七宝の柱
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著者名:泉鏡花 

 山吹(やまぶき)つつじが盛(さかり)だのに、その日の寒さは、俥(くるま)の上で幾度も外套の袖(そで)をひしひしと引合(ひきあわ)せた。
 夏草(なつくさ)やつわものどもが、という芭蕉(ばしょう)の碑が古塚(ふるづか)の上に立って、そのうしろに藤原氏(ふじわらし)三代栄華の時、竜頭(りゅうず)の船を泛(うか)べ、管絃(かんげん)の袖を飜(ひるがえ)し、みめよき女たちが紅(くれない)の袴(はかま)で渡った、朱欄干(しゅらんかん)、瑪瑙(めのう)の橋のなごりだと言う、蒼々(あおあお)と淀んだ水の中に、馬の首ばかり浮いたような、青黒く朽古(くちふる)びた杭(くい)が唯(ただ)一つ、太く頭を出して、そのまわりに何の魚(うお)の影もなしに、幽(かすか)な波が寂(さび)しく巻く。――雲に薄暗い大池がある。
 池がある、この毛越寺(もうえつじ)へ詣でた時も、本堂わきの事務所と言った処(ところ)に、小机を囲んで、僧とは見えない、鼠だの、茶だの、無地の袴はいた、閑(ひま)らしいのが三人控えたのを見ると、その中に火鉢はないか、赫(かっ)と火の気の立つ……とそう思って差覗(さしのぞ)いたほどであった。
 旅のあわれを、お察しあれ。……五月の中旬(なかば)と言うのに、いや、どうも寒かった。
 あとで聞くと、東京でも袷(あわせ)一枚ではふるえるほどだったと言う。
 汽車中(きしゃちゅう)、伊達(だて)の大木戸(おおきど)あたりは、真夜中のどしゃ降(ぶり)で、この様子では、思立(おもいた)った光堂(ひかりどう)の見物がどうなるだろうと、心細いまできづかわれた。
 濃い靄(もや)が、重(かさな)り重り、汽車と諸(もろ)ともに駈(かけ)りながら、その百鬼夜行(ひゃくきやこう)の、ふわふわと明けゆく空に、消際(きえぎわ)らしい顔で、硝子(がらす)窓を覗(のぞ)いて、
「もう!」
 と笑って、一つ一つ、山、森、岩の形を顕(あら)わす頃から、音もせず、霧雨になって、遠近(おちこち)に、まばらな田舎家(いなかや)の軒とともに煙りつつ、仙台に着いた時分に雨はあがった。
 次第に、麦も、田も色には出たが、菜種(なたね)の花も雨にたたかれ、畠(はたけ)に、畝(あぜ)に、ひょろひょろと乱れて、女郎花(おみなえし)の露を思わせるばかり。初夏はおろか、春の闌(たけなわ)な景色とさえ思われない。
 ああ、雲が切れた、明(あかる)いと思う処(ところ)は、
「沼だ、ああ、大(おおき)な沼だ。」
 と見る。……雨水が渺々(びょうびょう)として田を浸(ひた)すので、行く行く山の陰は陰惨として暗い。……処々(ところどころ)巌(いわ)蒼く、ぽっと薄紅(うすあか)く草が染まる。嬉(うれ)しや日が当ると思えば、角(つの)ぐむ蘆(あし)に交(まじ)り、生茂(おいしげ)る根笹(ねざさ)を分けて、さびしく石楠花(しゃくなげ)が咲くのであった。
 奥の道は、いよいよ深きにつけて、空は弥(いや)が上に曇った。けれども、志(こころざ)す平泉(ひらいずみ)に着いた時は、幸いに雨はなかった。
 そのかわり、俥(くるま)に寒い風が添ったのである。
 ――さて、毛越寺では、運慶(うんけい)の作と称(とな)うる仁王尊(におうそん)をはじめ、数ある国宝を巡覧せしめる。
「御参詣の方にな、お触(さわ)らせ申しはいたさんのじゃが、御信心かに見受けまするで、差支えませぬ。手に取って御覧なさい、さ、さ。」
 と腰袴(こしばかま)で、細いしない竹の鞭(むち)を手にした案内者の老人が、硝子蓋(がらすぶた)を開けて、半ば繰開(くりひら)いてある、玉軸金泥(ぎょくじくこんでい)の経(きょう)を一巻、手渡しして見せてくれた。
 その紺地(こんじ)に、清く、さらさらと装上(もりあが)った、一行金字(いちぎょうきんじ)、一行銀書(いちぎょうぎんしょ)の経である。
 俗に銀線に触るるなどと言うのは、こうした心持(こころもち)かも知れない。尊(たっと)い文字は、掌(て)に一字ずつ幽(かすか)に響いた。私は一拝(いっぱい)した。
「清衡朝臣(きよひらあそん)の奉供(ぶぐ)、一切経(いっさいきょう)のうちであります――時価で申しますとな、唯(ただ)この一巻でも一万円以上であります。」
 橘(たちばな)南谿(なんけい)の東遊記(とうゆうき)に、
これは清衡(きよひら)存生(ぞんじょう)の時、自在坊(じざいぼう)蓮光(れんこう)といへる僧に命じ、一切経書写の事を司(つかさど)らしむ。三千日が間、能書(のうしょ)の僧数百人を招請(しょうせい)し、供養し、これを書写せしめしとなり。余(よ)もこの経を拝見せしに、その書体楷法(かいほう)正しく、行法(ぎょうほう)また精妙にして――
 と言うもの即(すなわち)これである。
 ちょっと(この寺のではない)或(ある)案内者に申すべき事がある。君が提(ささ)げて持った鞭だ。が、遠くの掛軸(かけじく)を指し、高い処(ところ)の仏体を示すのは、とにかく、目前に近々(ちかぢか)と拝まるる、観音勢至(かんおんせいし)の金像(きんぞう)を説明すると言って、御目(おんめ)、眉の前へ、今にも触れそうに、ビシャビシャと竹の尖(さき)を振うのは勿体(もったい)ない。大慈大悲の仏たちである。大して御立腹もあるまいけれども、作(さく)がいいだけに、瞬(またたき)もしたまいそうで、さぞお鬱陶(うっとう)しかろうと思う。
 俥(くるま)は寂然(しん)とした夏草塚(なつくさづか)の傍(そば)に、小さく見えて待っていた。まだ葉ばかりの菖蒲(あやめ)杜若(かきつばた)が隈々(くまぐま)に自然と伸びて、荒れたこの広い境内(けいだい)は、宛然(さながら)沼の乾いたのに似ていた。
 別に門らしいものもない。
 此処(ここ)から中尊寺(ちゅうそんじ)へ行く道は、参詣の順をよくするために、新たに開いた道だそうで、傾いた茅(かや)の屋根にも、路傍(みちばた)の地蔵尊(じぞうそん)にも、一々(いちいち)由緒のあるのを、車夫(わかいしゅ)に聞きながら、金鶏山(きんけいざん)の頂(いただき)、柳の館(たち)あとを左右に見つつ、俥(くるま)は三代の豪奢(ごうしゃ)の亡びたる、草の径(こみち)を静(しずか)に進む。
 山吹がいまを壮(さかり)に咲いていた。丈高(たけたか)く伸びたのは、車の上から、花にも葉にも手が届く。――何処(どこ)か邸(やしき)の垣根越(ごし)に、それも偶(たま)に見るばかりで、我ら東京に住むものは、通りがかりにこの金衣(きんい)の娘々(じょうじょう)を見る事は珍しいと言っても可(よ)い。田舎の他土地(ほかとち)とても、人家の庭、背戸(せど)なら格別、さあ、手折(たお)っても抱いてもいいよ、とこう野中(のなか)の、しかも路の傍(はた)に、自由に咲いたのは殆ど見た事がない。
 そこへ、つつじの赤いのが、ぽーとなって咲交(さきまじ)る。……
 が、燃立(もえた)つようなのは一株も見えぬ。霜(しも)に、雪に、長く鎖(とざ)された上に、風の荒ぶる野に開く所為(せい)であろう、花弁が皆堅い。山吹は黄なる貝を刻んだようで、つつじの薄紅(うすくれない)は珊瑚(さんご)に似ていた。
 音のない水が、細く、その葉の下、草の中を流れている。それが、潺々(せんせん)として巌(いわ)に咽(むせ)んで泣く谿河(たにがわ)よりも寂(さみ)しかった。
 実際、この道では、自分たちのほか、人らしいものの影も見なかったのである。
 そのかわり、牛が三頭、犢(こうし)を一頭(ひとつ)連れて、雌雄(めすおす)の、どれもずずんと大(おおき)く真黒なのが、前途(ゆくて)の細道を巴形(ともえがた)に塞(ふさ)いで、悠々と遊んでいた、渦が巻くようである。
 これにはたじろいだ。
「牛飼(うしかい)も何もいない。野放しだが大丈夫かい。……彼奴(あいつ)猛獣だからね。」
「何ともしゃあしましねえ。こちとら馴染(なじみ)だで。」
 けれども、胸が細くなった。轅棒(かじ)で、あの大(おおき)い巻斑(まきふ)のある角(つの)を分けたのであるから。
「やあ、汝(われ)、……小僧も達(たっ)しゃがな。あい、御免。」
 敢(あえ)て獣(けもの)の臭(におい)さえもしないで、縦の目で優しく視(み)ると、両方へ黒いハート形の面(おもて)を分けた。が牝牛(めうし)[#「牝牛」では底本では「牡牛」]の如きは、何だか極りでも悪かったように、さらさらと雨のあとの露を散(ちら)して、山吹の中へ角を隠す。
 私はそれでも足を縮めた。
「ああ、漸(やっ)と衣(ころも)の関(せき)を通ったよ。」
 全く、ほっとしたくらいである。振向いて見る勇気もなかった。
 小家(こいえ)がちょっと両側に続いて、うんどん、お煮染(にしめ)、御酒(おんさけ)などの店もあった。が、何処(どこ)へも休まないで、車夫(わかいしゅ)は坂の下で俥(くるま)をおろした。
 軒端(のきば)に草の茂った、その裡(なか)に、古道具をごつごつと積んだ、暗い中に、赤絵(あかえ)の茶碗、皿の交(まじ)った形は、大木の空洞(うつろ)に茨(いばら)の実の溢(こぼ)れたような風情(ふぜい)のある、小さな店を指して、
「あの裏に、旦那、弁慶(べんけい)手植(てうえ)の松があるで――御覧になるかな。」
「いや、帰途(かえり)にしましょう。」
 その手植の松より、直接(じか)に弁慶にお目に掛(かか)った。
 樹立(こだち)の森々(しんしん)として、聊(いささ)かもの凄(すご)いほどな坂道――岩膚(いわはだ)を踏むようで、泥濘(ぬかり)はしないがつるつると辷(すべ)る。雨降りの中では草鞋(わらじ)か靴ででもないと上下(じょうげ)は難(むずか)しかろう――其処(そこ)を通抜(とおりぬ)けて、北上川(きたかみがわ)、衣河(ころもがわ)、名にしおう、高館(たかだち)の址(あと)を望む、三方見晴しの処(ここに四阿(あずまや)が立って、椅子の類、木の株などが三つばかり備えてある。)其処(そこ)へ出ると、真先に案内するのが弁慶堂である。
 車夫(わかいしゅ)が、笠を脱いで手に提(さ)げながら、裏道を崖下(がけさが)りに駈出(かけだ)して行った。が、待つと、間もなく肩に置手拭(おきてぬぐい)をした円髷(まるまげ)の女が、堂の中から、扉を開いた。
「運慶の作でござります。」
 と、ちょんと坐ってて言う。誰でも構わん。この六尺等身と称(とな)うる木像はよく出来ている。山車(だし)や、芝居で見るのとは訳(わけ)が違う。
 顔の色が蒼白い。大きな折烏帽子(おりえぼし)が、妙に小さく見えるほど、頭も顔も大の悪僧の、鼻が扁(ひらた)く、口が、例の喰(くい)しばった可恐(おそろ)しい、への字形でなく、唇を下から上へ、への字を反対に掬(しゃく)って、
「むふッ。」
 ニタリと、しかし、こう、何か苦笑(にがわらい)をしていそうで、目も細く、目皺(めじわ)が優しい。出額(おでこ)でまたこう、しゃくうように人を視(み)た工合が、これで魂(たましい)が入ると、麓(ふもと)の茶店へ下りて行って、少女(こおんな)の肩を大(おおき)な手で、
「どうだ。」
 と遣(や)りそうな、串戯(じょうだん)ものの好々爺(こうこうや)の風がある。が、歯が抜けたらしく、豊(ゆたか)な肉の頬のあたりにげっそりと窶(やつれ)の見えるのが、判官(ほうがん)に生命(いのち)を捧げた、苦労のほどが偲(しの)ばれて、何となく涙ぐまるる。
 で、本文(ほんもん)通り、黒革縅(くろかわおどし)の大鎧(おおよろい)、樹蔭(こかげ)に沈んだ色ながら鎧(よろい)の袖(そで)は颯爽(さっそう)として、長刀(なぎなた)を軽くついて、少し屈(こご)みかかった広い胸に、兵(えもの)の柄(え)のしなうような、智と勇とが満ちて見える。かつ柄も長くない、頬先(ほおさき)に内側にむけた刃も細い。が、かえって無比の精鋭を思わせて、颯(さっ)と掉(ふ)ると、従って冷い風が吹きそうである。
 別に、仏菩薩(ぶつぼさつ)の、尊(とうと)い古像が架(か)に据えて数々ある。
 みどり児(ご)を、片袖(かたそで)で胸に抱(いだ)いて、御顔(おんかお)を少し仰向(あおむ)けに、吉祥果(きっしょうか)の枝を肩に振掛(ふりか)け、裳(もすそ)をひらりと、片足を軽く挙げて、――いいぐさは拙(つたな)いが、舞(まい)などしたまう状(さま)に、たとえば踊りながらでんでん太鼓で、児(こ)をおあやしのような、鬼子母神(きしぼじん)の像があった。御面(おんおもて)は天女に斉(ひと)しい。彩色(いろどり)はない。八寸ばかりのほのぐらい、が活けるが如き木彫(きぼり)である。
「戸を開けて拝んでは悪いんでしょうか。」
 置手拭(おきてぬぐい)のが、
「はあ、其処(そこ)は開けません事になっております。けれども戸棚でございますから。」
「少々ばかり、御免下さい。」
 と、網の目の細い戸を、一、二寸開けたと思うと、がっちりと支(つか)えたのは、亀井六郎(かめいろくろう)が所持と札を打った笈(おい)であった。
 三十三枚の櫛(くし)、唐(とう)の鏡、五尺のかつら、紅(くれない)の袴(はかま)、重(かさね)の衣(きぬ)も納(おさ)めつと聞く。……よし、それはこの笈にてはあらずとも。
「ああ、これは、疵(きず)をつけてはなりません。」
 棚が狭いので支(つか)えたのである。
 そのまま、鬼子母神を礼して、ソッと戸を閉(た)てた。
 連(つれ)の家内が、
「粋(いき)な御像(おすがた)ですわね。」
 と、ともに拝んで言った。
「失礼な事を、――時に、御案内料は。」
「へい、五銭。」
「では――あとはどうぞお賽銭(さいせん)に。」
 そこで、鎧(よろい)着(き)たたのもしい山法師に別れて出た。
 山道、二町ばかり、中尊寺はもう近い。
 大(おおき)な広い本堂に、一体見上げるような釈尊(しゃくそん)のほか、寂寞(せきばく)として何もない。それが荘厳であった。日の光が幽(かすか)に漏(も)れた。
 裏門の方へ出ようとする傍(かたわら)に、寺の廚(くりや)があって、其処(そこ)で巡覧券を出すのを、車夫(わかいしゅ)が取次いでくれる。巡覧すべきは、はじめ薬師堂(やくしどう)、次の宝物庫(ほうもつこ)、さて金色堂(こんじきどう)、いわゆる光堂(ひかりどう)。続いて経蔵(きょうぞう)、弁財天(べんざいてん)と言う順序である。
 皆、参詣の人を待って、はじめて扉を開く、すぐまたあとを鎖(とざ)すのである。が、宝物庫(ほうもつぐら)には番人がいて、経蔵には、年紀(とし)の少(わか)い出家が、火の気もなしに一人経机(きょうづくえ)に対(むか)っていた。
 はじめ、薬師堂に詣でて、それから宝物庫(ほうもつぐら)を一巡すると、ここの番人のお小僧が鍵を手にして、一条(ひとすじ)、道を隔てた丘の上に導く。……階(きざはし)の前に、八重桜(やえざくら)が枝も撓(たわわ)に咲きつつ、かつ芝生に散って敷いたようであった。
 桜は中尊寺の門内にも咲いていた。麓(ふもと)から上(あが)ろうとする坂の下の取着(とッつき)の処(ところ)にも一本(ひともと)見事なのがあって、山中心得(さんちゅうこころえ)の条々(じょうじょう)を記した禁札(きんさつ)と一所(いっしょ)に、たしか「浅葱桜(あさぎざくら)」という札が建っていた。けれども、それのみには限らない。処々(ところどころ)汽車の窓から視(み)た桜は、奥が暗くなるに従って、ぱっと冴(さえ)を見せて咲いたのはなかった。薄墨(うすずみ)、鬱金(うこん)、またその浅葱(あさぎ)と言ったような、どの桜も、皆ぽっとりとして曇って、暗い紫を帯びていた。雲が黒かったためかも知れない。
 唯(と)、階(きざはし)の前の花片(はなびら)が、折からの冷い風に、はらはらと誘(さそ)われて、さっと散って、この光堂の中を、空(そら)ざまに、ひらりと紫に舞うかと思うと――羽目(はめ)に浮彫(うきぼり)した、孔雀(くじゃく)の尾に玉を刻んで、緑青(ろくしょう)に錆(さ)びたのがなお厳(おごそか)に美しい、その翼を――ぱらぱらとたたいて、ちらちらと床にこぼれかかる……と宙で、黄金(きん)の巻柱(まきばしら)の光をうけて、ぱっと金色(こんじき)に飜(ひるがえ)るのを見た時は、思わず驚歎の瞳(ひとみ)を瞠(みは)った。
 床も、承塵(なげし)も、柱は固(もと)より、彳(たたず)めるものの踏む処(ところ)は、黒漆(こくしつ)の落ちた黄金(きん)である。黄金(きん)の剥(は)げた黒漆とは思われないで、しかも些(さ)のけばけばしい感じが起らぬ。さながら、金粉の薄雲の中に立った趣(おもむき)がある。われら仙骨(せんこつ)を持たない身も、この雲はかつ踏んでも破れぬ。その雲を透(すか)して、四方に、七宝荘厳(しっぽうそうごん)の巻柱(まきばしら)に対するのである。美しき虹を、そのまま柱にして絵(えが)かれたる、十二光仏(じゅうにこうぶつ)の微妙なる種々相(しゅじゅそう)は、一つ一つ錦(にしき)の糸に白露(しらつゆ)を鏤(ちりば)めた如く、玲瓏(れいろう)として珠玉(しゅぎょく)の中にあらわれて、清く明(あきら)かに、しかも幽(かすか)なる幻である。その、十二光仏の周囲には、玉、螺鈿(らでん)を、星の流るるが如く輝かして、宝相華(ほうそうげ)、勝曼華(しょうまんげ)が透間(すきま)もなく咲きめぐっている。
 この柱が、須弥壇(しゅみだん)の四隅(しぐう)にある、まことに天上の柱である。須弥壇は四座(しざ)あって、壇上には弥陀(みだ)、観音(かんおん)、勢至(せいし)の三尊(さんぞん)、二天(にてん)、六地蔵(ろくじぞう)が安置され、壇の中は、真中に清衡(きよひら)、左に基衡(もとひら)、右に秀衡(ひでひら)の棺(かん)が納まり、ここに、各一口(ひとふり)の剣(つるぎ)を抱(いだ)き、鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)の印(いん)を帯び、錦袍(きんぽう)に包まれた、三つの屍(しかばね)がまだそのままに横(よこた)わっているそうである。
 雛芥子(ひなげし)の紅(くれない)は、美人の屍より開いたと聞く。光堂は、ここに三個の英雄が結んだ金色(こんじき)の果(このみ)なのである。
 謹(つつし)んで、辞して、天界一叢(てんかいいっそう)の雲を下りた。
 階(きざはし)を下りざまに、見返ると、外囲(そとがこい)の天井裏に蜘蛛(くも)の巣がかかって、風に軽く吹かれながら、きらきらと輝くのを、不思議なる塵(ちり)よ、と見れば、一粒(いちりゅう)の金粉の落ちて輝くのであった。
 さて経蔵(きょうぞう)を見よ。また弥(いや)が上に可懐(なつかし)い。
 羽目(はめ)には、天女――迦陵頻伽(かりょうびんが)が髣髴(ほうふつ)として舞いつつ、かなでつつ浮出(うきで)ている。影をうけた束(つか)、貫(ぬき)の材は、鈴と草の花の玉の螺鈿(らでん)である。
 漆塗(うるしぬり)、金の八角(はちかく)の台座には、本尊、文珠師利(もんじゅしり)、朱の獅子に騎(き)しておわします。獅子の眼(まなこ)は爛々(らんらん)として、赫(かっ)と真赤な口を開けた、青い毛の部厚な横顔が視(み)られるが、ずずッと足を挙げそうな構えである。右にこの轡(くつわ)を取って、ちょっと振向いて、菩薩(ぼさつ)にものを言いそうなのが優□玉(ゆうてんぎょく)、左に一匣(いっこう)を捧げたのは善哉童子(ぜんざいどうじ)。この両側左右の背後に、浄名居士(じょうみょうこじ)と、仏陀波利(ぶっだはり)が一(ひとつ)は払子(ほっす)を振り、一(ひとつ)は錫杖(しゃくじょう)に一軸(いちじく)を結んだのを肩にかつぐように杖(つ)いて立つ。額(ひたい)も、目も、眉も、そのいずれも莞爾莞爾(にこにこ)として、文珠(もんじゅ)も微笑(ほほえ)んでまします。第一獅子が笑う、獅子が。
 この須弥壇(しゅみだん)を左に、一架(いっか)を高く設けて、ここに、紺紙金泥(こんしきんでい)の一巻を半ば開いて捧げてある。見返しは金泥銀泥(きんでいぎんでい)で、本経(ほんきょう)の図解を描く。……清麗巧緻(せいれいこうち)にしてかつ神秘である。
 いま此処(ここ)に来てこの経を視(み)るに、毛越寺の彼はあたかも砂金を捧ぐるが如く、これは月光を仰ぐようであった。
 架(か)の裏に、色の青白い、痩(や)せた墨染(すみぞめ)の若い出家が一人いたのである。
 私の一礼に答えて、
「ご緩(ゆる)り、ご覧なさい。」
 二、三の散佚(さんいつ)はあろうが、言うまでもなく、堂の内壁(ないへき)にめぐらした八(やつ)の棚に満ちて、二代基衡(もとひら)のこの一切経(いっさいきょう)、一代清衡(きよひら)の金銀泥一行(きんぎんでいいちぎょう)まぜ書(がき)の一切経、並(ならび)に判官贔屓(ほうがんびいき)の第一人者、三代秀衡(ひでひら)老雄の奉納した、黄紙宋板(おうしそうばん)の一切経が、みな黒燿(こくよう)の珠玉の如く漆(うるし)の架(か)に満ちている。――一切経の全部量は、七駄片馬(しちだかたうま)と称うるのである。
「――拝見をいたしました。」
「はい。」
 と腰衣(こしごろも)の素足で立って、すっと、経堂を出て、朴歯(ほおば)の高足駄(たかあしだ)で、巻袖(まきそで)で、寒く細(ほっそ)りと草を行(ゆ)く。清らかな僧であった。
「弁天堂を案内しますで。」
 と車夫(わかいしゅ)が言った。
 向うを、墨染(すみぞめ)で一人行(ゆ)く若僧(にゃくそう)の姿が、寂(さび)しく、しかも何となく貴(とうと)く、正に、まさしく彼処(かしこ)におわする……天女の御前(おんまえ)へ、われらを導く、つつましく、謙譲なる、一個のお取次のように見えた。
 かくてこそ法師たるものの効(かい)はあろう。
 世に、緋、紫、金襴(きんらん)、緞子(どんす)を装(よそお)うて、伽藍(がらん)に処すること、高家諸侯(こうけだいみょう)の如く、あるいは仏菩薩(ぶつぼさつ)の玄関番として、衆俗(しゅうぞく)を、受附で威張(いば)って追払(おっぱら)うようなのが少くない。
 そんなのは、僧侶なんど、われらと、仏神の中を妨ぐる、姑(しゅうと)だ、小姑(こじゅうと)だ、受附だ、三太夫だ、邪魔ものである。
 衆生(しゅじょう)は、きゃつばらを追払(おいはら)って、仏にも、祖師にも、天女にも、直接(じか)にお目にかかって話すがいい。
 時に、経堂を出た今は、真昼ながら、月光に酔(よ)[#ルビの「よ」は底本ではは「え」]い、桂(かつら)の香(か)に巻かれた心地がして、乱れたままの道芝(みちしば)を行くのが、青く清明なる円(まる)い床を通るようであった。
 階(きざはし)の下に立って、仰ぐと、典雅温優(てんがおんゆう)なる弁財天(べんざいてん)の金字(きんじ)に縁(ふち)して、牡丹花(ぼたんか)の額(がく)がかかる。……いかにや、年ふる雨露(あめつゆ)に、彩色(さいしき)のかすかになったのが、木地(きじ)の胡粉(ごふん)を、かえってゆかしく顕(あら)わして、萌黄(もえぎ)に群青(ぐんじょう)の影を添え、葉をかさねて、白緑碧藍(はくりょくへきらん)の花をいだく。さながら瑠璃(るり)の牡丹である。
 ふと、高縁(たかえん)の雨落(あまおち)に、同じ花が二、三輪咲いているように見えた。
 扉がギイ、キリキリと……僧の姿は、うらに隠れつつ、見えずに開く。
 ぽかんと立ったのが極(きまり)が悪い。
 ああ、もう彼処(あすこ)から透見(すきみ)をなすった。
 とそう思うほど、真白(ましろ)き面影、天女の姿は、すぐ其処(そこ)に見えさせ給う。
 私は恥じて俯向(うつむ)いた。
「そのままでお宜(よろ)しい。」
 壇は、下駄(げた)のままでと彼(か)の僧が言うのである。
 なかなか。
 足袋(たび)の、そんなに汚れていないのが、まだしもであった。
 蜀紅(しょくこう)の錦(にしき)と言う、天蓋(てんがい)も広くかかって、真黒(まくろ)き御髪(みぐし)の宝釵(ほうさい)の玉一つをも遮(さえぎ)らない、御面影(おんおもかげ)の妙(たえ)なること、御目(おんまな)ざしの美しさ、……申さんは恐多(おそれおお)い。ただ、西の方(かた)遥(はるか)に、山城国(やましろのくに)、浄瑠璃寺(じょうるりでら)、吉祥天(きっしょうてん)のお写真に似させ給う。白理(はくり)、優婉(ゆうえん)、明麗(めいれい)なる、お十八、九ばかりの、略(ほぼ)人(ひと)だけの坐像である。
 ト手をついて対したが、見上ぐる瞳に、御頬(おんほお)のあたり、幽(かすか)に、いまにも莞爾(かんじ)と遊ばしそうで、まざまざとは拝めない。
 私は、端坐して、いにしえの、通夜(つや)と言う事の意味を確(たしか)に知った。
 このままに二時(ふたとき)いたら、微妙な、御声(おこえ)が、あの、お口許(くちもと)の微笑(ほほえみ)から。――
 さて壇を退(しりぞ)きざまに、僧のとざす扉につれて、かしこくもおんなごりさえ惜(おし)まれまいらすようで、涙ぐましくまた額(がく)を仰いだ。御堂そのまま、私は碧瑠璃(へきるり)の牡丹花(ぼたんか)の裡(うち)に入って、また牡丹花の裡から出たようであった。
 花の影が、大(おおき)な蝶(ちょう)のように草に映(さ)した。
 月ある、明(あきらか)なる時、花の朧(おぼろ)なる夕(ゆうべ)、天女が、この縁側(えんがわ)に、ちょっと端居(はしい)の腰を掛けていたまうと、経蔵から、侍士(じし)、童子(どうじ)、払子(ほっす)、錫杖(しゃくじょう)を左右に、赤い獅子に騎(き)して、文珠師利(もんじゅしり)が、悠然と、草をのりながら、
「今晩は――姫君、いかが。」
 などと、お話がありそうである。
 と、麓(ふもと)の牛が白象(びゃくぞう)にかわって、普賢菩薩(ふげんぼさつ)が、あの山吹のあたりを御散歩。
 まったく、一山(いっさん)の仏たち、大(おおき)な石地蔵(いしじぞう)も凄(すご)いように活きていらるる。
 下向(げこう)の時、あらためて、見霽(みはらし)の四阿(あずまや)に立った。
 伊勢、亀井(かめい)、片岡(かたおか)、鷲尾(わしのお)、四天王の松は、畑中(はたなか)、畝(あぜ)の四処(よところ)に、雲を鎧(よろ)い、□糸(ゆるぎいと)の風を浴びつつ、或(ある)ものは粛々(しゅくしゅく)として衣河(ころもがわ)に枝を聳(そびや)かし、或(ある)ものは恋々(れんれん)として、高館(たかだち)に梢(こずえ)を伏せたのが、彫像の如くに視(なが)めらるる。
 その高館(たかだち)の址(あと)をば静(しずか)にめぐって、北上川の水は、はるばる、瀬もなく、音もなく、雲の涯(はて)さえ見えず、ただ(はるばる)と言うように流るるのである。
 
「この奥に義経公(よしつねこう)。」
 車夫(くるまや)の言葉に、私は一度俥(くるま)を下りた。
 帰途は――今度は高館を左に仰いで、津軽青森まで、遠く続くという、まばらに寂しい松並木の、旧街道を通ったのである。
 松並木の心細さ。
 途中で、都らしい女に逢ったら、私はもう一度車を飛下(とびお)りて、手も背(せな)もかしたであろう。――判官(ほうがん)にあこがるる、静(しずか)の霊を、幻に感じた。
「あれは、鮭(さけ)かい。」
 すれ違って一人、溌剌(はつらつ)[#「剌」は底本では「刺」]たる大魚(おおうお)を提(さ)げて駈通(かけとお)ったものがある。
「鱒(ます)だ、――北上川で取れるでがすよ。」
 ああ、あの川を、はるばると――私は、はじめて一条(ひとすじ)長く細く水の糸を曳(ひ)いて、魚(うお)の背(せ)とともに動く状(さま)を目に宿したのである。
「あれは、はあ、駅長様の許(とこ)へ行(ゆ)くだかな。昨日(きのう)も一尾(いっぴき)上(あが)りました。その鱒は停車場(ていしゃば)前の小河屋(おがわや)で買ったでがすよ。」
「料理屋かね。」
「旅籠屋(はたごや)だ。新築でがしてな、まんずこの辺では彼店(あすこ)だね。まだ、旦那、昨日はその上に、はい鯉(こい)を一尾(いっぴき)買入れたでなあ。」
「其処(そこ)へ、つけておくれ、昼食(ちゅうじき)に……」
 ――この旅籠屋は深切(しんせつ)であった。
「鱒がありますね。」
 と心得たもので、
「照焼(てりやき)にして下さい。それから酒は罎詰(びんづめ)のがあったらもらいたい、なりたけいいのを。」
 束髪(そくはつ)に結(ゆ)った、丸ぽちゃなのが、
「はいはい。」
 と柔順(すなお)だっけ。
 小用(こよう)をたして帰ると、もの陰から、目を円(まる)くして、一大事そうに、
「あの、旦那様。」
「何だい。」
「照焼にせいという、お誂(あつらえ)ですがなあ。」
「ああ。」
「川鱒(かわます)は、塩をつけて焼いた方がおいしいで、そうしては不可(いけ)ないですかな。」
「ああ、結構だよ。」
 やがて、膳に、その塩焼と、別に誂えた玉子焼、青菜のひたし。椀がついて、蓋を取ると鯉汁(こいこく)である。ああ、昨日のだ。これはしかし、活きたのを料(りょう)られると困ると思って、わざと註文はしなかったものである。
 口を溢(こぼ)れそうに、なみなみと二合のお銚子(ちょうし)。
 いい心持(こころもち)の処(ところ)へ、またお銚子が出た。
 喜多八(きたはち)の懐中、これにきたなくもうしろを見せて、
「こいつは余計だっけ。」
「でも、あの、四合罎(しごうびん)一本、よそから取って上げましたので、なあ。」
 私は膝を拍(う)って、感謝した。
「よし、よし、有難(ありがと)う。」
 香(こう)のものがついて、御飯をわざわざ炊(た)いてくれた。
 これで、勘定が――道中記には肝心な処だ――二円八十銭……二人(ににん)分です。
「帳場の、おかみさんに礼を言って下さい。」
 やがて停車場(ステエション)へ出ながら視(み)ると、旅店(はたごや)の裏がすぐ水田(みずた)で、隣(となり)との地境(じざかい)、行抜(ゆきぬ)けの処に、花壇があって、牡丹が咲いた。竹の垣も結(ゆ)わないが、遊んでいた小児(こども)たちも、いたずらはしないと見える。
 ほかにも、商屋(あきないや)に、茶店に、一軒ずつ、庭あり、背戸(せど)あれば牡丹がある。往来(ゆきき)の途中も、皆そうであった。かつ溝川(みぞがわ)にも、井戸端にも、傾いた軒、崩れた壁の小家(こいえ)にさえ、大抵(たいてい)皆、菖蒲(あやめ)、杜若(かきつばた)を植えていた。
 弁財天の御心(みこころ)が、自(おのずか)ら土地にあらわれるのであろう。
 忽(たちま)ち、風暗く、柳が靡(なび)いた。
 停車場(ステエション)へ入った時は、皆待合室にいすくまったほどである。風は雪を散らしそうに寒くなった。一千年のいにしえの古戦場の威力である。天には雲と雲と戦った。




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