のっそり腕組をして交(まじ)る……
 二人ばかり、十二三、四五ぐらいな、子守の娘(ちび)が、横ちょ、と猪首(いくび)に小児(こども)を背負(しょ)って、唄も唄わず、肩、背を揺(ゆす)る。他は皆、茄子(なすび)の蔓(つる)に蛙の子。
 楽屋――その塀の中(うち)で、またカチカチと鳴った。
 処へ、通(とおり)から、ばらばらと駈(か)けて来た、別に二三人の小児を先に、奴(やっこ)を振らせた趣で、や! あの美しい女(ひと)と、中折(なかおれ)の下に眉の濃い、若い紳士と並んで来たのは、浮世の底へ霞を引いて、天降(あまくだ)ったように見えた。
 ここだ、この音だ――と云ったその紳士の言(ことば)を聞いた、松崎は、やっぱり渠等(かれら)も囃子の音に誘われて、男女(なんにょ)のどちらが言出したか、それは知らぬが、連立って、先刻(さっき)の電車の終点から、ともに引寄せられて来たものだと思った。
 時に、その二人も、松崎も、大方この芝居の鳴物が、遠くまで聞えたのであろうと頷(うなず)く……囃子はその癖、ここに尋ね当った現下(いま)は何も聞えぬ。……
 絵の藤の幕間(まくあい)で、木は入ったが舞台は空しい。
「幕が長いぜ、開けろい。遣(や)らねえか、遣らねえか。」
 とずんぐり者の頬被(ほおかぶり)は肩を揺(ゆす)った。が、閉ったばかり、いささかも長い幕間でない事が、自分にも可笑(おか)しいか、鼻先(はなっさき)の手拭(てぬぐい)の結目(むすびめ)を、ひこひこと遣って笑う。
 様子が、思いも掛けず、こんな場所、子供芝居の見物の群(むれ)に来た、美しい女(ひと)に対して興奮したものらしい。
 実際、雲の青い山の奥から、淡彩(うすいろどり)の友染(ゆうぜん)とも見える、名も知れない一輪の花が、細谷川を里近く流れ出(い)でて、淵(ふち)の藍(あい)に影を留めて人目に触れた風情あり。石斑魚(うぐい)が飛んでも松葉が散っても、そのまま直ぐに、すらすらと行方も知れず流れよう、それをしばらくでも引留めるのは、ただちっとも早く幕を開ける外はない、と松崎の目にも見て取られた。
「頼むぜ頭取。」
 頬被(ほおかぶり)がまた喚(わめ)く。

       六

 あたかもその時、役者の名の余白に描いた、福面女(おかめ)、瓢箪男(ひょっとこ)の端をばさりと捲(まく)ると、月代(さかやき)茶色に、半白(ごましお)のちょん髷仮髪(まげかつら)で、眉毛の下(さが)った十ばかりの男の児(こ)が、渋団扇(しぶうちわ)[#「団扇」は底本では「団扉」]の柄を引掴(ひッつか)んで、ひょこりと登場。
「待ってました。」
 と頬被が声を掛けた。
 奴(やっこ)は、とぼけた目をきょろんと遣(や)ったが、
「ちぇ、小道具め、しようがねえ。」
 と高慢な口を利いて、尻端折(しりはしょ)りの脚をすってん、刎(は)ねるがごとく、二つ三つ、舞台をくるくると廻るや否や、背後(うしろ)向きに、ちょっきり結びの紺兵児(こんへこ)の出尻(でっちり)で、頭から半身また幕へ潜(くぐ)ったが、すぐに摺抜(すりぬ)けて出直したのを見れば、うどん、当り屋とのたくらせた穴だらけの古行燈(ふるあんどん)を提げて出て、筵(むしろ)の上へ、ちょんと直すと、奴(やっこ)はその蔭で、膝を折って、膝開(ひざはだ)けに踏張(ふんば)りながら、件(くだん)の渋団扇で、ばたばたと煽(あお)いで、台辞(せりふ)。
「米が高値(たか)いから不景気だ。媽々(かかあ)めにまた叱られべいな。」
 でも、ちょっと含羞(はにか)んだか、日に焼けた顔を真赤(まっか)に俯向(うつむ)く。同じ色した渋団扇、ばさばさばさ、と遣った処は巧緻(うま)いものなり。
「いよ、牛鍋。」と頬被。
 片岡牛鍋と云うのであろう、が、役は饂飩屋(うどんや)の親仁(おやじ)である。
 チャーン、チャーン……幕の中(うち)で鉦(かね)を鳴らす。
 ――迷児(まいご)の、迷児の、迷児やあ――
 呼ばわり連れると、ひょいひょいと三人出た……団粟(どんぐり)ほどな背丈を揃えて、紋羽(もんば)の襟巻を頸(くび)に巻いた大屋様。月代(さかやき)が真青(まっさお)で、鬢(びん)の膨れた色身(いろみ)な手代、うんざり鬢の侠(いさみ)が一人、これが前(さき)へ立って、コトン、コトンと棒を突く。
「や、これ、太吉さん、」
 と差配様(おおやさま)声を掛ける。中の青月代(あおさかやき)が、提灯(ちょうちん)を持替えて、
「はい、はい。」と返事をした。が、界隈(かいわい)の荒れた卵塔場から、葬礼(とむらい)あとを、引攫(ひっさら)って来たらしい、その提灯は白張(しらはり)である。
 大屋は、カーンと一つ鉦(かね)を叩いて、
「大分夜(よ)が更けました。」
「亥刻(いのこく)過ぎでございましょう、……ねえ、頭(かしら)。」
「そうよね。」
 と棒をコツン、で、くすくすと笑う。
「笑うな、真面目(まじめ)に真面目に、」と頬被がまた声を掛ける。
 差配様が小首を傾け、
「時に、もし、迷児、迷児、と呼んで歩行(ある)きますが、誰某(だれそれ)と名を申して呼びませいでも、分りますものでござりましょうかね。」
「私(わっし)もさ、思ってるんで。……どうもね、ただこう、迷児と呼んだんじゃ、前方(さき)で誰の事だか見当が附くめえてね、迷児と呼ばれて、はい、手前でござい、と顔を出す奴(やつ)もねえもんでさ。」とうんざり鬢が引取って言う。
「まずさね……それで闇(くら)がりから顔を出せば、飛んだ妖怪(ばけもの)でござりますよ。」
 青月代の白男(しろおとこ)が、袖を開いて、両方を掌(て)で圧(おさ)え、
「御道理(ごもっとも)でございますとも。それがでございますよ。はい、こうして鉦太鼓で探捜(さがし)に出ます騒動ではございますが、捜されます御当人の家(うち)へ、声が聞えますような近い所で、名を呼びましては、表向(おもてむき)の事でも極(きまり)が悪うございましょう。それも小児(こども)や爺婆(じじばば)ならまだしも、取って十九という妙齢(としごろ)の娘の事でございますから。」
 と考え考え、切れ切れに台辞を運ぶ。
 その内も手を休めず、ばっばっと赤い団扇、火が散るばかり、これは鮮明(あざやか)。

       七

 青月代は辿々(たどたど)しく、
「で、ございますから、遠慮をしまして、名は呼びません、でございましたが、おっしゃる通り、ただ迷児迷児と喚(わめ)きました処で分るものではございません。もう大分町も離れました、徐々(そろそろ)娘の名を呼びましょう。」
「成程々々、御心附至極の儀。そんなら、ここから一つ名を呼んで捜す事にいたしましょう。頭(かしら)、音頭を願おうかね。」
「迷児の音頭は遣(や)りつけねえが、ままよ。……差配(おおや)さん、合方だ。」
 チャーンと鉦(かね)の音(ね)。
「お稲(いな)さんやあ、――トこの調子かね。」
「結構でございますね、差配さん。」
 差配はも一つ真顔でチャーン。
「さて、呼声に名が入(い)りますと、どうやら遠い処で、幽(かすか)に、はあい……」と可哀(あわれ)な声。
「変な声だあ。」
 と頭(かしら)は棒を揺(ゆす)って震える真似する。
「この方、総入歯で、若い娘の仮声(こわいろ)だちね。いえさ、したが何となく返事をしそうで、大(おおき)に張合が着きましたよ。」
「その気で一つ伸(の)しましょうよ。」
 三人この処で、声を揃えた。チャーン――
「――迷児の、迷児の、お稲さんやあ……」
 と一列(ひとなら)び、筵(むしろ)の上を六尺ばかり、ぐるりと廻る。手足も小さく仇(あど)ない顔して、目立った仮髪(かつら)の髷(まげ)ばかり。麦藁細工(むぎわらざいく)が化けたようで、黄色の声で長(ま)せた事、ものを云う笛を吹くか、と希有(けぶ)に聞える。
 美しい女(ひと)は、すっと薄色の洋傘(パラソル)を閉めた……ヴェールを脱いだように濃い浅黄の影が消える、と露の垂りそうな清(すずし)い目で、同伴(つれ)の男に、ト瞳を注ぎながら舞台を見返す……その様子が、しばらく立停(たちどま)ろうと云うらしかった。
「鍋焼饂飩(なべやきうどん)…」
 と高らかに、舞台で目を眠るまで仰向(あおむ)いて呼んだ。
「……ああ、腹が空いた、饂飩屋。」
「へいへい、頭(かしら)、難有(ありがと)うござります。」
 うんざり鬢(びん)は額を叩いて、
「おっと、礼はまだ早かろう。これから相談だ。ねえ、太吉さん、差配さん、ちょっぴり暖まって、行こうじゃねえかね。」
「賛成。」
 と見物の頬被りは、反(そり)を打って大(おおい)に笑う。
 仕種(しぐさ)を待構えていた、饂飩屋小僧は、これから、割前(わりまえ)の相談でもありそうな処を、もどかしがって、
「へい、お待遠様で。」と急いで、渋団扇で三人へ皆配る。
「早いんだい、まだだよ。」
 と差配になったのが地声で甲走(かんばし)った。が、それでも、ぞろぞろぞろぞろと口で言い言い三人、指二本で掻込(かっこ)む仕形(しかた)。
「頭(かしら)、……御町内様も御苦労様でございます。お捜しなさいますのは、お子供衆で?」
「小児なものかね、妙齢(としごろ)でございますよ。」
 と青月代が、襟を扱(しご)いて、ちょっと色身で応答(あしら)う。
「へい、お妙齢、殿方でござりますか、それともお娘御で。」
「妙齢の野郎と云う奴があるもんか、初厄の別嬪(べっぴん)さ。」と頭(かしら)は口で、ぞろりぞろり。
「ああ、さて、走り人(びと)でござりますの。」
「はしり人というのじゃないね、同じようでも、いずれ行方は知れんのだが。」
 と差配は、チンと洟(はな)をかむ。
 美しい女(ひと)の唇に微笑(ほほえみ)が見えた……
「いつの事、どこから、そのお姿が見えなくなりました。」
 と饂飩屋は、渋団扇を筵(むしろ)に支(つ)いて、ト中腰になって訊(き)く。

       八

 差配(おおや)は溜息(ためいき)と共に気取って頷(うなず)き、
「いつ、どこでと云ってね、お前(めえ)、縁日の宵の口や、顔見世の夜明から、見えなくなったというのじゃない。その娘はね、長い間煩らって、寝ていたんだ。それから行方(ゆくえ)が知れなくなったよ。」
 子供芝居の取留めのない台辞(せりふ)でも、ちっと変な事を言う。
「へい。」
 舞台の饂飩屋も異な顔で、
「それでは御病気を苦になさって、死ぬ気で駈出(かけだ)したのでござりますかね。」
「寿命だよ。ふん、」と、も一つかんで、差配は鼻紙を袂(たもと)へ落す。
「御寿命、へい、何にいたせ、それは御心配な事で。お怪我(けが)がなければ可(よ)うございます。」
「賽(さい)の河原は礫原(こいしはら)、石があるから躓(つまず)いて怪我をする事もあろうかね。」と陰気に差配。
「何を言わっしゃります。」
「いえさ、饂飩屋さん、合点の悪い。その娘はもう亡くなったんでございますよ。」と青月代が傍(そば)から言った。
「お前様も。死んだ迷児(まいご)という事が、世の中にござりますかい。」
「六道の闇(やみ)に迷えば、はて、迷児ではあるまいか。」
「や、そんなら、お前様方は、亡者(もうじゃ)をお捜しなさりますのか。」
「そのための、この白張提灯(しらはりぢょうちん)。」
 と青月代が、白粉(おしろい)の白(しろ)けた顔を前へ、トぶらりと提げる。
「捜いて、捜いて、暗(やみ)から闇へ行く路じゃ。」
「ても……気味の悪い事を言いなさる。」
「饂飩屋、どうだ一所に来るか。」
 と頭(かしら)は鬼のごとく棒を突出す。
 饂飩屋は、あッと尻餅。
 引被(ひっかぶ)せて、青月代が、
「ともに冥途(めいど)へ連行(つれゆ)かん。」
「来(きた)れや、来れ。」と差配(おおや)は異変な声繕(こわづくろい)。
 一堪(ひとたま)りもなく、饂飩屋はのめり伏した。渋団扇で、頭を叩くと、ちょん髷仮髪(まげかつら)が、がさがさと鳴る。
「占めたぞ。」
「喰遁(くいに)げ。」
 と囁(ささ)き合うと、三人の児(こ)は、ひょいと躍って、蛙のようにポンポン飛込む、と幕の蔭に声ばかり。
 ――迷児の、迷児の、お稲さんやあ――
 描ける藤は、どんよりと重く匂って、おなじ色に、閃々(きらきら)と金糸のきらめく、美しい女(ひと)の半襟と、陽炎に影を通わす、居周囲(いまわり)は時に寂寞(ひっそり)した、楽屋の人数(にんず)を、狭い処に包んだせいか、張紙幕(びらまく)が中ほどから、見物に向いて、風を孕(はら)んだか、と膨れて見える……この影が覆蔽(かぶさ)るであろう、破筵(やれむしろ)は鼠色に濃くなって、蹲(しゃが)み込んだ児等(こども)の胸へ持上って、蟻(あり)が四五疋、うようよと這(は)った。……が、なぜか、物の本の古びた表面(おもて)へ、――来れや、来れ……と仮名でかきちらす形がある。
 見つつ松崎が思うまで、来れや、来れ……と言った差配(おおや)の言葉は、怪しいまで陰に響いて、幕の膨らんだにつけても、誰か、大人が居て、蔭で声を助(す)けたらしく聞えたのであった。
 見物の児等は、神妙に黙って控えた。
 頬被(ほおかぶり)のずんぐり者は、腕を組んで立ったなり、こくりこくりと居眠る……
 饂飩屋が、ぼやんとした顔を上げた。さては、差置いた荷のかわりの行燈(あんどん)も、草紙の絵ではない。
 蟻は隠れたのである。

       九

「狐か、狸か、今のは何じゃい、どえらい目に逢わせくさった。」
 と饂飩屋は坂塀はずれに、空屋の大屋根から空を仰いで、茫然(ぼんやり)する。
 美しい女(ひと)と若い紳士の、並んで立った姿が動いて、両方木賃宿(きちんやど)の羽目板の方を見向いたのを、――無台が寂しくなったため、もう帰るのであろうと見れば、さにあらず。
 そこへ小さな縁台を据えて、二人の中に、ちょんぼりとした円髷(まるまげ)を俯向(うつむ)けに、揉手(もみて)でお叩頭(じぎ)をする古女房が一人居た。
「さあ、どうぞ、旦那様、奥様、これへお掛け遊ばして、いえ、もう汚いのでございますが、お立ちなすっていらっしゃいますより、ちっとは増(まし)でございます。」
 と手拭(てぬぐい)で、ごしごし拭いを掛けつつ云う。その手で――一所に持って出たらしい、踏台が一つに乗せてあるのを下へおろした。
「いや、俺(おれ)たちは、」
 若い紳士は、手首白いのを挙げて、払い退(の)けそうにした。が、美しい女(ひと)が、意を得たという晴やかな顔して、黙ってそのまま腰を掛けたので。
「難有(ありがと)う。」
 渠(かれ)も斉(ひと)しく並んだのである。
「はい、失礼を。はいはい、はい、どうも。」と古女房は、まくし掛けて、早口に饒舌(しゃべ)りながら、踏台を提げて、小児(こども)たちの背後(うしろ)を、ちょこちょこ走り。で、松崎の背後(うしろ)へ廻る。
「貴方(あなた)様は、どうぞこれへ。はい、はい、はい。」
「恐縮ですな。」
 かねて期(ご)したるもののごとく猶予(ため)らわず腰を落着けた、……松崎は、美しい女(ひと)とその連(つれ)とが、去る去らないにかかわらず、――舞台の三人が鉦(かね)をチャーンで、迷児の名を呼んだ時から、子供芝居は、とにかくこの一幕を見果てないうちは、足を返すまいと思っていた。
 声々に、可哀(あわれ)に、寂しく、遠方(おちかた)を幽(かすか)に、――そして幽冥(ゆうめい)の界(さかい)を暗(やみ)から闇へ捜廻(さがしまわ)ると言った、厄年十九の娘の名は、お稲と云ったのを鋭く聞いた――仔細(しさい)あって忘れられぬ人の名なのであるから。――
「おかみさん、この芝居はどういう筋だい。」
「はいはい、いいえ、貴下(あなた)、子供が出たらめに致しますので、取留めはございませんよ。何の事でございますか、私どもは一向に分りません。それでも稽古(けいこ)だの何のと申して、それは騒ぎでございましてね、はい、はい、はい。」
 で手を揉(も)み手を揉み、正面(まとも)には顔を上げずに、ひょこひょこして言う。この古女房は、くたびれた藍色(あいいろ)の半纏(はんてん)に、茶の着もので、紺足袋に雪駄穿(せったばき)で居たのである。
「馬鹿にしやがれ。へッ、」
 と唐突(だしぬけ)に毒を吐いたは、立睡(たちねむ)りで居た頬被りで、弥蔵(やぞう)の肱(ひじ)を、ぐいぐいと懐中(ふところ)から、八ツ当りに突掛(つっか)けながら、
「人、面白くもねえ、貴方様お掛け遊ばせが聞いて呆(あき)れら。おはいはい、襟許(えりもと)に着きやがって、へッ。俺の方が初手ッから立ってるんだ。衣類(きるい)に脚が生えやしめえし……草臥(くたび)れるんなら、こっちが前(さき)だい。服装(みなり)で価値(ねだん)づけをしやがって、畜生め。ああ、人間下(さが)りたくはねえもんだ。」
 古女房は聞かない振(ふり)で、ちょこちょこと走って退(の)いた。一体、縁台まで持添えて、どこから出て来たのか、それは知らない。そうして引返(ひっかえ)したのは町の方。
 そこに、先刻(さっき)の編笠目深(まぶか)な新粉細工が、出岬(でさき)に霞んだ捨小舟(すておぶね)という形ちで、寂寞(じゃくまく)としてまだ一人居る。その方へ、ひょこひょこ行(ゆ)く。
 ト頬被りは、じろりと見遣って、
「ざまあ見ろ、巫女(いちこ)の宰取(さいとり)、活(い)きた兄哥(あにい)の魂が分るかい。へッ、」と肩をしゃくりながら、ぶらりと見物の群(むれ)を離れた。
 ついでに言おう、人間を挟みそうに、籠と竹箸(たけばし)を構えた薄気味の悪い、黙然(だんまり)の屑屋(くずや)は、古女房が、そっち側の二人に、縁台を進めた時、ギロリと踏台の横穴を覗(のぞ)いたが、それ切りフイと居なくなった。……
 いま、腰を掛けた踏台の中には、ト松崎が見ても一枚の屑も無い。

       十

「おい、出て来ねえな、おお、大入道、出じゃねえか、遅いなあ。」
 少々舞台に間が明いて、魅(つま)まれたなりの饂飩小僧(うどんこぞう)は、てれた顔で、……幕越しに楽屋を呼んだ。
 幕の端(はじ)から、以前の青月代(あおさかやき)が、黒坊(くろんぼ)の気か、俯向(うつむ)けに仮髪(かつら)ばかりを覗(のぞ)かせた。が、そこの絵の、狐の面が抜出したとも見えるし、古綿の黒雲から、新粉細工の三日月が覗くとも視(なが)められる。
「まだじゃねえか、まだお前、その行燈(あんどん)がかがみにならねえよ……科(しぐさ)が抜けてるぜ、早く演(や)んねえな。」
 と云って、すぽりと引込(ひっこ)む。――はてな、行燈が、かがみに化ける……と松崎は地の凸凹(でこぼこ)する蹈台(ふみだい)の腰を乗出す。
 同じ思いか、面影(おもかげ)も映しそうに、美しい女(ひと)は凝(じっ)と視(み)た。ひとり紳士は気の無い顔して、反身(そりみ)ながらぐったりと凭掛(よりかか)った、杖(ステッキ)の柄を手袋の尖で突いたものなり。
 饂飩屋は、行燈に向直ると、誰も居ないのに、一人で、へたへたと挨拶(あいさつ)する。
「光栄(おいで)なさいまし。……直ぐと暖めて差上げます。今、もし、飛んだお前さん、馬鹿な目に逢いましてね、火も台なしでござります。へい、辻の橋の玄徳稲荷(げんとくいなり)様は、御身分柄、こんな悪戯(いたずら)はなさりません。狸か獺(かわうそ)でござりましょう。迷児の迷児の、――と鉦(かね)を敲(たた)いて来やがって饂飩を八杯攫(さ)らいました……お前さん。」
 と滑稽(おどけ)た眉毛を、寄せたり、離したり、目をくしゃくしゃと饒舌(しゃべ)ったが、
「や、一言(いちごん)も、お返事なしだね、黙然坊(だんまりぼう)様。鼻だの、口だの、ぴこぴこ動いてばかり。……あれ、誰か客人だと思ったら――私(わし)の顔だ――道理で、兄弟分だと頼母(たのも)しかったに……宙に流れる川はなし――七夕(たなばた)様でもないものが、銀河(あまのがわ)には映るまい。星も隠れた、真暗(まっくら)、」
 と仰向(あおむ)けに、空を視(み)る、と仕掛けがあったか、頭の上のその板塀越(ごし)、幕の内か潜(くぐ)らして、両方を竹で張った、真黒(まっくろ)な布の一張(ひとはり)、筵(むしろ)の上へ、ふわりと投げて颯(さっ)と拡げた。
 と見て、知りつつ松崎は、俄然(がぜん)として雲が湧(わ)いたか、とぎょっとした、――電車はあっても――本郷から遠路(とおみち)を掛けた当日。麗(うららか)さも長閑(のどか)さも、余り積(つも)って身に染むばかり暖かさが過ぎたので、思いがけない俄雨(にわかあめ)を憂慮(きづかわ)ぬではなかった処。
 彼方(むこう)の新粉屋が、ものの遠いように霞むにつけても、家路遥(はる)かな思いがある。
 また、余所(よそ)は知らず、目の前のざっと劇場ほどなその空屋の裡(うち)には、本所の空一面に漲(みなぎ)らす黒雲は、畳込んで余りあるがごとくに見えた。
 暗い舞台で、小さな、そして爺様(じいさま)の饂飩屋は、おっかな、吃驚(びっくり)、わなわな大袈裟(おおげさ)に震えながら、
「何に映る……私(わし)が顔だ、――行燈(あんどん)か。まさかとは思うが、行燈か、行燈か?……返事をせまいぞ。この上手前(てめえ)に口を利かれては叶(かな)わねえ。何分頼むよ。……面(つら)の皮は、雨風にめくれたあとを、幾たびも張替えたが、火事には人先に持って遁(に)げる何十年以来(このかた)の古馴染(ふるなじみ)だ。
 馴染がいに口を利くなよ、私(わし)が呼んでも口を利くなよ。はて、何に映る顔だ知らん。……口を利くな、口を利くな。」
 ……と背の低いのが、滅入込(めりこ)みそうに、大(おおき)な仮髪(かつら)の頸(うなじ)を窘(すく)め、ひッつりそうな拳(こぶし)を二つ、耳の処へ威(おど)すがごとく、張肱(はりひじ)に、しっかと握って、腰をくなくなと、抜足差足。
 で、目を据え、眉を張って、行燈に擦寄り擦寄り、
「はて、何に映った顔だ知らん、行燈か、行燈か、……口を利くなよ、行燈か。」
 と熟(じっ)と覗(のぞ)く。
 途端に、沈んだが、通る声で、
「私……行燈だよ。」
「わい、」と叫んで、饂飩屋は舞台を飛退(とびの)く。

       十一

 この古行燈が、仇(あだ)も情(なさけ)も、赤くこぼれた丁子(ちょうじ)のごとく、煤(すす)の中に色を籠(こ)めて消えずにいて、それが、針の穴を通して、不意に口を利いたような女の声には、松崎もぎょっとした。
 饂飩屋は吃驚(びっくり)の呼吸を引いて、きょとんとしたが
「俺(おいら)あ可厭(いや)だぜ。」と押殺した低声(こごえ)で独言(ひとりごと)を云ったと思うと、ばさりと幕摺(まくず)れに、ふらついて、隅から蹌踉(よろ)け込んで見えなくなった。
 時に――私……行燈だよ、――と云ったのは、美しい女(ひと)である事に、松崎も心附いて、――驚いて楽屋へ遁(に)げた小児(こども)の状(さま)の可笑(おかし)さに、莞爾(にっこり)、笑(えみ)を含んだ、燃ゆるがごときその女(ひと)の唇を見た。
「つい言ッちまったのよ。」
 と紳士を見向く。
「困った人だね、」
 と杖(ステッキ)を取って、立構えをしながら、
「さあ、行こうか。」
「可(い)いわ、もうちっと……」
「恐怖(こわ)いよう。」
 と子守の袂(たもと)にぶら下った小さな児が袖を引張(ひっぱ)って言う。
「こわいものかね、行燈じゃないわ。……綺麗な奥さんが言ったんだわ。」とその子守は背(せな)の子を揺(ゆす)り上げた。
 舞台を取巻いた大勢が、わやわやとざわついて、同音に、声を揚げて皆(みんな)笑った……小さいのが二側(ふたかわ)三側(みかわ)、ぐるりと黒く塊(かたま)ったのが、変にここまで間を措(お)いて、思出したように、遁込(にげこ)んだ饂飩屋の滑稽な図を笑ったので、どっというのが、一つ、町を越した空屋の裏あたりに響いて、壁を隔てて聞くようにぼやけて寂しい。
「東西、東西。」
 青月代(あおさかやき)が、例の色身(いろみ)に白い、膨(ふっく)りした童顔(わらわがお)を真正面(まっしょうめん)に舞台に出て、猫が耳を撫(な)でる……トいった風で、手を挙げて、見物を制しながら、おでんと書いた角行燈をひょいと廻して、ト立直して裏を見せると、かねて用意がしてあった……その一小間(ひとこま)が藍(あい)を濃く真青(まっさお)に塗ってあった。
 行燈が化けると云った、これが、かがみのつもりでもあろう、が、上を蔽(おお)うた黒布の下に、色が沈んで、際立って、ちょうど、間近な縁台の、美しい女(ひと)と向合(むきあわ)せに据えたので、雪なす面(おもて)に影を投げて、媚(なまめ)かしくも凄(すご)くも見える。
 青月代は飜然(ひらり)と潜(くぐ)った。
 それまでは、どれもこれも、吹矢に当って、バッタリと細工ものが顕(あらわ)れる形に、幕へ出入りのひょっこらさ加減、絵に描(か)いた、小松葺(こまつたけ)、大きな蛤(はまぐり)十ばかり一所に転げて出そうであったが。
 舞台に姿見の蒼(あお)い時よ。
 はじめて、白玉のごとき姿を顕す……一人(にん)の立女形(たておやま)、撫肩しなりと脛(はぎ)をしめつつ褄(つま)を取った状(さま)に、内端(うちわ)に可愛(かわい)らしい足を運んで出た。糸も掛けない素の白身(はくしん)、雪の練糸(ねりいと)を繰るように、しなやかなものである。
 背丈恰好(かっこう)、それも十一二の男の児が、文金高髷の仮髪(かつら)して、含羞(はにかん)だか、それとも芝居の筋の襯染(したじめ)のためか、胸を啣(くわ)える俯向(うつむ)き加減、前髪の冷たさが、身に染む風情に、すべすべと白い肩をすくめて、乳を隠す嬌態(しな)らしい、片手柔い肱(ひじ)を外に、指を反らして、ひたりと附けた、その頤(おとがい)のあたりを蔽(おお)い、額も見せないで、なよなよと筵(むしろ)に雪の踵(かかと)を散らして、静(しずか)に、行燈の紙の青い前。

       十二

 綿かと思う柔(やわらか)な背を見物へ背後(うしろ)むきに、その擬(こしら)えし姿見に向って、筵に坐ると、しなった、細い線を、左の白脛(しらはぎ)に引いて片膝を立てた。
 この膝は、松崎の方へ向く。右の掻込(かっこ)んで、その腰を据えた方に、美しい女(ひと)と紳士の縁台がある。
 まだ顔を見せないで、打向った青行燈の抽斗(ひきだし)を抜くと、そこに小道具の支度があった……白粉刷毛(おしろいばけ)の、夢の覚際(さめぎわ)の合歓(ねむ)の花、ほんのりとあるのを取って、媚(なまめ)かしく化粧をし出す。
 知ってはいても、それが男の児とは思われない。耳朶(みみたぼ)に黒子(ほくろ)も見えぬ、滑(なめら)かな美しさ。松崎は、むざと集(たか)って血を吸うのが傷(いたま)しさに、蹈台(ふみだい)の蚊(か)をしきりに気にした
 蹈台の蚊は、おかしいけれども、はじめ腰掛けた時から、間を措(お)いては、ぶんと一つ、ぶんとまた一つ、穴から唸(うな)って出る……足と足を摺合(すりあ)わせたり、頭(かぶり)を掉(ふ)ったり、避(よ)けつ払いつしていたが、日脚の加減か、この折から、ぶくぶくと溝(どぶ)から泡の噴く体(てい)に数を増した。
 人情、なぜか、筵の上のその皓体(こうたい)に集(たか)らせたくないので、背後(うしろ)へ、町へ、両の袂を叩いて払った。
 そして、この血に餓(う)えて呻(うめ)く虫の、次第に勢(いきおい)を加えたにつけても、天気模様の憂慮(きづかわ)しさに、居ながら見渡されるだけの空を覗(のぞ)いたが、どこのか煙筒(えんとつ)の煙の、一方に雪崩(なだ)れたらしい隈(くま)はあったが、黒しと怪(あやし)む雲はなかった。ただ、町の静(しずか)さ。板の間の乾(から)びた、人なき、広い湯殿のようで、暖い霞の輝いて淀(よど)んで、漾(ただよ)い且つ漲(みなぎ)る中に、蚊を思うと、その形、むらむら波を泳ぐ海月(くらげ)に似て、槊(ほこ)を横(よこた)えて、餓えたる虎の唄を唄って刎(は)ねる。……
 この影がさしたら、四ツ目あたりに咲き掛けた紅白の牡丹(ぼたん)も曇ろう。……嘴(はし)を鳴らして、ひらりひらりと縦横無尽に踊る。
 が、現(うつつ)なの光景(ありさま)は、長閑(のどか)な日中(ひなか)の、それが極度であった。――
 やがて、蚊ばかりではない、舞台で狐やら狸やら、太鼓を敲(たた)き笛を吹く……本所名代の楽器に合わせて、猫が三疋。小夜具(こよぎ)を被(かぶ)って、仁王立(だち)、一斗樽(だる)の三ツ目入道、裸の小児(こども)と一所になって、さす手の扇、ひく手の手拭、揃って人も無げに踊出(おどりいだ)した頃は、俄雨(にわかあめ)を運ぶ機関車のごとき黒雲が、音もしないで、浮世の破(やぶれ)めを切張(きりばり)の、木賃宿の数の行燈、薄暗いまで屋根を圧して、むくむくと、両国橋から本所の空を渡ったのである。
 次第は前後した。
 これより前(さき)、姿見に向った裸の児が、濃い化粧で、襟白粉(えりおしろい)を襟長く、くッきりと粧(よそお)うと、カタンと言わして、刷毛(はけ)と一所に、白粉を行燈の抽斗(ひきだし)に蔵(しま)った時、しなりとした、立膝のままで、見物へ、ひょいと顔を見せたと思え。
 島田ばかりが房々(ふさふさ)と、やあ、目も鼻も無い、のっぺらぼう。
 唇ばかり、埋め果てぬ、雪の紅梅、蕊(しべ)白く莞爾(にっこり)した。
 はっと美しい女(ひと)は身を引いて、肩を摺(ず)った羽織の手先を白々と紳士の膝へ。
 額も頬も一分、三分、小鼻も隠れたまで、いや塗ったとこそ言え。白粉で消した顔とは思うが、松崎さえ一目見ると変な気がした。
 そこへ、件(くだん)の三ツ目入道、どろどろどろと顕(あらわ)れけり

       十三

 樽を張子(はりこ)で、鼠色の大入道、金銀張分けの大の眼(まなこ)を、行燈見越(みこし)に立(たち)はだかる、と縄からげの貧乏徳利(どっくり)をぬいと突出す。
「丑満(うしみつ)の鐘を待兼ねたやい。……わりゃ雪女。」
 とドス声で甲(かん)を殺す……この熊漢(くまおとこ)の前に、月からこぼれた白い兎(うさぎ)、天人の落し児といった風情の、一束(ひとつか)ねの、雪の膚(はだ)は、さては化夥間(ばけなかま)の雪女であった。
「これい、化粧が出来たら酌をしろ、ええ。」
 と、どか胡坐(あぐら)、で、着ものの裾(すそ)が堆(うずたか)い。
 その地響きが膚に応(こた)えて、震える状(さま)に、脇の下を窄(すぼ)めるから、雪女は横坐りに、
「あい、」と手を支(つ)く。
「そりゃ、」
 と徳利を突出した、入道は懐から、鮑貝(あわびがい)を掴取(つかみと)って、胸を広く、腕へ引着け、雁(がん)の首を捻(ね)じるがごとく白鳥の口から注(つ)がせて、
「わりゃ、わなわなと震えるが、素膚(すはだ)に感じるか、いやさ、寒いか。」と、じろじろと視(みつ)めて寛々たり。
 雪女細い声。
「はい……冷とうござんすわいな。」
「ふん、それはな、三途河(そうずか)の奪衣婆(だつえば)に衣(きもの)を剥(は)がれて、まだ間が無うて馴(な)れぬからだ。ひくひくせずと堪えくされ。雪女が寒いと吐(ぬか)すと、火が火を熱い、水が水を冷い、貧乏人が空腹(ひだる)いと云うようなものだ。汝(うぬ)が勝手の我ままだ。」
「情(なさけ)ない事おっしゃいます、辛うて辛うてなりませんもの。」
 とやっぱり戦(わなな)く。その姿、あわれに寂しく、生々(なまなま)とした白魚の亡者に似ている。
「もっともな、わりゃ……」
 言い掛けた時であった。この見越入道、ふと絶句で、大(おおき)な樽の面(つら)を振って、三つ目を六つに晃々(ぎらぎら)ときょろつかす。
 幕の蔭と思う絵の裏で、誰とも知らず、静まった藤の房に、生温(なまぬる)い風の染む気勢(けはい)で、
「……紅蓮(ぐれん)、大紅蓮、紅蓮、大紅蓮……」と後見(うしろ)をつけたものがある。
「紅蓮、大紅蓮の地獄に来(きた)って、」
と大入道は樽の首を揺据(ゆりす)えた。
「わりゃ雪女となりおった。が、魔道の酌取(しゃくとり)、枕添(まくらぞい)、芸妓(げいしゃ)、遊女(じょろう)のかえ名と云うのだ。娑婆(しゃば)、人間の処女(きむすめ)で……」
 また絶句して、うむと一つ、樽に呼吸(いき)を詰めて支(つか)えると、ポカンとした叩頭(おじぎ)をして、
「何だっけね、」
 と可愛い声。
「お稲、」と雪女が小さく言った。
 松崎は耳を澄ます。
 と同時であった。
「……お稲、お稲さんですって、……」と目のふちに、薄く、行燈の青い影が射(さ)した。美しい女(ひと)は、ふと紳士を見た。
「お稲荷(いなり)、稲荷さんと云うんだね、白狐(しろぎつね)の化けた処なんだろう。」
 わけもなくそう云って、紳士は、ぱっと巻莨(まきたばこ)に火を点ずる。
 その火が狐火のように見えた。
「ああ、そうなのね。」
 美しい女(ひと)は頷(うなず)いたのである。
 松崎も、聞いて、成程そうらしくも見て取った。
「むむ、そのお稲で居た時の身の上話、酒の肴(さかな)に聞かさんかい。や、ただわなわなと震えくさる、まだ間が無うて馴れぬからだ。こりゃ、」
 と肩へむずと手を掛けると、ひれ伏して、雪女は溶けるように潸然(さめざめ)と泣く。

       十四

「陰気だ陰気だ、此奴(こいつ)滅入(めい)って気が浮かん、こりゃ、汝等(わいら)出て燥(はしゃ)げやい。」
 三ツ目入道、懐手の袖を刎(は)ねて、飽貝(あわびっかい)の杯を、大(でか)く弧(こ)を描いて楽屋を招く。
 これの合図に、相馬内裏(そうまだいり)古御所(ふるごしょ)の管絃。笛、太鼓に鉦(かね)を合わせて、トッピキ、ひゃら、ひゃら、テケレンどん、幕を煽(あお)って、どやどやと異類異形が踊って出(い)でた。
 狐が笛吹く、狸が太鼓。猫が三疋、赤手拭、すッとこ被(かぶ)り、吉原かぶり、ちょと吹流し、と気取るも交って、猫じゃ猫じゃの拍子を合わせ、トコトンと筵(むしろ)を踏むと、塵埃(ちりほこり)立交る、舞台に赤黒い渦を巻いて、吹流しが腰をしゃなりと流すと、すッとこ被りが、ひょいと刎(は)ねる、と吉原被りは、ト招ぎの手附。
 狸の面、と、狐の面は、差配の禿(はげ)と、青月代(あおさかやき)の仮髪(かつら)のまま、饂飩屋の半白頭(ごましおあたま)は、どっち付かず、鼬(いたち)のような面を着て、これが鉦で。
 時々、きちきちきちきちという。狐はお定りのコンを鳴く。狸はあやふやに、モウと唸(うな)って、膝にのせた、腹鼓。
 囃子に合わせて、猫が三疋、踊る、踊る、いや踊る事わ。
 青い行燈とその前に突伏(つっぷ)した、雪女の島田のまわりを、ぐるりぐるりと廻るうちに、三ツ目入道も、ぬいと立って、のしのしと踊出す。
 続いて囃方(はやしかた)惣踊(そうおど)り。フト合方が、がらりと替って、楽屋で三味線(さみせん)の音(ね)を入れた。
 ――必ずこの事、この事必ず、丹波の太郎に沙汰するな、この事、必ず、丹波の太郎に沙汰するな――
 と揃って、異口同音(くちぐち)に呼ばわりながら、水車(みずぐるま)を舞込むごとく、次第びきに、ぐるぐるぐる。……幕へ衝(つ)と消える時は、何ものか居て、操りの糸を引手繰(ひったぐ)るように颯(さっ)と隠れた。
 筵舞台に残ったのは、青行燈(あおあんどん)と雪女。
 悄(しお)れて、一人、ただうなだれているのであった。
 上なる黒い布は、ひらひらと重くなった……空は化物どもが惣踊りに踊る頃から、次第に黒くなったのである。
 美しい女(ひと)は、はずして、膝の上に手首に掛けた、薄色のショオルを取って、撫肩の頸(うなじ)に掛けて身繕い。
 此方(こなた)に松崎ももう立とうとした。
 青月代が、ひょいと覗(のぞ)いた。幕の隙間へ頤(あご)を乗せて、
「誰か、おい、前掛(まえかけ)を貸してくんな、」と見物を左右に呼んだ。
「前掛を貸しておくれよ、……よう、誰でも。」
 美しい女(ひと)から、七八人小児(こども)を離れて、二人並んでいた子守の娘が、これを聞くと真先(まっさき)にあとじさりをした。言訳だけも赤い紐の前掛をしていたのは、その二人ぐらいなもので、……他は皆、横撫での袖とくいこぼしの膝、光るのはただ垢(あか)ばかり。
 傍(かたわら)から、また饂飩屋が出て舞台へ立った。
「これから女形(おんながた)が演処(しどころ)なんだぜ。居所がわりになるんだけれど、今度は亡者じゃねえよ、活(い)きてる娘の役だもの。裸では不可(いけね)えや、前垂(まえだれ)を貸しとくれよ。誰か、」
「後生(ごしょう)だってば、」
 と青月代も口を添える。
 子守の娘はまた退(しさ)った。
 幼い達は妙にてれて、舞台の前で、土をいじッて俯向(うつむ)いたのもあるし、ちょろちょろ町の方へ立つのもあった。
「吝(しみた)れだなあ。」
 饂飩屋がチョッ、舌打する。
「貸してくれってんだぜ、……きっと返すッてえに。……可哀相(かわいそう)じゃないか、雪女になったなりで裸で居ら。この、お稲さんに着せるんだよ。」
 と青月代も前へ出て、雪女の背筋のあたりを冷たそうに、ひたりと叩いた……
「前掛でなくては。不可(いけな)いの?」
 美しい人はすッと立った。
 紳士は仰向(あおむ)いて、妙な顔色(かおつき)。
 松崎の、うっかり帰られなくなったのは言うまでもなかろう。

       十五

「兄さん、他(ほか)のものじゃ間に合わない?」
 あきれ顔な舞台の二人に、美しい女(ひと)は親しげにそう云った。
「他の物って、」と青月代は、ちょんぼり眉で目をぱちくる。
「羽織では。」
 美しい女(ひと)は華奢(きゃしゃ)な手を衣紋(えもん)に当てた。
「羽織なら、ねえ、おい。」
「ああ、そんな旨(うめ)え事はねえんだけれど、前掛でさえ、しみったれているんだもの、貸すもんか。それだしね、羽織なんて誰も持ってやしませんぜ。」
 と饂飩屋は吐出すように云う。成程、羽織を着たものは、ものの欠片(かけら)も見えぬ。
「可(よ)ければ、私のを貸してあげるよ。」
 美しい女(ひと)は、言(ことば)の下に羽織を脱いだ、手のしないは、白魚が柳を潜(くぐ)って、裏は篝火(かがりび)がちらめいた、雁(かり)がねむすびの紋と見た。
「品子(しなこ)さん、」
 紳士は留めようとして、ずッと立つ。
「可(い)いのよ、貴方(あなた)。」
 と見返りもしないで、
「帯がないじゃないか、さあ、これが可いわ。」と一所に肩を辷(すべ)った、その白と、薄紫と、山が霞んだような派手な羅(うすもの)のショオルを落してやる……
 雪女は、早く心得て、ふわりとその羽織を着た、黒縮緬(くろちりめん)の紋着(もんつき)に緋(ひ)を襲(かさ)ねて、霞を腰に、前へすらりと結んだ姿は、あたかも可(よ)し、小児(こども)の丈に裾(すそ)を曳(ひ)いて、振袖長く、影も三尺、左右に水が垂れるばかり、その不思議な媚(なまめか)しさは、貸小袖に魂が入って立ったとも見えるし、行燈の灯(ともし)を覆(おお)うた裲襠(かけ)の袂(たもと)に、蝴蝶(ちょうちょう)が宿って、夢が□□(さまよう)とも見える。
「難有(ありがと)う、」
「奥さん難有う。」
 互に、青月代と饂飩屋が、仮髪(かつら)を叩いて喜び顔。

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