小春の狐
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著者名:泉鏡花 

       一

 朝――この湖の名ぶつと聞く、蜆(しじみ)の汁で。……燗(かん)をさせるのも面倒だから、バスケットの中へ持参のウイスキイを一口。蜆汁にウイスキイでは、ちと取合せが妙だが、それも旅らしい。……
 いい天気で、暖かかったけれども、北国(ほっこく)の事だから、厚い外套(がいとう)にくるまって、そして温泉宿を出た。
 戸外の広場の一廓(ひとくるわ)、総湯の前には、火の見の階子(はしご)が、高く初冬の空を抽(ぬ)いて、そこに、うら枯れつつも、大樹の柳の、しっとりと静(しずか)に枝垂(しだ)れたのは、「火事なんかありません。」と言いそうである。
 横路地から、すぐに見渡さるる、汀(みぎわ)の蘆(あし)の中に舳(みよし)が見え、艫(とも)が隠れて、葉越葉末に、船頭の形が穂を戦(そよ)がして、その船の胴に動いている。が、あの鉄鎚(てっつい)の音を聞け。印半纏(しるしばんてん)の威勢のいいのでなく、田船を漕(こ)ぐお百姓らしい、もっさりとした布子(ぬのこ)のなりだけれども、船大工かも知れない、カーンカーンと打つ鎚(つち)が、一面の湖の北の天(そら)なる、雪の山の頂に響いて、その間々に、
「これは三保の松原に、伯良(はくりょう)と申す漁夫にて候。万里の好山に雲忽(たちま)ちに起り、一楼の明月に雨始めて晴れたり……」
 と謡うのが、遠いが手に取るように聞えた。――船大工が謡を唄う――ちょっと余所(よそ)にはない気色(けしき)だ。……あまつさえ、地震の都から、とぼんとして落ちて来たものの目には、まるで別なる乾坤(てんち)である。
 脊の伸びたのが枯交(かれまじ)り、疎(まばら)になって、蘆が続く……傍(かたわら)の木納屋(きなや)、苫屋(とまや)の袖には、しおらしく嫁菜の花が咲残る。……あの戸口には、羽衣を奪われた素裸の天女が、手鍋(てなべ)を提げて、その男のために苦労しそうにさえ思われた。
「これなる松にうつくしき衣(ころも)掛(かか)れり、寄りて見れば色香妙(たえ)にして……」
 と謡っている。木納屋の傍(わき)は菜畑で、真中(まんなか)に朱を輝かした柿の樹がのどかに立つ。枝に渡して、ほした大根のかけ紐(ひも)に青貝ほどの小朝顔が縋(すが)って咲いて、つるの下に朝霜の焚火(たきび)の残ったような鶏頭が幽(かすか)に燃えている。その陽だまりは、山霊に心あって、一封のもみじの音信(たより)を投げた、玉章(たまずさ)のように見えた。
 里はもみじにまだ早い。
 露地が、遠目鏡(とおめがね)を覗(のぞ)く状(さま)に扇形(おうぎなり)に展(ひら)けて視(なが)められる。湖と、船大工と、幻の天女と、描ける玉章を掻乱(かきみだ)すようで、近く歩(あゆみ)を入るるには惜(おし)いほどだったから……
 私は――
(これは城崎関弥(きざきせきや)と言う、筆者の友だちが話したのである。)
 ――道をかえて、たとえば、宿の座敷から湖の向うにほんのりと、薄い霧に包まれた、白砂の小松山の方に向ったのである。
 小店の障子に貼紙(はりがみ)して、
 (今日より昆布(こぶ)まきあり候。)
 ……のんびりとしたものだ。口上が嬉しかったが、これから漫歩(そぞろあるき)というのに、こぶ巻は困る。張出しの駄菓子に並んで、笊(ざる)に柿が並べてある。これなら袂(たもと)にも入ろう。「あり候」に挨拶(あいさつ)の心得で、
「おかみさん、この柿は……」
 天井裏の蕃椒(とうがらし)は真赤(まっか)だが、薄暗い納戸から、いぼ尻まきの顔を出して、
「その柿かね。へい、食べられましない。」
「はあ?」
「まだ渋が抜けねえだでね。」
「はあ、ではいつ頃食べられます。」
 きく奴(やつ)も、聞く奴だが、
「早うて、……来月の今頃だあねえ。」
「成程。」
 まったく山家(やまが)はのん気だ。つい目と鼻のさきには、化粧煉瓦(けしょうれんが)で、露台(バルコニイ)と言うのが建っている。別館、あるいは新築と称して、湯宿一軒に西洋づくりの一部は、なくてはならないようにしている盛場でありながら。
「お邪魔をしました。」
「よう、おいで。」
 また、おかしな事がある。……くどいと不可(いけな)い。道具だてはしないが、硝子戸(がらすど)を引きめぐらした、いいかげんハイカラな雑貨店が、細道にかかる取着(とッつき)の角にあった。私は靴だ。宿の貸下駄で出て来たが、あお桐の二本歯で緒が弛(ゆる)んで、がたくり、がたくりと歩行(ある)きにくい。此店(ここ)で草履を見着けたから入ったが、小児(こども)のうち覚えた、こんな店で売っている竹の皮、藁(わら)の草履などは一足もない。極く雑なのでも裏つきで、鼻緒が流行のいちまつと洒落(しゃ)れている。いやどうも……柿の渋は一月半おくれても、草履は駈足(かけあし)で時流に追着く。
「これを貰(もら)いますよ。」
 店には、ちょうど適齢前の次男坊といった若いのが、もこもこの羽織を着て、のっそりと立っていた。
「貰って穿(は)きますよ。」
 と断って……早速ながら穿替えた、――誰も、背負(しょ)って行(ゆ)く奴もないものだが、手一つ出すでもなし、口を利くでもなし、ただにやにやと笑って見ているから、勢い念を入れなければならなかったので。……
「お幾干(いくら)。」
「分りませんなあ。」
「誰かに聞いてくれませんか。」
 若いのは、依然としてにやにやで、
「誰も今居(お)らんのでね……」
「じゃあ帰途(かえり)に上げましょう。じきそこの宿に泊ったものです。」
「へい、大きに――」
 まったくどうものんびりとしたものだ。私は何かの道中記の挿絵に、土手の薄(すすき)に野茨(のばら)の実がこぼれた中に、折敷(おしき)に栗を塩尻に積んで三つばかり。細竹に筒をさして、四(し)もんと、四つ、銭の形を描き入れて、傍(そば)に草鞋(わらじ)まで並べた、山路の景色を思出した。

       二

「この蕈(きのこ)は何と言います。」
 山沿(やまぞい)の根笹に小流(こながれ)が走る。一方は、日当(ひあたり)の背戸を横手に取って、次第疎(まばら)に藁屋(わらや)がある、中に半農――この潟(かた)に漁(すなど)って活計(たつき)とするものは、三百人を越すと聞くから、あるいは半漁師――少しばかり商いもする――藁屋草履は、ふかし芋とこの店に並べてあった――村はずれの軒を道へ出て、そそけ髪で、紺の筒袖を上被(うわっぱり)にした古女房が立って、小さな笊に、真黄色(まっきいろ)な蕈を装(も)ったのを、こう覗(のぞ)いている。と笊を手にして、服装(なり)は見すぼらしく、顔も窶(やつ)れ、髪は銀杏返(いちょうがえし)が乱れているが、毛の艶(つや)は濡れたような、姿のやさしい、色の白い二十(はたち)あまりの女が彳(たたず)む。
 蕈は軸を上にして、うつむけに、ちょぼちょぼと並べてあった。
 
 実は――前年一度この温泉に宿った時、やっぱり朝のうち、……その時は町の方を歩行(ある)いて、通りの煮染屋(にしめや)の戸口に、手拭(てぬぐい)を頸(くび)に菅笠(すげがさ)を被(かぶ)った……このあたり浜から出る女の魚売が、天秤(てんびん)を下(おろ)した処に行(ゆ)きかかって、鮮(あたら)しい雑魚に添えて、つまといった形で、おなじこの蕈を笊に装ったのを見た事があったのである。
 銀杏の葉ばかりの鰈(かれい)が、黒い尾でぴちぴちと跳ねる。車蝦(くるまえび)の小蝦は、飴色(あめいろ)に重(かさな)って萌葱(もえぎ)の脚をぴんと跳ねる。魴□(ほうぼう)の鰭(ひれ)は虹(にじ)を刻み、飯鮹(いいだこ)の紫は五つばかり、断(ちぎ)れた雲のようにふらふらする……こち、めばる、青、鼠、樺色(かばいろ)のその小魚(こうお)の色に照映(てりは)えて、黄なる蕈は美しかった。
 山国に育ったから、学問の上の知識はないが……蕈の名の十(とお)やら十五は知っている。が、それはまだ見た事がなかった。……それに、私は妙に蕈が好きである。……覗込んで何と言いますかと聞くと「霜こしや。」と言った。「ははあ、霜こし。」――十一月初旬で――松蕈(まつたけ)はもとより、しめじの類にも時節はちと寒過ぎる。……そこへ出盛る蕈らしいから、霜を越すという意味か、それともこの蕈が生えると霜が降る……霜を起すと言うのかと、その時、考うる隙(ひま)もあらせず、「旦那(だんな)さんどうですね。」とその魚売が笊をひょいと突きつけると、煮染屋の女房が、ずんぐり横肥りに肥った癖に、口の軽い剽軽(ひょうきん)もので、
「買うてやらさい。旦那さん、酒の肴(さかな)に……はははは、そりゃおいしい、猪(しし)の味や。」と大口を開けて笑った。――紳士淑女の方々に高い声では申兼(もうしか)ねるが、猪はこのあたりの方言で、……お察しに任せたい。
 唄で覚えた。
薬師山から湯宿を見れば、ししが髪結(ゆ)て身をやつす。
 いや……と言ったばかりで、外(ほか)に見当は付かない。……私はその時は前夜着いた電車の停車場の方へ遁足(にげあし)に急いだっけが――笑うものは笑え。――そよぐ風よりも、湖の蒼(あお)い水が、蘆の葉ごしにすらすらと渡って、おろした荷の、その小魚にも、蕈にも颯(さっ)とかかる、霜こしの黄茸(きたけ)の風情が忘れられない。皆とは言わぬが、再びこの温泉に遊んだのも、半ばこの蕈に興じたのであった。
 ――ほぼ心得た名だけれど、したしいものに近づくとて、あらためて、いま聞いたのである。

「この蕈は何と言います。」
 何が何でも、一方は人の内室である、他は淑女たるに間違いない。――その真中(まんなか)へ顔を入れたのは、考えると無作法千万で、都会だと、これ交番で叱られる。
「霜こしやがね。」と買手の古女房が言った。
「綺麗(きれい)だね。」
 と思わず言った。近優(ちかまさ)りする若い女の容色(きりょう)に打たれて、私は知らず目を外(そら)した。
「こちらは、」
 と、片隅に三つばかり。この方は笠を上にした茶褐色で、霜こしの黄なるに対して、女郎花(おみなえし)の根にこぼれた、茨(いばら)の枯葉のようなのを、――ここに二人たった渠等(かれら)女たちに、フト思い較(くら)べながら指すと、
「かっぱ。」
 と語音の調子もある……口から吹飛ばすように、ぶっきらぼうに古女房が答えた。
「ああ、かっぱ。」
「ほほほ。」
 かっぱとかっぱが顱合(はちあわ)せをしたから、若い女は、うすよごれたが姉(あね)さんかぶり、茶摘、桑摘む絵の風情の、手拭の口に笑(えみ)をこぼして、
「あの、川に居(お)ります可恐(こわ)いのではありませんの、雨の降る時にな、これから着ますな、あの色に似ておりますから。」
「そんで幾干(いくら)やな。」
 古女房は委細構わず、笊の縁に指を掛けた。
「そうですな、これでな、十銭下さいまし。」
「どえらい事や。」
 と、しょぼしょぼした目を□(みは)った。睨(にら)むように顔を視(なが)めながら、
「高いがな高いがな――三銭や、えっと気張って。……三銭が相当や。」
「まあ、」
「三銭にさっせえよ。――お前(めえ)もな、青草ものの商売や。お客から祝儀とか貰うようには行(ゆ)かんぞな。」
「でも、」
 と蕈(きのこ)が映す影はないのに、女の瞼(まぶた)はほんのりする。
 安値(やす)いものだ。……私は、その言い値に買おうと思って、声を掛けようとしたが、隙(すき)がない。女が手を離すのと、笊を引手繰(ひったく)るのと一所で、古女房はすたすたと土間へ入って行(ゆ)く。
 私は腕組をしてそこを離れた。
 以前、私たちが、草鞋(わらじ)に手鎌、腰兵粮(こしびょうろう)というものものしい結束で、朝くらいうちから出掛けて、山々谷々を狩っても、見た数ほどの蕈を狩り得た験(ためし)は余りない。
 たった三銭――気の毒らしい。
「御免なして。」 
 と背後(うしろ)から、跫音(あしおと)を立てず静(しずか)に来て、早や一方は窪地の蘆の、片路(かたみち)の山の根を摺違(すれちが)い、慎ましやかに前へ通る、すり切(きれ)草履に踵(かかと)の霜。
「ああ、姉さん。」
 私はうっかりと声を掛けた。

       三

「――旦那さん、その虫は構うた事には叶(かな)いませんわ。――煩(うるそ)うてな……」
 もの言(いい)もやや打解けて、おくれ毛を撫(な)でながら、
「ほっといてお通りなさいますと、ひとりでに離れます。」
「随分居るね、……これは何と言う虫なんだね。」
「東京には居(お)りませんの。」
「いや、雨上りの日当りには、鉢前などに出はするがね。こんなに居やしないようだ。よくも気をつけはしないけれど、……(しょうじょう)よりもっと小さくって煙(けむ)のようだね。……またここにも一団(ひとかたまり)になっている。何と言う虫だろう。」
「太郎虫と言いますか、米搗虫(こめつきむし)と言うんですか、どっちかでございましょう。小さな児(こ)が、この虫を見ますとな、旦那さん……」
 と、言(ことば)が途絶えた。
「小さな児が、この虫を見ると?……」
「あの……」
「どうするんです。」
「唄をうとうて囃(はや)しますの。」
「何と言って……その唄は?」
「極(きまり)が悪うございますわ。……(太郎は米搗き、次郎は夕な、夕な。)……薄暮合(うすくれあい)には、よけい沢山(たんと)飛びますの。」
 ……思出した。故郷の町は寂しく、時雨の晴間に、私たちもやっぱり唄った。
「仲よくしましょう、さからわないで。」
 私はちょっかいを出すように、面(おもて)を払い、耳を払い、頭を払い、袖を払った。茶番の最明寺(さいみょうじ)どののような形を、更(あらた)めて静(しずか)に歩行(ある)いた。――真一文字の日あたりで、暖かさ過ぎるので、脱いだ外套(がいとう)は、その女が持ってくれた。――歩行(ある)きながら、
「……私は虫と同じ名だから。」
 しかし、これは、虫にくらべて謙遜した意味ではない。実は太郎を、浦島の子に擬(なぞら)えて、潜(ひそか)に思い上った沙汰(さた)なのであった。

 湖を遥(はるか)に、一廓(ひとくるわ)、彩色した竜の鱗(うろこ)のごとき、湯宿々々の、壁、柱、甍(いらか)を中に隔てて、いまは鉄鎚(てっつい)の音、謡の声も聞えないが、出崎の洲(す)の端(はた)に、ぽッつりと、烏帽子(えぼし)の転がった形になって、あの船も、船大工も見える。木納屋の苫屋(とまや)は、さながらその素袍(すおう)の袖である。
 ――今しがた、この女が、細道をすれ違った時、蕈(きのこ)に敷いた葉を残した笊(ざる)を片手に、行(ゆ)く姿に、ふとその手鍋(てなべ)提げた下界の天女の俤(おもかげ)を認めたのである。そぞろに声掛けて、「あの、蕈(きのこ)を、……三銭に売ったのか。」とはじめ聞いた。えんぶだごんの価値(あたい)でも説く事か、天女に対して、三銭也を口にする。……さもしいようだが、対手(あいて)が私だから仕方がない。「ええ、」と言うのに押被(おっかぶ)せて、「馬鹿々々しく安いではないか。」と義憤を起すと、せめて言いねの半分には買ってもらいたかったのだけれど、「旦那さんが見てであったしな。……」と何か、私に対して、値の押問答をするのが極(きまり)が悪くもあったらしい口振(くちぶり)で。……「失礼だが、世帯の足(たし)になりますか。」ときくと、そのつもりではあったけれど、まるで足りない。煩っていなさる母さんの本復を祈って願掛けする、「お稲荷様(いなりさま)のお賽銭(さいせん)に。」と、少しあれたが、しなやかな白い指を、縞目(しまめ)の崩れた昼夜帯へ挟んだのに、さみしい財布がうこん色に、撥袋(ばちぶくろ)とも見えず挟(はさま)って、腰帯ばかりが紅(べに)であった。「姉さんの言い値ほどは、お手間を上げます。あの松原は松露があると、宿で聞いて、……客はたて込む、女中は忙しいし、……一人で出て来たが覚束(おぼつか)ない。ついでに、いまの(霜こし)のありそうな処へ案内して、一つでも二つでも取らして下さい、……私は茸狩(たけがり)が大好き。――」と言って、言ううちに我ながら思入って、感激した。
 はかない恋の思出がある。

 もう疾(とく)に、余所(よそ)の歴(れっ)きとした奥方だが、その私より年上の娘さんの頃、秋の山遊びをかねた茸狩に連立った。男、女たちも大勢だった。茸狩に綺羅(きら)は要らないが、山深く分入るのではない。重箱を持参で茣蓙(ござ)に毛氈(もうせん)を敷くのだから、いずれも身ぎれいに装った。中に、襟垢(えりあか)のついた見すぼらしい、母のない児(こ)の手を、娘さん――そのひとは、厭(いと)わしげもなく、親しく曳(ひ)いて坂を上ったのである。衣(きぬ)の香に包まれて、藤紫の雲の裡(うち)に、何も見えぬ。冷いが、時めくばかり、優しさが頬に触れる袖の上に、月影のような青地の帯の輝くのを見つつ、心も空に山路を辿(たど)った。やがて皆、谷々、峰々に散って蕈(きのこ)を求めた。かよわいその人の、一人、毛氈に端坐して、城の見ゆる町を遥(はるか)に、開いた丘に、少しのぼせて、羽織を脱いで、蒔絵(まきえ)の重に片袖を掛けて、ほっと憩(やす)らったのを見て、少年は谷に下りた。が、何を秘(かく)そう。その人のいま居る背後(うしろ)に、一本(ひともと)の松は、我がなき母の塚であった。
 向った丘に、もみじの中に、昼の月、虚空に澄んで、月天(がってん)の御堂(みどう)があった。――幼い私は、人界の茸(きのこ)を忘れて、草がくれに、偏(ひとえ)に世にも美しい人の姿を仰いでいた。
 弁当に集(あつま)った。吸筒(すいづつ)の酒も開かれた。「関ちゃん――関ちゃん――」私の名を、――誰も呼ぶもののないのに、その人が優しく呼んだ。刺すよと知りつつも、引(ひッ)つかんで声を堪(こら)えた、茨(いばら)の枝に胸のうずくばかりなのをなお忍んだ――これをほかにしては、もうきこえまい……母の呼ぶと思う、なつかしい声を、いま一度、もう一度、くりかえして聞きたかったからであった。「打棄(うっちゃ)っておけ、もう、食いに出て来る。」私は傍(そば)の男たちの、しか言うのさえ聞える近まにかくれたのである。草を噛(か)んだ。草には露、目には涙、縋(すが)る土にもしとしとと、もみじを映す糸のような紅(くれない)の清水が流れた。「関ちゃん――関ちゃんや――」澄み透(とお)った空もやや翳(かげ)る。……もの案じに声も曇るよ、と思うと、その人は、たけだちよく、高尚に、すらりと立った。――この時、日月(じつげつ)を外にして、その丘に、気高く立ったのは、その人ただ一人であった。草に縋って泣いた虫が、いまは堪(たま)らず蟋蟀(こおろぎ)のように飛出すと、するすると絹の音、颯(さっ)と留南奇(とめき)の香で、もの静(しずか)なる人なれば、せき心にも乱れずに、衝(つ)と白足袋で氈(かも)を辷(すべ)って肩を抱いて、「まあ、可(よ)かった、怪我をなさりはしないかと姉さんは心配しました。」少年はあつい涙を知った。
 やがて、世の状(さま)とて、絶えてその人の俤(おもかげ)を見る事の出来ずなってから、心も魂もただ憧憬(あこがれ)に、家さえ、町さえ、霧の中を、夢のように□□(さまよ)った。――故郷(ふるさと)の大通りの辻に、老舗(しにせ)の書店の軒に、土地の新聞を、日ごとに額面に挿(はさ)んで掲げた。表(おもて)三の面上段に、絵入りの続きもののあるのを、ぼんやりと彳(たたず)んで見ると、さきの運びは分らないが、ちょうど思合った若い男女が、山に茸狩(たけがり)をする場面である。私は一目見て顔がほてり、胸が躍った。――題も忘れた、いまは朧気(おぼろげ)であるから何も言うまい。……その恋人同士の、人目のあるため、左右の谷へ、わかれわかれに狩入ったのが、ものに隔てられ、巌(いわ)に遮られ、樹に包まれ、兇漢(くせもの)に襲われ、獣に脅かされ、魔に誘われなどして、日は暗し、……次第に路を隔てつつ、かくて両方でいのちの限り名を呼び合うのである。一句、一句、会話に、声に――がある……がある……! が重る。――私は夜(よ)も寝られないまで、翌日の日を待ちあぐみ、日ごとにその新聞の前に立って読み耽(ふけ)った。が、三日、五日、六日、七日になっても、まだその二人は谷と谷を隔てている。!……も、――も、丶も、邪魔なようで焦(じれ)ったい。が、しかしその一つ一つが、峨々(がが)たる巌(いわお)、森(しん)とした樹立(こだち)に見えた。丶(くとう)さえ深く刻んだ谷に見えた。……赤新聞と言うのは唯今(ただいま)でもどこかにある……土地の、その新聞は紙が青かった。それが澄渡った秋深き空のようで、文字は一(ひとつ)ずつもみじであった。作中の娘は、わが恋人で、そして、とぼんと立って読むものは小さな茸(きのこ)のように思われた。――石になった恋がある。少年は茸になった。「関弥。」ああ、勿体ない。……余りの様子を、案じ案じ捜しに出た父に、どんと背中を敲(たた)かれて、ハッと思った私は、新聞の中から、天狗(てんぐ)の翼(はね)をこぼれたようにぽかんと落ちて、世に返って、往来(ゆきき)の人を見、車を見、且つ屋根越に遠く我が家の町を見た。――
 なつかしき茸狩よ。
 二十年あまり、かくてその後、茸狩らしい真似をさえする機会がなかったのであった。
「……おともしますわ。でも、大勢で取りますから、茸(きのこ)があればいいんですけど……」
 湯の町の女は、先に立って導いた。……
 湖のなぐれに道を廻(めぐ)ると、松山へ続く畷(なわて)らしいのは、ほかほかと土が白い。草のもみじを、嫁菜のおくれ咲が彩って、枯蘆(かれあし)に陽が透通る。……その中を、飛交うのは、琅□(ろうかん)のような螽(いなご)であった。
 一つ、別に、この畷を挟んで、大なる潟が湧(わ)いたように、刈田を沈め、鳰(かいつぶり)を浮かせたのは一昨日の夜(よ)の暴風雨の余残(なごり)と聞いた。蘆の穂に、橋がかかると渡ったのは、横に流るる川筋を、一つらに渺々(びょうびょう)と汐(しお)が満ちたのである。水は光る。
 橋の袂(たもと)にも、蘆の上にも、随所に、米つき虫は陽炎(かげろう)のごとくに舞って、むらむらむらと下へ巻き下(くだ)っては、トンと上って、むらむらとまた舞いさがる。
 一筋の道は、湖の只中(ただなか)を霞の渡るように思われた。
 汽車に乗って、がたがた来て、一泊幾干(いくら)の浦島に取って見よ、この姫君さえ僭越(せんえつ)である。
「ほんとうに太郎と言います、太郎ですよ。――姉さんの名は?……」
「…………」
「姉さんの名は?……」
 女は幾度も口籠りながら、手拭(てぬぐい)の端を俯目(ふしめ)に加(くわ)えて、
「浪路(なみじ)。……」
 と言った。
 ――と言うのである。……読者諸君(みなさん)、女の名は浪路だそうです。

       四

 あれに、翁(おきな)が一人見える。
 白砂の小山の畦道(あぜみち)に、菜畑の菜よりも暖かそうな、おのが影法師を、われと慰むように、太い杖(つえ)に片手づきしては、腰を休め休め近づいたのを、見ると、大黒頭巾(だいこくずきん)に似た、饅頭形(まんじゅうがた)の黄なる帽子を頂き、袖なしの羽織を、ほかりと着込んで、腰に毛巾着(けぎんちゃく)を覗(のぞ)かせた……片手に網のついた畚(びく)を下げ、じんじん端折(ばしょり)の古足袋に、藁草履(わらぞうり)を穿(は)いている。
「少々、ものを伺います。」
 ゆるい、はけ水の小流(こながれ)の、一段ちょろちょろと落口を差覗いて、その翁の、また一息憩(やす)ろうた杖に寄って、私は言った。
 翁は、頭(ず)なりに黄帽子を仰向(あおむ)け、髯(ひげ)のない円顔の、鼻の皺(しわ)深く、すぐにむぐむぐと、日向(ひなた)に白い唇を動かして、
「このの、私(わし)がいま来た、この縦筋を真直(まっす)ぐに、ずいずいと行かっしゃると、松原について畑を横に曲る処があるでの。……それをどこまでも行かせると、沼があっての。その、すぼんだ処に、土橋が一つ架(かか)っているわい。――それそれ、この見当じゃ。」
 と、引立てるように、片手で杖を上げて、釣竿(つりざお)を撓(た)めるがごとく松の梢(こずえ)をさした。
「じゃがの。」
 と頭(かぶり)を緩く横に掉(ふ)って、
「それをば渡ってはなりませぬぞ。(と強く言って)……渡らずと、橋の詰(つめ)をの、ちと後(あと)へ戻るようなれど、左へ取って、小高い処を上(あが)らっしゃれ。そこが尋ねる実盛塚(さねもりづか)じゃわいやい。」
 と杖を直す。
 安宅(あたか)の関の古蹟とともに、実盛塚は名所と聞く。……が、私は今それをたずねるのではなかった。道すがら、既に路傍(みちばた)の松山を二処(ふたとこ)ばかり探したが、浪路がいじらしいほど気を揉(も)むばかりで、茸も松露も、似た形さえなかったので、獲ものを人に問うもおかしいが、且(かつ)は所在なさに、連(つれ)をさし置いて、いきなり声を掛けたのであったが。
「いいえ、実盛塚へは――行こうかどうしようかと思っているので、……実はおたずね申しましたのは。」
「ほん、ほん、それでは、これじゃろうの。」
 と片手の畚を動かすと、ひたひたと音がして、ひらりと腹を飜(かえ)した魚(うお)の金色(こんじき)の鱗(うろこ)が光った。
「見事な鯉(こい)ですね。」
「いやいや、これは鮒(ふな)じゃわい。さて鮒じゃがの……姉(あね)さんと連立たっせえた、こなたの様子で見ればや。」
 と鼻の下を伸(のば)して、にやりとした。
 思わず、その言(ことば)に連れて振返ると、つれの浪路は、尾花で姿を隠すように、私の外套で顔を横に蔽(おお)いながら、髪をうつむけになっていた。湖の小波(さざなみ)が誘うように、雪なす足の指の、ぶるぶると震えるのが見えて、肩も袖も、その尾花に靡(なび)く。……手につまさぐるのは、真紅の茨(いばら)の実で、その連(つらな)る紅玉(ルビィ)が、手首に珊瑚(さんご)の珠数(じゅず)に見えた。
「ほん、ほん。こなたは、これ。(や、爺(じじ)い……その鮒をば俺に譲れ。)と、姉(ねえ)さんと二人して、潟に放いて、放生会(ほうじょうえ)をさっしゃりたそうな人相じゃがいの、ほん、ほん。おはは。」
 と笑いながら、ちょろちょろ滝に、畚をぼちゃんとつけると、背を黒く鮒が躍って、水音とともに鰭(ひれ)が鳴った。
「憂慮(きづかい)をさっしゃるな。割(さ)いて爺(じい)の口に啖(くら)おうではない。――これは稲荷殿(いなりでん)へお供物に献ずるじゃ。お目に掛けましての上は、水に放すわいやい。」
 と寄せた杖が肩を抽(ぬ)いて、背を円く流(ながれ)を覗いた。
「この魚(うお)は強いぞ。……心配をさっしゃるな。」
「お爺さん、失礼ですが、水と山と違いました。」
 私も笑った。
「茸だの、松露だのをちっとばかり取りたいのですが、霜こしなんぞは、どの辺にあるでしょう。御存じはありませんか。」
「ほん、ほん。」
 と黄饅頭を、点頭のままに動かして、
「茸――松露――それなら探さねば爺にかて分らぬがいやい。おはは、姉さんは土地の人じゃ。若いぱっちりとした目は、爺などより明(あきら)かじゃ。よう探いてもらわっしゃい。」
「これはお隙(ひま)づいえ、失礼しました。」
「いや、何の嵩高(かさだか)な……」
「御免。」
「静(しずか)にござれい。――よう遊べ。」
「どうかしたか、――姉さん、どうした。」
「ああ、可恐(こわ)い。……勿体ないようで、ありがたいようで、ああ、可恐(こお)うございましたわ。」
「…………」
「いまのは、山のお稲荷様か、潟の竜神様でおいでなさいましょう。風のない、うららかな、こんな時にはな、よくこの辺をおあるきなさいますそうですから。」
 いま畚を引上げた、水の音はまだ響くのに、翁は、太郎虫、米搗虫の靄(もや)のあなたに、影になって、のびあがると、日南(ひなた)の背(せな)も、もう見えぬ。
「しかし、様子は、霜こしの黄茸(きだけ)が化けて出たようだったぜ。」
「あれ、もったいない。……旦那さん、あなた……」

       五

「わ、何じゃい、これは。」
「霜こし、黄い茸(たけ)。……あはは、こんなばば蕈(きのこ)を、何の事じゃい。」
「何が松露や。ほれ、こりゃ、破ると、中が真黒(まっくろ)けで、うじゃうじゃと蛆(うじ)のような筋のある(狐の睾丸(がりま))じゃがいの。」
「旦那、眉毛に唾(つば)なとつけっしゃれい。」
「えろう、女狐に魅(つま)まれたなあ。」
「これ、この合羽占地茸(かっぱしめじ)はな、野郎の鼻毛が伸びたのじゃぞいな。」
 戻道。橋で、ぐるりと私たちを取巻いたのは、あまのじゃくを訛(なま)ったか、「じゃあま。」と言い、「おんじゃ。」と称(とな)え、「阿婆(あばあ)。」と呼ばるる、浜方屈竟(くっきょう)の阿婆摺媽々(あばずれかかあ)。町を一なめにする魚売の阿媽徒(おっかあてあい)で。朝商売(あさあきない)の帰りがけ、荷も天秤棒も、腰とともに大胯(おおまた)に振って来た三人づれが、蘆の横川にかかったその橋で、私の提げた笊(ざる)に集(たか)って、口々に喚(わめ)いて囃(はや)した。そのあるものは霜こしを指でつついた。あるものは松露をへし破(わ)って、チェッと言って水に棄てた。
「ほれ、ほんとうの霜こしを見さっしゃい。これじゃがいの。」
 と尻とともに天秤棒を引傾(ひっかた)げて、私の目の前に揺り出した。成程違う。
「松露とは、ちょっと、こんなものじゃ。」
 と上荷の笊を、一人が敲(たた)いて、
「ぼんとして、ぷんと、それ、香(こうば)しかろ。」
 成程違う。
「私が方には、ほりたての芋が残った。旦那が見たら蛸(たこ)じゃろね。」
「背中を一つ、ぶん撲(なぐ)って進じようか。」
「ばば茸(たけ)持って、おお穢(むさ)や。」
「それを食べたら、肥料桶(こえおけ)が、早桶になって即死じゃぞの、ぺッぺッぺッ。」
 私は茫然(ぼうぜん)とした。
 浪路は、と見ると、悄然(しょうぜん)と身をすぼめて首垂(うなだ)るる。
 ああ、きみたち、阿媽(おっかあ)、しばらく!……
 いかにも、唯今(ただいま)申さるる通り、較(くら)べては、玉と石で、まるで違う。が、似て非なるにせよ、毒にせよ。これをさえ手に狩るまでの、ここに連れだつ、この優しい女の心づかいを知ってるか。
 ――あれから菜畑を縫いながら、更に松山の松の中へ入ったが、山に山を重ね、砂に砂、窪地の谷を渡っても、余りきれいで……たまたま落ちこぼれた松葉のほかには、散敷いた木(こ)の葉もなかった。
 この浪路が、気をつかい、心を尽した事は言うまでもなかろう。
 阿媽、これを知ってるか。
 たちまち、口紅のこぼれたように、小さな紅茸(べにたけ)を、私が見つけて、それさえ嬉しくって取ろうとするのを、遮って留めながら、浪路が松の根に気も萎(な)えた、袖褄(そでつま)をついて坐った時、あせった頬は汗ばんで、その頸脚(えりあし)のみ、たださしのべて、討たるるように白かった。
 阿媽、それを知ってるか。
 薄色の桃色の、その一つの紅茸を、灯(ともしび)のごとく膝の前に据えながら、袖を合せて合掌して、「小松山さん、山の神さん、どうぞ茸(きのこ)を頂戴な。下さいな。」と、やさしく、あどけない声して言った。
「小松山さん、山の神さん、
 どうぞ、茸を頂戴な。
 下さいな。――」
 真の心は、そのままに唄である。
 私もつり込まれて、低声(こごえ)で唄った。
「ああ、ありました。」
「おお、あった。あった。」
 ふと見つけたのは、ただ一本、スッと生えた、侏儒(いっすんぼし)が渋蛇目傘(しぶじゃのめ)を半びらきにしたような、洒落(しゃれ)ものの茸であった。
「旦那さん、早く、あなた、ここへ、ここへ。」
「や、先刻見た、かっぱだね。かっぱ占地茸……」
「一つですから、一本占地茸とも言いますの。」
 まず、枯松葉を笊に敷いて、根をソッと抜いて据えたのである。
 続いて、霜こしの黄茸を見つけた――その時の歓喜を思え。――真打だ。本望だ。
「山の神さんが下さいました。」
 浪路はふたたび手を合した。
「嬉しく頂戴をいたします。」
 私も山に一礼した。
 さて一つ見つかると、あとは女郎花(おみなえし)の枝ながらに、根をつらねて黄色に敷く、泡のようなの、針のさきほどのも交(まじ)った。松の小枝を拾って掘った。尖(さき)はとがらないでも、砂地だからよく抜ける。
「松露よ、松露よ、――旦那さん。」
「素晴しいぞ。」
 むくりと砂を吹く、飯蛸(いいだこ)の乾(から)びた天窓(あたま)ほどなのを掻くと、砂を被(かぶ)って、ふらふらと足のようなものがついて取れる。頭をたたいて、
「飯蛸より、これは、海月(くらげ)に似ている、山の海月だね。」
「ほんになあ。」
 じゃあま、あばあ、阿媽(おっかあ)が、いま、(狐の睾丸(がりま))ぞと詈(ののし)ったのはそれである。
 が、待て――蕈狩(たけがり)、松露取は闌(たけなわ)の興に入(い)った。
 浪路は、あちこち枝を潜(くぐ)った。松を飛んだ、白鷺(しらさぎ)の首か、脛(はぎ)も見え、山鳥の翼の袖も舞った。小鳥のように声を立てた。
 砂山の波が重(かさな)り重って、余りに二人のほかに人がない。――私はなぜかゾッとした。あの、翼、あの、帯が、ふとかかる時、色鳥とあやまられて、鉄砲で撃たれはしまいか。――今朝も潜水夫のごときしたたかな扮装(いでたち)して、宿を出た銃猟家(てっぽううち)を四五人も見たものを。
 遠くに、黒い島の浮いたように、脱ぎすてた外套(がいとう)を、葉越に、枝越に透(すか)して見つけて、「浪路さん――姉さん――」と、昔の恋に、声がくもった。――姿を見失ったその人を、呼んで、やがて、莞爾(にっこり)した顔を見た時は、恋人にめぐり逢った、世にも嬉しさを知ったのである。
 阿婆(おばば)、これを知ってるか。
 無理に外套に掛けさせて、私も憩った。
 着崩れた二子織(ふたこ)の胸は、血を包んで、羽二重よりも滑(なめらか)である。
 湖の色は、あお空と、松山の翠(みどり)の中に朗(ほがらか)に沁(し)み通った。
 もとのように、就中(なかんずく)遥(はるか)に離れた汀(みぎわ)について行く船は、二艘(そう)、前後に帆を掛けて辷(すべ)ったが、その帆は、紫に見え、紅(あか)く見えて、そして浪路の襟に映り、肌を染めた。渡鳥がチチと囀(さえず)った。
「あれ、小松山の神さんが。」
 や、や、いかに阿媽(おっかあ)たち、――この趣を知ってるか。――

「旦那、眉毛を濡らさんかねえ。」
「この狐。」
 と一人が、浪路の帯を突きざまに行き抜けると、
「浜でも何人抜かれたやら。」一人がつづいて頤(あご)で掬(すく)った。
「また出て、魅(ばか)しくさるずらえ。」
「真昼間(まっぴるま)だけでも遠慮せいてや。」
「女(め)の狐の癖にして、睾丸(がりま)をつかませたは可笑(おかし)なや、あはははは。」
「そこが化けたのや。」
「おお、可恐(こわ)やの。」
「やあ、旦那、松露なと、黄茸なと、ほんものを売ってやろかね。」
「たかい銭(おあし)で買わっせえ。」
 行過ぎたのが、菜畑越に、縺(もつ)れるように、一斉(いっとき)に顔を重ねて振返った。三面六臂(ろっぴ)の夜叉(やしゃ)に似て、中にはおはぐろの口を張ったのがある。手足を振って、真黒(まっくろ)に喚(わめ)いて行く。
 消入りそうなを、背を抱いて引留めないばかりに、ひしと寄った。我が肩するる婦(おんな)の髪に、櫛(くし)もささない前髪に、上手がさして飾ったように、松葉が一葉、青々としかも婀娜(あだ)に斜(はす)にささって、(前こぞう)とか言う簪(かんざし)の風情そのままなのを、不思議に見た。茸(たけ)を狩るうち、松山の松がこぼれて、奇蹟のごとく、おのずから挿さったのである。
「ああ、嬉しい事がある。姉さん、茸が違っても何でも構わない。今日中のいいものが手に入ったよ――顔をお見せ。」
 袖でかくすを、
「いや、前髪をよくお見せ。――ちょっと手を触って、当てて御覧、大したものだ。」
「ええ。」
 ソッと抜くと、掌(たなそこ)に軽くのる。私の名に、もし松があらば、げにそのままの刺青(いれずみ)である。
「素晴らしい簪(かんざし)じゃあないか。前髪にささって、その、容子(ようす)のいい事と言ったら。」
 涙が、その松葉に玉を添えて、
「旦那さん――堪忍して……あの道々、あなたがお幼(ちいさ)い時のお話もうかがいます。――真のあなたのお頼みですのに、どうぞしてと思っても、一つだって見つかりません……嘘と知っていて、そんな茸をあげました。余り欲しゅうございましたので、私にも、私にかってほんとうの茸に見えたんですもの。……お恥かしい身体(からだ)ですが、お言(ことば)のまま、あの、お宿までもお供して……もしその茸をめしあがるんなら、きっとお毒味を先へして、血を吐くつもりでおりました。生命(いのち)がけでだましました。……堪忍して下さいまし。」
「何を言うんだ、飛んでもない。――さ、ちょっと、自分の手でその松葉をさして御覧。……それは容子が何とも言えない、よく似合う。よ。頼むから。」
 と、かさに掛(かか)って、勢(いきおい)よくは言いながら、胸が迫って声が途切れた。
「後生だから。」
「はい、……あの、こうでございますか。」
「上手だ。自分でも髪を結えるね。ああ、よく似合う。さあ、見て御覧。何だ、袖に映したって、映るものかね。ここは引汐(ひきしお)か、水が動く。――こっちが可(い)い。あの松影の澄んだ処が。」
「ああ、御免なさい。堪忍して……映すと狐になりますから。」
「私が請合う、大丈夫だ。」
「まあ。」
「ね、そのままの細い翡翠(ひすい)じゃあないか。琅□(ろうかん)の珠(たま)だよ。――小松山の神さんか、竜神が、姉さんへのたまものなんだよ。」
 ここにも飛交う螽(いなご)の翠(みどり)に。――
「いや、松葉が光る、白金(プラチナ)に相違ない。」
「ええ。旦那さんのお情(なさけ)は、翡翠です、白金です……でも、私はだんだんに、……あれ、口が裂けて。」
「ええ。」
「目が釣上って……」
「馬鹿な事を。――蕈(きのこ)で嘘を吐(つ)いたのが狐なら、松葉でだました私は狸だ。――狸だ。……」
 と言って、真白(まっしろ)な手を取った。
 湖つづき蘆中(あしなか)の静(しずか)な川を、ぬしのない小船が流れた。
大正十三(一九二四)年一月



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