夜叉ヶ池
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:泉鏡花 

場所  越前国大野郡鹿見村琴弾谷
時   現代。――盛夏
人名  萩原晃(鐘楼守)
百合(娘)
山沢学円(文学士)
白雪姫(夜叉ヶ池の主)
湯尾峠の万年姥(眷属)
白男の鯉七
大蟹五郎
木の芽峠の山椿
鯖江太郎
鯖波次郎
虎杖の入道
十三塚の骨
夥多の影法師
黒和尚鯰入(剣ヶ峰の使者)
与十(鹿見村百姓)
その他大勢
鹿見宅膳(神官)
権藤管八(村会議員)
斎田初雄(小学教師)
畑上嘉伝次(村長)
伝吉(博徒)
小烏風呂助(小相撲)
穴隈鉱蔵(県の代議士)
劇中名をいうもの。――(白山剣ヶ峰、千蛇ヶ池の公達)
[#改ページ]

三国岳(みくにだけ)の麓(ふもと)の里に、暮六(くれむ)つの鐘きこゆ。――幕を開く。
萩原晃(はぎわらあきら)この時白髪(しらが)のつくり、鐘楼(しょうろう)の上に立ちて夕陽(せきよう)を望みつつあり。鐘楼は柱に蔦(つた)からまり、高き石段に苔(こけ)蒸し、棟には草生ゆ。晃やがて徐(おもむろ)に段を下りて、清水に米を磨(と)ぐお百合(ゆり)の背後に行(ゆ)く。
晃 水は、美しい。いつ見ても……美しいな。百合 ええ。その水の岸に菖蒲(あやめ)あり二三輪小さき花咲く。
晃 綺麗(きれい)な水だよ。(微笑(ほほえ)む。)百合 (白髪の鬢(びん)に手を当てて)でも、白いのでございますもの。晃 そりゃ、米を磨いでいるからさ。……(框(かまち)の縁に腰を掛く)お勝手働き御苦労、せっかくのお手を水仕事で台なしは恐多い、ちとお手伝いと行こうかな。百合 可(よ)うございますよ。晃 いや……お手伝いという処だが、お百合さんのそうした処は、咲残った菖蒲を透いて、水に影が映(さ)したようでなお綺麗だ。百合 存じません。晃 賞(ほ)めるのに怒る奴(やつ)がありますか。百合 おなぶり遊ばすんでございますものを。――そして旦那様(だんなさま)は、こんな台所へ出ていらっしゃるものではありません。早くお机の所へおいでなさいまし。晃 鐘を撞(つ)く旦那はおかしい。実は権助(ごんすけ)と名を替えて、早速お飯(まんま)にありつきたい。何とも可恐(おそろし)く腹が空いて、今、鐘を撞いた撞木(しゅもく)が、杖(つえ)になれば可(い)いと思った。ところで居催促(いざいそく)という形(かた)もある。百合 ほほほ、またお極(きま)り。……すぐお夕飯にいたしましょうねえ。晃 手品じゃあるまいし、磨いでいる米が、飯に早変わりはしそうもないぜ。百合 まあ、あんな事を――これは翌朝(あした)の分を仕掛けておくのでございますよ。晃 翌朝の分――ああ、お所帯(しょたい)もち、さもあるべき事です。いや、それを聞いて安心したら、がっかりして余計空いた。百合 何でございますねえ。……お菜(かず)も、あの、お好きな鴫焼(しぎやき)をして上げますから、おとなしくしていらっしゃいまし。お腹が空いたって、人が聞くと笑います。晃 (縁を上る)誰に遠慮がいるものか、人が笑うのは、ね、お前。百合 はい。晃 お互いに朝寝の時――百合 知りませんよ。(莞爾(にっこり)俯向(うつむ)く。)晃 煩(うるさ)く薮蚊(やぶっか)が押寄せた。裏縁で燻(いぶ)してやろう。(納戸、背後(うしろ)むきに山を仰ぐ)……雲の峰を焼落(やきおと)した、三国ヶ岳は火のようだ。西は近江(おうみ)、北は加賀、幽(かすか)に美濃(みの)の山々峰々、数万(すまん)の松明(たいまつ)を列(つら)ねたように旱(ひでり)の焔(ほのお)で取巻いた。夜叉(やしゃ)ヶ池へも映るらしい。ちょうどその水の上あたり、宵の明星の色さえ赤い。……なかなか雨らしい影もないな。百合 ……その竜が棲(す)む、夜叉ヶ池からお池の水が続くと申します。ここの清水も気のせいやら、流(ながれ)が沢山(たんと)痩(や)せました。このごろは村方で大騒ぎをしています。……暑さは強し……貴方(あなた)、お身体(からだ)に触(さわ)りはしますまいかと、――めしあがりものの不自由な片山里は心細い。私はそれが心配でなりません。晃 流(ながれ)が細ったって構うものか。お前こそ、その上夏痩せをしないが可(い)い。お百合さん、その夕顔の花に、ちょっと手を触ってみないか。百合 はい、どういたすのでございますか。晃 花にも葉にも露があろうね。百合 ああ冷い。水の手にも涼しいほど、しっとり花が濡れましたよ。晃 世間の人には金が要ろう、田地も要ろう、雨もなければなるまいが、我々二人活(い)きるには、百日照っても乾きはしない。その、露があれば沢山なんだ。(戸外(おもて)に向える障子を閉(とざ)す。)百合 貴方、お暑うございましょう。開けておおきなさいましても、もう、そちこち人も通りますまい。晃 何、更(あらたま)って、そんな心配をするものか。……晩方閉込(とじこ)んで一燻(ひといぶ)し燻しておくと、蚊が大分楽になるよ。時に蚊遣(かやり)の煙なびく、
学円。日に焼けたるパナマ帽子、背広の服、落着(おちつき)のある人体(じんてい)なり。風呂敷包を斜(はす)に背(しょ)い、脚絆草鞋穿(きゃはんわらじばき)、杖(ステッキ)づくりの洋傘(こうもり)をついて、鐘楼の下に出づ。打仰ぎ鐘を眺め、
学円 今朝、明六(あけむ)つの橋を渡って、ここで暮六つの鐘を聞いた。……お百合は笊(ざる)に米をうつす。
学円 やあ、お精が出ます。(と声を掛く。)百合 はい。(見向く。)学円 途中、畷(なわて)の竹藪(たけやぶ)の処へ出て……暗くなった処で、今しがた聞きました。時を打ったはこの鐘でしょうな。百合 さようでございます。学円 音も尊い!……立派な鐘じゃ。鐘楼(つりがねどう)へ上(あが)ってみても差支えはありませんか。百合 (笊(ざる)を抱えて立つ)ええ、大事ござんせん。けれども貴客(あなた)、御串戯(ごじょうだん)に、お杖やなんぞでお敲(たた)き遊ばしては不可(いけ)ません。学円 西瓜(すいか)を買うのではありません。決して敲いてはみますまい。(笑う。)百合 御串戯おっしゃいます。……いいえ、悪戯(いたずら)を遊ばすようなお方とは、お見受け申しはしませんけれど、その鐘は、明六つと、暮六つと、夜中丑満(うしみつ)に一度、――三度のほかは鳴らさない事になっておりますから、失礼とは存じましたが、ちょっと申上げたのでございます。さあ、どうぞ御遠慮なく、上って御覧なさいまし。(夕顔の垣根について入(いら)んとす。)学円 ああ、ちょっと……お待ち下さい。鐘を見ようと思いますが、ふと言(ことば)を交わしたを御縁に、余り不躾(ぶしつけ)がましい事じゃが、茶なりと湯なりと、一杯お振舞い下さらんか。百合 お易い事でございます。さあ、貴客(あなた)、これへお掛けなさいまし。学円 御免下さいよ。百合 真(まこと)に見苦しゅうございます。学円 これは――お寺の庫裡(くり)とも見受ません。御本堂は離れていますか。百合 いいえ、もう昔、焼けたと申しまして、以前から、寺はないのでございます。学円 鐘ばかり……百合 はい。学円 鐘ばかり……成程、ところで西瓜の一件じゃ。(帽子を脱ぐ、ほとんど剃髪(ていはつ)したるごとき一分刈(いちぶがり)の額を撫(な)でて)や、西瓜と云えば、内に甜瓜(まくわうり)でもありますまいか。――茶店でもない様子――(見廻す。)片山家(かたやまが)の暮れ行(ゆ)く風情、茅屋(かやや)の低き納戸の障子に灯影(ほかげ)映る。
学円 この上、晩飯の御難題は言出しませんが、いかんとも腹が空いた。百合 ほほ。(と打笑(うちえ)み)筧(かけひ)の下に、梨(ありのみ)が冷(ひや)してござんす、上げましょう。(と夕顔の蔭に立廻る。)学円 (がぶがぶと茶を呑(の)み、衣兜(ポケット)から扇子を取って、煽(あお)いだのを、と翳(かざ)して見つつ)おお、咲きました。貴女(あなた)の顔を見るように。百合 ええ?(聞返す。)学円 いや、髪の色を見るように。百合 もう、年をとりますと、花どころではございません。早く干瓢(かんぴょう)にでもなりますれば、……とそればかりを待っております。学円 小刀(ナイフ)をこれへお遣わし……私(わし)が剥(む)きます。――お世話を掛けてはかえって気遣いな。どれどれ……旅の事欠け、不器用ながら、梨(なし)の皮ぐらいは、うまく剥きます。おおおお氷よりよく冷えた。玉を削るとはこの事じゃろう。百合 旅を遊ばす御様子にお見受け申します……貴客(あなた)は、どれから、どれへお越しなさいますえ?学円 さて名告(なの)りを揚げて、何の峠を越すと云うでもありません。御覧の通り、学校に勤めるもので、暑中休暇に見物学問という処を、遣(や)って歩行(ある)く……もっとも、帰途(かえりみち)です。――涼しくば木の芽峠、音に聞こえた中の河内(かわち)か、(廂(ひさし)はずれに山見る眉)峰の茶店(ちゃや)に茶汲女(ちゃくみおんな)が赤前垂(あかまえだれ)というのが事実なら、疱瘡(ほうそう)の神の建場(たてば)でも差支えん。湯の尾峠を越そうとも思います。――落着く前(さき)は京都ですわ。百合 お泊りは? 貴客(あなた)、今晩の。学円 ああ、うっかり泊りなぞお聞きなさらぬが可(い)い。言尻(ことばじり)に着いて、宿の御無心申さんとも限らんぞ。はははは、いや、串戯(じょうだん)じゃ。御心配には及ばんが、何と、その湯の尾峠の茶汲女は、今でも赤前垂じゃろうかね。百合 山また山の峠の中に、嘘のようにもお思いなさいましょうが、まったくだと申します。学円 谷の姫百合も緋色(ひいろ)に咲けば、何もそれに不思議はない。が、この通り、山ばかり、重(かさな)り累(かさな)る、あの、巓(いただき)を思うにつけて、……夕焼雲が、めらめらと巌(いわお)に焼込(やけこ)むようにも見える。こりゃ、赤前垂より、雪女郎で凄(すご)うても、中の河内が可(い)いかも分らん。何にしろ、暑い事じゃね。――やっとここで呼吸(いき)をついた。百合 里では人死(ひとじに)もありますッて……酷(ひど)い旱(ひでり)でございますもの。学円 今朝から難行苦行(なんぎょうくぎょう)の体(てい)で、暑さに八九里悩みましたが――可恐(おそろ)しい事には、水らしい水というのを、ここに来てはじめて見ました。これは清水と見えます。百合 裏の崕(がけ)から湧(わ)きますのを、筧(かけひ)にうけて落します……細い流(ながれ)でございますが、石に当って、りんりんと佳(い)い音(ね)がしますので、この谷を、あの琴弾谷(ことひきだに)と申します。貴客、それは、おいしい冷い清水。……一杯汲んで差上げましょうか。学円 何が今まで我慢が出来よう、鐘堂(つりがねどう)も知らない前に、この美(うつくし)い水を見ると、逆蜻蛉(さかとんぼ)で口をつけて、手で引掴(ひッつか)んでがぶがぶと。百合 まあ、私はどうしましょう、知らずにお米を磨(と)ぎました。学円 いや、しらげ水は菖蒲(あやめ)の絞(しぼり)、夕顔の花の化粧になったと見えて、下流の水はやっぱり水晶。ささ濁りもしなかった。が、村里一統、飲む水にも困るらしく見受けたに、ここの源(みなもと)まで来ないのは格別、流れを汲取るものもなかったように思う……何ぞ仔細(しさい)のある事じゃろうか。百合 あの、湧きますのは、裏の崕(がけ)でござんすけれど。学円 はあ、はあ。……百合 水の源(もと)はこの山奥に、夜叉ヶ池と申します。凄(すご)い大池がございます。その水底(みなそこ)には竜が棲(す)む、そこへ通うと云いまして――毒があると可恐(こわ)がります。――もう薄暗くて見えますまいけれども、その貴客(あなた)、流(ながれ)の石には、水がかかって、紫だの、緑だの、口紅ほどな小粒も交(まじ)って、それは綺麗でございますのを、お池の主の眷属(けんぞく)の鱗(うろこ)がこぼれたなんのッて、気味が悪いと申すんでございますから。……学円 綺麗な石が毒蛇の鱗? や、がぶがぶと、豪(えら)いことを遣(や)ってしもうた。(と扇子をもって胸を打つ。)百合 まあ、(と微笑(ほほえ)み)私どもがこの年まで朝夕飲んで何ともない、それをあの、人は疑うのでございます。学円 もっとも、もっとも。ものを疑うのは人間の習いですよ。私(わし)は今のお言(ことば)で、決して心配はしますまい。現に朝夕飲んでおらるる、――この年紀(とし)まで――(と打ち瞻(まも)り)お幾歳(いくつ)じゃな。百合 …………学円 まあさ、失礼じゃが、お幾歳です?百合 御免なさいまし、……忘れました。……学円 ははは、俚言(ことわざ)にも、婦人に対して、貴女はいつ死ぬとは問うても可(い)い。が、いつ生れた、とは聞くな――とある。これは無遠慮に出過ぎました。……お幾歳じゃと年紀(とし)は尋ねますまい。時に幾干(いくら)ですか。百合 幾干かとおっしゃって?学円 代価じゃ。百合 あの、お代、何の?……お宝……ま、滅相(めっそう)な。お茶代なぞ頂くのではないのでござんす。学円 茶も茶じゃが、いやあこれは、髯(ひげ)のようにもじゃもじゃと聞えておかしい。茶も勿論、梨を十分に頂いた。お商売でのうても無代価では心苦しい。ずばりと余計なら黙っても差置きますが、旅空なり、御覧の通りの風体(ふうてい)。ちゃんと云うて取って下さい。百合 そうまでお気が済みませんなら、少々お代を頂きましょうか。学円 勿論ともな。百合 でも、あの、お代とさえ申しますもの、お宝には限りません。そのかわり、短いのでも可(よ)うござんす、お談話(はなし)を一つ、お聞かせなすって下さいましな。学円 談話をせい、……談話とは?百合 方々旅を遊ばした、面白い、珍しい、お話しでございます。学円 その談話を?百合 はい、お代のかわりに頂きます。貴客(あなた)には限りませず、薬売の衆、行者(ぎょうじゃ)、巡礼、この村里の人たちにも、お間に合うものがござんして、そのお代をと云う方には、誰方(どなた)にも、お談話を一条(ひとつ)ずつ伺います。沢山(たんと)お聞かせ下さいますと、お泊め申しもするのでござんす。学円 むむ、これこそ談話じゃ。(と小膝(こひざ)を拍(うっ)て)面白い。話しましょう。……が、さて談話というて、差当り――お茶代になるのじゃからって、長崎から強飯(こわめし)でもあるまいな。や、思出した。しかもこの越前(えちぜん)じゃ。晃 (細く障子を開き差覗(さしのぞ)く。)時に小机に向いたり。双紙を開き、筆を取りて、客の物語る所をかき取らんとしたるなるが、学円と双方、ふと顔を合せて、何とかしけん、燈火(ともしび)をふっと消す。
百合 どんなお話、もし、貴客(あなた)。学円 ……時にここで話すのを、貴女のほかに聞く人がありますかね。百合 いいえ、外(ほか)にはお月様ばかりでござんす。学円 道理こそ燈(あかり)が消えて、ああ、蚊遣(かやり)の煙で、よくは見えぬが、……納戸に月が射(さ)すらしい。――お待ちなさい。今、言いかけた越前の話というのは、縁の下で牡丹餅(ぼたもち)が化けたのです。たとえば、ここで私(わし)がものを云うと、その通り、縁の下で口真似をする奴(やつ)がある。村中が寄って集(たか)って、口真似するは何ものじゃ。狐か、と聞くと、違う。と答える。狸か、違う、獺(かわうそ)か、違う、魔か、天狗(てんぐ)か、違う、違う。……しまいに牡丹餅か、と尋ねた時、おうと云って消え失(う)せたという――その話をする気であったが、……まだ外に、月が聞くと言わるるから、出直して、別の談話(はなし)をする気になった。お聞きなさい。これは現在一昨年(おととし)の夏――一人、私(わし)の親友に、何かかねて志す……国々に伝わった面白い、また異(かわ)った、不思議な物語を集めてみたい。日本中残らずとは思うが、この夏は、山深い北国(ほっこく)筋の、谷を渡り、峰を伝って尋ねよう、と夏休みに東京を出ました。――それっきり、行方が知れず、音沙汰(おとさた)なし。親兄弟もある人物、出来る限り、手を尽くして捜したが、皆目跡形(あとかた)が分らんから、われわれ友だちの間にも、最早(もは)や世にない、死んだものと断念(あきら)めて、都を出た日を命日にする始末。いや、一時は新聞沙汰、世間で豪(えら)い騒ぎをした。……
自殺か、怪我(けが)か、変死かと、果敢(はか)ない事に、寄ると触ると、袂(たもと)を絞って言い交わすぞ! あとを隠すにも、死ぬのにも、何の理由もない男じゃに、貴女、世間には変った事がありましょうな。……
百合 ああ、貴客(あなた)、貴客、難有(ありがと)う存じます。……ほんとうに難有う存じました。(とにべなく言う。)学円 そんなに礼を云うて、茶代のかわりになるのですかい。百合 もう沢山でございます。学円 それでは面白かったのじゃね。百合 ……おもしろいのは、前の牡丹餅の化けた方、あとのは沢山でございます。学円 さて談話(はなし)はこれからなんじゃ、今のはほんの前提(まえおき)ですが。百合 どうぞ、……結構でございますから、……そして貴客、もう暗くなります、お宿をお取り遊ばすにも御不自由でございましょうから。……学円 いやいや、談話の模様では、宿をする事もあると言われた。私(わし)も一つ泊めて下さい、――この談話は実(み)がありますから。百合 先刻(さっき)は、貴客、女の口から泊りの事なぞ聞くんじゃない。……その言(ことば)について、宿の無心でもされたらどうするとおっしゃって。……もう、清い涼(すずし)いお方だと思いましたものを、……女ばかり居る処で、宿貸せなぞと、そんな事、……もう、私は気味が悪い。学円 気味が悪いな? 牡丹餅の化けたのではないですが。百合 こんな山家は、お化(ばけ)より、都の人が可恐(こお)うござんす、……さ、貴客どうぞ。学円 これは、押出されるは酷(ひど)い。(不承々々に立つ。)百合 (続いて出で、押遣(おしや)るばかりに)どうぞ、お立ち下さいまし。学円 婦人ばかりじゃ、ともこうも言われぬか。鉢の木ではないのじゃが、蚊に焚(た)く柴もあるものを、……常世(つねよ)の宿なら、こう情(なさけ)なくは扱うまい。……雪の降らぬがせめてもじゃ。百合 真夏土用の百日旱(ひでり)に、たとい雪が降ろうとも、……(と立ちながら、納戸の方を熟(じっ)と視(み)て、学円に瞳を返す。)御機嫌よう。学円 失礼します。晃 (衝(つ)と蚊遣(かやり)の中に姿を顕(あらわ)し)山沢、山沢。(ときっぱり呼ぶ。)学円 おい、萩原、萩原か。百合 あれ、貴方(あなた)。(と走り寄って、出足を留めるように、膝を突き手に晃の胸を圧(おさ)える。)晃 帰りやしない、大丈夫、大丈夫。(と低声(こごえ)に云って)何とも言いようがない、山沢、まあ――まあ、こちらへ。学円 私(わし)も何とも言いようが無い。十に九ツ君だろうと、今ね、顔を見た時、また先刻(さっき)からの様子でもそう思うた、けれども、余り思掛けなし――(引返して框(かまち)に来(きた)り)第一、その頭はどうしたい。晃 頭もどうかしていると思って、まあ、許して上ってくれ。学円 埃(ほこり)ばかりじゃ、失敬するぞ、(と足を拭(ふ)いたなりで座に入る)いや、その頭も頭じゃが、白髪はどうじゃ、白髪はよ?……晃 これか、谷底に棲(す)めばといって、大蛇(うわばみ)に呑まれた次第(わけ)ではない、こいつは仮髪(かつら)だ。(脱いで棄てる。)学円 ははあ……(とお百合を密(そっ)と見て)勿論じゃな、その何も……晃 こりゃ、百合と云う。お百合、座に直った晃の膝に、そのまま俯伏(うっぷ)して縋(すが)っている。
学円 お百合さんか。細君も……何、奥方も……晃 泣く奴があるか、涙を拭いて、整然(ちゃん)として、御挨拶(ごあいさつ)しな。と言ううちに、極(きま)り悪そうに、お百合は衝(つ)と納戸へかくれる。
晃 君に背中を敲(たた)かれて、僕の夢が覚めた処で、東京に帰るかって憂慮(きづか)いなんです。学円 (お百合の優しさに、涙もろく、ほろりとしながら)いや、私(わし)の顔を見たぐらいで、萩原――この夢は覚めんじゃろう。……何、いい夢なら、あえて覚めるには及ばんのじゃ……しかし萩原、夢の裡(うち)にも忘れまいが、東京の君の内では親御はじめ、晃 むむ。学円 君の事で、多少、それは、寿命は縮められたか分らんが、皆まず御無事じゃ。晃 ああ、そうか。難有(ありがた)い。学円 私(わし)に礼には及ばない。晃 実に済まん!学円 さてこれはどうしたわけじゃ。晃 夢だと思って聞いてくれ。学円 勿論、夢だと思うておる。……晃 委(くわ)しい事は、夜すがらにも話すとして、知ってる通り……僕は、それ諸国の物語を聞こうと思って、北国筋を歩行(ある)いたんだ。ところが、自身……僕、そのものが一条(ひとくだり)の物語になった訳だ。――魔法つかいは山を取って海に移す、人間を樹にもする、石にもする、石を取って木(こ)の葉にもする。木の葉を蛙(かえる)にもするという、……君もここへ来たばかりで、もの語(かたり)の中の人になったろう……僕はもう一層、その上を、物語、そのものになったんだ。学円 薄気味の悪い事を云うな。では、君の細君は、……(云いつつ憚(はばか)る。)晃 (納戸を振向く)衣服(きもの)でも着換えるか、髪など撫(なで)つけているだろう。……襖(ふすま)一重だから、背戸へ出た。……学円 (伸上り納戸越に透かして見て)おい、水があるか、蘆(あし)の葉の前に、櫛(くし)にも月の光が射(さ)して、仮髪(かつら)をはずした髪の艶(つや)、雪国と聞くせいか、まだ消残って白いように、襟脚、脊筋も透通る。……凄(すご)いまで美しいが、……何か、細君は魔法つかいか。晃 可哀想(かわいそう)な事を言え、まさか。学円 ふん。晃 この土地、この里――この琴弾谷が、一個(ひとつ)の魔法つかいだと云うんだよ。――山沢、君は、この山奥の、夜叉ヶ池というのを聞いたか。学円 聞いた。しかもその池を見ようと思って、今庄(いまじょう)駅から五里ばかり、わざわざここまで入込(いりこ)んだのじゃ。晃 僕も一昨年(おととし)、その池を見ようと思って、ただ一人、この谷へ入ったために、こういう次第になったんだ。――ここに鐘がある――学円 ある! 何か、明六つ、暮六つ……丑満(うしみつ)、と一昼夜に三度鳴らす。その他は一切音をさせない定(さだめ)じゃと聞いたが。晃 そうだよ。定として、他は一切音をさせてはならない、と一所にな、一日一夜に三度ずつは必ず鳴らさねばならないんだ。学円 それは?晃 ここに伝説がある。昔、人と水と戦って、この里の滅びようとした時、越(えつ)の大徳泰澄(だいとくたいちょう)が行力(ぎょうりき)で、竜神をその夜叉ヶ池に封込(ふうじこ)んだ。竜神の言うには、人の溺(おぼ)れ、地の沈むを救うために、自由を奪わるるは、是非に及ばん。そのかわりに鐘を鋳て、麓(ふもと)に掛けて、昼夜に三度ずつ撞鳴(つきな)らして、我を驚かし、その約束を思出させよ。……我が性は自由を想う。自在を欲する。気ままを望む。ともすれば、誓(ちかい)を忘れて、狭き池の水をして北陸七道に漲(みなぎ)らそうとする。我が自由のためには、世の人畜の生命など、ものの数ともするものでない。が、約束は違(たが)えぬ、誓は破らん――但しその約束、その誓を忘れさせまい。思出させようとするために、鐘を撞(つ)く事を怠るな。――山沢、そのために鋳た鐘なんだよ。だから一度でも忘れると、たちどころに、大雨(たいう)、大雷(だいらい)、大風とともに、夜叉ヶ池から津浪が起って、村も里も水の底に葬って、竜神は想うままに天地を馳(は)すると……こう、この土地で言伝える。……そのために、明六つ、暮六つ、丑満つ鐘を撞く。……学円 (乗出でて)面白い。晃 いや、面白いでは済まない、大切な事です。学円 いかにも大切な事じゃ。晃 ところで、その鐘を撞く、鐘撞き男を誰だと思う。学円 君か。晃 僕だよ。すなわち萩原晃がその鐘撞夫(かねつき)なんだよ。学円 はてな。晃 ここに小屋がある……学円 むむ。晃 鐘撞が住む小屋で、一昨年(おととし)の夏、私が来て、代るまでは、弥太兵衛(やたべえ)と云う七十九になる爺様(じいさん)が一人居て、これは五十年以来(このかた)、いかな一日も欠かす事なく、一昼夜に三度ずつこの鐘を打っていた。山沢、花は人の目を誘う、水は人の心を引く。君も夜叉ヶ池を見に来たと云う。私がやっぱり、池を見ようと、この里へ来た時、暮六つの鐘が鳴ったんだ。弥太兵衛爺(じじい)に、鐘の所謂(いわれ)を聞きながら、夜があけたら池まで案内させる約束で、小屋へ泊めて貰った処。
その夜、丑満(うしみつ)の鐘を撞いて、鐘楼(しょうろう)の高い段から下りると、爺(じじい)は、この縁前(えんさき)で打倒(ぶったお)れた――急病だ。死ぬ苦悩(くるしみ)をしながら、死切れないと云って、悶(もだ)える。――こうした世間だ、もう以前から、村一統鐘の信心が消えている。……爺(じい)が死んだら、誰も鐘を鳴らすものがない。一度でも忘れると、掌(たなそこ)をめぐらさず、田地田畠、陸は水になる、沼になる、淵(ふち)になる。幾万、何千の人の生命(いのち)――それを思うと死ぬるも死切れぬと、呻吟(うめ)いて掻(もが)く。――虫より細い声だけれども、五十年の明暮(あけくれ)を、一生懸命、そうした信仰で鐘楼を守り通した、骨と皮ばかりの爺(じい)が云うのだ。……鐘の自(おのず)から鳴るごとく、僕の耳に響いた。……且(かつ)は臨終の苦患(くげん)の可哀(あわれ)さに、安心をさせようと、――心配をするな親仁(おやじ)、鐘は俺が撞いてやる、――とはっきり云うと、世にも嬉しそうに、ニヤニヤと笑って、拝みながら死んだ。その時の顔を今に忘れん。
が、まさか、一生、ここに鐘を撞いて終ろうとは思わなかった。丑満は爺が済ました、明六つの鐘一度ばかり、代って撞くぐらいにしか考えなかった。が、まあ、爺が死ぬ、村のものを呼ぼうにも、この通り隣家(となり)に遠い。三度の掟(おきて)でその外は、火にも水にも鐘を撞くことはならないだろう。
学円 その鳴らしてならないというは、どうした次第(わけ)じゃね?晃 鐘は、高く、ここにあって――その影は、深く夜叉ヶ池の碧潭(へきたん)に映ると云う。……撞木(しゅもく)を当てて鳴る時は、凩(こがらし)にすら、そよりとも動かない、その池の水が、さらさらと波を立てると聞く。元来、竜神を驚かすために打鳴らすのであるから、三度のほかに騒がしては、礼を欠く事に当る。……学円 その道理じゃ、むむ。晃 鐘も鳴らせん……処で、不知案内の村を駈廻(かけまわ)って人を集めた、――サア、弥太兵衛の始末は着いたが、誰も承合(うけあ)って鐘を撞こうと言わない。第一、しかじかであるからと、爺(じい)に聞いた伝説を、先祖の遺言のように厳(おごそか)に言って聞かせると、村のものは哄(どっ)と笑う。……若いものは無理もない。老寄(としより)どもも老寄どもなり、寺の和尚(おしょう)までけろりとして、昔話なら、桃太郎の宝を取って帰った方が結構でござる、と言う。癪(しゃく)に障った――勝手にしろ、と私もそこから、(と框(かまち)を指し)草鞋(わらじ)を穿(は)いて、すたすたとこの谷を出て帰ったんだ。帰る時、鹿見村(しかみむら)のはずれの土橋の袂(たもと)に、榎(えのき)の樹の下に立ってしょんぼりと見送ったのが、(と調子を低く)あの、婦人(おんな)だ。その日の、明六つの鐘さえ、学校通いの小児(こども)をはじめ、指(ゆびさ)しをして笑う上で、私が撞いた。この様子では、最早や今日から、暮六つの鐘は鳴るまいな!……
もしや、岩抜け、山津浪、そうでもない、大暴風雨(おおあらし)で、村の滅びる事があったら、打明けた処……他(ほか)は構わん、……この娘の生命(いのち)もあるまい――待て、二三日、鐘堂(つりがねどう)を俺が守ろう。その内には、とまた四五日、半月、一月を経(ふ)るうちに、早いものよ、足掛け三年。――君に逢(あ)うまで、それさえ忘れた。……また、忘れるために、その上、年に老朽ちて世を離れた、と自分でも断念(あきらめ)のため。……ばかりじゃ無い、……雁(かりがね)、燕(つばめ)の行(ゆ)きかえり、軒なり、空なり、行交(ゆきか)う目を、ちょっとは紛らす事もあろうと、昼間は白髪の仮髪(かつら)を被(かむ)る。
学円 (黙然(もくねん)として顔を見る。)晃 (言葉途絶える)そう顔を見るな、恥入った。学円 (しばらく、打案じ)すると、あの、……お百合さんじゃ、その人のために、ここに隠れる気になったと云うのじゃ。晃 ……ますます恥入る。学円 いや、恥ずるには及ばん。が、どうじゃ、細君を連れて東京に帰るわけには行(ゆ)かんのかい。晃 何も三ヶ国と言わん。越前一ヶ国とも言わん。われわれ二人が見棄てて去って、この村と、里と、麓(ふもと)に棲(す)むものの生命をどうする。学円 萩原、(と呼びつつ、寄り)で、君はそれを信ずるかい。晃 信ずる、信ずるようになった。萩原晃はいざ知らん、越前国三国ヶ岳の麓、鹿見村琴弾谷(ことひきだに)の鐘楼守(しょうろうもり)、百合の夫の二代の弥太兵衛は確(たしか)に信じる。学円 (ひたりと洋服の胡坐(あぐら)に手をおき)何にも言わん。そう信ぜい。堅く進ぜい。奥方の人を離れた美しさを見るにつけても、天がこの村のために、お百合さんを造り置いて、鐘楼守を、ここに据えられたものかも知れん。君たち二人は二柱(ふたはしら)の村の神じゃ。就中(なかんずく)、お百合さんは女神じゃな。百合 (行燈(あんどん)を手に黒髪美しく立出づる)私、どうしたら可(よ)うございましょう。学円 や、これは……百合 貴客(あなた)、今ほどは。学円 さて、お初に……はははは、奥さん。百合 まあ。……(と恥らう。)晃 これ、まあ……ではない、よく御挨拶申しな、兄とおなじ人だ。百合 (黙って手をつく。)学円 はいはい。いや、御挨拶はもう済みました。貴女(あなた)嚔(くしゃみ)は出ませなんだか。晃 うっかり嚔なんぞすると、蚊が飛出す。百合 あれ、沢山(たんと)おなぶんなさいまし。晃 そんなに、お前、白粉(おしろい)を粧(つ)けて。百合 あんな事ばかりおっしゃる。(と優しく睨(にら)んで顔を隠す。)学円 何にしろ、お睦(むつま)じい……ははははは、勝手にお噂(うわさ)をしましたが、何は、お里方、親御、御兄弟は?晃 山沢、何にもない孤児(みなしご)なんだ。鎮守の八幡(はちまん)の宮の神官(かんぬし)の一人娘で、その神官の父親(おとっ)さんも亡くなった。叔父があって、それが今、神官の代理をしている。……これの前だが、叔父というのは、了簡(りょうけん)のよくない人でな。学円 それはそれは。晃 姪(めい)のこれを、附けつ廻しつしたという大難ぶつです。百合 ほんとうに、たよりのない身体(からだ)でございます。何にも存じません、不束(ふつつか)ものでございますけれど、貴客(あなた)、どうぞ御ふびんをお懸けなすって下さいまし。(しんみりと学円に向って三指(みつゆび)して云う。)学円 (引き入れられて、思わず涙ぐむ。)御殊勝ですな。他人のようには思いません。晃 (同じく何となく胸せまる。涙を払って)さあさあ、親類というお言葉なんだ。遠慮のない処、何にも要らん。御吹聴(ごふいちょう)の鴫焼(しぎやき)で一杯つけな。これからゆっくり話すんだ。山沢、野菜は食わしたいぜ、そりゃ、甘(うま)いぞ。学円 奥方、お立ちなさるな。トそこでじゃな、萩原、私(わし)は志した通り、これから夜を掛けて夜叉ヶ池を見に行(ゆ)く気じゃ。種々(いろいろ)不思議な話を聞いたら、なお一層見たくなった。御飯はお手料理で御馳走(ごちそう)になろうが、お杯には及ばん、第一、知ってる通り、一滴も飲めやせん。晃 成程、そうか、夜叉ヶ池を見に来たんだ。……明日(あした)にしては、と云うんだけれども、道は一里余り、が、上りが嶮(けわ)しい。この暑さでは夜が可(い)い。しかし、四五日は帰さんから、明日の晩にしてくれないかい。学円 いや、学校がある。これでも学生の方ではないから勝手に休めん。第一、遊び過ぎて、もう切詰めじゃ。晃 それは困った、学校は?……先刻(さっき)、落着く先は京都だと云ったようだな。学円 むむ、去年から。……みやづかえの情(なさけ)なさじゃ。何しろ、急ぐ。晃 分った、では案内かたがた一所に行く。学円 君も。晃 ……直ぐに出掛けよう。学円 それだと、奥方に済まんぞ。晃 何を詰(つま)らない。百合 いいえ……(と云いしがしおしおと)貴方(あなた)、直ぐにとおっしゃって、……お支度は、……晃 土橋の煮染屋(にしめや)で竹の皮づつみと遣(や)らかす、その方が早手廻(はやてまわし)だ。鰊(にしん)の煮びたし、焼どうふ、可(よ)かろう、山沢。学円 結構じゃ。晃 事が決れば早いが可(い)い。源佐衛門は草履で可(よ)し、最明時(さいみょうじ)どのは、お草鞋(わらじ)、お草鞋。学円 やあ、おもしろい。奥さん、いずれ帰途(かえり)には寄せて頂く。私は味噌汁が大好きです。小菜(こな)を入れて食べさして発(たた)せて下さい。時に、帰途はいつになろう。……晃 さあ、夜(よ)が短い。明方になろうも知れん。学円 明けがた……は可(い)いが、(と草鞋を穿(は)きながら)待て待て、一所に気軽に飛出して、今夜、丑満つの鐘はどうするのじゃ。晃 百合が心得ておる。先代弥太兵衛と違う。仙人ではない、生身の人間。病気もする、百合が時々代るんだよ。学円 では、池のあたりで聞きましょう。――奥方しっかり願います。百合 はい、内をお忘れなさいませんように、私は一生懸命に。(と涙声にて云う。)晃 ……おい、あの、弥太兵衛が譲りの、お家の重宝(ちょうほう)と云う瓢箪(ひょうたん)を出したり、酒を買う。――それから鎌を貸しな、滅多に人の通わぬ処、路はあっても熊笹ぐらいは切らざあなるまい。……早くおし。百合 はい、はい。学円 やあ、どぎどぎと鋭いな。(と鎌を見る。)晃 月影に……(空へかざす)なお光るんだ。これでも鎌を研(と)ぐことを覚えたぜ。――こっちだ、こっちだ。(と先へ立つ。)百合 お気をつけ遊ばせよ。(とうるみ声にて、送り出づる時、可愛(かわゆ)き人形袖にあり。)晃 何だい、こんなもの。(見返る。)百合 太郎がちょっとお見送り。(と袖でしめつつ)小父(おじ)ちゃんもお早くお帰りなさいまし、坊やが寂しゅうございます。(と云いながら、学円の顔をみまもり、小家(こや)の内を指し、うつむいてほろりとする。)学円 (庇(かば)う状(さま)に手を挙げて、また涙ぐみ)御道理(ごもっとも)じゃ、が、大丈夫、夢にも、そんな事が、貴女、(と云って晃に向きかえ)私(わし)に逢うて、里心が出て、君がこれなり帰るまいか、という御心配じゃ。百合 (きまりわるげに、つと背向(せむき)になる。)晃 ああ、それで先刻(さっき)から……馬鹿、嬰児(ねんねえ)だな。学円 何かい、ちょっと出懸(でがけ)に、キスなどせんでも可(い)いかい。晃 旦那方じゃあるまいし、鐘撞(かねつき)弥太兵衛でがんすての。と両人連立ち行く。
百合 (熟(じっ)としばし)まさかと思うけれど、ねえ、坊や、大丈夫お帰んなさるわねえ。おおおお目ン目を瞑(ねむ)って、頷(うなず)いて、まあ、可愛い。(と頬摺(ほおず)りし)坊やは、お乳(つぱ)をおあがりよ。母(かあ)さんは一人でお夕飯も欲しくない。早く片附けてお留守をしましょう。一人だと見て取ると、村の人が煩(うるさ)いから、月は可(よ)し、灯を消して戸をしめて。――と框(かまち)にずッと雨戸を閉める。閉め果てると、戸の鍵(かぎ)がガチリと下りる。やがて、納戸の燈(ともしび)、はっと消ゆ。
□出る化ものの数々は、一ツ目、見越(みこし)、河太郎、獺(かわうそ)に、海坊主、天守におさかべ、化猫は赤手拭(あかてぬぐい)、篠田(しのだ)に葛(くず)の葉、野干平(やかんべい)、古狸の腹鼓(はらつづみ)、ポコポン、ポコポン、コリャ、ポンポコポン、笛に雨を呼び、酒買小僧、鉄漿着女(かねつけおんな)の、けたけた笑(わらい)、里の男は、のっぺらぼう。と唄――
与十(よじゅう)、竹の小笠(おがさ)を仰向(あおむ)けに、鯉(こい)を一尾、嬉しそうな顔して見て、ニヤニヤと笑って出づ。
与十 大(でか)い事をしたぞ。へい、雪さ豊年の兆(しるし)だちゅう、旱(ひでり)は魚(うお)の当りだんべい。大沼小沼が干たせいか、じょんじょろ水に、びちゃびちゃと泳いだ処を、ちょろりと掬(しゃく)った。……(鯉跳ねる)わい! 銀の鱗(うろこ)だ。ずずんと重い。四貫目あるべい。村長様が、大囲炉裡(おおいろり)の自在竹に掛った滝登りより、えッと大(でっけ)え。こりゃ己(おら)がで食おうより、村会議員の髯(ひげ)どのに売るべいわさ。やれ、鯉。髯どのに身売をしろじゃ。値になれ、値になれ。(鯉跳ねる)ふあ、銀の鱗だ。金(かね)が光る――光るてえば、鱗てえば、ここな、(と小屋を見て)鐘撞(かねつき)先生が打(ぶ)ってしめた、神官(かんぬし)様の嬢様さあ、お宮の住居(すまい)にござった時分は、背中に八枚鱗が生えた蛇体だと云っけえな。……そんではい、夜さり、夜ばいものが、寝床を覗(のぞ)くと、いつでもへい、白蛇(しろへび)の長(なげ)いのが、嬢様のめぐり廻って、のたくるちッて、現に、はい、目のくり球廻らかいて火を吹いた奴(やつ)さえあっけえ。……鐘撞先生には何事もねえと見えるだ。まんだ、丈夫に活(い)きてござって、執殺(とりころ)されもさっしゃらねえ。見ろやい、取っても着けねえ処に、銀の鱗さ、ぴかぴかと月に光るちッて、汝(われ)がを、(と鯉をじろじろ)ばけものか蛇体と想うて、手を出さずば、うまい酒にもありつけぬ処だったちゅうものだ。――嬢様が手本だよ。はってな、今時分、真暗(まっくら)だ。舐殺(なめころ)されはしねえだかん、待ちろ。(と抜足で寄って、小屋の戸の隙間(すきま)を覗く。)
蟹五郎(かにごろう)。朱顔、蓬(おどろ)なる赤毛頭(あかげがしら)、緋(ひ)の衣したる山伏の扮装(いでたち)。山牛蒡(やまごぼう)の葉にて捲(ま)いたる煙草(たばこ)を、シャと横銜(よこぐわ)えに、ぱっぱっと煙を噴きながら、両腕を頭上に突張(つッぱ)り、ト鋏(はさみ)を極込(きめこ)み、踞(しゃが)んで横這(よこばい)に、ずかりずかりと歩行(ある)き寄って、与十の潜見(すきみ)する向脛(むこうずね)を、かっきと挟んで引く。
与十 痛(いて)え。(と叫んで)わっ、(と反る時、鯉ぐるみ竹の小笠を夕顔の蔭に投ぐ。)ひゃあ、藪沢(やぶさわ)の大蟹(おおがに)だ。人殺し!と怪(け)し飛んで遁(に)ぐ。――蟹五郎すかりすかりと横に追う。
鯉七(こいしち)。鯉の精。夕顔の蔭より、するすると顕(あらわ)る。黒白鱗(こくびゃくうろこ)の帷子(かたびら)、同じ鱗形(うろこがた)の裁着(たッつけ)、鰭(ひれ)のごときひらひら足袋。件(くだん)の竹の小笠に、面(おもて)を蔽(おお)いながら来り、はたとその小笠を擲(なげう)つ。顔白く、口のまわり、べたりと髯(ひげ)黒し。蟹、これを見て引返す。
鯉七 (ばくばくと口を開けて、はっと溜息(ためいき)し)ああ、人間が旱(ひでり)の切なさを、今にして思当った。某(それがし)が水離れしたと同然と見える。……おお、大蟹、今ほどはお助け嬉しい、難有(ありがた)かったぞ。蟹五郎 水心、魚心だ、その礼に及ぼうかい。また、だが、滝登りもするものが、何じゃとて、笠の台に乗せられた。鯉七 里へ出る近道してな、無理な流(ながれ)を抜けたと思え。石に鰭が躓(つまず)いて、膚捌(はださばき)のならぬ処を、ばッさりと啖(くら)った奴よ。蟹五郎 こいつにか。(と落ちたる笠を挟んで圧(おさ)える。)鯉七 鬼若丸以来という、難儀に逢わせた。百姓めが、汝(うぬ)。(と笠を蹈(ふ)む。)笠 己(おれ)じゃねえ、己じゃねえ。(と、声ばかりして蔭にて叫ぶ。)鯉七 はあ、いかさま汝(きさま)のせいでもあるまい。助けてやろう――そりゃ行け。やい、稲が実ったら案山子(かかし)になれ!と放す。しかけにて、竹の小笠はたはたと煽(あお)って遁(に)げる。
はははは飛ぶわ飛ぶわ、南瓜畠(かぼちゃばたけ)へ潜って候(そろ)。
蟹五郎 人間の首が飛んだ状(さま)だな、気味助(きびすけ)、気味助。かッかッかッ。(と笑い)鯉七、これからどこへ行く。鯉七 むう、ちと里方へ用がある。ところで滝を下って来た。何が、この頃の旱(ひでり)で、やれ雨が欲しい、それ水をくれろ、と百姓どもが、姫様(ひいさま)のお住居(すまい)、夜叉ヶ池のほとりへ五月蠅(うるさ)きほどに集(たか)って来(う)せる。それはまだ可(よ)い。が、何の禁厭(まじない)か知れぬまで、鉄釘(かなくぎ)、鉄火箸(かなひばし)、錆刀(さびがたな)や、破鍋(われなべ)の尻まで持込むわ。まだしもよ。お供物だと血迷っての、犬の首、猫の頭、目を剥(む)き、髯(ひげ)を動かし、舌をべらべら吐く奴を供えるわ。胡瓜(きゅうり)ならば日野川の河童(かっぱ)が噛(かじ)ろう、もっての外な、汚穢(むそ)うて汚穢うて、お腰元たちが掃除をするに手が懸(かか)って迷惑だ。ところで、姫様(ひいさま)のお乳母どの、湯尾峠(ゆのおとうげ)の万年姥(まんねんうば)が、某(それがし)へ内意==降らぬ雨なら降るまでは降らぬ、向後汚いものなど撒散(まきち)らすにおいてはその分に置かぬ==と里へ出て触れい、とある。ためにの、この鰭(ひれ)を煩わす、厄介な人間どもよ。
蟹五郎 その事かい、御苦労、御苦労。ところで、大池の姫様(ひいさま)には、なかなか雨を下さる思召(おぼしめし)は当分ないかい。鯉七 分らんの。旱は何も、姫様(ひいさま)御存じの事ではない。第一、其許(そこもと)なども知る通りよ。姫様は、それ、御縁者、白山(はくさん)の剣ヶ峰千蛇ヶ池の若旦那にあこがれて、恋し、恋しと、そればかり思詰めてましますもの、人間の旱なんぞ構っている暇があるものかッてい。蟹五郎 神通(じんずう)広大――俺をはじめ考えるぞ。さまで思悩んでおいでなさらず、両袖で飜然(ひらり)と飛んで、疾(はや)く剣ヶ峰へおいでなさるが可(よ)いではないか。鯉七 そこだの、姫様(ひいさま)が座をお移し遊ばすと、それ、たちどころに可恐(おそろ)しい大津波が起って、この村里は、人も、馬も、水の底へ沈んでしまう……蟹五郎 何が、何が、第一俺が住居(すまい)も広うなる……村が泥沼になるを、何が遠慮だ。勧めろ、勧めろ。鯉七 忘れたか、鐘(つりがね)がここにある。……御先祖以来、人間との堅い約束、夜昼三度、打つ鐘を、彼奴等(あいつら)が忘れぬ中(うち)は、村は滅びぬ天地の誓盟(ちかい)。姫様(ひいさま)にも随意(まま)にならぬ。さればこそ、御鬱懐(ごうっかい)、その御ふびんさ、おいとしさを忘れたの。蟹五郎 南無三宝(なむさんぽう)、堂の下で誓を忘れて、鐘(つりがね)の影を踏もうとした。が、山も田圃(たんぼ)も晃々(きらきら)とした月夜だ。まだまだしめった灰も降らぬとなると、俺も沢を出て、山の池、御殿の長屋へ行(ゆ)かずばなるまい。同道を頼むぞ、鯉。鯉七 むむ、その儀は、ぱくりと合点(のみこ)んだ。かわりにはの、道が寂しい……里へは、きこう同道せい。蟹五郎 帰途(かえり)はお池へ伴侶(みちづれ)だ。鯉七 月の畷(なわて)を、唄うて行(ゆ)こうよ。蟹五郎 何と唄う?鯉七 ==山を川にしょう==と唄おうよ。蟹五郎 面白い。と同音に、鯉はふらふらと袖を動かし、蟹は、ぱッぱッと煙(けむ)を吹いて、==山を川にしょう、山を川にしょう==と同音に唄い行く。行掛けて淀(よど)み、行途(むこう)を望む。
鯉七 待て、見馴(みな)れぬものが、何やら田の畝(あぜ)を伝うて来る。蟹五郎 かッかッ、怪しいものだ。小蔭(こがく)れて様子を見んかい。両個、姿を隠す。
百合 (人形を抱き、媚(なまめ)かしき風情にて戸を開き戸外(こがい)に出づ。)夜の長い事、長い事……何の夏が明易(あけやす)かろう。坊やも寝られないねえ、――お月様幾つ、お十三、七つ――今も誰やら唄うて通ったのをお聞きかい、――山を川にしょ――ああ、この頃では村の人が、山を川にもしたかろう、お気の毒だわねえ。……まあ、良い月夜、峰の草も見えるような。晃さん、お客様の影も、あの、松のあたりに見えようも知れないから、鐘堂(かねつきどう)へ上(あが)りましょうね。……ひょっとかして、袖でも触って鳴ると悪いね、田圃(たんぼ)の広場へ出て見ようよ。(と小屋のうらに廻って入る。)鯰入(ねんにゅう)。花道より、濃い鼠すかしの頭巾(ずきん)、面(つら)一面に黒し。白き二根(にこん)の髯(ひげ)、鼻下より左右にわかれて長く裾(すそ)まで垂る。墨染の法衣(ころも)を絡(まと)い、鰭(ひれ)の形したる鼠の足袋。一本(ひともと)の蘆(あし)を杖(つえ)つき、片手に緋総(ひぶさ)結びたる、美しき文箱(ふばこ)を捧げて、ふらふらと出で来(きた)る。
鯰入 遥々(はるばる)と参った。……もっての外の旱魃(かんばつ)なれば、思うたより道中難儀じゃ。(と遥(はるか)に仰いで)はあ、争われぬ、峰の空に水気が立つ。嬉しや、……夜叉ヶ池は、あれに近い。(と辿(たど)り寄る。)鯉、蟹、前途(ゆくて)に立顕(たちあらわ)る。
鯉七 誰だ。これへ来たは何ものだ。蟹五郎 お山の池の一の関、藪沢(やぶさわ)の関守(せきもり)が控えた。名のって通れ。鯰入 (杖を袖にまき熟(じっ)と視(み)て)さては縁のない衆生でないの。……これは、北陸道無双の霊山、白山、剣ヶ峰千蛇ヶ池の御公達(ごきんだち)より、当国、三国ヶ岳夜叉ヶ池の姫君へ、文づかいに参るものじゃ。鯉七 おお、聞及んだ黒和尚(くろおしょう)。蟹五郎 鯰入は御坊(ごぼう)かい。鯰入 これは、いずれも姫君のお身内な。夜叉ヶ池の御眷属(ごけんぞく)か。よい所で出会いました、案内を頼みましょう。蟹五郎 お使(つかい)、御苦労です。鯉七 ちと申つかった事があって、里へ参る路ではあれども、若君のお使、何は措(お)いてもお供しょう。姫様、お喜びの顔が目に見える。われらもお庇(かげ)で面目を施します、さあ、御坊。蟹五郎 さあ、御坊。鯰入 (ふと、くなくなとなって得(え)進まず。)しばらく。まず、しばらく。……鯉七 御坊、お草臥(くたび)れなら、手を取りましょう。蟹五郎 何と腰を押そうかい。鯰入 いやいや疲れはしませぬ。尾鰭(おひれ)はのらのらと跳ねるなれども、ここに、ふと、世にも気懸(きがか)りが出来たじゃまで。鯉七 気懸りとは? 御坊。鯰入 ここまで辿(たど)って、いざ、お池へ参ると思えば、急にこの文箱(ふばこ)が、身にこたえて、ずんと重うなった。その事じゃ。鯉七 恋の重荷と言いますの。お心入れの御状なれば、池に近し、御双方お気が通って、自然と文箱に籠(こも)りましたか。蟹五郎 またかい。姫様(ひいさま)から、御坊へお引出ものなさる。……あの、黄金(こがね)白銀(しろがね)、米、粟(あわ)の湧(わき)こぼれる、石臼(いしうす)の重量(おもみ)が響きますかい。鯰入 (悄然(しょうぜん)として)いや、私(わし)が身に応(こた)えた処は、こりゃ虫が知らすと見えました。御褒美(ごほうび)に遣わさるる石臼なれば可(よ)けれども==この坊主を輪切りにして、スッポン煮を賞翫(しょうがん)あれ、姫、お昼寝の御目覚ましに==と記してあろうも計られぬ。わあ、可恐(おそろ)しや。(とわなわなと蘆の杖とともにふるい出す。)鯉七 何でまた、そのような飛んだ事を? 御坊。……鯰入 いやいや、急に文箱(ふばこ)の重いにつけて、ふと思い出いた私(わし)が身の罪科がござる。さて、言い兼ねましたが打開けて恥を申そう。(と頸(うなじ)をすくめて、頭を撫(な)で)……近頃、此方衆(こなたしゅう)の前ながら、館(やかた)、剣ヶ峰千蛇ヶ池へ――熊に乗って、黒髪を洗いに来た山女の年増(としま)がござった。裸身(はだかみ)の色の白さに、つい、とろとろとなって、面目なや、ぬらり、くらりと鰭を滑らかいてまつわりましたが、フトお目触(めざわ)りとなって、われら若君、もっての外の御機嫌じゃ。――処をこの度の文づかい、泥に潜った閉門中、ただおおせつけの嬉しさに、うかうかと出て参ったが、心付けば、早や鰭の下がくすぽったい。(とまた震う。)蟹五郎 かッ、かッ、かッ、(と笑い)御坊、おまめです。あやかりたい。鯰入 笑われますか、情(なさけ)ない。生命(いのち)とまでは無うても、鰭、尾を放て、髯(ひげ)を抜け、とほどには、おふみに遊ばされたに相違はござるまい。……これは一期(いちご)じゃ、何としょう。(と寂しく泣く。)鯉、蟹、これを見て囁(ささや)き、頷(うなず)く。
鯉七 いや、御坊、無い事とも言われませぬ。昔も近江街道を通る馬士(まご)が、橋の上に立った見も知らぬ婦(おんな)から、十里前(さき)の一里塚の松の下の婦(おんな)へ、と手紙を一通ことづかりし事あり。途中気懸りになって、密(そっ)とその封じ目を切って見たれば、==妹御へ、一(ひとつ)、この馬士の腸(はらわた)一組参らせ候(そろ)==としたためられた――何も知らずに渡そうものなら、腹を割(さ)かるる処であったの。鯰入 はあ、(とどうと尻餅つく。)蟹五郎 お笑止だ。かッかッかッ。鯉七 幸(さいわい)、五郎が鋏(はさみ)を持ちます……密(そっ)と封を切って、御覧が可(よ)かろう。鯰入 やあ、何と、……それを頼みたいばッかりに恥を曝(さら)した世迷言(よまいごと)じゃ。……嬉しや、大目に見て下さるかのう。蟹五郎 もっとも、もっとも。鯉七 また……(と声を密(ひそ)めて)恋し床(ゆか)しのお文なれば、そりゃ、われわれどもがなお見たい。鯰入 (わななきながら、文箱を押頂き、紐を解く。)鯉、蟹ひしと寄る。蓋(ふた)を放って斉(ひと)しく見る。
鯰入 やあ!鯉七 ええええ。蟹五郎 やあやあやあ!鯰入 文箱(ふばこ)の中は水ばかりよ。と云う時、さっと、清き水流れ溢(あふ)る。
鯉七 あれあれあれ、姫様(ひいさま)が。はっと鯰入とともに泳ぐ形に腹ばいになる。蟹は跪(ひざまず)いて手を支(つか)う。――迫上(せりあげ)にて――
夜叉ヶ池の白雪姫。雪なす羅(うすもの)、水色の地に紅(くれない)の焔(ほのお)を染めたる襲衣(したがさね)、黒漆(こくしつ)に銀泥(ぎんでい)、鱗(うろこ)の帯、下締(したじめ)なし、裳(もすそ)をすらりと、黒髪長く、丈に余る。銀(しろがね)の靴をはき、帯腰に玉のごとく光輝く鉄杖(てつじょう)をはさみ持てり。両手にひろげし玉章(たまずさ)を颯(さっ)と繰落して、地摺(ちずり)に取る。
右に、湯尾峠の万年姥(まんねんうば)。針のごとき白髪(しらが)、朽葉色(くちばいろ)の帷子(かたびら)、赤前垂(あかまえだれ)。
左に、腰元、木の芽峠の奥山椿、萌黄(もえぎ)の紋付(もんつき)、文金の高髷(たかまげ)に緋(ひ)の乙女椿の花を挿す。両方に手を支(つ)いて附添う。
十五夜の月出づ。
白雪 ふみを読むのに、月の明(あかり)は、もどかしいな。姥 御前様(おんまえさま)、お身体(からだ)の光りで御覧ずるが可(よ)うござります。白雪 (下襲(したがさね)を引いて、袖口の炎を翳(かざ)し、やがて読果てて恍惚(うっとり)となる。)椿 姫様(ひいさま)。姥 もし、御前様(おんまえさま)。白雪 可懐(なつか)しい、優しい、嬉しい、お床しい音信(たより)を聞いた。……姥(うば)、私は参るよ。姥 たまたま麓(ふもと)へお歩行(ひろい)が。椿 もうお帰り遊ばしますか。白雪 どこへ?……(と聞返す。)姥 お住居(すまい)へ。白雪 何?姥 夜叉ヶ池へでござりましょう。白雪 あれ、お前は何を言う……私の行くのは剣ヶ峰だよ。一同 剣ヶ峰へ、とおっしゃりますると?白雪 聞かずと大事ないものを――千蛇ヶ池とは知れた事――このおふみの許(とこ)へさ。(と巻戻し懐中(ふところ)に納めて抱(いだ)く。)姥 (居直り)また……我儘(わがまま)を仰せられます。お前様、ここに鐘(つりがね)がござります。白雪 む、(と眦(まなじり)をあげて、鐘楼を屹(きっ)と見る。)姥 お忘れはなさりますまい。山ながら、川ながら、御前様(おんまえさま)が、お座をお移しなさりますれば、幾万、何千の生類の生命(いのち)を絶たねばなりませぬ。剣ヶ峰千蛇ヶ池の、あの御方様とても同じ事、ここへお運びとなりますと、白山谷は湖になりますゆえ、そのために彼方(かなた)からも御越の儀は叶(かな)いませぬ。――姥(うば)はじめ胸を痛めます。……おいとしい事なれども、是非ない事にござります。白雪 そんな、理窟を云って……姥、お前は人間の味方かい。姥 へへ、(嘲笑(あざわら)い)尾のない猿ども、誰がかばいだていたしましょう。……憎ければとて、浅ましければとて、気障(きざ)なればとて、たとい仇敵(かたき)なればと申して、約束はかえられませぬ、誓を破っては相成りませぬ。白雪 誓盟(ちかい)は、誰がしたえ。姥 御先祖代々、近くは、両、親御様まで、第一お前様に御遺言ではございませぬか。白雪 知っています。(とつんとひぞる。)姥 もし、お前様、その浅ましい人間でさえ、約束を堅く守って、五百年、七百年、盟約(ちかい)を忘れぬではござりませぬか。盟約を忘れませねばこそ、朝六つ暮六つ丑満つ、と三度の鐘を絶(たや)しませぬ。この鐘の鳴りますうちは、村里を水の底には沈められぬのでござります。白雪 ええ、怨(うら)めしい……この鐘さえなかったら、(と熟(じっ)と視(み)て、すらりと立直り)衆(みな)に、ここへ来いとお言い。椿 (立って一方を呼ぶ。)召します。姫様(ひいさま)が召しますよ。鯉七 (立上がり一方を)やあ、いずれも早く。(と呼ぶ。)眷属(けんぞく)ばらばらと左右に居流る。一同得(え)ものを持てり。扮装(いでたち)おもいおもい、鎧(よろい)を着(つけ)たるもあり、髑髏(どくろ)を頭(かしら)に頂くもあり、百鬼夜行の体(てい)なるべし。
虎杖 虎杖入道(いたどりにゅうどう)。鯖江 鯖江(さばえ)ノ太郎。鯖波 鯖波(さばなみ)ノ次郎。この両個、「兄弟のもの。」と同音に名告(なの)る。
塚 十三塚の骨寄鬼(こつよせおに)。蟹五郎 藪沢(やぶさわ)のお関守は既に先刻より。椿 そのほか、夥多(あまた)の道陸神(どうろくじん)たち、こだますだま、魑魅(ちみ)、魍魎(もうりょう)。影法師、おなじ姿のもの夥多あり。目も鼻もなく、あたまからただ灰色の布を被(かぶ)る。
影法師 影法師も交りまして。とこの名のる時、ちらちらと遠近(おちこち)に陰火燃ゆ。これよりして明滅す。
鯉七 身内の面々、一同参り合せました。鯰入 憚(はばか)りながら法師もこれに。……白雪 おお、遠い路を、大儀。すぐにお返事を上げましょうね、そのために皆を呼びましたよ。姥 や、彼方(あなた)へお返事につきまして、いずれもを召しました?――仰せつけられまする儀は?白雪 姥(うば)、どう思うても私は行(ゆ)く。剣ヶ峰へ行かねばならぬ。鐘さえなくば盟約(ちかい)もあるまい……皆が、あの鐘、取って落して、微塵(みじん)になるまで砕いておしまい。姥 ええええ仰せなればと云うて、いずれも必ずお動きあるな。(眼(まなこ)を光らし、姫を瞻(みつ)めて)まだそのようなわやくをおっしゃる。……身うちの衆をお召出し、お言葉がござりましては、わやくが、わやくになりませぬ。天の神々、きこえも可恐(おそれ)じゃ。……数(かず)の人間の生命(いのち)を断つ事、きっとおたしなみなさりませい。白雪 人の生命のどうなろうと、それを私が知る事か!……恋には我身の生命も要らぬ。……姥、堪忍して行(ゆ)かしておくれ。姥 ああ、お最惜(いとし)い。が、なりますまい。……もう多年(しばらく)御辛抱なさりますと、三十年、五十年とは申しますまい。今の世は仏の末法、聖(ひじり)の澆季(ぎょうき)、盟誓(ちかい)も約束も最早や忘れておりまする。やッと信仰を繋(つな)ぎますのも、あの鐘を、鳥の啄(つつ)いた蔓葛(つたかずら)で釣(つる)しましたようなもの、鎖も絆(きずな)も切れますのは、まのあたりでござります。それまでお堪(こら)えなさりまし。白雪 あんな気の長い事ばかり。あこがれ慕う心には、冥土(よみじ)の関を据えたとて、夜(よ)のあくるのも待たりょうか。可(よ)し、可し、衆(みな)が肯(き)かずば私が自分で。(と気が入る。)椿 あれ、お姫様。姥 これは何となされます……取棄てて大事ない鐘なら、お前様のお手は待たぬ……身内に仰せまでもない。何、唐銅(からかね)の八千貫、こう痩(や)せさらぼえた姥が腕でも、指で挟んで棄てましょうが、重いは義理でござりまするもの。白雪 義理や掟(おきて)は、人間の勝手ずく、我と我が身をいましめの縄よ。……鬼、畜生、夜叉、悪鬼、毒蛇と言わるる私が身に、袖とて、褄(つま)とて、恋路を塞(ふさ)いで、遮る雲の一重(ひとえ)もない!……先祖は先祖よ、親は親、お約束なり、盟誓(ちかい)なり、それは都合で遊ばした。人間とても年が経(た)てば、ないがしろにする約束を、一呼吸(ひといき)早く私が破るに、何に憚(はばか)る事がある! ああ、恋しい人のふみを抱いて、私は心も悩乱した、姥、許して!姥 成程、お気が乱れましたな。朝(あけ)六つ暮六つただ一度、今宵この丑満一つも、人間が怠れば、その時こそは瞬く間(ま)も待ちませぬ。お前様を、この姥がおぶい申して、お靴に雲もつけますまい。人は死のうと、溺(おぼ)れようと、峰は崩れよ、麓(ふもと)は埋れよ。剣ヶ峰まで、ただ一飛び。……この鐘を撞(つ)く間(うち)に、盟誓をお破り遊ばすと、諸神、諸仏が即座のお祟(たた)り、それを何となされます!鯉七 当国には、板取(いたどり)、帰(かえる)、九頭竜(くずりゅう)の流(ながれ)を合せて、日野川の大河。蟹五郎 美濃の国には、名だたる揖斐(いび)川。姥 二個(ふたつ)の川の御支配遊ばす。椿 百万石のお姫様。姥 我ままは……一同 相成りませぬ。姥 お身体(からだ)。一同 大事にござります。白雪 ええ、煩(うるさ)いな、お前たち。義理も仁義も心得て、長生(ながいき)したくば勝手におし。……生命(いのち)のために恋は棄てない。お退(ど)き、お退き。一同、入乱れて、遮り留(とど)むるを、振払い、掻(か)い潜(くぐ)って、果(はて)は真中(まんなか)に取籠(とりこ)められる。
お退きというに、え……
とじれて、鉄杖(てつじょう)を抜けば、白銀(しろがね)の色、月に輝き、一同は、はッと退(の)く。姫、するすると寄り、颯(さっ)と石段を駈上(かけのぼ)り、柱に縋(すが)って屹(きっ)と鐘を――

次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:66 KB

担当:undef