栃の実
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:泉鏡花 

 朝六(あさむ)つの橋を、その明方(あけがた)に渡った――この橋のある処(ところ)は、いま麻生津(あそうづ)という里である。それから三里ばかりで武生(たけふ)に着いた。みちみち可懐(なつかし)い白山(はくさん)にわかれ、日野(ひの)ヶ峰(みね)に迎えられ、やがて、越前の御嶽(みたけ)の山懐(やまふところ)に抱(だ)かれた事はいうまでもなかろう。――武生は昔の府中(ふちゅう)である。
 その年は八月中旬、近江(おうみ)、越前の国境(くにざかい)に凄(すさま)じい山嘯(やまつなみ)の洪水(でみず)があって、いつも敦賀(つるが)――其処(そこ)から汽車が通じていた――へ行(ゆ)く順路の、春日野峠(かすがのとうげ)を越えて、大良(たいら)、大日枝(おおひだ)、山岨(やまそば)を断崕(きりぎし)の海に沿う新道(しんみち)は、崖くずれのために、全く道の塞(ふさが)った事は、もう金沢を立つ時から分っていた。
 前夜、福井に一泊して、その朝六(あさむ)つ橋(ばし)、麻生津を、まだ山かつらに月影を結ぶ頃、霧の中を俥(くるま)で過ぎて、九時頃武生に着いたのであった。――誰もいう……此処(ここ)は水の美しい、女のきれいな処である。柳屋(やなぎや)の柳の陰に、門(かど)走(はし)る谿河(たにがわ)の流(ながれ)に立つ姿は、まだ朝霧をそのままの萩(はぎ)にも女郎花(おみなえし)にも較べらるる。が、それどころではない。前途(ゆくて)のきづかわしさは、俥(くるま)もこの宿(しゅく)で留(と)まって、あとの山路は、その、いずれに向っても、もはや通じないと言うのである。
 茶店の縁(えん)に腰を掛けて、渋茶を飲みながら評議をした。……春日野の新道(しんみち)一条(ひとすじ)、勿論(もちろん)不可(いけな)い。湯(ゆ)の尾(お)峠にかかる山越え、それも覚束(おぼつか)ない。ただ道は最も奥で、山は就中(なかんずく)深いが、栃木(とちのき)峠から中(なか)の河内(かわち)は越せそうである。それには一週間ばかり以来(このかた)、郵便物が通ずると言うのを聞くさえ、雁(かり)の初(はつ)だよりで、古(むかし)の名将、また英雄が、涙に、誉(ほまれ)に、屍(かばね)を埋(うず)め、名を残した、あの、山また山、また山の山路を、重(かさな)る峠を、一羽(いちわ)でとぶか、と袖(そで)をしめ、襟(えり)を合わせた。山霊(さんれい)に対して、小さな身体(からだ)は、既に茶店の屋根を覗(のぞ)く、御嶽(みたけ)の顋(あご)に呑まれていたのであった。
「気をつけておいでなせえましよ。」……畷(なわて)は荒れて、洪水(でみず)に松の並木も倒れた。ただ畔(あぜ)のような街道(かいどう)端(ばた)まで、福井の車夫は、笠を手にして見送りつつ、われさえ指す方(かた)を知らぬ状(さま)ながら、式(かた)ばかり日にやけた黒い手を挙げて、白雲(しらくも)の前途(ゆくて)を指した。
 秋のはじめの、空は晴れつつ、熱い雲のみ往来して、田に立つ人の影もない。稲も、畠(はた)も、夥多(おびただ)しい洪水のあとである。
 道を切って、街道を横に瀬をつくる、流(ながれ)に迷って、根こそぎ倒れた並木の松を、丸木橋とよりは筏(いかだ)に蹈(ふ)んで、心細さに見返ると、車夫(くるまや)はなお手廂(てびさし)して立っていた。
 翼をいためた燕(つばめ)の、ひとり地(ち)ずれに辿(たど)るのを、あわれがって、去りあえず見送っていたのであろう。
 たださえ行悩(ゆきなや)むのに、秋暑しという言葉は、残暑の酷(きび)しさより身にこたえる。また汗の目に、野山の赤いまで暑かった。洪水(でみず)には荒れても、稲葉(いなば)の色、青菜の影ばかりはあろうと思うのに、あの勝山(かつやま)とは、まるで方角が違うものを、右も左も、泥の乾いた煙草畑(たばこばたけ)で、喘(あえ)ぐ息さえ舌に辛(から)い。
 祖母が縫ってくれた鞄代用(かばんがわり)の更紗(さらさ)の袋を、斜(はす)っかいに掛けたばかり、身は軽いが、そのかわり洋傘(こうもり)の日影も持たぬ。
 紅葉(こうよう)先生は、その洋傘が好きでなかった。遮(さえぎ)らなければならない日射(ひざし)は、扇子(おうぎ)を翳(かざ)されたものである。従って、一門の誰(たれ)かれが、大概(たいがい)洋傘を意に介しない。連れて不忍(しのばず)の蓮見(はすみ)から、入谷(いりや)の朝顔などというみぎりは、一杯のんだ片頬(かたほお)の日影に、揃って扇子(おうぎ)をかざしたのである。せずともいい真似をして。……勿論、蚊(か)を、いや、蚊帳(かや)を曲(ころ)して飲むほどのものが、歩行(ある)くに日よけをするわけはない。蚊帳の方は、まだしかし人ぎきも憚(はばか)るが、洋傘の方は大威張(おおいばり)で持たずに済んだ。
 神楽坂(かぐらざか)辺(へん)をのすのには、なるほど(なし)で以(もっ)て事は済むのだけれども、この道中には困却した。あまつさえ……その年は何処(どこ)も陽気が悪かったので、私は腹を痛めていた。祝儀らしい真似もしない悲しさには、柔(やわらか)い粥(かゆ)とも誂(あつら)えかねて、朝立った福井の旅籠(はたご)で、むれ際(ぎわ)の飯を少しばかり。しくしく下腹の痛む処(ところ)へ、洪水(でみず)のあとの乾旱(からでり)は真(しん)にこたえた。鳥打帽(とりうちぼう)の皺(しな)びた上へ手拭(てぬぐい)の頬かむりぐらいでは追着(おッつ)かない、早や十月の声を聞いていたから、護身用の扇子(せんす)も持たぬ。路傍(みちばた)に藪(やぶ)はあっても、竹を挫(くじ)き、枝を折るほどの勢(いきおい)もないから、玉江(たまえ)の蘆(あし)は名のみ聞く、……湯のような浅沼(あさぬま)の蘆を折取(おりと)って、くるくるとまわしても、何、秋風が吹くものか。
 が、一刻も早く東京へ――唯(ただ)その憧憬(あこがれ)に、山も見ず、雲も見ず、無二無三(むにむさん)に道を急いで、忘れもしない、村の名の虎杖(いたどり)に着いた時は、杖(つえ)という字に縋(すが)りたい思(おもい)がした。――近頃は多く板取(いたどり)と書くのを見る。その頃、藁家(わらや)の軒札(のきふだ)には虎杖村と書いてあった。
 ふと、軒に乾した煙草の葉と、蕃椒(とうがらし)の間に、山駕籠(やまかご)の煤(すす)けたのが一挺掛(かか)った藁家を見て、朽縁(くちえん)へ□(どう)と掛けた。「小父(おじ)さんもう歩行(ある)けない。見なさる通りの書生坊(しょせっぽう)で、相当、お駄賃もあげられないけれど、中(なか)の河内(かわち)まで何とかして駕籠(かご)の都合は出来ないでしょうか。」「さればの。」耳にかけた輪数珠(わじゅず)を外(はず)すと、木綿(もめん)小紋(こもん)のちゃんちゃん子、経肩衣(きょうかたぎぬ)とかいって、紋の着いた袖なしを――外は暑いがもう秋だ――もっくりと着込んで、裏納戸(うらなんど)の濡縁(ぬれえん)に胡坐(あぐら)かいて、横背戸(よこせど)に倒れたまま真紅(まっか)の花の小さくなった、鳳仙花(ほうせんか)の叢(くさむら)を視(なが)めながら、煙管(きせる)を横銜(よこぐわ)えにしていた親仁(おやじ)が、一膝(ひとひざ)ずるりと摺(ず)って出て、「一肩(ひとかた)遣(や)っても進じょうがの、対手(あいて)を一つ聞かなくては、のう。」「お願いです、身体(からだ)もわるし、……実に弱りました。」「待たっせえ、何とかすべい。」お仏壇へ数珠を置くと、えいこらと立って、土間の足半(あしなか)を突掛(つッか)けた。五十の上だが、しゃんとした足つきで、石□道(いしころみち)を向うへ切って、樗(おうち)の花が咲重(さきかさな)りつつ、屋根ぐるみ引傾(ひっかたむ)いた、日陰の小屋へ潜(くぐ)るように入った、が、今度は経肩衣を引脱(ひきぬ)いで、小脇に絞って取って返した。「対手(あいて)も丁度可(よ)かったで。」一人で駕籠(かご)を下(おろ)すのが、腰もしゃんと楽なもので。――相棒の肩も広い、年紀(とし)も少し少(わか)いのは、早や支度(したく)をして、駕籠の荷棒(にないぼう)を、えッしと担ぎ、片手に――はじめて視(み)た――絵で知ったほぼ想像のつく大きな蓑虫(みのむし)を提(さ)げて出て来たのである。「ああ、御苦労様――松明(たいまつ)ですか。」「えい、松明でゃ。」「途中、山路で日が暮れますか。」「何、帰りの支度でゃ、夜嵐(よあらし)で提灯(ちょうちん)は持たねえもんだで。」中の河内までは、往還(ゆきかえり)六里余と聞く。――駕籠は夜をかけて引返すのである。
 留守に念も置かないで、そのまま駕籠を舁出(かきだ)した。「おお、あんばいが悪いだね、冷えてはなんめえ。」樹立(こだち)の暗くなった時、一度下(おろ)して、二人して、二人が夜道の用意をした、どんつくの半纏(はんてん)を駕籠の屋根につけたのを、敷かせて、一枚。一枚、背中に当(あて)がって、情(なさけ)に包んでくれたのである。
 見上ぐる山の巌膚(いわはだ)から、清水は雨に滴(したた)って、底知れぬ谷暗く、風は梢(こずえ)に渡りつつ、水は蜘蛛手(くもで)に岨(そば)を走って、駕籠は縦になって、雲を仰ぐ。
 前棒(さきぼう)の親仁(おやじ)が、「この一山(ひとやま)の、見さっせえ、残らず栃(とち)の木の大木でゃ。皆五抱(いつかか)え、七抱(ななかか)えじゃ。」「森々(しんしん)としたもんでがんしょうが。」と後棒(あとぼう)が言(ことば)を添える。「いかな日にも、はあ、真夏の炎天にも、この森で一度雨の降らぬ事はねえのでの。」清水の雫(しずく)かつ迫り、藍縞(あいじま)の袷(あわせ)の袖(そで)も、森林の陰に墨染(すみぞめ)して、襟(えり)はおのずから寒かった。――「加州家(かしゅうけ)の御先祖が、今の武生(たけふ)の城にござらしった時から、斧(おの)入れずでの。どういうものか、はい、御維新前まで、越前の中(うち)で、此処(ここ)一山(ひとやま)は、加賀(かが)領でござったよ――お前様、なつかしかんべい。」「いや、僕は些(ちっ)とでも早く東京へ行(ゆ)きたいんだよ。」「お若いで、えらい元気じゃの。……はいよ。」「おいよ。」と声を合わせて、道割(みちわれ)の小滝を飛んだ。
 私は駕籠の手に確(しか)と縋(すが)った。
 草に巨人の足跡の如き、沓形(くつがた)の峯の平地(ひらち)へ出た。巒々(らんらん)相迫(あいせま)った、かすかな空は、清朗にして、明碧(めいへき)である。
 山気(さんき)の中に優しい声して、「お掛けなさいましな。」軒は巌(いわ)を削れる如く、棟(むね)広く柱黒き峯の茶屋に、木の根のくりぬきの火鉢を据えて、畳(たたみ)二畳にも余りなん、大熊の皮を敷いた彼方(かなた)に、出迎えた、むすび髪の色白な若い娘は、唯(と)見ると活けるその熊の背に、片膝して腰を掛けた、奇(く)しき山媛(やまひめ)の風情(ふぜい)があった。
 袖も靡(なび)く。……山嵐颯(さっ)として、白い雲は、その黒髪(くろかみ)の肩越(かたごし)に、裏座敷の崖の欄干(てすり)に掛って、水の落つる如く、千仭(せんじん)の谷へ流れた。
 その裏座敷に、二人一組、別に一人、一人は旅商人(たびあきゅうど)、二人は官吏らしい旅客がいて憩った。いずれも、柳(やな)ヶ瀬(せ)から、中の河内越(ごえ)して、武生へ下(くだ)る途中なのである。
 横づけの駕籠を覗(のぞ)いて、親仁が、「お前さま、おだるけりゃ、お茶を取って進ぜますで。」「いいえ出ますから。」
 娘が塗盆(ぬりぼん)に茶をのせて、「あの、栃(とち)の餅(もち)、あがりますか。」「駕籠屋さんたちにもどうぞ。」「はい。」――其処(そこ)に三人の客にも酒はない。皆栃の実の餅の盆を控えていた。
 娘の色の白妙(しろたえ)に、折敷(おしき)の餅は渋(しぶ)ながら、五ツ、茶の花のように咲いた。が、私はやっぱり腹が痛んだ。
 勘定の時に、それを言って断(ことわ)った。――「うまくないもののように、皆残して済みません。」ああ、娘は、茶碗を白湯(さゆ)に汲みかえて、熊の胆(い)をくれたのである。
 私は、じっと視(み)て、そしてのんだ。
 栃の餅を包んで差寄(さしよ)せた。「堅くなりましょうけれど、……あの、もう二度とお通りにはなりません。こんな山奥の、おはなしばかり、お土産(みやげ)に。――この実を入れて搗(つ)きますのです、あの、餅よりこれを、お土産に。」と、めりんすの帯の合せ目から、ことりと拾って、白い掌(て)で、こなたに渡した。
 小さな鶏卵(たまご)の、軽く角(かど)を取って扁(ひら)めて、薄漆(うすうるし)を掛けたような、艶(つや)やかな堅い実である。
 すかすと、きめに、うすもみじの影が映(うつ)る。
 私はいつまでも持っている。

 手箪笥(てだんす)の抽斗(ひきだし)深く、時々思出(おもいだ)して手に据(す)えると、殻(から)の裡(なか)で、優(やさ)しい音(ね)がする。




ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:10 KB

担当:undef