湯島の境内
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著者名:泉鏡花 

     湯島の境内 (婦系図―戯曲―一齣)

□冴(さ)返る春の寒さに降る雨も、暮れていつしか雪となり、
仮声使(こわいろつかい)、両名、登場。
□上野の鐘の音(ね)も氷る細き流れの幾曲(いくまがり)、すえは田川に入谷村(いりやむら)、
その仮声使、料理屋の門(かど)に立ち随意に仮色を使って帰る。
□廓(くるわ)へ近き畦道(あぜみち)も、右か左か白妙(しろたえ)に、
この間に早瀬主税(ちから)、お蔦(つた)とともに仮色使と行逢(ゆきあ)いつつ、登場。
□往来(ゆきき)のなきを幸(さいわい)に、人目を忍び彳(たたず)みて、
仮色使の退場する時、早瀬お蔦と立留(たちどま)る。
お蔦 貴方(あなた)……貴方。早瀬 ああ。(と驚いたように返事する。)お蔦 いい、月だわね。早瀬 そうかい。お蔦 御覧なさいな、この景色を。早瀬 ああ、成程。お蔦 可厭(いや)だ、はじめて気が付いたように、貴方、どうかしているんだわ。早瀬 どうかもしていようよ。月は晴れても心は暗闇(やみ)だ。お蔦 ええ、そりゃ、世間も暗闇でも構いませんわ。どうせ日蔭の身体(からだ)ですもの。……早瀬 お蔦。(とあらたまる。)お蔦 あい。早瀬 済まないな、今更ながら。お蔦 水臭い、貴方は。……初手(しょて)から覚悟じゃありませんか、ねえ。内証だって夫婦ですもの。私、苦労が楽(たのし)みよ。月も雪もありゃしません。(四辺(あたり)を□(みまわ)す)ちょいとお花見をして行(ゆ)きましょうよ。……誰も居ない。腰を掛けて、よ。(と肩に軽く手を掛ける。)□慥(たしか)にここと見覚えの門の扉(とぼそ)に立寄れば、(早瀬、引かれてあとずさりに、一脚のベンチに憩う。)お蔦 (並んで掛けて、嬉しそうに膝に手を置く)感心でしょう。私も素人になったわね。□風に鳴子(なるこ)の音高く、時に、ようようと蔭にて二三人、ハタハタと拍手の音。
お蔦 (肩を離す)でも不思議じゃありませんか。早瀬 何、月夜がかい。お蔦 まあ、いくら二人が内証だって、世帯を持てば、雨が漏っても月が射(さ)すわ。月夜に不思議はないけれど、こうして一所におまいりに来た事なのよ。早瀬 そうさな、不思議と云えば不思議だよ、世の中の事は分らないものだからな。お蔦 急に雪でも降らなけりゃ可(い)い。早瀬 (懸念して)え、なぜだ。お蔦 だって、ついぞ一所に連れて出てくれた事が無かったじゃありませんか。珍しいんだもの。早瀬 …………お蔦 ねえ、貴方、私やっぱり、亡くなった親の情(なさけ)が貴方に乗憑(のりうつ)ったんだろうとそう思いますわ。……こうして月夜になったけれど、今日お午(ひる)過ぎには暗く曇って、おつけ晴れて出られない身体(からだ)にはちょうど可(い)い空合いでしたから、貴方の留守に、お母(っか)さんのお墓まいりをしたんですよ。……飯田町(いいだまち)へ行ってから、はじめてなんですもの。身がかたまって、生命(いのち)がけの願(ねがい)が叶(かな)って、容子(ようす)の可い男を持った、お蔦はあやかりものだって、そう云ってね、お母(っか)さんがお墓の中から、貴方によろしく申しましたよ。邪険なようで、可愛がって、ほうり放しで、行届いて。早瀬 お蔦。お蔦 でも、偶(たま)には一所に連れて出て下さいまし。夫婦(いっしょ)になると気抜(きぬけ)がして、意地も張(はり)もなくなって、ただ附着(くッつ)いていたがって、困った田舎嫁でございます。江戸は本郷も珍しくって見物がしたくってなりません。――そうお母(っか)さんがことづけをしたわ。……何だかこの二三日、鬱込(ふさぎこ)んでいらっしゃるから、貴方の氏神様もおんなじ、天神様へおまいりをなさいまし、私も一所にッて、とても不可(いけ)ないと思って強請(ねだ)ったら、こうして連れて来てくれたんですもの。草葉の蔭でもどんなに喜んでいるか知れませんよ。早瀬 堪忍しな。嘘にも誉(ほ)められたり、嬉しがられたりしたのは、私は昨日(きのう)、一昨日(おととい)までだ、と思っているんだ。(嘆息す。)お蔦 何だねえ、気の弱い。掏賊(すり)の手伝いをしたッて、新聞に出されて、……自分でお役所を辞職した事なんでしょう。私が云うと、月給が取れなくなったのを気にするようで口惜(くや)しいから、何にも口へは出さなかったけれど、貴方、この間から鬱(ふさ)いでいるのはその事でしょう。可(い)いじゃありませんか。蹈(ふ)んだり蹴(け)たりされるのを見ちゃ、掏賊だって助けまいものでもない、そこが男よ。ええ、私だって柳橋に居りゃ助けるわ。それが悪けりゃ世間様、勝手になさいな。またお役所の事なんか、お墓のお母(っか)さんもそう云いました。蔦がどんな苦労でも楽(たのし)みにしますから、お世帯向は決(け)して御心配なさいますなって、……云ってましたよ。早瀬 難有(ありがた)い、俺(おい)ら嬉しいぜ。お蔦 女房に礼を云う人がありますか。ほんとうにどうかしているんだよ。早瀬 馬鹿な。お前のお母(っか)さんに礼を云うのよ。しかし世帯の事なんか、ちっとも心配しているんじゃない。お蔦 じゃ何を鬱ぐんですよ。早瀬 何という事はない、が、月を見な、時々雲も懸(かか)るだろう。星ほどにも無い人間だ。ふっと暗闇(やみ)にもなろうじゃないか。……いや、家内安全の祈祷(きとう)は身勝手、御不沙汰(ごぶさた)の御機嫌うかがいにおまいりしながら、愚痴(ぐち)を云ってちゃ境内で相済まない。……さあ、そろそろ帰ろう。(立ちかける。)お蔦 (引添いつつ)ああ、ちょっと、待って下さいな。早瀬 何だ。お蔦 あの、私は巳年(みどし)で、かねて、弁天様が信心なんです。……ここまで来て御不沙汰をしては気が済まないから、石段の下までも行って拝んで来たいんですから、貴方、ちょっとの間(ま)よ、待っていて下さいな。早瀬 ああ、行くが可(い)い、ついで、と云っては失礼だが、お前不忍(しのばず)まで行ってはどうだ。一所に行こうよ。お蔦 まあ、珍しい。貴方の方で一所なんて、不思議だわね。(顔を見る)でも、悪い方へ不思議なんじゃないから私は嬉しい。ですがね、弁天様は一所は悪いの。それだしね、私貴方に内証(ないしょ)々々で、ちょっと買って来たいものがありますから。早瀬 お心まかせになさるが可(い)い。お蔦 いやに優しいわね。よしましょうか、私、……よそうかしら。早瀬 なぜ、他(ほか)の事とは違う、信心ごとを止(よ)しちゃ不可(いけ)ない。お蔦 でも、貴方が寂しそうだもの。何だか災難でもかかるんじゃないかと思って、私気になって仕ようが無い。早瀬 詰(つま)らん事を。災難なんか張倒す。お蔦 おお、出来(でか)した、宿のおまえさん。早瀬 お茶屋じゃない。場所がらを知らないかい。お蔦 嬉しい、久しぶりで叱られた。だけれど、声に力がないねえ。(とまた案ずる。)早瀬 早く行って来ないかよ。お蔦 あいよ。そうそう、鬱陶(うっとう)しいからって、貴方が脱いだ外套(がいとう)をここに置きますよ。夜露がかかる、着た方が可(い)いわ。□気転きかして奥と口。お蔦 (拍手(かしわで)うつ。)天神様、天神様。
早瀬 何だ、ぶしつけな。お蔦 (それには答えず)やどをお頼み申上げます。早瀬 (ほろりと泣く。)お蔦 (行(ゆ)きかけつつ)貴方、見ていて下さいな、石段を下りるまで、私一人じゃ可恐(こわ)いんですもの。早瀬 それ見ろ、弱虫。人の事を云う癖に。何だ、下谷(したや)上野の一人あるきが出来ない娘じゃないじゃないか。お蔦 そりゃ褄(つま)を取ってりゃ、鬼が来ても可(い)いけれども、今じゃ按摩(あんま)も可恐(こわ)いんだもの。早瀬 可(よ)し、大きな目を開(あ)いて見ていてやる。大丈夫だ、早く行(ゆ)きなよ。お蔦 あい。□互に心合鍵に、早瀬見送る。――お蔦行(ゆ)く。――
…………………………
□はれて逢われぬ恋仲に、人に心を奥の間より、しらせ嬉しく三千歳(みちとせ)が、このうたいっぱいに、お蔦急ぎあしに引返す。
早瀬、腕を拱(こまぬ)きものおもいに沈む。
お蔦 (うしろより)貴方、今帰ってよ。兄さん。早瀬 ああ。お蔦 私は……こっちよ。早瀬 おお早かったな。お蔦 いいえ、お待遠さま。……私、何だか、案じられて気が急(せ)いて、貴方、ちょっと顔を見せて頂戴(背ける顔を目にして縋(すが)る)ああ(嬉しそうに)久しぶりで逢ったようよ。(さし覗(のぞ)く)どうしたの。やはり屈託そうな顔をして。――こうやって一所に来たのは嬉しいけれど、しつけない事して、――天神様のお傍(そば)はよし、ここを離れて途中でまた、魔がさすと不可(いけ)ません。急いで電車で帰りましょう。早瀬 お前、せいせい云って、ちと休むが可(い)い。お蔦 もう沢山。早瀬 おまいりをして来たかい。お蔦 ええ、仲町(なかちょう)の角から、(軽く合掌す)手を合せて。早瀬 何と云ってさ。お蔦 まあ、そんな事。早瀬 聞きたいんだよ。お蔦 ええ、話すわ。貴方に御両親はありません、その御両親とも、お主とも思います。貴方の大事なお師匠さま、真砂町(まさごちょう)の先生、奥様、お二方を第一に、御機嫌よう、お達者なよう。そして、可愛いお嬢さんが、決(け)して決して河野(こうの)なんかと御縁組なさいませんよう。早瀬 それから。お蔦 それから?早瀬 それから、……お蔦 だって、あとは分ってるじゃありませんかね。ほほほほ。早瀬 (ともに寂しく笑う)ははは、で、何を買って来たんだい、買いものは。お蔦 (無邪気に莞爾々々(にこにこ)しつつ)いいもの、……でも、お前さんには気に入らないもの、それでも、気に入らせないじゃおかないもの、嬉しいもの、憎いもの、ちょっと極(きま)りの悪いもの。早瀬 何だよ、何だよ。お蔦 ああ、悪かった。……坊やはお土産を待っていたんだよ。そんなら、何か買って上げりゃ可(よ)かった。……堪忍おしよ。いい児(こ)だねえ。早瀬 可(い)いから、何を買ったんだよ。お蔦 見せましょうか、叱らない?早瀬 …………お蔦 叱ったって、もう買ったんだから構わない、(風呂敷より紙づつみを出す)髷形(まげがた)よ、円髷(まるまげ)の。仲町に評判な内があるんですわ。早瀬 髷形を、お蔦。(思わずそのつつみに手を掛く)俺(おれ)の位牌(いはい)でも買や可(い)いのに。お蔦 まあ、お位牌はちゃんと飾って、貴方のおふた親に、お気に入らないかも知れないけれど、私ゃ、私ばかりは嫁の気で、届かぬながら、朝晩おもりをしていますわ。早瀬 樹から落ちた俺の身体(からだ)だ。……優しい嫁の孝行で、はじめて戒名が出来たくらいだ。俺は勘当されたッて。……何をお前、両親がお前に不足があるものか。――位牌と云うのは俺の位牌だ。――お蔦 ええ。早瀬 お蔦、もう俺ゃ死んだ気になって、お前に話したい事がある。お蔦 (聞くと斉(ひと)しく慌(あわただ)しく両手にて両方の耳を蔽(おお)う。)早瀬 ちょっと、もう一度掛けてくれ。お蔦 (ものも言わず、頭をふる。)早瀬 よ。(と胸に手を当て、おそうとして、火に触れたるがごとく、ツト手を引く)死ぬ気になって、と聞いたばかりで、動悸(どうき)はどうだ、震えている。稲妻を浴びせたように……可哀相(かわいそう)に……チョッいっそ二人で巡礼でも。……いやいや先生に誓った上は。――ええ、俺は困った。どうしよう。(倒るるがごとくベンチにうつむく。)お蔦 (見て、優しく擦寄る)聞かして下さい、聞かして下さい、私ゃ心配で身体(からだ)がすくむ。(と忙(せわ)しく)早く聞かして下さいな。(と静(しずか)に云う。)早瀬 俺が死んだと思って聞けよ。お蔦 可厭(いや)。(烈(はげ)しく再び耳を圧(おさ)う)何を聞くのか知らないけれど、貴下(あなた)この二三日の様子じゃ、雷様より私は可恐(こわ)いよ。早瀬 (肩に手を置く)やあ、ほんとに、わなわな震えて。お蔦 ええ、たとい弱くッて震えても、貴方の身替りに死ねとでも云うんなら、喜んで聞いてあげます。貴方が死んだつもりだなんて、私ゃ死ぬまで聞きませんよ。早瀬 おお、お前も殺さん、俺も死なない、が聞いてくれ。お蔦 そんなら、……でも、可恐(こわ)いから、目を瞑(ふさ)いで。早瀬 お蔦。お蔦 …………早瀬 俺とこれッきり別れるんだ。お蔦 ええ。早瀬 思切って別れてくれ。お蔦 早瀬さん。早瀬 …………お蔦 串戯(じょうだん)じゃ、――貴方、なさそうねえ。早瀬 洒落(しゃれ)や串戯で、こ、こんな事が。俺は夢になれと思っている。□跡には二人さし合(あい)も、涙拭(ぬぐ)うて三千歳が、恨めしそうに顔を見て、お蔦 ほんとうなのねえ。早瀬 俺があやまる、頭を下げるよ。お蔦 切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。……私にゃ死ねと云って下さい。蔦には枯れろ、とおっしゃいましな。ツンとしてそがいになる。
早瀬 お蔦、お蔦、俺は決して薄情じゃない。お蔦 ええ、薄情とは思いません。早瀬 誓ってお前を厭(あ)きはしない。お蔦 ええ、厭かれて堪(たま)るもんですか。早瀬 こっちを向いて、まあ、聞きなよ。他(ほか)に何も鬱(ふさ)ぐ事はない、この二三日、顔を色を怪(あやし)まれる、屈託はこの事だ。今も言おう、この時言おう、口へ出そうと思っても、朝、目を覚(さま)せば俺より前に、台所(だいどころ)でおかかを掻く音、夜寝る時は俺よりあとに、あかりの下で針仕事。心配そうに煙管(きせる)を支(つ)いて、考えると見ればお菜(かず)の献立、味噌漉(みそこし)で豆腐を買う後姿を見るにつけ、位牌の前へお茶湯(ちゃとう)して、合せる手を見るにつけ、咽喉(のど)を切っても、胸を裂いても、唇を破っても、分れてくれとは言えなかった。先刻(さっき)も先刻、今も今、優しいこと、嬉しいこと、可愛いことを聞くにつけ、云おう云おうと胸を衝くのは、罪も報いも無いものを背後(うしろ)からだまし打(うち)に、岩か玄翁(げんのう)でその身体(からだ)を打砕くような思いがして、俺は冷汗に血が交った。な、こんな思(おもい)をするんだもの、よくせきな事だと断念(あきら)めて、きれると承知をしてくんな。……お前に、そんなに拗(す)ねられては、俺は活(い)きてる空はない。お蔦 ですから、死ねとおっしゃいよ。切れろ、別れろ、と云うから可厭(いや)なの。死ねなら、あい、と云いますわ。私ゃ生命(いのち)は惜(おし)くはない。早瀬 さあ、その生命に、俺の生命を、二つ合せても足りないほどな、大事な方を知っているか。お前が神仏(かみほとけ)を念ずるにも、まず第一に拝むと云った、その言葉が嘘でなければ、言わずとも分るだろう。そのお方のいいつけなんだ。お蔦 (消ゆるがごとく崩折(くずお)れる)ええ、それじゃ、貴方の心でなく、別れろ、とおっしゃるのは、真砂町の先生の。(と茫然(ぼうぜん)とす。)早瀬 己(おれ)は死ぬにも死なれない。(身を悶(もだ)ゆ。)お蔦 (はっと泣いて、早瀬に縋(すが)る。)□一日逢わねば、千日の思いにわたしゃ煩うて、針や薬のしるしさえ、泣(なき)の涙に紙濡らし、枕を結ぶ夢さめて、いとど思いのますかがみ。この間に、早瀬、ベンチを立つ、お蔦縋るようにあとにつき、双方涙の目に月を仰ぎながら徐(しずか)にベンチを一周す。お蔦さきに腰を落し、立てる早瀬の袂(たもと)を控う。
お蔦 あきらめられない、もう一度、泣いてお膝に縋っても、是非もしようもないのでしょうか。早瀬 実は柏家(かしわや)の奥座敷で、胸に匕首(あいくち)を刺されるような、御意見を被(こうむ)った。小芳(こよし)さんも、蒼(あお)くなって涙を流して、とりなしてくんなすったが、たとい泣いても縋っても、こがれ死(じに)をしても構わん、おれの命令だ、とおっしゃってな、二の句は続かん、小芳さんも、俺も畳へ倒れたよ。お蔦 (やや気色(けしき)ばむ)まあ、死んでも構わないと、あの、ええ、死ぬまいとお思いなすって、……小芳さんの生命(いのち)を懸けた、わけしりでいて、水臭い、芸者の真(まこと)を御存じない! 私死にます、柳橋の蔦吉は男に焦(こが)れて死んで見せるわ。早瀬 これ、飛んでもない、お前は、血相変えて、勿体(もったい)ない、意地で先生に楯(たて)を突く気か。俺がさせない。待て、落着いて聞けと云うに!――死んでも構わないとおっしゃったのは、先生だけれど、……お前と切れる、女を棄てます、と誓ったのは、この俺だが、どうするえ。お蔦 貴方をどうするって、そんな無理なことばッかり、情があるなら、実があるなら、先生のそうおっしゃった時、なぜ推返(おしかえ)して出来ないまでも、私の心を、先生におっしゃってみては下さいません。早瀬 血を吐く思いで俺も云った。小芳さんも、傍(そば)で聞く俺が極(きま)りの悪いほど、お前の心を取次いでくれたけれど、――四の五の云うな、一も二もない――俺を棄てるか、婦(おんな)を棄てるか、さあ、どうだ――と胸つきつけて言われたには、何とも返す言葉がなかった。今もって、いや、尽未来際(じんみらいざい)、俺は何とも、他(ほか)に言うべき言葉を知らん。お蔦 (間)ああ、分りました。それで、あの、その時に、お前さん、女を棄てます、と云ったんだわね。早瀬 堪忍しておくれ、済まない、が、確(たしか)に誓った。お蔦 よく、おっしゃった、男ですわ。女房の私も嬉しい。早瀬さん、男は……それで立ちました。早瀬 立つも立たぬも、お前一つだ。じゃ肯分(ききわ)けてくれるんだね。お蔦 肯分けないでどうしましょう。早瀬 それじゃ別れてくれるんだな。お蔦 ですけれど……やっぱり私の早瀬さん、それだからなお未練が出るじゃありませんか。早瀬 また、そんな無理を言う。お蔦 どッちが、無理だと思うんですよ。早瀬 じゃお前、私がこれだけ事を分けて頼むのに、肯入れちゃくれんのかい。お蔦 いいえ。早瀬 それじゃ一言、清く別れると云ってくんなよ。お蔦 …………早瀬 ええ、お蔦。(あせる。)お蔦 いいますよ。(きれぎれに且つ涙)別れる切れると云う前に、夫婦で、も一度顔が見たい。(胸に縋(すが)って、顔を見合わす。)□見る度ごとに面痩(おもや)せて、どうせながらえいられねば、殺して行ってくださんせ。お蔦 見納めかねえ――それじゃ、お別れ申します。早瀬 (涙を払い、気を替う)さあ、ここに金子(かね)がある、……下すったんだ、受取っておいておくれ。(渡す。)お蔦 (取ると斉(ひと)しく)手切れかい、失礼な、(と擲(なげう)たんとして、腕の萎(な)えたる状(さま))あの、先生が下すったんですか。早瀬 まだ借金も残っていよう、当座の小使いにもするように、とお心づけ下すったんだ。お蔦 (しおしおと押頂く)こうした時の気が乱れて、勿体ない事をしようとした、そんなら私、わざと頂いておきますよ。(と帯に納めて、落したる髷形(まげがた)の包に目を注ぐ。じっと泣きつつ拾取って砂を払う)も、荷になってなぜか重い。打棄(うっちゃ)って行きたいけれど、それでは拗(す)ねるに当るから。早瀬 で、お前はどうする。お蔦 私より貴方は……そうね、お源坊が実体(じってい)に働きますから、当分我慢が出来ましょう。私……もう、やがて、船の胡瓜(きゅうり)も出るし、お前さんの好きなお香々(こうこう)をおいしくして食べさせて誉(ほ)められようと思ったけれど、……ああ何も言うのも愚痴(ぐち)らしい。あの、それよりか、お前さんは私にばかり我ままを云う癖に、遠慮深くって女中にも用はいいつけ得ないんだもの。……これからはね、思うように用をさして、不自由をなさいますな。……寝冷(ねびえ)をしては不可(いけ)ませんよ。私、山百合を買って来て、早く咲くのを見ようと思って、莟(つぼみ)を吹いて、ふくらましていたんですよ、水を遣(や)って下さいな……それから。早瀬 (うつむいて頷(うなず)いてのみいる、堪(たま)りかねて)俺も世帯を持っちゃいないよ。お前にわかれて、何の洒落(しゃれ)に。お蔦 まあ、どうして。早瀬 それでなくッてさえ、掏賊(すり)の同類だ、あいずりだと、新聞で囃(はや)されて、そこらに、のめのめ居られるものか。長屋は藻(も)ぬけて、静岡へ駈落(かけおち)だ。少し考えた事もあるし、当分引込(ひっこ)んでいようと思う。お蔦 遠いわねえ。静岡ッて箱根のもッと先ですか。貴方がここに待っていて、石段を下りたばかりでさえ、気が急(せ)いてならなかったに、またいつ、お目にかかれるやら。(と膝にうつむく。)早瀬 お蔦、お前は、それだから案じられる。忘れても一人でなんぞ、江戸の土を離れるな。静岡は箱根より遠いかは心細い。……ああ、親はなし、兄弟はなし、伯父叔母というものもなし、俺ばっかりをたよりにしたのに、せめて、従兄妹(いとこ)が一人ありゃ、俺は、こんな思いはしやしない!……よう、お蔦、そしてお前は当分どうするつもりだ。お蔦 (顔を上ぐ)貴方こそ、水がわり、たべものに気をつけて下さいよ。私の事はそんなに案じないが可(よ)うござんす。小児(こども)の時から髪を結うのが好きで、商売をやめてから、御存じの通り、銀杏返(いちょうがえ)しなら人の手はかりませんし、お源の島田の真似もします。慰みに、お酌(しゃく)さんの桃割(ももわれ)なんか、お世辞にも誉(ほ)められました。めの字のかみさんが幸い髪結(かみゆい)をしていますから、八丁堀へ世話になって、梳手(すきて)に使ってもらいますわ。早瀬 すき手にかい。お蔦 ええ、修業をして。……貴方よりさきへ死ぬまで、人さんの髪を結(ゆ)ましょう。私は尼になった気で、(風呂敷を髪に姉(あね)さんかぶりす)円髷(まるまげ)に結(い)って見せたかったけれど、いっそこの方が似合うでしょう。早瀬 (そのかぶりものを、引手繰(ひったぐ)ってつつと立つ)さあ、一所に帰ろう。お蔦 (外套を羽織らせながら)あの……今夜は内へ帰っても可(い)いの。早瀬 よく、肯分(ききわ)けた、お蔦、それじゃ、すぐに、とぼとぼと八丁堀へ行く気だったか。お蔦 ええ、そうよ。……じゃ、もう一度、雀に餌(えさ)が遣れるのね、よく馴染(なじ)んで、□子窓(れんじまど)の中まで来て、可愛いッたらないんですもの。……これまで別れるのは辛かったわ。早瀬 何も言わん。さあ、せめて、かえりに、好きな我儘(わがまま)を云っておくれ。お蔦 (猶予(ためら)いつつ)手を曳(ひ)いて。□いえど此方(こなた)は水鳥の浮寝の床の水離れ、よしあし原をたちかぬれば、この間に早瀬手を取る、お蔦振返る早瀬もともに、ふりかえり伏拝む。
さて行(ゆ)かんとして、お蔦衝(つ)と一方に身を離す。
早瀬 どこへ行く。お蔦 一人々々両側へ、別れたあとの心持を、しみじみ思って歩行(ある)いてみますわ。早瀬 (頷(うなず)く。舞台を左右へ。)お蔦 でも、もう我慢がし切れなくなって、私もしか倒れたら、駈(か)けつけて下さいよ。早瀬 (頷く。)お蔦 切通しを帰るんだわね、おもいを切って通すんでなく、身体(からだ)を裂いて分れるような。早瀬 (頷く。)お蔦しおしおと行(ゆ)きかかり、胸のいたみをおさえて立留(たちど)る、早瀬ハッと向合う。両方おもてを見合わす。
□実(げ)に寒山のかなしみも、かくやとばかりふる雪に、積る……幕外へ。
□思いぞ残しける。男は足早に、女は静(しずか)に。
――幕――大正三(一九一四)年十月



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